第13話 二本目の針
母の裁縫箱から見つかった白い試し布は、その夜、店のいちばん奥にある壁板の裏へ隠した。
裁縫箱へ戻すことはできなかった。
三日以内に、ギルドの監査官が針を確認しに来る。
箱の二重底を知られている可能性は低い。けれど、オルセンが知っていた以上、ほかに知る者がいないとは言い切れない。
エステルは薄い布へ試し布と母の手紙を包み、壁板の隙間へ納めた。
その上から、元どおり木の板をはめる。
「そこ、鼠の穴?」
背後から声を掛けられ、エステルは肩を跳ねさせた。
振り返ると、ニナが裁断台の下から顔を出している。
「いつから、そこに?」
「糸巻き落としたから拾ってた」
「見ました?」
「何を?」
ニナは首を傾げた。
嘘をついている顔ではない。
けれど、この少女は鍵を針金一本で開ける。
見つけたものを、見なかったことにする技術もあるのかもしれない。
「壁板です」
「板、外してたよね」
「少し、確認を」
「何を?」
「今は、お話しできません」
エステルがそう答えると、ニナは一度だけ壁を見た。
それから、何も聞かずに床へ落ちた糸巻きを拾う。
「分かった」
「怒りませんの?」
「見ちゃ駄目なものもあるって、昨日言ったでしょ」
「ええ」
「でも、店に危ないもの隠したなら教えて」
「なぜ?」
「火が出たり、爆発したりしたら困る」
「そのようなものではございません」
「じゃあ、いい」
ニナは糸巻きを棚へ戻した。
色ごとに。
太さごとに。
教えた位置へ、きちんと。
弟子ではない。
まだ。
けれど、店の道具を覚える速さは、思っていた以上だった。
「今日は、曲線の練習です」
「監査官が来るんじゃないの?」
「いつ来るかは、知らされておりません」
「急に来るの?」
「そのほうが、普段の状態を確認できるからでしょう」
「感じ悪い」
「監査とは、そういうものかもしれません」
「来たら、入れない?」
「入れてください」
「公爵でも入れなかったのに?」
「監査官は、本日はお客様ではありません」
「じゃあ、敵?」
「敵と決まったわけでもございません」
ベルナールは、母と同じ道を歩むなと言った。
祝福は人を救うものではないとも。
脅すように針を没収しようとした一方で、聴聞会では通常営業を認めた。
何を考えているのか分からない。
完全な敵ではないのかもしれない。
だからといって、信用もできなかった。
「よく分かんない人だね」
「ええ」
「公爵と同じ?」
「公爵様は、分かりやすい方です」
口にしたあと、エステルは手を止めた。
ニナが、すぐににやりとする。
「へえ」
「何でしょう」
「分かりやすいんだ」
「お嫌なことは、はっきりお顔へ出ますから」
「好きなことも?」
「それは……」
青灰色の外套。
白い薔薇。
悪くない、と小さく告げた声。
思い出しかけ、エステルは針を一本、ニナの前へ置いた。
「曲線です」
「ごまかした」
「こちらの線に沿って、三十針」
白い木綿へ、炭筆で緩やかな曲線を引く。
ニナは不満そうにしながらも、椅子へ座った。
最初の一針は、線の外へ少しずれた。
二針目で戻そうとして、角ができる。
「曲線なのに、曲がらない」
「布を少しずつ回してください」
「針を曲げるんじゃないの?」
「針は真っ直ぐ進みます。布の向きを変えるのです」
「道を変えるのは、布のほう?」
「ええ」
ニナは左手で木綿を持ち、少しずつ向きを変えた。
今度は、線に近づく。
ただ、布を大きく回しすぎて、反対側へずれた。
「難しい」
「曲線は、急に曲がりません」
「線は曲がってる」
「一針ごとに見れば、ほんの少しずつです」
