第9話 最後まで届く声
夜が深くなるほど、針の音はよく響いた。
布をすくう、小さな音。糸を引く、かすかな音。鋏が余分な端を断つ音。その一つ一つが、眠った路地の静けさへ落ちていく。
エステルは、黒い喪服の脇へ夫の舞台衣装の布を縫い足していた。
妻の黒。夫の黒。並べれば、色の違いははっきり分かる。けれど、だからこそよかった。
同じではない。同じにならなくても、一着を形作ることはできる。
店の隅では、アルヴィスが椅子に座っていた。見張ると言ったわりに、口は出さない。膝の上へ書類を置き、時折目を通している。
蝋燭が短くなるたび、自分で新しいものへ火を移した。ただし、燭台へ触れた部分は少しずつ黒ずみ、蝋が不自然に崩れていく。
「公爵様」
「何だ」
「蝋燭を替えるときは、お声を掛けてくださいませ」
「お前は縫っていろ」
「燭台まで壊れます」
「壊れても使える」
「その考え方で、外套を何着駄目にされたのです?」
アルヴィスは答えなかった。図星らしい。
エステルは針を進めながら、ちらりと彼を見る。
青灰色の外套は、まだ形を保っていた。祝福はすでに役目を終え、一本の糸へ戻っている。それでも、縫い目は切れず、留め具も外れていない。
彼が選んだ一着。彼自身が受け取った服。その違いだけで、以前なら三分と保たなかったものが、何日も残っている。
「公爵様」
「今度は何だ」
「外套は、着心地に問題ございませんか?」
「今聞くのか」
「着てから時間が経って分かることもあります」
「右肩を上げても引かない。脇腹にも当たらない」
「ほかには?」
「ない」
「本当に?」
「その聞き方はやめろ」
「では、気に入っていらっしゃいますか?」
アルヴィスの視線が、書類から上がった。
「仕事に集中しろ」
「ご感想も、仕事の一部です」
「代金は払った」
「次へ生かすために必要なのです」
「次など頼んでいない」
「前金をお預かりしております」
「返せと言ったはずだ」
「今は、お預かりしております」
アルヴィスは深く息を吐いた。怒ったというより、諦めたような音だった。
「悪くない」
「何がでしょう」
「外套だ」
エステルの手が止まりかける。慌てて針先を布から離した。
「ありがとうございます」
「それだけか」
「もう少し詳しく伺っても?」
「今ので十分だろう」
「とても短かったので」
「軽い。動きやすい。余計な飾りがない」
「はい」
「色も、悪くない」
最後の言葉だけ、少し小さかった。
エステルは笑わないよう、唇を引き結ぶ。
「何だ」
「何も」
「笑っている」
「笑っておりません」
「目が笑っている」
「公爵様と同じことを申し上げているだけですわ」
アルヴィスは、さらに不機嫌そうな顔をした。けれど、書類へ戻る前に、外套の袖を一度だけ見下ろした。
自分で選んだ青灰色。その色を気に入っている。たったそれだけのことが、エステルには嬉しかった。
けれど、その気持ちを針へ込めてはいけない。今縫っているのは、オデットの喪服だ。別の人の願いを預かっている。
エステルは意識を黒い布へ戻した。
胸元を締めつけないよう、見返しを広げる。襟を低く直し、喉元へ指一本分の余裕を作る。右腕が上がりにくいことを考え、袖山を少し浅くする。
舞台上で原稿を持つなら、両手を胸の前へ出す。その動きで背中が引かれないよう、肩甲骨のあたりへわずかなゆとりを加えた。
「祝福を使わなくても、ずいぶん直すのだな」
アルヴィスが言った。
「祝福は、服の代わりにはなりません」
「前にも聞いた」
「大切なことですので、何度でも申し上げます」
「教会の司祭に向いている」
「私は仕立て屋です」
「知っている」
短い言葉。だが、それが妙に自然に聞こえた。
お前は仕立て屋だ。祝福を使う娘でも。没落した男爵令嬢でも。誰かを救う聖女でもなく。仕立て屋。
