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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

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18/49

第18話 鳴ったはずのない鐘

 ごおん。


 低く、ひび割れた音が、王都の夜へ落ちた。


 店の窓硝子が、かすかに震える。


 棚の糸巻きが一つ、ころりと転がった。


 ニナは、扉の前で固まっていた。


「今の、塔?」


 誰も、すぐには答えなかった。


 夕告げの塔には、鐘がない。


 十年前の火事で割れ、取り外されたと聞いている。


 それでも、音は確かに西から届いた。


 遠く。


 深く。


 まるで、地面の下に埋められた巨大な鐘を叩いたような音だった。


「もう一度、鳴るかもしれません」


 エステルは耳を澄ませる。


 通りの向こうで、犬が吠え始めた。


 窓を開ける音。


 誰かが「今のは何だ」と叫んでいる。


 だが、二度目の音は来ない。


 一度だけ。


 その一度で、何かを知らせるように。


「公爵様?」


 アルヴィスが、裁断台へ片手をついた。


 先ほどまで立っていたはずの体が、わずかに傾いている。


「何でもない」


「何でもない方は、机へ寄りかかりません」


「服が重いだけだ」


「先ほども同じことを」


 エステルは、彼の焦げ茶色の上着を見る。


 塔で黒糸に絡まれた部分。


 白い仮縫いを焼いた跡。


 裾と左肩が黒ずんでいる。


 けれど、店へ戻った時点では、布の傷みだけだった。


 今は違う。


 黒ずみが、少しずつ広がっている。


「上着を脱いでくださいませ」


「医師が来てからでいい」


「いけません」


「なぜ」


「黒い跡が動いております」


 ニナが近づこうとする。


 エステルは手で止めた。


「離れて」


「でも」


「今は、近づかないでください」


 声が強くなった。


 ニナは悔しそうに唇を噛み、それでも二歩下がる。


「扉を開けて、外の護衛へ医師を呼ぶよう伝えてください」


「開けていいの?」


「小窓から」


「分かった」


 ニナがすぐに動く。


 アルヴィスは上着の前を押さえたまま、息を整えようとしていた。


 右脇腹。


 古傷のある場所。


 黒い上着の下でも、そこだけ呼吸が浅い。


「公爵様」


「何だ」


「ボタンを外します」


「自分でできる」


「手が震えております」


「震えていない」


「では、一つ目を」


 アルヴィスが木のボタンへ指を掛ける。


 外れない。


 指先に力が入らないらしい。


「触れるな」


「服へ触れます」


「同じだ」


「違います」


 エステルは、彼の体へ触れないよう、釦だけをつまんだ。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 上着の前が開く。


