↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/49

第10話 盗んだ針では縫えない

 盗みに入った少女へ、最初に渡されたものは針ではなかった。


「では、こちらをお願いいたします」


 エステルが差し出した箒を見て、ニナは露骨に顔をしかめた。


「……何これ」


「箒です」


「見れば分かる」


「小麦粉を掃いてくださいませ」


 店の床には、先ほどニナが投げた小麦粉が白く広がっていた。


 裁断台の脚。


 椅子の下。


 アルヴィスの青灰色の外套にも、まだうっすらと粉が残っている。


「一晩働けば、警邏(けいら)へ渡さないって話だったよね」


「はい」


「縫い物じゃないの?」


「まずは、ご自分で散らかしたものを片づけてください」


「仕立て屋なのに?」


「仕立て屋でも、床は掃きます」


 ニナは不満そうに箒を受け取った。


 ()を肩へ担ぎ、ちらりと入口を見る。


 そこにはアルヴィスが立っていた。


 扉を背にし、腕を組んでいる。


 逃げようとすれば、すぐに分かる。


「公爵様」


 エステルが呼ぶと、アルヴィスは視線だけを向けた。


「何だ」


「扉の前に立たれますと、お客様が入りづらいですわ」


「夜中に客は来ない」


「朝になれば来ます」


「その前に、こいつが逃げる」


「逃げません」


 ニナがぶっきらぼうに言った。


「先ほど、逃げようとした」


「あれは捕まりたくなかっただけ」


「同じだ」


「違うし」


「どう違う」


「逃げるって決めて逃げるのと、捕まりそうだから逃げるのは違う」


「結果は同じだ」


「公爵って、細かいね」


「泥棒に言われたくない」


 ニナは舌を出しかけ、エステルと目が合うとやめた。


「箒を動かしてくださいませ」


「はいはい」


「お返事は一度で」


「はい」


 今度は素直に掃き始める。


 口は悪いが、手際はよかった。


 粉をただ広げるのではなく、床板の隙間から掻き出し、店の奥から入口へ集めていく。


 掃除をした経験があるのだろう。


 エステルは母の裁縫箱を閉じ、鍵のかかる棚へ移した。


 青白い針を布で包み、箱の底へ入れる。


 ニナの視線が、それを追った。


「売らないでくださいませね」


「売らない」


「盗まないとも、お約束を」


「……盗まない」


「今夜だけではなく」


「分かったってば」


 返事は軽い。


 けれど、先ほどまでの強い目つきは少し薄れていた。


 アルヴィスが、床に置かれたニナの革袋を拾おうとして手を止める。


「中身を出せ」


「何で」


「ほかに武器を持っていないか確かめる」


「返してよ」


「自分で出せ」


 ニナは箒を壁へ立てかけ、革袋を引き寄せた。


 中身を一つずつ床へ並べる。


 細い針金。


 小さな刃。


 錆びた針が三本。


 黒と茶の糸。


 指貫(ゆびぬき)


