第23話 返すために縫われた服
十年間閉じられていた旧衣装室が開いたその日の午後、エステルたちは未完成の婚礼衣装を人台から下ろさず、まず外側から記録を取ることにした。
母が残したものだからといって、すぐに触れてよいわけではない。胸元へ縫われた『奪われなかったものを、返すために』という一文も、意味を決めつければ、それだけで別の縫い目を見落とすかもしれない。
「完成させるのか」
アルヴィスが尋ねた。
「いいえ。今は縫いません」
エステルは人台の周りをゆっくり回りながら答える。
「母が何を作ろうとしていたのか分からないまま続きを縫えば、それは母の服でも、私の服でもなくなります」
「婚礼衣装ではないの?」
ヴィオラが裾へ目をやる。
「見た目は、そうです。でも、着るためだけの縫い方ではありません」
「私もそう思う」
ヴィオラは人台の左脇へ回った。
白い布は婚礼衣装らしく美しく裁たれている。けれど、脇の縫い代が不自然に多く、裾も外へ広げるより内側へ折り込む布の量が多い。胸元から腰へかけて、裏地の一部には細長い袋状の縫い目が何本も走っていた。
「ここです」
エステルは直接触れず、木の指示棒で縦の線を示した。
「物を入れるポケットには細すぎます。糸を通すなら、この幅でも足ります」
「灰色の上着と同じ?」
アルヴィスの視線が、自分の胸元へ落ちる。
「似ています。私たちは黒糸を体から遠ざけるため、上着の内側へ誘導路を作りました。母も、何かを布の中へ通すつもりだったのかもしれません」
エステルは人台の正面へ戻り、胸元から裾へ続く線を一本ずつ数えた。全部で六本ある。三本は左側へ、三本は右側へ寄り、腰の少し下で互いに交わらないまま裾へ落ちている。灰色の上着で作った誘導路は一本だったが、母の衣装は明らかに複数の流れを分けることを前提にしていた。
「左右で役目が違うのかもしれません」
「どうして?」とヴィオラ。
「縫い代の向きが逆です。左側は入口を上へ、右側は下へ開けています」
ヴィオラが鏡で裏を確認し、すぐに頷いた。
「本当ね。左は上から何かを入れ、右は下から抜けるようになってる」
「受ける道と、返す道」
アルヴィスが言った。
エステルは自分でも驚いて彼を見た。
「灰色の服と同じだろう。左が受け取る。右が返す」
「私たちが作ったポケットは、そこまで深く考えた構造ではございませんでした」
「でも、考え方は近い」
サビーネが人台へ近づく。直接布へ触れず、指先で空中に線を描いた。
「リディアは、奪ったものを一箇所へ集めること自体が危険だと気づいていたのかもしれない。流れを分け、受けたものと返すものを混ぜない。だから六本も道を作った」
「黒糸がどこへ入ったかも、外から分かるように?」
「そのための仮縫いかもしれないわね」
エステルは胸元の縫い代へ目を寄せた。母は完成させる前提なら隠すはずの縫い目を、いくつも表へ残している。美しく仕上げることより、流れを観察することを優先しているのだ。
「これは婚礼衣装の形をした試験服です」
言葉にしてみると、急に母の姿が近づいた気がした。事件の直後、限られた時間の中で、母は感情のまま針を動かしたのではない。何が起きたのか確かめるため、必要な構造を一つずつ作っていた。
「何か、ではない」
入口近くに立っていたサビーネが言った。
彼女は本来、王室衣装室へ自由に入れる立場ではない。けれど、旧染色工房の生き残りであり、奪い糸について最も詳しい人物として、王妃の特別許可で立ち会っている。
「その形なら、糸でしょうね」
「奪い糸を逃がすため?」
「逃がすだけなら一本で足りる。これは分けるための構造に見える」
「何を分けるのです?」
サビーネは答える前に、衣装の裏側をしばらく見つめた。
「奪われたもの」
部屋が静かになる。
「願いを?」
ヴィオラが尋ねる。
「願いそのものには形がない。でも、祝福がほどけたあと、糸へ痕跡が残ることはあなたたちが確かめたでしょう」
一晩の祝福と三日間の祝福。その役目を終えた二本の青灰色の糸は、今、路地裏の店で保管してある。黒い縫い種へ近づけたとき、それぞれ別の強さで光り、黒糸を引きつけた。
