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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

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第12話 仕立て師である証明

 聴聞会の朝、ニナは約束より半刻も早く店へ来た。


 扉を叩く音は、二度。


 前日のように十七回も鳴らされる前に、エステルは内側から鍵を開けた。


「今日は起きてた」


「当然ですわ」


「昨日は四刻寝てたのに」


「昨日のことは、昨日です」


「公爵みたい」


「それは、どういう意味です?」


「都合が悪いことは、終わったことにする」


 ニナはそう言いながら、店へ入った。


 手には、昨日渡した白い練習布がある。


「見て」


 裁断台へ広げる。


 薄い木綿には、白い糸で何本もの線が縫われていた。


 最初の二本は大きく曲がっている。


 三本目から少しずつ真っ直ぐになり、最後の一本は、縫い目の長さもほぼ揃っていた。


「三十針」


「一人で?」


「ルカに数えてもらった」


「夜遅くまで?」


「寝る前だけ」


 エステルは裏側も確かめた。


 糸の絡みはない。


 始末も、昨日教えたとおりだ。


「合格です」


「ほんと?」


「はい」


「じゃあ、驚かせた分は返した?」


「そうですね」


 ニナの顔が、少しだけ曇る。


 終われば、もうここへ来る理由がなくなると思ったのだろうか。


「ですが」


「何」


「次は、曲線です」


「まだあるじゃん!」


「仕立ては、面倒なものです」


「それ、何回言うの」


「必要なだけ」


 ニナは頬を膨らませた。


 けれど、白い布を大切そうに畳み直す。


「今日も縫う?」


「聴聞会がありますので、店は午前中お休みです」


「わたしも行く」


「いけません」


「どうして」


「ギルド本部は、関係者以外入れません」


「わたし、関係ある」


「どのように?」


「ここで縫ってる」


「弟子ではございません」


「まだ、でしょ」


 エステルは言葉に詰まった。


 自分で付け足した一言を、きちんと覚えられている。


「店番する」


「昨日、店番ではないと」


「今日は店番」


「調査中の店を、ニナ一人に任せるわけには」


「盗まれるかもしれない?」


「ええ」


「わたしが盗むかも?」


 まっすぐな目だった。


 責める声ではない。


 ただ、確かめている。


 信用は、一日で戻らない。


 アルヴィスも、セドリックもそう言った。


 エステルも、それが正しいと思っている。


 けれど、信用しないことと、何も任せないことは違う。


「店の中へは、誰も入れないでください」


「うん」


「扉は施錠したまま。お客様がいらしたら、午後から営業するとお伝えして」


「うん」


「母の裁縫箱には、触れないこと」


 ニナは、一瞬だけ黙った。


「分かってる」


「糸や布も、勝手に使わないで」


「分かってるってば」


「何かあれば、向かいのパン屋のベッシーさんを呼んでください」


「それだけ?」


「それだけです」


「針の数、数えなくていいの?」


 ニナが少し意地悪そうに尋ねた。


 エステルは店の棚を見る。


 普通の針。


 糸巻き。


 端切れ。


 母の裁縫箱は、鍵のかかる棚の中。


「帰ってから、一緒に数えましょう」


「一緒に?」


「店の道具を覚えるのも、大切ですから」


 ニナは驚いた顔をし、それから小さく頷いた。


「分かった」


 そのとき、扉が三度叩かれた。


 こん、こん、こん。


「公爵だ」


「なぜ、分かるのです?」


「三回だから」


 確かに、アルヴィスはいつも三度叩く。


 扉を開けると、青灰色の外套を着た彼が立っていた。


 後ろにはセドリックと、見慣れない男が一人。


 三十代半ばほど。


 茶色の髪を短く整え、黒い法衣のような上着を着ている。


「おはようございます、公爵様」


「ああ」


「眠られましたか?」


「一刻」


「それは、眠ったうちに入りません」


「昨日より多い」


「比べる基準が悪いですわ」


 アルヴィスは店内へ視線を向けた。


 ニナと目が合う。


