第15話 閉じた扉の内と外
ニナが扉の鍵を掛けると、路地裏の仕立て屋は、急に息を潜めたように静かになった。
外には、夕暮れの路地。
内側には、エステル、アルヴィス、ニナ、ヴィオラ。それから、公爵家の法務官ユリウス。
裁断台の上には、青白い祝福の針。
硝子瓶の中には、一晩と三日を保った二本の青灰色の糸。
そして、教会の宝物庫から消えた、もう一本の針。
『本物は、路地裏へ戻った』
ヴィオラが伝えた言葉は、閉じた店の中へ重く残っていた。
「窓も閉める」
ニナが言い、入口脇の窓へ向かう。
「待ってください。外を確認してからです」
ユリウスが細い隙間から路地を見た。
アルヴィスは、窓辺の黄色い花から一歩距離を取る。
以前なら、それだけで花弁が萎れた。けれど今は、夕方の風に小さく揺れただけだった。
「目立った人影はありません」
「公爵家の護衛を置く」
アルヴィスが即座に言った。
「屋根に二人。路地の両端に一人ずつ」
「兵士が立ったら、店に何かあるって教えてるようなものだよ」
ニナが窓の留め金へ触れながら言う。
「商人や酔客に見える格好をさせる」
「さっき屋根にいた人、剣の柄が見えてた」
「どこから?」
「雨樋の横」
ユリウスが外を確認し、少しして額へ手を当てた。
「交代させます」
「ニナを護衛に雇えば?」
ヴィオラが言った。
「見つけるほうではなく、入るほうが得意です」
エステルが答える。
「今は、閉めるほうも得意」
ニナは胸を張った。
そのとき、閉めたばかりの扉が二度叩かれた。
こん、こん。
「誰?」
ニナの声が鋭くなる。
「私! リリ!」
明るい声が扉の外から返ってきた。
エステルは、思わずアルヴィスと顔を見合わせた。
「合言葉は?」
ニナが尋ねる。
「そんなの知らないよ!」
「じゃあ、入れない」
「黄色い花を三本! あと、ベッシーおばさんから丸パン!」
「本人らしいですわ」
「花の数で決めるのか」
アルヴィスが呆れたように言う。
ユリウスが小窓から外を確認した。
「少女一人です。ほかに人影はありません」
ニナが障害物を少し動かし、扉を細く開けた。
リリは花籠と紙袋を抱えたまま、隙間から体を滑り込ませる。
「何これ。お店じゃなくて要塞みたい」
扉が閉まると、彼女は店内を見回した。
アルヴィス。
ヴィオラ。
ユリウス。
そして、見覚えのないニナ。
「人がいっぱい」
「今日は、少し事情がございまして」
「お姉さん、また何かに巻き込まれたの?」
「また、とは何です?」
「公爵様が来るようになってから、よく難しい顔してるから」
「俺のせいか」
「半分くらい?」
リリは悪びれずに答え、ニナを見た。
「この子、誰?」
「ニナ」
「リリ」
二人は短く名乗り合う。
「花売り?」
「うん。ニナは?」
「……縫い物を習ってる」
「弟子?」
「違う」
「まだ、弟子ではございません」
エステルが付け足すと、ニナが振り返った。
「そこ、毎回言うの?」
「大切な違いです」
「じゃあ、未来の弟子?」
リリが尋ねる。
「違うってば」
「顔、ちょっと嬉しそう」
「嬉しくない」
初対面なのに、リリは遠慮がない。
ニナは警戒する猫のように目を細めたが、本気で怒ってはいなかった。
「リリ。今日は、なぜこちらへ?」
「花を替えに来たの。朝からお店が変だったから」
「変?」
店内の空気が、再び張り詰める。
リリは花籠から黄色い花を三本取り出し、古い花瓶のそばへ置いた。
「昼前に、黒い服の男の人がいた」
「どこに?」
「路地の入口。お花を一本買った」
「どのような方でした?」
「顔はあんまり見えなかった。帽子を深くかぶってたから。でも、靴が変だった」
「靴?」
ヴィオラが問い返す。
「すごくきれいなのに、左だけ白い粉が付いてた。教会の人が履くみたいな、先の細い黒い靴」
「なぜ、教会のものだと分かる」
アルヴィスが尋ねる。
「中央教会の前で花を売ると、同じ靴の人がたくさん通るから」
リリは当然のように答えた。
「花売りをしていると、顔より靴を覚えるの。みんな、花を見るとき下を向くから」
