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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

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第17話 鐘の鳴らない塔

 夕告げの鐘が鳴るはずだった時刻に、王都西区の空は、まだ薄い紫色を残していた。


 けれど、夕告げの塔だけは沈黙している。


 十年前の火事で鐘が割れてから、一度も音を出していない。


 エステルは、古い染色工房の並ぶ通りを一人で歩いていた。


 少なくとも、遠くから見れば。


 薄い灰色のワンピース。


 肩には、小さな裁縫箱。


 髪も普段どおりにまとめている。


 黒い手紙に呼び出された、路地裏の仕立て師。


 その姿を隠すつもりはなかった。


 少し後ろには、市の書記官らしい男が歩いている。


 くすんだ焦げ茶色の長上着。


 灰色の埃除け。


 左肩へ掛けた、古びた書類鞄。


 磨かれていない靴。


 銀髪は額へ落とし、顔の半分を影へ隠している。


 道行く人々は、彼へ一度だけ目を向け、すぐに逸らした。


 役人に見られたくない。


 その程度の関心しか持たれない。


「歩幅が戻っています」


 エステルは前を向いたまま、小声で言った。


「何が」


「公爵様の歩幅です」


「今は公爵ではない」


「でしたら、もう少し狭く」


「歩きにくい」


「普通の人は、混んだ道で少し避けます」


「人が少ない」


「向こうから荷車が来ます」


 正面から、小麦袋を積んだ荷車が近づいてくる。


 アルヴィスは、普段なら止まらず進んだだろう。


 周囲が先に道を空けるからだ。


 だが今日は、右肩をわずかに引き、壁際へ寄った。


 荷車の御者は彼を見もせず通り過ぎる。


「よくできました」


「子ども扱いするな」


「声が少し公爵様です」


「声まで変えろと?」


「必要なときだけ、お話しください」


「それなら、お前も黙れ」


「案内役が無言では不自然です」


「面倒だな」


「変装は、面倒なものです」


 仕立てと同じ言い方をすると、アルヴィスは不機嫌そうに顔を背けた。


 けれど、歩幅は狭いままだった。


 通りの角。


 古い井戸の前に、白い花が一輪置かれている。


 花弁は右を向いていた。


 リリの合図。


 ここまで、怪しい人影はない。


 エステルは、ほんの少しだけ息を吐いた。


 今朝、リリは花売りをしながら道を先回りした。


 直接塔へ近づかないこと。


 誰かを見つけても追わないこと。


 危険なら、花籠を捨てて逃げること。


 何度も約束させた。


 ニナは店に残っている。


 母の針。


 金属箱。


 預かった服。


 店内のすべてを見張る役目。


 ベッシーの店には、公爵家の護衛が二人。


 屋根の上にも一人。


 それでも、エステルの胸は落ち着かなかった。


「店が気になるのか」


 後ろから声がした。


「少し」


「戻るなら今だ」


「戻りません」


「なら、前を見ろ」


「見ております」


「顔が店へ戻っている」


「どのような顔でしょう」


「面倒な顔だ」


「それは、公爵様の顔ですわ」


 古い染色区は、日が落ちると急に静かになる。


 昼間なら布を干す職人や、染料を運ぶ荷車で混み合う場所。


 だが今は、閉じられた工房の扉が並ぶだけ。


 夕告げの塔は、そのいちばん奥に立っていた。


 白灰石の壁。


 上半分は黒く焦げ、ところどころ崩れている。


 鐘楼の窓には、鐘の影がない。


 正面扉には、太い鎖。


 市の封印札。


 けれど、黒い手紙には入口の指定がなかった。


「正面は使いません」


「報告どおりなら、裏手だ」


 塔の脇を通る。


 壁際へ近づくと、靴の底へ白い粉が付いた。


 崩れた白灰石。


