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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

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19/49

第19話 奪われない一着

 奪われない服を作る。


 言葉にすれば、それだけだった。


 だが、裁断台の上に並んだ布は、いつもの仕立てよりずっと多い。


 外側へ使う、灰色の麻布。


 中央へ入れる、薄い綿布。


 体側へ重ねる、白い絹。


 役目を終えた祝福の糸が二本。


 一晩。


 三日。


 そして、金属箱の中には、焦げ茶色の上着から取り出した黒い縫い種。


 小さな粒一つ。


 針の頭ほどしかないのに。


 店の空気を重くするには、十分だった。


「まず、順番を決める」


 ヴィオラが型紙の上へ定規を置いた。


「外布。誘導層。遮断層」


「服の言い方ではありませんわね」


 エステルが言う。


「防護具に近いもの」


「着るのは公爵様です」


「だから、動ける防護具」


「服です」


「どちらでもいい」


 アルヴィスが言った。


「黒糸を止めるなら」


「よくありません」


「なぜ」


「公爵様が着るのですから」


「着られれば同じだ」


「同じではございません」


 エステルは、灰色の麻布を彼の肩へ当てた。


 まだ裁っていない一枚。


 粗く見える。


 けれど、手触りは柔らかい。


「動けて。息ができて。長く着ていても疲れず。必要なときに脱げる。それで初めて服です」


「黒糸が来たとき、脱げることも必要」


 サビーネが言った。


「そこは重要ね」


 昨日まで、塔で隠れていた女。


 今日は朝から、店の隅の椅子へ座っている。


 ベッシーの塩パンを一つ食べ。


 甘くない茶を飲み。


 そのまま、帰らなかった。


「逃げる気は?」


 アルヴィスが尋ねる。


「今のところはない」


「今のところ?」


「公爵家に囲まれている店から、杖をついて逃げろと?」


「裏口がある」


「ニナに見つかる」


「見つける」


 床に座って糸を巻いていたニナが答えた。


「だから、逃げないほうがいいよ」


「小娘に見張られる日が来るとは思わなかった」


「元泥棒だから、逃げる人のこと分かる」


「ニナ」


「元、って言った」


「そこではございません」


 サビーネは、少しだけ笑った。


 昨日までより、店の空気へ馴染んでいる。


 けれど、黒い縫い種を見ると、表情はすぐに硬くなった。


「エステル」


「はい」


「外布へ、直接祝福糸を縫わないで」


「なぜです?」


「奪い糸は、強い跡へ食いつく」


「役目を終えた糸にも?」


「匂いが残ると言ったでしょう」


 硝子瓶に入った二本。


 青灰色。


 見た目は、普通の糸。


 もう光らない。


 願いも宿っていない。


 それでも。


 一晩の白い薔薇。


 三日間の手紙。


 アルヴィスが受け取った時間を、確かに通った糸。


「では、中央に通します」


「そう」


 サビーネは、綿布を指で叩いた。


「外から入った黒糸を、ここへ誘う。体側まで届く前に」


「一本道を作る?」


 ニナが尋ねる。


「そうね」


「鍵と同じだ」


「何が?」


「逃げ道が一つなら、そこを見る」


 ニナは針金を持つような指の形を作った。


「全部塞ぐより、一個だけ開けておくほうが分かりやすい」


 サビーネが、少女を見る。


「盗人の考え方ね」


「元」


「悪くない」


「公爵と同じ」


「誰と一緒にされても、あまり嬉しくないわね」


 アルヴィスが眉を寄せる。


「俺は何も言っていない」


「顔が言ってる」


 ニナが返す。


 いつものやり取り。


 エステルは思わず口元を緩めた。


「では、中央へ通り道を」


 型紙へ線を引く。


 左胸から右腰へ。


 以前、黒い筋が移ろうとした道とは反対。


 体の古傷を避ける。


「なぜ、この方向?」


 ヴィオラが尋ねる。


「右脇腹から遠ざけます」


「左胸は、手紙の祝福があった場所」


「だから、入口にします」