「まだいたのか」


「まだいる」


「物は減っていないか」


「減ってない」


「確認したのか」


「これから一緒に数える」


 ニナが答えると、アルヴィスの眉がわずかに動いた。


 エステルは気づかないふりをする。


「こちらの方は?」


「法務官のユリウス・グランだ」


 男が一礼した。


「ヴァルクレイ公爵家の法務を担当しております。本日は、聴聞会への同席を」


「エステル・ラヴィニアです。よろしくお願いいたします」


「資料は拝見しました」


 ユリウスは、店の扉に貼られた調査中の紙を見る。


「ギルド側は、法律ではなく慣例を盾にする可能性が高いでしょう」


「慣例に従わなければ、仕立て師として認めないということですか」


「その可能性があります」


「ですが、私はギルドへ入っていません」


「王都で(あきな)いを続けるなら、材料の仕入れ、職人の雇用、王侯貴族からの依頼。いずれもギルドの影響を受けます」


 法に違反していなくても、店を続けられなくする方法はある。


 布を売らない。


 職人を紹介しない。


 依頼を回さない。


 信用を奪う。


「今日の目的は、営業停止を避けることです」


 ユリウスが言った。


「母君の件まで、無理に追及しないほうがよいでしょう」


「ですが」


「聴聞会は、真実を明らかにする場ではありません。ギルドが、あなたの営業を認めるか判断する場です」


「では、母のことは何も聞けない?」


「相手が口にすれば、記録へ残せます。しかし、こちらから主題にするのは危険です」


 エステルは母の裁縫箱が入った棚を見る。


 今日、青白い針は持っていかない。


 アルヴィスとの約束どおり、店から出さない。


 それでも、母の名前は一緒についてくる。


 リディア・ラヴィニアの娘。


 祝福を縫う仕立て師。


 同じ道を歩むな。


「分かりました」


「本当に?」


 アルヴィスが尋ねる。


「何がです?」


「顔が、分かっていない顔だ」


「どういう顔でしょう」


「聴聞会で、母親のことを聞くつもりの顔だ」


「公爵様も、顔を読めるのですね」


「お前は分かりやすい」


「エステル、絶対聞くよ」


 ニナまで言う。


「まだ何も申し上げておりません」


「それ、聞く人の言い方」


 エステルは咳払いをした。


「必要な範囲で、判断いたします」


「それが一番危ない」


 アルヴィスは溜息をつく。


 けれど、それ以上止めなかった。


「ニナ」


「何」


「店をお願いいたします」


「任せて」


「鍵を開けないこと」


「分かってる」


「窓から入れないこと」


「誰を?」


「誰もです」


「エステルが帰ってきても?」


「扉を叩きます」


「二回?」


「私は、回数を決めておりません」


「じゃあ、三回なら公爵だけ入れる」


「俺も入れるな」


 アルヴィスが言う。


「なぜ?」


「命令を守れるか確かめる」


「公爵でも?」


「誰でもだ」


 ニナは少し考え、頷いた。


「分かった。公爵でも開けない」


「それでいい」


「変なの」


「お前に言われたくない」


 二人は、やはり少し似ている。


 エステルは笑いそうになるのをこらえ、店を出た。


 王都仕立てギルド本部は、中央市場の北側に建っていた。


 三階建ての大きな石造り。


 正面には、巨大な鋏と糸巻きの紋章。


 入口を出入りする仕立て師たちは、皆、上等な服を着ている。


 弟子らしき若者が反物を運び、職人たちが見本帳を抱えて行き交う。


 路地裏の小さな店とは、まるで別の世界だった。


 エステルは、自分の服を見下ろす。


 薄い灰色のワンピース。


 母の古い布を直し、自分で仕立てたもの。


 派手ではない。


 けれど、肩も袖も、今の自分にきちんと合っている。


「服は問題ない」


 隣のアルヴィスが言った。


「何も申し上げておりません」


「気にしていた」


「少しだけ」


「お前が仕立てたのか」


「はい」


「悪くない」


 外套と同じ感想。


 けれど、今は十分だった。


「ありがとうございます」


 入口で名を告げる。


 受付の男は、エステルの名前を聞いた瞬間、表情を変えた。


「ラヴィニア」


「はい」


「お待ちしておりました」


 案内されたのは、二階の広い会議室だった。


