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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

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第25話 返礼室

 翌朝、鐘の鳴らない塔の裏手へ着いたとき、古い水路にはまだ朝靄が残っていた。


 かつて染料や花を運んだという水路は、今では半分ほど土に埋まり、白灰石の壁には蔦と苔が広がっている。昨日リリが持ち帰った紙片がなければ、ここに王宮へ続く搬送路があるなど、通りすがりの人間には思いもしないだろう。


 エステルは紙片と壁を見比べ、崩れた石のあいだに同じ印を見つけた。丸の中へ三本の波。母の祝縫針にも刻まれた、古い王室衣装室の印だった。


「ありました」


「触るな」


 すぐ後ろからアルヴィスの声が飛んでくる。


「まだ何もしておりませんわ」


「顔がしている」


「最近、それで何でも止めようとなさいますね」


「実際、止まる」


 否定できないのが少し悔しい。


 アルヴィスは今日も灰色の上着を着ていた。外側は粗い麻、内側は白い絹、その間には黒糸を体から遠ざけるための誘導路がある。左胸には受け取るための青灰色のポケット、右には返すための白いポケット。今日はさらに、役目を終えた一晩と三日間の祝福糸を、取り外せる布筒へ通してある。


 どちらも以前より少し色が薄い。それでも、黒い縫い種を使った試験では、アルヴィス自身より先に奪い糸を引きつけてくれた。何が待つか分からない地下へ入る以上、使わずに済むことを願いながらも、準備だけはしておくことにした。


「右脇腹は?」


 エステルが尋ねると、アルヴィスは壁を見たまま答えた。


「問題ない」


「本当に?」


「その聞き方をするな」


「では、少しは痛むのですね」


「朝から負けてる」


 ヴィオラが横で言った。


「勝負ではございません」


「なら、なぜ嬉しそうなの」


「嬉しくありませんわ」


 サビーネが小さく鼻で笑ったが、いつものように言葉を挟むことはなかった。彼女の視線は、三本波の印から動かない。


 今日ここへ来たのは、エステル、アルヴィス、ヴィオラ、サビーネ、ユリウス。それに公爵家の護衛二人と、王宮の古建築を調べる技師が一人である。ベルナールとセラフィーネは旧衣装室側で待機し、もし本当に返礼室の裏側へ出られた場合に備えている。


 ニナとリリは店に残した。


 当然、二人とも不満そうだった。


 けれど今朝、エステルが店を出る前に、ニナは母の針を保管した金属箱の封を自分から確認し、リリは「怪しい人を見ても追わない」ともう一度約束した。クッシュまで一緒に店の奥へ残され、ニナは最後に「帰ってきたら全部話して」と言っただけだった。


 以前のように、自分も連れていけと強く言わなかったことが、少しだけ寂しく、同時に嬉しい。


 役に立つことと、危険な場所へ行くことは同じではない。二人とも、それを少しずつ分かり始めている。


「開けられそうです」


 王宮技師が石壁を調べ終え、手袋の土を払った。


「この部分だけ、石の組み方が違います。後から塞いだものですね。ただし、壊す必要はありません。印の中央が留め具になっています」


「ほら」


 アルヴィスが言う。


「何でしょう」


「壁は壊さない」


「まだ気にしていらしたのですか」


「王宮の壁まで壊すと思われたままでは困る」


「店の床は直していただきましたので、信用しておりますわ」


「最初から信用しろ」


 技師は二人の会話を聞かないふりで作業を続けた。三本波の中央へ細い鉄具を差し込み、右へ半回転させると、石の奥で重い音がする。


 壁の一部が、ゆっくりと内側へ沈んだ。


 現れた隙間は、人が一人通れる程度。奥には下りの石段が続いている。


 冷たい空気とともに、古い布と湿った石の匂いが流れてきた。


「この匂い」


 サビーネが目を細める。


「覚えが?」


「染料倉庫の地下と似ている。でも、もっと古い」


 護衛が先に灯り石を持って入る。続いて技師が壁と天井を確認し、崩落の危険がない範囲を示した。アルヴィスは当然のようにエステルより先へ出ようとしたが、彼女は灰色の上着の裾を見て止める。


「公爵様」


「何だ」


「今日は、私が先です」


「却下だ」


「黒糸があれば、服より縫い目を先に見つけられます」


「俺の上着は、そのために作ったのでは?」


「着る方を危険へ先に入れるためではございません」


「仕立て師も同じだ」


「では、並んで」


「階段が狭い」


「……それは、そうですが」


「護衛が先だ。俺たちはその後」


 結局、どちらも一番にはならなかった。


 石段を下りると、天井の低い搬送路へ出た。左右の壁には金具が一定間隔で埋め込まれ、昔は荷車の綱か、布を吊るす棒を掛けていたらしい。床には細い溝が二本走り、ところどころ青や赤の染料が石へ染み込んだまま残っている。