「危険では?」


「黒糸が最初に探す場所なら、こちらから道を用意したほうがよいと思います」


 服を、黒糸に合わせる。


 ただ防ぐのではない。


 来る方向を読んで、誘う。


「出口は?」


 サビーネが尋ねる。


「左裾」


「体から遠い」


「塔で、裾へ仮縫いを作ったときに集まりました」


「なるほど」


 ヴィオラが、紙へ別の線を足す。


「だったら、裾を二重にしない。黒糸が抜けやすいよう、一枚で」


「でも、そこから戻る可能性が」


「外へ出た瞬間、火で止める」


「毎回、誰かが火を持っている前提では?」


「それは服ではないわね」


 エステルが言うと、ヴィオラが少しだけ目を細めた。


「では、出口へ金属糸を」


「金属?」


「細い銀線。教会の聖具にも使う」


 サビーネが首を振る。


「黒糸は、銀を避けない」


「では、鉄」


「鉄も同じ」


「銅は?」


「熱を持つ」


 ニナが小さく手を挙げた。


「何でしょう」


「ボタン」


「ボタン?」


「前の服、木のボタンだったでしょ。黒いの、そこには入らなかった」


 全員が止まる。


 焦げ茶色の上着。


 黒糸が食い込んだ場所。


 肩。


 裾。


 背中。


 確かに、木のボタンには一筋も残っていない。


「木は?」


 エステルがサビーネを見る。


「奪い糸は、布ほど入りやすくない」


「どうして?」


「繊維があっても、縫い目がないから」


「じゃあ、出口を木にする」


 ニナが言った。


「木の飾り?」


 ヴィオラが考える。


「裾の内側へ、細い木片を通す」


「板を着るの?」


「薄く削ればいい」


「動きにくくなりませんか」


「短く分ける」


 エステルは紙へ、小さな長方形を並べた。


 左裾。


 内側。


 外からは見えない。


 黒糸が中央の誘導路へ入り、役目を終えた祝福糸へ近づく。


 その先を、布ではなく木へぶつける。


「そこで止まれば」


「服の外へ、黒糸を出さずに留められる」


 サビーネが言った。


「試す価値はある」


「公爵様」


「何だ」


「木は、何になさいます?」


「そこまで選ぶのか」


「今回は、すべてと申し上げました」


 机の端へ、三種類の薄板を置く。


 樫。


 栗。


 白樺。


「硬いのは?」


「樫です」


「重い」


「少し」


「栗は?」


「軽くて、割れにくいです」


「白樺は」


「いちばん軽いですが、長く使うと反りやすい」


「栗」


「理由は?」


「割れにくい」


「承知しました」


「それだけでいいだろう」


「はい」


「前より質問が減ったな」


「公爵様が、ご自分で理由までおっしゃいましたので」


 アルヴィスは、少しだけ不満そうな顔をした。


 けれど。


 選んだ。


 灰色の布。


 白い内側。


 中央の紐。


 そして、栗の木。


 一つずつ。


 今まで「任せる」と言っていた人が。


「次は、役目を終えた糸です」


 エステルは硝子瓶を開けた。


 二本の青灰色の糸を、白い布へ置く。


「どちらを上に?」


「違いがあるのか」


「黒糸が、どちらへ強く反応するか分かりません」


「一晩と三日」


「はい」


「一晩を、入口に近く」


「なぜ?」


「弱いほうから試す」


 エステルは頷いた。


「三日の糸は、少し奥へ」


「もし一晩で止まるなら、三日は残せる」


「残したいのですか?」


 思わず尋ねる。


 アルヴィスは、二本の糸を見た。


「記録としてだ」


「そうですか」


「何だ」


「いいえ」


「顔が何か言っている」


「公爵様に言われたくありませんわ」


 右側。


 一晩。


 左側。


 三日。


 前話で決めた位置とは、誘導路の中で少し意味を変える。


 けれど、本人の選択は残す。


 仕立ては、決めた形へ布を無理に押し込むものではない。


 必要なら、線を引き直す。


「裁ちます」


 ヴィオラが鋏を持つ。


 灰色の麻布。


 しゃき。


 乾いた音。


 一枚。


 二枚。


 エステルは白い絹を裁つ。


 針穴を極力作らないため、体側は大きく一枚で取る。


 縫い代は外へ。


 肌側へ糸を出さない。