 そして、色も形もばらばらな布切れ。


 エステルは、その指貫を手に取った。


 真鍮製の古いものだ。


 表面には細かな傷があり、長く使われている。


「こちらは、どなたのものです?」


「母さん」


 ニナは短く答えた。


「お母様も縫い物を?」


「昔、洗濯屋で働いてた。破れた服も直してた」


「今は?」


「死んだ」


 あまりにも平らな声だった。


 エステルは、すぐに謝りそうになってやめた。


 憐れむ言葉を向ければ、ニナはきっと殻へ戻る。


「それで、縫い方を習ったのですね」


「見てただけ」


「十分です。手が覚えておりますもの」


「まだ何も見せてない」


「その手袋を拝見しました」


 ニナは上着の内側へ手を入れ、縫いかけの赤い手袋を隠した。


「見せない」


「続きを縫うのでしょう?」


「自分でやる」


「でしたら、まず掃除を終えてくださいませ」


「結局、掃除なんだ」


「小麦粉が布へ付くと困りますから」


 ニナは再び箒を持った。


 今度は先ほどより少し早く動かす。


 エステルは床へ並べられた布切れを見た。


 どれも、どこかから拾った端切れだ。


 上等な絹はない。


 毛羽立った木綿。


 ほつれた麻。


 色褪せた裏地。


 それでも、同じくらいの厚さで分けられている。


 使えるものと、使えないもの。


 ニナなりに考えて集めてきたのだろう。


「この赤い布は、どちらで?」


 手袋へ使われている布を示す。


「劇場の裏」


「衣装の端切れでしょうか」


「ごみ箱にあった」


「勝手に持ち出したのでは?」


「捨ててあったものは盗みじゃない」


 アルヴィスが冷たく言う。


「所有者が放棄していればな」


「難しい言葉でごまかさないで」


「ごまかしていない」


「公爵様」


 エステルが止めると、アルヴィスは黙った。


 ニナも小さく鼻を鳴らし、粉を集め続ける。


 やがて床は元の色を取り戻した。


 集めた粉を紙へ包み、ニナは箒を壁へ戻す。


「終わった」


「では、次はこちらを」


 エステルは、小麦粉の入っていた布袋を渡した。


 投げた衝撃で、口の縫い目が裂けている。


「直してくださいませ」


「弟の手袋じゃないの?」


「これは、壊したものの弁償です」


「一晩で何個やらせるつもり?」


「一つずつです」


 ニナはしぶしぶ椅子へ座った。


 自分の袋から錆びた針を取り出す。


 エステルが手を差し出した。


「針を見せてください」


「取らないでよ」


「状態を確かめるだけです」


 針先は丸くなり、ところどころ錆びていた。


 これでは布へ余計な穴を開ける。


「こちらは、もう使わないほうがよろしいです」


「まだ使える」


「布を傷めます」


「新しい針なんて高い」


「この針より、布を駄目にするほうが高くつきます」


 エステルは店で使っている普通の針を一本差し出した。


 青白い祝福の針ではない。


 どこにでもある鋼の針だ。


「これを使ってください」


 ニナは受け取らなかった。


「それにも、祝福があるの?」


「ありません」


「じゃあ、いらない」


「なぜ?」


「欲しいのは、祝福の針だから」


「祝福の針だけあっても、祝福は縫えません」


「さっきも言ってたけど、どういう意味?」


 ニナは疑う目を向ける。


 エステルは普通の針を、布袋の隣へ置いた。


「針は、願いを形にするための道具です。どんなに特別な針でも、縫う人が布を知らず、着る人を知らなければ、何も宿りません」


「でも、あんたは縫える」


「母から教わりました。何年も練習して、ようやくです」


「針を持ったら、すぐできるんじゃないの?」


「できません」


「じゃあ、あれを盗んでも」


「おそらく、普通の針より使いづらいだけです」


 青白い針は細く、力加減が難しい。


 願いが曖昧なら光らない。


 欲を込めれば、糸が絡む。


 母が使っていたころでさえ、何度も布をほどき直していた。


 ニナは棚の裁縫箱を見た。


 少しの間、黙る。


「……一年食べられるって話も?」


「売れば、そのくらいの値がつくかもしれません」


「やっぱり」


「ですが、買った方が正しく使うとは限りません」


「売ったあとのことまで知らない」


「本当に?」


 ニナの眉が寄る。


「何」


「その針で、誰かが嫌な願いを縫っても?」


「嫌な願いって」


「人を従わせる服。嘘を信じさせる服。誰かを傷つける服」


「そんなのも縫えるの?」


「私には縫えません」


「じゃあ大丈夫じゃん」


「別の使い方を探す方はいるでしょう」


 ニナは唇を閉じた。


 盗んだ品が、誰の手へ渡るか。


 考えたことがないわけではない顔だった。


 アルヴィスが壁際から言う。


「盗品を買う者は、善人ではない」


「公爵に言われなくても知ってる」


「なら、売った先で何が起きるかも考えろ」


「説教ばっかり」


警邏(けいら)の牢よりましだ」


 ニナは睨み返した。


 だが、もう逃げようとはしなかった。


 やがて、普通の針を手に取る。


「これ、折ったら?」


「弁償していただきます」


「何でも弁償だね」


「物を大切にする方法として、分かりやすいでしょう?」


 ニナは糸を通した。


