第24話 裏地に隠された部屋
王宮から路地裏へ戻ったころには、空の端がもう夕焼けに染まり始めていた。西へ傾いた光が細い路地の壁を赤く照らし、昼間よりも店の看板を古びて見せている。
エステルが扉の鍵へ手を伸ばすより早く、小窓の布がわずかに持ち上がった。向こうから覗いたのは、すっかり見慣れたニナの片目である。
「合言葉は?」
「まだ決めておりません」
「じゃあ、本物?」
「朝も同じことを聞きませんでした?」
「朝と今で入れ替わってるかもしれない」
慎重なのはよいことだが、疑い方が日に日に極端になっている気もする。エステルが苦笑していると、隣に立つアルヴィスが低い声で口を挟んだ。
「顔を見れば分かるだろう」
「公爵は分かりやすいから、本物」
「どういう意味だ」
「怖い顔。あと、今日は灰色だから少し弱い」
「服で威圧感を測るな」
ようやく内側で鍵が外れ、扉が開いた。店へ入った途端、ニナの足元を小さな茶色い影が横切っていく。クッシュである。箱から出してもらっていたらしく、短い足で裁断台の下まで歩いたあと、アルヴィスの靴を見つけてぴたりと止まった。
「また近づく気か」
アルヴィスが半歩だけ下がる。エステルはその動きを見て、思わず口元を緩めた。
「公爵様のほうが逃げておりますわ」
「反応が分からない以上、近づけない」
「昨日も同じことをおっしゃっていましたね」
「昨日分からなかったことは、今日も分からない」
その慎重さは正しい。人の善意に反応する呪いが、動物へ同じように働くのかはまだ確かめていないし、わざわざ試す必要もない。エステルは柔らかな端切れをクッシュの前へ置いてやり、そちらへ誘導した。ハリネズミは素直に布へ鼻先を押しつけ、そのまま丸くなる。
「おかえり」
ニナが今度こそ言った。
「ただいま戻りました」
「どうだった?」
聞きたいことは山ほどあるのだろう。それでも、ニナは裁縫箱へ勝手に手を伸ばさず、まずエステルの顔を見ている。盗みをしていたころの癖が消えたわけではないが、触れてよいものと駄目なものを、自分で考えるようになっていた。
「長いお話になります。その前に、手を洗わせてくださいませ」
「王宮でも汚れるの?」
「王宮でも、十年閉ざされた衣装室は埃だらけです」
エステルが奥の水桶へ向かうと、アルヴィスも灰色の上着を脱いだ。今日一日、旧衣装室を歩き回ったにもかかわらず、縫い目は乱れていない。左胸の青灰色のポケットも、右の白いポケットも、今は空だった。
けれど、どちらも一度は使われた。受け取るためと、返すために付けた二つのポケットは、何も入っていない今のほうが、かえって以前より役目を持って見える。
「公爵様。その上着、お預かりします」
「汚れていない」
「王宮の古い埃が付いております」
「払えばいい」
「裏も見ます」
「黒糸はなかった」
「だからこそ、何もないことを確認するのです」
「……分かった」
あまりに素直に上着が差し出されたので、エステルは受け取る手を一瞬だけ止めた。
「何だ」
「いえ。最近、素直ですので」
「お前が言うな」
ニナが声を上げて笑い、張りつめていた店の空気がようやく少し緩んだ。
ヴィオラとサビーネも少し遅れて店へ入ってくる。ベルナールは王宮へ残り、セラフィーネとともに証拠品の封印作業を続けることになった。ユリウスも公爵家と王宮を往復し、母の手紙にあった「返礼室」という名が、古い王宮記録や教会の文書に残っていないか調べている。
今日はもう地下へ行かない。それは王宮を出る前に全員で決めた。返礼室がどこにあるかを突き止めることより、そこへ入ったあと何をするのか理解するほうが先である。何より、母の手紙には順番を間違えるなと書かれていた。
「で、何があったの?」
ニナが裁断台へ肘をついた。
「まず、母の衣装が見つかりました。未完成の婚礼衣装です」
「リディアさんの? 自分の結婚式?」
「違いますわ。母自身の寸法で作られていましたが、誰かに着せるためではなく、黒糸の動きを確かめる試験服だった可能性が高いです」
エステルは王宮で写してきた図を裁断台へ広げた。旧衣装室に残されていた白い衣装の構造と、母の手紙の裏に描かれていた線を、忘れないうちに写しておいたものだ。