「縫い目が表へ出る」


 ヴィオラが言う。


「はい」


「見た目が悪くなる」


「隠します」


「どうやって」


「細い飾りテープで」


「結局、縫うの?」


「表側だけ」


 灰色の麻へ、同じ色の細い布テープを重ねる。


 縫い目を隠すため。


 そして、黒糸が入り込む道を増やさないため。


「服としても成立する」


 ヴィオラが、少し満足そうに言う。


「当然です」


「その言い方、腹が立つ」


「褒めていただいたので」


「褒めてない」


「でも、悪くない?」


 ニナが聞く。


「……悪くない」


「また増えた」


 アルヴィスが無言でニナを見る。


「何」


「その言葉を数えるな」


「エステルも数えてるよ」


「ニナ!」


「図星?」


 エステルは針を落としかけた。


 サビーネが呆れた顔をする。


「この店は、いつもこんななの?」


「最近は」


 ヴィオラが答えた。


「私はまだ数日しかいないけど」


「十分馴染んでる」


 ニナが言う。


 昼を過ぎ。


 店の外では、いつもの通り人が行き交っている。


 今日はリリの姿はない。


 朝のうちに花を売りに出て、そのまま東区へ回る日だと聞いていた。


 頻繁に顔を出す少女ではない。


 けれど、窓辺には昨日置いていった白い花が一輪だけ残っていた。


 外を見る目が、今日もどこかにいる。


 それで十分だった。


 店の中では。


 普通の針が、何度も布を通る。


 灰色。


 白。


 綿。


 栗の木片。


 祝福は使わない。


 母の針も、棚の中。


 特別な力を使わずに、特別なものへ対抗する服。


「ここ」


 ニナが指を差した。


 中央の誘導路。


 細い布筒へ、一晩の祝福糸を通す箇所。


「糸が見えない」


「見えなくてよいのです」


「交換するとき、どうするの?」


 エステルの手が止まる。


「交換?」


「黒いのに取られたら、新しいの入れるんでしょ」


「役目を終えた祝福糸は、今二本しかございません」


「でも、この先増えるかも」


 アルヴィスがニナを見る。


「何が」


「一週間とか」


 店内が静まる。


 ニナは不思議そうに全員を見る。


「何?」


「勝手に増やさないでくださいませ」


「でも、一晩、三日って来たら」


「前にも言いましたわね」


「次は一週間」


「今は、その話では」


「交換口」


 ヴィオラが話を戻した。


「必要ね」


「はい」


 エステルは、誘導路の端へ小さな開口部を作る。


 左脇。


 外側からしか開かない。


 木の小さなボタンで留める。


「これなら、糸を取り出せます」


「使い終わったら?」


「状態を確認します」


「黒くなっていたら?」


 ニナの問い。


「保管します」


「捨てないの?」


「黒糸に何を奪われたか調べます」


「全部、取っておくんだね」


「記録ですから」


「店、瓶だらけになりそう」


「棚を増やします」


「公爵に買ってもらう?」


「なぜ、公爵様に」


「前金」


「前金は、もうかなり使いました」


「寝台と床と棚?」


「床は公爵様の護衛のせいです」


「まだ言うのか」


 アルヴィスが低く返す。


 少しずつ。


 服が形になっていく。


 夕方には、仮縫いまで進んだ。


 灰色の上着。


 外から見れば、普通の旅装に近い。


 丈は腰より少し下。


 肩は動かしやすく。


 右脇腹へ余裕。


 前は中央の紐で結ぶ。


 金属は使わない。


 左裾の内側だけ、少し厚い。


 栗の木片が並んでいるためだ。


「着てくださいませ」


「今?」


「祝福糸は、まだ入れません」


「黒い種も使わない?」


「まず、服として問題がないか」


 アルヴィスが衝立の向こうで着替える。


 しばらくして出てくる。


 灰色。


 白い襟元。


 飾りはない。


 焦げ茶色の変装服より、ずっと彼らしい。


 けれど、青灰色の外套ほど貴族的ではない。


「腕を上げて」


「こうか」


「右も」


「上がる」


「腰を捻って」


「なぜ」


「裾の木片が当たらないか」


 アルヴィスが体を捻る。


 左裾が少し遅れてついてくる。


「重い」


「やはり」


