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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

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第11話 弟子ではありません、まだ

 エステルが目を覚ましたのは、扉を叩く音が十七回目を迎えたころだった。


「起きてる?」


 どんどんどん。


「午後だよ」


 どんどんどん。


「約束したでしょ!」


「……起きておりますわ」


 返事をしたつもりだったが、声は毛布の中へ吸い込まれた。


 床へ敷いた薄い毛布。枕代わりの畳んだ布。夜通し縫ったあとの体には、固い床でさえ羽毛の寝台に思えた。


「起きてないじゃん!」


 扉の向こうで、ニナが叫ぶ。


 エステルはようやく上半身を起こした。窓から差し込む光は、明らかに朝のものではない。


 店の壁へ掛けた時計を見る。午後の鐘まで、あとわずか。


「まあ」


 毛布を跳ねのけ、立ち上がる。足がもつれ、裁断台の脚へ肩をぶつけた。


「痛……」


「今、何か倒した?」


「倒しておりません!」


「絶対、起きたばっかりだ」


 エステルは髪を手で整え、顔を洗い、急いで扉を開けた。


 外には、ニナが立っていた。昨日と同じ粗末な服。けれど、今日は腰の革袋が少し軽い。手には小さな紙袋を持っていた。


「遅い」


「申し訳ございません。少し休みすぎました」


「少し?」


「一刻ほどです」


「四刻は寝てた」


「時計が、少々進んでいるのかもしれません」


「公爵みたいな言い訳」


「どこがです?」


「自分が悪くても、顔に出さないところ」


 エステルは何も言い返せなかった。


 ニナは店へ入ると、紙袋を裁断台へ置く。


「これ」


「何でしょう」


「パン」


 中には、固い黒パンが二つ入っていた。


「ルカと分けた残り」


「わざわざ持ってきてくださったのですか?」


「寝坊して、ご飯食べてないと思ったから」


「ありがとうございます」


「別に。昨日の給料で買っただけ」


 ニナは顔を背けた。耳が少し赤い。


 エステルは黒パンを一つ取り、半分に割った。


「では、一緒にいただきましょう」


「わたしは食べた」


「成長期の方は、何度食べてもよいのです」


「子ども扱いしないで」


「もうすぐ十四歳でしたわね」


「覚えてたんだ」


「仕立て師は、寸法と言葉を覚えます」


「またそれ」


 二人で黒パンをかじった。固い。水へ浸したほうがよいほど固い。


 それでも、昨日までほとんど食べていなかったニナにとっては、大切な買い物だったはずだ。


「ルカ君の手袋は?」


「まだしてる」


「祝福がほどけたあとも?」


「前よりずっと暖かいって」


 ニナは少し誇らしそうに言った。


「親指も、曲がってるけど動くって」


「それは、褒められているのでしょうか」


「ルカは気に入ってる」


「なら、よかったです」


「次は、もっときれいに作る」


 次。


 自然に出た言葉だった。


 エステルは、あえて何も言わず、黒パンをもう一口かじる。


 食事を終え、開店の札を出そうと扉へ向かう。


 そこには、王都仕立てギルドが貼った紙がある。


『祝福衣装製作に関する調査中』


 赤い印。


 通りを歩く人々が、足を緩めて見ていく。店へ入る前に、紙を見て引き返す者もいた。


 ニナは腕を組む。


「これ、剥がせば?」


「外せば違反になるそうです」


「夜のうちに、誰かが剥がしたことにする」


「誰かとは?」


「知らない誰か」


「ニナ」


「やらないってば」


 言いながら、紙の端を指で弾く。


「でも、邪魔」


「ええ」


 エステルは正直に認めた。


 ただの調査中。営業停止ではない。それでも、王都の人々にとってギルドの赤い印は重い。


 仕立ての仕事は、信用で成り立つ。服は肌へ触れ、何日も、何年も使う。その店が調査されていると知れば、不安になるのは当然だった。


「怖い?」


 ニナが尋ねた。


「少し」


「なくなるかも?」


「店が?」


「うん」


 エステルは扉の内側を見た。


 古い裁断台。まだ少ない反物。窓辺の黄色い花。床へ積んだ毛布。


 開店して、まだ十日ほど。けれど、ここはもう自分の店だった。


「なくしたくは、ありません」


「じゃあ、あいつらに負けなければいい」


「簡単に言いますわね」


「鍵より簡単でしょ」


「ギルド本部の鍵を開けるつもりですか?」


「必要なら」


「必要ございません」


 ニナは肩をすくめる。


 エステルは開店札を表へ返した。


 しばらく、誰も来なかった。


 追悼公演の記事は、朝刊へ大きく載っているはずだ。店の前を通る人々はこちらを見る。けれど、調査中の紙を見た途端、歩調を速めた。


「誰も来ないね」


「そうですわね」


「暇なら、縫い方教えて」


「まず、店内の布へ勝手に触れないことを覚えてください」


「触ってない」


「先ほどから、青い反物を三度見ています」


「見るだけならいいでしょ」


「指先が動いております」


 ニナは手を背中へ隠した。


「何から教えるの?」


「針の持ち方からです」


「昨日やった」


「昨日は、手袋を仕上げるために必要なところだけです」


「縫えたじゃん」


「縫えたことと、身についたことは違います」


「面倒」


「仕立ては、面倒なものです」


「またそれ」


 エステルは端切れ箱から、白い木綿を二枚出した。細長く裁ち、ニナの前へ置く。


「まず、直線を縫います」


「何になるの?」


「練習布です」


「何にもならないの?」


「最初は」


「もったいない」


 ニナはすぐに言った。


「練習で使ったら、捨てるんでしょ」


「捨てません」


「何にするの」


「きれいに縫えれば布巾に。曲がれば詰め物に。失敗して穴が空けば、針磨きに使えます」


「じゃあ、全部使える?」


「布である限りは」


 ニナは白い木綿を手に取った。端をつまみ、厚みを確かめる。


「昨日の赤い布より薄い」


「ええ。力を入れすぎると、皺になります」


「分かってる」


「では、縫ってみてください」


 普通の針。白い糸。指貫(ゆびぬき)