「母は、奪われた祝福を返す方法を試そうとしていたようです」
「返す?」
「黒い糸に取られたものを、元の流れへ戻すために。そして、公爵様の呪いも、その仕組みとつながっている可能性が高いです」
向かいの椅子へ座ったアルヴィスの表情は変わらなかったが、右手がわずかに脇腹の近くへ動いた。十年前、婚礼の日に負った傷。今では、その傷へ黒い縫い種を入れられた可能性が高い。
「誰に入れられたの?」
ニナの声から笑いが消える。
「まだ分かりません」
「取れる?」
「順番を守れば、母は可能だと考えていたようです」
エステルは別の紙へ、母が残した三つの手順を書いた。まず受け皿を閉じ、次に返す道を作り、最後に種をほどく。たった三行だが、順番を間違えればアルヴィスの命に関わる。
「先に種を抜けば、これまで集められたものが全部、公爵様へ戻ると書かれていました。善意も、祝福も、何年分あるのか分からないほどのものが、一度にです」
「そんなの戻ったら……」
「人は壊れる、と母は書いています」
ニナは黙り込み、アルヴィスも何も言わなかった。
彼がこれまで受け取れなかったものを、エステルは正確には知らない。家族からの贈り物、領民の感謝、友人の親切、名前も知らない誰かの善意。贈られたものが腐り、祝福がほどけ、近づいた相手さえ傷つけるようになってから積み重なった年月を考えれば、とても数えられる量ではないだろう。
「だから、急ぎません」
エステルは言った。これは皆へ説明するためでもあり、自分へ言い聞かせるためでもあった。
「返礼室を見つけても、すぐ種へ触れません。まず、何がどこから流れ込み、どこへ集められているのか確かめます」
「本当に?」
アルヴィスが聞く。
「その聞き方をなさいます?」
「王宮では素直に頷いたのに、店へ戻ると、またすぐ動きたそうな顔になった」
「仕立て屋へ戻れば、手を動かしたくなるのは当然です」
「理由になっていない」
「でも、今日は行きません」
「ならいい」
「明日は?」
ニナが尋ねる。
「許可が取れれば、旧衣装室をもう一度見ます。地下へ行くかは、そのあとです」
「えらい」
「ニナまで子ども扱いをしないでくださいませ」
「エステル、大人なのに止められる側だから」
サビーネが小さく笑った。
「それは正しいわね」
「サビーネ様まで……」
店の隅では、クッシュが端切れの山へ鼻先を突っ込み、少しずつ奥へ潜ろうとしている。普通の一日なら、こんな小さな騒ぎだけを眺めていられたのかもしれない。けれど裁断台の上には十年前の図があり、店の奥には母の本物の祝縫針が保管されている。日常と過去が、狭い店の中へ同時に置かれていた。
「エステル」
ヴィオラが図へ指を置いた。
「これ、王宮で見たときから気になっていた」
「返礼室の図ですか?」
「そう。建築図としては変よ」
母の手紙の裏に描かれていたのは、四角い外枠といくつかの縦線、それに左右へ伸びる細い線である。エステルは王宮の簡略図だと思っていたが、ヴィオラが定規を当てると、廊下や壁としては明らかに幅が揃っていない。
「母が急いで描いたからでは?」
「それにしては線がきれいすぎる。廊下の幅はばらばらなのに、左右の線は妙に対称なの」
サビーネも覗き込み、しばらくして鼻で笑った。
「リディアは地図が下手だったわ」
「そうなのですか?」
「一度、染料倉庫への道を紙へ描いてもらったら、入口と出口の位置が逆だった。でも、型紙だけは間違えなかった」
その言葉に、エステルの手が止まる。
同時に、横から見ていたニナが紙を少し回した。
「これ、服じゃないの?」
「服?」
「だって、ここが肩みたい」
ニナが図を九十度回す。四角だと思っていた外枠が、急に別の形へ見えた。中央の縦線、左右へ広がる線、その下へ落ちる長い線。エステルは棚から薄い型紙用紙を取り出し、図の上へ重ねる。
「前身頃……」
肩線を写し、脇を取り、襟ぐりを想定すると、確かに上衣の前身頃に見える。ヴィオラもすぐに別の紙へ線を取り始めた。
「建物ではなく、服の型紙」
「だから廊下だと思った場所の幅が違ったのですね。これは、縫い代です」
「返礼室は?」
サビーネが尋ねる。
エステルは『返礼室』と書かれた位置を見た。上衣として見れば、左胸より少し下、ちょうど内ポケットを付けるあたりにある。
