第16話 公爵様を隠す服
翌朝、路地裏の仕立て屋は、店を開ける前から人の気配で満ちていた。
表の通りには、酔いつぶれた荷運び人にしか見えない公爵家の護衛が一人。
向かいのパン屋の前には、朝から一斤のパンを選び続けている客が一人。
屋根の上には、煙突掃除人の格好をした男が一人。
昨夜、剣の柄をニナに見つけられた護衛は交代させられたらしい。
「今度の人、前よりは上手」
小窓から外を覗いたニナが言った。
「何がです?」
「隠れるのが。でも、靴がきれいすぎる」
「そこまで見なくてもよろしいのでは」
「見る役でしょ」
ニナは当然のように答えた。
昨日までなら、店の中の何かを盗まないか見張られていた少女が、今は外の見張りを見張っている。
裁断台の上には、黒い糸で縫い閉じられていた手紙。
『針を守りたければ、母の真似をするな。
三日後、鐘の鳴らない塔へ来い。
一人で。』
約束の日まで、あと二日。
エステルは手紙を布で包み、鍵のかかる引き出しへ入れた。
「本当に、店を開けるのか」
アルヴィスが尋ねた。
昨夜から一度、公爵邸へ戻ったはずだが、朝の鐘が鳴る前には再び店へ来ていた。
青灰色の外套。
黒い胴着。
いつもの、隙のない姿。
「ご注文を預かっておりますから」
「三日閉めても、服は逃げない」
「お客様は、お困りになります」
「お前がいなくなれば、もっと困る」
強い言葉だった。
エステルは返事を忘れ、一瞬だけ彼を見る。
アルヴィス自身も、少し言いすぎたと思ったのか、視線を逸らした。
「店がなくなれば、という意味だ」
「分かっております」
「顔が分かっていない」
「分かっておりますわ」
「顔、赤いよ」
ニナが小窓から戻ってきた。
「外の見張りをお願いいたします」
「今、見た」
「もう一度」
「何も変わってないって」
ニナは笑いながらも、再び小窓へ向かった。
店を閉めて隠れれば、安全になるとは限らない。
相手は、エステルが店の床で眠っていることまで知っていた。
窓から侵入し、黒い手紙を置いた。
逃げても追われるなら、慣れた場所にいたほうがよい。
何より、ここはエステルの店だ。
「午前中は、預かっている繕い物だけを仕上げます」
「客は中へ入れるな」
「採寸が必要な方も」
「延期しろ」
「公爵様」
「昨日、窓から入られた」
「ですが」
「店を開けたいなら、受付は扉の外。預かる品は護衛が確認する」
「お客様を犯罪者のように扱うことになります」
「なら、公爵家の者ではなく、ニナに見せろ」
「わたし?」
急に名前を呼ばれ、ニナが振り返る。
「隠した物があるか分かるのだろう」
「だいたいは」
「人様のお荷物を勝手に調べてはいけません」
「触らなくても見れば分かる」
「本当に?」
「その聞き方、公爵が嫌がるやつ」
「今はニナのお話です」
エステルは考えた。
ニナへ客を疑わせるのはよくない。
けれど、危険を見分ける目は、今の店に必要だった。
「品物を受け取るとき、私と一緒に状態を確認してください」
「うん」
「勝手に中身を開けないこと」
「うん」
「怪しいと思っても、すぐ泥棒と呼ばないこと」
「わたし、呼ばれたけど」
「そのことは反省しております」
「泥棒だっただろう」
アルヴィスが言う。
「公爵様は、少し黙っていてくださいませ」
「なぜ俺が」
「話が進みません」
開店札を表へ返す。
ギルドの『調査中』の紙は、まだ貼られたまま。
その下には、ニナの紙。
『祝福目当てだけの人は、帰ってください』
さらに、その隣へエステルが新しい紙を貼った。
『本日は、繕い物のお預かりのみ承ります』
最初に来たのは、パン屋のベッシーだった。
「おはよう。生きてるね」
「おかげさまで」
「昨夜は物騒だったんだって?」
「リリから?」
「詳しいことは聞いてないよ。あの子、話していいことと悪いことは案外分かってるからね」
ベッシーは大きな籠を差し出した。
中には、パン屋の前掛けが三枚。
どれも腰紐が擦れている。
「急ぎではないよ。店を開けてるなら、いつもの仕事もあるって見せに来ただけさ」