 ニナは針を持つ。昨日より握る力が弱い。糸の長さも、教えた範囲へ収めている。


 一針目。二針目。三針目。


 縫い目は少し右へ曲がった。


 ニナは顔をしかめる。


「布が動いた」


「左手で送ってください」


「押さえてる」


「押さえるだけでは、針が進むたび布が逃げます」


 エステルが隣へ座る。


 左手の親指と人差し指で布を軽く持ち、右手の動きに合わせて少しずつ送る。


「針だけを前へ進めるのではありません。布と一緒に進みます」


「歩くみたい」


「そうですね」


「相手に合わせる?」


「そのほうが、きれいに縫えます」


「人の話みたい」


「今は布の話です」


「今は、ね」


 昨日と同じ返し方。


 エステルは少し笑った。


 ニナは二本目の線を縫う。今度は、最初より真っ直ぐだった。ただし、縫い目の長さが揃っていない。


「次は、針目を揃えます」


「まだあるの?」


「いくらでも」


「仕立て屋になるのって、ずっと練習?」


「はい」


「祝福を縫えるようになっても?」


「むしろ、そのあとも」


「じゃあ、いつ完成するの」


「完成しないのかもしれません」


「嫌だな、それ」


「私は好きです」


 昨日より、少し上手に。今日より、明日はもう少し。


 同じ服は二つとない。同じ体も、同じ願いもない。学び終わる日がないから、仕立てを続けられる。


 ニナは理解できないという顔をした。それでも、三本目の線へ針を入れる。


 そのとき、扉の前で足音が止まった。


「ごめんください」


 若い男の声。


 エステルが立ち上がる。


「いらっしゃいませ」


 入ってきたのは、十六、七歳ほどの少年だった。焦げ茶色の髪。日に焼けた顔。白いシャツの上へ革の前掛けを着けている。


 腕には、大きな布包み。


 入口の調査中の紙を気にするように、一度振り返った。


「営業してるんですか」


「はい。祝福衣装については調査中ですが、通常の仕立てと繕いは承っております」


「普通の修理でも?」


「もちろんです」


 少年は、少し安心したように包みを裁断台へ置いた。


 中から出てきたのは、厚い帆布(はんぷ)の鞄だった。片側の肩紐が根元から裂けている。鞄の表面には黒い(すす)。金具にも細かな傷が多い。


「配達鞄でしょうか」


「鍛冶屋のです。親方に、今日中に直してこいって」


「ずいぶん重いものを運びますね」


「釘とか、道具とか。時々、小さい鉄板も」


 エステルは裂け目を確かめた。


 布だけを縫い合わせても、また切れる。肩紐へ重さが集中している。


「以前にも直しました?」


「三回」


「どちらで?」


「親方が自分で」


 裏返す。


 太い糸で乱暴に縫ってある。その上から別の糸。さらに当て布。直すたび同じ場所へ縫い目が重なり、布が硬くなっていた。


「今日中に必要なのですね」


「夕方の配達があるから」


「お名前は?」


「トーマ」


「トーマ様。この鞄を使うのは、あなたですか?」


「はい」


「中身は、いつもどのくらい?」


「重いときで、これくらい」


 トーマは店の隅に積まれた鉄の重しを指した。仕立て用の小さな重しが六つほど。かなりの重さだ。


「肩は痛みませんか?」


「平気です」


「本当に?」


 ニナが練習布から顔を上げる。


「その聞き方、公爵に嫌われるよ」


「ニナ」


「だって、本当にって聞くと、あの公爵、すぐ怖い顔する」


 トーマは目を丸くした。


「公爵?」


「何でもございません」


「ここの噂、本当なんですか。呪われた公爵の服を直したって」


「服をお仕立てしただけです」


「祝福で呪いを消したとか」


「消しておりません」


「王妃様の花が枯れなかったって」


「一晩だけ、祝福が保ちました」


 トーマは、店の奥にある青灰色の端切れを見る。


「すごいな」


「あなたの鞄には、祝福は必要ございません」


「まだ頼んでないけど」


「お顔に出ておりました」


 今度はニナが笑う。


「エステルも言うじゃん」


「必要な確認です」


 エステルは鞄の肩紐を持ち上げた。