ニナが少しだけ感心した顔をする。
「その男は、何を?」
ユリウスが尋ねた。
「白い花を一輪。お金を多くくれた。それから、この仕立て屋は夜も人がいるのかって」
「何と答えました?」
「知らないって言った」
「よくできました」
「でも、男の人は知ってたみたい。お姉さんが店で寝てるって」
エステルの背中に、冷たいものが走った。
床へ毛布を敷いて眠っていることは、客にも話していない。
アルヴィスの顔から表情が消えた。
「ほかには」
「店をずっと見てた。私が向かいへ移動したら、路地の奥に入っていった」
「店の近くまで?」
「うん。でも、戻ってきたときにはいなかった」
「何時ごろです?」
「昼の鐘が鳴る少し前」
その時間、エステルたちは店にいた。
教会の針が消えたと判明するより前だ。
少なくとも、誰かはすでに店を見張っていた。
「なぜ、すぐ教えなかったのです?」
「怪しいとは思ったけど、お客さんかもしれないでしょ。それに、扉が閉まってたから、ベッシーおばさんのところへ先に行ったの」
リリは紙袋を持ち上げる。
「丸パンと、スープを温め直すようにって」
「ありがとうございます」
エステルは受け取りながら、紙袋の温かさに少しだけ肩の力を抜いた。
路地の外には、いつもの暮らしがある。
不穏な黒い糸だけではない。
パンを焼く人。
花を売る人。
店を気に掛ける人がいる。
「この子、ここにいて大丈夫なの?」
ニナがリリを見た。
「何が?」
「危ないかもしれない」
「ニナもいるじゃん」
「わたしは……」
ニナは言葉に詰まった。
危険に慣れているから。
鍵を開けられるから。
そう言いかけたのだろう。
「二人とも、今夜は安全な場所にいていただきます」
エステルが言った。
「私は帰らない」
ニナが即座に答える。
「ルカ君は?」
ニナの顔色が変わった。
「染物小屋にいる」
教会から針が消えた。
黒い糸を持っていたロデリック司祭も、姿が分からない。
店が狙われているなら、ニナの弟や、ほかの子どもたちへ危険が及ぶ可能性もある。
「すぐ迎えに行く」
「一人では駄目です」
「でも、兵士が行ったら、みんな逃げる。役人に見つかったら追い出されると思うから」
「私が同行する」
アルヴィスが言った。
「公爵様は、顔が公爵だから目立つよ」
リリが真顔で言う。
「どういう意味だ」
「偉そう」
「リリ」
「ニナも同じこと思った顔」
「思った」
「二人とも」
エステルがたしなめると、ヴィオラが短く息を吐いた。
「私がニナと行く」
彼女は白と黒の上等な外套を脱ぎ、裏返す。
内側は装飾のない濃い灰色だった。
「両面で着られるのですか」
「仕事場へ入るときや、急な汚れのため」
「考えられておりますね」
「当然」
褒めても、少しも嬉しそうな顔をしない。
「ベッシーおばさんなら、子どもを置いてくれるかも」
リリが言った。
「倉庫に粉袋があるけど、暖炉もある。私が先に話してくる」
「一人で?」
「パン屋は路地の向かいだよ」
「護衛を付けます」
ユリウスが言う。
「見えるところにいたら、みんな怖がる」
「花を買う客のふりをさせる」
「花を持ってないと変」
「では、これを」
リリは花籠から小さな束を抜き、ユリウスへ差し出した。
「護衛の人に持たせて。笑わなくていいけど、剣を見せないように」
公爵家の法務官が、花束を受け取ったまま数度瞬きをした。
「承知しました」
「リリは、ベッシーさんへ事情を伝えたら、そちらにいてください」
エステルが言う。
「お姉さんは?」
「店に残ります」
「一人じゃない?」
「はい」
リリはアルヴィスとユリウスを見た。
「公爵様、ちゃんとお姉さんを守ってね」
「言われるまでもない」
即答だった。
今度はエステルが、アルヴィスを見る番だった。
「何だ」
「いいえ」
「顔が赤い」
ニナが言う。
「今は、その話ではございません」
ヴィオラとニナが染物小屋へ。
リリは向かいのパン屋へ。
それぞれに、目立たない格好の護衛を一人ずつ離して付ける。
条件を決めると、ニナが扉の鍵を開けた。
「エステル」