 その下の黒い胴着。


 三日間の祝福は、すでに役目を終えている。


 青灰色の糸も、硝子瓶へ戻った。


 今は、ただの服。


 それなのに、左胸の内ポケットの周りが黒く滲み始めていた。


「なぜ、こちらへ」


 黒糸に絡まれたのは、焦げ茶色の上着だ。


 胴着には触れていない。


 それでも、黒い染みは内ポケットから広がっている。


 二十七通の手紙を受け取った場所。


 善意を受け取るために作った場所。


「奪い糸が、祝福の跡を探している」


 ヴィオラが言った。


 彼女は裁断台の反対側へ回り、触れずに縫い目を見ている。


「祝福はもうないのに?」


 ニナが小窓から振り返る。


「針穴は残る」


 ヴィオラの声は冷静だった。


「布にも、着る人にも」


 役目を終えた祝福。


 けれど、受け取ったという事実は残る。


 花が朝まで保ったこと。


 手紙を三日間読めたこと。


 その跡を、黒糸は追っている。


「胴着も脱いでください」


 エステルが言う。


「ここで?」


「衝立の向こうへ」


「医師が来るまで待て」


「待てません」


「なぜ」


「染みが、右脇腹へ向かっています」


 黒い筋。


 左胸から下へ。


 布の織り目に沿わず、斜めに進んでいる。


 まるで、体の傷を知っているように。


 アルヴィスは、しばらくエステルを見た。


「顔を背けろ」


「寸法確認で何度も」


「触れない採寸だ」


「今は非常時です」


「だからだ」


 ニナが、急に店の灯りを二つ消した。


「暗くした」


「ニナ?」


「見えにくいほうがいいんでしょ」


「お前まで」


「早く脱いで」


 アルヴィスは、諦めたように衝立の向こうへ入った。


 焦げ茶色の上着を先に外す。


 エステルが衣紋掛けで受け取る。


 続いて、黒い胴着。


 布から離れた瞬間、黒い染みの動きが止まった。


「止まりました」


「なら、服だけの問題だ」


 衝立の向こうから声。


「まだ分かりません」


 胴着を裁断台へ広げる。


 内ポケットから伸びた黒い筋は、右脇へ向かう途中で止まっている。


 焦げ茶色の上着も隣へ。


 塔で黒糸が絡んだ箇所。


 上着の左肩から、胴着の内ポケットへ。


 直接触れていない二着のあいだを、黒い跡がつないでいる。


「服と服を渡った?」


 ニナが言う。


「公爵様が、重ねて着ていたからです」


 エステルは二着の位置を思い出す。


 上着の左肩。


 胴着の左胸。


 布が重なる場所。


 祝福の跡と、奪い糸。


「これ、縫い目じゃない」


 ヴィオラが拡大鏡を出した。


「染料でもない」


「では?」


「繊維の影」


 黒く見えるのは、糸が付着したからではない。


 布の繊維そのものから、色が抜けている。


 光を失い、黒く見えている。


「奪われている」


 エステルが呟く。


 色。


 艶。


 布が持っていた力。


 それを少しずつ奪いながら、黒い筋が進んでいる。


 サビーネの言葉。


 奪い糸。


 願いも。


 善意も。


 触れた人の力も。


「服が、公爵様の代わりに奪われているのでしょうか」


「それなら、脱いで正解だ」


 アルヴィスが衝立から出てきた。


 シャツだけの姿。


 右脇腹へ、古い傷の形が透けて見える。


 エステルは反射的に視線を逸らしかけた。


 けれど、傷の周囲に黒い影がないか確かめなければならない。


「確認します」


「何を」


「黒い跡が、お体へ届いていないか」


「見れば分かる」


「公爵様からは、脇腹が見えにくいでしょう」


「鏡を使う」


「今は、私が見たほうが早いです」


「エステル」


「仕立て師です」


「それは、何にでも使える言葉ではない」


 ヴィオラが、冷静に口を挟む。


「診察の補助なら、体の線を見るのは仕立て師の仕事でもある」


「お前は味方なのか」


「服の味方」


「人の味方ではないのか」