「ベッシーさん」
「怖い顔をした男が見張ってたら、普通の客は入りづらいだろう?」
外にいる護衛へ、わざと聞こえるように言う。
荷運び人に扮した男が、少しだけ顔を背けた。
「それから、これ」
小さな紙包み。
焼きたての丸パンが四つ入っていた。
「代金は」
「昨日の鍋を返すときでいい」
「それでは、いただきすぎです」
「床に穴を開けられた慰謝料だと思いな」
金属箱を固定するために打たれた釘を、ベッシーは目ざとく見つけている。
「公爵様へ請求するつもりです」
「なぜ俺に」
「まだお支払いいただいておりませんので」
「護衛が打った」
「公爵様の命令です」
「公爵って、床の穴まで払うんだ」
ニナが感心したように言う。
「払わない」
「前金から引きますわ」
「勝手にしろ」
「嫌とは言ってない」
「その言葉を使うな」
ベッシーが声を上げて笑った。
「昨日より元気そうだね」
彼女は前掛けを預け、店の奥へは入らず帰っていった。
その後も、近所の客が何人か訪れた。
子どもの靴下。
荷運び人の上着。
古い買い物袋。
誰も祝福を求めなかった。
ただ、いつものように破れた物を持ってきた。
店を心配し、用事を作って顔を見に来てくれたのだろう。
エステルは、一つずつ預かり札を書く。
ニナは、品物を受け取るたび目を細めた。
「何を見ています?」
「縫い目」
「怪しい物ではなく?」
「それも。でも、この袋、前に別の人が直してる」
「どこで分かりました?」
「糸を引く強さが途中で違う」
母の試し布。
十年前の婚礼衣装。
途中で変わった縫い目。
エステルは、買い物袋の裏を見た。
確かに、口の右側だけ針目が細かい。
「よく気づきましたね」
「エステルが、裏を見ろって言うから」
ニナは、褒められたことを隠すように顔を背ける。
「弟子みたい」
扉の外から、明るい声がした。
リリだった。
今日は黄色い花ではなく、白い小花を籠いっぱいに入れている。
「違う」
「まだ、弟子ではございません」
「二人とも同じ返事するようになったね」
「リリ。今日は、パン屋にいるお約束では?」
「朝だけ。ベッシーおばさんに、届け物してこいって」
花籠の下から、小さな布包みを出す。
「古い地図」
「地図?」
「ベッシーおばさんのお父さんが、鐘を直す職人だったんだって」
裁断台へ広げられたのは、王都西側の古い区画図だった。
今は建物が密集している場所にも、かつての水路や城壁が描かれている。
隅には、塔の印が三つ。
「鐘の鳴らない塔は、どれでしょう」
「三つとも、もう鐘は鳴らないって」
リリが指を置く。
「一つは、東門の見張り塔。鐘を外して、今は倉庫」
二つ目。
「中央教会の古い鐘楼。新しい鐘楼を作ったから、今は閉まってる」
三つ目。
「西の染色区にある塔。火事で鐘が割れて、そのまま」
「いつの火事です?」
「十年前」
全員の目が、同じ印へ集まった。
十年前。
王太子の婚礼。
母が追放された年。
「塔の正式な名前は?」
ユリウスが地図を覗き込む。
「昔は、夕告げの塔」
リリが答える。
「染物屋や仕立て屋に、仕事を終える時間を知らせる鐘だったんだって。火事のあと、誰も直さなかったから、今は『鐘の鳴らない塔』って呼ぶ人もいるみたい」
「仕立て屋の区画にある塔」
ヴィオラが低く言った。
彼女は朝からギルドへ行き、昼前に店へ戻ってきていた。
ベルナールからの正式な使いとしてではない。
自分の判断だと言っていた。
「王室衣装室の古い染色工房も、その周辺にあった」
「母が通っていた可能性は?」
「高い」
エステルは地図の塔を見た。
黒い手紙の差出人は、偶然その場所を選んだのではない。
「白い粉」
ニナが言った。
「何が?」
「リリが見た男の左靴。白い粉が付いてた」
リリが頷く。
「うん」
「この塔の石は?」
ヴィオラが地図の裏へ書かれた説明を読む。
「外壁は白灰石。火事のあと表面が崩れ、粉が落ちるとある」
「場所は、ほぼ決まりですね」
ユリウスが言った。
「偵察を出します」
「相手が見張っている可能性が」