「母も、役目を終えた祝福糸を使う方法へ辿り着いていたのでしょうか」
「可能性はある。でも、完成はしていない」
「追放されたから」
セラフィーネの声が静かに落ちた。
彼女は昨日見つかった赤い印糸の件で、王室から一時的な監督を受けている。疑いが晴れたわけではないが、少なくとも証拠布の別の針目は彼女の手ではなかった。
「リディアがこの部屋へ戻れたのは、王太子妃が倒れてから拘束されるまでのほんの数刻だった」
「三刻ほど、と昨日おっしゃいましたね」
「多く見積もって、そのくらい」
ヴィオラが未完成の衣装を改めて眺める。
「三刻で裁断して、ここまで組んで、誘導路まで作るなんて普通じゃない」
「母ですから」
エステルが答えると、セラフィーネが少しだけ口元を緩めた。
「その言い方も、リディアの娘らしい」
「褒めていただいております?」
「半分は」
「残り半分は?」
「無茶をするところまで似るな、という忠告」
「それは俺も言った」
アルヴィスが低く付け足す。
「公爵様まで」
「塔で、自分の目の前へ黒糸を集めたのは誰だ」
「服へです」
「お前が持っていた服へだ」
「……反省しております」
素直に答えると、ヴィオラが珍しいものを見るような顔をした。
「最近、素直ね」
「私も以前から素直ですわ」
「本当に?」
アルヴィスまで同じ言葉を使う。
「その聞き方は、もうよろしいです」
小さなやり取りに、王妃が控えめに笑った。昨日に続き、彼女は今日も証言者として部屋に残っている。
「続きを見ましょう」
エステルは衣装の寸法を測るため、ヴィオラと相談して紐尺を用意した。布を引っ張らないよう、人台の外側から肩幅、胸囲、腰、背丈、袖丈を一つずつ拾っていく。
数値を書き留めたヴィオラが、最初に首を傾げた。
「王太子妃の寸法と違う」
「記録を」
セラフィーネが棚から古い台帳を出した。
十年前、王太子妃エレノアの婚礼衣装。肩、胸、腰、背丈、袖。その数値と比べると、未完成の衣装は肩が一寸ほど狭く、腰は二寸近く小さい。背丈も少し短い。
「別の人へ着せるつもりだった?」
ベルナールが尋ねる。
「少なくとも、王太子妃殿下の寸法ではありません」
「では誰の」
セラフィーネが台帳をめくっていく。王族、高位貴族、式典へ出る王宮職員。王室衣装室では作業衣の支給もあるため、職人の寸法まで記録されている。
やがて、彼女の指が止まった。
「……一致するものがある」
「誰です?」
「リディア」
エステルは思わず聞き返した。
「母の?」
「ええ。作業衣の登録寸法。肩、腰、背丈、ほぼ同じ」
ヴィオラが二つの数字を並べる。
「本当。誤差の範囲ね」
「母が、自分のために婚礼衣装を?」
言ってから、エステルはすぐに違和感を覚えた。
「いえ、それはおかしいです」
「自分のためには祝福が宿らない」
アルヴィスが先に答える。
「はい。母がその規則を知らないはずがありません」
王妃が静かに頷いた。
「リディアは、昔からそう言っていました」
「陛下もご存じだったのですか」
「事件よりずっと前、妹への手袋を頼んだことがあります。そのとき冗談で、『あなた自身には何を縫うの』と聞きました」
「母は何と?」
「『自分のためには祝福を縫えませんので、普通の服をよく仕立てます』と。何でもないことのように」
エステルは、母なら本当にそう答えただろうと思った。
「なら、これは自分へ祝福を掛けるためではない」
ヴィオラが言う。
「人台代わりね」
サビーネが答えた。
「誰かへ着せるためではなく、構造を試すために自分の寸法で作った。自分には祝福が宿らないから、奪い糸の挙動だけを確認できる」
エステルの顔から笑みが消えた。
「自分で着て、試すつもりだった?」
「おそらく」
「無茶です」
「それはリディアに言って」
「言えません」
「なら、あなたが同じことをしないことね」
サビーネの言葉に、エステルは返せない。
アルヴィスが横から言った。
「似ている」
「今、それを言います?」
「事実だ」
「でも、私は一人では試しません」
「今後もそうしろ」