 手つきは速い。


 けれど、糸を長く取りすぎている。


「長すぎます」


「これくらい普通」


「途中で絡みます」


「絡まない」


 三針目で絡んだ。


 ニナは無言で結び目を引っ張る。


 さらに締まり、ほどけなくなる。


「切るな」


 アルヴィスが言った。


「分かってる」


「今、刃へ手を伸ばした」


「見てたの?」


「見張っている」


「暇なの?」


「公爵様はお忙しい方です」


 エステルが間へ入る。


「では、どうほどくか考えましょう」


「切ったほうが早い」


「布を傷めます」


「誰も見る袋じゃない」


「見えないところを雑にしてよい理由にはなりません」


「面倒くさい」


「仕立ては、面倒なものです」


 エステルは結び目を指でほぐした。


 糸を少し戻し、絡んだ輪を一つずつ緩めていく。


「急いで引くほど、固くなります」


「縫い物の話?」


「今は、糸の話です」


「今はってことは、ほかの話でもあるんだ」


 ニナは鋭い。


 エステルは微笑むだけに留めた。


 結び目がほどけると、糸を半分の長さに切る。


「今度は、ここから」


 布袋の裂けた口へ、細かな返し縫いを教える。


 ニナは一度見ただけで真似をした。


 縫い目はまだ不揃いだが、針を入れる位置は正確だった。


 布の厚みを指先で確かめ、力を変えている。


「お上手です」


「これくらいできる」


「お母様をよく見ていたのですね」


「……別に」


 声は小さくなった。


 袋を直し終えると、エステルは縫い目を裏返して確認した。


 表より、裏のほうがきれいだった。


「癖がありますね」


「悪い?」


「いいえ。見えない側を揃える癖です」


「母さんが、裏が汚い服はすぐ破れるって」


「正しい教えです」


 ニナの口元が、少しだけ緩んだ。


「では、手袋を見せてくださいませ」


 今度は、素直に赤い布を出した。


 片方は指先まで縫われている。


 もう片方は、親指の部分で止まっていた。


 大人の手袋を小さく切り直したものらしい。


「弟さんは、おいくつです?」


「七歳」


「こちらでは、少し大きすぎます」


「小さいよりいいでしょ」


「大きいと、指先が温まりにくいのです」


「でも、来年も使える」


「なるほど」


 限られた布で、長く使わせたい。


 ニナなりの理由がある。


「弟さんのお名前は?」


「ルカ」


「ルカ様は、今どちらに?」


「様なんていらない」


「では、ルカ君は?」


「南門の近く。古い染物小屋にいる」


「お一人で?」


「ほかにも子どもがいる。おばさんが一人、夜だけ見に来る」


「暖炉は?」


「壊れた。薪もない」


 赤い手袋だけで、寒さをしのげる状況ではない。


「食事は?」


「食べた」


「何を?」


「パン」


「いつ?」


「昨日」


 アルヴィスの表情が険しくなる。


 エステルはそれを見て、視線で止めた。


 今ここで問い詰めれば、ニナはまた口を閉ざす。


「祝福があれば、ルカ君は一晩暖かく眠れると思ったのですね」


「うん」


「ずっと暖かい手袋ではなく?」


「できるなら、ずっとがいい」


「その願いでは、宿らないかもしれません」


「どうして」


「広すぎるからです」


 エステルは赤い手袋を裁断台へ広げた。


「いつまで。どこで。何のために。願いには、形が必要です」


「寒くなくなるまで」


「それは、いつでしょう」


「春まで」


「祝福だけで、春まで暖め続けるのは難しいです」


「じゃあ、意味ないじゃん」


「服として暖かく作れば、祝福がほどけたあとも使えます」


 エステルは棚から柔らかな毛織りの端切れを出した。


 アルヴィスの外套を裁ったときに残った、青灰色の布だ。


「裏へ、こちらを使いましょう」


「それ、公爵の布じゃないの」


「余った分です」


「高そう」


「端切れですから」


 アルヴィスが口を挟む。


「勝手に使え」


「公爵様の許可は必要ございません。材料費は私がいただいておりますので」


「なら、なぜ俺を見る」


「見ておりません」


「見た」


「布を見ただけです」


 ニナが二人を交互に見る。


「やっぱり、変な関係」


「違います」


「何も言ってないけど」


 エステルは咳払いをした。


「まず、ルカ君の手の大きさを確かめなくては」


「今から行くの?」


「はい」


「見つかったら、あの場所を追い出されるかも」


「誰に?」


「役人。あそこ、使っちゃ駄目だから」


 ニナの顔に警戒が戻る。


 エステルは考えた。


 無断で住んでいる場所を、公爵へ見せるのは確かに危険だ。


 アルヴィスが淡々と言う。


「俺は行かない」


 ニナが驚いて彼を見る。


「場所も聞かない。今夜、子どもを追い出す命令も出さない」


「本当に?」


「嘘をつく必要がない」


「公爵なのに?」


「公爵だから、すべてを取り締まるわけではない」


「でも、悪いことなんでしょ」


「違法と、今夜凍えさせることは別だ」


 ニナは何も言えなくなった。


 アルヴィスは続ける。


「ただし、危険な建物なら、別の場所を探す必要がある」


「追い出すじゃん」


「移す」


「同じ」


「凍える場所から、凍えない場所へだ」