「はい」
「誰が来ても、すぐ開けないで」
「ニナに言われなくても」
「三回叩いても?」
リリがアルヴィスを見る。
「俺は中にいる」
「じゃあ、三回の人も入れちゃ駄目」
「分かっております」
三人が夕暮れの路地へ出る。
扉は再び閉じられ、今度はエステルが内側から鍵を確かめた。
店に残ったのは、エステル、アルヴィス、ユリウスの三人。
エステルは青白い針を黒い布へ包む。
「箱へ戻すのか」
アルヴィスが尋ねた。
「二重底は、すでに知られている可能性がございます」
「今夜は、公爵家の金属箱へ保管しましょう」
ユリウスが提案する。
「箱を床へ鎖で固定し、三者の封を」
「床に穴を?」
エステルが尋ねると、二人が同時にこちらを見る。
「何ですの?」
「今、気にするところか」
「店の床です」
「針を盗まれるよりはいい」
「あとで直してくださいます?」
「なぜ俺が」
「公爵様がお決めになったので」
「俺が釘を打てると思うのか」
「できないのですか?」
「できないとは言っていない」
「では、お願いします」
「話を進めろ」
張り詰めた空気の中でも、いつものやり取りがある。
それだけで、店がまだ自分たちの場所であるように思えた。
ユリウスが使いを出し、金属箱と鎖を手配する。
そのあいだ、エステルは裁断台の上を片づけた。
母の針。
魔写紙。
教会宝物庫の記録写し。
箱は三重の封蝋で閉じられていた。
鍵も封も壊れていない。
それなのに針は消え、黒い糸だけが残った。
「十年間、本当に一度も開けられていなかったのでしょうか」
「記録上は」
ユリウスが答える。
「なら、最初から針は入っていなかった?」
「可能性はある」
アルヴィスが記録へ目を落とす。
「リディアの針を没収したという記録そのものが偽りなら、教会の箱には最初から別の物が入っていた」
「ですが、今日の日付で追記があった」
『本物は、路地裏へ戻った』
「誰かが記録簿には触れた」
「箱を開けず、外の記録だけを書き換えた可能性もあります」
エステルは、先ほどまでいたニナを思い出した。
鍵が閉まっていても。
封が残っていても。
開けられないとは限らない。
「ニナなら、封蝋を壊さず箱を開けられるでしょうか」
「聞かないほうがいい」
アルヴィスが即座に言った。
「なぜ?」
「できると答えれば、今後すべての盗難で疑われる」
エステルは口を閉じた。
ニナの技術は役に立つ。
けれど、役立つからといって、危険なことへ使わせてよいわけではない。
「公爵家の錠前師へ調査させます」
ユリウスが言った。
「鍵を開ける専門家?」
「鍵を作る専門家です」
「ニナとは違いますわね」
「一緒にしないでください」
法務官まで、アルヴィスと同じ言い方をした。
そのとき、窓の留め金が小さく鳴った。
かちり。
三人が同時に振り返る。
窓は閉じたまま。
外に人影はない。
「風では?」
エステルが近づこうとすると、アルヴィスが前へ出た。
「待て」
「触れておりませんが、進路を塞いでいらっしゃいます」
「近づくな」
ユリウスが手袋を着け、留め金を調べる。
「緩んでいる」
「朝は、きちんと閉まっておりました」
「ニナが触ったときに?」
「いえ」
床にしゃがみ込み、窓枠を下から見る。
木の縁に、細い傷があった。
新しい傷。
外側から薄い刃を差し込み、留め金を持ち上げた跡。
「誰かが、以前に開けようとした?」
「開けた可能性があります」
ユリウスが窓を少しだけ押す。
枠の下から、何かが落ちた。
細い糸。
黒ではない。
灰色のしつけ糸だった。
「目印です」
エステルは触れずに見た。
「窓を開けたあと、元の位置へ戻せるよう挟んであった」
「仕立て師の糸?」
「どこにでもある糸です」
「だが、使い方を知っている者だ」
アルヴィスの声が低くなる。
店が閉まっているあいだに、誰かが窓から入った。
何も盗らず。
何かを置いた可能性もある。
「店内を調べます」
ユリウスが言った。
「動かした物がないか、分かりますか」
エステルは店内を見回した。
糸巻き。
鋏。
反物。