 長い卓。


 正面に五人の審査員が座っている。


 中央には、マダム・ベルナール。


 その右に、白髪の老人。


 左には、教会の紋章を胸に付けた男。


 残る二人は、王都の有力仕立て店の主人だろう。


 傍聴席には十数人。


 見覚えのない仕立て師たちが、興味深そうにエステルを見ている。


 アルヴィスが入ると、室内の空気が変わった。


 何人かが立ち上がる。


 教会の男だけは、わずかに眉を寄せた。


「ヴァルクレイ公爵閣下」


 ベルナールが立つ。


「本日は、あくまでギルド内部の聴聞会です」


「彼女の依頼人として同席する」


「発言は、求められた場合のみ」


「法に反する進行があれば、止める」


「それは、脅しでしょうか」


「警告だ」


 また同じやり取り。


 ベルナールは、ほんの少しだけ口元を硬くした。


「お座りください」


 エステルは卓の前へ立つ。


 アルヴィスとユリウスは、後ろの席へ。


 聴聞会の記録係が、紙へ羽根ペンを走らせる。


「エステル・ラヴィニア」


 ベルナールが告げた。


「あなたは王都西区の路地において、仕立て店を開業。通常の仕立ておよび繕いに加え、祝福を付与した衣装を製作している。相違ありませんか」


「ございません」


「ギルドへの開業登録は?」


「開業後三十日以内に申請予定です」


「祝福衣装製作の認可は?」


「そのような法的認可が必要とは、存じませんでした」


 教会の男が口を開く。


「祝福は、教会の管理下にある神聖な力です」


「お名前を伺っても?」


「中央教会祝福管理局、司祭ロデリック」


「ロデリック司祭。祝福が教会の管理下にあると定めた法律を、拝見できますか」


 後ろで、ユリウスがわずかに頷く。


 司祭の目が細くなる。


「祝福は、古来より教会が認定してきました」


「法律ではなく、慣例でしょうか」


「信仰に、世俗の法律だけを当てはめることはできません」


「私は、信仰を商っているのではございません」


 エステルは落ち着いて答えた。


「服を仕立てております」


「その服に、超常の力を付与している」


「私の祝福は、人の願いを服へ縫い込むものです。病を治すとも、運命を変えるとも申し上げておりません」


「では、呪われた公爵の外套が一晩保った件は?」


 傍聴席がざわめく。


 アルヴィスの表情は変わらない。


「公爵様が、ご自身で選び、受け取った一着です」


「祝福によって呪いを弱めたのでは?」


「私には、呪いを解くことはできません」


「しかし、白い薔薇は枯れなかった」


「王妃様へお礼を申し上げるまで、花が保つよう願いを縫いました」


「それを奇跡と呼ばず、何と呼ぶ」


「一着の役目を果たした、と」


 ベルナールが手を上げ、司祭を制した。


「話を整理しましょう」


 彼女は一枚の紙を見る。


「あなたは、祝福を縫う能力があることを認める」


「はい」


「その能力について、教会の認定を受けていない」


「はい」


「ギルドの訓練も受けていない」


「母から学びました」


「個人的な教育だけで、王都に店を出した」


「仕立ての技術は、母からだけではございません。父の領地にいた職人たちからも学びました」


 白髪の老人が初めて口を開く。


「証明は?」


「証明?」


「どの工房で、何年学んだ。誰の推薦状がある」


「正式な工房には所属しておりません」


「ならば、技術を測るものがない」


 老人は、ギルドの長なのだろう。


 ベルナールが紹介する。


「ギルド長、マスター・オルセンです」


「ラヴィニア嬢」


 オルセンは厳しい目でエステルを見る。


「王都では、仕立て師を名乗るために、通常七年の修業を経る。見習い。針子。裁断師。そして親方の推薦。それを、あなたは何一つ通っていない」


「はい」


「祝福が使えるから、通常の修業を不要と考えたか」


「いいえ」


「では、なぜ店を開いた」


「生活のためです」


 室内に、わずかな笑いが漏れた。


 エステルは続ける。


「婚約を破棄され、家へ戻ることもできず、自分にできる仕事が仕立てだったからです」


「正直だな」


「嘘を申し上げる必要がございませんので」


「技術が足りなければ、客へ迷惑がかかる」


「そのときは、直します」


「直せないほど布を傷めたら?」