「そんな場所あるの?」


「探す」


 短い答えだった。


 できると約束したわけではない。


 けれど、調べるつもりはある。


 ニナはしばらく彼を見てから、顔を逸らした。


「……じゃあ、あんたは来ないで」


「最初からそう言っている」


「エステルは来ていい」


「呼び捨てですの?」


「嫌なら、おばさん」


「エステルで結構です」


 店を出る前に、エステルは青白い針を棚の奥へしまった。


 普通の針と、毛織りの端切れ。


 巻き尺。


 赤い手袋。


 それだけを小さな籠へ入れる。


「公爵様は、こちらで?」


「待つ」


「店番をお願いしても?」


「断る」


「では、見張りを続けてくださいませ」


「同じことだ」


「呼び方が違います」


「お前も都合がいいな」


 ニナが笑いをこらえるように下を向いた。


 路地を抜け、南門へ向かう。


 夜明け前の王都は静かだった。


 パン屋の窯から煙が上がり始め、荷車が市場へ向かっていく。


 ニナは人目を避ける道をよく知っていた。


 大通りへ出ず、建物の裏。


 塀の切れ目。


 使われなくなった水路脇。


 細い道を迷いなく進む。


「いつから、あの場所に?」


「冬になる前」


「それまでは?」


「母さんと部屋にいた。でも、家賃が払えなくなった」


「お父様は?」


「知らない」


 ニナは振り返らない。


「母さんが死んで、大家に追い出された。ルカはまだ小さいから、働けない。だから、わたしが食べ物を取ってくる」


「盗んで?」


「拾うこともある」


「働くことは?」


「子どもを雇う店なんてない」


「洗濯や掃除は?」


「前に働いた。給料をもらえなかった」


「なぜ?」


「皿を割ったから、全部弁償だって」


 エステルは足を止めそうになった。


 弁償。


 自分も先ほど同じ言葉を使った。


 だが、意味は違うつもりだった。


 ニナが壊したものを、自分の手で直す。


 働きに見合うものは渡す。


 一晩を丸ごと取り上げるためではない。


「ニナ」


「何」


「今夜の分は、きちんとお支払いします」


「警邏に渡さないのが給料じゃないの?」


「それは、盗みに対する処分を変えただけです。働いた分とは別です」


「変なの」


「そうでしょうか」


「だって、わたしが悪いのに」


「悪いことをした人へ、何をしてもよいわけではありません」


 ニナは返事をしなかった。


 けれど、歩く速度が少し落ちた。


 古い染物小屋は、南門近くの倉庫街にあった。


 屋根は一部が落ち、窓には板が打ちつけられている。


 裏口から入ると、染料の古い匂いと湿気が残っていた。


 奥に、壊れた釜。


 その周りへ、拾った板や布を組み合わせた寝床がある。


 五人の子どもが眠っていた。


 一番小さな男の子が、擦り切れた毛布の端で丸くなっている。


「ルカ」


 ニナが駆け寄った。


 男の子は目を開ける。


「姉ちゃん?」


「起こしてごめん」


「帰ってきた」


 安心した声だった。


 ルカはニナの腕へしがみついた。


 その手は赤く、指先が冷たい。


 エステルは少し離れた場所へしゃがんだ。


「初めまして、ルカ君。私は仕立て屋のエステルです」


「仕立て屋?」


「お姉様が、手袋を作っていらっしゃいます」


 ニナが気まずそうに顔を逸らす。


「まだできてない」


「今夜、仕上げます。そのために、手を測らせていただけますか?」


 ルカは姉を見た。


 ニナが頷くと、小さな手を差し出す。


 エステルは巻き尺で長さを測った。


 やはり、作りかけの手袋は大きすぎる。


「来年も使えるよう、少し余裕は残します」


「来年?」


 ルカが尋ねる。


「はい。来年も、その次も。直しながら使えます」


「姉ちゃんが作るの?」


「うん」


 ニナの声は、先ほどまでより柔らかかった。


「すごい」


「まだできてないって」


「でも、姉ちゃん何でもできる」


 ニナは返事をせず、ルカの髪を乱暴に撫でた。


 眠っているほかの子どもたちを見る。


 毛布は二枚しかない。


 ルカは自分の分を、さらに小さな子へ掛けていた。


「手が冷たいのは、毛布を譲っているからですか?」


 エステルが尋ねると、ルカは少し困った顔をした。


「この子、すぐ泣くから」


 隣で眠る幼い少女を指す。


「ルカ」


 ニナが怒りかける。


「だって、姉ちゃんも寒いでしょ」


「わたしは平気」


「手、冷たいよ」


 ルカは姉の手を握った。


 二人とも冷たい。


 ニナが欲しかったのは、弟だけを暖める魔法ではなかったのかもしれない。


 この場所で。


 今夜だけでも。


 弟が誰かへ毛布を譲っても、眠りにつけるまで手が冷えないように。


 願いの形が、ようやく見えた。


「ニナ」


「何」


「手袋へ込める願いを、決めましょう」


「ずっと暖かく、じゃ駄目なんでしょ」


「服としては、できる限り暖かく作ります。祝福には、今夜の役目をお願いします」


「今夜だけ?」


「今夜を越えれば、明日は別の手を考えられます」


「明日も寒い」


「ええ。だから、手袋そのものは残します」


 エステルは毛織りの端切れを見せた。


「祝福がほどけても、これは暖かい布です」