短い言葉だった。エステルは少しだけ視線を落とし、「はい」と答えた。
未完成の衣装そのものから、十年前へ繋がるものが見つかり始めている。だが、王妃が知る当日の出来事も、まだ十分には聞いていない。
「陛下」
エステルは王妃へ向き直った。
「婚礼の日のことを、もう一度、時間の順に伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
王妃は近くの椅子へ座り、少し考えてから話し始めた。
当時、王妃ミレーヌはまだ現在の地位ではなく、王太子妃エレノアの従姉妹として介添えを務めていた。婚礼衣装を着せたのは王室衣装室の職人たちで、リディアもその場にいたという。
「式の直前、リディアが裾の裏を見て、顔色を変えました」
「何と?」
「『縫い目が違います』と」
母は、その場で気づいていた。
「誰へ伝えたのです?」
「当時の臨時衣装管理官、ガストン・オルドーへ」
セラフィーネの表情が固まる。
「私の叔父です」
「昨日のお話では、お父上の死後に一時的に管理官を?」
「ええ。父マルセルが十二年前に亡くなり、正式な後任が決まるまで叔父が務めていました」
「母の訴えに、ガストン様は?」
王妃の声がわずかに冷たくなる。
「式直前に衣装を止めることはできない、と」
「母は納得した?」
「いいえ。自分でもう一度、裏を確認すると言いました」
「その直後です」
アルヴィスが口を挟んだ。
王妃が頷く。
「西廊下で、少年が刺されたと知らせが来ました。アルヴィスです」
エステルは隣を見る。
「婚礼衣装の異変と、ほぼ同じ時刻?」
「ああ」
「私は一度、エレノアのそばを離れました」と王妃。「傷が深いと聞いたからです。その間に、エレノアは式場へ移された」
「問題の衣装を着たまま」
「ええ」
王妃は膝の上で手を重ねた。
「私が戻ったとき、式は始まっていました。エレノアは最初、普通に歩いていた。でも誓約の言葉が終わる少し前、ドレスの裾から黒い筋が上がっていくのが見えた」
「糸が黒く変わった?」
「そう見えました。刺繍そのものが色を変えたというより、白い布の下を黒い影が走るように。腰へ届いた瞬間、エレノアは息ができなくなったように胸を押さえて倒れました」
サビーネが低く尋ねる。
「黒い筋は、どこから始まった?」
「左裾だったと思います」
エステルは未完成の試験服の左側を見る。受ける側と考えた三本の道。偶然かもしれない。だが記録しておく価値はある。
「母は、その場に?」
「式場の入口まで来ていました。でも中へ入る前に止められた」
「誰に?」
「王室衣装室の職員が数人。それから教会の者もいました。混乱していて、顔までは覚えていません」
「母は何か言っていました?」
王妃は目を閉じ、十年前の声を探した。
「『切らないで』と」
「何を?」
「倒れたエレノアから衣装を脱がせるため、侍女が背中の紐を切ろうとした。そのときリディアが、『縫い目を切れば流れが分からなくなる』と叫んだ」
エステルは息を呑んだ。母は王太子妃の命より証拠を優先したのではない。服を脱がせながらも、どこから何が流れたのか残そうとしていたのだろう。
「結局、衣装は?」
「背中ではなく脇をほどいて脱がせました。リディアの指示どおりだったかは分かりません。でも、少なくとも大きく切り裂かれることはなかった」
「だから本体が宝物庫に残っている」
ヴィオラが呟く。
「今度、本物の裏も確認する必要がありますね」
「許可を取る」とアルヴィス。
「公爵様が?」
「王妃陛下の前で頼めば早い」
「便利に使わないでください」
王妃が笑う。
「許可は出します。ただし、今日ではありません。順番を守るのでしょう?」
「はい」
母が縫い目の異変を訴える。ほぼ同時にアルヴィスが刺される。介添え役の王妃が離れ、王太子妃は式場へ進む。そのあと婚礼衣装の内側を黒い筋が走り、王太子妃は倒れた。別々の事件として記録された出来事が、今は同じ流れの中で起きたように見える。
「偶然とは考えにくいですね」
ユリウスが言う。
「今なら、私もそう思います」