「公爵家の者は使わない。市の建築課を動かす」
アルヴィスが地図を見たまま答えた。
「崩落の危険があるとして、外周を調べさせる」
「公爵様が命じれば、相手に気づかれませんか」
「命じるのは市の役人だ。俺の名前は出さない」
「公爵って、何でもできるんだね」
リリが言う。
「何でもはできない」
「床に釘も打てないし」
ニナが続けた。
「打てないとは言っていない」
「では、今度お願いいたします」
エステルが言うと、アルヴィスは返事をしなかった。
地図の塔まで、店から歩いて半刻ほど。
大通りを使えば目立つ。
裏路地を抜ける道は、ニナが知っている。
けれど。
「わたしが案内する」
案の定、ニナが言った。
「いけません」
「道、知ってる」
「それでもです」
「約束したでしょ。一人では行かないって」
「ニナと行く、という意味ではございません」
「わたしなら、鍵も開けられる」
「だからこそ、連れていけません」
「何で!」
ニナの声が強くなる。
「危ないから、では納得しませんか」
「みんな危ないじゃん」
「そのとおりです」
「じゃあ、わたしだけ残すのおかしい」
「ニナ」
「子どもだから?」
「はい」
エステルは、はっきり答えた。
ニナの顔が固くなる。
「もうすぐ十四」
「それでも、私よりずっと子どもです」
「盗んでたときは、一人で何でもしてた」
「だから、これからも危険なことをさせてよいとは思いません」
「役に立たないってこと?」
「違います」
「同じだよ」
ニナは針を置いた。
店を飛び出そうと扉へ向かう。
リリが、その前へ立った。
「どいて」
「嫌」
「リリには関係ない」
「あるよ」
「何が」
「私も行けないから」
ニナが止まる。
「リリは、道を知らない」
「外から見るのは得意」
「でも、残るんでしょ」
「うん」
「何で平気なの」
「平気じゃない」
リリは花籠を抱え直した。
「お姉さんが危ないところへ行くなら、ついていきたい。でも、私がいたら、お姉さんは私を守るほうを見ちゃう」
十歳の少女の言葉とは思えないほど、真っ直ぐだった。
「私たちが役に立たないんじゃなくて、場所が違うんだよ」
「場所?」
「ニナは中。私は外」
昨日、二人で決めた役目。
ニナは店内の痕跡を見つけた。
リリは路地の男を覚えていた。
「塔へ行く人がいたら、店を守る人も必要でしょ」
「護衛がいる」
「護衛は、糸の位置を知らない」
ニナが小さく言う。
「そうです」
エステルは彼女の前へ立った。
「母の針が入った金属箱。裁縫箱。お客様から預かった服。すべての位置を、今いちばんよく覚えているのはニナです」
「エステルの店なのに?」
「悔しいですが、細かな位置はニナのほうが」
「悔しいんだ」
「少し」
ニナの目から、怒りがわずかに薄れる。
「私が戻ったとき、何か動いていないか確かめてください」
「それが役目?」
「はい」
「誰か来たら?」
「扉を開けない。危険なら、ベッシーさんの店へ逃げる」
「針は?」
「持ち出さない」
「盗られたら?」
「針より、ニナのほうが大切です」
言葉にすると、ニナが目を見開いた。
「でも、母さんの針でしょ」
「ええ」
「一つしかない」
「ニナも一人しかいません」
しばらく、誰も話さなかった。
ニナは唇を噛み、視線を床へ落とす。
「……逃げても、怒らない?」
「怒りません」
「店を守れなくても?」
「戻ってきてくだされば」
「分かった」
完全に納得した顔ではない。
それでも、扉から離れた。
「リリも、一緒に残る?」
ニナが尋ねる。
「昼は外を見る。夜はベッシーおばさんのところ」
「逃げる道、教える」
「うん」
「屋根を通るやつ」
「屋根は駄目です!」
エステルが止めると、二人は顔を見合わせた。
「じゃあ、床下」
「さらに駄目です」
「普通の道にしましょう」
ヴィオラが冷静に言う。
話が決まると、アルヴィスが地図を畳んだ。
「次は、塔へ入る者だ」
「公爵様、私、ヴィオラ様、ユリウス様?」
「多すぎる」
「護衛も必要です」
「表から見えるのは二人までだ」