 ニナは赤い布と青灰色の布を重ねる。


「色、変じゃない?」


「裏ですから見えません」


「裏がきれいじゃない服は、すぐ破れる」


「では、きれいに縫いましょう」


 母の教えを返すと、ニナは少しだけ笑った。


「願いは?」


「ルカが眠るまで」


 ニナは弟の手を見た。


「毛布を誰かに貸しても、手が冷たくならないように」


 具体的な願いだった。


「それで、縫いましょう」


 店へ戻るころには、空が明るくなっていた。


 アルヴィスは扉の前ではなく、店内の椅子へ座っていた。


 机の上には書類が増えている。


「遅い」


「お待たせしました」


「逃げなかったか」


「見れば分かるでしょ」


 ニナが答える。


「口の利き方を直せ」


「公爵様」


 エステルがたしなめる。


「なぜ俺が止められる」


「七歳と十二歳へ同じ調子で話されるからです」


「十三」


 ニナが訂正した。


「では、十三歳ですわね」


「もうすぐ十四」


「承知しました」


「年齢を聞いて、何が変わる」


「作業台の高さを調整します」


 エステルは木箱を一つ、椅子の足元へ置いた。


 ニナが座ると、裁断台へ肘を置きやすくなる。


「子ども扱いしないで」


「体に合わない高さで縫うと、肩を痛めます」


「そういうの、いちいち考えるの?」


「仕立て屋ですから」


 赤い手袋を一度ほどき、ルカの寸法へ合わせて裁ち直す。


 大きく切りすぎた部分は、捨てない。


 手首の折り返しへ使う。


 裏地には、青灰色の毛織り。


 ニナが待ちきれないように針を持つ。


「まず、しつけです」


「すぐ縫えばいいじゃん」


「布がずれます」


「押さえれば平気」


「二枚を重ねたまま、指の形へ縫うのですよ」


「できる」


「では、やってみてください」


 ニナは赤い表布と青灰色の裏布を重ね、待ち針を打たずに縫い始めた。


 親指の付け根まで進んだところで、裏布が引きつれた。


「……ずれた」


「ほどきましょう」


「このくらい、履けば分からない」


「指が曲げにくくなります」


「またほどくの?」


「縫い直せるのが、糸のよいところです」


 ニナは嫌そうな顔をした。


 それでも、自分で糸を抜いた。


 一針ずつ。


 急がず。


 結び目を無理に引かず。


 アルヴィスは、書類を読むふりをしながら、ときどき視線を向けている。


「何」


 ニナが気づいた。


「見ていない」


「見てた」


「字を読んでいた」


「紙、逆さまだよ」


 アルヴィスが手元を見る。


 本当に逆さまだった。


 エステルは吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。


「何も言うな」


「申し上げておりません」


「目が笑っている」


「公爵も失敗するんだ」


 ニナがにやりとする。


「お前のせいだ」


「わたし、何もしてない」


「騒がしい」


「それなら帰れば?」


「ここはお前の店ではない」


「公爵の店でもない」


「お二人とも」


 エステルが少し強く言うと、二人は同時に黙った。


 年齢は大きく違うはずなのに、時々よく似ている。


 二度目は、しつけを入れた。


 布はずれない。


 ニナの返し縫いは、最初より細かくなった。


 左手の力が強く、糸を引きすぎる癖がある。


 そのたび、エステルが指で布を伸ばす。


「糸は、布を締めつけるためにあるのではありません」


「外れないようにするんでしょ」


「ええ。でも、強く引きすぎれば、布が息をできなくなります」


「布が息するわけない」


「着る人の動きへ合わせる、という意味です」


「最初からそう言って」


「覚えやすいかと思いまして」


「分かりにくい」


 口では文句を言いながら、ニナは力を少し緩めた。


 朝の鐘が鳴るころ、片方が完成した。


 もう片方は、さらに早かった。


 左右を並べる。


 赤い表布。


 手首を返すと、青灰色の裏地が少しだけ見える。


 縫い目は完全には揃っていない。


 右の親指は少し曲がっている。


 それでも、きちんと手袋の形をしていた。


「できた」


 ニナの声に、隠しきれない喜びが混じる。


「まだ、試着がございます」


「ルカ、ここにいない」


「同じ寸法の木型で確かめます」


 エステルは子ども用の小さな手型を取り出した。


 両方へ差し込む。


 片方の人差し指が少し狭い。


 そこだけ糸をほどき、縫い代を出した。


「これで、手袋としては完成です」


「祝福は?」


 ニナが棚を見る。


 青白い針。


 待ち望んでいたもの。


「ニナが縫いますか?」


「え」


「願いを決めたのは、あなたです」


「でも、できないって」


「一人では難しいでしょう。私が手を添えます」


「触ったら、公爵みたいに壊れない?」


「公爵様は、特別です」


「どう特別なんだ」


 アルヴィスが低く言う。


「今は手袋のお話です」


 エステルは青白い針を取り出した。


 黒い布で包まれた針が、朝の光を受ける。


 ニナは手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「盗んだときは、触るつもりだったのに」


「今は?」