王妃は十年前を悔いるように目を伏せた。
「当時は、別々の出来事だと思ってしまった」
「公爵様を襲った人は?」
エステルが尋ねる。
「捕まっていない」
アルヴィスは右脇腹へ手を置いた。
「顔は見ていない。背後から近づかれた」
「服は?」
「白い作業衣に見えた」
「王宮職員?」
「そう思った」
「凶器は短剣ですか」
「医師は刃物だと判断した。だが、傷は普通の短剣より細かった」
その言葉に、サビーネが顔を上げる。
「どのくらい?」
アルヴィスが指で幅を示す。
「細い。深さはあった」
「縫い種を入れる道具に近い」
サビーネの声で、室内の空気が変わった。
「奪い糸の種を、人へ入れるときの?」
エステルが聞く。
「普通の裁縫針では浅すぎる。細い錐に似た道具を使う。布へ糸を通すより、人の体へ核を送り込むためのもの」
アルヴィスの古傷と、そこから十年前から続いてきた呪い。もしサビーネの推測が正しければ、彼は単に刺されたのではなく、呪いの種を縫い込まれたことになる。
「公爵様」
エステルの声が小さくなる。
「俺も同じことを考えている」
「傷を、母が見た可能性は?」
王妃が答える前に、アルヴィスが目を細めた。
「……見ている」
「覚えていらっしゃる?」
「断片だけだ」
十年前の記憶を無理に引かないよう、エステルは黙って待った。
「刺されたあと、廊下へ座らされた。護衛が医師を呼びに行っている間に、女がしゃがんだ」
「母?」
「ああ。今思えば、リディアだ」
「何をしました?」
「傷ではなく、最初に上着を見た」
やはり母は、傷そのものより先に服を見ていた。仕立て師なら、まず布に残った穴から何が通ったのかを確かめる。
「何か言いました?」
アルヴィスはしばらく黙り、遠い記憶の中から言葉を拾うように答えた。
「『この穴は、刃物だけではない』」
エステルの指が震えた。
「それから?」
「『裏を見せて』」
リディアは少年の上着を裏返した。傷口の近く、布の裏側に黒い糸が一本あったという。
「母は抜いたのですか?」
「触れようとした。だが、止められた」
「誰に?」
「男だったと思う」
「顔は?」
「覚えていない。王宮の職員服だった」
「ガストン様?」
誰かが名前を出しかける前に、エステルは首を振った。
「今は、そこへ結びつけないでください」
セラフィーネがエステルを見る。
「私の叔父だから庇う必要はない」
「庇っているのではありません。母も、印と立場だけで罪を決められました」
「でも、叔父はリディアの拘束を命じた」
王妃が静かに言った。
セラフィーネが顔を上げる。
「叔父が?」
「私は見ました。王太子妃が倒れたあと、ガストンが王室衣装室の責任者としてリディアを拘束し、教会へ引き渡すよう命じるところを」
「記録には、衣装室と教会の共同判断としか」
「だから、私が証言します」
セラフィーネの顔が白くなる。
「叔父は九年前に王都を離れました」
「理由は?」
「病気療養と聞いています」
「今はどこへ?」
「国外。名簿上は南の保養地」
また「名簿上」という言葉だった。最近になって、その一言は記録の確かさより、記録だけでは足りないことを思わせる。
王妃はしばらく黙っていたが、やがて未完成の衣装の胸元にある青い文字へ視線を戻した。
「『奪われなかったもの』という言葉を、私は一度聞いています」
エステルが顔を上げる。
「母から?」
「ええ。エレノアが倒れたあと、リディアが拘束される直前でした。ほんの短い時間だけ、廊下で話したの」
「何と?」
「最初に、『殿下の祝福は消えたのではありません』と」
サビーネが息を詰める。
「なら、リディアはその時点で奪われたと考えていた」
「私が『では、どこへ』と聞くと、『持っていかれました』と答えました。でも、それ以上は言わなかった」
「誰に、ではなく?」
「ええ。どこへ、という意味だったのかもしれません」
返礼室という場所を、母がすでに追っていたのなら、その言葉も違って聞こえる。
「それから、もう一つ」
王妃は少し眉を寄せた。
「『奪われなかったものまで、奪われたことにされてはいけません』と」