その一言に、胸の奥が静かに温かくなる。
エステルは次の糸へ替えた。
夜半を過ぎたころ、表地と裏地がつながった。残るのは、袖口の黒真珠と、祝福を宿す最後の縫い目。
黒真珠を一つずつ縫い戻す。
一つ。二つ。三つ。
途中で、アルヴィスが立ち上がった。
「どちらへ?」
「水だ」
「奥の棚にございます」
彼は棚へ向かいかけ、足を止めた。棚の上には、黄色い花を挿した花瓶がある。近づけば、枯れるかもしれない。
エステルは立ち上がろうとした。
「座っていろ」
「でも」
「どれだ」
「下の段の、青い瓶です」
アルヴィスは、花瓶から最も離れた側へ回り込んだ。腕を伸ばし、青い瓶だけを取る。
黄色い花は、かすかに揺れた。けれど、すぐには枯れなかった。花弁の先が少し丸まっただけだ。
「以前より、保っていますわ」
エステルが言うと、アルヴィスは花を見た。
「外套のせいか」
「分かりません」
「祝福はもうない」
「それでも、公爵様が受け取ったという事実は残っています」
「事実で呪いが変わるのか」
「心は、事実で変わることもあります」
「また説教か」
「観察です」
アルヴィスは水を飲み、瓶を元へ戻した。花から距離を取る動きは、相変わらず慎重だった。
壊したくないものから離れる。それが彼の優しさなのだと、エステルはもう知っている。
「公爵様」
「今度は何だ」
「ありがとうございます」
「何に対して」
「花から離れてくださって」
「枯らせば、お前がうるさいからだ」
「それでもです」
アルヴィスは何も答えず、椅子へ戻った。
夜明け前。
最後の黒真珠を縫い終えた。
エステルは喪服を衣紋掛けへ掛ける。
三十年前の形は残っている。けれど、今のオデットの体に合うよう、呼吸と動きの余裕が加わった。夫の舞台衣装の布は、両脇へ細く走っている。
隠さなかった色の違いが、むしろ一本の影のように美しかった。
「完成か」
「まだです」
エステルは母の裁縫箱を開いた。青白い針を取り出す。
アルヴィスの視線が、その針へ落ちた。
「それが、祝福を縫う針か」
「はい」
「リディア・ラヴィニアの?」
エステルは顔を上げた。彼は以前、母の名を知らないと言った。
「やはり、ご存じなのですね」
「今は服を仕上げろ」
「公爵様」
「あとで話す」
「本当に?」
「その聞き方をするな」
「では、約束してくださいます?」
アルヴィスは黙った。エステルも引かなかった。
蝋燭の火が小さく揺れる。
「追悼公演が終わったら」
やがて、彼は言った。
「知っている範囲で話す」
「約束ですわね」
「今は縫え」
十分な答えだった。
エステルは青白い針へ黒い糸を通した。
オデットの願いを思い出す。
泣かないことではない。夫の名を、自分の声で呼ぶこと。涙が出ても。声が震えても。最後まで、妻としての言葉を届けること。
けれど、祝福を縫う前に、一つ足りないものがあった。
「言葉です」
「何が」
「オデット様が、最後に何を伝えたいのか」
願いは具体的でなければならない。ただ最後まで話せますように、だけでは弱い。何を最後まで届けるのか。その核心が必要だった。
「本人に聞かなかったのか」
「自分の言葉で話したいとは伺いました。でも、最後の一言までは」
「朝になれば来るのだろう」
「仮縫いのお約束は、夕方です」
「間に合わない」
「ええ」
「では、どうする」
エステルは針を置いた。
「伺いに行きます」
「今から?」
「夜が明けます」
「一睡もしていない」
「公爵様もです」
「俺は慣れている」
「よいところだけ真似すると申し上げました」
「それはよいところではない」
アルヴィスは額へ手を当てた。しばらくして、立ち上がる。
「住所は」
「え?」
「その未亡人の家だ」
「送ってくださるのですか?」
「見張ると言った」