 リリが見た男の左靴と、同じもの。


 裏手には、枯れた蔦に覆われた低い壁。


 その先へ、地下倉庫の搬入口がある。


 木の扉は半分土に埋まり、表面へ錆びた鉄板が打たれていた。


「鍵が掛かっています」


「壊す」


「お待ちください」


 アルヴィスが手を伸ばす前に、エステルは扉を観察した。


 鍵穴。


 蝶番。


 土の跡。


 扉の右下だけ、木の色が新しい。


「最近、開けられています」


「分かるのか」


「蝶番の近くに、擦れた跡があります」


「仕立て師の見る場所か?」


「縫い目と同じです。動いた場所は、跡が変わります」


 裁縫箱から、細い金属板を出す。


「それは何だ」


「ニナが貸してくださいました」


「鍵を開ける道具ではないだろうな」


「糸を拾う道具だそうです」


「同じ言い訳をしていたぞ」


「今は、扉の隙間を確かめる道具です」


 金属板を差し込む。


 内側に閂はない。


 鍵も、見た目ほど複雑ではなかった。


 ニナなら数息で開けるだろう。


 エステルにはできない。


「公爵様」


「何だ」


「壊してくださいませ」


「最初からそう言った」


「扉は残してください」


「注文が多い」


 アルヴィスは鉄板の端へ手を掛けた。


 力を入れる。


 錆びた釘が、低い音を立てて抜けた。


 木を割らず、鉄板だけが外れる。


「お上手ですわ」


「床の釘も打てる」


「まだ気にしていらしたのですか」


「打てないと思われるのは不本意だ」


「では、今度お願いいたします」


「断る」


 鉄板の下に、小さな窪みがあった。


 指を入れて引くと、扉が内側へ開く。


 湿った空気。


 古い染料。


 灰。


 そして、かすかな鉄の匂い。


 地下へ続く石段が見えた。


「先に行く」


「書記官が案内役より前では不自然です」


「今は誰も見ていない」


 アルヴィスが前へ出る。


 焦げ茶色の上着の裾が、暗がりへ溶けた。


 エステルも、そのあとへ続く。


 石段は狭い。


 二人並んでは歩けない。


 アルヴィスの背中が、すぐ前にある。


 いつもの青灰色ではない。


 肩幅も、腰の線も隠した上着。


 けれど、右脇腹を庇うわずかな動きは分かる。


「痛みますか?」


「何が」


「右側です」


「問題ない」


「本当に?」


「その聞き方をするな」


「では、痛むのですね」


「少しだ」


「塔を出たら、確認します」


「今は塔の中だ」


「覚えておきます」


「仕立て師は、寸法と言葉を覚える?」


「はい」


「厄介だな」


 石段の下。


 地下倉庫には、割れた染料瓶と、朽ちた木箱が残っていた。


 壁には、黒く焼けた布が張りついている。


 十年前の火事。


 それ以降、誰も片づけていないように見える。


 だが、床の中央だけ埃が薄い。


 何度も人が通っている。


 エステルは裁縫箱から、小さな灯り石を出した。


 淡い光が広がる。


 床に、細い線。


 黒い糸だった。


「触るな」


 アルヴィスが低く言う。


「分かっております」


 黒糸は一本ではない。


 床板の隙間。


 壁の亀裂。


 天井の梁。


 暗がりに慣れるほど、あちこちに張られているのが見えてくる。


 蜘蛛の巣のように。


 だが、無秩序ではない。


 一定の間隔。


 何かを囲うように張られている。


「縫っています」


「何を」


「部屋そのものを」


 壁と床。


 柱と天井。


 黒い糸で、空間を一つの袋のように縫い閉じている。


「入った時点で、囲われたか」


 アルヴィスが振り返る。


 入口の石段にも、黒糸が一本伸びていた。


 先ほどはなかった。


 エステルの背筋が冷える。


「切ります」


「待て」


「戻れなくなります」


「黒糸へ触れるな」


「普通の(はさみ)なら」


「反応が分からない」


 そのとき。


 倉庫の奥で、灯りが点いた。