エステルは未完成の衣装を見る。
『奪われなかったものを、返すために。』
「同じ言葉……」
「当時の私は意味が分からなかった。祝福が奪われたなら、何が残るのかと。でも今なら、少し分かる気がします」
「何が残ったと?」
「人の気持ちです」
王妃は静かに答えた。
「エレノアを祝おうとした人たちの気持ちは、黒い糸に触れたからといって、最初からなかったことにはならない。リディアは、そう言いたかったのではないかと」
アルヴィスの左胸には、受け取ったものを入れる青灰色のポケットがある。祝福がほどけても、白い薔薇を受け取った事実は消えなかった。二十七通の手紙も、返事を書いた時間も残っている。
「だから、返す」
エステルが呟く。
「奪われなかったものを、なかったことにしないために」
「そうかもしれません」
母が十年前にどこまで分かっていたのかは、まだ分からない。それでも、未完成の衣装へ選んだ言葉は、単なる術式の説明ではなかった。
「叔父上の針目は残っていますか」
エステルが尋ねた。
「あるはずです。臨時管理官になる前は裁断主任だったから、式典衣装の修繕記録に」
「それを確認しましょう」
「今日?」
「証拠を持ち出さず、ここで見られるなら」
ベルナールが職員を二人つけ、奥の保管庫から該当する修繕帳を探すよう命じた。
「エステル」
アルヴィスが呼ぶ。
「はい」
「ここに何かある」
彼が示したのは、未完成の婚礼衣装の左裾だった。細長い袋状の誘導路の一番下だけ、わずかに膨らんでいる。
エステルは縫い目を確認した。母の仮縫い。糸端は長く残され、引けばほどけるようになっている。
「紙です」
「開ける?」
「はい。切らずに」
一本の糸をゆっくり引くと、袋の口が開いた。中から小さく折り畳まれた紙が滑り出す。
母の字。
それを見た瞬間、エステルの胸の奥が詰まった。
「読みます」
誰にというでもなく告げ、紙を開く。
『もし、これを見つけた人がいるなら。
私は、返す方法を最後まで確かめられなかった。
奪い糸は、受け取ったものを奪う。
けれど、受け取ること自体が悪いのではない。
受け取って、返したものは、奪いにくくなる。
だから、閉じないで。
誰かの善意を拒むことを、守ることだと思わないで。』
エステルは一度、息を整えた。
アルヴィスは何も言わず、隣に立っている。
触れない。
急かさない。
ただ、そこにいる。
『もし、あの子がまだ生きているなら。
右脇の傷を見て。
黒い種がある。』
アルヴィスの表情が変わった。
「俺だな」
「おそらく」
エステルは続きを読む。
『種を抜く前に、流れを止めること。
先に抜けば、集められたものが全部、その人へ戻る。
それでは、人は壊れる。
受け皿を閉じる。
返す道を作る。
そのあとで、種をほどく。
順番を、間違えないで。』
サビーネが低く息を吐いた。
「リディアは、そこまで」
「知っていたの?」
ヴィオラが尋ねる。
「理屈までは。だから、あの子は受け皿を探していた」
エステルは最後の数行へ目を落とす。
『エステル。
あなたが読む日が来ないことを願っています。
でも、もし読んでいるなら。
私の続きではなく、あなたの縫い方をして。』
文字が滲んだ。
紙のせいではない。
エステルは目元へ指を当てた。泣かないようにする必要はない。泣いたままでも、針は持てる。以前、自分が喪服を仕立てた女性へそう伝えた。
「母は、最後まで勝手です」
声が少し震えた。
「続きを残しておいて、続きはするなと」
「似ているな」
アルヴィスが言う。
「何がです?」
「お前なら、同じことを言う」
「私は、もっと分かりやすく書きますわ」
「本当に?」
「……たぶん」
王妃が静かに微笑んだ。
エステルはもう一度紙を見る。裏側に、薄い線が透けていた。
「何か、描いてあります」
紙を裏返すと、簡単な見取り図がある。旧衣装室らしい四角。そこから下へ伸びる線。さらに複数の通路。
中央へ丸印があり、その周囲には六本の細い線が描かれていた。未完成の衣装にある六本の袋と、数も位置もよく似ている。さらに丸印から西へ一本、北へ一本。西の線は途中で『染』と記され、北の線には小さく教会の古い印が添えられていた。