「今は服が危険を引き受けた」


 アルヴィスは言い返せなくなった。


 エステルは、十分に距離を取りながら右脇腹を見る。


 古い傷。


 その周囲に、黒い線はない。


 ただ、傷跡がいつもより赤い。


「黒糸は届いておりません」


「なら終わりだ」


「でも、古傷が熱を持っています」


「見ただけで?」


「呼吸のたび、右側だけ布が浮きます」


「それは、以前から」


「今日は、いつもより浅いです」


 そのとき、外から三度のノック。


 続いて、医師の名乗る声。


 ニナが小窓から顔を確かめ、護衛も一緒だと確認してから扉を開けた。


 入ってきたのは、公爵家付きの老医師だった。


 白髪。


 細い眼鏡。


 大きな革鞄。


「また、面倒な場所で倒れかけましたな」


「倒れていない」


「膝をついたと聞きました」


「地面が悪かった」


「塔の外で?」


「石が多い」


「言い訳は、診察のあとで」


 アルヴィスより、よく言う人がいた。


 老医師はシャツの上から脈を取り、呼吸を聞いた。


 直接肌へ触れないよう、薄い銀板と布を使っている。


 呪いへ慣れているらしい。


「呪いの反応が強まっております」


「黒糸のせいか」


「おそらく。ですが、体へ直接入った様子はない」


「服が止めたのです」


 エステルが言う。


「こちらの二着が」


 老医師は、裁断台の服へ近づいた。


「触れないほうがよろしいです」


「見れば分かります」


 アルヴィスと同じ返事。


 公爵家では、似るものなのかもしれない。


「閣下は、今夜この二着を着ないこと。できれば、呪いを刺激する贈答品や祝福品からも離れて」


「店から離れろということか」


「この店そのものが祝福品ではございません」


 エステルはすぐに答えた。


 老医師が、少しだけ笑う。


「店主も、閣下に似てきましたな」


「誰が」


「似ておりません」


 二人の声が重なる。


 ニナが、小さく笑った。


「今夜は、公爵邸へお戻りを」


「服を調べる」


「私たちが調べます」


「黒糸が動けば?」


「金属箱と火を用意します」


「お前たちだけでは危険だ」


「公爵様がいらっしゃるほうが、黒糸は動きます」


 店で見つけた糸も。


 塔の糸も。


 アルヴィスの呪いへ引かれた。


 今は、離れることが最も安全だ。


「戻ってくださいませ」


「命令か」


「仕立て師からの着用上の注意です」


「それも、何にでも使うな」


「医師からも、お願いいたします」


 老医師が重ねる。


 アルヴィスは、明らかに不満そうだった。


 だが、自分が残れば危険が増えると分かっている。


「朝に来る」


「お休みになってから」


「朝だ」


「何刻ほど?」


「必要なだけ」


「具体的に」


「お前は、俺の母親か」


「仕立て師です」


「今は違うだろう」


 それでも、老医師と護衛に連れられ、アルヴィスは店を出た。


 青灰色の外套は着ない。


 公爵家から持ってきた、祝福のない古い外套を羽織る。


 扉の前で一度振り返る。


「服へ触るな」


「調べられません」


「素手で、という意味だ」


「承知しました」


「ニナ」


「何」


「エステルが一人で触ろうとしたら止めろ」


「分かった」


「ヴィオラもだ」


「私は無謀ではない」


「仕立て師は、時々分からない」


「公爵様もですわ」


「朝に来る」


 今度こそ、扉が閉まった。


 ニナが鍵を掛ける。


 店内には、黒く染まり始めた二着が残った。


 焦げ茶色の上着。


 黒い胴着。


「どうする?」


 ニナが尋ねる。


「まず、二着を離します」


「重ねてたから、移ったんだもんね」


「ええ」


 上着を金属の人台へ。


 胴着を、反対側の壁へ。


 床には白い布を敷く。


 黒い跡が落ちても分かるように。


 ヴィオラは手袋を二重にし、上着の裏地を外し始めた。


「ほどくのですか?」