「代金を返し、できる限りの弁償をいたします」


「それで済むと思うのか」


「済まないこともあるでしょう」


 エステルは、一度息を吸う。


「だから、よく見て、よく聞いて、簡単に(はさみ)を入れません」


 オルセンの目が、少しだけ変わった。


「言葉では、何とでも言える」


「では、何をすれば証明できますか」


 自分から尋ねる。


 ベルナールが、机の下から布包みを出した。


 まるで、最初から用意していたように。


「実技を行います」


 包みが卓の上へ置かれる。


 中から現れたのは、濃い緑色の上着だった。


 上等な男性用。


 ただし、背中が大きく裂けている。


 袖口には焦げ跡。


 片側の襟も潰れていた。


「こちらを、一刻で着用可能な状態へ直しなさい」


 エステルは上着へ近づく。


「持ち主の方は?」


「いません」


「体格は?」


「上着から読み取りなさい」


「どのような場で着るのでしょう」


「それも、あなたが判断を」


 わざと情報を与えない。


 祝福の依頼と同じ。


 言われたものだけを作るのではなく、必要なものを読み取れという試験なのだろう。


「道具は?」


「こちらに」


 普通の裁縫箱。


 針。


 糸。


 鋏。


 当て布。


 祝福の針はない。


「祝福は使わないのですね」


「仕立て師としての技術を見る」


「承知しました」


 エステルは上着へ触れた。


 まず、布。


 厚い毛織り。


 冬物。


 肩幅は広いが、袖丈は短め。


 背中の裂け目は、縫い目からではない。


 斜めに切れている。


 何か鋭いものへ引っかけた。


 袖口の焦げは右側だけ。


 襟の潰れも右。


「持ち主は、右利き」


 呟く。


 袖口へ鼻を近づける。


 油と炭の匂い。


「鍛冶職人?」


 傍聴席がざわつく。


 エステルは裏地を見る。


 右肩だけ、強く擦れている。


 重いものを担ぐ。


 背中の裂け目は、作業場で金属片へ引っかけたのかもしれない。


 けれど、上着そのものは仕事着にしては上等だ。


 内側の胸ポケットには、金糸で小さな印。


 炎と金槌。


「鍛冶ギルドの式典服」


 正面の二人の仕立て店主が、顔を見合わせた。


 ベルナールは何も言わない。


 エステルは上着を衣紋掛けへ掛ける。


 背中の裂け目を閉じるだけなら、時間内にできる。


 だが、同じ場所へ力がかかれば再び裂ける。


 右肩の擦れ。


 袖口の焦げ。


 持ち主は、式典服を作業場でも着ているのか。


 それとも、式典の直前に事故が起きたのか。


「一つ、質問を」


「持ち主はいないと言いました」


「この上着を、今日着る必要は?」


 ベルナールは少し間を置いた。


「二刻後、鍛冶ギルドの新工房落成式があります」


 必要な情報が一つ出た。


「式典用。屋外でしょうか」


「中庭です」


「持ち主は、式典で挨拶を?」


「する予定です」


「右腕を上げますか」


「鍛冶槌を掲げる慣例があります」


 エステルは頷いた。


 背中を強く閉じすぎれば、右腕を上げたとき引きつる。


 ただ裂け目を縫い合わせてはいけない。


「作業を始めます」


 砂時計が返される。


 一刻。


 エステルは、まず袖口の焦げた部分を切り落とさなかった。


 表だけを削り、炭化した繊維を小さな鋏で取り除く。


 当て布は、同じ緑ではない。


 用意された中で最も近いのは、黒。


 隠そうとすれば不自然になる。


 ならば、左右の袖口へ黒い布を細く足し、意匠として揃える。


 右だけの補修を、最初からそういう形だったように見せる。


 襟も、右だけ直すのではなく、左右を少し低く整える。


 背中の裂け目は、真っ直ぐ閉じない。


 裂け目の両端へ補強布を入れ、中央へわずかな運動量を作る。


 鍛冶槌を上げたとき、肩甲骨が動けるように。


 針を進める。


 一針。


 二針。


 三針。


 祝福はない。


 ただの糸。


 それでも、服は人の動きを助けられる。


 傍聴席は静かだった。


 聞こえるのは、針が布を通る音。


 砂時計の砂。


 時折、紙へ記録する羽根ペン。


 半刻。


 背中の補修が終わる。


 次に袖。


 黒い当て布を左右対称へ。


 縫い目を表へ出し、細い二本線にする。


