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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

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第21話 縫い閉じられた袖

 教会から寄越された馬車は、路地裏を抜けるとほとんど止まることなく中央区へ向かった。窓の外では、午後の市場を片づける商人たちが忙しく行き交っているのに、車内だけはひどく静かだった。


 エステルの向かいには、完成したばかりの灰色の上着を着たアルヴィスが座っている。左胸の青灰色のポケットには、リリが店へ置いていった白い花が紙に包まれて収まっていた。右の白いポケットは空のままだ。


「先ほどから、そこを気になさっていますね」


 エステルが左胸へ視線を向けると、アルヴィスはポケットに触れかけた手を止めた。


「落ちていないか確認しているだけだ」


「内側のポケットですから、普通に歩くぶんには落ちませんわ」


「普通ではない場所へ行く」


「それは、そうですが」


 教会で三日ぶりに発見されたロデリック司祭。右腕の袖を黒い糸で縫い閉じられた状態で見つかり、発見されてからずっと「私は鐘を鳴らしていない」「衣装室の中にいる」と繰り返しているという。


 黒い糸を測定具と称してエステルの店へ持ち込んだ本人だ。疑う理由はいくらでもある。それなのに、腕を封じられた姿を想像すると、単純に敵だと決めつける気にはなれなかった。


「ロデリック司祭を信用するな」


 考えを読んだように、アルヴィスが言った。


「信用するとは申し上げておりません」


「同情もするな」


「それは、公爵様がお決めになることではありませんわ」


「面倒なことになる」


「すでに十分、面倒なことになっております」


 言い返すと、アルヴィスは窓の外へ目を向けた。反論がないということは、少なくとも否定はできないらしい。


 馬車が教会の裏手へ着くと、正面の礼拝堂ではなく、管理局の職員が使う細い廊下へ案内された。磨かれた白い石と金細工で飾られた礼拝堂に比べ、旧記録庫へ続く一角は驚くほど質素だった。高い石壁のあいだに細長い窓が並び、薄い午後の光が棚いっぱいの帳簿へ落ちている。


 その中央に、一脚だけ椅子が置かれていた。


 ロデリックはそこへ腰を下ろし、右腕を胸の前へ抱えるようにしている。顔色は悪く、いつもきっちり整えていた祭服もひどく皺になっていた。何より目を引くのは、肘から手首までを閉じる黒い糸だった。


 袖の端と端を拾いながら、二十針以上。針目は決して美しくないが、乱暴に縫ったものでもない。間隔は揃っていて、糸を引く力もほぼ一定だ。急いでいても、縫うことに慣れた手だと分かる。