「中を見なければ、どこまで奪われたか分からない」


「その縫い目、私が」


「知っている」


「では、私が」


「あなたは胴着を」


 自然に仕事を分けられる。


 競っているようで。


 今は、互いの針目を信用している。


 エステルは、黒い胴着の内ポケットへ糸切り鋏を入れた。


 青灰色の縁取り。


 三日間、手紙を受け取った場所。


 切るのは惜しい。


 けれど、服を守るには、開かなくてはならない。


「公爵、怒るかな」


 ニナが言う。


「直します」


「前と同じに?」


「いいえ」


「同じじゃないの?」


 一度ほどいた服は、完全に元へは戻らない。


 けれど、よりよく直すことはできる。


「次は、黒糸が入りにくい形へ」


「塔の上着みたいに?」


「ええ」


 内ポケットを外す。


 その下。


 表地と裏地の間に、細い黒線が走っていた。


 糸ではない。


 布の繊維が、一本の道のように黒く変わっている。


 右脇へ。


 その先は、縫い代へ沿わず、途中で止まっていた。


「どうして止まったの?」


「祝福が、すでにほどけていたからでしょうか」


「受け取るものが、なかった?」


「おそらく」


 もし、三日間の祝福がまだ残っていたら。


 黒い筋は、それを奪い。


 さらに、アルヴィスの体へ届いていたかもしれない。


「役目を終えていて、よかった」


 エステルは呟く。


 祝福は永遠に残らない。


 役目を終えれば、糸へ戻る。


 それを弱さだと思ったことはない。


 けれど今、初めて。


 ほどけることが、人を守るのだと知った。


「祝福が消えるのも、必要なんだね」


 ニナも同じことを考えたらしい。


「ええ」


「ずっと暖かい手袋じゃなくて、よかった?」


「ずっと残る祝福なら、黒糸に狙われたかもしれません」


「普通の布は残った」


「はい」


 ルカの手袋。


 祝福がほどけても、毛織りの裏地は暖かい。


 奇跡が終わっても、服は服として人を守る。


「エステル」


 ヴィオラが呼んだ。


 焦げ茶色の上着の裏地が、半分外されている。


「こちらを見て」


 左肩。


 黒糸が最初に絡んだ場所。


 表地と裏地の間から、何かが落ちた。


 小さな黒い粒。


 針の頭ほど。


「糸ではありません」


 エステルが紙の上へ受ける。


 粒は、石のように固い。


 けれど、灯りへかざすと、内部に細い線が何本も見える。


「種?」


 ニナが言った。


「何の?」


「糸の」


 黒糸が服へ入り。


 その中へ何かを残した。


「奪い糸の核かもしれない」


 ヴィオラが拡大鏡を向ける。


「塔で糸が動いたとき、上着へ埋め込まれた」


「これが、胴着へ黒い跡を移した?」


「可能性はある」


 金属の小箱を用意し、黒い粒を入れる。


 蓋を閉める直前。


 粒が、わずかに震えた。


 西の方角へ。


 鐘の鳴らない塔がある方向へ。


「塔へ反応しています」


「鐘の音と同時に、これが動き始めたのかも」


 ヴィオラが言う。


「塔から離れたあとに鐘が鳴った。音を合図に、服の中の核が動いた」


「誰かが、鐘を鳴らした」


「鐘はない」


「では、音だけを」


 糸で、願いを服へ宿す。


 なら。


 音を何かへ縫い込むことも、できるのだろうか。


 サビーネなら知っているかもしれない。


「明日の朝、来る約束です」


「本当に来る?」


 ニナが尋ねる。


「来ます」


「何で分かるの」


「嫌とは言いませんでしたから」


「公爵と同じ?」


「少しだけ」


「本人が聞いたら怒るよ」


「今はいらっしゃいません」


 黒い粒を箱へ入れ、三重に布を巻く。


 焦げ茶色の上着からは、それ以上何も出なかった。


 胴着にも、核はない。


 黒い筋は、時間が経つにつれて薄くなっていく。


 奪うものを失い、力を保てなくなったのだろう。


 夜が深くなった。


 ヴィオラはギルドへ戻らず、店に残った。