 鍛冶の式典服なら、無骨な黒は悪くない。


 襟を整える。


 潰れた芯を抜き、新しい薄布へ入れ替える。


 残り、四半刻。


 エステルは上着を持ち上げた。


 体格の近い木製の人台へ着せる。


 右腕を上げる形へ動かす。


 背中は引かない。


 裂け目も開かない。


 ただ、右肩の下に少し皺が寄る。


 補強布が、一寸だけ広すぎた。


「ほどくのか」


 誰かが呟いた。


 時間はない。


 そのままでも、着用はできる。


 遠目なら分からない。


 けれど、鍛冶槌を掲げたとき、右肩へ重さが集まる。


 式典の最中に裂ける可能性がある。


 エステルは迷わず糸を切った。


 直したばかりの縫い目を、一部ほどく。


 傍聴席がざわめく。


「残りがないぞ」


 オルセンが言う。


「分かっております」


 補強布を半寸狭くする。


 縫い直す。


 針目を急いで荒くしない。


 均等に。


 布を締めつけず。


 最後の一針を結んだ瞬間、砂時計の砂が落ちきった。


「時間です」


 ベルナールの声。


 エステルは針を置く。


 上着を人台へ着せたまま、右腕を上げる。


 背中の布が滑らかに開く。


 縫い目は保つ。


 袖口の黒い布は、左右に揃い、補修には見えない。


 襟も低く整い、焦げた跡は目立たなくなった。


「着用可能です」


 エステルは告げた。


 オルセンが席を立つ。


 上着へ近づき、表を確かめる。


 次に裏。


 背中の補強。


 肩の運動量。


 袖口。


 襟。


「なぜ、最後にほどいた」


「右腕を上げたとき、補強布の端へ力が集中したからです」


「着るだけなら問題なかった」


「持ち主は、式典で鍛冶槌を掲げます」


「時間内に終わらない可能性もあった」


「そのまま渡し、式典中に裂けるよりは」


「間に合わなければ?」


「理由を説明し、別の上着を用意していただきます」


「逃げるのか」


「着られない服を、完成したと言って渡すよりは誠実です」


 オルセンは何も言わない。


 裏側の縫い目を、指でなぞる。


「縫い目の長さが、途中から変わっている」


 エステルの心臓が強く鳴った。


 母の婚礼衣装。


 途中から変わった針目。


「はい。肩の動く部分だけ、細かくしました」


「意図的か」


「もちろんです」


「誰に習った」


「母です」


 室内が静まる。


 オルセンはゆっくり顔を上げた。


「リディアも、同じことを言った」


「何を?」


「縫い目は、場所によって役目が違う。すべて同じに揃えることが、美しい仕立てではない、と」


 初めて、母を知る者の声に温かさがあった。


「母と、お知り合いだったのですか」


「同じ衣装室にいた」


 エステルは思わず、一歩近づいた。


 ユリウスが後ろで小さく咳払いする。


 主題にするな。


 けれど、相手から口にした。


「では、十年前の婚礼衣装も?」


 ベルナールの声が飛ぶ。


「ラヴィニア嬢。今は、あなたの技術審査です」


「ですが、ギルド長が母をご存じだと」


「オルセン」


 ベルナールが低く呼ぶ。


 オルセンは、上着から手を離した。


「今は、審査を終える」


 逃げられた。


 けれど、記録係の羽根ペンは動いている。


 母と同じ衣装室にいた。


 その事実は、残った。


 オルセンは席へ戻る。


 五人が小声で話し合う。


 教会の司祭ロデリックは、明らかに不満そうだ。


 仕立て店主の一人は、上着をもう一度見たがっている。


 やがて、ベルナールが正面を向いた。


「技術審査について」


 エステルは背筋を伸ばす。


「通常の繕いおよび仕立てを行う技量は、認めます」


 息を吐きそうになり、こらえる。


「ただし」


 まだ終わらない。


「祝福衣装については、別です」


「なぜでしょう」


「その力の安全性が、証明されていない」


「これまで、三着へ祝福を縫いました」


「少なすぎる」


「役目を終えた祝福は、すべて糸へ戻っております」


「だから安全だと?」


 司祭ロデリックが割り込む。


「祝福は本来、教会で訓練を受けた者だけが扱うべき力です」


「私の母は、教会で学んだのですか」


 ロデリックの口が止まる。


「リディア・ラヴィニアは、王室衣装室の——」


祝縫師(しゅくほうし)