黒い手紙には、一人で来いとある。
一人に見せる必要がある。
「私が一人で塔へ入り、皆様は外で」
「却下だ」
アルヴィスが即座に言った。
「まだ、最後まで」
「一人では行かないと約束した」
「外にいらっしゃれば、一人では」
「言葉を曲げるな」
エステルは黙った。
仕立て師は、寸法と言葉を覚える。
そして、都合のよい形へ裁ち直してはいけない。
「では、どうします?」
「二人で入り、一人に見せる」
ヴィオラが言った。
「そのようなことが?」
「服を使う」
全員の視線が、彼女へ向く。
「塔まで、エステルは一人で歩く。もう一人は、先に別の入口から入る」
「入口が一つなら?」
「同じ人間に見せなければいい」
ヴィオラはアルヴィスを見る。
「公爵閣下の姿では、路地の端からでも分かる」
「何が言いたい」
「隠す必要がある」
「外套を変えるだけでは、難しいですわ」
エステルも、アルヴィスを見る。
背が高い。
肩幅がある。
何より、立っているだけで人を近づけない空気がある。
上等な服を粗末な服へ変えても、貴族が変装しているようにしか見えないだろう。
「公爵様を、公爵様に見せない服」
「楽しそうに言うな」
「仕立て師として、難しい課題です」
「やはり楽しんでいる」
「少しだけ」
ニナとリリが、同時にアルヴィスを見る。
「顔を隠す?」
リリが言う。
「余計に怪しい」
ニナが答える。
「背中を丸める?」
「無理に姿勢を変えれば、右脇腹へ負担がかかります」
エステルは店の中を歩くアルヴィスを見た。
肩の位置。
歩幅。
右足へ体重を移すときのわずかな間。
貴族らしさを消すのではない。
別の理由を与える。
「記録係に見せましょう」
「何だ、それは」
「古い建物を調べる、市の書記官です」
アルヴィスの姿勢がよくても不自然ではない。
黒い服でも。
無愛想でも。
書類を抱え、人を寄せつけなくても。
「書記官は、あんなに怖い顔しないよ」
リリが言う。
「税の取り立てを兼ねていることにすれば」
ニナが提案する。
「近づきたくない役人」
「それなら、公爵様のままで十分では?」
エステルが言うと、ヴィオラがほんの少し笑った。
「お前たち」
「冗談ですわ」
「半分は本気」
ニナが付け足す。
エステルは反物棚から、くすんだ焦げ茶色の布を出した。
公爵へ使うには、決して上等ではない。
丈夫な木綿と麻の混紡。
雨や埃に強く、役人や商人の仕事着によく使われる。
「これで、長い上着を」
「新しく作るのか」
「お手持ちの服を借りて直すより、早いです」
「二日しかない」
「一晩で仕上げます」
「寝ろ」
「では、ヴィオラ様と分担します」
「私も?」
「嫌ですか?」
ヴィオラは焦げ茶色の布を触った。
織り目。
厚み。
光の反射。
「面白くはある」
「嫌とは言ってない」
ニナが言う。
「その言葉、便利ね」
「使うな」
アルヴィスだけが反対した。
けれど、採寸台の位置へは自分から立った。
「今回は、触れても?」
ヴィオラが尋ねる。
「駄目だ」
「本当に触れられないのね」
「聞いていなかったのですか」
「聞くのと、仕立てるのは違う」
ヴィオラは、アルヴィスの周囲を一周した。
正面。
横。
背後。
触れずに寸法を読むエステルのやり方を観察する。
「右肩が少し低い」
「古傷です」
「歩くとき、右脇を庇う」
「はい」
「それを消さないの?」
「消しません」
「変装なら、普段の特徴は隠すべき」
「無理に消せば、公爵様の動きではなくなります」
「別人に見せるのが目的でしょう」
「別人を演じていただくのではありません」
エステルは、焦げ茶色の布をアルヴィスの肩の前へ垂らした。
「公爵様のまま、別の身分に見せます」
同じ人。
同じ体。
ただ、見る者が受け取る印象を変える。
「肩を狭く見せます」
「どうやって?」
「外側へ線を出さず、首元から真っ直ぐ落とします。腰も絞りません」
「せっかくの体型を隠すの?」
ヴィオラは少し不満そうだった。
「今回は、美しく見せることが目的ではございません」
「美しく見えない服を作るの?」