「遠くを見たら曲がってて、近くを見たら真っ直ぐ?」
「そのようなものです」
ニナは針を止めた。
「人も?」
「今は布の話です」
「絶対、人の話でもある」
最近では、いつもの返しを、ニナに先回りされるようになってしまった。
エステルが答えずにいると、ニナは楽しそうに縫い進めた。
午前の鐘が一つ鳴る。
店の前を通る人は、以前より増えていた。
ギルドの『調査中』の紙は、聴聞会のあとも剥がされていない。
その下に、昨日ニナが貼った紙も残っていた。
『祝福目当てだけの人は、帰ってください』
エステルは何度も外そうとした。
けれど、朝から来た客のうち二人が、その文を読んで笑い、普通の繕い物を預けていった。
意外と役に立っている。
「やっぱり残したほうがいいでしょ」
「言葉遣いは直したいです」
「欲張りお断りにする?」
「さらに悪くなります」
曲線を縫い終えたニナが、布を持ち上げる。
「どう?」
最初は角ばっている。
中ほどから滑らかになり、最後の五針はほぼ線に沿っていた。
「昨日より、ずっとよいです」
「合格?」
「もう一本」
「けち」
「布の向きを変えるとき、左手へ力が入りすぎています」
「見てたの?」
「見ております」
「ずっと?」
「教えているのですから」
ニナは少し照れたように顔を逸らし、新しい布へ針を入れた。
そのとき、扉が三度叩かれた。
こん、こん、こん。
「公爵だ」
ニナが言う。
「監査官かもしれません」
「監査官も三回?」
「叩き方は、存じません」
「じゃあ、公爵」
扉を開ける。
立っていたのは、アルヴィスではなかった。
濃紫の衣装。
高く結い上げた髪。
王都仕立てギルド監査官、マダム・ベルナール。
その後ろに、司祭ロデリック。
さらにもう一人、若い女がいた。
二十歳を少し過ぎたくらいだろうか。
背が高く、黒髪を短く切り揃えている。
着ている服は、白と黒だけ。
装飾はほとんどない。
けれど、肩から腰へ落ちる線は寸分の狂いもなく、立っているだけで布の美しさが分かる一着だった。
「公爵じゃなかった」
ニナが後ろから言う。
ベルナールの視線が、少女へ移る。
「新しい従業員?」
「違います」
「弟子でもございません。まだ」
ニナとエステルの声が続く。
若い女の眉が、わずかに上がった。
「では、何者?」
ベルナールが尋ねる。
「驚かせた分を弁償している者です」
「意味が分からないわ」
「私も、時々分かりません」
「エステル」
「冗談ですわ」
ニナが頬を膨らませる。
ベルナールは溜息をつき、店内へ一歩入った。
「本日は、祝福の針の確認に来ました」
「三日以内と伺っておりましたが、翌日とは思いませんでした」
「早いほうがよいでしょう?」
「準備をさせないためですか」
「何の準備をするつもりだったの」
「掃除です」
ニナが答える。
「朝、ちゃんとした」
ベルナールの目が床へ落ちる。
確かに、今日はいつも以上にきれいだった。
ニナが開店前に掃いたのだ。
「それは結構」
監査官の後ろにいた若い女が、店内を見回す。
窓。
裁断台。
反物。
預かり札。
客から預かった繕い物。
一つずつ、値踏みするような目だった。
「こちらの方は?」
エステルが尋ねる。
「ヴィオラ・セルジュ」
若い女が自分で答えた。
「ギルドの技術鑑定人です」
名前は知っていた。
王都で最も若く親方資格を得た仕立て師。
十八歳で裁断師。
二十歳で王室衣装室から直接依頼を受けた天才。
無駄のない線と、着る者の欠点さえ美しさへ変える仕立てで知られている。
「あなたが、ヴィオラ・セルジュ様」
「私を知っているの?」
「仕立てを学ぶ者で、お名前を知らない方は少ないかと」