 小さな油灯。


 その横に、人影が立っている。


「リディアなら、入る前に気づいた」


 女の声だった。


 低く。


 少し掠れている。


「あなたが、手紙の差出人ですか」


 エステルが尋ねる。


「一人で来いと書いたはずだけれど」


 人影が前へ出る。


 四十代後半ほどの女。


 赤茶色の髪へ白いものが混じっている。


 顔の左側には、火傷の跡。


 片足を引きずり、古い黒い杖をついていた。


 着ているのは、染料で色の変わった仕事着。


 腰には、針ではなく細い染色棒。


「市の書記官です」


 エステルは、用意した説明を口にした。


「塔の安全確認に」


「その男が?」


 女は、アルヴィスを見た。


 焦げ茶色の上着。


 額へ落ちた銀髪。


 古びた靴。


 目立たないはずの姿。


 女は数息、彼を観察した。


「服は上出来ね」


 やがて言った。


「でも、その呪いは隠せない」


 アルヴィスの表情が変わる。


「誰だ」


「あなたより先に名乗る理由はないわ、公爵閣下」


 見破られた。


 服ではなく。


 呪いを。


「私は、エステル・ラヴィニアです」


「知っている」


「あなたのお名前を」


 女は少し迷った。


「サビーネ・クロル」


 ヴィオラが口にした名ではない。


 エステルも聞いたことがなかった。


「母を、ご存じなのですね」


「同じ工房で働いていた」


「王室衣装室で?」


「表向きは、染色工房。実際には、祝縫師の糸を染めていた」


 サビーネは杖をつき、油灯のそばへ戻る。


「リディアは針。私は糸」


 母の若い頃。


 針を持つ母の横で、糸を染める女。


「黒い糸も?」


 サビーネの顔が硬くなった。


「それを、祝福の糸と呼ばないで」


「では、何です?」


「奪い糸」


 短い答え。


「祝福を宿すのではなく、奪う糸。縫い込まれた願いも、受け取った善意も、触れた人の力も」


 アルヴィスの呪い。


 贈り物が腐る。


 祝福がほどける。


 触れた人が弱る。


「公爵様の呪いと、同じものですか」


「同じ根から作られた可能性はある」


「可能性?」


「私は、その男に呪いが縫われたところを見ていない」


 サビーネは、アルヴィスから視線を逸らさない。


「けれど、よく似た匂いがする」


「匂いで分かるのか」


「染めた者にはね」


「あなたが、黒糸を作った?」


 アルヴィスの声が冷たくなる。


「作らされた」


 サビーネは左の頬へ触れた。


 火傷の跡。


「十年前まで」


 倉庫の空気が重くなる。


「誰に?」


「王室衣装室と、教会」


「共同で?」


「表では争っていた。裏では、互いに必要としていた」


 サビーネは杖の先で、床の黒糸を指す。


「王家は祝福を権威に使った。教会は、祝福を管理する権利が欲しかった。そして、どちらも失敗した祝福や、余った願いを捨てたくなかった」


「願いを、捨てる?」


「祝福は、役目を終えれば糸へ戻る。それが本来の形」


 母から教わった規則。


「でも、戻る前に奪えば、別の場所へ移せる」


「一着一祝の規則を、破るため?」


「それだけではない。人の願いは、力になる」


 サビーネの声には、嫌悪があった。


「忠誠。愛情。感謝。信頼。強い願いほど、奪い糸はよく染まる」


 アルヴィスの袖口が、わずかに動く。


「俺の呪いは、善意を奪っているのか」


「おそらく」


「奪ったものは、どこへ行く」


「受け皿へ」


「誰が持っている」


「それを知っていれば、十年も隠れていない」


 サビーネは、苛立つように杖を鳴らした。


「リディアは、受け皿を見つけようとした」


「母が?」


「王太子の婚礼衣装へ、奪い糸が縫い込まれていると気づいたから」


「誰が縫ったのです」


「分からない」


「同じ衣装室の中にいると、母は」


「それ以上は、突き止められなかった」