「内ポケットだ」
アルヴィスが先に言った。
「はい。おそらく、母は建物を服の構造へ置き換えて描いたのです」
「建物を一着にした?」
ニナが不思議そうに首を傾げる。
「仕立て師には、そのほうが位置を覚えやすいのです」
「今まで分かってなかったけど」
「ニナ」
「私が先に気づいた」
「それは認めます」
「給金?」
「これは調査です」
「仕事じゃない?」
「……あとで考えます」
「やった」
アルヴィスが呆れたように息を吐いた。
「弟子ではないと言いながら、給金だけは取るのか」
「弟子じゃなくても、働いたらもらう」
「正論ですわね」
型紙だと分かれば、ほかの線の意味も変わる。中央の線は前中心、つまり旧衣装室の中央通路に当たるはずだ。肩線を北側の壁、脇線を西側の壁と見立て、王宮で覚えてきた実際の配置を重ねると、驚くほどよく一致した。
「返礼室の位置は、西壁ですね」
「未完成の衣装が掛かっていた人台の後ろ」
ヴィオラの言葉に、エステルは王宮の光景を思い返す。白い未完成の婚礼衣装、その奥には埃をかぶった細長い姿見があった。
「姿見の後ろです」
「建築図に部屋がない理由は?」
アルヴィスが尋ねる。
「内ポケットだから」
ニナが答えた。
「服の外から見えない場所」
「そうです。もし母がそこまで意味を重ねているなら、返礼室は旧衣装室の外から見えない位置に隠されているはずです」
エステルは図と記憶を重ねながら、西壁の厚みを思い出す。旧衣装室は王宮外壁に近い場所にあり、普通ならその向こうに新しい部屋を作る余地などないように見えた。
だが、服には表と裏の間がある。
「裏地です」
「何?」
「建物にも、表から見えない厚みがあるとしたら。外壁と内壁の間に、設備用の空間や古い通路が残っている可能性があります」
古い王宮なら、暖炉の煙道や補強のため、壁そのものがかなり厚い場所もある。そこを後から閉じれば、現在の建築図へ載らない空間を残すことはできるだろう。
「服の表地と裏地の間に、ポケットを隠すように?」
ニナが聞く。
「ええ。母が『返礼室』を内ポケットの位置へ描いたのなら、その可能性は高いと思います」
「人が入れる広さはある?」
ヴィオラが尋ねる。
「返礼室という名前でも、実際に広い部屋とは限りません。受け皿や装置だけを置く場所かもしれません」
すると、サビーネが険しい顔で首を振った。
「昔の返礼室は、人が入れる部屋だったと聞いている。ただ、私が働き始めたころにはもう閉鎖されていたし、リディアが指した場所が昔と同じとは限らない」
「どこにあったと聞いていました?」
「王宮西翼の下。それだけよ」
もし旧衣装室の壁内に入口があり、その先から地下へ降りるのなら、母の図とサビーネの記憶は矛盾しない。
「明日、姿見の裏を見ます」
「まだ許可がない」
アルヴィスがすぐ返した。
「申請します」
「俺が確認する。追加調査の許可は出ているが、王宮の壁を勝手に外す許可まで含まれているとは限らない」
「床だけでなく、今度は王宮の壁まで壊されるのですか」
「壊さない」
「本当に?」
「その聞き方をするな」
ニナが笑う。
「王宮の壁、壊したら高そう」
「請求先は公爵家ではない」
「そこ?」
「壊さないと言っている」
エステルは図を畳まず、裁断台へ広げたままにした。型紙と分かった以上、まだ見落としているものがあるかもしれない。
ただ、何時間も紙ばかり見ていれば、見えるはずの線まで見えなくなる。ちょうどそのころ、店の扉が二度叩かれ、ベッシーが大きな籠を抱えて顔を出した。
「まだ全員いるのかい。王宮へ行ったって聞いたから、今日は戻らないと思ってたよ」
「戻っております。ご心配をおかけしました」
「心配はしてるけど、腹が減ってるほうが先に分かる顔をしてるね」
籠から出てきたのは、豆と根菜を挟んだ平たいパンだった。包みは六つあり、ベッシーは人数を数えてからサビーネを見て、何も聞かずにもう一つを奥から出した。
「七人いると思って多めに作った。足りなきゃ言いな」
「代金を」
「前掛けを直してもらってる途中だろ。それでいいよ」
「それでは釣り合いません」
「じゃあ、次に破れたときも頼む。それで釣り合わせな」