「怖い」


「それでよいのです」


「怖いほうがいいの?」


「大切な道具だと分かったのでしょう?」


 ニナは頷いた。


 エステルは針へ赤い糸を通す。


「手袋は二つです。一つずつ、一つの祝福を縫います」


「同じ願いを二回?」


「左右それぞれへ」


「片方だけほどけたら?」


「そのときは、もう片方が少し長く支えます」


「二つ重ねても、強くならない?」


「重ね着ではありませんから。ただし、二つで一つの役目を持たせます」


 ニナの右手へ、自分の手を重ねる。


 針を握らせる。


「強く握らないで」


「落としそう」


「私が支えます」


 最初の一針。


 赤い手袋の手首へ入れる。


「ルカ君が」


 エステルが促す。


「ルカが」


 ニナの声は小さい。


「今夜、眠るまで」


 二針目。


「小さい子に毛布を貸しても」


 三針目。


「手が冷たくなりませんように」


 針先が淡く光った。


 ニナが息を呑む。


 青白い光が赤い糸へ移り、手首を一周する。


 強い光ではない。


 小さな炭火のような、温かな光だった。


「宿った」


「はい」


「わたしが縫った?」


「一緒に、です」


 もう片方にも同じ願いを縫う。


 二つの手袋が、同時に淡く光った。


 ニナは、手の中の赤い布を見つめている。


 先ほどまで盗もうとしていた針には、もう視線を向けなかった。


「早く届けてあげてくださいませ」


「でも、仕事は一晩って」


「もう朝です」


「床と袋しか直してない」


「手袋も仕上げました」


「これは、自分のため」


「縫い方を学ぶことも、仕事のうちです」


「給料は?」


「こちらです」


 エステルは小さな銀貨を二枚、裁断台へ置いた。


 ニナの目が大きくなる。


「多い」


「夜通し働いた分です」


「盗みに入ったのに?」


「その分は、床掃除と袋の修理で返していただきました」


「鍵は壊してない。開けただけ」


「では、驚かせた分が残っております」


「まだ残ってるじゃん」


「その分は、また今度」


 ニナが顔を上げる。


「また?」


「手袋の具合も教えてください。直す場所があるかもしれませんから」


 逃げ道を与えるのではなく。


 戻る理由を一つだけ渡す。


 ニナは銀貨を握った。


「……分かった」


「店の物は盗まないでくださいませね」


「分かってる」


「扉は、普通に開けてください」


「鍵を開けるほうが早い」


「開店中は鍵が開いております」


「じゃあ、普通に入る」


 ニナは手袋を胸へ抱え、店を出ていった。


 路地の角を曲がるまで、一度も振り返らなかった。


 けれど、走り去る足音は軽かった。


 店内に静けさが戻る。


 アルヴィスは、扉の向こうを見たまま言った。


「甘いな」


「そうでしょうか」


「次は本当に盗まれるかもしれない」


「そのときは、また掃除をしていただきます」


「そういう問題ではない」


「でも、戻ると言いました」


「言っていない」


「普通に入る、と」


「来るとは言っていない」


「公爵様と同じですわね」


「どこが」


「嫌とは言っていない方です」


 アルヴィスが不機嫌そうに振り返る。


「一緒にするな」


「よく似ていらっしゃいます」


「撤回しろ」


「できません」


 エステルは笑いながら、裁断台の上を片づけた。


 普通の針。


 赤い糸の切れ端。


 青灰色の毛織り。


 今朝まで、ただの端切れだったものが、ルカの手を暖める一着になった。


 祝福は、眠るまでしか保たない。


 けれど、布と縫い目は残る。


 母が教えたとおり。


 まず、服としてできることをする。


 奇跡は、そのあとでよい。


「公爵様」


 エステルは手を止めた。


「追悼公演は、終わりました」


「覚えていたか」


「仕立て師は、寸法と言葉を覚えます」


 アルヴィスは椅子から立ち上がった。


 帰ろうとするのかと思ったが、扉ではなく窓辺へ向かう。


 黄色い花から、十分に距離を取って止まる。


「どこから話せばいい」


「母が、なぜ王室衣装室を追われたのか」


 エステルは母の裁縫箱へ手を置いた。


「ご存じのことを、すべて」


「すべては知らない」


「知っている範囲で、と約束されました」


「ああ」


 アルヴィスは、少しの間、窓の外を見ていた。


 朝の路地。


 店を開ける商人。


 パンを運ぶ少年。


 いつもと変わらない一日の始まり。


「リディア・ラヴィニアは、王室衣装室の仕立て師だった」


「それは、母から聞いております」


「表向きはな」


「表向き?」


「本当の役目は、王家専属の祝縫師(しゅくほうし)だ」


 初めて聞く言葉だった。


「祝縫師……」


「王族の婚礼、戴冠、出産。国の節目に着る衣装へ、祝福を縫う者だ。存在そのものが公にはされていない」


「なぜ?」


「王家の権威を、仕立て師一人に支えられていると知られたくないからだ」


 エステルは言葉を失った。


 母は、自分の仕事について多くを語らなかった。


 王室衣装室で働いていたこと。


 そこで嫌なことがあり、辞めたこと。


 それだけだった。


「母が、最後の祝縫師だったのですか」


「俺が知る限りでは」