「まず、構造を直します。肩紐の根元を広くし、重さを鞄全体へ逃がします」


「夕方までに?」


「可能です」


「いくら?」


 値段を告げると、トーマの顔が曇った。高すぎるわけではない。けれど、少年の一日分の賃金に近いのだろう。


「親方に、修理代は俺が払えって」


「なぜ?」


「壊したから」


「普通に使っていて?」


「荷物が重いのに、走ったから」


「なぜ走ったのです?」


「遅れそうだった」


「配達先へ?」


「親方に怒られるから」


 エステルは鞄の傷を見る。底にも擦れた跡。角へ何度もぶつけている。


 使い方が荒いというより、常に急いでいる。


「毎日、走っているのですか?」


「鍛冶場の仕事が終わってから配達するから」


「配達の時間が足りない?」


「俺が遅いだけです」


「親方が、そうおっしゃったのですか」


 トーマは答えなかった。


 ニナが低い声で言う。


「それ、給料から全部引かれるやつじゃない?」


「お前には関係ない」


「皿を割ったら、全部弁償って言われるのと同じ」


 トーマがニナを見る。


「何だよ」


「別に」


 エステルは二人の間へ入る。


「トーマ様。修理代は、鞄の所有者が支払うのが普通です」


「でも、俺が壊した」


「通常の仕事で必要な重さを運び、必要な時間に間に合わせるため走ったのでしょう?」


「そうだけど」


「鞄の作りが、その使い方に合っていなかったのです」


 肩紐は細い。根元も弱い。軽い荷物を運ぶための鞄へ、鉄を詰めている。


 壊れるのは当然だった。


「肩紐を二本にします」


「背負うの?」


「はい。重さを両肩へ分けます」


「子どもみたいじゃない?」


「荷物を運ぶ道具に、格好は関係ございません」


「親方に笑われる」


 その言葉に、ニナが顔を上げた。


「壊れた鞄を何回も直してるほうが、笑える」


「何だと」


「だって、使う人に合ってないじゃん」


「お前に何が分かる」


「分かるよ。大きい手袋じゃ、指が暖まらない」


 昨日覚えたことを、そのまま言っている。


 エステルは驚いてニナを見た。ニナ自身も、口にしてから少し驚いたようだった。


「道具も、使う人に合わなければ駄目です」


 エステルが続ける。


「親方へ笑われたら、私の名前を出してください」


「仕立て屋の?」


「はい。この鞄は、私が仕事に合うよう直したと」


「調査中なのに?」


 トーマが入口の紙を見る。


「調査中でも、仕立て師です」


 自分で言うと、不思議と背筋が伸びた。


 ギルドの紙があっても。噂が広がっても。自分の仕事は、目の前の布と使う人を見ることだ。


「代金は?」


「鞄の持ち主へ請求書をお渡しします」


「親方、払わないよ」


「そのときは、私が直接お話しします」


「怖くないの?」


「少しは」


「それでも?」


「必要なことですから」


 トーマはしばらくエステルを見ていた。


「じゃあ、頼む」


「承りました」


 鞄を預かり、トーマを見送る。


 扉が閉まると、ニナがすぐに言った。


「絶対、親方払わないよ」


「そうかもしれません」


「どうするの」


「お話しします」


「殴られたら?」


「そのときは、公爵様の護衛をお借りします」


「公爵、呼ぶの?」


「一人で危険な場所へ行かないと約束しましたので」


「公爵と約束したの?」


「ええ」


「やっぱり変な関係」


「その話は、もう終わりです」


 エステルは鞄を裁断台へ置いた。


 肩紐をすべて外す。何度も重ねられた縫い目を、一つずつほどく。


「ニナ。こちらを見てください」


「練習は?」


「今度は、実際の仕事です」


「わたしがやるの?」


「ほどいた糸を、長さごとに分けてください。使えるものと、切れているものを」


「それだけ?」


「まずは」


 ニナは裁断台の反対側へ座った。


 古い糸を一本ずつ伸ばす。切れている。擦れている。まだ使える。見分けながら、小皿へ分ける。


「これ、全部捨てないの?」


「短い糸は、しつけへ使えます。擦れた糸は、詰め物の口を仮止めする程度なら」


「ほんとに何でも使うね」