預かり物。
普段から整えてはいる。
けれど、ニナほど細かな位置までは覚えていない。
「ニナが戻るまで待ちましょう」
アルヴィスが言った。
「ですが、危険な物が」
「動かせば、痕跡が消える」
急いで糸を引けば、結び目が固くなる。
エステルは頷いた。
しばらくして、扉が決めた合図で叩かれた。
二度。
間を置いて、一度。
「リリです!」
続いて、三度。
「ニナとヴィオラ」
小窓から全員を確認してから、鍵を開ける。
ニナは店へ入るなり、エステルの顔を見た。
「何かあった?」
「窓に、外から開けた跡が」
ニナの表情が変わる。
「触った?」
「ユリウス様が確認しただけです」
「店の中は?」
「そのままです」
「よかった」
ニナは床へ膝をつき、入口から店内を見た。
立ったままではなく、低い位置から。
床板の埃。
椅子の脚。
裁断台の下。
棚の隙間。
一つずつ、目を動かす。
リリも、その隣へしゃがんだ。
「何が見えるの?」
「黙って」
「私も見たほうがいい?」
「リリは、外の話をして」
「外?」
「今日、店を見てた男。どこを歩いた?」
役割を自分から分けた。
ニナは店の内側。
リリは路地の外側。
「路地の右側。水溝を避けて、壁ぎりぎり」
「店の窓の前では?」
「止まった。黄色い花を見てた」
「どの窓?」
リリは、入口脇の窓を指した。
「そこ」
ニナが窓の下へ移る。
床板を指でなぞり、鼻を近づけた。
「蝋の匂い」
灰色の糸が落ちた場所のそばに、透明な蝋が一滴だけ固まっていた。
「窓を閉め直すため?」
エステルが尋ねる。
「違う。何かを貼った跡」
ニナは棚を見上げた。
窓の正面にある、端切れ箱。
「これ、向きが違う」
「分かるのですか」
「朝、青い布が上だった。今は茶色」
箱を動かさず、周囲を見る。
箱の下から、白い封筒の角がわずかに見えていた。
エステルの胸が鳴る。
「触らないで」
ユリウスが金属の挟みを使い、封筒を引き出した。
白い紙。
印はない。
封を閉じているのは、黒い糸だった。
リリの顔から笑みが消える。
「昼の男、その糸を指に巻いてた」
「確かですか」
「花のお金を出すときに見えた。黒い指輪かと思った」
内側の痕跡を見つけたニナ。
外側から、相手の姿を覚えていたリリ。
二人の情報が、一つの封筒へつながった。
「二人とも、よく気づきました」
エステルが言うと、ニナは封筒を睨んだまま答えた。
「盗る人は、隠した場所を何回も見る」
リリは花籠を抱き直す。
「売る人は、買う人の手と靴を見る」
「ずいぶん違う教えだな」
アルヴィスが言った。
「でも、両方必要だったでしょ」
リリが返す。
「ああ」
アルヴィスが素直に認めると、リリは少し驚いてから笑った。
「公爵様、前より話しやすいね」
「気のせいだ」
封筒は、黒い糸で紙ごと縫われていた。
エステルは母の言葉を思い出す。
『針より先に、縫い目を信じなさい』
「切らずに、ほどきます」
普通の針先を黒糸の下へ差し入れる。
一針ずつ。
縫われた順番と逆に。
「公爵様は、もう少し離れてください」
「十分だ」
「あと二歩」
「なぜ」
「黒糸が反応する可能性がございます」
「試す場面ではない、って公爵が前に言ってたよ」
ニナが言う。
アルヴィスは不満そうな顔で二歩下がった。
一針。
二針。
三針目を外した瞬間、黒糸が跳ねた。
アルヴィスのほうではない。
店の奥。
母の白い試し布を隠した壁板へ。
「重しを!」
ユリウスが金属板を被せる。
黒糸は、その下で細かく動いた。
かり、かり、と金属を擦る音。
「黒糸同士が、引かれ合っている」
アルヴィスが言う。
「公爵様の呪いだけではなく」
エステルは壁を見る。
隠した場所を知られていたのではない。
黒い糸そのものが、仲間を探した。
「これを使えば、ほかの黒糸を探せるかもしれません」
ユリウスが呟く。
「危険です」
「だが、教会の針を探す手がかりにはなる」
エステルは、ほどいた封筒を開いた。
中の紙には、短い文章。
『針を守りたければ、母の真似をするな。
三日後、鐘の鳴らない塔へ来い。