 ニナは扉のそばへ毛布を敷く。


「寝台、エステルが使って」


「ニナが」


「わたしは床に慣れてる」


「だからといって」


「二人で使うには狭い」


「私は椅子で」


「公爵に言うよ」


「なぜです?」


「寝台買ったのに使ってないって」


 効くと思われている。


 実際、少し効いた。


「では、半分ずつ」


「落ちるよ」


「交代で」


「面倒」


「仕立ては」


「面倒なものです、でしょ」


 ニナが先に言った。


 結局、ニナが床。


 エステルが寝台。


 ヴィオラは椅子で眠ると言い張った。


 ただし、三人とも服の異変を見張るため、深くは眠れなかった。


 夜半。


 黒い粒を入れた箱が、一度だけ鳴った。


 かちり。


 内側から、何かが蓋を叩く音。


 エステルは起き上がる。


 箱は動かない。


 二度目もない。


 西の空も静か。


 鐘は鳴らない。


 それでも、誰かがまだ糸の先を握っている。


 そう思うと、眠気は消えた。



 朝。


 パンの焼ける匂いが路地へ流れ始めたころ。


 扉が二度叩かれた。


 こん、こん。


 ニナがすぐに起きる。


「誰?」


「塩パンを買いに来た」


 女の声。


 サビーネだった。


「ここ、パン屋じゃない」


「隣と間違えた」


「嘘」


「ベッシーの店に入ったら、こっちへ行けと言われた」


 ニナは小窓から顔を確認する。


 火傷の跡。


 赤茶色の髪。


 黒い杖。


「一人?」


「見える範囲では」


「後ろ向いて」


「なぜ」


「誰か隠れてないか見る」


「小娘」


「扉、開けないよ」


 サビーネは溜息をつき、言われたとおり背を向けた。


 誰もいない。


 ニナが、ようやく鍵を開ける。


「厳重ね」


「昨日、塔で罠にかけた人が来たから」


「私が仕掛けたのではない」


「でも、呼んだ」


「それは、そう」


 サビーネは言い返さなかった。


 手には、本当に塩パンが二つ入った紙袋がある。


「甘いものは嫌いと」


 エステルが言う。


「ベッシーが勝手に入れた」


「買われたのですね」


「店へ入るために必要だっただけ」


「嫌ではなかった?」


「公爵の真似をしないで」


 サビーネは裁断台へ近づく。


 分解された焦げ茶色の上着。


 内ポケットを外された黒い胴着。


 金属箱。


「鐘を聞きましたか」


 エステルが尋ねる。


「聞いた」


「塔には、鐘がないのに」


「音鐘よ」


「おとがね?」


「鐘そのものではない。鐘の音を、糸へ染めたもの」


 予想していた答えに近い。


 それでも、実際に聞くと背筋が冷えた。


「音を、糸へ?」


「染色工房では、色だけを染めていたわけではない」


 サビーネは塩パンの袋を置き、金属箱を見た。


「匂い。熱。音。記憶。糸へ移せるものはいくつもある」


「祝福と同じ?」


「似ているけれど、違う。祝福は、願いを預かる。染め糸は、性質を写す」


「鐘の音を写した糸を、塔へ?」


「夕告げの鐘が割れたとき、教会は破片を回収した」


「なぜ、教会が」


「鐘の内側には、王室衣装室の工房を開閉する音印が刻まれていたから」


「鍵の代わり?」


「音が合えば、封印が開く」


 塔の地下から、教会へ続く通路。


 王室衣装室の古い工房。


 十年間閉じられていた場所。


「昨日の音で、何かが開いた」


「おそらく」


「何が?」


「旧染色庫」


 サビーネの顔から、血の気が引いている。


「奪い糸の受け皿を作っていた場所」


 アルヴィスの呪いが奪ったもの。


 善意。


 祝福。


 力。


 それが集められる場所。


「塔の罠は、私たちを殺すためだけではなかった」


 エステルが言う。


「公爵様の呪いを使って、何かを動かすため?」


「可能性が高い」


 サビーネは金属箱へ手を近づける。


「開けないで」


 ニナが止める。


「中身を見なければ」


