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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

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20/48

第20話 返すためのポケット

 翌朝。


 路地裏の仕立て屋では、灰色の上着が人台に掛けられたまま、朝の光を受けていた。


 まだ、完成ではない。


 仮縫いの糸。


 開いたままの左脇。


 役目を終えた祝福糸を通すための細い誘導路。


 栗の木片を収める、裾の小さな袋。


 見た目だけなら、あと少し。


 けれど、その「あと少し」に何を残し、何を捨てるかで、一着は変わる。


「三日の糸、色戻ってないね」


 ニナが硝子瓶を覗き込んだ。


 一晩の糸。


 三日の糸。


 昨日、黒い縫い種へ晒した二本は、元の青灰色より少し褪せたままだった。


「戻らないでしょうね」


 エステルは答える。


「取られたんだ」


「少しだけ」


「何を?」


「分かりません」


「祝福?」


「祝福は、もう役目を終えていました」


「じゃあ、思い出?」


 ニナの言葉に、エステルは針を止めた。


「そうかもしれません」


「糸に?」


「布も、癖を覚えますから」


「人も?」


「今は、糸の話です」


「またそれ」


 ニナは笑う。


 以前なら、そこで追及した。


 今は、自分で答えを見つけるのが面白いらしい。


「昨日、サビーネさんが言ってたでしょ。受け取ったものを返すと、流れが閉じるって」


「ええ」


「閉じたら、黒い糸に取られにくい」


「可能性があります」


「じゃあ、返してないものって、ずっと開いてるの?」


 エステルは、人台の上着を見る。


 左胸。


 そこに、新しい構造を加えるつもりだった。


「ニナ」


「何?」


「小さな布を二枚、選んでいただけますか」


「何に使う?」


「ポケットです」


「公爵の?」


「はい」


「また手紙入れるの?」


「いいえ」


 エステルは型紙へ線を足す。


 外側からは見えない、内ポケット。


 ただし、以前の黒い胴着とは違う。


 左右に一つずつ。


「受け取る側と、返す側」


「二個?」


「右に、受け取ったもの」


「左に、返すもの?」


「逆です」


「何で?」


「公爵様は右利きです。受け取ったものを左へ入れて、返すものを右から取り出すほうが自然でしょう」


「返すものって何?」


「まだ決めておりません」


 糸かもしれない。


 手紙かもしれない。


 小さな贈り物かもしれない。


 何も入れない日もある。


 重要なのは。


 服そのものが、受け取るだけで終わらない形を持つこと。


「呪いに効くの?」


「分かりません」


「じゃあ、何で付けるの?」


「公爵様に、忘れないでいただくためです」


「返すこと?」


「はい」


 ニナは少し考え。


 反物棚から、二枚の端切れを持ってきた。


 一枚は青灰色。


 もう一枚は白。


「左が青?」


「受け取るほうだから」


「右が白?」


「返すほう」


「理由は?」


「返すものって、まだ何にも書いてない紙みたいだから」


 エステルは、白い布を見る。


「よいと思います」


「採用?」


「採用です」


「給金出る?」


「端切れを選んだだけで?」


「仕事でしょ」


「それは、そうですが」


「出る?」


「銅貨一枚」


「やった」


 ニナは得意そうに笑った。


 そのとき。


 扉の外から。


「お姉さーん!」


 聞き慣れた声がした。


 リリだ。


 いつものように、ノックより先に声が届く。


「開いてる?」


「開いておりますわ」


 扉を開ける。


 リリは花籠を持っていなかった。


 代わりに。


 両手で、古い布袋を抱えている。


「どうしたのです?」


「拾った」


「何を?」


「これ」


 布袋が、もぞりと動いた。


 ニナが一歩下がる。


「何入ってるの」


「分かんない」


「拾ったのに?」


「見たら丸くなった」


「丸く?」


 リリが袋の口を少し開く。


 中から。


 小さな鼻先。


 茶色い針。


 つぶらな黒い目。


「ハリネズミ?」


 ニナが覗き込む。


「たぶん」


「どこで?」


「花市場の裏。荷車の下」


「怪我は?」


