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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

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第14話 三日間、受け取るもの

「三日間、何を受け取りたいか」


 そう尋ねた瞬間、アルヴィスは、祝福の針を向けられたときよりも険しい顔をした。


 前日の監査が終わったあとの店。


 裁断台の上には、ニナが縫った二本目の曲線。


 棚には、形を写し取られた母の針。


 そして、アルヴィスの手には、次の祝福の前金として置いていった金貨の箱がある。


「三日保つ服を作ればいい」


「それは、服へのご希望です」


「前にも聞いた」


「では、前と同じようにお答えくださいませ」


「白い薔薇の次を選べと?」


「はい」


「必要ない」


「三日をお試しになると、ご自分でおっしゃいました」


「研究のためだ」


「研究でも、願いは必要です」


 アルヴィスは、裁断台の前で黙り込んだ。


 ニナは少し離れた椅子に座り、白い木綿へ三本目の曲線を縫っている。


 聞いていないふりをしているが、針の動きが先ほどから止まっていた。


「何でもいいのでは?」


 アルヴィスが言う。


「何でも、では宿りません」


「寒くない服」


「公爵様は、今の外套で寒くありません」


「動きやすい服」


「今の外套は、悪くないのでしょう?」


 以前、本人がそう言った。


 アルヴィスの眉が寄る。


「覚えているのか」


「仕立て師は、寸法と言葉を覚えます」


「それ、何回目?」


 ニナが口を挟んだ。


「曲線へ集中してくださいませ」


「もう終わった」


 布を持ち上げる。


 最初よりずっと滑らかな線になっていた。


 ただ、最後の三針だけ間隔が狭い。


「ここ、急ぎましたね」


「公爵が全然決めないから」


「俺のせいにするな」


「だって、何か欲しいものないの?」


「ない」


「食べ物は?」


「必要なものは食べる」


「本は?」


「読む」


「花は?」


「枯れる」


「手紙は?」


 その一言で、アルヴィスの視線が止まった。


 ニナも気づいたらしい。


「手紙、あるんだ」


「ない」


「今、顔に出た」


「出ていない」


「エステル、公爵って分かりやすいね」


「ニナ」


 エステルはたしなめながらも、アルヴィスを見た。


「お手紙を、受け取られるのですか?」


「公爵家に届く文書は、毎日ある」


「公務の書類ではなく?」


「同じだ」


「違う顔」


 ニナがまた言う。


「お前は黙って縫え」


「終わったってば」


 アルヴィスは深く息を吐いた。


「領地から、月に一度、箱が届く」


「どのような?」


「報告書と、手紙だ」


「どなたからの?」


「北部の学校にいる子どもたち」


 エステルは少し驚いた。


「公爵様の領地に、学校が?」


「五年前に作った」


「公爵様が?」


「税収に余裕が出た。冬のあいだ、子どもを鉱山へ働きに出す家が多かったからだ」


「学校へ通えるようになったのですね」


「一部だけだ」


 アルヴィスは、まるで自分のしたことではないように淡々と答える。


「教師が、月の報告と一緒に子どもの手紙を入れる」


「お礼の?」


「ほとんどは、読めない字だ」


「それでも、お手紙ですわ」


「開けば傷む」


 声が低くなった。


「箱の蓋を開けた時点で、紙が変色する。手へ取れば、文字が滲む。読めたものは、ほとんどない」


「何箱ほど?」


「三年分」


 エステルは息を呑んだ。


「ずっと、保管されているのですか」


「捨てろとは言っていない」


「でも、読めない」


「ああ」


 受け取ることができない。


 贈り物だけではない。


 言葉さえも。


 子どもたちが、一生懸命書いた文字も。


「三日で、すべて読めますか?」


「無理だ」


「では、一箱」


「今月分は、昨日届いた」


「何通ほど?」


「二十七通」


「三日あれば?」


「仕事がなければ」