「動く」


「何が入っているの」


「黒い粒」


 エステルが説明する。


 上着の内側から見つかったもの。


 鐘の音のあとに、黒い筋を動かしたもの。


 サビーネの顔がさらに険しくなった。


「縫い種」


「やはり、種なのですか」


「奪い糸を増やす核。願いや祝福を吸えば、そこから新しい糸が伸びる」


「公爵様の服へ、植えつけられた」


「呪いを受け皿へつなぐためよ」


「取り除けば、もう大丈夫?」


「一つなら」


「ほかにもある?」


「呪いそのものへ、最初の種が縫われているはず」


 アルヴィスの体。


 古傷。


 右脇腹。


「公爵様が呪われたときに?」


「おそらく」


「取り除けますか」


「簡単には」


「難しくても」


 エステルの声が強くなる。


 サビーネは、まっすぐこちらを見た。


「服の糸をほどくようにはいかない。体と、心と、受け取ったものへ絡んでいる」


「では、どうすれば」


「まず、受け皿を止める」


「旧染色庫へ?」


「昨日の鐘で開いたなら、向こうも動き始めている」


「誰が?」


「ロデリックだけではない」


「司祭は、どこに?」


「分からない。ただ、あの男一人で鐘を鳴らすことはできない」


 教会。


 王室衣装室。


 ギルド。


 十年前から続く糸。


「ベルナール監査官は?」


 ヴィオラが尋ねた。


「知らない」


「信用できますか」


「質問が広すぎる」


「味方か、敵か」


「どちらでもない。あの女は、ギルドを守る」


「オルセン様は?」


「リディアを信じながら、黙った」


「では、頼れない?」


「黙った人間が、二度目も黙るとは限らない」


 サビーネは、塩パンを一つ手に取った。


 話しながらも、少しずつ食べている。


 嫌ではないらしい。


「今日、旧染色庫へ行きます」


 エステルが言った。


「行かない」


 サビーネが即座に返す。


「なぜ」


「開いたばかりの受け皿は、最も飢えている」


「でも、放っておけば」


「公爵を連れていけば、餌を運ぶようなもの」


「私だけなら?」


「一人で行くなと言ったばかりでしょう」


「では、どうするのです」


「準備をする」


「何の?」


「奪われない服」


 エステルは、分解した焦げ茶色の上着を見る。


 塔で、黒糸は粗い白糸へ引かれた。


 服の構造で、体まで届くのを遅らせた。


「作れるのですか」


「リディアは作ろうとしていた」


「完成しましたか」


「いいえ」


「では」


「あなたが続きを作る」


 サビーネの言葉は、命令ではなかった。


 試す声でもない。


 初めて、何かを託す声だった。


「母の真似をせずに?」


「そう」


「母の型紙は?」


「旧染色庫にある」


「取りに行けないのでは?」


「だから、先に別のものを作る」


 サビーネは、焦げ茶色の上着の白い仮縫いを指で示した。


「あなたは、黒糸へ出口を作った」


「はい」


「なら、奪い糸が欲しがるものを、体から遠い場所へ用意する」


「囮の祝福?」


「本物の祝福では危険すぎる」


「では、何を」


「ほどけた糸」


 硝子瓶。


 一晩の祝福。


 三日間の祝福。


 役目を終え、普通の糸へ戻った二本。


「役目を終えた祝福には、力は残っていないはずです」


「力はない。でも、匂いは残る」


「黒糸を誘える?」


「おそらく」


「おそらく、ですか」


「十年前には、試せなかった」


 母は、一人で調べた。


 祝福の記録も少ない。


 アルヴィスのように、一晩。


 三日。


 少しずつ目盛りを進める相手もいなかった。


「公爵様の祝福を、囮に使うのですね」


「本人が選んだ、役目を終えた糸なら」


 自分のためには祝福を縫えない。


 一着一祝。


 役目が終われば糸へ戻る。


 その規則が、今度は黒糸へ対抗する方法になる。


「作ります」


 エステルは言った。


「まだ、形も決まっていない」