「もう朝ですわ」
「なら、朝まで見張る」
公爵邸の馬車は使えなかった。アルヴィスが乗れば、座席や車輪へ影響が出るからだ。
代わりに、彼は護衛用の馬を一頭だけ連れていた。黒い馬は、アルヴィスを見るたび耳を伏せる。
「この子が、公爵様を嫌っている三頭のうちの一頭ですか?」
「そうだ」
「お名前は?」
「グリム」
「グリム。公爵様をお乗せして、偉いですわね」
馬は、ふん、と鼻を鳴らした。
「俺を褒めろ」
「グリムを褒めたのです」
「聞けば分かる」
エステルは歩き、アルヴィスは馬で速度を合わせた。
路地を抜けるころ、東の空が白み始める。
オデットの家は、王立劇場の裏手にあった。古い煉瓦造りの二階家。窓辺には、舞台の台本らしき紙束が積まれている。
扉を叩くと、眠そうな顔のオデットが出てきた。
「エステルさん?」
「朝早くに、申し訳ございません」
「何かあったの?」
「喪服は、ほぼ完成しております。ただ、祝福を縫うために、一つだけ伺いたいことが」
オデットはエステルの後ろを見た。
馬上のアルヴィス。青灰色の外套。そして、明らかに寝ていない二人。
「まさか、公爵様?」
「アルヴィス・ヴァルクレイです」
「なぜ、こちらに」
「見張りだ」
オデットは数度瞬きをした。
「仕立て屋を?」
「余計なことをしないように」
「一晩中?」
「そうだ」
オデットの目が、面白そうに細められた。
「それは、ご苦労さまでございます」
「誤解するな」
「何も申し上げておりませんわ」
オデットは扉を大きく開けた。
「お入りになって。立ち話では何でしょう」
アルヴィスは馬を近くの柱へつなぎ、家の中へ入った。ただし、家具へ触れないよう、壁際に立つ。
オデットが椅子を勧めても、首を振った。
「それで、何を聞きたいの?」
エステルは、居間の小さな机へ向かい合った。
「追悼公演で、ご主人へ最後に伝えたい言葉です」
オデットの表情が変わる。
「昨日、夫の名を呼んだあとも、最後まで声が届くように、とお約束しました」
「ええ」
「でも、どの言葉まで届けたいのか、私は伺っておりません」
「それが必要なの?」
「祝福は、曖昧な願いには宿りません」
オデットは机の上の紙へ目を落とした。そこには、劇場が用意した立派な原稿が置かれている。
「原稿の最後は、こうです」
彼女は紙を読み上げた。
「『グレゴール・フェルナーの魂は、これからも王立劇場の舞台に生き続けることでしょう』」
「オデット様のお言葉では?」
「私は、そんなことを言いたいわけではない」
声が少し強くなる。
「あの人の魂が、劇場に縛られているなんて思いたくない。もう十分、舞台へ捧げたのだから」
「では、何と?」
オデットは窓の外を見た。王立劇場の屋根が、朝靄の向こうに見える。
「帰ってきてほしいと、ずっと思っていた」
ぽつりと、彼女は言った。
「若い頃から、あの人は舞台ばかりだった。夕食の途中で台詞を思いつけば立ち上がり、私の誕生日にも地方公演へ行った」
悲しみではなく、長い年月を振り返る声。
「それでも、公演が終われば帰ってきた。深夜でも、朝でも。玄関を開ける音がすると、ああ、今日も帰ってきたと思えた」
オデットの指が、紙の端を撫でる。
「亡くなる前の日も、病院の窓から劇場を見ていた。最後まで舞台の心配をしていたわ」
「寂しかったのですね」
「ええ」
今度は、迷わなかった。
「でも、怒ってもいた。私はずっと待っていたのに、最後まで舞台ばかり見ていたから」
「そのことを、お話しになりますか?」
「追悼公演で?」
「オデット様が、伝えたいのであれば」
「皆、困るでしょうね」
「困るかもしれません」
エステルは正直に答えた。
「でも、それはご主人を傷つける言葉でしょうか」
オデットは考えた。やがて、首を横に振る。