「褒めても、審査は変えないわ」
「そのつもりで申し上げたのではございません」
「そう」
ヴィオラは、エステルの灰色のワンピースを見る。
「それ、自分で?」
「はい」
「左肩が半寸低い」
「昔、荷物を左へ持つ癖がございましたので」
「補正が少ない」
「今は、癖を直しております」
「服で隠さず、体を戻すつもり?」
「できる範囲では」
ヴィオラの目が、少しだけ鋭くなった。
「変わった仕立て師」
「よく言われます」
「それも、誰かの真似?」
「いいえ」
エステルは落ち着いて答えた。
ヴィオラの服は完璧だった。
どこにも皺がない。
けれど、彼女の右手だけ、袖口がほんの少し広い。
鋏を長時間使う者の手首を守るためだろう。
美しさを優先しながら、仕事の動きも隠している。
「右の袖口、使いやすそうですわね」
エステルが言うと、ヴィオラの視線が止まった。
「何のこと?」
「鋏を開くとき、手首が当たらないよう広くしていらっしゃるのでしょう?」
「……よく見ている」
「仕立て師ですから」
「祝福に頼るだけではないらしい」
その言い方には、少し棘があった。
「祝福は、仕立ての代わりにはなりません」
「誰でも、そう言うわ」
「皆様が?」
「魔法や祝福を使う職人は、最初に技術があると言いたがる。けれど、客が求めるのは奇跡。普通の縫い目は見なくなる」
「それは、お客様の問題でしょうか」
「職人の問題よ」
ヴィオラは言い切った。
「奇跡を看板に掲げれば、技術より先に奇跡を売ったことになる」
エステルは扉の看板を見る。
『あなたが、本当に必要としている一着を』
祝福という言葉は書いていない。
けれど、噂は広がった。
結果として、奇跡を求める客が列を作った。
「私は、祝福を看板にしておりません」
「世間は、そう見ていない」
「だからといって、祝福を使わない理由にはなりません」
「技術だけでできることへまで使えば、仕立て師は弱くなる」
「そこは、同意いたします」
ヴィオラが少し驚いた顔をした。
「同意するの?」
「まず、服としてできることをする。そのあとで、必要なら祝福を縫います」
「なら、なぜ公爵の外套へ祝福を?」
「服だけでは、白い薔薇を受け取る時間を作れなかったからです」
「呪いを解くためではなく?」
「違います」
「本当に?」
その聞き方は、アルヴィスへ自分が何度も使ったものだった。
エステルは少しだけ苦笑する。
「本当です」
「では、針を」
ベルナールが会話を切った。
エステルは棚の鍵を開けた。
裁縫箱を取り出し、裁断台へ置く。
昨日見つけた二重底は、元どおりに戻してある。
中に証拠はない。
青白い針だけを布から出す。
針先が、朝の光を受けて淡く光った。
ロデリック司祭が、一歩近づく。
「触れないでくださいませ」
エステルはすぐに言った。
「確認するためだ」
「直接触れる必要は?」
「教会の聖印へ反応するかを見る」
「その試験は、事前に伺っておりません」
「祝福の道具なら、聖なる力へ応じるはずだ」
「応じなければ?」
「不浄な道具と判断する」
あまりにも一方的だった。
ユリウスがいれば、すぐに止めただろう。
だが、今日は店にいない。
アルヴィスも。
「法的な根拠を」
「また法律か」
ロデリックの顔に苛立ちが浮かぶ。
「祝福を扱う者が、教会の確認を拒むのか」
「確認を拒んでいるのではございません。方法を伺っております」
「これだ」
ロデリックは胸元から、小さな銀の円盤を出した。
中央に、太陽を模した教会の印。
円盤の裏から、細い黒い糸が垂れている。
エステルの目が、その糸へ吸い寄せられた。
黒。