「使えるものは」


「じゃあ、人も?」


 不意の問いだった。


「何がです?」


「盗みをしてた人も、使えるなら置くの?」


 自分のことだ。


 エステルは手を止める。


「人を、糸のように使うとは言いません」


「じゃあ、何」


「選べるなら、別の縫い方を探します」


「意味分かんない」


「今までと違う生き方を選べるなら、そのための場所を一緒に探す、ということです」


「わたし、弟子になってないよ」


「まだ、何も申し上げておりません」


「でも、針の持ち方教えるって」


「驚かせた分の弁償です」


「いつまで残ってるの、それ」


「上達するまででしょうか」


「ずっとじゃん」


「そうかもしれませんわね」


 ニナは呆れた顔をした。けれど、店を出ようとはしなかった。


 古い肩紐を外し、新しい形を考える。


 トーマの背丈。肩幅。荷物の重さ。鞄の底へ補強布を入れ、両肩へ力を分ける二本の紐。胸の前でずれないよう、細い留め紐も付ける。


 紐の長さを調整できれば、成長しても使える。


「祝福、入れないの?」


 ニナが尋ねる。


「必要ありません」


「配達に遅れない祝福とか」


「鞄が壊れなければ、今より速く運べます」


「親方に話せる祝福は?」


「それは、鞄の役目ではありません」


「服なら何でもできるわけじゃないんだ」


「ええ」


「じゃあ、何をするか決めるの、難しいね」


「難しいから、話を聞きます」


 ニナは糸を分けながら、小さく頷いた。


 昼を過ぎたころ、店の前へ影が落ちた。


 今度は客ではない。


 黒い上着を着た公爵家の執事補佐、セドリックだった。手には厚い書類束。


「ラヴィニア嬢」


「セドリック様」


「閣下より、お届け物です」


 書類を裁断台へ置く。


 王都自由商業令。仕立てギルド規約。教会の祝福認可に関する過去の通達。付箋が何十枚も挟まれている。


「公爵様が、こちらを?」


「夜明けにお戻りになってから、必要箇所を確認されました」


「お休みには?」


「執務机で、一刻ほど」


「それは眠ったうちに入りません」


「私も、そう申し上げました」


 セドリックの目が、裁断台の向こうのニナへ向く。


 ニナは古い糸を握ったまま固まった。


「こちらは?」


「ニナです」


「新しい従業員でしょうか」


「違う」


 ニナが即答する。


「弟子でもございません」


 エステルも続ける。


「では、なぜ店内で作業を?」


「驚かせた分の弁償です」


 セドリックは一度だけ瞬きをした。


「閣下より、少女が戻っていた場合は、店内の物品を確認するようにとのことでした」


「信用ないな、公爵」


「当然です」


「セドリック様まで」


 ニナは頬を膨らませる。


 セドリックは床、棚、裁断台を一通り見た。なくなったものはない。むしろ、昨日より糸が種類ごとに分けられている。


「問題はなさそうです」


「最初から取ってない」


「昨夜、盗みに入ったと伺っております」


「昨日の話」


「一日で信用が戻ると思わないことです」


 アルヴィスと同じことを言う。


 ニナは言い返そうとして、やめた。手元の糸を一本、きちんと小皿へ置く。


「公爵様は、何かおっしゃっていましたか?」


 エステルが尋ねる。


「聴聞会には、法務官を一名同行させると」


「そこまでしていただかなくても」


「閣下は、一人で危険な場所へ行かせないと約束させた、と」


 ニナが顔を上げる。


「ほんとに約束したんだ」


「そこは、今よろしいでしょう」


「また、顔赤い」


「赤くありません」


 セドリックは表情を変えずに続ける。


「それから、こちらを」


 小さな紙包み。


 開くと、中には乾燥させた白い花弁が入っていた。


「薔薇?」


「王妃陛下より贈られた花です」


「まだ残っていたのですか」


「二日目の朝に、自然に散りました」


 呪いで枯れたのではない。普通の花のように時間を過ごし、散った。


「閣下が、何かに使えるかもしれないと」


「公爵様が?」


「はい」