「決めます」


「公爵の許可は?」


「伺います」


「嫌と言ったら?」


「理由を説明します」


「それでも嫌なら?」


「別の方法を探します」


 サビーネは、わずかに目を細めた。


「リディアなら、黙って作った」


「私は、選んでいただきます」


 アルヴィスへも。


 服へも。


 受け取るものへも。


 本人の選択を求める。


「そうだったわね」


 サビーネは、二つ目の塩パンへ手を伸ばした。


「それ、私の分」


 ニナが言う。


「二つとも、私が買った」


「ベッシーおばさんが、一つは店の子にって」


「聞いていない」


「今、言った」


 サビーネは少し迷い、塩パンを半分に割った。


「半分」


「けち」


「全部取るよりましでしょう」


 二人の間へ、少しだけ普通の朝が戻る。


 そのとき、扉が三度叩かれた。


 こん、こん、こん。


「公爵」


 ニナが言う。


「まだ、眠っていないのでは」


 エステルが小窓から見る。


 アルヴィスが立っていた。


 昨夜より顔色は戻っている。


 青灰色の外套ではなく、古い黒の外套。


 後ろに老医師。


「何刻、眠られました?」


 扉を開けるより先に尋ねる。


「朝まで」


「具体的に」


「三刻」


「少なすぎます」


「塔へ行った夜にしては多い」


「比べる基準が悪いですわ」


「開けろ」


 ニナが小窓から顔を出す。


「合言葉は?」


「決めていない」


「本物?」


「顔を見て分からないのか」


「公爵の顔」


「なら開けろ」


「嫌とは言ってない顔?」


「ニナ」


 エステルが止める。


 それでも、扉を開ける前に護衛と医師を確認する。


 アルヴィスが店へ入る。


 裁断台の服。


 金属箱。


 サビーネ。


 半分になった塩パン。


 一つずつ見た。


「来たのか」


「塩パンを買いに」


「ここは仕立て屋だ」


「同じことを言われた」


 サビーネは、残りのパンを食べ終える。


「公爵閣下。あなたの呪いへ、縫い種が入っている可能性が高い」


 挨拶もなく、本題。


 アルヴィスの表情が消える。


「どこに」


「古傷の近く」


「取り出せるか」


「今は無理」


「なら、何ができる」


 エステルは硝子瓶を取り出した。


 一晩の糸。


 三日間の糸。


 青灰色の二本。


「公爵様へ、新しい服をご提案します」


「またか」


「今度は、祝福を縫いません」


「何をする」


「役目を終えた祝福の糸を、服の外側へ入れます」


「囮か」


「はい」


「黒糸が、そちらへ向かう?」


「可能性があります」


「試していない」


「これから試します」


「俺で?」


「公爵様の呪いへ対する服ですので」


「実験台ではないと言ったな」


「大切な依頼人です」


 いつもの答え。


 アルヴィスは、硝子瓶の二本を見た。


「一晩と、三日」


「はい」


「使えば、なくなるのか」


「糸としては、残ると思います。ただし、黒糸に奪われれば」


「失う?」


「分かりません」


 白い薔薇。


 二十七通の手紙。


 役目を終えた記録。


 アルヴィスにとって、初めて受け取れたものの証でもある。


「嫌なら、別の方法を」


「使え」


 答えは早かった。


「よろしいのですか」


「糸は、飾るために残したのではない」


「でも」


「役目を終えた糸に、次の役目を与えるのだろう」


 エステルは、言葉を失った。


 祝福は、一着一祝。


 役目を終えれば糸へ戻る。


 戻った糸は、普通の糸として使える。


 けれど。


 その糸が、次に誰かを守るため使われる。


「はい」


 エステルは頷いた。


「公爵様を守る服へ」


「三日で作れ」


「なぜ三日?」


「旧染色庫が動いているなら、長くは待てない」


「二日で」


「寝ろ」


「では、三日」


「最初からそうしろ」


 ニナが笑う。