 エステルは、母の手紙を思い出す。


『縫った者は衣装室の中にいる』


「母は、自分の針ではないとも書いていました」


「あの衣装へ、リディアの針以外のものが使われた」


「教会に保管されていた二本目?」


「違う」


 サビーネは、はっきり否定した。


「祝縫針は、一つだけ。星青石を針穴へ埋め込んだもの」


「では、教会の針は?」


「似せて作った偽物」


「誰が?」


「私よ」


 エステルは言葉を失った。


 アルヴィスが一歩前へ出る。


「なぜ作った」


「リディアに頼まれたから」


 サビーネは、焦げた壁へ目を向けた。


「婚礼衣装が縫い変えられたと分かった夜、リディアは本物の針を隠した。代わりに、波形印だけを刻んだ偽物を用意した」


「教会へ渡すため?」


「没収されると分かっていたから」


「星青石を入れなかったのですね」


「入れられなかった。あれは一つしかない」


 母の針にだけある、青い鉱石。


 教会の記録に記載されていなかったもの。


「では、母は最初から、教会へ偽物を渡した」


「そう」


「本物を、私へ残した」


「あなたのためだけではない」


 サビーネの言葉は厳しかった。


「正しい縫い目を残すためよ」


 エステルは胸へ手を置いた。


 母の針。


 自分のためではなく。


 祝福を本来の形へ戻すために残されたもの。


「教会から、その偽物を盗んだのはあなたですか」


「いいえ」


 サビーネの顔に、初めて明確な警戒が浮かぶ。


「私が宝物庫へ入ったときには、もうなかった」


「あなたも入ったのですね」


「確かめる必要があった」


「どうやって?」


「十年前、この塔から教会の地下へ、糸を運ぶ道があった」


 地下倉庫。


 古い搬入口。


 塔のさらに奥へ、秘密の通路が続いているらしい。


「偽物を盗んだ者は、あなたより先に?」


「そう」


「『本物は路地裏へ戻った』と書いたのも?」


「私ではない」


 第三の人物。


 エステルの店を知り。


 本物の針を知り。


 教会の宝物庫へ入れる者。


「では、店へ黒い手紙を置いたのは?」


「私よ」


「窓から?」


「鍵を開けるより、音がしない」


「なぜ、そのような方法で」


「ギルドも教会も、あなたの店を見ていたから」


「公爵家も見張っていました」


「だから、なおさら」


 サビーネはアルヴィスを見る。


「私は、公爵家を信用していない」


「俺も、お前を信用していない」


「それで結構」


「母の真似をするな、とは?」


 エステルが尋ねる。


 いちばん聞きたかった言葉。


「母は、何をしたのです」


「一人で調べた」


 サビーネは、静かに答えた。


「誰も巻き込まないように。自分がすべて背負えば、娘も、仲間も守れると思った」


 胸が痛む。


 母らしい。


 あまりにも。


「でも、守れなかった」


「……はい」


「だから、同じことをするな」


 黒い手紙の脅し。


 その奥にあった意味。


「一人で来いと書いておいて?」


 アルヴィスが言う。


「誰と来るか、確かめたかった」


「試したのか」


「リディアの娘が、母と同じかどうか」


「性格が悪いですわね」


 エステルは思わず言った。


 サビーネの眉が少し上がる。


「母親より、よく言う」


「よく言われます」


 ほんの一瞬だけ、サビーネの口元が緩んだ。


 だが、すぐに消える。


「試した結果は?」


 アルヴィスが尋ねる。


「一人では来なかった」


「当然だ」


「それでも、店へ本物を置いてきた」


「囮を持っております」


 エステルは裁縫箱を開いた。


 中には、母の針と同じ長さの普通の針。


 白い布へ包まれている。


 サビーネが近づき、触れずに見る。


「悪くない」


「公爵様と同じ感想ですわ」


「誰と一緒にしないでほしいのか分からないな」


 アルヴィスが言った。


 サビーネは普通の針から、エステルの顔へ視線を移す。