「歩ける。でも、これ」


 リリが袋を傾ける。


 ハリネズミの後ろ足に。


 赤い細紐が絡みついていた。


 さらに。


 背中の針へ、布の切れ端が引っかかっている。


「動かないでくださいませ」


「私?」


「その子です」


 リリは笑った。


「お姉さん、ハリネズミにも敬語なんだ」


「驚かせると丸くなりますから」


「もう丸いよ」


「それが困るのです」


 エステルは裁断台の端を片づける。


 祝福糸の瓶。


 黒い縫い種の金属箱。


 灰色の上着。


 危険なものを、すべて遠ざける。


「ニナ、白い布を」


「これ?」


「もっと厚いもの」


 ニナが、すぐに柔らかい木綿を持ってくる。


 その上へ、リリが布袋をそっと置いた。


 ハリネズミは、ますます丸くなる。


「どうする?」


「紐を切ります」


「針刺さらない?」


「気をつけます」


「わたしが持つ?」


「いいえ」


「何で」


「刺されます」


「エステルも」


「私は慣れております」


「ハリネズミに?」


「針に」


「違う針」


 たしかに。


 裁縫針とは、ずいぶん違う。


 エステルは苦笑しながら、小さな糸切り鋏を持った。


 赤い紐は、荷物を縛るためのものらしい。


 きつく食い込んではいない。


 ただ、後ろ足へ二重に巻きつき、動くたび締まる。


「少しだけ、我慢してくださいませ」


 鋏を近づける。


 ハリネズミが、ふしゅ、と鼻を鳴らす。


 リリが目を丸くした。


「今、怒った?」


「怖いのだと思います」


「くしゅって言った」


「ふしゅ、では?」


「くしゅ」


「どっちでもいい」


 ニナが言う。


「名前、クッシュにしよう」


「勝手に決めないでくださいませ」


「でも、名前ないと呼べない」


「野生の子かもしれません」


「飼うの?」


 リリが期待した顔で尋ねる。


「まだ決めません」


「その言い方、公爵みたい」


「どこがです?」


「今は決めない」


「似ておりません」


 赤い紐を一本切る。


 もう一本。


 ゆっくりと、後ろ足が自由になる。


 布切れも針から外す。


 灰色の毛織り。


 どこかの古着から裂けたものだろう。


 特別な糸はない。


 ただの布。


「終わりました」


 エステルが手を離す。


 しばらく。


 丸いまま。


 誰も触れない。


 やがて。


 鼻先が少し出る。


 右前足。


 左前足。


 後ろ足も、問題なく動く。


「歩いた」


 リリが嬉しそうに言う。


「大丈夫そうです」


「じゃあ、クッシュ」


「名前が確定してる」


 ニナが笑う。


 ハリネズミは、裁断台の上を二歩進み。


 灰色の布の端へ鼻を寄せた。


「そちらは駄目です」


 エステルが、すぐに布を持ち上げる。


「公爵様の服ですから」


「ハリネズミにも言うんだ」


「針が引っかかります」


 ニナが小さな箱を持ってきた。


 中へ木綿の端切れを敷く。


「これなら?」


「一時的には」


「店に置くんだ」


「飼うとは申し上げておりません」


「でも、箱作った」


「ニナが」


「止めなかった」


 そのとおりだった。


 クッシュと呼ばれ始めたハリネズミは、箱へ入れられると、端切れの間へ鼻先を埋めた。


「温かい?」


 リリが尋ねる。


「たぶん」


「パン食べる?」


「ハリネズミへパンは」


「虫?」


「詳しくは存じません」


「公爵なら知ってるかな」


「なぜ、公爵様が」


「何でも知ってそう」


「床の釘は打てるし」


 ニナが言う。


「まだ、それを」


「本当に打ったの?」


 リリが食いつく。


「今度打つって」


「約束ではございません」


「言ったよ」


「戻ったら打つ、って」


「塔の格子の話です!」


 二人の少女が笑う。


 店の空気が。


 少しだけ。


 本当に普通の朝へ戻った。


 黒糸。


 旧染色庫。


 教会。


 それらは消えていない。


 けれど。


 目の前には。


 足へ紐を絡ませただけの、小さな生き物がいる。


 服を縫う店なら。


 こういうことも、あってよい。


「リリ」


「何?」


「今日は、花は?」


「午後から売る」


「その前に、これを」


 エステルは、赤い紐を指す。


「どこで絡まったか、もう一度見ていただけます?」


「怪しい?」


「黒糸ではございません」


「じゃあ、何で?」