「木を減らす?」


 ヴィオラが尋ねる。


「三枚から二枚へ」


「止められるか?」


 サビーネが栗の木片を見る。


「一枚でもいいかもしれない。ただし、受け止める位置がずれる」


「二枚にします」


 エステルは、左裾を開く。


「脱がなくてよいのか」


「裾だけですので」


「触るな」


「服へです」


「近い」


「動かないでくださいませ」


 左裾。


 アルヴィスの脚から、十分距離を取る。


 木片を一枚抜く。


 縫い直す。


「また、服を着たまま縫ってる」


 ニナが言う。


「仮縫いです」


「公爵、針刺さらない?」


「刺しません」


「本当に?」


「その聞き方をするな」


 アルヴィスとエステルの声が重なる。


 ヴィオラが笑いを噛み殺した。


 二度目。


 アルヴィスが歩く。


 今度は、裾が自然についてくる。


「悪くない」


 誰より先に、本人が言った。


 エステルは顔を上げる。


「今、自分から」


「着心地の話だ」


「まだ何も聞いておりませんでした」


「だから何だ」


「いえ」


 少し嬉しい。


 服の感想を。


 求められる前に、自分から言った。


 ニナが指を折る。


「五回目?」


「数えるな」


「やっぱり五回目なんだ」


 アルヴィスの顔が険しくなる。


「では、次」


 エステルは、笑いを隠しながら言った。


「祝福糸を入れます」


 上着を脱いでもらい、誘導路を開く。


 一晩の糸。


 三日の糸。


 どちらも、もう光らない。


 けれど。


 アルヴィス自身の指で選んでもらう。


「こちらを」


「触れていいのか」


「役目を終えた普通の糸です」


「俺が触る?」


「公爵様のものですから」


 アルヴィスは、一晩の糸を指先で持った。


 何も起きない。


 糸は黒くならない。


 切れない。


「残るな」


 小さな声。


「え?」


「いや」


 次に、三日の糸。


 同じ。


 普通の糸。


 ただ、それを見つめる時間だけが少し長かった。


「入れろ」


「はい」


 一晩の糸を入口側へ。


 三日の糸を、その奥へ。


 布筒の中へ通す。


 最後は栗の木片の手前で止める。


「完成ではございません」


「まだ?」


「試験です」


 金属箱。


 黒い縫い種。


 店内の空気が、また少し冷える。


「公爵様は、隣の部屋へ」


「なぜ」


「黒い種が、公爵様の呪いへ直接反応しない距離で試します」


「どこまで離れる」


「まず、店の奥」


「足りない」


 サビーネが言う。


「向かいのパン屋へ」


「公爵がパン屋?」


 ニナが笑う。


「何か問題が?」


「ベッシーおばさん、喜ぶ」


「なぜ」


「床代、直接請求できる」


 アルヴィスが嫌そうな顔をした。


「別の場所にする」


「では、裏庭」


 店の裏にある細い空き地。


 壁を一枚隔てる。


 十分ではないかもしれない。


「医師も呼びます」


 エステルが言う。


「必要ない」


「必要です」


「着るだけだ」


「黒い縫い種と、公爵様の呪いを同時に試します」


「大げさだ」


「塔で膝をついた方が、何を」


 アルヴィスは黙った。


「医師を」


「分かった」


 日が落ちるまで待つ。


 客を帰す。


 扉を閉める。


 ベッシーには、今夜少し物音がするかもしれないとだけ伝える。


 公爵家の老医師。


 ユリウス。


 護衛二人。


 ヴィオラ。


 サビーネ。


 ニナ。


 そして、エステル。


 小さな仕立て屋としては、あまりにも人が多い。


「店が狭い」


 ニナが言う。


「すみません」


「エステルが謝ること?」


「そのうち、広い場所が必要かもしれませんね」


「引っ越すの?」


「しません」


 即答だった。


「ここが店です」


 狭くても。


 古くても。


 路地裏でも。


 ここで始めた。


「じゃあ、壁を広げる?」


「隣を買う」


 アルヴィスが言った。


「簡単におっしゃらないでくださいませ」


「必要なら」


「前金では足りません」


「誰も前金とは言っていない」


「公爵、店買うの?」


 ニナが目を輝かせる。


