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第9話 君を傷付けた日


 1

 

 お父さん。

 私ね、勉強頑張って東山第一高校に入学したんだよ。

 いっぱいいっぱい頑張ったんだよ。

 ――でも、駄目だったんだ。

 頑張っても頑張っても駄目なことって、世の中あるんだね。

 ――お父さん。

 美羽は、学校リタイアしてもいいですか?

 逃げても、いいですか――?


 伝えたいことは沢山あった。

 受け止めてほしい想いが沢山、あった。

 五年ぶりの、父との会話。

「お父さん、久しぶり。元気だった?」

 しばしの沈黙のあと、受話器の向こうでくぐもった声がした。

「……ああ。美羽は、元気してたか?」

「――元気だよ。でもね、私……今、ちょっとしんどくて。高校、東山第一に入ったの。進学校」

「そう……なのか」

 父のリアクションは、想像していたよりずっと薄かった。肩透かしをくらい、思わず言葉につまる。受話器のコードを指に絡ませながら、私は明るい声色を作って言った。

「でもね、体調崩しちゃって。学校をね……辞めようかなって考えてる」

 どうか、深刻な反応をされませんように。

 背中を押してくれますように。

「……え? せっかく進学校入れたのに? ――そんなの、おかしいだろ」

 ――祈りが、朝靄のように霞んでゆく。

 窓の外でカラスが鳴きながら通り過ぎていった。

「それはもったいなさすぎるだろ。美羽はそんなことを言うために電話をしてきたのか?」

 床の冷たさが足裏に響いていた。真夏だというのに、心の奥が冷え冷えする。私は、頑張って口角を上げた。泣くな、美羽。ここで泣いたら、更に惨めになる。

「……お父さんなら、後押ししてくれると思ってた」

 ぽつりと呟いたら、堰を切ったように涙が溢れてきた。フローリングに雫が落ちてゆく。

「後押ししてほしくて電話をかけてきたってことか? ……俺、もう再婚してるんだよ。子どももいる」

 どうして、伝えなくてもいいことまで伝えてくるのだろう。父はいつから変わってしまったのだろう。

 ――もう、『娘を褒めてくれる父親』はどこにもいなくなっていた。

 だって、彼には新しい息子か娘がいるのだから、至極当たり前なことかもしれなかった。

 考えてるうちに納得してしまい、涙の痕が乾いて頬が突っ張った。


 2


 夜の帳がおりた頃、私は電話をかけていた。

「……もしもし?」

 その声を聞いた瞬間、胸が熱くなった。長く、温かい息が漏れる。

「どうしたの、電話してきたの初めてだよね」

「……うん。お母さんに学校辞めたいって言ったら怒られちゃった。――離婚したお父さんにも久しぶりに電話かけてみたんだけど、反対されちゃった。もう私のことなんてどうでもいいんだろうから、反対しないでほしいよね」

 一気に話したら、笑ってるのに泣きそうになった。

「……そうなんだ。それはきつかったね。無理して笑わなくていいよ」

 電話越しでも、柏木くんの温かい言葉は胸に沁みた。ココアを一口すすったあと、私は震える唇を開いた。

「私が辛いの、何で分からないのかな。それとも、辛くても辞めずに通えってことなのかな」

 少しだけ、間が生まれた。

 柏木くんは、「うーん……」と悩ましそうな声を出す。

「大人ってそういう生き物だよね。特に親なんかはさ。うちの親も、そんな感じだったよ。全日制やめるときにめちゃくちゃ反対された。親子の縁切るとまで言われたよ」

 電話の向こうで、ガサゴソと物音がしている。彼の言葉は、意外だったけれど納得も出来るものだった。私はマグカップの持ち手を弄びながら「柏木くんもだったんだね」と返した。

