第22話 母が閉じた衣装室
翌朝、王宮西翼へ向かう馬車の中で、エステルは母の裁縫箱を膝の上に置いたまま、何度も留め金へ指を触れていた。
箱の中には、青白い祝縫針が一本。これまで店の床へ固定した金属箱へ隠し、持ち出さないと決めていた本物の針だ。それを今、自分から事件の中心だった王宮へ運んでいる。
「重いか」
隣に座るアルヴィスが尋ねた。
「裁縫箱ですから、それほどでは」
「箱の話ではない」
エステルは少し黙り、それから正直に頷いた。
「……少しだけ」
「持つか」
「公爵様が?」
「箱なら持てる」
呪いのせいで、善意を伴う贈り物や祝福には触れられない。けれど、裁縫箱はエステルが使う仕事道具であって、彼へ渡すものではない。理屈としては持てるのだろう。
それでも、エステルは箱を抱え直した。
「お気持ちだけ、いただきます」
「そうか」
アルヴィスは無理に手を伸ばさなかった。
今日も、彼は灰色の上着を着ている。奪い糸を体へ届かせないために仕立てた一着で、左胸には青灰色、右胸には白い内ポケットがある。受け取るものと、返すもの。左には昨日リリから受け取った小さな白い花が、紙に包まれたまま入っていた。
「まだ、花をお持ちなのですね」
「何か問題が?」
「ございません。ただ、少し意外でした」
「捨てる理由がない」
「そうですか」
「顔が何か言っている」
「何も言っておりませんわ」
「本当に?」
「その聞き方は、私のものです」
「最近は俺のものでもある」
いつものやり取りを二つ三つ交わしただけで、胸の奥にあった硬さが少しほどける。王宮へ近づくほど母の事件が現実味を増していくからこそ、こうした小さな会話がありがたかった。
西翼の廊下は、式典の行われる中央宮とは違ってひどく静かだった。衛兵、侍従、王室衣装室の職員、教会の記録係、ギルドの書記官。必要な人数は揃っているのに、誰も大きな声を出さない。
十年前から閉じられた扉を、これから開ける。その事実だけで、廊下そのものが息を潜めているように感じられた。
突き当たりには、重い木の扉がある。王家の紋章の下へ、三枚の古い封印札。王家、王室衣装室、教会。さらに中央には、鍵穴とは違う細長い穴が一つ開いていた。
その前に、濃紺の衣装を着た女性が立っている。
「セラフィーネ・オルドー」
先に来ていたヴィオラが小声で教えた。
王室衣装管理官。五十代。二十年以上この場所で働き、十年前も王室衣装室に所属していた人物。
銀に近い金髪をきっちりまとめ、襟元にも袖口にも余計な飾りはない。それでも、立っているだけで布の線が美しい。仕立ての良さを見せつける服ではなく、着る人の仕事を邪魔しない服だ。
「エステル・ラヴィニア嬢」
セラフィーネがこちらを見る。
「はい」
「お母上によく似ている」
「そう言われます」
「でも、その服はリディアなら選ばなかった」
視線がエステルの灰色の仕事着へ落ちる。
「地味でしょうか」
「そうではない。リディアは、自分の肩をもう少し強く見せる服を好んだ。誰にも押し戻されないように」
「母らしいです」
「あなたは、少し隠すのね」
「必要なところは」
公爵を隠す服も作った。奪い糸から守る服も作った。隠すことは、弱くすることではない。見せるべきものを選ぶことだと、今は思っている。
ベルナールが書類を確認しながら近づいてきた。
「立ち会いは揃ったわ。王妃陛下は隣の控え室。封印が正常に開いたことを確認してから入られる」
「教会側はロデリック司祭ではないのですね」
「まだ休ませてる。今日は記録官だけ」
「それがよろしいかと」
「本人が聞いたら不満でしょうね」
「昨日の袖を見れば、休むべきです」
扉の中央へ近づく。細長い穴は、ちょうど針の太さに見えた。
「ここへ祝縫針を?」
エステルが尋ねると、セラフィーネは頷いた。
「完全には差し込まないで。針穴の手前で止める」
「なぜです?」
「封印台帳に、リディア自身がそう残している」
扉の脇に設けられた小箱から、セラフィーネが一枚の紙を取り出した。十年前の日付と、母の署名。