「荷車の事故なら、同じ場所でほかの動物や子どもが引っかかるかもしれません」


「分かった」


「無理に調べなくてよいですからね」


「見るだけ」


「近づかない」


「危なかったら、逃げる」


「はい」


「花籠は捨てる」


「覚えておりますね」


「私、一人しかいないから」


 リリは、昨日の言葉を自分で繰り返した。


 その言い方が、少し誇らしそうだった。


 エステルは頷く。


「そのとおりです」


 リリが店を出る。


 扉が閉まる。


 ニナは、クッシュの箱を足元へ置いた。


「逃げない?」


「蓋は閉めないで」


「でも」


「閉じ込めると怖がります」


「店の中歩いたら?」


「糸を食べないように見てください」


「仕事増えた」


「給金は?」


「ハリネズミ係にも?」


「仕事でしょ」


「銅貨半分」


「半分の銅貨ってない」


「では、一日で一枚」


「やった」


「正式に飼うとは言っておりません」


「分かってる」


 分かっていない顔だった。


 エステルは、灰色の上着へ戻る。


 左右の内ポケット。


 左は青灰色。


 右は白。


 受け取る。


 返す。


 それを服へ縫い込む。


 祝福ではない。


 ただの形。


 けれど。


 人は、形があるほうが覚えやすい。


「これ、公爵に説明する?」


 ニナが尋ねる。


「もちろんです」


「面倒って言うよ」


「言うでしょうね」


「でも、使う?」


「使っていただきます」


「命令?」


「仕立て師からの提案です」


「強い」


 昼前。


 アルヴィスが来た。


 今日は青灰色の外套。


 黒い胴着は修理中。


 そのため、下には簡素な黒い上着を着ている。


 扉を三度叩き。


 ニナに小窓から顔を確認され。


 ようやく入ってきた。


「毎回やるのか」


「必要なら」


 ニナが答える。


「公爵様ご自身が、今後もと」


「言った」


「では、文句をおっしゃらないでくださいませ」


「文句ではない」


「顔は文句」


「ニナ」


「何」


「最近、お前たちは俺の顔を読みすぎだ」


「分かりやすいから」


「エステルが言ってた」


「私は、お嫌なことが、と」


「同じだ」


 アルヴィスは裁断台を見る。


 灰色の上着。


 新しいポケット。


 そして。


 足元の箱。


「何だ、それは」


 クッシュが、ちょうど鼻先を出した。


「ハリネズミです」


「見れば分かる」


「クッシュ」


 ニナが言う。


「誰の」


「まだ誰のでも」


「拾い物か」


「リリが」


「店で飼うのか」


「まだ決めておりません」


「今は決めない?」


「……その言い方をなさらないでくださいませ」


 アルヴィスが、ほんの少し口元を動かした。


「似てる」


 ニナが言う。


「似ておりません」


「似てない」


 アルヴィスも答える。


「そこは合わせるんだ」


 クッシュが箱から出た。


 とことこ。


 裁断台の脚へ。


 エステルは、慌てて針箱を閉じる。


「ニナ」


「見てる」


「糸巻きも」


「上げた」


「祝福の針は」


「鍵の中」


「黒い種は」


「金属箱」


「完璧」


「給金増える?」


「それとこれとは」


「仕事増えてる」


「あとで相談しましょう」


「やった」


 アルヴィスが、クッシュを見下ろしている。


 ハリネズミは。


 なぜか。


 彼の靴の前で止まった。


「動物は、呪いへ反応するのでしょうか」


 エステルが呟く。


「近づけるな」


 アルヴィスがすぐに言う。


「まだ分からない」


「だからです」


 善意。


 贈り物。


 人の感情。


 動物に同じ仕組みが働くかは、分からない。


 実験する必要はない。


「ニナ」


「うん」


 ニナが布を一枚、クッシュの前へ差し出す。


 ハリネズミは、その布へ鼻を寄せ。


 方向を変えた。


「公爵、逃げられた」


「近づけるなと言った」


「嫌われた?」


「ニナ」


「何」


「公爵様で遊ばないでくださいませ」


「エステルも笑ってる」


「笑っておりません」


「顔」


 アルヴィスが、エステルを見る。


「笑っている」


「少しだけですわ」


「何が面白い」


「公爵様が、ハリネズミにも慎重でしたので」


「当然だ」


「優しい?」


 ニナが言う。


「安全確認だ」


「嫌とは」