「本物を持ってこなかったなら、少しは考えている」


「それだけですか」


「褒めてほしい?」


「もう少し」


「欲張りね」


「仕立て師ですから」


「関係ないだろう」


 アルヴィスが低く言う。


 張りつめていた空気が、わずかに緩む。


 だが、その瞬間。


 床の黒糸が動いた。


 一本。


 二本。


 壁へ張られていた糸が、ゆっくりと震える。


 サビーネの顔色が変わった。


「下がって!」


 黒糸が、アルヴィスへ向く。


 前に店で見つかった糸と同じ。


 呪いへ引かれている。


「これは、あなたが張ったものでは?」


 エステルが尋ねる。


「入口の警戒用だけよ。こんなに増やしていない」


 天井。


 床。


 柱。


 暗がりに隠れていた黒糸が、一斉に緩む。


 空間を縫い閉じていた線がほどけ、代わりに長い糸となって垂れ下がる。


「誰かが、塔へ仕掛けた」


 サビーネが油灯を掴む。


「私ごと消すつもりで」


 黒糸が走った。


 アルヴィスの焦げ茶色の上着へ。


 胸元。


 袖。


 肩。


 祝福は入っていない。


 それでも、彼自身の呪いへ引かれている。


「公爵様!」


 エステルは鋏を抜いた。


 普通の裁断鋏。


 一番近い黒糸を切る。


 手応えがない。


 糸は刃の間を滑り、再び伸びる。


「切れません」


「火よ!」


 サビーネが油灯を近づける。


 黒糸は火を避けるように縮んだ。


 だが、燃えない。


 別の糸が、アルヴィスの左肩へ巻きつく。


 焦げ茶色の布へ、黒い筋が食い込む。


 アルヴィスが手で払おうとする。


「触れないで!」


 エステルは彼の前へ出た。


「退け」


「服を見ます!」


「今は、それどころでは」


「服だから分かります!」


 黒糸は、布の織り目へ入ろうとしている。


 けれど、焦げ茶色の上着は粗い木綿と麻。


 祝福の糸を受けるための絹でも。


 魔力を保つ毛織りでもない。


 しかも、肩の線を真っ直ぐ落とすため、表地と裏地の間へ薄い芯布を入れている。


 黒糸は、どこへ縫い込めばアルヴィスの体へ届くか迷っている。


「この上着、入りにくいのですね」


「何?」


「糸が、縫い目を見つけられていません」


 ヴィオラと二人で作った服。


 目立たないこと。


 体の線を隠すこと。


 そのために、普段とは違う構造を選んだ。


「上着を脱いでください!」


「脱げば、直接来る」


「内側に、道を作ります」


 エステルはアルヴィスの胸元へ近づいた。


 触れられない距離。


 それでも、釦へ手を伸ばす。


 自分が付けた木のボタン。


 一つ目を外す。


 二つ目。


 三つ目。


「エステル」


「動かないでくださいませ」


「糸が来る」


「分かっています」


 上着の前を開く。


 裏地。


 灰色の布。


 内側の裾に、仕上げのため残した短い縫い代がある。


 そこへ、普通の白糸を一本通す。


「何をしている」


「出口を作ります」


 黒糸が縫い目を探すなら。


 見つけやすい縫い目を、体から離れた場所へ作る。


 エステルは、裾の端へ白糸で粗い仮縫いを入れた。


 一針。


 二針。


 三針。


 わざと不揃いに。


 わざと、目立つように。


 黒糸が反応する。


 アルヴィスの肩から離れ、裾へ向かった。


「今です!」


 上着の裾を掴み、体から外側へ引く。


 直接アルヴィスへ触れないよう、布だけを。


 黒糸が白い仮縫いへ絡む。


 サビーネが油灯を押しつけた。


 白糸が燃える。


 黒糸は、白糸と一緒に縮み、床へ落ちた。


「燃えた?」


 完全には燃えていない。


 けれど、短く固まり、動かなくなっている。


「普通の糸へ絡ませれば、形を持つ」


 サビーネが呟く。


「形を持てば、火で止められる」


「母は、知っていましたか」