「この西側は、夕告げの塔へ続く旧染色工房かもしれません」
サビーネが図を覗く。
「位置関係は合う。北は教会地下への搬送路でしょうね」
「なら、この丸印は王宮西翼の地下?」
ユリウスが現在の王宮図と重ねる。古い図は縮尺が粗いものの、旧衣装室のほぼ真下へ丸印が来る。
「床下に空間がある記録は?」
セラフィーネが首を振った。
「現行図にはない。でも、この翼は何度も改修されている。古い地下室を埋めず、入口だけ塞いだ例はあります」
「入口は?」
エステルは紙の端を見た。小さな針の絵が三つ並び、その横に母の文字がある。
『返す道は、衣装室から開く。』
「この部屋のどこかに入口がある」
「だからリディアは、ここを封印した?」
ヴィオラの問いに、誰もすぐには答えなかった。もし旧衣装室が返礼室への入口を隠していたなら、母は証拠だけでなく、受け皿そのものへ近づく道を十年間閉じていたことになる。
丸印の脇には、母の字で名前が一つ書かれていた。
『返礼室』
「返礼室?」
ベルナールが読む。
「王宮に、そのような部屋が?」
王妃は首を振った。
「少なくとも、今の王宮の区画名にはありません」
「古い呼び名なら、ある」
サビーネが言った。
「知っているのですか」
「染色工房で、年寄りの職人から聞いたことがある。昔、王室の祝福衣装は、役目を終えたあとに糸を回収していた」
「何のために?」
「返すため」
その言葉に、全員が黙った。
「祝福糸を、願った人と受け取った人へ返す儀式があった。今のように保管庫へ積むのではなく、役目を終えたことを確認し、関わった者へ返礼する。それを行う地下区画が、返礼室と呼ばれていたはず」
「それが、奪う場所へ変わった?」
エステルが尋ねる。
「可能性は高い。返す流れと奪う流れは、向きが逆なだけでよく似ている」
「公爵様の呪いも、そこへつながっている?」
「黒い種が受け皿へ糸を伸ばしているなら」
アルヴィスが見取り図を見た。
「返礼室を見つければ、流れを止められる」
「そのあとで種をほどく」
エステルが母の手紙を指す。
「順番です」
「今日、地下へ行く気か」
「まだ何も」
「顔が言っている」
「公爵様まで」
「母親の手紙にも、順番を間違えるなとある」
エステルは少し黙った。返礼室という名前を見つけた瞬間、すぐ場所を探したいと思ったのは事実だ。
「……今日は、やめます」
「素直ね」
ヴィオラが言う。
「私も成長しております」
「三日前なら、そのまま床を剥がしてたかも」
「そこまではいたしません」
「床」
王妃が、その言葉へ反応した。
「そういえばアルヴィス。路地裏の店の床を直す約束をしたそうですね」
アルヴィスの顔が固まった。
「陛下、なぜそれを」
「セドリックから聞きました」
「公爵家の情報管理はどうなっている」
「床くらい、自分で直せるのでしょう?」
「直せます」
「本当に?」
王妃の一言に、エステル、ヴィオラ、ベルナール、サビーネまで同じようにアルヴィスを見る。
「……その聞き方をするな」
旧衣装室に、小さな笑いが起きた。
十年前の事件の跡が並ぶ部屋で笑ってよいのか、一瞬だけエステルは迷った。けれど、母ならたぶん気にしない。針を持つ手が止まるほうを嫌がっただろう。
その後、奥の保管庫から古い修繕帳が見つかった。ガストン・オルドーが裁断主任だった頃のものも残っている。
彼の針目は、証拠布に残された別の針目と似ている部分があった。長めの針目に、布を柔らかく残す糸の引き方。特に裏側で糸を返す角度は近い。
エステルは三枚の修繕記録を並べた。若い頃のもの、臨時管理官になる直前、そして婚礼の半年ほど前。年代が進むにつれ針目は少し長くなり、右上へ針を抜く癖が強くなっている。
「問題の針穴も右上へ抜けています」
「なら叔父が?」
セラフィーネの声に、エステルは首を振った。
「近いです。でも、この布のほうが糸を引く力が弱い。ガストン様は角で必ず少し強く締めるのに、こちらは同じ力のまま通しています」