 エステルは花弁を指先でつまんだ。乾いている。けれど黒ずんでいない。白いまま。


「押し花へいたします」


「閣下には、そのように」


「お渡しするのですか?」


「ご不要なら、店で保管してよいとのことです」


「公爵様ご自身が、不要だとおっしゃったのでしょうか?」


「いいえ。『どうすればいいか分からない』と」


 エステルは思わず微笑んだ。


 受け取った花。初めて自然に散るまで保ったもの。捨てられず、扱い方も分からず。それでも、自分で店へ届けるよう頼んだ。


「お預かりします」


「よろしくお願いいたします」


 セドリックは一礼し、店を出た。


 ニナが白い花弁を覗き込む。


「これ、公爵が王妃からもらった花?」


「ええ」


「捨てられないんだ」


「大切なのだと思います」


「いらないって言わないんだ」


「おそらく、言えなかったのでしょう」


「変なの」


「ニナも、普通の針はいらないと言っていたでしょう?」


「今は使ってる」


「公爵様も、今は受け取る練習中です」


「大人なのに?」


「大人でも、苦手なことはございます」


 ニナは花弁と、店の奥の青灰色の端切れを見比べた。


「じゃあ、公爵も練習してるんだ」


「そうですね」


「エステルが先生?」


「違います」


「でも、教えてる」


「一緒に確かめているだけです」


「それを先生って言うんじゃない?」


「ニナは、縫い目を揃えてください」


 話を切り上げ、鞄の作業へ戻る。


 ニナには、補強布の端をかがらせた。


 人へ渡す品。失敗すれば、ほどいてやり直す。練習布とは違う緊張がある。


 最初の一針で、ニナの肩に力が入った。


「そんなに固くならなくても」


「客の物なんでしょ」


「ええ」


「失敗したら?」


「直します」


「布が切れたら?」


「別の方法を考えます」


「怒られたら?」


「謝ります」


「怖くない?」


「怖いです」


 エステルは鞄の底へ補強布を当てながら答えた。


「でも、怖いからこそ、よく見て縫います」


 ニナは布へ目を落とした。少しずつ、針を進める。


 一本の線。


 昨日より真っ直ぐ。朝の練習布より、さらに細かい。


「できた」


「裏を見せてください」


「また裏?」


「裏が汚い服は、すぐ破れるのでしょう?」


 母の言葉を返すと、ニナは渋々、布を裏返した。


 表よりは乱れている。けれど、糸は絡んでいない。


「合格です」


「ほんと?」


「この箇所は」


「全部じゃないんだ」


「次は、反対側です」


「まだあるの?」


「仕事は、一つで終わりません」


 ニナは文句を言いながら、反対側へ取りかかった。


 夕方。


 トーマが戻ってきた。


 修理した鞄は、以前とは大きく形が変わっている。肩紐は二本。背中へ当たる部分には柔らかな当て布。胸元に細い留め紐。底には補強。


「別の鞄みたいだ」


「背負ってみてください」


 トーマが腕を通す。紐の長さを調整する。


 鉄の重しを中へ入れた。


 一つ。二つ。六つ。


 立ち上がる。


「軽い」


「重さ自体は変わっておりません」


「でも、軽い」


「両肩へ分かれたからです」


 店内を歩く。次に、少し走る。


 鞄は背中へ沿い、大きく揺れない。


「これなら、走れる」


「なるべく走らないでくださいませ」


「でも、遅れたら」


「親方へ、配達時間を相談してください」


「聞かないって」


「こちらをお渡しします」


 エステルは請求書と、修理内容を書いた紙を渡した。


『この鞄は、運ぶ荷の重さに対して、肩紐とその付け根が十分に耐えられる作りではありませんでした。

 今回は、重さを両肩へ分ける形に直しております。

 しかし、これまでと同じ量の荷を急いで運ばせれば、鞄だけでなく、使う者の肩もいずれ傷めます。

 一度に持たせる荷を減らすか、無理なく届けられるだけの時間をお与えくださいますよう、お願いいたします。


 仕立て屋 エステル・ラヴィニア』


「これを、親方に?」


「はい」


「怒るよ」


「そのときは、私が伺います」


「本当に?」


「仕立て師は、仕立てた物の責任を持ちます」