「近づくな」


 アルヴィスが低く告げた。


「まず、見ます」


 エステルはその場で足を止めた。直接近づく必要はない。仕立て師は、遠くからでも見られるものがある。


「エステル」


 棚の奥からヴィオラが歩いてきた。白と黒だけでまとめた服はいつもより簡素だが、袖口にも襟にも糸くず一つない。


「来たのね」


「ベルナール様は?」


「隣で教会側と話してる。証拠を切るな、触るなで揉めてたから、あなたが来るまで待つことになった」


「正しい判断です」


「自分で言う?」


「縫い目を壊さず外せる人が必要でしょう?」


「そこは否定しない」


 ヴィオラはロデリックの右袖へ目を向け、声を落とした。


「発見されたのは今朝。ここの奥にある小書庫よ。扉は内側から掛け金が下りていた」


「自分で閉じこもった可能性は?」


「本人は覚えていない」


 エステルはロデリックへ向き直った。


「司祭様。いくつか、お聞きしても?」


 ロデリックは少し遅れて顔を上げた。店へ来たときに見せた尊大さは影もなく、ひどく疲れた目をしている。


「何だ」


「腕に痛みはございますか」


「痛みはない。指先が少し痺れる」


「肩は動かせます?」


「動かすなと言われた」


「それで結構です。無理になさらないで」


「ずいぶん親切だな」


 自嘲するような声だった。


「困っている方の服を見るのが仕事ですので」


「私が、お前の針へ黒い糸を巻こうとしたことを忘れたのか」


「忘れておりません。ですから、今も警戒しております」


「それでも?」


「それでも、袖が縫い閉じられていることとは別です」


 ロデリックはしばらく何も言わなかった。やがて、右腕から目を逸らし、「好きにしろ」と小さく言う。


 エステルは裁縫箱から小さな鏡と木の柄がついた拡大鏡を出した。袖へ直接触れず、光の角度を変えながら表と裏を確かめていく。


「黒糸ですが、塔で見た奪い糸とは違うように見えます」


「分かるの?」とヴィオラが尋ねる。


「艶があります。塔の糸は光そのものを吸うようでしたが、こちらは細く反射する。少なくとも、同じ状態ではありません」


 サビーネが言っていた。黒い糸のすべてが奪い糸ではない。色だけで判断すれば、十年前と同じ間違いを繰り返す。


 エステルはもう一度、袖全体を見渡した。黒糸の太さは、礼装の補修に使う糸より少し太い。強く引けば布地に皺が寄るはずなのに、祭服にはそれがほとんどない。縫った者は、腕を動かせなくするだけの張力を残しながら、布を破かないところで止めている。単に脅すだけなら紐で縛ればよいのに、わざわざ針を使い、古い技法で袖を閉じた。


「見せるために縫っていますね」


「何を?」とベルナールの書記官が聞いた。


「黒い糸であることと、縫ったという事実をです。手を使わせたくないだけなら、もっと簡単な方法があります。なのに、この人は時間をかけて袖を一針ずつ閉じている」


 アルヴィスがロデリックを見る。


「黒糸を使った者に、黒糸で返した」


「おそらく。でも、本物の奪い糸を使う必要はなかったのでしょう」


「奪い糸に見せかけた普通の黒糸なら、証拠として残しやすい」


 ヴィオラがそう言い、エステルの鏡を別の角度から覗いた。


「それに、この糸は市販品じゃないわ。撚りが二本じゃなく三本。王室の礼装補修で昔使っていた規格に近い」


「教会にも同じものが?」


「儀礼服の修繕用に回った可能性はある。でも、今のギルドではほとんど扱わない」


 ひとつの手がかりが出るたび、候補は狭まるようで、同時に別の道も増えていく。だからこそ、急いで名前へ結びつけてはいけない。エステルは自分へ言い聞かせるように、袖の針穴へ視線を戻した。