「似せた可能性は?」とベルナール。
「あります。逆に、この日だけ手を緩めた可能性もあります」
「結局、決められない」
「はい。でも、“似ている”と“同じ”を分けられました」
それだけでも十分な前進だと、今のエステルは思える。十年前は、似ているものが同じものとして処理された。その一つひとつを分け直すことが、母の名を戻すための仕事なのだ。
だが、完全には一致しない。
「近いですね」
ヴィオラが言う。
「でも同じとは言えない」
「十年で癖が変わった可能性もあります」
「逆に、似せた人がいる可能性も」
ベルナールが記録する。
「つまり、まだ容疑を絞れない」
「はい」
エステルはむしろ、その結果に安心していた。分かりやすい犯人が出てこないことは、調査が失敗しているという意味ではない。十年前に見落とされた複数の線を、一つずつ分けている途中なのだ。
王妃が帰る時刻が近づき、エステルは母の手紙を裁縫箱へ収めた。自分の服へ入れるには大切すぎるし、今のところ、特別なポケットもない。
そのとき、アルヴィスが左の青灰色のポケットへ手を入れた。
「公爵様?」
出てきたのは、紙へ包まれた小さな白い花だった。
「まだ、お持ちでしたのね」
「朝も聞いただろう」
「そうでした」
アルヴィスは王妃を見る。
「陛下」
「何でしょう」
「これは、昨日、路地裏の子どもが店へ置いていった花です」
「ええ」
「あなたから受け取った薔薇とは違う」
「分かっています」
「でも」
アルヴィスは花を直接手渡さず、近くの小机へ紙ごと置いた。
「今度は、こちらから」
王妃が目を見開く。
「私へ?」
「ああ」
「受け取ってよいの?」
アルヴィスは一瞬だけエステルのほうを見た。
「返すものを、自分で決めろと言われた」
王妃だけでなく、部屋にいる全員の視線がエステルへ向く。
「私が決めたわけではございません。ポケットを付けただけです」
「面倒なポケットをな」
「お嫌でした?」
アルヴィスは王妃へ置いた花を見た。
「嫌ではない」
ヴィオラが指を一本立てかけた。
「数えないでくださいませ」
エステルが先に止める。
「まだ何も言ってない」
「顔が言っております」
「公爵の言い方が移った」
アルヴィスが少しだけ眉を上げた。
王妃は小机から花を取り、掌へ載せた。花は萎れない。黒くならない。壊れもしない。ただ、小さな白い花のまま、王妃の手へ残る。
「ありがとう、アルヴィス」
その声は穏やかだったが、ほんの少し震えていた。
アルヴィスは右の白いポケットへ手を入れる。何も入っていないはずの場所へ、確かめるように。
「これで、一度使った」
「はい」
「一度で終わりではないのだろう」
「もちろんです」
「面倒だな」
「それも、もう聞き慣れました」
エステルは笑った。
母の手紙には、受け取ることを恐れるなと書かれていた。受け取ったものを返せば、奪いにくくなるとも。
十年前、母は理屈へ辿り着きながら、最後まで確かめることができなかった。
今、目の前でアルヴィスは小さな花を受け取り、その花を別の誰かへ返した。母の続きをそのままなぞったわけではない。エステルが作った二つのポケットを使い、アルヴィス自身が何を返すか選んだ結果だ。
それでいいのだと、エステルは思った。母の手紙に書かれていたとおり、続きを縫うのではなく、自分たちの縫い方をすればいい。
エステルは未完成の婚礼衣装をもう一度見た。
返礼室、黒い種、そして受け皿。ほどかなければならない糸はまだ多い。それでも、一つだけ分かったことがある。
受け取ることと、奪われることは同じではない。
そして、返すことは、受け取らなかったことにするためではない。
受け取ったものを、自分の中へ残したまま、次の誰かへ手渡すことができる。
母の未完成の衣装は、まだ一針も増えていない。エステルはそれでよいと思った。続きを縫うことだけが、残されたものへ応える方法ではない。まず読み、確かめ、必要なら母とは違う線を引く。そのための時間も、仕立ての一部なのだ。
そして、その意味だけは少しずつ、十年前より先へ進み始めていた。