「お仕事をなさりながら、お読みください」


「簡単に言うな」


「一通ずつでよいのです」


 エステルは、裁断台の上の紙へ書いた。


『三日間、受け取った言葉が、読み終えるまで消えませんように』


 アルヴィスが紙を見る。


「俺のためではない」


「何がです?」


「子どもの手紙を残すためだ」


「公爵様が読むためでしょう?」


「報告の一部だ」


「お礼は、公務ではございません」


「領民からの声だ」


「では、なぜ三年分を捨てなかったのです?」


 アルヴィスは答えない。


 ニナが、静かに言った。


「読みたかったんでしょ」


「……」


「捨てなかったなら」


「子どもが書いたものを、勝手に捨てる必要がなかっただけだ」


「それを、読みたかったって言うんじゃない?」


「違う」


「公爵様」


 エステルは紙を、彼のほうへ向けた。


「この願いで、よろしいですか?」


「俺が選ぶ必要があるのだったな」


「はい」


「なら、一つ変えろ」


「どこを?」


「読み終えるまで、ではない」


 アルヴィスは少し考えた。


「返事を書くまでだ」


 エステルの胸が、わずかに温かくなる。


「お返事を?」


「届いたものへ、返すだけだ」


「二十七通すべてに?」


「短くていい」


「それでも、三日では大変ですわ」


「お前が三日を目指せと言った」


「はい」


「なら、三日で終える」


 命令のような声。


 けれど、アルヴィス自身が選んだ。


 何を受け取りたいか。


 受け取ったあと、どうしたいか。


 白い薔薇のときよりも、一歩先の願いだった。


「承りました」


 エステルは、紙へ書き直した。


『三日間、受け取った言葉が、公爵様がお返事を書くまで消えませんように』


「公爵様」


「何だ」


「どの服へ、縫いましょう」


「外套では駄目なのか」


「一着につき、一つの祝福です。外套の祝福は、すでに役目を終えておりますが、同じ服へ別の願いを重ねるのはお勧めしません」


「なぜ」


「前の縫い目に、役目を終えた記憶が残るからです」


「記憶?」


「布の癖、と考えてください」


 祝福がほどけたあとも、糸の通った穴は残る。


 一度目の願いと、二度目の願い。


 役目が異なれば、引かれる方向も異なる。


 同じ服へ何度も祝福を縫えば、布そのものが疲れてしまう。


「では、新しく作る」


「どのような服を?」


「任せる」


「また?」


 ニナが呆れた声を出す。


「選ばないと壊れるんでしょ」


「すべて選ぶ必要はない」


「少なくとも、着る場面を」


 エステルが尋ねる。


「お手紙を読むのは、公爵邸の書斎でしょうか」


「ああ」


「外套は、お召しにならない?」


「室内では脱ぐ」


「では、上着か胴着」


「上着は、机で邪魔になる」


「胴着になさいます?」


「どちらでも」


「色は?」


「黒」


「布は?」


「丈夫なもの」


「留め具は?」


「少ないほうがいい」


 以前より、答えが早い。


 選ぶことそのものに、少し慣れてきたのかもしれない。


「襟は?」


「低く」


「理由は?」


「下を向いて読む」


「よくできました」


「子ども扱いするな」


 ニナが笑った。


「でも、前より選べてる」


「お前は曲線を縫え」


「次、何本?」


「あと二本です」


「エステルまで」


 ニナは文句を言いながら、また針を持った。


 エステルは、黒い胴着の構想を紙へ描く。


 机へ座っても腹部を締めつけない。


 右脇腹の古傷へ当たらない。


 手紙を入れるための内ポケットを、左胸へ一つ。


 ただし、すべての手紙を入れる必要はない。


 祝福は、服を着た人と、受け取った言葉の間をつなぐ。


 箱を開き、一通ずつ読むだけでよい。


「採寸は、今の外套の記録を使えます」


「仮縫いは?」


「一度は必要です」


「いつ」


「明日」


「完成は?」


「明後日の朝」


「三日目から数えるのか」


「完成して、お手紙の箱を開けた瞬間からです」


「時間を測るのか」


「もちろん」


「また瓶へ糸を入れる?」


「役目を終えれば」