「目に残らない服を」
焦げ茶色。
灰色の裏地。
光らない木の釦。
袖口は少し広くし、手を半分隠す。
首元には、薄い埃除けの布。
顔を隠すのではなく、視線を首元へ逸らす。
書類鞄を左肩へ掛け、広い肩幅を分断する。
右脇腹を庇う動きは、長時間机へ向かう書記官の腰痛に見せる。
「靴も変えます」
「今の靴では駄目か」
「磨かれすぎています」
「公爵の靴だね」
リリが言う。
「公爵の顔だけではなく、靴まであるのか」
「あるよ。教会の人も、靴で分かったから」
アルヴィスは、自分の黒い靴を見下ろした。
「市の役人が履く、少し擦れた靴を用意します」
「誰かの古靴を履けと?」
「新品を、古く見せます」
「なぜ、少し嬉しそうなんだ」
「靴まで含めて一着ですから」
ヴィオラは、すでに型紙を引き始めている。
「裁断は私がする」
「では、縫い合わせは私が」
「肩の線は、私が決める」
「公爵様の右側は、私が」
「競うな」
アルヴィスが言う。
「競っておりません」
「よりよい服を作るための意見交換です」
二人の声が続く。
「それを競うって言うんじゃない?」
ニナが言った。
日が暮れるころ、仮縫いの上着が形になった。
アルヴィスが袖を通す。
いつもの青灰色の外套とは、まるで違う。
上等な体の線を、意図的に隠している。
肩から腰まで、ほぼ真っ直ぐ。
焦げ茶色の布は、店の薄暗い中では壁の色へ溶けた。
左肩に書類鞄を掛ける。
首元へ灰色の布。
髪は、いつものように整えず、額へ少し落とす。
「公爵様に見えませんわ」
エステルが言う。
「褒めているのか」
「もちろんです」
「怖い書記官」
リリが感想を述べる。
「税を三年分取りに来そう」
ニナが続ける。
「失礼では?」
「目的は達成している」
ヴィオラは満足そうに、上着の裾を直した。
「ただし、歩けば分かる」
「歩き方まで変える必要が?」
「公爵は、人を避けて歩かない」
ヴィオラの指摘に、エステルも頷く。
アルヴィスが通りを歩けば、周囲が先に道を空ける。
本人は、人を避ける必要がない。
「混んだ道では、少し肩を引いてください」
「なぜ」
「普通の人は、ぶつからないように歩きます」
「ぶつかれば、相手が傷む」
「だから、公爵様は近づかない?」
エステルが尋ねる。
「ああ」
呪いのため。
傲慢だからではない。
人を傷つけないよう、最初から距離を取る。
「では、普段の歩き方にも理由があります」
「何だ」
「人を避けていらしたのですね」
「今は変装の話だ」
「はい」
けれど、また一つ知った。
仕立ては、体を見る。
体は、その人が選んできた動きを覚えている。
「公爵様」
「何だ」
「塔では、私の近くにいてください」
アルヴィスの目が細くなる。
「命令か」
「変装のためです。市の書記官と案内役の仕立て師なら、離れて歩くほうが不自然です」
「案内役?」
「私は、古い染色工房の記録を調べに来た仕立て師になります」
「お前も変装するのか」
「服は、このままで」
薄い灰色のワンピース。
何度も直した仕事着。
路地裏の仕立て師。
相手はエステルを呼び出した。
別人に見せる必要はない。
「ただし、母の針は持っていきません」
全員が、金属箱を見る。
「相手が求めているのは針だ」
「だからこそです」
「持っていると思わせる必要は?」
ユリウスが尋ねる。
「同じ大きさの普通の針を、裁縫箱へ入れます」
「囮か」
「本物を店へ残せば、こちらが囮になります」
「危険な言い方をするな」
アルヴィスの声が低くなる。
「でも、相手の目的を確かめるには」
「針より、お前を狙っている可能性もある」
黒い手紙。
母の真似をするな。
相手は、エステルの行動を知っている。
「それでも、行きます」
「分かっている」
「止めないのですか?」
「止めても行く顔だ」
「どのような?」
「面倒な顔だ」
「それは、公爵様もですわ」
アルヴィスは答えなかった。
焦げ茶色の上着を脱ぐ。
仮縫いの糸は、一つも切れていない。
善意を受け取れなかった人。