母の試し布。
アルヴィスの呪いに似た縫い目。
「その糸は?」
「聖別された測定糸だ」
「黒いのですね」
「色に意味はない」
ロデリックは素早く答えた。
ベルナールが、わずかに司祭を見る。
ヴィオラも、黒糸へ視線を向けた。
「測定糸を、針へ巻きつける?」
ヴィオラが尋ねる。
「ああ。正規の祝福道具なら白く光る」
「違えば?」
「黒いままだ」
エステルは針を持ち上げた。
「お断りします」
「なぜ」
「その黒糸が、針へ何をするか分かりません」
「教会を疑うのか」
「母は、黒い糸によって罪を着せられました」
室内の空気が止まる。
ロデリックの顔が変わった。
「何の話だ」
「十年前の婚礼衣装です」
「その記録は、機密だ」
「聴聞会で、すでに母の事件を根拠として出されました」
「黒い糸など」
言いかけた司祭を、ベルナールが止める。
「ロデリック司祭」
「だが」
「本日の目的は、針の形状確認です。聖別試験は依頼していません」
「教会の登録品と同じか、確かめるには必要だ」
「形と刻印で足りるはずです」
ベルナールの声は冷静だった。
ロデリックは不満そうに黒糸を戻す。
エステルは、その動きを見逃さなかった。
司祭は、なぜ黒い糸を持ってきたのか。
本当に測定用なのか。
「ヴィオラ」
ベルナールが呼ぶ。
「確認を」
ヴィオラは革の手袋を着けた。
「触れても?」
「手袋越しなら」
「では」
青白い針を、白い布の上へ置く。
ヴィオラは細い定規と、小さな拡大鏡を取り出した。
長さ。
太さ。
針穴。
表面の傷。
一つずつ記録する。
「全長、二寸と八分。針穴は涙型。先端から一寸半の位置に、波形の刻み」
「波形?」
エステルは初めて聞いた。
ヴィオラが拡大鏡を差し出す。
確かに、針の側面へごく細い線がある。
三つの波。
肉眼では傷にしか見えない。
「王室衣装室の古い道具印よ」
「母の?」
「個人の印ではない。王家の衣装へ使う針に刻まれた」
ベルナールが記録簿を開く。
黄ばんだ紙。
古い挿絵。
「教会へ登録された祝縫針も、同じ波形印を持つ」
「では、同じ針?」
「まだよ」
ヴィオラは、針穴を詳しく見る。
光へ透かし、角度を変える。
「この針穴、内側へ青い鉱石が埋め込まれている」
「鉱石?」
「極小の欠片。おそらく、星青石」
星青石。
祝福を保つ力があるとされる希少な石。
母は、そんな話を一度もしていなかった。
「登録簿には?」
ベルナールが頁をめくる。
「祝縫針。全長二寸八分。涙型の針穴。王室波形印」
「鉱石の記載は?」
「ない」
「見落とした可能性は」
「登録は十年前。教会の鑑定師が行っている」
ヴィオラが針を布へ戻す。
「星青石を見落とすとは思えない」
「では、これは登録された針とは違う?」
エステルが尋ねる。
「少なくとも、記録どおりではない」
ベルナールの顔が硬い。
ロデリック司祭が言う。
「記録にない細工があるなら、偽造品だ」
「決めつけるには早い」
ヴィオラが即座に返す。
「教会の記録が不完全かもしれない」
「教会の鑑定を疑うのか」
「技術鑑定人として、記録と現物の差を述べているだけ」
「偽造なら、没収すべきだ」
「触れないでくださいませ」
ロデリックが一歩出るより早く、エステルは針を手元へ引いた。
「登録確認が終わるまで、保全する必要がある」
「店で保全いたします」
「証拠隠滅の可能性が」
「では、公爵家の封印を」
扉の外から声がした。
三度のノックは、すでに聞こえていなかった。
アルヴィスが、開いたままの入口に立っている。
後ろにはユリウス。
「なぜ、こちらへ?」
「セドリックから、監査官が店へ向かったと聞いた」