『この部屋は、正しい針を持つ者が、自分の意志で開けること。
命令では開かない。恐れでも開かない。
針だけを信じる者にも、開かない。』
最後の一文に、エステルの胸が強く鳴った。
「針だけを信じる者にも」
それは、母の隠し箱にあった言葉と同じだった。
『針より先に縫い目を信じなさい。』
「開けられる?」
ヴィオラが尋ねる。
「分かりません」
「怖い?」
「はい」
エステルはそれも隠さなかった。
「でも、開けます」
「王妃陛下の命令だから?」
「違います。母がここへ何を残したのか、私自身が知りたいからです」
必要なのは、自分の意志だ。エステルは裁縫箱を開き、白い布へ包んだ祝縫針を取り出した。針穴には星青石の小さな青が宿り、廊下の薄い光を受けてかすかに輝く。
教会の記録官が息を呑む音がした。
「これが、本物」
「はい」
今は、そう言える。
穴の前へ針先を近づける。ほんのわずかに星青石が明るくなり、扉の内側で、かちり、と小さな音がした。
「抜かないで」
セラフィーネの声。
次の瞬間、王家の紋章の下から青い線が浮かび上がった。
一本の線ではない。近くで見ると、細かな針目が連なっている。まるで、木の扉そのものを透明な糸で縫い閉じたような跡だった。
「封印の縫い目」
エステルは思わず息を呑む。
細かい。均一。糸を引く力が一定で、それでいて木を傷めていない。母の手紙や試し布で何度も見た、リディアの針目だ。
だが、目で追っていくうちに、違和感があった。
「待ってください」
「どうしたの?」
ベルナールが記録官を止める。
「ここだけ、違います」
扉の中央より少し下。ほんの一寸ほど、針目の間隔が広い。母の縫い目が左から右へ進んでいるのに、その部分だけ糸の倒れ方が逆だった。
ヴィオラがすぐ隣へ来る。
「本当だ。右から左へ入ってる」
「母が封印したあと、別の人がここへ針を通しています」
「開けた?」
アルヴィスが尋ねる。
「それはまだ分かりません。少なくとも、封印へ触れた」
「記録を」
ベルナールが即座に命じる。魔写紙、寸法、針目の数、方向、穴の角度。扉が開いたあとに封印が消える可能性もあるため、全員が開封を中断して記録を残した。
セラフィーネは、違う針目を見たまま動かない。
「ご存じでした?」
アルヴィスが聞く。
「いいえ」
「十年間、一度も?」
「封印は青い線として浮かばない限り、普通の木目にしか見えない。祝縫針がなければ確認できなかった」
「では、外から誰かが触れた可能性を、今初めて知った?」
「そうです」
声は平静だったが、右手の指先だけが強く握られている。
「開けます」
記録が終わるのを待ち、エステルは改めて針を持ち直した。違う針目そのものには触れない。母の正しい縫い目だけを、針先でなぞる。
一針、二針と慎重に線を追うにつれて青い光が扉全体へ広がり、三つの封印札の奥で、それぞれ別の錠が外れる音がした。
最後に、重い扉がわずかに内側へ動く。
十年分の乾いた空気が、細い隙間から廊下へ流れ出した。
エステルは思わず一歩退いた。
「私が先に入ります」
セラフィーネが言う。
「待て」
アルヴィスが止めた。
「私は管理官です」
「今は、誰にとっても未知の部屋だ」
「だから管理官が」
「黒糸があれば?」
セラフィーネが黙る。
「俺が先に入る」
「公爵様」
エステルが灰色の上着を見る。
「役目を終えた祝福糸は、今日は入れておりません」
「分かっている」
「黒糸があれば、すぐ出ます」
「ああ」
「私も後ろに」
「一人で入るとは言っていない」
アルヴィスは、わずかに眉を寄せた。
「その約束は覚えている」
「それなら結構です」
「嬉しそうに言うな」
「少しだけですわ」
扉をゆっくり押し開ける。
旧衣装室は、時間だけを閉じ込めたような場所だった。
厚い布で覆われた窓。人台。裁断台。壁一面の型紙。棚に並んだ糸巻き。木箱へ収められた装飾。十年分の埃が均等に積もり、床には新しい足跡が一つもない。
「最近、人が入った形跡はありませんね」
エステルが床を見て言う。
「封印が正常だったなら当然よ」とベルナール。