けれど今は、祝福のない服なら、エステルとヴィオラが一緒に仕立てた仮縫いさえ保っている。
「明日までに仕上げます」
「一晩中は縫うな」
「二人で分担します」
「私は夜半まで」
ヴィオラが言う。
「明日はギルドへ戻らなくてはならない」
「十分です」
「エステルは?」
「夜半のあと、仕上げを」
「寝ろ」
「終わってから」
「夜明けまでかかる」
「かかりません」
「本当に?」
「その聞き方は、私のものですわ」
「前にも同じことを言って、徹夜した」
「今回は、ニナが見張る」
「寝たら針で起こす」
「刺してはいけません!」
エステルが叫ぶと、リリが笑った。
「私は朝、花を持ってくる」
「明日は、来なくても」
「外を見る役」
リリは、白い小花を一本抜いた。
昨日、黒い服の男が買ったものと同じ花。
「この花を籠の右に挿してたら、路地に怪しい人はいない」
「左なら?」
「いる」
「花で合図を?」
「売りながらでもできるでしょ」
ユリウスが感心したように頷く。
「護衛へも伝えます」
「でも、怪しい人を見ても追わないこと」
エステルが念を押す。
「分かってる」
「一人で近づかない」
「約束した」
「危険なら、花籠を捨てて逃げてください」
「花も大事だけど、私のほうが一人しかいないんでしょ」
リリは、ニナへ向かって笑った。
ニナが少し恥ずかしそうに目を逸らす。
「そう」
「じゃあ、逃げる」
「約束です」
「うん」
夜。
店の扉を閉めたあとも、針の音は続いた。
ヴィオラが裁った焦げ茶色の布を、エステルが縫い合わせる。
肩を広く見せない線。
腰を細く見せない線。
人の目が滑り、記憶に残りにくい形。
美しさを消すのではない。
その人が持つ、別の輪郭を表へ出す。
「公爵様を隠すのは、難しいね」
ニナが糸を分けながら言った。
「なぜ?」
「公爵の服を脱いでも、公爵だから」
「そうですね」
「じゃあ、服で隠せない?」
「すべては、隠せません」
「意味ないじゃん」
「服は、人を別人にはしません」
エステルは針を進める。
「でも、最初に見えるものを変えることはできます」
「最初だけ?」
「そのあと、本人がどう振る舞うかで、印象は変わります」
「公爵、普通の人みたいに歩けるかな」
「練習していただきます」
「嫌がりそう」
「必要なら、なさいます」
「分かりやすいから?」
「それは」
扉の外から、三度のノック。
こん、こん、こん。
話題にしていた本人が戻ってきたのかと思い、エステルは立ち上がった。
だが、アルヴィスは今夜、公爵邸で塔の調査報告を待っている。
「誰?」
ニナが灯りを消す。
「公爵家の使いです」
男の声。
合図は三度。
けれど、リリは言った。
三回の人も入れてはいけない。
「名前を」
ニナが扉越しに尋ねる。
「セドリック」
公爵家の執事補佐。
「何を持ってきた?」
「閣下からの書状です」
「扉の下から入れて」
「封が傷みます」
「じゃあ、小窓から見せて」
エステルは、ニナの慎重さへ口を挟まなかった。
小窓の布を、ほんの少しだけ上げる。
確かに、セドリックの顔。
後ろには、護衛が一人。
「入ってくださいませ」
ようやく鍵を開ける。
セドリックは店へ入るなり、ニナを見た。
「正しい対応です」
「公爵でも開けない」
「閣下からも、そのように」
「本当に?」
「今夜だけでなく、今後も」
「公爵、自分が入れなくなるって分かってる?」
「必要なら、外で待つとのことです」
ニナは少し満足そうに頷いた。
セドリックが持ってきた書状を、エステルへ渡す。
封には、公爵家の印。
中の紙は二枚。
一枚目は、市の建築課からの報告。
夕告げの塔は、外周の一部が崩れている。
正面扉は鎖で閉ざされているが、裏手の地下倉庫へ続く通気口に、人が出入りした跡がある。
塔の中へは入っていない。
調査員が近づくと、何者かが上階の窓から見ていた。
「やはり、使われています」
エステルが言う。
「二枚目を」
セドリックが促した。
アルヴィスの字だった。
『正面から入るな。
地下倉庫への古い搬入口を確認した。