「いいえ。あの人なら、困った顔をして、それから笑うと思う」
「では、最後に何と?」
オデットの目に、涙が浮かんだ。けれど、今度は隠さなかった。
「おかえりなさい、と」
声が震える。
「ずっと言いたかったの。公演から帰るたび、何度も言った言葉なのに。最後の日だけ、言えなかった」
エステルは、その言葉を胸へ刻んだ。
「承知しました」
「そんな短い言葉で、いいの?」
「短いからこそ、届かせる意味があります」
オデットは涙を拭い、笑った。
「では、お願い。泣いても、グレゴールに『おかえりなさい』と言える喪服を」
「お任せくださいませ」
店へ戻ると、朝の鐘が鳴っていた。
入口には、すでに人が立っていた。
黒い制服。胸元には、鋏と糸巻きの徽章。王都仕立てギルドの役人が三人。
中央には、四十代ほどの女がいる。濃紫の衣装を寸分の乱れもなく着こなし、髪を高く結い上げていた。
「エステル・ラヴィニアね」
「はい」
「王都仕立てギルド監査官、マダム・ベルナールです」
女は、エステルの後ろにいるアルヴィスを見ても表情を変えなかった。
「昨夜、出頭通知をお渡ししました」
「正式な召喚状ではない」
アルヴィスが言う。
ベルナールは冷静に一礼した。
「ヴァルクレイ公爵閣下。これはギルド内部の問題でございます」
「内部ではない。彼女はギルド員ではない」
「だからこそ、無許可営業に当たります」
「王都自由商業令、第三条。五人未満の個人商店は、開業後三十日以内の登録でよい」
ベルナールの眉が、ほんのわずかに動いた。
「よくご存じで」
「公爵家の領内にも仕立て業者はいる」
「ですが、祝福衣装の製作には別途認可が必要です」
「その条文を示せ」
「教会認可を受けた祝福師以外による祝福付与は、慣例として——」
「慣例は法ではない」
アルヴィスの声は静かだった。けれど、店の前の空気が一段冷たくなった。
ベルナールは彼からエステルへ視線を戻す。
「法でなくとも、王都の秩序は慣例によって守られています」
「秩序の名で、針を没収するのですか」
エステルが尋ねた。
「違反が確認されれば」
「確認の前に、昨夜は道具を没収すると通知されました」
「警告です」
「脅しでしょう」
ベルナールの目が細くなる。
「随分とはっきりものを言うのね」
「よく言われます」
「母親に似たのかしら」
その一言で、エステルの背筋が冷えた。
「母をご存じなのですか」
「リディア・ラヴィニア。忘れる者は、王都の仕立て業界にはいません」
「何があったのです」
「今ここで話すことではないわ」
「では、いつ?」
「正式に登録申請へ来たときにでも」
ベルナールは店内へ目を向けた。
衣紋掛けの喪服。裁断台の青白い針。夫の衣装から切り取った黒い布。
「その服も、祝福を?」
「これから縫います」
「認可前です」
「お客様へ約束しました」
「それは理由にならない」
「では、公演までに認可をいただけますか?」
「審査には通常、三か月」
「明日です」
「なら、間に合わないわね」
「でしたら、縫います」
ベルナールの顔から、わずかに温度が消えた。
「道具を預かります」
後ろの役人が一歩出る。
アルヴィスも前へ出た。
「触れるな」
役人の足が止まった。
「その針は、現在ヴァルクレイ公爵家が依頼した衣装の補修にも使われる予定だ」
エステルは思わず彼を見る。そんな予定は聞いていない。
「公爵家の所有物ではありません」
ベルナールが言う。
「依頼遂行に必要な道具だ。没収するなら、公爵家の契約を妨害した責任を問う」
「脅しですか」
「警告だ」
昨夜の言葉を、そのまま返した。
ベルナールはしばらくアルヴィスを見つめた。やがて、役人へ手を上げる。
「今日は引きましょう」
「監査官」
「ただし、正式な聴聞会を三日後に開きます」