 エステルが言った。


 室内の空気が変わった。


 誰かが、息を呑む。


 ベルナールの目が鋭くなる。


「その言葉を、どこで知ったの」


「母のことを知る方から」


 アルヴィスを見ない。


 名前を出す必要はない。


「王家専属の祝縫師。母が最後の一人だったと」


「公にしてよい名称ではない」


「では、存在したのですね」


 ベルナールは答えない。


「母が追放されたあと、教会が祝福を管理するようになった」


「今は、あなたの母親を裁いているのではない」


「では、私の祝福が危険だという根拠を」


「母親と同じ力だからよ」


 ベルナールが、ついに言った。


 記録係の手が止まりかける。


 ユリウスがすぐに口を開く。


「今の発言は、公式記録へ」


「記録しなさい」


 ベルナールは、もう取り消さなかった。


「十年前、リディア・ラヴィニアの祝福は、王太子妃の命を危険にさらした」


「母は、自分の縫った祝福ではないと」


「全員が、そう言うわ」


「縫い目を調べたのですか」


 オルセンの顔が固くなる。


「途中から、別の者の針目が混じっていたのでは?」


 傍聴席がざわめく。


 ベルナールが立ち上がった。


「誰に聞いた」


「母の婚礼衣装を見た方です」


「衣装は、封印されている」


「封印される前に」


 アルヴィスは沈黙している。


 けれど、その存在が、言葉の信憑性を支えていた。


「ベルナール監査官」


 ユリウスが言う。


「本件の安全性評価が、過去のリディア・ラヴィニア事件を根拠とするなら、その調査記録の開示を求めます」


「ギルドの内部記録です」


「営業制限の根拠として用いるなら、対象者には反論の機会が必要です」


「教会の記録も含まれる」


「ならば、教会へも求めます」


 ロデリック司祭が机を叩く。


「王室の機密だ」


「機密を根拠に、民間人の営業を止めることはできない」


 アルヴィスが初めて口を開いた。


 室内が静まる。


「ヴァルクレイ公爵閣下。発言は求められた場合のみと」


「今、求めた」


「誰が?」


「法律がだ」


 ユリウスが、わずかに口元を緩めた。


 ベルナールは、しばらくアルヴィスを睨むように見た。


 けれど、正面から争えば不利だと分かっている。


「本日の結論を述べます」


 彼女は座り直した。


「エステル・ラヴィニアの通常営業を認めます。開業登録は、本日付で仮受理」


「祝福衣装は?」


「条件付きで許可します」


 予想外の言葉だった。


「条件とは?」


「一着ごとに、依頼内容、願い、効果、持続時間、役目を終えたあとの状態を記録すること」


 エステルが瓶へ保管している糸。


 アルヴィスの一晩。


 オデットの言葉。


 すでに、自分なりに記録を始めていた。


「記録は、月に一度ギルドへ提出」


「お客様の秘密に関わる内容は?」


「個人名を伏せてもよい。ただし、事故が起きれば即座に報告」


「承知しました」


「もう一つ」


 ベルナールの視線が、エステルの手元へ落ちる。


「祝福の針を、ギルドへ登録すること」


「針を、持ってくる必要が?」


「刻印と形状を確認する」


「お断りします」


 即答だった。


「なぜ」


「一度持ち出せば、没収される可能性があるからです」


「ギルドを信用しないと?」


「昨夜、正式な聴聞会の前に道具を預かるとおっしゃいました」


「安全確認のためです」


「でしたら、ギルド側が店へ確認にいらしてください」


「こちらが出向けと?」


「針は、店から出さないと約束しております」


 ベルナールの視線が、アルヴィスへ向く。


「公爵閣下との約束?」


「はい」


「ギルドより、公爵を優先するのね」


「針を守るという目的が同じなら、優先の問題ではございません」


「相変わらず、よく言うわ」


「よく言われます」


 オルセンが、低く笑った。


 ほんの一瞬。


 ベルナールが横目で見ると、すぐに表情を戻す。


「では、三日以内に監査官を店へ派遣します」


「ベルナール様が?」


「私が行く」


「承知しました」


「その際、針が登録記録と一致しなければ、祝福衣装の許可は取り消します」


「登録記録とは、教会に保管されている針の?」


 ベルナールは答えない。


 だが、その沈黙が答えだった。


 母の針は、教会の宝物庫にあることになっている。


 店にある針と、どちらが本物なのか。


 三日後、少なくとも形は比較される。


「聴聞会は以上です」


 木槌が鳴る。


 傍聴席がざわめき、立ち上がる。


 エステルは、ようやく息を吐いた。


 通常営業。


 条件付きの祝福衣装。


 店は、続けられる。


 けれど、母の針を巡る問題は、さらに近づいた。


「ラヴィニア嬢」


 会議室を出ようとしたとき、オルセンに呼び止められた。


 ベルナールたちはすでに奥の扉へ消えている。


 アルヴィスとユリウスも、少し離れた場所で待つ。


「はい」


 オルセンは、先ほど直した緑の上着を持っていた。


「これは、実際に鍛冶ギルド長が今日着るものだ」


「本当に?」


「試験用に壊したわけではない。昨夜、工房で事故があった」


「では、急いで届けなくては」


「今、使いが持っていく」


 オルセンは背中の補修を見る。


「リディアなら、同じ直し方をしただろう」


「母と、親しかったのですか」


「競っていた」


「競って?」


「同じ年に衣装室へ入り、裁断を任されたのも同じ時期だ」


 エステルは初めて、母の若い頃を想像した。


 王室衣装室。


 多くの布。


 同じ道を目指す仲間。


「母が祝縫師だったことも?」


「途中まで知らなかった」


「では、婚礼衣装の件は」


「ここでは話せない」


「また、そうおっしゃるのですね」


「話せば、私も失うものがある」


 オルセンの声は苦かった。