「縫った向きは?」


 ヴィオラが隣から鏡を覗き込んだ。


「手首側から肘へ。表の糸が少し肘側へ倒れています」


「右利きの人間が、ロデリックの正面に立って縫った?」


「その可能性が高いです。ただ、もっと気になるのはこちらです」


 エステルは鏡の角度を変えた。縫い始めと縫い終わりに、結び目が見えない。


「糸端を布の中へ隠しています」


「高級衣装の裏留めね」


 ヴィオラの表情が変わった。


「今も使うのですか?」


「使わないわけじゃない。でも、王室衣装室では古いやり方。今はもっと早くて、同じくらい肌当たりのいい留め方がある」


「十年前なら?」


「普通に使われていた」


 アルヴィスの目が細くなる。


「十年前の衣装室を知る者が縫った可能性がある」


「可能性ですわ。まだ決めてはいけません」


「分かっている」


 短い返事だったが、エステルはわずかに安心した。


 そこへマダム・ベルナールが隣室から戻ってきた。いつも以上に硬い表情で、教会側の書記官を二人連れている。


「記録を取ってから外すわ。魔写紙でも残す。エステル、切る位置を指定して」


「その前に、司祭様へもう少し」


 ベルナールは一度だけロデリックを見て、頷いた。


「短く」


「司祭様。店へいらしたあと、どこまで覚えております?」


 ロデリックの眉が寄った。


「教会へ戻った。測定糸を管理局へ返すつもりだった」


「黒い糸を?」


「ああ」


「祝福の残量を測るための糸だと、以前おっしゃいました」


「そう教えられていた」


「今は、違うと?」


 ロデリックは苦い顔で黙り込み、やがて観念したように息を吐いた。


「測定糸ではない」


 ヴィオラが腕を組んだ。


「ようやく認めるのね」


「私は長いあいだ、本当にそうだと思っていた」


「誰に教えられたのです?」


「前任の祝福管理局長、オルフェン司教だ。十年前まで管理局を率いていた」


「今は?」とアルヴィス。


「名簿上は北の療養院にいる」


「名簿上は、か」


「私は三年前から直接会っていない」


 また、名簿上。最近になって、その言葉は信用より警戒を呼ぶようになっていた。


「何をきっかけに、糸を疑ったのです?」


「管理記録だ。祝福の残量を測った前後で、数値が必ず少し減っている。誤差と呼べる程度だったが、数百件を並べると同じ方向へ減っていた」


「測るたびに、奪っていた」


 エステルが呟くと、ロデリックの顔が歪んだ。


「おそらくな」


「それに気づいてからも使ったの?」


 ヴィオラの声が冷たくなる。


「止めようとした」


「結果は?」


「止められなかった」


「なぜ」


「教会の規則だから、と言えばお前は納得しないだろう」


「当然でしょう」


「私も、今は納得していない」


 その言葉に、ヴィオラが少しだけ黙った。


 ロデリックは続けた。


「最初は、管理局の内部だけで調べた。測定糸の使用回数、保管庫から出した者、戻した者、使われた衣装。ところが、ある時期から記録の数字が合わなくなった」


「糸の数が?」


「そうだ。使い切ったとされた巻き糸が、翌月には別の番号で再登録されていた。逆に、一度も使われていないはずの巻き糸が消えていることもあった」


「誰かが入れ替えていた?」


「そう考えた。だが、保管庫の鍵は管理局長と副局長、それに教会財務官しか持たない」


「あなたは?」


「副局長になってから持った」


「なら、ご自分も候補ですわね」


 エステルがあえて言うと、ロデリックは苦く笑った。


「そうだ。だからこそ、一人で持ち出した記録には証拠としての価値がない。私はそれに気づくのが遅すぎた」


 ユリウスが静かに頷く。


「その点は重要です。今後は、調査記録を三者で共有しましょう。教会、ギルド、公爵家。誰か一人の手元だけに置かない」


「私の店にも写しを?」


「必要な部分は」


「店が記録庫になっていきますね」


「棚を増やす必要があるな」


 アルヴィスが当然のように言うので、エステルは思わず振り返った。


「前金からは出しませんわよ」


「誰も前金とは言っていない」


「床の件もまだです」


「今、その話をするのか」


 張りつめていたロデリックまで、わずかに目を瞬かせた。ほんの一瞬だったが、それで十分だった。誰かが一人で抱え込む調査ではなくなりつつある。そのこと自体が、十年前とは違う。


「だから旧記録を調べた。黒い糸がいつから測定具になったのか、誰が導入したのか。そこで、十年前の婚礼衣装の記録に行き着いた」


 エステルの胸が強く鳴る。


「母の事件へ?」


「ああ」


「母の縫い目が違うことも?」


「直接見たわけではない。ただ、王室衣装室の修繕簿に、式当日の朝と午後で針目の間隔が違うという記載があった」


「そんな記録が?」


「写しが、教会にもあった。三年前までは」


「今はない」


 アルヴィスが先に言った。


「消えた。ページごとだ」


「王宮側の原本は?」


「旧衣装室の保管庫にあるはずだ」


 エステルは母の手紙を思い出した。


『縫った者は衣装室の中にいる。』


 ロデリックが繰り返していた言葉。


「それを調べていて、姿を消したのですか?」


「最後に覚えているのは、旧記録庫へ降りたところまでだ。誰かの声を聞いた」


「どんな声です?」


「低い。男か女かも分からない」


「何と?」


 ロデリックの右手がわずかに震えた。


「『腕を使うな』」


「ほかには?」


「『口より、手のほうが余計なことをする』」


 右腕。文字を書く手。帳簿をめくり、鍵を開け、隠された記録を探す手。


 殺すのではなく、その手を縫い閉じた。


「警告ですね」


 エステルが言うと、アルヴィスはロデリックから目を離さず答えた。


「本人だけへのものではない」


「私たちにも?」


「ああ。黒糸を追う者へ、見せるために生かした」


 記録庫の空気が、一段冷えた気がした。


 ベルナールが口を開く。


「だからこそ、証拠を残す。切りなさい、エステル」


 魔写紙で袖全体、縫い目の間隔、裏側の始末まで写し取り、書記官が位置を記録する。準備が整うと、エステルは普通の糸切り鋏を手にした。


「司祭様、動かさないでくださいませ」


「分かっている」


「少しでも熱や痛みがあれば、すぐおっしゃって」


 手首に近い一針。糸と布の間へ鋏の先を滑り込ませる。


 ちき、と軽い音がした。


「切れました」


「普通の糸?」とヴィオラ。


「少なくとも、塔の奪い糸のように刃を逃げません」


 一針ごとに切り、短くした糸を金属皿へ落としていく。急いで一気に引けば、縫い穴を広げ、布も証拠も傷める。一つずつ。糸の向きと穴の形を確かめながら、袖を開いていった。