「買わない」


「今、買うって」


「必要ならと言った」


「嫌とは」


「その言葉を使うな」


 緊張が少し和らぐ。


 けれど、金属箱を開けると。


 全員が静かになった。


 白い布の上へ。


 黒い縫い種を一粒。


 サビーネが、長い金属挟みで置く。


「最初は、服だけ」


 アルヴィスは裏庭。


 扉は開けたまま。


 老医師と護衛がつく。


 灰色の上着は、人台へ着せる。


 公爵の体格に近い木製のもの。


 距離。


 一間。


 二間。


 三間。


 黒い粒は動かない。


「反応なし」


 ユリウスが記録する。


「少し近づける」


 サビーネが、金属皿ごと動かす。


 二間。


 黒い粒が震えた。


「来ます」


 ヴィオラが言う。


 粒から。


 髪の毛より細い黒糸が一本伸びた。


 ゆっくり。


 灰色の服へ。


「まだ触らないで」


 サビーネが止める。


 黒糸は空気を探るように揺れる。


 左胸。


 祝福糸が入っている誘導路の入口へ向かう。


「分かるのですね」


 エステルが呟く。


「匂いを追っている」


 黒糸が灰色の麻へ触れた。


 表地の繊維へ入り込む。


 だが。


 以前のように、好き勝手な方向へ進まない。


 中央の布筒。


 誘導路へ向かう。


「成功?」


 ニナが小声で言う。


「まだ」


 黒い線は。


 まず、一晩の祝福糸へ触れた。


 その瞬間。


 青灰色の糸が、淡く光った。


「光った!」


「役目は終わっているはず」


 エステルは目を見開く。


 願いはない。


 祝福もない。


 それなのに。


 一晩の糸は、一度だけ。


 白い薔薇の夜のような、淡い光を返した。


 黒糸が絡む。


 青灰色が、少しずつ灰色へ変わる。


「奪ってる」


 サビーネが言う。


「何を?」


「残り香。記憶の痕跡」


「糸にも、残っていた?」


「力ではない。でも、通った願いの形が」


 黒糸は、一晩の糸へ絡みついた。


 そのまま。


 三日の糸へは向かわない。


「止まった」


 ヴィオラが言う。


「一晩のほうだけで足りた?」


 ニナが尋ねる。


 しばらく待つ。


 黒糸は動かない。


 栗の木片まで届かない。


「公爵様を近づけます」


 エステルが言う。


「まだ早い」


 老医師の声。


「一段階ずつ」


「では、裏庭の扉の前まで」


 アルヴィスが入ってくる。


 灰色の上着から、三間。


 黒糸が再び震えた。


 一晩の糸へ絡んでいた端が、さらに奥へ進もうとする。


「三日の糸へ」


 黒い線が伸びる。


 一晩の糸を越え。


 三日の糸へ触れる。


 今度は。


 光が強かった。


 青灰色。


 店の中を、ほんの一瞬だけ照らす。


 二十七通の手紙。


 読んで。


 返事を書いた三日間。


 その跡が。


 一晩より強く残っている。


「長く受け取ったほど、痕跡も強い」


 サビーネが息を呑む。


「祝福の強さではない」


「何です?」


「受け取った量よ」


 アルヴィスの表情が変わる。


「量?」


「一晩の薔薇は、一つの贈り物」


「三日は、二十七通」


「そう」


 祝福の持続時間だけではない。


 そのあいだに、どれだけ受け取ったか。


 どれだけ返したか。


 それが糸へ残る。


「では、三日の糸のほうが危険?」


「奪い糸には、魅力的」


 黒糸が、三日の糸へ絡む。


 強く。


 青灰色が、少しずつ薄くなる。


 その先。


 栗の木片へ。


 黒い線が伸びた。


「来ます」


 エステルは息を止める。


 布筒の終点。


 木片。


 黒糸が触れる。


 止まった。


 押すように。


 何度も。


 けれど、木の中へは入れない。


「止まっています」


「まだ」


 サビーネが油灯を持つ。


「種が残っている」


 元の黒い粒。


 金属皿の上。


 細い糸を伸ばしたまま。


 小さく震えている。


「どうする?」


 ニナが聞く。


「この状態で、公爵様が服を着ます」


 全員がエステルを見る。


「何?」


 アルヴィスが言う。


「今です」


「本気か」