「研究熱心だな」


「大切な依頼人ですから」


 いつもの答え。


 アルヴィスは何も言わなかった。


 けれど、以前のように嫌そうな顔もしなかった。


 むしろ、裁断台の紙へ視線を落とし、内ポケットの位置を指す。


「右ではなく、左か」


「右手で手紙を取るなら、左胸のほうが自然です」


「机では、紙へ当たらないか」


「少し上へ置きます」


「留め具は要らない」


「落ちます」


「座って読む」


「立ち上がることもあるでしょう」


「では、紐」


「細い革紐なら」


「それでいい」


 選んでいる。


 ニナが、縫いながら小声で言った。


「公爵、楽しそう」


「どこがだ」


「服の話、いっぱいしてる」


「必要だからだ」


「嫌とは言ってない」


「その言葉を使うな」


 アルヴィスは、本当に不機嫌そうな顔をした。


 だが、帰る前に、紙へ描いた胴着をもう一度見た。


「明日、来る」


「お待ちしております」


「手紙の箱は、完成後に持ってくる」


「公爵様がお持ちになるのですか?」


「使用人が触れたまま渡せば、善意が重なる」


「なるほど」


 贈り物を丁寧に運ぶ。


 傷まないよう包む。


 それさえも、彼の呪いには負担となる。


「箱は、俺が持つ」


「重くは?」


「紙だぞ」


「三年分ではなく、今月分だけですね」


「二十七通だ」


「忘れておりませんわ」


 アルヴィスは扉へ向かう。


 三度叩いて来た人が、三日間の願いを選んで帰っていく。


 エステルは、その背中を見送った。



 翌日。


 仮縫いは、これまでで最も短く終わった。


 触れない採寸も。


 印つけ棒も。


 アルヴィスはすでに慣れている。


「右腕を前へ」


「こうか」


「もう少しだけ」


「棒で突くな」


「印をつけております」


「同じだ」


「違います」


 ニナは裁断台の端で、笑いをこらえている。


「何だ」


「いつも同じこと言ってる」


「黙って糸を分けろ」


「エステルの店だけど」


「公爵様」


「なぜ俺だけ止める」


「ニナは、今きちんと仕事をしております」


 黒い胴着のしつけ糸を、長さごとに分ける役目。


 ニナは、もう古い糸と新しい糸を見分けられる。


 擦れた部分。


 まだ使える部分。


 一つずつ確かめ、小皿へ置く。


「この青い糸、使わないの?」


 ニナが尋ねる。


 青灰色の外套に使った糸の残りだった。


「今回は黒です」


「中だけ青にしたら?」


「なぜ?」


「公爵の外套と同じ色だから」


「見えない場所へ?」


「うん」


 エステルは、胴着の裏側を考える。


 表は黒。


 内ポケットの口だけ、青灰色。


 手紙を入れる場所。


 本人にしか見えない色。


「公爵様は、いかがです?」


「好きにしろ」


「選んで」


 ニナがすぐに言った。


「……青でいい」


「理由は?」


「外套の端切れが余っているなら、使えばいい」


「それだけ?」


「それだけだ」


 また、少し早すぎる答え。


 けれど、拒まない。


 エステルは青灰色の細い布を、内ポケットの縁へ当てた。


「では、こちらで」


 仮縫いの胴着は、一刻保った。


 二刻。


 三刻。


 祝福はまだ入っていない。


 それでも、ほどけない。


 アルヴィスは、もう驚いた顔をしなかった。


 着られる服が残ることに、少しずつ慣れている。


 そのことが、エステルには何より嬉しかった。


「明日の朝、完成させます」


「眠れ」


「今回は、眠ります」


「本当に?」


「その聞き方は、私のものですわ」


「前に徹夜した」


「反省しております」


「顔が反省していない」


「目が笑ってる」


 ニナが言う。


「ニナ」


「二人とも分かりやすい」


「一緒にするな」


「一緒にしないでくださいませ」


 声が重なった。


 ニナがますます笑う。



 翌朝、黒い胴着が完成した。


 表地は、薄手の黒い毛織り。


 机へ座っても邪魔にならない丈。


 低い襟。


 右脇腹には柔らかな余裕。


 左胸の内側に、青灰色の縁取りをしたポケット。