「急いで来た?」
ニナが尋ねる。
「近くにいた」
「公爵邸は近くないって、エステルが」
「ニナ」
「何」
「今は、黙っていてくださいませ」
アルヴィスは店内へ入り、ロデリックの黒糸を見る。
「それは何だ」
「教会の測定具です」
ロデリックが答える。
「針へ巻くつもりだったのか」
「正規品か調べるために」
「黒糸を?」
アルヴィスの目が、氷のように冷たくなる。
「ヴァルクレイ公爵閣下。教会の儀式へ口を挟まれるのは」
「俺の呪いに似ている」
ロデリックの口が止まる。
ベルナールがアルヴィスを見る。
「確かなのですか」
「同じとは言っていない。似ていると言った」
「何が?」
ヴィオラが尋ねる。
「糸の艶。光を吸うような黒。十年前、婚礼衣装で見た糸とも似ている」
ロデリックは銀の円盤を胸元へ戻した。
「聖別された糸を、不浄なものと一緒にするな」
「なら、由来を示せ」
「教会の秘儀だ」
「秘儀を、他人の所有物へ勝手に使うな」
アルヴィスの声は静かだった。
けれど、ロデリックはそれ以上前へ出なかった。
ユリウスが書類を開く。
「針は現所有者であるエステル・ラヴィニア嬢の店に保管。ギルド、教会、公爵家の三者で封印を施す。次回の確認まで、無断で持ち出さない。これでどうでしょう」
「祝福衣装を縫えなくなるではありませんか」
エステルが言う。
「封印するのは、保管箱です」
「使うたび、三者の立ち会いを?」
「それでは営業許可の意味がないわ」
ベルナールも反対する。
ユリウスは少し考えた。
「では、針の形状を魔写紙へ転写し、針そのものは現状維持。店から持ち出さないという誓約だけを書面に」
「それなら」
エステルは頷いた。
もともと、持ち出すつもりはない。
「三日以内に、教会保管品の再鑑定を行う」
ベルナールが言う。
「私とヴィオラが立ち会います」
「教会の宝物庫へ、ギルド員を?」
ロデリックが不満を示す。
「登録記録を作成したのは、ギルドと教会の共同名義です」
「十年前のことだ」
「だからこそ、確認が必要です」
ベルナールは譲らなかった。
ロデリックの顔に、初めて明確な焦りが見えた。
エステルは、それを胸へ留める。
「教会にある針が、こちらと同じなら?」
ニナが口を挟んだ。
「黙っていろと言っただろう」
アルヴィスが言う。
「でも、二本あるってことでしょ」
店内が静まる。
誰も、はっきり口にしていなかったこと。
同じ特徴を持つ針が。
教会と、エステルの店に。
二本ある。
「祝縫針は、一つだけなのですか」
エステルがベルナールへ尋ねる。
「記録上は」
「母は、複数持っていた可能性は?」
「王室の祝縫師に渡される針は、一代につき一本」
「では、どちらかが偽物」
ヴィオラが言う。
「あるいは、記録が最初から偽られている」
その言葉に、ロデリックが鋭く振り返った。
「慎め」
「鑑定人として、可能性を述べた」
「教会を疑う発言だ」
「針目は、信仰で変わらない」
ヴィオラは冷たく言った。
初めて、エステルは彼女へ少し親しみを感じた。
祝福を技術の邪魔だと考えている。
けれど、技術の事実には忠実な人だ。
「魔写紙を」
ベルナールが命じる。
同行していた職員が、薄い灰色の紙を裁断台へ置いた。
針を上へ載せ、専用の粉を振る。
紙の表面に、針の形と細かな刻印が青く浮かび上がった。
星青石の位置まで、淡い点として残る。
二枚作る。
一枚はギルド。
一枚は店。
「こちらへ署名を」
保管誓約書。
『祝縫針と推定される針を、再鑑定終了まで店外へ持ち出さない』
エステルは内容を読み、署名する。