「……いいえ」


 新しい方法。


 エステル自身が見つけた縫い方。


「全部、同じようにします」


「数が多い」


「私が縫います。公爵様は、上着を広げて」


「命令が増えたな」


「急いでくださいませ!」


 アルヴィスは、焦げ茶色の上着を両手で大きく広げた。


 右脇腹に痛みが走ったのか、わずかに顔をしかめる。


 だが、離さない。


 エステルは裾。


 袖口。


 背中。


 体から遠い場所へ、白糸で粗い縫い目を作る。


 黒糸が、一つずつそちらへ引かれる。


 サビーネが火で固める。


 一本。


 二本。


 十本。


 油灯の火が小さくなる。


「油が足りない」


 サビーネが言った。


「出口へ」


 アルヴィスが上着を(ひるがえ)す。


「石段は、黒糸で塞がれています」


「別の道がある」


 サビーネが倉庫の奥へ向かう。


「教会へ続く通路?」


「途中まで。火事で崩れた」


「通れるのか」


「三人なら」


 黒糸が、再び天井から落ちる。


 エステルは裁縫箱を抱え、サビーネのあとを追った。


 アルヴィスが最後尾。


 焦げ茶色の上着の背中へ、まだ黒糸が二本絡んでいる。


「公爵様、背中!」


「前を見ろ」


「でも」


「俺は服を脱げない」


「なぜ?」


「上着が、道を作るのだろう」


 黒糸を体へ近づけないため。


 上着を盾にする。


 目立たない服。


 誰にも記憶されないための服が。


 今は、呪いから彼を隠している。


 通路は狭く、壁の一部が崩れていた。


 サビーネが杖で石を確かめる。


 天井から砂が落ちる。


「急いで」


 背後で、黒糸が石を擦る音。


 細い音。


 何百本もの針が、同時に布を通るような音。


 エステルは息を切らしながら進んだ。


 道の先に、鉄の格子。


 錆びている。


 向こうには、夜の空気。


「開かない」


 サビーネが格子を押す。


 アルヴィスが前へ出る。


「退け」


「右脇腹が」


「今は仕立て師ではなく、扉を見ろ」


 格子へ手を掛ける。


 力を込める。


 錆びた鉄がきしむ。


 一本。


 二本。


 格子の支柱が石から抜けた。


「床の釘どころではありませんわね」


「戻ったら打つ」


「本当に?」


「その聞き方をするな」


 こんなときでも、いつもの返事。


 格子が外れる。


 三人は外へ出た。


 塔の西側。


 崩れた城壁と、水のない古い水路の間。


 外にはユリウスと、公爵家の護衛が待っていた。


「閣下!」


 護衛が駆け寄る。


「近づくな」


 アルヴィスが止める。


 焦げ茶色の上着には、黒糸が数本残っている。


「火を」


 サビーネが言う。


 護衛が松明を差し出す。


 エステルは白糸を、残った黒糸へ絡ませた。


 一つずつ。


 火へ近づける。


 黒糸が縮み、固まる。


 最後の一本が落ちた。


 その瞬間、アルヴィスの体がわずかに揺れた。


「公爵様!」


 エステルは手を伸ばしかけ、止める。


 触れれば、自分が傷む。


 アルヴィスは片膝をついた。


「離れていろ」


「呼吸を」


「している」


「右脇腹は?」


「服の確認は、あとだ」


「今も必要です」


 焦げ茶色の上着。


 黒い糸が食い込んだ部分は、表面だけが黒ずんでいる。


 裏地まで届いていない。


 肌へは触れていない。


「上着が、止めました」


「そうか」


「公爵様を、隠せましたわ」


 アルヴィスは、苦しそうに息を吐きながらも、わずかに口元を動かした。


「悪くない」


 四度目の言葉。


 今度は、命を守った服へ。


 サビーネが、少し離れた場所から二人を見ていた。


「リディアとは違う」


 彼女が言う。


 エステルは振り返る。


「何が?」


「あの子なら、自分の服を裂いて黒糸へ絡ませた」


「私は、別の布を使いました」


「そうね」