 留め具は、黒い小さな釦を三つだけ。


 飾りはない。


 それでも、体へ沿う線は美しく整っていた。


「公爵様、思ったより細いね」


 ニナが人台の胴着を見る。


「何と比べたのです?」


「怖いから、もっと大きいと思ってた」


「怖さと体格は関係ございません」


「でも、肩は広い」


「姿勢がよいのです」


「よく見てるね」


「採寸しましたから」


「触ってないのに?」


「一目裁ちです」


「それ、公爵ばっかり見てるってこと?」


 エステルの手から、ボタンが一つ落ちた。


「違います」


「落とした」


「手が滑っただけです」


「顔赤い」


「糸を切ってくださいませ」


 ニナはにやにやしながら、糸切り鋏を渡した。


 昼前。


 アルヴィスが、木箱を抱えて店へ来た。


 本当に、自分で持っている。


 箱は大きくない。


 だが、蓋には何度も補修した跡がある。


「こちらが?」


「今月分だ」


 裁断台へ置く。


 木箱の角が、わずかに黒ずんでいる。


 それでも、まだ形は保っていた。


「先に、胴着を」


 アルヴィスは衝立の向こうへ入った。


 しばらくして、黒い胴着姿で出てくる。


 外套よりも、体の線がよく分かる。


 肩。


 腰。


 右側だけ少し浅い呼吸。


 エステルは、思わず見つめすぎてしまった。


「何だ」


「寸法を確認しております」


「昨日もした」


「完成後の確認です」


「目が泳いでる」


 ニナが言う。


「泳いでおりません」


「店から出すぞ」


 アルヴィスが低く言うと、ニナは口を押さえた。


 けれど、目は笑っている。


「着心地は?」


「問題ない」


「内ポケットへ手を」


 アルヴィスが右手を入れる。


 青灰色の縁が、指先の横から少しだけ見える。


「取りやすい」


「革紐で口を閉じられます」


「要らないときは?」


「内側へ隠せます」


「悪くない」


 二度目の、悪くない。


 エステルは胸の中で、そっと受け取った。


「では、祝福を縫います」


 母の針を取り出す。


 黒い糸。


 ただし、教会の黒糸とはまるで違う。


 光を吸う黒ではない。


 灯りを受ければ、わずかに艶の出る、普通の絹糸。


「紛らわしくない?」


 ニナが尋ねる。


「黒い服へ縫うので」


「青じゃ駄目なの?」


「祝福を目立たせる必要はありません」


「見えないところだから?」


「ええ」


 けれど、エステルは少し考えた。


 母の試し布。


 黒い糸への恐れ。


 アルヴィスの呪い。


 今、黒を使うことに、自分自身が迷っている。


「公爵様」


「何だ」


「糸の色を、選び直しても?」


「黒ではないのか」


「願いを縫う糸です。公爵様が、嫌でなければ」


 黒。


 青灰色。


 白。


 三つの糸巻きを並べる。


 アルヴィスは、迷わず青灰色を選んだ。


「これだ」


「理由は?」


「文字は黒い。祝福まで黒である必要はない」


 エステルは頷いた。


「承知しました」


 青灰色の糸を、青白い針へ通す。


 アルヴィスが選んだ色。


 子どもたちの手紙。


 二十七通。


 三日間。


 読み。


 受け取り。


 返事を書くまで。


 エステルは、内ポケットの縁へ針を入れた。


「三日間」


 一針。


「子どもたちから届いた言葉が」


 二針。


「公爵様に読まれ」


 三針。


「お返事を書き終えるまで、消えませんように」


 糸が光った。


 前の祝福より、少し強い。


 青灰色の光が、内ポケットを一周する。


 そこから、胴着全体へ薄く広がる。


 アルヴィスが、わずかに息を止めた。


「痛みますか?」


「違う」


「何か?」


「温かい」


 初めての反応だった。


「どこが?」


「胸のあたりだ」


 内ポケット。


 受け取った言葉を入れる場所。


「苦しくは?」


「ない」


「では、箱を」


 アルヴィスが蓋へ手を掛ける。


 エステルとニナは、少し離れて見守った。


 蓋が開く。


 以前なら、その瞬間に紙が黄ばみ始めたはずだ。


 けれど、何も起こらない。