明夜、鐘が鳴るはずだった時刻に向かう。
服は仕上げろ。ただし、眠れ。』
最後の一行だけ、命令が増えている。
その下に、さらに小さく。
『針を持つ手が震えれば、変装の意味がない。』
「心配してる」
ニナが横から読んだ。
「人のお手紙を、勝手に読まないでくださいませ」
「見えた」
「公爵様の命令です」
「眠る?」
エステルは、縫いかけの上着を見る。
残るのは、袖口。
裏地。
木の釦。
「三刻だけ」
「一晩の半分」
「それでは、仕上がりません」
「ヴィオラが、夜半までいるって」
「もう夜半を過ぎました」
二人が振り返る。
ヴィオラは、裁断台の端へ頬杖をついたまま眠っていた。
完璧な仕立て師にも、眠気はあるらしい。
「起こしますか?」
「寝かせておきましょう」
「エステルも寝る」
「あと、袖口だけ」
「公爵の手紙に、眠れって」
「公爵様は、仕立て師ではございません」
「依頼人でしょ」
正しい。
依頼人の使用時刻までに仕上げる。
同時に、仕立て師が倒れてはならない。
以前なら、迷わず朝まで縫っていた。
けれど今は、ニナがいる。
ヴィオラもいる。
朝にはリリが来る。
一人で、すべてを抱える必要はない。
「では、二刻だけ」
「三刻」
「二刻半」
「細かい」
「仕立て師ですから」
ニナは毛布を引きずってきた。
床ではなく、最近届いたばかりの細い寝台へ。
アルヴィスの前金から、ようやく買ったものだ。
「寝台、あったんだ」
「昨日、届きました」
「公爵に見せた?」
「まだです」
「喜ぶかな」
「なぜ、公爵様が?」
「ずっと請求されてたから」
エステルは寝台へ横になる。
床より柔らかい。
体に合う寝床は、よい仕事のために必要だ。
最初の依頼の日、自分でそう言った。
「二刻半で、起こしてください」
「三刻」
「ニナ」
「公爵の依頼」
「依頼は、服です」
「前金に寝台も入ってる」
「それとこれは」
「おやすみ」
毛布を顔まで掛けられる。
反論する前に、目が閉じた。
次に起きたとき、窓の外は薄く明るくなっていた。
「三刻以上、眠りました?」
「少しだけ」
「ニナ」
「ヴィオラが、あと縫った」
裁断台を見る。
焦げ茶色の上着は、ほとんど完成していた。
袖口。
裏地。
内側の縫い目。
ヴィオラの針目は、エステルよりわずかに長く、迷いがない。
最後の木の釦だけが残されている。
「ここは、エステルが付けろって」
ヴィオラは、窓辺で朝の水を飲んでいた。
「公爵の選んだ位置だから」
「ありがとうございます」
「礼は、完成してから」
エステルは最後の釦へ糸を通した。
一針。
二針。
三針。
普通の針。
普通の糸。
祝福はない。
それでも、今夜アルヴィスの身を守る一着になる。
釦を留め、上着を持ち上げる。
完成。
そのとき、外からリリの売り声が聞こえた。
「朝のお花はいかがですか!」
小窓から見る。
花籠の右側に、白い花。
怪しい者はいないという合図。
エステルは、少しだけ息を吐いた。
扉を開けると、リリが一番に上着を見た。
「これ、公爵様の?」
「はい」
「地味」
「成功です」
「でも、よく見るときれい」
「それも、成功です」
リリは上着の周りを一周した。
「靴は?」
「今、公爵邸で用意していただいております」
「歩き方は?」
「これから練習です」
「公爵様、できるかな」
「必要なら、なさいます」
「それ、信じてる顔だね」
エステルは返事をせず、上着を衣紋掛けへ掛けた。
今夜。
鐘の鳴らない塔。
母の過去へつながる罠。
行く者。
残る者。
内側を見る者。
外側を見る者。
それぞれの役目を、服のように身につける。
すべてを一人で背負うのではなく。
互いに足りない部分を、縫い合わせる。
店の外で、朝の鐘が鳴った。
夕告げの塔では、もう十年間鳴っていない音。
今夜、その沈黙の中へ向かう。
エステルは完成した焦げ茶色の上着へ手を添えた。
「公爵様を、きちんと隠していただきます」
服は何も答えない。
けれど、その縫い目は、誰かを一人にしないための準備を、確かに形へしていた。