「その言葉を使うな」


 いつもの。


 そのやり取り。


 けれど。


 エステルは、心のどこかで覚えておく。


 アルヴィスは。


 分からないものへ触れない。


 自分が傷つくからではなく。


 相手を傷つけるかもしれないから。


「公爵様」


「何だ」


「こちらへ」


 灰色の上着を見せる。


「新しい部分がございます」


「ポケット?」


「二つ」


「なぜ」


「左は、受け取ったもの」


「右は?」


「返すもの」


「……必要か?」


「必要です」


「何を入れる」


「それは、公爵様がお決めください」


「空でも?」


「構いません」


「空のポケットを二つ増やしたのか」


「違います」


「何が」


「役目がございます」


「物を入れないのに?」


「忘れないためです」


 アルヴィスは、左の青灰色のポケットを見る。


 右の白いポケット。


「左が、受け取る」


「はい」


「右が、返す」


「はい」


「面倒だな」


「存じております」


「外せと言っても?」


「外しません」


「俺の服だぞ」


「仕立て師は私です」


「強い」


 ニナが小声で言う。


「公爵様」


「何だ」


「お嫌ですか?」


 アルヴィスは。


 少し考えた。


 そして。


 左の青灰色へ指を入れる。


 空。


 右の白へ。


 同じく、空。


「嫌ではない」


 ニナが両手で口を押さえた。


「言った!」


「うるさい」


「今、自分で!」


「聞こえていた」


「エステル、記録」


「しません」


「顔、嬉しそう」


「ニナ」


「何」


「クッシュが糸巻きへ向かっています」


「えっ」


 少女が慌てて走る。


 アルヴィスが、小さく息を吐いた。


「助かったな」


「何がです?」


「話が逸れた」


「残念ですわ」


「何が」


「嫌ではない、とおっしゃったのに」


「もう聞いた」


「はい」


 エステルは。


 自分でも分かるほど。


 少し笑っていた。


 午後。


 灰色の上着は、ほぼ完成した。


 外側。


 灰色の麻。


 中央。


 誘導路。


 体側。


 白い絹。


 左裾。


 栗の木片。


 左右のポケット。


 そして。


 役目を終えた二本の祝福糸は、まだ入れない。


 黒糸と向き合うときだけ。


 交換できるようにする。


 普段は。


 ただの服として着る。


「完成です」


 エステルが言った。


 アルヴィスが袖を通す。


 右腕。


 左腕。


 中央の紐。


 動く。


 座る。


 立つ。


 右脇腹に当たらない。


 裾も重くない。


「どうでしょう」


「悪くない」


「七回目」


 ニナが言った。


「数えるな」


「もう七」


「数えるな」


「増えるね」


「お前の給金から引くぞ」


「エステルの店だから無理」


「……」


「負けた」


「ニナ」


「何」


「そこまでに」


 アルヴィスは左ポケットへ手を入れる。


 少しだけ。


 考える。


「何か、入れてみます?」


「今はない」


「では、右も空ですね」


「そうだ」


「いつか、使ってくださいませ」


「何を入れるか決めるのは俺だろう」


「もちろんです」


「なら、急かすな」


「はい」


 選ぶ。


 本人が。


 それでいい。


 そのとき。


 扉の外が、急に騒がしくなった。


 馬車。


 足音。


 誰かが、強く扉を叩く。


 三度ではない。


 一度。


 二度。


 続けて。


「誰?」


 ニナが、すぐにクッシュを箱へ戻す。


「王都仕立てギルドです!」


 若い男の声。


「緊急の伝言を!」


 エステルとアルヴィスが顔を見合わせる。


「小窓から」


 アルヴィスが言う。


「分かっております」


 エステルは布を少し上げる。


 ギルドの制服。


 見覚えのある若い職員。


 顔色が悪い。


「何がございました?」


「マダム・ベルナールからです」


「監査官?」


「教会で、ロデリック司祭が見つかりました」


 店内の空気が変わる。


「無事なのですか」


「生きています」


「どこで?」


「旧記録庫です」


「旧染色庫ではなく?」


「記録庫です。三日間、行方が分からなかったそうです」


「本人は?」


「意識はあります。ただ」


 職員が言いにくそうに、口を閉じる。