仕立て屋とパン屋のやり取りとしては、たぶんそれがいちばん自然なのだろう。エステルがそれ以上言う前に、ベッシーは裁断台へ広がった紙を見て眉を上げた。
「また難しい顔してるね。食べながら布を切るんじゃないよ」
「今日は布ではなく、王宮の壁を」
ニナが説明しかけたので、エステルはすぐに止めた。
「ニナ」
「まだ壊してない」
「そこではございません」
「王宮の壁?」
ベッシーの目がアルヴィスへ向く。
「今度はあんたかい、公爵様」
「なぜ俺になる」
「この店の床に穴を開けたのも、あんたのところの人だろ」
「穴ではない。金属箱を固定するための釘だ」
「床板は傷んだよ」
「直す」
返答があまりに早く、エステルまでアルヴィスを見た。
「本当に直されるのですか?」
「言っただろう」
「以前は、戻ったら打つ、と」
「戻った」
アルヴィスは平たいパンを一つ受け取る前に、店の隅へ置かれていた工具箱を見た。ベッシーが「食べてからにしな」と言ったものの、本人はすでに床板の傷を確認している。
「公爵様。まさか、今から?」
「すぐ終わる」
「ご自分で?」
「そう言っている」
アルヴィスは上着の袖を少しまくると、床へ膝をついた。浮いていた釘を一度抜き、傷んだ穴へそのまま打ち直すのではなく、位置を少しずらして小さな木片を当て、板の割れが広がらないよう整えてから金槌を使う。
乾いた音が二度、店へ響いた。力任せではなく、必要な場所へ必要なだけ打つ手つきである。
「……お上手ですわね」
「床の釘くらい打てると言った」
「公爵って、釘打つんだ」
ニナがしゃがみ込み、修理された場所を覗く。
「公爵だから打つわけではない」
「じゃあ、前からできた?」
「領地の橋が壊れたとき、現場にいれば手伝うことはある」
「橋と床は違うよ」
「釘は同じだ」
ベッシーは腰へ手を当て、直った床を靴先で確かめた。きしみもなく、板の端も浮いていない。
「悪くないね」
その言葉に、ニナが勢いよくアルヴィスを見る。
「公爵の言葉、取られた」
「俺の言葉ではない」
「でも、よく言う」
「数えるな」
「今は数えてない」
店に笑いが広がった。王宮の壁をどう開けるか考えていたはずなのに、いつの間にか公爵が路地裏の店の床を直している。その妙な光景が、エステルにはひどく可笑しく、同時に少し嬉しかった。
結局、全員で少し休むことになった。エステルは王宮から持ち帰った紙を布で覆い、パンの油が付かないよう裁断台の端へ寄せる。サビーネは最初こそ「私は帰る」と言ったが、ベッシーに塩気の強い具を選んで渡されると、何も言わず椅子へ戻った。
アルヴィスも一つ受け取った。包みを開いてもパンは崩れず、具が黒くなることもない。以前なら、人から善意で渡された食べ物を口へ運ぶだけで何が起きるか分からなかったのに、今は誰も息を詰める必要がなかった。
エステルはそれを見つめすぎないよう、自分のパンへ目を落とした。
「何だ」
「何も」
「顔が言っている」
「今日は、その言葉を何度お使いになるのです?」
「便利だからな」
「なら、私も申し上げます。公爵様の顔が、少し嬉しそうです」
「パンを食べているだけだ」
「そういうことにしておきますわ」
受け取れるものが増えたことを、毎回大げさな奇跡として数える必要はない。パンが普通に食べられるなら、それは普通の夕食として終わってよいのだと思う。そういう普通を増やすことも、呪いをほどくことと同じくらい大切なのかもしれなかった。
食事を終え、床の修理まで済んでから、エステルはもう一度図の上の布を外した。少し休んだぶんだけ、さっきまで見落としていた線も見つけられそうな気がする。
「ニナ。先ほど、肩みたいとおっしゃいましたね」
「うん」
「ほかに、服として見て変なところはあります?」
「わたしに聞くの?」
「最初に気づいたのはニナですから」
ニナは一瞬だけ驚いた顔をしたあと、すぐ真面目になった。紙を回し、近づいて見てから、今度は一歩離れる。エステルやヴィオラのように寸法を測るのではなく、部屋へ入る前に逃げ道や隠し場所を探すときのように、全体を眺めている。
「ここ。線が二本ある」
「裾の折り返しです」
「じゃあ、こっちの薄いやつは?」