「黒糸は、祝福糸と木片へ捕まっています」


「捕まっている?」


「道が決まっている、という意味です」


「もし外れたら」


 老医師が言う。


「すぐに脱いでいただきます」


「黒糸が体へ向かえば?」


「服の左側を切り落とします」


「完成前から切るのか」


「公爵様のお体より大切な布はございません」


 アルヴィスが黙る。


 エステルは、人台から灰色の上着を外した。


 黒糸はついたまま。


 左胸。


 誘導路。


 裾。


 そこだけ。


「触れないでください」


「どうやって着る」


「私とヴィオラ様で、布だけを持ちます」


「お前が近づくほうが危険だ」


「では、護衛の方に」


 アルヴィスは、しばらく考えた。


「俺が着る」


「黒糸へ触れないように」


「分かっている」


 ゆっくり。


 右腕。


 左腕。


 袖を通す。


 黒糸がある左胸へは触れない。


 上着を肩へ掛け。


 中央の紐を、自分で結ぶ。


 着た。


 全員が息を止める。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 黒糸は。


 動かない。


「右脇腹は?」


「何もない」


「胸は?」


「問題ない」


「呼吸は?」


「普通だ」


 黒い縫い種。


 灰色の服。


 アルヴィス。


 近い。


 それでも。


 黒糸は、彼の体へ向かわない。


 三日の糸へ絡んだまま。


 栗の木片で止まっている。


「成功」


 ニナが言った。


「まだです」


「また?」


「脱いだあとも確認します」


「エステル」


 アルヴィスが呼ぶ。


「はい」


「今は、言っていい」


「何を?」


「悪くない」


 エステルは。


 思わず笑った。


「ありがとうございます」


「六回目」


 ニナが言う。


「数えるな」


 アルヴィスの声。


 けれど。


 今度は、少しだけ軽かった。


 三十息。


 一刻の四分の一。


 それ以上は、老医師が許さなかった。


 上着を脱ぐ。


 黒糸は、体へ移っていない。


 白い内側も、黒くならない。


 右脇腹にも変化はない。


「服としては、機能した」


 ヴィオラが言う。


「仮縫いで、ここまで」


「本番では、誘導路をもう少し広く」


 エステルが答える。


「三日の糸が強く引かれました」


「一晩の糸を入口に残す?」


 サビーネが尋ねる。


「はい」


「消耗が早い」


「それなら、交換できるように」


「役目を終えた糸が必要になる」


 店内が静かになる。


 今、二本。


 もし黒糸へ奪われれば。


 次の糸がない。


「新しい祝福を、わざと終わらせる?」


 ニナが言う。


「それは、いたしません」


 エステルはすぐに答えた。


「囮を作るために、誰かの願いを利用することはできません」


「じゃあ、足りなくなったら?」


「別の素材を探します」


「でも、今のは効いた」


「だからこそです」


 役目を終えた糸。


 誰かが、本当に必要とした時間のあとに残ったもの。


 それを。


 黒糸を誘うためだけに量産してはいけない。


「公爵様の次の祝福も?」


 ニナが尋ねる。


「それは、それとして」


「一週間」


「まだ決まっておりません」


「でも、次にしたら糸増える」


「そのために祝福を縫うのではございません」


「分かってる」


 ニナは、珍しくすぐに引いた。


「ただ、黒いのが欲しがるなら、役目を終えた糸って大事なんだなって」


「ええ」


 捨てるものではない。


 役目を終えたからこそ。


 別の意味を持つことがある。


 サビーネが、三日の糸を見た。


 青灰色は、以前より少し薄い。


 だが。


 完全には色を失っていない。


「全部は奪われていない」


「なぜ?」


「奪い糸にも、限界があるのかも」


「一つの縫い種で、奪える量?」


「そう」


「なら」


 ユリウスが口を開く。


「公爵閣下の呪いにも、容量がある可能性が?」


 全員が、アルヴィスを見る。


 善意を受け取れない呪い。


 何でも壊すように見えた。


 けれど。


 一晩。


 三日。


 少しずつ受け取れる時間が伸びている。