「でも、封印には別の針目がありました」
「外から触れただけかもしれない」
「はい」
だから、今はまだ何も決めない。アルヴィスが一歩進み、エステルが続く。その後ろにヴィオラ、ベルナール、セラフィーネ、ユリウス、教会の記録官。護衛は扉の外へ残した。
全員が中へ入ったところで、廊下の侍従が静かに名を告げた。
「王妃陛下、お入りになります」
一同が姿勢を正す。エステルも裁縫箱を抱え直した。王妃ミレーヌは白と淡い青の衣装をまとい、銀金の髪を低い位置でまとめている。胸元の薔薇飾り以外に目立つ宝飾はなく、今日は王宮の主としてではなく、十年前を知る証人としてここへ来たのだと分かる装いだった。
「顔を上げて」
穏やかな声に、エステルは顔を上げる。王妃の視線はまず母の祝縫針へ向かい、それからエステルへ移った。
「リディアの娘ね」
「はい。エステル・ラヴィニアと申します」
「知っています。薔薇のことも」
王妃がそう言うと、アルヴィスがわずかに視線を逸らした。
「陛下、その件は」
「お礼はもう聞きました。あの一言を聞くのに、ずいぶん長く待ちましたから」
責める口調ではなく、むしろ少し笑っている。アルヴィスは何も返さず、左胸の青灰色のポケットへ一瞬だけ手をやった。そこに入っているのは王妃の白薔薇ではなく、路地裏の少女が置いていった小さな花だ。それでも、受け取ったものを忘れないための場所として、きちんと使っている。
「陛下。この部屋には、まだ最近の侵入跡は見つかっておりません」
ベルナールが報告すると、王妃は床の埃を見て頷いた。
「十年ぶりです」
「以前、中へ?」
エステルが尋ねる。
「何度も。婚礼の前までは、エレノアの衣装を見るために来ていました。当時の私は介添え役でしたから」
十年前の事件を記録で知るのではなく、実際に衣装へ触れる距離にいた証人。そのことを改めて聞くと、エステルの背筋が伸びる。
「母とも、お話しに?」
「何度も。リディアは王族相手でも、布の扱いが悪ければ遠慮なく叱る人でした。一度、私が手袋を片方だけ椅子へ置いたまま立ったとき、『座れば皺になります』と取り上げられたことがあります」
「……母らしいです。申し訳ございません」
「なぜあなたが謝るの?」
王妃が小さく笑った。
「懐かしい話です。あの人の名が事件の記録だけに残っているわけではないと、あなたにも知ってほしかった」
その一言に、エステルの胸の奥が少し熱くなる。母は罪を着せられた祝縫師である前に、誰かの手袋の皺を気にする普通の仕立て師でもあった。
王妃は室内を見渡し、中央の裁断台へ目を止めた。
「配置は、ほとんど変わっていません。ただ、あの白い覆い布は、私が最後にここへ来たときにはありませんでした」
「では、事件のあとに母が?」
「おそらく。王太子妃が倒れたあとの混乱で、私はこの部屋へ戻れませんでした。でも、リディアは拘束される直前、一度ここへ戻ったと聞いています」
王妃はそこで一度、言葉を切った。
「そのあと廊下ですれ違ったとき、あの人は私に『縫い目を残しました』と言いました」
「縫い目を?」
「ええ。それから、『もし戻れなくても、誰かが裏を見るでしょう』と」
戻れない可能性を分かっていて、それでも母は誰かが縫い目を見ることに賭けた。エステルは扉に残っていた別の針目を思い出す。今、急いで名前へ飛びつかないこと自体が、母の残した指示に従うことなのかもしれない。
「陛下。そのとき、リディアは誰かの名前を?」
アルヴィスが尋ねる。
「いいえ。少なくとも私には」
「なら、まだ人へ結びつけるなということか」
「私は、そう受け取りました」
王妃の答えに、エステルも頷いた。印より、名前より、まず裏を見る。母が十年前に残したやり方を、今度はこちらが守る番だ。
「匂いがします」
エステルが鼻を動かす。
「古い布?」
「それだけでは」
セラフィーネも空気を確かめた。
「青墨ね」
「昨日、ロデリック司祭の糸に付いていた印付け粉?」
「同じ系統。ここでは昔、普通に使っていた」
「九年前に廃止された」