 白い封筒。


 色の違う紙。


 幼い字。


 一番上には、大きな青い文字で書かれている。


『こうしゃくさまへ』


「残っています」


 エステルが言う。


「見れば分かる」


 アルヴィスは、一通目を手に取った。


 紙は変色しない。


 文字も滲まない。


 封筒を開く。


 中の便箋には、短い文章と、黒い鳥の絵。


「何と?」


 ニナが尋ねる。


「読む必要はない」


「聞きたい」


「他人の手紙だ」


「じゃあ、笑った理由だけ」


「笑っていない」


「口、ちょっと動いた」


 アルヴィスは手紙を折り直した。


「公爵家の紋章を描いたらしい」


「黒い鳥ですか?」


「本当は鷹だ」


 便箋の絵は、どう見ても丸い黒い鳥だった。


「かわいいですわね」


「鷹には見えない」


「公爵様に似ています」


「どこが」


「黒くて、少し怒っているところ」


「怒っていない」


「やっぱり分かりやすい」


 ニナが笑う。


 アルヴィスは手紙を内ポケットへ入れた。


 青灰色の縁が、淡く光る。


 受け取った。


 祝福は、ほどけない。


「一通目です」


「二十七まで数えるつもりか」


「もちろんです」


「仕事へ戻れ」


「私は仕立て師です。着用後の確認も仕事です」


「三日間、ここで見ているつもりか」


「公爵邸へ伺っても?」


「来るな」


「では、朝と夜に状態をお知らせください」


「使いを出す」


「ご本人の言葉で」


「面倒だな」


「三日を選ばれたのは、公爵様です」


 アルヴィスは、一通目を胸へ入れたまま店を出た。


 その日の夜、短い手紙が届いた。


『九通読んだ。まだ消えていない』


 翌朝。


『十六通。返事は七通』


 その夜。


『二十二通。返事は十五通。教師の報告書が長い』


 エステルは、届くたび紙へ時間を記録した。


 ニナは、それを横から覗き込む。


「公爵、ちゃんと返事書いてる」


「はい」


「短くていいって言ってたのに、遅いね」


「丁寧に書いていらっしゃるのでしょう」


「字、きれいそう」


「おそらく」


「見たことないの?」


「注文書の署名だけです」


「今度、手紙もらえば?」


「なぜ、私が」


「返事書く練習」


「私は、手紙を書けます」


「公爵が受け取る練習」


 エステルは言葉に詰まった。


「曲線を縫ってくださいませ」


「またごまかした」


 三日目の夕方。


 約束の時刻になっても、使いは来なかった。


 日が傾く。


 路地に長い影が伸びる。


「ほどけたのかな」


 ニナが窓を見る。


「まだ、三日目は終わっておりません」


「でも、最後の手紙まで読めた?」


「分かりません」


 エステルも落ち着かなかった。


 針を持っても、同じ場所へ二度刺しそうになる。


 扉の外で馬の蹄が止まった。


 黒い馬。


 グリム。


 背から降りたアルヴィスは、青灰色の外套の下に黒い胴着を着ている。


 手には、空になった木箱。


「公爵様」


「二十七通、読んだ」


「お返事は?」


「二十六通」


「あと一通」


「ああ」


 アルヴィスは店へ入る。


 表情が、いつもより少し硬い。


「何かございました?」


「最後の一通が、書けない」


「なぜ?」


「質問された」


「どのような?」


「答える必要はない」


「では、祝福は役目を終えません」


「分かっている」


 彼は、最後の手紙を内ポケットから出した。


 紙はまだ白い。


 子どもの字。


 一部は大きく、一部は小さい。


「読んでも?」


「駄目だ」


「では、質問だけ」


「……」


「公爵様」


「『こうしゃくさまは、ひとりでさびしくないですか』」


 店内が静まった。


 ニナも、何も言わない。


 アルヴィスは手紙を見ている。


「七歳の子どもだ」


「ルカと同じ」


 ニナが小さく言う。


「何と、お返事を?」


「必要な者はいる、と書けばいい」


「書けないのですね」


「嘘ではない」


「でも、答えではない」


 エステルは、静かに言った。


「寂しくないのですか?」