彼女は一枚の紙を取り出し、店の扉へ貼りつけた。
『祝福衣装製作に関する調査中』
赤い印が押されている。
「営業を止める命令ではありません。ただし、この表示を外せば違反となります」
「承知しました」
「三日後。ギルド本部へ」
ベルナールは踵を返した。去り際、エステルへだけ聞こえる声で言う。
「母親と同じ道を歩まないことね」
「母は、どの道を歩いたのです?」
「祝福は、人を救うものではないわ」
答えになっていない。
けれど、ベルナールはそれ以上何も言わず、役人たちを連れて去っていった。
路地に静けさが戻る。
扉には、大きな調査中の紙。
エステルは、それを見上げた。
「三日後」
「俺も行く」
アルヴィスが言った。
「公爵様が?」
「余計なことを言うな」
「まだ、何も」
「顔に出ている」
「でも、これは私の問題です」
「俺の外套から始まった」
「連鎖ですわ」
「なら、その連鎖に俺も含まれる」
エステルは彼を見た。
受け取ることを避けていた人が、今、自分から関わろうとしている。
「ありがとうございます」
「まだ何もしていない」
「それでもです」
「今は、その服を仕上げろ」
「はい」
店へ入り、扉を閉める。
調査中の紙は、外からはよく見える。今日も客は来るだろう。紙を見て帰る者もいる。
それでも、今はオデットの一着を完成させなくてはならない。
エステルは喪服を裁断台へ広げた。
青白い針へ黒い糸を通す。
目を閉じる。
王立劇場。追悼公演。客席。夫の名を呼ぶ妻。涙が頬を伝う。息が詰まる。それでも、最後に伝えたい一言。
「グレゴール様へ」
一針。
「泣いても」
二針。
「声が震えても」
三針。
「オデット様の『おかえりなさい』が、最後まで届きますように」
青白い針が、淡く光った。
黒い糸へ光が移る。夫の衣装から取った布と、妻のドレスの布。異なる二つの黒をつなぐ縫い目に沿って、細い光が走った。
強くはない。けれど、途切れない光だった。
「宿りました」
エステルが息を吐く。
アルヴィスは、少し離れた場所から喪服を見ていた。
「今度は、何日保つ」
「役目を終えるまでです」
「時間ではないのか」
「祝福は、時計では測れません」
「俺のものは測っただろう」
「公爵様の場合は、特別です」
「どう特別だ」
問われて、エステルは言葉に詰まった。
呪いがあるから。受け取ることが難しいから。そして、自分がその長さを気にしているから。
「研究のためです」
「研究」
「はい」
「俺は実験台か」
「大切な依頼人です」
アルヴィスは納得していない顔をした。けれど、それ以上は追及しなかった。
その日の夕方。
オデットが仮縫いのために来た。
店の扉へ貼られた紙を見て、表情を曇らせる。
「営業停止になるの?」
「まだ調査中です」
「私の依頼のせい?」
「違います」
エステルは即座に答えた。
「この店が祝福を縫うことを、よく思わない方がいるだけです」
「それでも、公演が終われば何か言われるのでは」
「それは、終わってから考えます」
オデットは喪服へ袖を通した。
三十年前のドレス。今の体。夫の舞台衣装。三つの時間が、一着の中でつながる。
胸元には余裕があり、深く息を吸える。右腕も、原稿を持つ高さまで無理なく上がった。
「苦しくありませんか?」
「ええ」
「歩いてみてください」
オデットが店内を歩く。裾は長すぎず、舞台の階段でも踏まない。
両脇に足した夫の黒が、歩くたび静かに揺れた。
「鏡を」
姿見の前へ立つ。
オデットは長い間、自分を見つめていた。
「若い頃の私ではないわね」
「はい」
「そこは否定しないの?」
「今のオデット様のために直しましたから」
オデットは笑った。
「そうね」
両脇の黒へ触れる。
「これが、あの人の衣装」
「はい」
「同じ黒ではないのに、不思議ね。これでよかったと思う」