「では、母のあとには?」


「教会が祝福を管理するようになった」


 ギルド監査官ベルナールの言葉を思い出す。


 教会認可を受けた祝福師。


 慣例。


 母が追放されたあと、仕組みそのものが変えられた。


「何があったのです」


「十年前、王太子の婚礼があった」


 アルヴィスの声が低くなる。


「花嫁衣装は、リディアが仕立てた」


「どのような祝福を?」


「王室の記録には、『二人の絆が永遠にほどけぬように』とある」


 エステルは眉を寄せた。


「そのような曖昧な願いを、母が縫うとは思えません」


「俺もそう思う」


「公爵様は、母の祝福の規則を?」


「詳しくは知らない。だが、お前が話した規則と、その記録は合わない」


 具体的な願いでなければ宿らない。


 永遠。


 絆。


 あまりにも曖昧だ。


「婚礼の日、花嫁が衣装へ袖を通した直後、祝福が逆流した」


「逆流?」


「ドレスの糸が黒く変わり、花嫁の体から力を奪った。式は中止。花嫁は三日間、意識を失った」


「母が、そのようなものを?」


「リディアは否定した」


 アルヴィスは、はっきりと言った。


「自分が縫った祝福ではない。衣装は完成後に何者かの手で縫い変えられている、と」


「調べなかったのですか」


「調べたことになっている」


「なっている?」


「王室衣装室と教会が共同で調査し、リディアの過失と結論づけた。針は没収。職を解かれ、王都から追放された」


 母の針は、今ここにある。


「針は没収されておりません」


「だから、記録と事実が合わない」


 アルヴィスが裁縫箱を見る。


「没収されたとされる針は、教会の宝物庫に保管されている」


「では、これは?」


「分からない」


 母が偽物を渡したのか。


 教会にあるものが偽物なのか。


 あるいは、祝福の針が一つではなかったのか。


「公爵様は、その場に?」


「婚礼にはいた」


「母を見たのですか」


「ああ」


 アルヴィスの目が、遠い場所を見るように細くなる。


「衛兵に囲まれ、衣装室から連れ出されるところを」


「何か、話しましたか?」


「俺とは話していない」


「では、なぜ一目裁ちを?」


「連れ出される前、裂けた衛兵の袖を直していた」


「そのようなときに?」


「自分を捕らえる衛兵の服だ」


 いかにも母らしかった。


 どれほど追い詰められていても、目の前のほつれを放っておけない。


「触れずに寸法を読み、数針で直した。お前と同じ手つきだった」


「それで、覚えていらしたのですね」


「ああ」


「母は、何か言っていましたか」


 アルヴィスは少し迷った。


「『縫い目を見て』と」


「縫い目?」


「誰に言ったのかは分からない。だが、何度もそう言っていた」


 針は嘘をつかない。


 裁った布は戻らない。


 母がよく言っていた言葉。


 縫い目を見れば、誰が何をしたか分かる。


「花嫁衣装は、残っていますか」


「王家の保管庫にあるはずだ」


「見られますか?」


「無理だ」


「公爵様でも?」


「婚礼衣装は、教会と王室衣装室の共同管理だ。公爵の権限では開けられない」


「では、誰なら?」


「国王。王妃。大司教。それから、王室衣装室長」


 今のエステルには、遠い相手ばかりだ。


「ベルナール監査官は?」


「ギルド監査官に、その権限はない」


「でも、母のことを知っていました」


「仕立て業界で知らぬ者はいないと言っていたな」


「はい」


「なら、聴聞会は母の件と無関係ではない」


 三日後のギルド本部。


 母と同じ道を歩むな。


 ベルナールは警告した。


 脅しではなく、本当に何かを知っているのかもしれない。


「公爵様は、母が無実だと思っていらっしゃるのですか」


 問いかけると、アルヴィスはすぐには答えなかった。


「記録は信用していない」


「それは、無実だと思うこととは違います」


「ああ」


「では、なぜ私を助けるのです?」


「助けているつもりはない」


「ギルドから針を守ってくださいました」


「俺の依頼に必要だと言っただけだ」


「今も、母のことを話してくださいました」


「約束した」


「それだけ?」


 エステルは彼を見た。


 アルヴィスは、いつものように表情を隠している。


 けれど、わずかに視線が揺れた。


「十年前」


 やがて、彼は言った。


「リディアが連れ出されたあと、婚礼衣装を一度だけ見た」


「なぜ?」


「混乱の中で、控え室へ入った」


「公爵様が?」


「当時は、公爵ではない。勝手に入れる立場でもなかった」


「では、忍び込んだのですか」


「今は関係ない」


「公爵様も、鍵を?」


「開いていた」


 少し怪しい。


 ニナと似ていると言えば、また怒るだろう。


「何をご覧になったのです?」


「黒く変わった縫い目だ」


 アルヴィスは自分の青灰色の外套の袖へ目を落とした。


「表からは、リディアの縫い方に見えた。だが、裏側の糸だけが不自然だった」


「どのように?」


「途中から、針目の間隔が変わっていた」


 エステルの胸が強く鳴った。


 縫う人には、それぞれ癖がある。


 糸を引く強さ。


 針を入れる角度。


 間隔。


 母が縫った部分と、別の誰かが縫い足した部分。


「それを、誰かへ?」