「十年前、黙ったことで、すでに多くを失った」


「母を、信じていたのですか」


「縫い目を見れば分かった」


 エステルは息を止める。


「母のものではなかった?」


「すべてが、ではない」


「どの部分が?」


 オルセンは周囲を見る。


 廊下の向こうに、ギルドの職員。


 扉の近くに、教会の者。


「監査官が店へ行く日」


 小さな声で言う。


「針だけを見ると思うな」


「何を?」


「裁縫箱の底を調べろ」


「底?」


「リディアは、重要な型紙を二重底へ隠す癖があった」


 エステルは母の裁縫箱を思い出す。


 何度も開いた。


 糸。


 針。


 指貫。


 小さな鋏。


 けれど、底を外したことはない。


「なぜ、今まで」


「お前が、リディアと同じ縫い目を持つか確かめたかった」


「今日の試験で?」


「ああ」


「同じでしたか」


「似ている」


 オルセンは、少しだけ笑った。


「だが、同じではない」


「それは、よいことですか?」


「仕立て師なら、自分の縫い目を持て」


 その言葉を残し、オルセンは去った。


 ギルド本部を出る。


 外の光が眩しい。


 中央市場の鐘が、正午を告げていた。


「通常営業は認められた」


 ユリウスが書類を確認しながら言う。


「祝福についても、即時停止は回避できました。十分な結果です」


「はい」


「不満か」


 アルヴィスが尋ねる。


「不満ではありません」


「顔が違う」


「母のことが、少しだけ近づいた気がして」


「近づくほど、危険も増える」


「分かっています」


「本当に?」


「その聞き方は、私のものですわ」


「お前が分かっていないときには必要だ」


 エステルは言い返そうとして、やめた。


 オルセンの言葉。


 裁縫箱の二重底。


 店へ戻れば、すぐ確かめたい。


 けれど、ニナがいる。


 母の秘密が何か分からない以上、誰の前で開くべきか慎重にならなくては。


「店へ戻る」


 アルヴィスが歩き出す。


「公爵様も?」


「針の確認をする」


「監査官は三日以内です」


「その前に、裁縫箱の底を見るのだろう」


「聞こえていらしたのですか?」


「聞こえる声で話していた」


「小声でしたのに」


「耳がいい」


「盗み聞きです」


「廊下で話すほうが悪い」


「ニナと同じことを」


「一緒にするな」


 市場を抜け、路地裏へ戻る。


 店の前には、数人の客が待っていた。


 扉には、まだ調査中の紙。


 けれど、その隣へ新しい紙が貼られている。


『午後から営業します。

 繕い物は順番です。

 祝福目当てだけの人は、帰ってください』


 大きな字。


 明らかにニナのものだった。


「何ですの、これは」


 エステルが扉へ近づく。


 中から声がする。


「合言葉は?」


「ニナ、開けてくださいませ」


「回数は?」


「何がです?」


「二回ならエステル。三回なら公爵」


「そのような約束はしておりません」


「じゃあ、本物だって証明して」


「窓からご覧なさい」


 小窓の布が少しめくれ、ニナの片目が現れた。


「あ、本物」


「公爵でも開けないと約束しただろう」


 アルヴィスが言う。


「エステルも帰ってきたから、いいの」


「条件を勝手に変えるな」


「店主がいるから」


「……開けろ」


「何回叩く?」


「ニナ」


 エステルが強く呼ぶと、ようやく鍵が開いた。


 扉の内側には、椅子や木箱が積まれ、簡単なバリケードではなく、障害物まで作られている。


「何をなさったのです?」


「絶対入れないようにした」


「お客様も?」


「午後からって言った」


「紙を貼る許可は」


「紙なら店の奥にあった」


「祝福目当てだけの方を帰すとは」


「朝、そういう人いっぱい来たから」


 外で待っていた客たちが、気まずそうに目を逸らす。


 どうやら、ニナに追い返されなかった者だけが残っているらしい。


「この方々のご用件は?」


「シャツの袖。子どものズボン。あと、パン屋のおばさんの前掛け」


 すべて、普通の繕い物だ。


 エステルは溜息をつきながらも、少し笑った。


「店番、ありがとうございました」


「針、数える?」


「その前に、お客様を」


 待っていた人々を店へ通す。


 調査中の紙は、まだある。


 けれど、店は開けられる。


 ニナが一人ずつ順番を説明し、預かり札を渡す。


 いつの間に作ったのか、端紙へ番号まで書いてある。


「それ、店番だな」


 アルヴィスが言う。


「店番じゃないって言ったの、エステルだから」


「今日は、お願いしました」


「給料は?」


 ニナがすぐに尋ねる。


「あとで計算します」


「やった」


 客が途切れたところで、エステルは扉を閉めた。


 アルヴィスとニナ。


 セドリック。


 ユリウスは、書類を持って公爵邸へ戻っている。


 母の裁縫箱を棚から出す。


「これから、箱の底を調べます」


「何かあるの?」


 ニナが近づく。


「分かりません」


「わたし、見ないほうがいい?」


 意外な言葉だった。


 勝手に覗くのではなく、尋ねた。


 エステルは少し考える。


「店の外で待っていただけますか」


「分かった」


 ニナは、すぐに頷いた。


「聞かないのですか?」


「見ちゃ駄目なものもあるんでしょ」


「ええ」


「盗んだ針じゃ縫えないから」


 昨日の言葉を覚えている。


「あとで、話せるところだけ話して」


「約束します」


 ニナは扉の外へ出た。


 今度は、鍵を閉めない。


 店主が中にいるから。


 アルヴィスとセドリックが見守る中、エステルは裁縫箱を裁断台へ置いた。


 古い木箱。


 角は擦れ、蓋の裏には小さな針傷がいくつもある。


 中身を一つずつ出す。


 糸巻き。


 指貫(ゆびぬき)