「お二人は、違う人ですから」
「でも、一着にはなれる」
「ええ」
オデットの目に、また涙が浮かんだ。けれど、声は消えなかった。
「おかえりなさい」
試すように、彼女は呟いた。
胸元の縫い目が、淡く光る。祝福が反応した。けれど、役目はまだ終わっていない。この言葉を届ける相手は、今ここにはいない。
「明日、舞台で」
オデットは鏡の中の自分へ言った。
「最後まで、話してきます」
翌日。
王立劇場の前には、開演前から長い列ができていた。
グレゴール・フェルナー追悼公演。彼が演じた代表作から、名場面を集めた特別舞台。
エステルは、劇場の最上階にある安い席へ座っていた。仕立て代の一部として、オデットが席を用意してくれたのだ。
隣にはリリ。さらに反対側には、なぜかアルヴィスがいる。
「公爵様は、もっとよいお席があるのでは?」
「目立つ」
「ここでも目立っていますわ」
銀髪の公爵が最上階席にいれば、当然目立つ。周囲の客は、ちらちらとこちらを見ていた。
「なぜ、いらしたのです?」
「祝福が役目を果たすか確認する」
「研究のためですか?」
「そうだ」
先ほどの言葉を返された。
リリが二人の間から顔を出す。
「デート?」
「違います」
「違う」
二人の声が重なった。
「息ぴったり」
「リリ」
舞台の鐘が鳴り、客席が暗くなる。
幕が上がった。
若い役者たちが、グレゴールの名場面を演じる。
老騎士。道化師。王。父親。恋人を失った男。
どの役にも、客席から温かな拍手が送られた。けれど、エステルの記憶にあるグレゴールの声とは違う。
当然だ。同じ役を演じても、同じ人にはならない。
最後の演目が終わる。
舞台中央へ、一本の光が落ちた。
支配人が現れ、偉大な役者の功績を語る。そして、妻を紹介した。
オデットが舞台袖から歩いてくる。
黒い喪服。
両脇には、夫の舞台衣装の布。
客席からは、その違いまでは見えないかもしれない。けれど、エステルには分かる。
一歩ごとに、二つの黒が並んで揺れる。
オデットは舞台中央へ立った。
原稿を開く。
最初は、劇場が用意した文章だった。観客への感謝。役者仲間への礼。夫が舞台を愛したこと。
声は落ち着いていた。祝福がなくても、最後まで読めそうに思えた。
けれど、原稿の最後へ近づくにつれ、指が震え始める。
『グレゴール・フェルナーの魂は、これからも——』
そこで、オデットは止まった。
支配人が舞台袖で身じろぎする。客席も静まる。
オデットは、紙を閉じた。
「この先は、劇場が用意してくださった言葉です」
声が少し震えている。
「とても立派で、あの人にふさわしい文章です」
一度、息を吸う。
喪服の胸元が、ゆっくり広がる。
「でも、私は役者ではありません。立派な言葉を、最後まで演じることはできません」
客席のどこかで、誰かが息を呑んだ。
「私は、グレゴール・フェルナーの妻です」
その瞬間、オデットの目から涙がこぼれた。
一粒。二粒。
黒い布へ落ちる。
けれど、声は消えない。
「夫は、舞台では偉大な役者でした。でも家では、靴下を左右違う色で履きました」
客席から、小さな笑いが起きる。
「砂糖と塩を何度も間違えて、私の誕生日を忘れ、夜中に台詞を叫びました」
笑いが少し大きくなる。
オデットも泣きながら笑った。
「私は、何度も怒りました。舞台ばかりで、家へ帰ってこない人でしたから」
胸元の縫い目が、遠くからでも分かるほど淡く光った。
祝福が、彼女の呼吸を支えている。
「それでも、公演が終われば、あの人は帰ってきました」
涙で声が揺れる。それでも、言葉は一つも欠けなかった。
「玄関を開ける音がすると、私はいつも言いました」
オデットは、空の舞台へ顔を向けた。
誰もいない場所。けれど、そこに夫が立っているかのように。
「グレゴール」
一度、声が詰まる。