ユリウスも確認し、公爵家の証人として署名した。
ベルナールが最後に名を書く。
ロデリックは署名を拒んだ。
「教会は、この針を正規品と認めていない」
「なら、確認後に」
ベルナールは書類を閉じた。
「本日の監査は終了です」
ロデリックは一礼もせず、店を出ていった。
黒い糸を持ったまま。
ニナが小声で言う。
「絶対、怪しい」
「聞こえますわよ」
「もう外だから平気」
「そういう問題ではありません」
ベルナールは、裁縫箱へ戻された針を見ている。
「二重底は、確認した?」
エステルの背筋が冷えた。
「なぜ、それを」
「オルセンが、あなたへ話したのでしょう」
「監査官も、ご存じだったのですか」
「リディアと同じ衣装室にいた者なら、知っている人はいる」
隠し場所を変えて正解だった。
「何か、入っていた?」
エステルは答えなかった。
アルヴィスが一歩前へ出る。
「監査項目には含まれない」
「公爵閣下には聞いていません」
「答える義務もない」
ベルナールとアルヴィスの視線がぶつかる。
「母からの私信がありました」
エステルは言った。
「エステル」
アルヴィスが止めようとする。
「内容は、申し上げられません」
「黒い糸について?」
ベルナールの声が、少しだけ低くなった。
エステルは彼女を見る。
「なぜ、そう思われるのです?」
ベルナールの表情は変わらない。
けれど、答えるまでに一瞬の間があった。
「十年前、リディアが最後に調べていたものだから」
「監査官は、黒い糸をご存じなのですね」
「知っているのは、記録に残る範囲だけ」
「どの記録です?」
「今は話せない」
「皆様、そうおっしゃいます」
エステルの声に、少しだけ苛立ちが混じった。
「母をご存じだった。母の縫い目ではないと疑っていた。黒い糸も知っている。それでも、十年間、誰も何も話さなかった」
「話せば、消される記録もある」
ベルナールは静かに言った。
「人も」
店内が静まり返る。
「脅しているのですか」
「警告よ」
「また?」
「今回は、本当の意味で」
ベルナールは、扉へ向かった。
ヴィオラが、そのあとを追う前に一度止まる。
「あなたの技術は、聴聞会で見た」
「ありがとうございます」
「褒めていない」
「そうでしたか」
「祝福は、やはり好きではない」
「存じました」
「でも」
ヴィオラは裁断台の上の曲線練習布を見る。
ニナの縫い目。
最初は角ばり、最後は滑らかになっている。
「教え方は、悪くない」
ニナが顔を上げる。
「弟子じゃない」
「そう」
「まだ」
「……そう」
ヴィオラの口元が、ごくわずかに緩んだ。
「次に会うとき、その曲線がどこまで滑らかになったか見る」
「何で?」
「鑑定人だから」
「わたしまで鑑定するの?」
「嫌なら、見せなくていい」
「見せる」
即答だった。
ヴィオラは頷き、ベルナールとともに店を出ていった。
扉が閉まる。
残ったのは、エステル、ニナ、アルヴィス、ユリウス。
それから、少し重くなった空気。
「ロデリックの黒糸は、調べる必要がある」
ユリウスが言う。
「教会の測定具として、公式記録にあるか確認します」
「お願いします」
「ベルナール監査官も、何か知っていますね」
「ええ」
「だが、味方とは限らない」
アルヴィスが言った。
「分かっております」
「本当に?」
「その聞き方を、返さないでくださいませ」
ニナが裁断台の下を覗く。
「何してる」
「床」
「何か落としたの?」
「違う」
彼女はしゃがみ込み、店の入口近くの床板を指でなぞった。
「ここ、糸がある」
細い黒い糸が一本。
床板の隙間へ挟まっている。
ロデリックが落としたものだろうか。