一人で。』
最後に、黒い糸で三つの波が縫われていた。
母の針と同じ、王室衣装室の印。
「罠だ」
アルヴィスが言った。
「分かっております」
「行くな」
「まだ、行くとは」
「顔に出ている」
「どのような顔です?」
「母親のことを知るためなら、罠でも行く顔だ」
否定できなかった。
「一人で行くことはできません」
「行く前提で話すな」
「公爵様なら、行かないのですか」
「行く」
「では」
「俺は、一人では行かない」
アルヴィスは即答した。
「お前も同じだ」
「手紙には一人で、と」
「従う義務はない」
「相手が現れなければ?」
「別の方法で探す」
「時間がかかります」
「急いで引けば、糸は絡むのだろう」
以前、エステルが言った言葉。
返されると、何も言えない。
「公爵様も、覚えていらっしゃるのですね」
「必要な言葉は覚える」
「仕立て師のようですわ」
「違う」
「お姉さん」
リリが、いつになく真剣な声で呼んだ。
「何でしょう」
「扉を閉めても、外から見てる人がいる」
昼の男。
屋根の護衛。
路地の住人。
花売りの少女。
「だから、一人で行ったら駄目」
「はい」
「本当に?」
エステルはアルヴィスを見る。
彼も、こちらを見ていた。
「一人では行きません」
今度は、はっきり約束した。
「よし」
リリは満足そうに頷く。
「それから、今日見た男がまた来たら、すぐ知らせます」
「近づいてはいけません」
「分かってる。遠くから見る」
「一人で追わないこと」
「それ、公爵様がお姉さんに言うのと同じ」
「今は、リリのお話です」
「約束する」
リリも、素直に答えた。
その夜、ベッシーが大きな鍋を持ってきた。
小窓から本人を確かめてから、扉を開ける。
「合言葉は?」
ニナが尋ねる。
「黒パン、丸パン、リリが昨日つまみ食いした蜂蜜パン!」
「私じゃないよ!」
「じゃあ、ニナかい?」
「わたしでもない!」
張り詰めていた店内へ、久しぶりに笑い声が広がった。
ルカたち子どもは、パン屋の倉庫へ無事に移ったという。
リリは今夜、ベッシーの家へ泊まることになった。
「また明日来るね」
「危険がなくなってからで」
「花が枯れたら困るでしょ」
リリは、新しい黄色い花を窓辺へ挿した。
アルヴィスから、少し離れた場所に。
「この花、外を見てるから」
「花が?」
「うん。お姉さんたちが中を見て、私は外を見る」
ニナが、少し考えてから言った。
「じゃあ、わたしは鍵と床を見る」
「私は縫い目を見ます」
エステルが続ける。
「俺は全体を見る」
アルヴィスが言う。
「公爵様だけ、ずるくない?」
リリが笑った。
「必要な役目だ」
「じゃあ、ちゃんと見ててね」
「ああ」
リリはベッシーとともに店を出た。
今度は、護衛が遠くから二人を見守る。
扉を閉じる。
けれど、先ほどまでの閉塞感はなかった。
内側だけで守ろうとしているのではない。
外にも、目がある。
路地にも、つながりがある。
母は、一人で黒い糸を追ったのかもしれない。
ならば、母の真似をしない方法は一つある。
一人で抱え込まないこと。
金属箱が届き、青白い針を納める。
エステルが鍵を持ち、ユリウスが封を施す。
床へ鎖を留める釘は、結局、公爵家の護衛が打った。
「公爵様ではないのですね」
「俺が打てば、床板が傷む」
「初めから、そうおっしゃればよかったのに」
「できないとは言っていない」
「嫌とは言っていない、みたい」
ニナが言う。
「その言葉を使うな」
夜が深くなる。
店は閉じたまま。
それでも、ニナの針は白い練習布を進んでいた。
一針ずつ。
急な曲線を、少しずつ向きを変えながら。
エステルは黒い手紙を見た。
三日後。
鐘の鳴らない塔。
罠だと分かっている。
けれど、そこには母の過去へつながる糸がある。
切るのではなく。
絡ませるのでもなく。
誰かと一緒に、ほどいていく。
窓辺では、リリが置いた黄色い花が夜の路地を見ていた。
閉じた扉の内側にも。
閉じた扉の外側にも。
今のエステルには、守ってくれる人と、守りたい人がいた。