「その質問へ、答える義務はない」


「私ではなく、お手紙へです」


「同じだ」


「違います」


「七歳の子どもに、何を書けばいい」


「公爵様がお選びください」


「また、それか」


「受け取った言葉へ、返すのでしょう?」


 アルヴィスは椅子へ座った。


 以前、夜通し見張ったときと同じ椅子。


 背もたれは使わない。


 ニナは、裁断台の上の練習布を片づけた。


「わたし、外にいる」


「なぜ?」


「見ちゃ駄目な手紙もあるでしょ」


 少女は扉の外へ出た。


 鍵は閉めない。


 エステルとアルヴィスが残る。


 夕方の光。


 窓辺の黄色い花。


 黒い胴着の内側で、青灰色の糸が淡く光っている。


「公爵様」


「何だ」


「白い薔薇を受け取った夜は、どうでした?」


「何の話だ」


「公爵邸へ戻ってから」


「水差しへ挿した」


「そのあとは?」


「見た」


「どのくらい?」


「何度か」


「お一人で?」


「ああ」


「寂しかったですか?」


「質問を変えろ」


「では、嬉しかったですか?」


 アルヴィスは黙った。


 エステルは急かさない。


 時計が一つ鳴る。


 やがて、彼は手紙を机へ置いた。


「花が、朝まで残った」


「はい」


「次の日も、少し」


「はい」


「使用人が、何度も見に来た」


「皆様、嬉しかったのでしょう」


「大げさだ」


「公爵様は?」


「……悪くなかった」


 三度目の、悪くない。


 今度は、服ではない。


 受け取ったものが、残った時間。


「では、そのように」


「七歳へ、『悪くない』と書けと?」


「公爵様らしいと思います」


「子どもが困る」


「もう少し、分かりやすく」


「お前が書け」


「公爵様のお返事です」


 アルヴィスは羽根ペンを持った。


 紙へ一度、何かを書く。


 止まる。


 また書く。


 最後に、短い文章を読み返した。


「何と?」


「教えない」


「祝福が反応するか確かめなくては」


「見れば分かる」


 青灰色の糸が、強く光った。


 手紙の上にも、淡い光が落ちる。


 アルヴィスが返事を折り、封筒へ入れる。


 その瞬間。


 内ポケットから、青灰色の糸が一本ほどけた。


 ゆっくりと。


 光をまとい。


 床へ落ちる。


「三日」


 エステルが呟いた。


「正確には、二日と二十二刻ほどだ」


「三日目です」


「お前の数え方は大雑把だな」


「一晩より、ずっと長いですわ」


 祝福は役目を終えた。


 けれど、胴着はほどけない。


 最後の手紙も。


 二十七通の返事も。


 すべて、形を保っている。


「お返事は、何と?」


「教えないと言った」


「では、子どもから次のお手紙が届いたら、分かるかもしれませんね」


「教師に、余計な質問をさせるなと書く」


「それは、お嫌なのですか?」


「面倒だ」


「嫌とは言っていない」


 扉の外から、ニナの声。


「聞いていたのですか!」


「扉の外にいるだけ」


「盗み聞きですわ」


「聞こえる声で話してた」


 アルヴィスが低く言う。


「俺と同じことを言うな」


「やっぱり似てる」


 ニナが店へ戻る。


 床へ落ちた青灰色の糸を見る。


「これが、三日?」


「ええ」


「次は一週間?」


 アルヴィスとエステルが、同時にニナを見る。


「何?」


「勝手に決めるな」


「まだ、早いです」


「でも、一晩、三日って来たら、次は一週間でしょ」


「研究の順番としては」


 エステルが言いかけると、アルヴィスの視線が刺さる。


「研究?」


「いずれ、という意味です」


「前金は、まだ残っている」


「公爵様」


「だが、今は必要ない」


 以前と同じ言葉。


 一晩で十分だ。


 今は。


 三日で十分だ。


 今は。


「承知しました」


 エステルは、役目を終えた糸を拾った。


 一晩の糸が入った硝子瓶へ、二本目を落とす。


 青灰色。


 隣り合う二本。


 紙へ記録する。


『アルヴィス・ヴァルクレイ公爵。

 二度目の祝福——三日。

 二十七通の手紙を読み、すべてへ返事を書くまで』