 半分ほど外れたところで、ロデリックの白いシャツと手首が見える。皮膚に黒い線はない。代わりに、手首の内側へ小さな赤い点が一つ残っていた。


「針跡です」


 ベルナールが教会医師を呼ぶ。医師は皮膚へ直接触れないよう薄い布越しに確認し、「鎮静薬を入れた跡かもしれない」と答えた。


「眠らされ、そのあと袖を縫われた」


 ユリウスが記録へ書き加える。


「それなら、自分で縫った可能性はさらに低いですね」


「低いだけでゼロではない」とベルナール。


「はい。ですから、縫い目を見ます」


 最後の糸を外すと、布の内側に隠されていた糸端が現れた。エステルは細い針先で、その始末を壊さないよう引き出す。


「ここに、粉が」


 黒糸の端へ、灰青色の粉がごく薄く付着している。


 ヴィオラが顔を近づけた。


「青墨の印付け粉」


「王室衣装室で使うものですか?」


「昔はね。裁断線の仮印に使ってた。布へ色が残る事故が続いて、九年前に廃止された」


「事件の翌年ですわね」


「そう」


 十年前の衣装室を知る人間。古い裏留め。古い印付け粉。


 だが、それだけで誰か一人を指すことはできない。


「保管されている場所は?」


 アルヴィスが尋ねた。


「旧衣装室なら、当時の道具箱が残っている可能性はある」


 ヴィオラが答えると、ベルナールが目を細める。


「旧衣装室へ入れる者は?」


「王室衣装管理官、副管理官、王家から許可を得た者。教会にも儀式衣装の点検権限があるわ」


「公爵家の緊急権限でも入れる」


 アルヴィスが付け足す。


「つまり、候補は少なくありませんね」


 エステルはそう言い、あえて誰の名前も挙げなかった。


 ヴィオラが続ける。


「現管理官はセラフィーネ・オルドー。五十代で、二十年以上王室衣装室にいる。十年前も在籍していた」


「だからといって疑うな、と?」


 ベルナールがエステルを見る。


「はい。名前や立場より、まず縫い目を」


「リディアの娘らしいのか、らしくないのか分からないわね」


「母なら、もっと早く決めつけました?」


「逆。あの人は縫い目を見るまで誰も信じなかった」


 ベルナールの答えに、エステルは少しだけ笑った。


 外した黒糸は、教会、ギルド、公爵家の三者で分けて封印することになった。エステルはその一部をサビーネへ見せるため、ユリウスの保管分から後日借りる許可を得る。


 証拠の処理が終わるころには、ロデリックの右腕は自由になっていた。彼は恐る恐る指を握り、開き、肘を曲げる。痺れは残るものの、動きに問題はなさそうだった。


 ただし、白い祭服の袖には黒糸が通った穴が連なり、そのままでは少し力を入れただけで裂けかねない。


「袖を、直しましょうか」


 エステルが言うと、ロデリックは意外そうに顔を上げた。


「今、ここで?」


「証拠の記録は終わりました。穴だけ残せば、布が傷みます」


「お前が、私の服を直すのか」


「破れておりますので」


「私は、お前の店で黒い糸を使おうとした」


「先ほども聞きましたわ」


「忘れていないのだな」


「忘れていないからといって、破れを放っておく理由にはなりません」


 ロデリックは、何か言い返そうとしてやめた。


 エステルは白い糸を選び、黒糸が通っていた穴を一つずつ拾った。元の縫い目へ無理に戻すのではなく、穴の周囲を支えるように糸を渡す。見えなくすることより、これ以上裂けないことが先だ。