 トーマは紙を何度も読み返した。


「ありがとう」


 小さな声だった。


「代金は、親方へ請求いたします」


「払わなかったら?」


「相談します」


「俺が払う」


「あなたの賃金からは、いただきません」


「でも」


「まず、親方へ渡してください」


 トーマは頷いた。


 鞄を背負い、扉へ向かう。入口の調査中の紙の前で止まった。


「この店、なくならないよな」


 朝、ニナにも聞かれた。


「なくしません」


 今度は迷わず答えられた。


 トーマは少し笑った。


「じゃあ、また壊れたら来る」


「壊れる前に、点検へいらしてください」


「分かった」


 彼が出ていく。


 扉が閉まったあと、ニナが自分の縫った補強布の切れ端を見た。


「わたしのところ、見えなかった」


「鞄の底ですから」


「でも、使われてる」


「ええ」


「裏の仕事だね」


「大切なところです」


 ニナは、少しだけ笑った。


 裁断台へ残った白い練習布。最初の線は曲がっている。二本目は少し真っ直ぐ。三本目は、針目も揃い始めている。


「これ、持って帰っていい?」


「もちろんです」


「針も?」


「店の針は、お貸しできません」


「けち」


「こちらなら」


 エステルは、朝に確認したニナの錆びた針を一本取り出した。


 表面の錆を落とし、針先を研ぎ直してある。


「まだ使えるよう、直しました」


「捨てるって言ってたじゃん」


「この一本は、芯まで錆びていませんでしたから」


 ニナは受け取る。


 母の指貫。研ぎ直された古い針。新しい糸を少し。


「普通の針だ」


「はい」


「祝福は?」


「宿りません」


「でも、縫える?」


「もちろんです」


 ニナは針を光へかざした。


「じゃあ、これでいい」


 昨日なら、言わなかった言葉。


「驚かせた分、返し終わった?」


「まだです」


「いつまで?」


「一人で、真っ直ぐ三十針縫えるまで」


「今日できた」


「同じ長さで」


「それは、まだ」


「では、明日もいらしてください」


「朝?」


「開店前の一刻」


「寝坊しない?」


「いたしません」


「今日、四刻寝た」


「明日は起きます」


「約束?」


 今度は、ニナが言った。


 エステルは少し驚き、それから頷く。


「約束です」


「じゃあ、来る」


 ニナは練習布と針を革袋へ入れた。


 扉を普通に開ける。外へ出る直前、振り返る。


「弟子じゃないからね」


「はい。まだ、弟子ではございません」


「まだって何」


「何でもございません」


「変なの」


 ニナは路地を走っていった。


 エステルは店内へ戻る。


 裁断台の上には、公爵家から届いた書類。聴聞会まで、あと二日。


 母の過去。教会の認可。ギルドの赤い印。


 考えるべきことは多い。


 それでも、今日一日で一本の線が増えた。


 ニナが縫った、鞄の底の縫い目。誰からも見えない。けれど、トーマの荷物を支える線。


 エステルは、その切れ端を捨てずに小箱へ入れた。


 白い薔薇の花弁の隣へ。


 受け取ったもの。縫い直したもの。初めて誰かのために縫ったもの。


 どれも、小さな始まりだ。


 扉の外で、風が調査中の紙を揺らした。


 紙はまだ剥がれない。けれど、その下の店の看板も、きちんと残っている。


『あなたが、本当に必要としている一着を』


 明日も、店を開ける。


 そのために今夜は、まず眠らなくてはならない。


 エステルは裁断台の上の書類をまとめ、毛布を見る。


 すると、窓の外からニナの声が戻ってきた。


「エステル!」


「何でしょう?」


「明日、朝の鐘が鳴る前だからね!」


「分かっております!」


「寝坊したら、鍵開けるよ!」


「普通に扉を叩いてくださいませ!」


 返事の代わりに、笑い声が遠ざかっていった。


 弟子ではない。


 まだ。


 けれど、明日も来る。


 今は、それで十分だった。

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