その内側に、ごく細い点線があった。王宮で写したときには紙の汚れだと思っていたが、目を近づけると一定の間隔で続いている。
「しつけの位置です」
ヴィオラが言った。
「仮縫い?」
「ええ。ただ、型紙へしつけの位置まで細かく描くのは珍しいです」
しつけは本縫いの前に布を仮留めするためのものだ。役目が終われば抜き、完成した服には残さない。
「開ける順番かもしれません」
エステルは点線を指で追う。線は返礼室の位置から裾へ向かい、建物へ重ねれば西壁から南側、つまり旧衣装室の入口近くまで伸びていた。
「姿見だけ動かしてはいけない?」
ヴィオラが言う。
「可能性があります。先に、この点線に当たる何かをほどく必要があるのかもしれません」
「壁の中へ、何かが縫われている」
サビーネの声が低くなる。
「黒糸でしょうか」
「分からない。でも、リディアがわざわざしつけとして残したなら、本縫いより先に外せという意味だと思う」
「どこに、その線がある?」
アルヴィスが尋ねる。
「床か、壁です。明日、旧衣装室で確かめます」
「俺も行く」
「公爵様も?」
「一人で行く気だったのか」
「いいえ」
「なら聞くな」
エステルは返事をしながら、少しだけ笑った。
十年前、母は一人でこの図を描いた。それを今はニナが型紙だと気づき、ヴィオラが線の意味を読み、サビーネが返礼室の古い役割を知り、アルヴィスが危険を止めている。一人で見ていたなら、エステルはまだ建築図だと思い込んでいたかもしれない。
「エステル。リディアの手紙を、もう一度見せて」
サビーネに言われ、エステルは金属箱から母の手紙を取り出した。王宮から持ち帰ったあと、すぐ封じておいたものだ。
サビーネは紙へ触れず、文末をじっと見る。
「『私の続きではなく。あなたの縫い方をして』。この下を、光へ透かして」
エステルが灯りへかざすと、薄い紙の中に小さな穴が見えた。一つ二つではない。針で開けたような穴が、短い間隔と長い間隔を繰り返しながら並んでいる。
「虫食いではないですね」
ヴィオラが横から確認する。
「規則的です。糸のない縫い目のように見えます」
エステルが裏返すと、サビーネが急に椅子から立ち上がった。
「待って。返礼符かもしれない」
「返礼符?」
「昔、返礼室で使った印よ。役目を終えた糸を誰から誰へ戻すのか、文字ではなく針穴で記録した。文字は書き換えられるけれど、開いた針穴は消せないから」
「読めますか?」
サビーネは何度も穴の並びを見比べた。祖母から習っただけだと言っていたが、その目は確かだった。
「たぶん、“裏から開ける”」
その言葉に、全員が一度黙った。
「姿見を表から動かすのではなく?」
「そう読める」
「では、旧衣装室側からは開かない?」
ヴィオラが図を見る。
「内ポケットを、表地から切り開く仕立て師はいないでしょう」
エステルの胸が速くなる。
「裏地側から開ける」
「建物の裏地」
ニナが言った。
「でも、どうやって裏へ行くの?」
誰もすぐには答えられなかった。旧衣装室の西壁、その向こうへ入るための道が別に必要になる。
「塔だ」
アルヴィスが言う。
「鐘の鳴らない塔?」
「地下通路。サビーネ、あの道は教会側だけではないのだろう」
サビーネの顔が変わった。
「昔、塔から教会へ続く搬送路の途中に、王宮西翼へ分かれる道があったと聞いたことがある。私は使っていないし、火事のあとにどこまで残ったかも知らないけれど」
「そこから返礼室の裏側へ行ける可能性がある」
エステルは反射的に立ち上がりかけたが、椅子の脚が床を擦る音を立てたところで、アルヴィスが先に言った。
「今日は行かない」
「まだ何も申し上げておりません」
「椅子が言っている」
自分を見ると、確かに膝で机を押し、椅子が少し後ろへ動いていた。
「……今日は行きません」
「明日も、許可と護衛を整えてからだ」
「はい」
「サビーネも、勝手に先へ行くな」
「私まで?」
「一人で十年隠れていた人間を信用できるか」
「公爵に言われたくない。あなたも、人からはずっと隠れていたでしょう」
アルヴィスが黙った。エステルは少し驚き、それから笑いをこらえるために口元へ手を当てた。
「何だ」
「いえ」
「顔が言っている」