アルヴィスが近づこうとし、止まる。
「触るな」
「分かってる」
ニナは自分の革袋から、細い針金を出した。
「それは、鍵を開ける道具では?」
「今は糸を取る道具」
「便利に言い換えないでください」
けれど、直接触れずに取り出すには役立つ。
ニナは針金の先へ黒糸を引っかけ、白い紙の上へ落とした。
短い糸。
光を吸うような黒。
母の試し布に縫われていたものと、よく似ている。
「ロデリックが落とした?」
ユリウスが尋ねる。
「入口に立ったのは、あの司祭と、ベルナール様と、ヴィオラ様です」
エステルが答える。
「ほかの客が落とした可能性もある」
アルヴィスは慎重だった。
「朝、掃除したときはなかった」
「本当に?」
「隙間の粉まで取った」
小麦粉を掃いた経験が、役に立っている。
「では、今日の誰か」
「黒い服なら、ヴィオラも着てた」
ニナが言う。
「ただの縫い糸かも」
「調べれば分かる」
ユリウスが紙ごと包もうとする。
その瞬間だった。
黒糸が、小さく動いた。
風はない。
誰も触れていない。
糸の端が、ゆっくりとアルヴィスのほうへ向く。
「離れてください!」
エステルが叫ぶ。
黒糸は紙の上を滑った。
まるで、生きているように。
アルヴィスの青灰色の外套へ近づこうとする。
彼が一歩下がる。
黒糸も、同じ方向へ曲がる。
「俺に反応している」
「外套ではなく?」
「祝福は、もうない」
糸が紙の端まで進む。
落ちる。
エステルは反射的に裁断用の金属重しを被せた。
かちん。
黒糸は、重しの下へ閉じ込められた。
金属の底から、細かな音がする。
糸が擦れている。
「生きてるの?」
ニナが顔を青くする。
「糸は生きません」
「でも、動いてる」
「呪いの力に引かれているのかもしれない」
アルヴィスは、重しから距離を取った。
青灰色の外套の襟元。
祝福がほどけた場所。
そこへ、黒糸は向かっていた。
「白い試し布を」
アルヴィスが言う。
「ここでは出せません」
「比べる必要がある」
「ニナが」
「外にいる」
見ると、ニナはすでに扉の外へ出ていた。
「聞かないほうがいいんでしょ」
小窓から声だけがする。
「勝手に出ないでくださいませ」
「じゃあ、入る?」
「もう少し、外に」
「分かった」
本当に、よく気がつく。
エステルは壁板を外した。
包みを取り出し、母の試し布を裁断台へ広げる。
白い布。
途中から縫われた黒い糸。
重しの下の糸と、色も艶もよく似ている。
ユリウスが手袋を着け、拡大鏡で見る。
「同じ種類に見えます」
「外へ出します」
アルヴィスが店の奥へ下がる。
エステルは重しを少しだけ持ち上げ、黒糸を金属の小箱へ移した。
蓋を閉じる。
音が止まる。
「黒い糸は、祝福を返すのではなく、奪う」
母の手紙にあった言葉。
「公爵様の呪いも、善意を壊すのではなく、奪っているのでしょうか」
「何を?」
「祝福の力を」
贈り物が腐る。
糸がほどける。
触れた人が体調を崩す。
すべて、壊すのではなく、何かを吸い取っているとしたら。
「黒糸を縫った者と、公爵様の呪いをかけた者は同じ?」
「まだ分からない」
「でも、つながっている」
「ああ」
アルヴィスは否定しなかった。
ユリウスが金属箱を持ち上げる。
「公爵家の魔術研究官へ回します。教会へは、まだ知らせません」
「それを公爵家へ運んでも、大丈夫なのですか?」
エステルが尋ねる。
「針ではありません。それに、ここへ置くほうが危険です」
「公爵様の近くへ持っていくのも危険では?」
「別棟の封印庫へ」
「俺は近づかない」
アルヴィスは答えた。
ユリウスが店を出る。
ニナが入れ替わるように戻ってきた。