エステルは手を握った。隣で、リリも息を止めている。アルヴィスは、舞台から目を逸らさない。
オデットは、涙を拭わなかった。
「長い公演でしたね」
客席のあちこちから、すすり泣きが聞こえる。
そして、最後の一言。
「おかえりなさい」
声は、劇場の天井まで届いた。
最後列にも。最上階のエステルの席にも。
言葉が届いた瞬間、喪服の両脇を走っていた光がほどけた。
黒い糸が一本。
舞台の上で、ゆっくりと宙へ舞う。
役目を終えた祝福。
けれど、オデットは立っている。泣きながら。自分の足で。
客席から、拍手が起きた。
最初は一人。次に十人。やがて、劇場全体が揺れるほどの拍手になった。
オデットは深く頭を下げた。泣き顔を隠さずに。
幕が下りるまで、拍手は止まなかった。
「届いたね」
リリが言った。
「ええ」
エステルの目にも涙が浮かんでいた。
「泣いているぞ」
アルヴィスが言う。
「感動したのです」
「仕立て師が先に泣くのか」
「公爵様も、少し」
「泣いていない」
「目が」
「笑ってもいない」
彼は前を向いたまま言った。けれど、その声はいつもより低く、少しだけ掠れていた。
劇場を出たあと、オデットが裏口からエステルたちを呼んだ。
目は赤い。喪服の祝福はほどけている。それでも、ドレスは形を保ったままだった。
「ありがとう」
オデットは、エステルの両手を握った。
「最後まで言えたわ」
「はい」
「泣いてしまったけれど」
「泣いてよかったのです」
「そうね」
オデットは笑った。
「支配人には、あとで叱られるかもしれないけれど」
「その必要はないでしょう」
アルヴィスが言う。
オデットが振り返る。
「今夜の公演は、近年で最も評判になる」
「なぜ、分かるのです?」
「明日の新聞が、すでに見える」
「公爵様は、未来まで見えるのですか」
「王都の記者は、泣ける話を好む」
少し現実的すぎる答えだった。
オデットは声を上げて笑った。
「では、夫も最後に大きな評判を残せたのね」
「あなたが残した評判だ」
アルヴィスの言葉に、オデットは目を瞬いた。
「夫ではなく?」
「今夜、舞台に立ったのはあなただ」
オデットは、しばらく何も言わなかった。やがて、深く頷く。
「ええ。そうね」
自分の言葉で。自分の涙で。自分の声を届けた。
祝福は、その一歩を支えただけだ。
帰り道。
リリは先に花売り仲間の家へ寄ると言い、別れた。
エステルとアルヴィスは、並んで王都の通りを歩いた。正確には、二歩ほど距離を空けて。
夜風が、青灰色の外套の裾を揺らす。
「公爵様」
「何だ」
「母のことを、お話しいただく約束です」
「追悼公演が終わったら、と言った」
「終わりました」
「店へ戻ってからだ」
「逃げませんよね?」
「誰に言っている」
「以前、二度も知らないとおっしゃいましたので」
「覚えているのか」
「仕立て師は、寸法と言葉を覚えます」
「厄介だな」
「よく言われます」
路地の入口へ着く。
遠くから、店の扉が見えた。
そこには、ギルドが貼った『調査中』の紙。
その前に、一人の少女が立っていた。
十二、三歳ほど。痩せた体。短く切られた茶色い髪。粗末な服。
エステルの店の扉へ、細い針金を差し込んでいる。
「何をしているのです!」
エステルが声を上げる。
少女が振り返った。
驚いた猫のような目。
次の瞬間、扉の鍵が小さく鳴った。
かちゃり。
開いた。
「泥棒ですわ!」
「ちがう!」
少女は叫び、店の中へ飛び込んだ。
エステルも追う。
だが、一歩入ったところで少女が振り返り、何かを投げた。
小さな布袋。
アルヴィスがエステルの前へ出る。
布袋が彼の外套へ当たり、床へ落ちた。中から、白い粉が広がる。
「公爵様!」
「ただの小麦粉だ」
少女は、その隙に裁断台へ向かった。
母の裁縫箱。青白い針。