「父へ話した」


「当時の公爵様に?」


「ああ」


「調査へ伝えてくださいましたか」


「伝えた。だが、衣装はすぐに封印され、父もそれ以上は口を出すなと命じられた」


「誰に?」


「王家からだ」


 そこまで大きな力が働いた。


「公爵様は、それでも覚えていてくださったのですね」


「忘れられなかっただけだ」


「なぜ?」


 また、問いすぎたかもしれない。


 アルヴィスの表情が固くなる。


「黒い糸が」


 彼はゆっくり言った。


「俺の呪いに似ていた」


 エステルは息を止めた。


「公爵様の、呪いに?」


「これ以上は、確証がない」


「でも」


「今日はここまでだ」


「公爵様」


「三日後の聴聞会で、ベルナールが何を知っているか確かめる」


 彼は扉へ向かった。


 朝の光が、青灰色の外套へ差す。


「それまでは、針を外へ持ち出すな」


「はい」


「一人で動くな」


「努力します」


「努力ではなく、約束しろ」


 エステルは少し驚いた。


 命令ではなく。


 約束を求められた。


「分かりました。聴聞会までは、一人で危険な場所へ行きません」


「今朝の染物小屋も危険な場所だ」


「公爵様は、いらっしゃいませんでした」


「だからだ」


「でも、ニナが」


「今後は俺か、護衛を連れていけ」


「公爵家の護衛を、仕立て屋の外出へ?」


「必要なら」


「大げさですわ」


「針を狙う泥棒が入った夜に言うな」


 正論だった。


 エステルはしぶしぶ頷く。


「承知しました」


「それから」


 アルヴィスは扉へ手を掛けた。


「寝ろ」


「店を開けなくては」


「一刻でもいい」


「公爵様も、お休みくださいませ」


「俺は戻る」


「寝るとはおっしゃいませんでした」


「仕立て師は、言葉を覚えるのだったな」


「はい」


「厄介だ」


 扉が開く。


 アルヴィスは外へ出る前に、裁断台を一度見た。


 ニナが使った普通の針。


 赤い糸。


 青灰色の端切れ。


「泥棒が戻ったら」


「ニナです」


「……ニナが戻ったら、針の数を確認しろ」


「信用していないのですね」


「信用は、最初から与えるものではない」


「では、どうするものです?」


 アルヴィスは少し考えた。


「保つか、確かめるものだ」


 外套の祝福を測ったときのように。


 一晩。


 三日。


 少しずつ。


「公爵様らしいお答えですわ」


「悪いか」


「いいえ」


 エステルは微笑んだ。


「では、確かめます」


 アルヴィスが去ったあと、店は急に静かになった。


 エステルは扉へ『本日、午前休業』の札を出した。


 裁断台を片づけ、床へ毛布を敷く。


 寝台は、まだ買っていない。


 けれど、箱の中にはアルヴィスから預かった前金がある。


 もう少しで、床から卒業できる。


 目を閉じようとしたとき、扉が小さく叩かれた。


 こん、こん。


 三度ではない。


 二度。


「どなたです?」


「わたし」


 ニナの声だった。


 扉を開ける。


 ニナは、息を切らして立っていた。


 片手には、赤い糸が二本。


 祝福が役目を終え、ほどけた糸。


「ルカ、眠った」


「そうですか」


「手、暖かかった。毛布を貸しても、ずっと」


 ニナは赤い糸を差し出した。


「これ、返す」


「役目を終えた糸は、ニナのものです」


「でも、もう光らない」


「普通の糸として使えます」


「普通の糸でも?」


「ええ。服は、祝福がなくても人を暖めます」


 ニナは、自分の指へ赤い糸を巻いた。


「ルカ、朝まで手袋するって」


「大きすぎませんでしたか?」


「ちょうどよかった。親指だけ、ちょっと曲がってる」


「次は、もっときれいに縫いましょう」


「次?」


 エステルが答えるより先に、ニナが店の中を覗く。


 母の裁縫箱。


 普通の針。


 糸巻き。


 昨日まで、盗むものにしか見えなかった道具。


「驚かせた分、まだ返してないんでしょ」


「ええ」


「じゃあ、今日も来る」


「今日は、午前休業です」


「午後なら?」


「開けます」


「掃除?」


「まずは、針の持ち方から」


 ニナは少しだけ迷い、それから頷いた。


「分かった」


 今度は、扉の鍵へ触れなかった。


 開いた入口から、普通に帰っていく。


 エステルは、その背中を見送った。


 弟子にするとは、まだ決めていない。


 ニナも、弟子になりたいとは言っていない。


 ただ、午後にまた来る。


 今は、それで十分だった。


 裁断台の上へ、一本の普通の針を置く。


 祝福は宿らない。


 高値もつかない。


 けれど、布をつなぎ、破れを直し、寒い手を暖めることができる。


 盗んだ針では、願いは縫えない。


 自分で選び。


 自分で覚え。


 一針ずつ進めて、初めて形になる。


 人とのつながりも、きっと同じなのだろう。


 エステルは、今度こそ毛布へ横になった。


 眠りへ落ちる直前、扉の外からニナの声が聞こえた。


「午後、ちゃんと起きててよ!」


「起きますわ……」


 返事は、半分ほど夢の中へ沈んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。