 鋏。


 青白い針。


 底には、古い緑の布。


 それを外す。


 木の板。


「どこが二重底だ」


 アルヴィスが尋ねる。


「分かりません」


 指で叩く。


 中央は固い。


 左奥だけ、少し音が軽い。


 爪を入れても動かない。


 箱の側面を見ると、小さな穴が一つある。


 針を差すほどの細さ。


「普通の針を」


 アルヴィスが言う。


「祝福の針ではなく?」


「大切なものを、鍵に使うとは限らない」


 エステルは普通の針を穴へ差した。


 少し押す。


 かちり。


 底板の端が、わずかに浮いた。


 三人とも息を止める。


 板を持ち上げる。


 下から現れたのは、薄く畳まれた布と、一枚の紙。


 布は、白。


 ところどころ黒い糸が縫い込まれている。


 エステルが触れようとすると、アルヴィスが止めた。


「待て」


「なぜ?」


「黒い糸だ」


 彼の顔から、表情が消えていた。


「俺の呪いに似ている」


 エステルは手を引く。


 セドリックが、金属製の細い挟みを取り出した。


 直接触れず、布を広げる。


 白い布は、小さな試し縫いだった。


 半分は母の細かな針目。


 途中から、黒い糸。


 間隔も、角度も違う。


 アルヴィスが十年前に見たという、婚礼衣装の裏側。


「同じだ」


 彼が低く言う。


「この縫い目だ」


 紙には、母の字で短く書かれていた。


『私の針ではない。

 黒糸は、祝福を返すのではなく、奪う。

 縫った者は衣装室の中にいる。

 エステルへ。

 この箱を開けたなら、針より先に縫い目を信じなさい。』


 最後の一行を読んだ瞬間、エステルの視界が滲んだ。


 母は、自分へ残していた。


 いつか、この箱を開く日が来ると知っていた。


「エステル」


 アルヴィスの声。


「大丈夫か」


「はい」


 答えた声は、少し震えた。


「母は、無実でした」


「まだ、証明には足りない」


「でも」


「分かっている」


 アルヴィスは白い布を見た。


「これは、始まりだ」


 終わりではない。


 母の名誉を戻すための。


 公爵の呪いを知るための。


 黒い糸を縫った者を探すための。


 最初の証拠。


 扉の外から、ニナの声がした。


「エステル?」


「はい」


「泣いてる?」


「少しだけ」


「入らないほうがいい?」


 エステルは涙を拭った。


 布と紙を、もう一度見る。


 隠し続けるだけでは、母と同じように一人で抱えることになる。


 けれど、すべてを話すには危険すぎる。


「もう少し、待ってくださいませ」


「分かった」


 扉の向こうで、ニナは静かになった。


 アルヴィスが、紙の最後の一行を見る。


「針より先に、縫い目を信じろ」


「母らしい言葉です」


「お前も、そうするか」


「はい」


 エステルは青白い針を手に取った。


 特別な力を持つ針。


 誰もが欲しがる針。


 けれど、今日ギルドで認められたのは、その針の力ではない。


 普通の針で。


 普通の糸で。


 持ち主の動きを読み、一着を直したこと。


「私は、祝福を縫えるから仕立て師なのではありません」


 エステルは言った。


「仕立て師だから、祝福を預かれるのです」


 アルヴィスは、ゆっくり頷いた。


 窓の外では、ギルドの調査中の紙が風に揺れている。


 けれど、その紙の下。


 店の扉には、ニナが貼ったもう一枚の紙。


『午後から営業します』


 店は、今日も開いている。


 母の秘密が見つかっても。


 新しい敵が見えても。


 待っている繕い物は、まだ三着。


 エステルは白い試し布を慎重に包み直した。


「まず、お客様の服を仕上げます」


「今から?」


 アルヴィスが呆れた声を出す。


「はい」


「泣いた直後だぞ」


「縫えます」


「休め」


「公爵様も、お休みになっておりません」


「またそれか」


「よいところだけ」


「それは、よいところではない」


 扉の外で、ニナが笑った。


「二人とも同じ!」


「違います」


「違う」


 また声が重なる。


 エステルは涙の残る顔で、少しだけ笑った。


 母の紙を見つけた日。


 店が正式に、仕立て屋として認められた日。


 そして、普通の針で縫うことの意味を、もう一度知った日。


 その午後も、路地裏の小さな店では、いつもと同じように針の音が続いた。

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