細い指が、箱へ伸びる。
「それには触れないで!」
エステルの声に、少女の手が止まる。
ほんの一瞬。
その間にアルヴィスが出口を塞いだ。
少女は左右を見た。逃げ道はない。
「誰に頼まれた」
アルヴィスの声が冷たく落ちる。
「誰にも」
「では、何を盗みに来た」
「針」
少女は開き直ったように答えた。
「祝福を縫う針を売れば、一年は食べられるって聞いた」
エステルは裁縫箱を抱き寄せた。
少女の服を見る。袖は短く、裾はほつれ、靴には穴が空いている。
けれど、腰には小さな革袋。中には、針金、薄い刃、糸。慣れた盗人の道具だった。
「お名前は?」
「言うわけないでしょ」
「では、警邏へ」
アルヴィスが言う。
少女の顔が強張った。
「待ってください」
エステルは、少女の右手を見た。
指先に、細かな傷が多い。針金を使った傷だけではない。糸を扱う者の指だ。
「あなた、縫い物ができますね」
「できない」
「左の親指に、糸を引いた跡があります」
少女は反射的に手を隠した。
「誰に習ったのです?」
「知らない」
「針を盗むために、店へ入っただけではありませんね」
「うるさい!」
少女は怒鳴った。けれど、目は裁縫箱から離れない。
売りたい者の目ではない。
欲しがっている。針そのものを。縫うために。
「名前だけでも」
「……ニナ」
小さな声だった。
「ニナ。それでは、あなたを警邏へ渡す前に、一つだけ伺います」
「渡すんじゃん」
「まだ決めておりません」
「甘いぞ」
アルヴィスが言う。
「公爵様は、少しお待ちくださいませ」
「店を荒らした泥棒だ」
「小麦粉以外は、まだ荒らしておりません」
「鍵を開けた」
「見事でしたわね」
「褒めるな」
ニナも、信じられないものを見る顔でエステルを見た。
「何なの、あんた」
「仕立て屋です」
「知ってる」
「では、なぜ針が欲しいのです?」
ニナは唇を噛んだ。
長い沈黙のあと、粗末な上着の内側から、小さな布切れを取り出す。
縫いかけの、赤い布。
子ども用の小さな手袋だった。
「弟が、寒がってる」
ニナは俯いた。
「普通の針じゃ、間に合わないと思った。祝福があれば、一晩で暖かくなるって」
エステルは赤い手袋を見る。
縫い目は荒い。けれど、指の形はきちんと取られている。独学にしては悪くない。
「祝福の針を盗んでも、祝福は縫えません」
「嘘」
「針だけでは、宿りません」
「じゃあ、どうすればいいの」
「まず、続きを縫いましょう」
ニナが顔を上げる。
「え?」
「弟さんの手袋です」
「警邏は?」
エステルはアルヴィスを見る。
彼は明らかに反対している顔だった。
「公爵様」
「駄目だ」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔に出ている」
「一晩だけ、働いてもらいます」
「泥棒を雇うのか」
「弁償です」
「何を?」
「壊した鍵と、床の小麦粉。それから、私を驚かせた分」
「最後は金額にできない」
「では、働きで返していただきます」
ニナは呆然としていた。
「逃げるかもしれないぞ」
「逃げますか?」
エステルが尋ねる。
ニナは、赤い手袋を握りしめた。
「……逃げない」
「では、決まりです」
「決めるな」
アルヴィスの声が重なる。
エステルは微笑んだ。
「公爵様。この子にも、選ばせましたわ」
「そういう問題ではない」
店の床には、小麦粉。扉には調査中の紙。裁断台には、母の針。そして、その前に立つ小さな盗人。
オデットの祝福が役目を終えた夜。
路地裏の仕立て屋へ、新しい糸が一本、転がり込んできた。
まだ、どこへつながるかは分からない。
けれど、エステルは知っている。
ほどけた糸も。拾われなかった端切れも。
縫い方さえ見つければ、もう一度何かの形になれる。