「呪いが弱くなったのではなく」


 エステルが言う。


「受け皿が、満ちてきている?」


 サビーネの顔が変わった。


「逆かもしれない」


「逆?」


「受け皿が、遠くなっている」


「どういう意味です」


「祝福を受け取るたび、公爵自身が“返す”ことを覚えている」


 白い薔薇へ。


 王妃へ礼を言った。


 二十七通の手紙へ。


 二十七通の返事を書いた。


「奪い糸は、受け取ったままの願いを奪いやすい」


「返したものは?」


「流れが閉じる」


 サビーネは、三日の糸を指した。


「この糸に残っているのは、受け取っただけの痕跡ではない。返した痕跡もある」


「だから、全部奪えなかった?」


「可能性がある」


 エステルは、アルヴィスを見る。


 彼は、何も言わない。


 けれど。


 白い薔薇を受け取った夜。


 ありがとう、と返した。


 三日間。


 手紙を読み。


 返事を書いた。


 受け取るだけではなく。


 返す。


 それが。


 呪いに対抗することになるのなら。


「公爵様」


「何だ」


「次の祝福」


 アルヴィスの眉が動く。


「今、その話か」


「一週間を急ぐ必要はありません」


「ニナとは違うのか」


「はい」


「なら、何だ」


「次に何かを受け取るときは」


 エステルは、三日の糸を見る。


「必ず、公爵様ご自身が返したいと思えるものになさってください」


「返したい?」


「義務ではなく」


 お礼を言わなくては。


 返事を書かなくては。


 ではない。


「受け取ったから、自分も返したいと思うもの」


 アルヴィスは、しばらく黙った。


「難しい注文だな」


「祝福は、面倒なものです」


「仕立てではないのか」


「どちらもです」


「なら」


 アルヴィスは灰色の服を見る。


 まだ仮縫い。


 黒糸が絡んでいる。


 完成には遠い。


「まず、この服を完成させろ」


「はい」


「そのあと考える」


「一週間を?」


「次に受け取るものを」


 エステルの胸が、少しだけ鳴る。


「承知しました」


 ニナが、また指を折りかける。


 アルヴィスが先に言った。


「数えるな」


「まだ何も言ってない」


「顔が言っている」


「公爵も顔読めるようになったね」


「お前だけは分かりやすい」


「エステルも?」


「……」


 アルヴィスが黙る。


「公爵様?」


「服を仕上げろ」


「ごまかした」


 ニナが笑った。


 夕方。


 黒い縫い種は、再び金属箱へ戻した。


 糸は切れなかった。


 だが。


 灰色の服から外すため、誘導路ごと細い布筒を抜き取った。


 一晩の糸。


 三日の糸。


 どちらも残っている。


 少し色を失いながら。


 それでも。


 役目を終えたあとに、もう一度。


 誰かを守った。


 エステルは硝子瓶へ戻す前に。


 二本の糸を、白い紙の上へ置いた。


 記録する。


『一晩の糸。

 奪い糸への反応あり。

 わずかに褪色。

 三日の糸。

 強い反応あり。

 褪色するが、完全には失われず。

 受け取ったものを返した痕跡が、奪い糸を弱める可能性。』


 最後に、一行。


『祝福は、終わっても、何も残らないわけではない。』


 書いてから。


 エステルは少し考え。


 もう一行、足した。


『人も、きっと同じ。』


「何を書いたの?」


 ニナが横から覗く。


「記録です」


「最後のは?」


「私の考えです」


「ギルドに出す?」


「最後の一行は、出しません」


「何で?」


「少し恥ずかしいので」


「じゃあ、見ちゃった」


「忘れてくださいませ」


「仕立て師は、寸法と言葉を覚えるんでしょ」


「ニナ」


「わたしも覚える」


 エステルは、言い返せなかった。


 窓の外。


 夕方の路地。


 白い花が、風に少し揺れている。


 鐘は鳴らない。


 黒い糸も、今は金属箱の中。


 けれど。


 店では。


 灰色の一着が。


 新しい役目を持つために。


 まだ、途中の縫い目を待っていた。

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