「ええ。この部屋は十年前に閉じられているから、残っていても不自然ではない」
手がかりはある。しかし、まだ誰かを指さない。
部屋の中央には、大きな裁断台があった。その上へ白い埃除け布が掛けられ、四隅が糸で留められている。中央だけが少し盛り上がっていた。
「これは?」
「リディアがよくやっていた覆い方」
セラフィーネが答える。
「裁断途中のものに埃が乗らないよう、四隅だけ軽く縫う」
「では、母の手で?」
「おそらく」
エステルは四隅の糸を確認した。白い普通糸。母の細かな縫い目。祝福は感じない。
「切ります」
一箇所ずつ糸を外し、布を持ち上げる。
下にあったのは、白い婚礼衣装の前身頃だった。
胸元から腰まで。完成した一着ではなく、同じ織りの白布へ婚礼衣装の縫い目だけを再現したように見える。
セラフィーネの顔が強張る。
「この布……」
「十年前の王太子妃の婚礼衣装と同じ?」
「同じ織りよ」
ヴィオラが裏返す許可を求め、エステルと二人で慎重に布を返した。
裏側には、母の針目が残っている。途中までは細く均等で、一定の間隔。ところが腰へ近づく箇所から、針穴の間隔と角度が変わる。
黒糸そのものはない。だが、別の手が縫った跡は残っている。
「実物から切った布ではありませんね」
エステルが縁を見る。
「端が織り上がりのままです。予備布でしょう」
「王室の婚礼衣装なら、修繕用に同じ反物を残す」とヴィオラ。
「母は、その予備布で縫い目を再現した」
「証拠を残すため?」
「おそらく」
エステルが別の針穴を追っていると、そのすぐ脇に小さな赤い印が見えた。
「これは何でしょう」
セラフィーネが近づき、息を止めた。
「個人印」
「王室衣装室の?」
「ええ」
「誰のです?」
問いに、彼女は答えなかった。
アルヴィスの声が低くなる。
「管理官」
セラフィーネは、赤い印から目を離さないまま言った。
「私の印です」
部屋の空気が張りつめた。
ベルナールが一歩前へ出る。
「説明を」
「できません」
「あなたの印が、リディアの残した証拠布に付いている」
「見れば分かります」
「十年前、触った?」
「触っていない」
「本当に?」
「本当に」
声は強い。ただし、その強さが無実の証拠になるわけではない。
「個人印は、誰が使えたのです?」
エステルが聞く。
「原則、本人だけ。印型は裁断台の鍵付き引き出しに保管していた」
「鍵を持つのは?」
「管理官、副管理官、数人の上級裁断師。それに、祝縫師としてリディアにも一部の保管庫権限があった」
「つまり、母にも取り出せた」
「ええ。でも、あの人が私へ罪を着せる理由がない」
「それは、あなたが母を信じているから?」
「そうです」
エステルは母の事件を思う。信じている、だけでは証拠にならない。けれど、印がある、だけでも証拠にはならない。
「縫い目を比べましょう」
「何と?」
「セラフィーネ様の針目と」
エステルは裁縫箱から普通の白布と針、それから赤い糸を出した。
「直線を十針、お願いできますか」
「今、ここで?」
「はい」
セラフィーネは数息だけエステルを見たあと、無言で針を受け取った。
十針。
速い。迷いがなく、表も裏も整っている。ただ、母の証拠布に残された別の針目とは、明らかに違った。セラフィーネの針目は短く、糸を引く力が少し強い。問題の針穴はもう少し長く、布を柔らかく残す癖がある。
「この布を縫った人は、セラフィーネ様ではありません」
王妃が、セラフィーネの試し縫いと証拠布を交互に見た。
「十年前、セラフィーネは婚礼衣装の最終確認にも入っていましたね」
「はい、陛下。ただし式の直前は、別室へ裾飾りを届けるよう命じられていました」
「誰の命令で?」
「当時の臨時管理官です」
ユリウスがすぐに口を挟む。
「勤務割の記録は残っていますか」
「この部屋のさらに奥に人員台帳があるはずです。封印後に持ち出されていなければ」
「あとで確認しましょう」
エステルは会話を聞きながら、試し縫いの裏側まで見比べた。表の針目の長さだけ似せることはできても、針を抜く角度や糸を引く癖までは簡単に消えない。人が歩き方を完全には隠せないように、縫い目にもその人の体が残る。