「ただ?」


「右腕の袖が、黒い糸で縫い閉じられていました」


 ニナが息を呑む。


「本人が?」


「分かりません」


「黒糸を持っていた司祭です」


 アルヴィスの声が、低くなる。


 小窓の向こうの職員が、驚いたように背筋を伸ばした。


「ヴァルクレイ公爵閣下も、こちらに?」


「続けろ」


「はい」


 職員は慌てて紙を広げる。


「司祭は、発見直後から同じことを繰り返しています」


「何を?」


「『私は、鐘を鳴らしていない』と」


 鐘。


 昨日。


 存在しないはずの音。


「ほかには?」


「もう一つ」


 職員が、さらに声を落とした。


「『衣装室の中にいる』と」


 エステルの指が、扉の縁を強く握る。


 母の手紙。


『縫った者は衣装室の中にいる。』


 同じ言葉。


「誰が、です?」


「それを聞いても、答えません」


「ベルナール様は?」


「今、教会に」


「ヴィオラ様も?」


「向かっています」


「私も行きます」


 エステルが言う。


「駄目だ」


 アルヴィスが即座に止める。


「なぜ」


「教会だぞ」


「だからです」


「昨日、旧染色庫が開いたばかりだ」


「ロデリック司祭が、母と同じ言葉を」


「罠かもしれない」


「分かっております」


「なら」


「一人では行きません」


 その言葉で。


 アルヴィスが止まった。


 エステルは続ける。


「公爵様も、ご一緒に」


「俺を連れて行くのか」


「灰色の服を完成させたばかりです」


「試す気か」


「教会へ行くために作ったのではございません」


「なら、着替える」


「そのままで」


「なぜ」


「せっかく、お似合いですので」


 アルヴィスが、ほんの少し目を細める。


「それは、仕立て師として?」


「もちろんです」


「本当に?」


「その聞き方は、私のものですわ」


「最近、俺のものでもある」


 ニナが、二人を見ている。


「行くの?」


「はい」


「わたしは?」


「店を」


「分かってる」


 以前のように。


 強く反発しない。


「リリが戻ったら?」


「今日は、何もさせないでください」


「外も見なくていい?」


「はい」


「クッシュは?」


「ニナが」


「正式に?」


「まだです」


「でも、任せた」


「一時的に」


「じゃあ、給金」


「帰ってから!」


 エステルは扉を開ける準備をする。


 裁縫箱。


 普通の針。


 糸。


 鋏。


 母の祝福針は持たない。


 黒い縫い種も。


 二本の祝福糸も。


 店に残す。


「針より、私たちのほうが大事」


 ニナが、先に言った。


「覚えておりますね」


「うん」


「危険なら」


「逃げる」


「店を守れなくても」


「戻ればいい」


「はい」


 ニナは。


 少しだけ胸を張った。


「行ってらっしゃい」


 エステルは頷く。


「行ってまいります」


 アルヴィスが、灰色の上着の中央を結び直す。


 左。


 受け取るポケット。


 右。


 返すポケット。


 どちらも、まだ空。


 けれど。


 教会へ向かう前。


 彼は、裁断台の上にあった小さな白い花へ手を伸ばした。


 昨日、リリが置いていったもの。


「公爵様?」


「これは、誰のだ」


「リリです」


「店のものか」


「置いていっただけです」


「なら」


 アルヴィスは、花へ直接触れず。


 エステルが使う小さな紙片で包んだ。


 左の青灰色のポケットへ入れる。


「受け取るほう?」


 ニナが尋ねる。


「試すだけだ」


「何を返すの?」


「まだ決めていない」


「空の白いポケット」


「ああ」


 それでいい。


 まだ空でも。


 返したいものが決まっていなくても。


 受け取ったことを、まず忘れない。


 エステルは。


 その姿を見て。


 灰色の一着に。


 最後に付けた二つのポケットは。


 黒糸を防ぐためだけのものではなかったのだと。


 少しだけ思った。


 店の外。


 教会から来た馬車が待っている。


 アルヴィスと並び。


 エステルは、路地を出た。


 向かう先には。


 三日ぶりに見つかった司祭。


 黒い糸。


 母と同じ言葉。


 そして。


 十年前の衣装室へ続く、新しい縫い目が待っていた。

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