「公爵、エステルの扱い分かってきた」


「扱われておりません」


「扱っていない」


 また声が重なる。


 サビーネは、それを見て小さく息を吐いた。


「まず、布を選びなさい」


「黒糸が入りにくいもの」


「粗いだけでは足りない。外側へ誘う道と、内側へ入れない壁が必要」


 エステルは反物棚を見る。


 丈夫な麻。


 薄い毛織り。


 滑らかな絹。


 革。


 すべて違う役目を持つ。


「重ねます」


「何を?」


「外側に粗い麻。中に、目の詰まった絹。その間へ、役目を終えた糸の通り道を作ります」


「三層?」


 ヴィオラがすぐに型紙用紙を広げる。


「外の麻へ黒糸を誘い、中央の糸へ集める。内側の絹で体への侵入を止める」


「でも、絹は祝福を保ちやすい」


 サビーネが言う。


「だから、内側へは縫い目を出しません」


「一枚で作る?」


「折りで包みます」


 針穴を、体側へ作らない。


 黒糸が入り込む道を減らす。


「服というより、防護具ね」


 ヴィオラが言う。


「着る人が動けなければ、服ではございません」


「公爵の右脇腹も逃がす必要がある」


「はい」


 裁断台に紙が広がる。


 線が増える。


 言葉が形へ変わっていく。


 鳴ったはずのない鐘。


 開いた旧染色庫。


 動き始めた受け皿。


 時間はない。


 それでも、急いで糸を引けば絡まる。


 一針ずつ。


 近くを見れば真っ直ぐに。


「公爵様」


「何だ」


「今回は、すべて選んでいただきます」


「またか」


「布。形。留め具。それから、二本の糸をどこへ入れるか」


「お前が決めろ」


「いけません」


「なぜ」


「公爵様が、ご自分を守る服だからです」


 アルヴィスは、少し黙った。


 以前なら、任せると言った。


 何でもよいと。


 今は、裁断台の布へ近づく。


 触れずに。


 一つずつ見る。


「外は、焦げ茶色ではなく灰色」


「理由は?」


「黒糸の跡が分かるように」


「はい」


「内側は、白」


「汚れが目立ちます」


「黒い筋も見える」


「では、白で」


「留め具は、金属を使わない」


「木か、紐」


「紐」


「どこで結びます?」


「左ではなく、中央」


 黒糸が左胸の祝福跡を狙った。


 偏らせないため。


「二本の糸は?」


 アルヴィスは硝子瓶を見る。


「一晩の糸を、右」


「白い薔薇ですね」


「ああ」


「三日の糸を、左?」


「手紙だからな」


 受け取ったものと、位置を結ぶ。


「承りました」


 エステルは紙へ書く。


 右へ、一晩。


 左へ、三日。


 中央に、今の自分。


「名前は?」


 ニナが尋ねる。


「服の?」


「そう」


「まだ決めておりません」


「黒糸を騙す服」


「少し怖いですわね」


「公爵を隠す服の次だから、公爵を守る服」


「そのままです」


「分かりやすい」


 アルヴィスが言う。


「では、それでよいのでは」


「仮の名前ですわ」


「名前より先に作れ」


「公爵様」


「何だ」


「悪くない、とおっしゃる準備をしておいてくださいませ」


「完成前から感想を決めさせるな」


「では、別のお言葉を」


「面倒だ」


「それは感想ではございません」


 朝の光が、店へ入る。


 分解された二着。


 新しい型紙。


 役目を終えた二本の糸。


 そして、もう一度自分を守ることを選んだ人。


 鐘は、一度しか鳴らなかった。


 けれど、その音で古い扉が開き。


 十年前から止まっていた糸が、また動き始めた。


 ならば、こちらも縫い始める。


 母の完成しなかった服を、そのまま真似るのではない。


 エステル自身の縫い方で。


 一人ではなく。


 選ぶ人と。


 支える人たちと。


 奪われない一着を。

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