ベルナールがすぐ口を挟む。
「少なくとも、この十針と同じ手ではない、ね」
「はい。完全な無実の証明ではありません。でも、印だけで決める理由もなくなりました」
セラフィーネの肩から、ごくわずかに力が抜けた。
「ありがとう、とは言わない」
「まだ何も終わっておりませんから」
「そうね」
そのとき、部屋の奥で、ころ、と小さな音がした。
全員が振り返る。
壁際の糸棚から、赤い糸巻きが一つ落ち、床を転がっていた。埃の上を通るたび細い跡を残し、やがてセラフィーネの足元で止まる。
「触らないでください」
エステルが言った。
黒い糸ではない。それでも、誰も触れない。
セラフィーネの顔から血の気が引いていく。
「私の印糸」
「先ほどの赤い印に使う糸?」
「ええ。十年前、私はこの色を使っていた」
「なぜ、今、落ちた?」
「分からない」
ヴィオラが棚の埃を見る。
「自然に落ちたなら、棚板にも滑った跡があるはず」
「ありません」
エステルも確認する。糸巻きが置かれていたと思われる場所だけ、埃が薄い。しかし、その手前へ糸が引かれた跡はない。
「仕掛け?」
ベルナールが言う。
「誰かが、開封時に落ちるようにした?」
「封印へ別の針目がありました」
エステルは扉を見る。
「完全に入らなくても、細い糸なら隙間から通せた可能性があります」
「今日、セラフィーネを疑わせるため?」
「その可能性があります。ただし、これもまだ仮説です」
印。赤糸。管理官。あまりにも筋が通りすぎている。
エステルは、赤い糸巻きが転がった跡をもう一度確認した。床の埃には糸巻きの軌跡が残っているのに、棚から落ちる直前の位置だけ、細い一本の線が壁際へ伸びている。糸巻き本体ではなく、さらに細い糸で引かれていたような跡だ。
「こちらも記録してください」
エステルが示すと、ベルナールがしゃがみ込んだ。
「壁まで続いている?」
「途中で切れています。でも、自然に落ちたのではなさそうです」
ヴィオラは棚板の裏へ鏡を差し入れた。
「小さな穴がある。針を一度通した跡ね」
「扉の封印にあった違う針目と、同じ太さでしょうか」
「近い。でも、これだけで同じ針とは言えない」
「十分です。今は、それで」
エステルはそう答えた。分からないものを、分からないまま残すことも必要だ。無理に一つの答えへまとめれば、それは調査ではなく物語になってしまう。
母の事件も、そうだった。黒い糸が出た。祝縫師の衣装だった。だからリディアがやった、と、あまりにも早く一つの筋書きへ縫い上げられた。
「同じことをさせようとしている」
エステルが言う。
「誰に?」
「私たちに。目立つ印を見せて、先に人を決めさせる」
アルヴィスが短く頷いた。
「なら、決めない」
「はい」
ベルナールが赤い糸巻きを封印させる間、アルヴィスは部屋のさらに奥へ目を向けた。
「エステル」
「何でしょう」
「あれも、母親の縫い目ではないか」
一番奥の人台へ、白い布が掛けられている。裾の四箇所が縫い留められているが、そのうち一箇所から青い糸が少しだけ垂れていた。
エステルは近づき、膝を折る。
「母の縫い目だと思います」
「また封印?」
「いいえ。これは普通の糸です」
布の裏へ、小さな紙札が縫いつけてあった。
『これは、針を使わずに開けること。』
思わず、エステルは口元を緩めた。
「何?」
ヴィオラが尋ねる。
「母からです。針を使うな、と」
「針より先に縫い目を見ろ、の続きね」
「そのようです」
青い糸の結び目を確認する。蝶結び。片方だけ長く残されていて、切る必要はない。
「引けばほどけます」
エステルが長いほうを指で引くと、するり、と糸が抜けた。
覆い布が人台の肩から滑り落ちる。
その下にあったものを見て、誰もすぐには声を出せなかった。
白い婚礼衣装。
ただし、十年前の王太子妃が着たものではない。胸元も袖も裾も途中までしか縫われておらず、仮縫いの糸が随所へ残っている。完成品ではないのに、形だけは確かに花嫁衣装だった。
「こんなものが」