「黒ではないのか」


 ロデリックがぽつりと尋ねる。


「お嫌でしょう?」


「……そうだな」


「なら白で」


「祝福は?」


「縫いません」


「私だから?」


「この袖に、今、祝福が必要だと思わないからです」


 エステルは手を止めずに答えた。


「祝福がなくても、服は腕を動かしやすくできます。破れを止めることも、肌へ糸が当たらないようにすることもできます。今日は、それで十分ですわ」


 ロデリックは修繕されていく袖を見つめたまま、長く黙っていた。


「記録にあった」


「何がです?」


「リディア・ラヴィニアが拘束された日だ。連行の途中で、護衛の袖を直したと」


 アルヴィスの視線が動く。


「私も見た」


「公爵様が?」


「ああ。破れた袖を見て、歩きながら直していた」


「記録には何と?」


 ヴィオラが尋ねると、ロデリックは少しだけ口元を歪めた。


「『対象者、連行中に護衛衣装を無断修繕』」


「無断修繕」


 ヴィオラが耐えきれず笑った。


「王室の記録って、本当に言い方が悪い」


「母なら、許可を取る前に縫ったでしょうね」


「お前も似ている」


 アルヴィスが言う。


「私は確認しております」


「今はな」


「公爵様」


 ほんの少し、記録庫の空気が緩んだ。


 最後の一針を入れ、裏へ糸端を隠す。


「終わりました。肘を曲げてみてくださいませ」


 ロデリックが慎重に腕を曲げる。縫い直した袖はつれず、肌へ糸も当たらない。


「……普通だ」


「普通の修繕ですから」


「祝福を縫えるのに?」


「祝福を縫えることと、何でも祝福で直すことは別です」


 その答えに、ロデリックは初めてエステルを正面から見た。何かを測るような視線ではなく、ただ理解しようとする目だった。


 そこへ、ベルナールへ王宮の使者が書状を届けた。


 書状には王家の封蝋が押されていた。全員の視線が集まるなか、ベルナールが封を切り、文面へ目を走らせる。読み終える前に、その眉がわずかに上がった。


「王妃陛下からよ」


「何と?」


 アルヴィスが立ち上がる。


「昨夜の鐘を王宮でも聞かれた。十年前の婚礼衣装事件について、正式な再調査を命じるとのこと」


 エステルの手が止まる。


「旧衣装室を?」


「明日、開封する」


「誰が立ち会います?」


「ギルドから私とヴィオラ。教会から一名。王室衣装管理官セラフィーネ・オルドー。公爵家からヴァルクレイ公爵閣下」


 ベルナールはそこで一度、文末を確認するように目を落とした。


「それから、エステル・ラヴィニア」


「私も?」


「王妃陛下の指名よ」


 アルヴィスが静かに言った。


「陛下は、十年前の婚礼に立ち会っている」


「王太子妃の介添えだった」


 ベルナールが補う。


 つまり、王妃は母の事件をただ記録で知る人ではない。実際にあの日、婚礼衣装を見た証人だ。


「もう一つあるわ」


 ベルナールの声が少し低くなる。


「エステル。リディアの祝縫針を持参するように、と」


 記録庫の空気が、再び張りつめた。


「母の針を王宮へ?」


「旧衣装室の扉には、リディアが残した封印があるらしい」


「そんなものが?」


「王室衣装管理官から報告があった。祝縫針でしか開かない、と」


「危険だ」


 アルヴィスが即座に言った。


「私もそう思う」とベルナール。「でも、王妃陛下の命令以前に、十年前の証拠が中にある可能性が高い」


 エステルは裁縫箱を閉じた。店へ戻れば、金属箱の中に母の針がある。ずっと守ろうとしてきた一本を、今度は事件の中心だった王宮へ持っていかなくてはならない。


「行きます」


 アルヴィスがこちらを見る。


「まだ、何も言っていない」


「一人で行くな、とおっしゃるのでしょう?」


「……そうだ」


「では、ご一緒に」


「最初からその予定だ」


「分かっております」


「顔が分かっていない」


「それも、最近よく言われますわ」


 ヴィオラが小さく笑い、ロデリックは直されたばかりの右袖を見下ろしていた。


 黒い糸で閉じられていた腕は、白い糸で再び動くようになった。けれど、十年前から閉じられたままの衣装室には、まだ誰も手を入れていない。


 明日、母の針でその扉を開ける。


 エステルはそう考えながら、裁縫箱の留め金を確かめた。閉じたものを開くときこそ、何が閉じられていたのかを先に見なければならない。それを、ここ数日で何度も教えられていた。


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