「母の真似をするな、とおっしゃったでしょう」


 サビーネは、しばらく何も言わなかった。


 やがて、小さく頷く。


「少なくとも、言葉は覚えているらしい」


「仕立て師ですから」


「それも、母親とは違う」


「母は、言いませんでしたか?」


「口より先に手が動く人だった」


「似ていますわね」


 アルヴィスが低く言う。


「誰と?」


「お前と母親だ」


「今は、違うと」


「両方だ」


 サビーネが、初めて声を立てて笑った。


 短い。


 火傷の跡が引きつるほどの、小さな笑い。


「公爵閣下」


 ユリウスが周囲を確かめる。


「塔の中にいた者は、サビーネ殿だけですか」


「私だけだった」


「黒糸を仕掛けた者は?」


「少なくとも、今日の昼まではなかった」


「誰かが入った痕跡は?」


「塔には、教会側から続く通路がいくつかある」


「では、罠を仕掛けた者は、今も教会へ?」


「分からない」


 サビーネは杖の握りを外した。


 中から、細い硝子管を取り出す。


 管の中には、黒い糸が一本。


 ただし、先ほどの糸よりも細い。


「これを」


 エステルへ差し出す。


「何です?」


「リディアが最後に残した奪い糸」


「母が?」


「婚礼衣装から抜いたもの」


 十年前の証拠。


「白い試し布の糸とは?」


「同じもの。でも、これは衣装から直接抜いた」


「なぜ、今まで隠していたのです」


「出せば、私も殺される」


「では、なぜ今?」


 サビーネの視線が、焦げ茶色の上着へ向く。


 粗い白糸。


 焼けた黒糸。


 新しい縫い目。


「あなたが、リディアの娘ではなく、一人の仕立て師だと分かったから」


 エステルは硝子管を受け取らず、まずユリウスを見る。


「公爵家で保管を」


「そのほうが安全です」


 ユリウスが手袋を着け、硝子管を受け取る。


 サビーネは少しだけ眉を上げた。


「自分で持たないのね」


「一人で抱えません」


「……そう」


 それが、母と違う選択。


「サビーネ様も、こちらへ」


 エステルが言う。


「どこへ」


「店へ」


「行けない」


「なぜ?」


「見張られている」


「今さらです」


「私が行けば、店の危険が増える」


「もう、十分危険です」


「だからこそ」


「一人で隠れ続けるおつもりですか?」


 今度は、サビーネが黙る。


「母の真似をなさらないでくださいませ」


 自分へ向けられた言葉を返す。


「一人で調べて。誰も巻き込まないつもりで。すべてを背負うのですか」


「私は、リディアではない」


「私もです」


「お前は、よく言うな」


 アルヴィスが立ち上がりながら言った。


「まだ休んでくださいませ」


「ここにいるほうが危険だ」


「では、馬車へ」


「触るな」


「分かっております」


「顔が分かっていない」


「分かっておりますわ」


 サビーネは、二人のやり取りを見ていた。


「店へは行かない」


 やがて言った。


「今夜は」


「明日は?」


「考える」


「逃げませんよね?」


「その聞き方をするな、と公爵は言わないの?」


「今は、私へではない」


 アルヴィスが答える。


「では、明日の朝。ベッシーさんのパン屋へ」


「なぜパン屋」


「店へ直接入るより、目立ちません」


「パンを買えと?」


「何かお好きなものを」


「甘いものは嫌い」


「では、塩パンを」


「勝手に決めるな」


「嫌ですか?」


 サビーネは答えなかった。


 けれど、断りもしなかった。


 塔から離れる。


 エステルは、アルヴィスの隣を歩いた。


 来るときより近く。


 変装のためではない。


 倒れないか確かめるため。


 触れることはできない。


 それでも、歩幅を合わせることはできる。


「近い」


 アルヴィスが言う。


「書記官と案内役ですから」


「もう塔を出た」


「公爵様と仕立て師です」