「最近、公爵様もよくお使いになりますね」
「便利だからな」
ニナが声を上げて笑った。
日が落ちる前には、リリも店へ戻ってきた。今日は花籠の半分ほどが空になっており、よく売れたらしい。
「ただいまー。クッシュいる?」
「店へ帰る挨拶より先に、ハリネズミなのですね」
「お姉さんは見ればいるって分かるもん」
「私の確認はそれだけですか」
リリは気にせず箱を覗き込み、端切れの間で丸くなって眠るクッシュを見つけて満足そうに頷いた。
「ちゃんといた。店の子になった?」
「まだです」
「昨日も言ってた」
「今日もです」
「明日は?」
「明日も、たぶん」
「それ、もう店の子じゃない?」
ニナまで加わり、二人で勝手に話を進め始める。エステルは反論しようとして、ふとリリの花籠の底に細い紙片が挟まっているのを見つけた。
「リリ。それは?」
「あ、これ。花市場のおじいちゃんから」
「どなたです?」
「昔、王宮に花を運んでた人。鐘の鳴らない塔の話をしたら、“昔は塔の下から王宮へ花も運んだ”って」
その一言で、裁断台の周りにいた全員がリリを見る。
「塔の下から王宮へ?」
「うん。婚礼とか、大きい式の日だけ使った道だって。もう埋まってるらしいけど、入口の印は覚えてるって描いてくれた」
差し出された紙片には、丸の中へ三本の波が描かれていた。母の祝縫針に刻まれたものと同じ、王室衣装室の古い印である。
「この印は、どこにあると?」
「塔の裏の古い水路。石に彫ってあるって」
サビーネが息を呑んだ。
「搬送路の裏口……」
「ご存じなのですか?」
「私は使ったことがない。でも、その印を目印に花や染料を運んだ道があったという話は聞いたことがある」
エステルは、リリの紙片を母の図の横へ置いた。型紙として描かれた旧衣装室、内ポケットの位置にある返礼室、しつけを示す点線、裏から開けるという返礼符。そして、鐘の鳴らない塔の裏に残る三本波の印。
別々に見えていた手がかりが、ようやく一着の服のようにつながり始めている。
「明日、そこを確認します」
今度はアルヴィスも止めなかった。
「護衛を先に入れる。崩落確認もする」
「はい」
「ニナとリリは来ない」
「まだ何も言ってない」
二人の少女が、ほとんど同時に不満そうな声を上げた。
「顔が言っている」
アルヴィスが返す。
「公爵、便利に使ってる」
「本当ですわね」
「お前が始めた」
エステルは笑いながらも、すぐに紙へ新しい線は引かなかった。母の残した線へ、自分の考えだけで勝手な一針を足さないためだ。明日、実際の入口と壁を見てから決めればよい。
「珍しい」
ヴィオラが言った。
「何がです?」
「もう答えを見つけたような顔をしているのに、針を持たない」
エステルは自分の手を見る。以前なら、何かが分かった瞬間に続きを縫いたくなった。けれど今は、針を置いたまま待つことができる。
「母の続きではなく、私の縫い方をするのでしょう?」
「そうね」
ヴィオラが頷いた。
「なら、待つのも縫い方か」
「たぶん」
「自信はないの?」
「初めてですから」
アルヴィスが、裁断台の端へ掛けられた灰色の上着を見た。受け取るための青灰色と、返すための白。二つの空のポケットをしばらく見てから、短く言う。
「悪くない」
ニナの指がすぐ一本立った。
「今ので八回目?」
「数えるな」
「やっぱり八だ」
「給金から引くぞ」
「エステルの店だから無理」
「……分かっている」
リリが何の話か分からないまま笑い、クッシュが箱の中で、くしゅ、と小さく鼻を鳴らした。
外が暗くなるころには、路地裏の仕立て屋へいつもの夜が戻っていた。ベッシーの店から焼いたパンの匂いが流れ、遠くで店じまいを知らせる声がする。誰かが明日の繕い物を扉の外から頼み、ニナが預かり札を書く。
その日常の真ん中で、裁断台の上にだけ、明日開くかもしれない場所への道が残っていた。
王宮の表からは見えず、現在の建築図にも残らない場所。服なら、表地と裏地の間に縫い込まれる内ポケットのような場所である。
母は返礼室をそこへ隠し、見つけるための方法まで仕立ての形で残した。
ならば明日、エステルたちが探すべきなのは、扉ではない。
建物の裏地へ入るための、最初の縫い目だった。