「そうそう。だからといってこっちは納得出来るものでもないしね。まあ、こっちは逆に縁切りたかったしいいやって思って、反対押し切って通信に転入したんだ」

 ガサゴソ音が大きくなった。電話の声が聞き取りづらくなる。私は首を傾げながら訊いた。

「何かしてるの? 大きな音してる」

「ああ、実はこれから家出の準備でさ」

 何でもないふうな、いつも通りの声。

「……え?」

 でも、私は訊き返さずにはいられなかった。

「今、家出って言った?」

「うん、言った」

「何で家出? それ、大丈夫なの?」

「大丈夫で家出する人はいないよね〜」

 呑気な声色に、私はマグカップの飲み口に爪をカリカリと立てた。

「今、家?」

「いや、さっき外出たよ。夜でも蒸し暑いね」

「どこに向かってるの?」

「うーん、行先は決まってないかな。貯金はあるから、しばらくネカフェに泊まろうかな」

「――私も、今からそっち行く」

 考えるより前に、そう口にしていた。

 イヤホンをはめ、リュックに財布をつめて部屋をあとにする。

 耳元で響く声は、明らかに戸惑っていた。

「え? 藤原さん、こっち来るの? 藤原さんこそ大丈夫なの……?」

 私はというと、『猪突猛進』という四文字熟語が頭に浮かんでいた――。


 3


電車の中で手すりに捕まって立っていたら、不意に息が詰まるようなら感覚に襲われた。

 また、アレが来るのか。

 目の前の景色が色をなくしてゆく。

 のっぺりとした乗客の群れ。ガタゴトと揺れる振動がみぞおちにまで響いてくる。

 耳の奥がキーンとする。痛いような、くすぐったいような違和感。

 私はパンツのポケットの中から、薬を取り出した。手が震えて上手く飲み込めない。やがて手のひらから錠剤が零れ、床をコロコロと転がりやがて見えなくなった。

 いよいよ私は焦り始めた。

 大丈夫、あとひと駅だ――。

 落ち着かせようと心の中で言葉にしても、あと五分しかない、いや、あと五分もあると悪い方へと考えが及んでしまう。

 呼吸が速くなっていき、私はそっと胸を押さえた。

 鼓動がドクドクと打っているのを感じる。隣で立っている乗客が、ちらりとこちらを見た気がした。

 過呼吸寸前のまま五分をやり過ごし、列車が駅に停まる。

 私はなだれ込むかのように電車を降り、ベンチに座った。もう安全な場所のはずなのに、呼吸は更に苦しくなってゆく。

「……柏木さん。僕だよ。大丈夫、もうホームだから」

 頭上に聞き馴染みのある声が降りかかる。

「ゆっくり息吸って。大丈夫だよ、治るから」

 私は深呼吸を意識した。ゆっくり吸って吐くと、肩の強ばりが少しずつほぐれるのを感じた。

 何分くらい経ったのだろうか。意外と、ほんの短い時間だったのかもしれない。永遠に終わらないと思っていた地獄は、静かに波が引いていった。

「……薬、落としちゃったの。飲めなかった……」

 まだ乱れ気味の息のまま呟くと、「うん」と彼は頷いた。

「焦るよね。お姉さんも薬飲もうとして落としたときが一番絶望するって言ってた」

「……すごく、焦った。もう世界の終わりなんじゃないかと思った。こうやって、人生に終止符が打たれるのかなって」

「藤原さんはこういうときでも詩的に言えるんだね。頭いい人は違うなあ。僕だったら、やばいやばいしか言えないだろうな」

 柏木くんの言葉に、心もほぐれてゆく。

「――ありがとう。また、助けてもらっちゃった」

 私は息を整え、顔を上げた。

 柏木くんは大きなリュックを背負っていた。否が応でも、先ほど言っていた彼の言葉を思い出す。

「家出、本当にする気なの」

 私から出た声は、思ったより低く、重かった。

 彼はリュックを背負い直し、少し微笑んだ。

「うん。うちも母子家庭なんだけどさ、母親が酷い人なんだよね。家のことはしないし、僕やお姉さんにも関心がない人でさ。ネグレクトっていうのかな。一緒にいる必要性も感じないんだ」

 柏木くんはそう言って、隣に腰を下ろす。少し俯き、口を開いた。

「――お姉さんのことも、世話したくないから病院に入れているところともあるんだ」

 柏木くんの横顔を覗くと、いつもは澄んだ瞳が暗い光を発していた。確か、弱視の方の目は左目だっただろうか。その左目は、心なしかいつもより更に曇っている。

 電車がホームを通過し、線路を走る轟音が響いた。そのせいで強い風が吹き込み、彼の前髪をさらう。

 電車が見えなくなったあとの彼の瞳は、いつもの色に戻っていた。

「だから、しばらく家出ようと思って。それで解決するわけじゃないけどね。――先日、嫌なことを言われて、もう無理だって思ったんだよね」

 私はゆっくりと口を開いた。

「……でも、ずっと家で出来るわけじゃないよね。すごく辛いとは思うけど、もっと現実的な解決法にした方がいいと思う」

 口にしてから、言ってよかったものかと不安になった。私は膝の上の手をもぞもぞと動かしながら、目を伏せた。

「藤原さんには、分からないと思う。僕たちは進学校に入れてもらうほど、勉強も見てもらえてなかったし、塾にも通わせてもらえなかったから」

 その言葉を聞いて、弄んでいた手のひらに力が入る。口を開いては一旦閉じ、もう一度開いた。

 私の唇から出てきたのは、珍しく感情的な言葉だった。

「勉強は、自分の力でするものだよ。親に見てもらうからとか塾行ったから勉強出来るものじゃない。私は、自分で努力してきた。――それこそ、柏木くんには分からないと思う」

 一気に言ったあと、心臓がドキドキと脈を打った。いつもの発作とは違う苦しさだった。

 柏木くんは一瞬目を見開いたあと、視線を逸らし、立ち上がる。

「僕たち、分かり合えないこともあるんだね。藤原さんとは何でも分かりあってると思ってたけど、違ったみたいだ。――そういうわけで僕はしばらくネカフェで過ごすよ。出てきてくれてありがとね」

 私の心の中で警鐘のなる音がした。

 このまま別れたら、もう二度と笑い合えないような気がした。

 けれど謝る気持ちにはなれなかった。どちらが悪いとかじゃないって分かっているけど、ここで引くのは間違っているような気がする。

 私は黙って席を立ち、丁度来た電車に乗り込んだ。

「藤原さん――」

 閉まるドアの向こうで彼の声がしたけど、私は振り返らなかった。

 ドアの脇にもたれかかりながら、私は爪を噛み続けた――。

 

 

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