「そのほうが離れる理由になる」


「倒れられると困ります」


「倒れない」


「本当に?」


「その聞き方を」


「では、少しふらついていらっしゃいます」


「服が重い」


「黒糸が付いておりますから。店で外します」


「また徹夜するな」


「今夜は、服を休ませます」


「お前は?」


「私も」


「本当に?」


「その聞き方は、公爵様のものになりましたね」


 アルヴィスは、ほんの少しだけ笑った。


 笑ったように見えた。


 けれど、暗い路地では確かめられない。


 王都西区の入口。


 井戸のそば。


 白い花は、まだ右を向いている。


 危険はない。


 リリは無事に役目を終えた。


 店の近くまで戻ると、小窓の布が一度揺れた。


 ニナがこちらを見ている。


 扉はすぐには開かない。


「合言葉は?」


 中から声。


「決めておりません」


 エステルが答える。


「本物?」


「窓からご覧なさい」


 小窓の隙間が少し開く。


 ニナの片目。


 エステル。


 焦げ茶色の上着を着た男。


「公爵、地味」


「成功ですわ」


「戻ったんだ」


「はい」


「針は?」


「無事ですか?」


「聞いてるの、こっち」


「私も聞いております」


「一緒に言って」


「せえの?」


「針は無事です」


「私たちも無事です」


 声が重なる。


 扉の鍵が開いた。


 ニナが、店の中へ二人を引き入れる。


「怪我は?」


「公爵様が、少し」


「少しではない」


 アルヴィスが否定する。


「どっち?」


「右脇腹と、呪いの反応を確認します」


「医師を呼べ」


「仕立て師が先です」


「なぜ」


「服を脱いでいただかなくては、医師も診られません」


 ニナが扉を閉め、鍵を掛ける。


 店内の灯り。


 裁断台。


 母の裁縫箱。


 金属箱。


 すべて、出たときと同じ位置。


「何も動いてない」


 ニナが報告した。


「窓も、扉も。客も入れてない」


「ありがとうございます」


「塔は?」


「あとで、話せるところだけ」


「黒い糸、あった?」


「ありました」


「危なかった?」


「少し」


「エステルの少しは、信用できない」


「公爵様と同じことを」


「一緒にするな」


 アルヴィスが言う。


 ニナは、焦げ茶色の上着へ近づいた。


 黒く焼けた跡。


 白い粗い縫い目。


「これ、エステルが縫った?」


「塔の中で」


「曲がってる」


「急いでおりましたから」


「裏は?」


「今から見ます」


 ニナが、少し笑う。


「じゃあ、わたしも見る」


 外から見るリリ。


 内側を見るニナ。


 一人で調べた母。


 一人で隠れていたサビーネ。


 そして、誰かと一緒に塔へ入った自分。


 エステルは焦げ茶色の上着を受け取った。


 アルヴィスの体から離れた瞬間、布がわずかに重くなる。


 黒糸の残した跡。


 けれど、縫い目は一つもほどけていない。


「公爵様」


「何だ」


「この服は、直せます」


「そうか」


「また、お召しになりますか?」


「必要なら」


「必要がなくても?」


 アルヴィスは、少し考えた。


「悪くない」


 やはり、その答え。


 エステルは、今度は素直に笑った。


 塔の奥。


 黒糸に囲まれたとき。


 鐘は鳴らなかった。


 けれど、皆が店へ戻り、扉が閉じた直後。


 遠い西の空から。


 低い音が、一つだけ響いた。


 ごおん。


 古く。


 ひび割れた音。


 全員が顔を上げる。


「今の」


 ニナが言った。


 夕告げの塔。


 十年間、一度も鳴らなかった鐘。


 そこに鐘は残っていないはずなのに。


 確かに、一度だけ。


 王都の夜へ、音が落ちた。

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