セラフィーネの声が震える。
「ご存じなのですか?」
「見たことはない。でも、リディアが事件のあとに何かを縫い始めたことは知っていた」
「事件のあと?」
「王太子妃が倒れ、リディアが正式に拘束されるまでの数刻。あの人は一度、この部屋へ戻っている」
「その短い時間で?」
ヴィオラが衣装へ目を走らせる。
「ここまで作ったの?」
「リディアならやる」
セラフィーネは迷わず言った。
エステルも、同じように思った。
白い衣装の胸元。裏側へ、青い糸で小さな文字が縫われている。
エステルは身をかがめ、読む。
「『奪われなかったものを、返すために』」
返す。
灰色の上着の右側に、自分が作った白いポケットがある。
アルヴィスも同じことを考えたのか、その位置へ視線を落とした。
「母は、返す方法を考えていた」
「奪い糸への対抗策?」
ヴィオラが尋ねる。
「まだ分かりません」
エステルはすぐに答えた。
「これを完成させる前に、まず縫い目を読みます。母が何を作ろうとして、どこで止めたのか」
そのとき、アルヴィスが未完成の衣装ではなく、部屋の入口へ視線を向けた。
「十年前」
「公爵様?」
「俺が呪われたのも、婚礼の日だ」
エステルは息を止めた。
「同じ日?」
「ああ」
「なぜ、今まで」
「関係がある証拠がなかった。俺自身も、ただ襲われたと思っていた」
「襲われた?」
アルヴィスの右手が、灰色の上着越しに脇腹へ触れる。古い槍傷がある場所。
「婚礼の日、この西翼の廊下で刺された」
「誰に?」
「分からない。顔を見ていない」
「ここで?」
「この衣装室から、そう遠くない」
十年前の婚礼衣装。母の追放。奪い糸。そして、アルヴィスの呪い。
別々に見えていた出来事が、同じ日、同じ王宮西翼へ集まり始める。
エステルは母の未完成の衣装へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
今は、まだ触れない。
「公爵様」
「何だ」
「明日までに、当時のお怪我について、覚えていることを整理していただけます?」
「今日ではなく?」
「無理に思い出せば、記憶まで都合よく縫い直してしまいます」
「記憶まで仕立てにするのか」
「急いで引くと、糸は絡まりますから」
「面倒な仕立て師だ」
「よく言われます」
セラフィーネが、未完成の婚礼衣装から目を離さないまま口を開いた。
「リディアは、最後に『本当の婚礼衣装を、もう一度縫う』と言っていた」
「誰のために?」
「分からない。でも、今なら少し違って聞こえる」
「どういう意味でしょう」
「花嫁のための服ではなく、あの日に壊されたものを戻すための服だったのかもしれない」
エステルは胸元の青い文字をもう一度見る。
『奪われなかったものを、返すために』
母は、何を奪われなかったと言ったのか。そして、誰へ何を返そうとしたのか。
答えはまだない。
王妃はしばらく未完成の衣装を見つめたあと、ベルナールへ向き直った。
「今日は、これ以上何も動かさないでください。見つけたものは場所ごと記録し、持ち出すのは三者が同意した証拠だけに」
「承知しました」
「セラフィーネ」
「はい、陛下」
「あなたも、今日は一人でこの部屋へ戻らないこと」
セラフィーネがわずかに目を見開く。
「私を疑っておられますか」
「疑っているからではありません。今ここで、あなたへ罪を着せようとする仕掛けが見つかったからです。次はあなた自身が狙われるかもしれない」
厳しいが、守るための言葉だった。セラフィーネは少しだけ俯き、静かに「承知しました」と答える。
エステルは母の祝縫針を白い布へ戻した。扉を開けた針はもう光っていない。特別な針でも、役目を終えればただ静かにそこへある。それが、どこか母の祝福に似ていた。
十年間閉じられていた部屋は開いた。けれど、本当に開けなければならないものは、まだ中に残っている。母の未完成の衣装も、アルヴィスの十年前の傷も、今は続きを急ぐべきではない。
ただ、部屋の中に残る縫い目だけは、確かに次を読まれるのを待っていた。