「終わった?」
「今は」
「何だったの?」
エステルは約束を思い出す。
話せるところだけ話す。
「母が昔、調べていた黒い糸と似たものです」
「公爵の呪いと関係ある?」
鋭い。
「可能性があります」
「危ない?」
「はい」
「じゃあ、さっきの司祭、危ない人?」
「まだ決めつけてはいけません」
「でも、持ってた」
「持っていた理由を確かめます」
ニナは納得していない顔をした。
けれど、これ以上は聞かなかった。
「針、二本あるの?」
「それも、まだ分かりません」
「教会のを見たら分かる?」
「おそらく」
「偽物だったら?」
「誰が、何のために入れ替えたのか調べます」
「本物が二本だったら?」
「母が、なぜ二本目を持っていたのか調べます」
「どっちでも調べるんだ」
「ええ」
「大変だね」
「少し」
ニナは裁断台の上の曲線布を手に取った。
「じゃあ、わたしはこれやる」
「今から?」
「難しい話、分かんないし」
「無理に縫わなくても」
「見てるだけよりいい」
二本目の曲線。
ニナは針を入れる。
最初の線より、少しゆっくり。
一針ごとに布の向きを変える。
急に曲がらず。
少しずつ。
エステルは、その手元を見た。
目の前には、答えの出ないことばかりある。
二本目の針。
黒い糸。
母の罪。
アルヴィスの呪い。
監査官の警告。
一度にすべてを解こうとすれば、縫い目は歪む。
「曲線は、急に曲がらない」
エステルが呟く。
「さっき教えたの、エステルでしょ」
「ええ」
「忘れた?」
「自分にも必要だと思いまして」
ニナは少し笑った。
「近くを見たら、真っ直ぐなんだよね」
「はい」
「じゃあ、今は一針?」
「そうですね」
アルヴィスが、二人の会話を聞いている。
「悠長だな」
「急いで引けば、糸は絡みます」
「俺の呪いを、練習布と同じにするな」
「同じにはしておりません」
「では、何だ」
「公爵様にも、一針ずつ進んでいただきます」
「また実験か」
「大切な依頼人です」
「それを言えば納得すると思うな」
「嫌ですか?」
アルヴィスは答えない。
いつもの沈黙。
ニナが顔を上げる。
「嫌とは言ってない顔」
「お前まで覚えるな」
「分かりやすいんでしょ?」
「誰が言った」
「エステル」
「ニナ!」
今度こそ、エステルの顔が熱くなった。
アルヴィスがこちらを見る。
「俺は分かりやすいのか」
「お嫌なことは、という意味です」
「好きなものは?」
「曲線を縫ってください、ニナ」
「またごまかした」
「練習へ集中を」
ニナは笑いながら針を進める。
アルヴィスは、しばらくエステルを見ていた。
やがて、青灰色の袖へ視線を落とす。
「三日」
「え?」
「次の祝福だ」
エステルの手が止まった。
「お試しになるのですか?」
「黒糸が、祝福へどう反応するかも確かめる必要がある」
「研究のため?」
「そうだ」
「本当に?」
「その聞き方をするな」
けれど、今度ははっきりと選んだ。
一晩の次。
三日。
「承りました」
エステルは微笑んだ。
「では、公爵様。次の祝福は、三日間を目指します。その間、何を受け取れるようになりたいのか、ご自身でお選びくださいませ」
「今、決めるのか」
「願いは、具体的でなければ宿りません」
「面倒だな」
「仕立ては、面倒なものです」
ニナが先に答えた。
アルヴィスは、ますます不機嫌そうな顔をする。
けれど、帰ろうとはしなかった。
裁断台の上。
二本目の曲線が、少しずつ滑らかになっていく。
母の針も。
黒い糸も。
公爵の次の祝福も。
まだ、答えは見えない。
それでも、一針目はもう入っていた。