「すべて、ではない」


「二十七通へ、お返事を?」


「書いた」


「では、すべてです」


「最後の内容は記録するな」


「秘密にいたします」


 アルヴィスは空の木箱を持ち上げた。


 帰ろうとした、そのとき。


 扉の外から、馬車が急停止する音が響いた。


 すぐに、足音。


 扉が強く叩かれる。


 三度ではない。


 一度。


 激しく。


「エステル・ラヴィニア殿!」


 聞き覚えのある声だった。


 ギルドの職員。


 エステルが扉を開ける。


 立っていたのは、ヴィオラ・セルジュだった。


 いつもの完璧な服が、珍しく乱れている。


 黒髪も、頬へ一筋落ちていた。


「ヴィオラ様?」


「ベルナール監査官から伝言」


「教会の針が」


 ヴィオラは息を整える。


「消えた」


「消えた?」


「宝物庫の箱は封印されたまま。鍵も壊れていない」


「では、中は?」


「針の代わりに、黒い糸が一本入っていた」


 店内の空気が凍った。


 アルヴィスが一歩前へ出る。


「いつ入れ替わった」


「分からない。最後に箱を開けた記録は十年前」


「ロデリック司祭は?」


「姿が見えない」


 黒い測定糸を持っていた司祭。


 監査のあと、教会へ戻ったはずの男。


「逃げたのですか」


「まだ、そうと決まったわけではない」


 ヴィオラは言った。


 けれど、その顔は、逃げた可能性を強く考えている。


「それだけではない」


「何が?」


「宝物庫の記録簿に、今日の日付で追記があった」


「どのような?」


 ヴィオラの目が、裁断台の上の母の箱へ向く。


「『本物は、路地裏へ戻った』」


 誰かが。


 エステルの店に母の針があると知っている。


 そして、教会の針が消えた日に、その言葉を残した。


 ニナが、扉の鍵へ手を伸ばした。


「閉める」


 今度は、誰にも言われずに。


「今日は、もう誰も入れない」


 エステルは止めなかった。


 扉が閉じる。


 鍵が掛かる。


 外では、夕暮れの路地に馬車の音が残っている。


 店の中。


 母の針。


 三日間の祝福を終えた糸。


 黒い胴着。


 そして、教会から消えた二本目の針。


「本物は、路地裏へ戻った」


 エステルは、その言葉を繰り返した。


 戻った。


 誰が、戻したのか。


 母なのか。


 母を陥れた者なのか。


 それとも、十年間、二本の針を見張っていた誰かなのか。


 アルヴィスが、青灰色の外套の内側へ手を入れた。


 二十七通の返事。


 受け取ったものを、返すための言葉。


「今夜は、一人になるな」


「はい」


「ニナもだ」


「分かってる」


「ヴィオラ」


「何」


「ベルナールは安全か」


「ギルド本部にいる。護衛も付けた」


「お前は?」


「伝言を届けに来ただけ」


「戻るなら、護衛を付ける」


「必要ない」


「必要だ」


「公爵に命令される立場では」


「黒糸が何をするか、見ただろう」


 ヴィオラは口を閉じた。


 ニナが小声で言う。


「公爵、心配してる」


「安全確認だ」


「嫌とは言ってない顔」


「その言葉を使うな」


 緊張の中で、ほんの少しだけ空気が緩む。


 けれど、エステルは笑えなかった。


 母の針を握る。


 青白い光は、いつもと変わらない。


 祝福を縫う針。


 願いを形にする道具。


 それを、本物と呼んだ誰かがいる。


 三日間。


 アルヴィスは、二十七通の言葉を受け取った。


 同じ三日の終わりに。


 今度はエステルのもとへ、黒い糸で縫われた新しい謎が届いた。


 受け取った以上。


 今度は、自分が返事を探さなくてはならない。

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― 新着の感想 ―
アルヴィス公爵の不器用ながらも少しずつ「受け取る」ことを覚えていく姿が、とても温かく描かれていました。二十七通の手紙を通じて心が変化していく過程に感動しました。最後の黒い糸の謎も気になり、次回への期待…
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