 サビーネは足を止め、杖の先で溝を示した。


「ここへ小さな台車を通していたのね。染料や花、それから仕上がった衣装も」


「衣装まで?」


「王宮の表廊下を通したくないものは、裏から運んだと聞いている。式典の朝は特にね」


 表から見えない場所。


 建物の裏地。


 昨日、母の図を型紙として読み直したときに使った言葉が、急に現実の形を持った。


 衣装が表側だけでできていないように、王宮にも表から見えない流れがあったのだ。


「分岐があります」


 先頭の護衛が声を落とした。


 通路は三方向へ分かれている。右は崩落しており、石と土で完全に塞がれている。正面には教会の古い印。左の壁には、ほとんど消えかけた三本波の印があった。


「左です」


 エステルが言う。


「母の図では、染色側から返礼室へ入る線が西から伸びていました」


「位置も王宮側だ」


 ユリウスが方位磁針を確認する。


「ただし、ここから先は現行の王宮図にありません」


「裏地ですから」


「便利な言葉になってきたな」


 アルヴィスが言う。


「仕立て師には、分かりやすいのです」


 左の道へ入る。


 先ほどまでより、さらに狭い。天井には古い木の梁が渡され、左右の壁へ白い紐が何本も張られていた。


 護衛が剣へ手を掛けたが、エステルはすぐに手を上げる。


「待ってください」


「黒糸か?」


「いいえ」


 灯りを近づける。


 白い紐は麻でできた普通のものだった。ただし、壁の金具へ結ばれている間隔が一定で、短い結びと長い結びを繰り返している。


「昨日の点線」


 ヴィオラが母の図の写しを広げる。


「しつけの位置と同じ」


 エステルも見比べた。短く二つ、少し間を置いて一つ。その繰り返しは、母の型紙に記された点線と一致している。


「これは壁を支えているものではありません」


 技師が紐の張りを確かめる。


「外しても構造には影響しない。むしろ、何かの目印でしょう」


「しつけです」


 エステルは答えた。


「完成した服では抜く糸。母は、先にこれをほどけと残したのだと思います」


「全部?」


 ヴィオラが尋ねる。


「順番があります」


 母の図へ、針穴で残されていた返礼符。裏から開ける。そして、しつけの点線。


 エステルは壁の紐を端から数えた。十一本。そのうち図に対応するものは七本で、残る四本は後から足されたらしく、結び方も違う。


「この四本は触りません」


「理由は?」


「母の線にない。それに、結び目の向きが逆です」


 サビーネが近づく。


「黒くないけれど、後から誰かが?」


「おそらく」


「罠?」


「分かりません。だから、母が示したものだけ」


 以前なら、全部をほどいて確かめたくなったかもしれない。


 けれど今は、分からないものを分からないまま残すことができる。待つことも縫い方だと、昨日ヴィオラへ言ったばかりだ。


「七本。図の順番で外します」


「俺がやる」


 アルヴィスが言った。


「なぜです?」


「紐を外すだけだ」


「黒糸へ変わる可能性も」


「なら、お前が触る理由もない」


「二人とも触らない」


 ヴィオラが割って入った。


「金属鉤で外せばいいでしょう」


「……そうですわね」


「珍しく正論に負けたな」


「公爵様もです」


「俺は最初から反対していない」


 ヴィオラが小さく笑い、長い鉤を使って一つ目の結びを外した。


 紐が床へ落ちる。


 何も起きない。


 二つ目。


 三つ目。


 四つ目を外したところで、壁の奥から小さな音がした。


 かちり。


 全員が止まる。


「続けますか」


 ヴィオラが尋ねる。


 エステルは壁を見る。亀裂はない。黒糸も出ていない。母の図では、ここからさらに三つ続く。


「はい。ただし、一つずつ」


 五つ目。


 六つ目。


 最後の七つ目。


 紐が外れた瞬間、正面の壁がわずかに沈んだ。


 縦に細い線が現れる。


 扉だ。


「姿見の裏」


 エステルが呟く。


 今いる位置を王宮へ重ねれば、この壁の向こうが旧衣装室の西壁、人台の後ろにあった姿見の裏側になる。


「本当に内ポケットだった」


 ヴィオラが、少し呆れたように息を吐く。


「リディア、どこまで仕立て師なの」


「母ですから」


「説明になってない」


 扉には取っ手がない。


 代わりに、中央へ小さな布片が挟まっていた。十年近い湿気の中でも形を残している、青灰色の細布。その端に、母の針目で三針だけ縫われている。


「触れますか」


 アルヴィスが聞く。


「普通の糸です」


「本当に?」


「その聞き方を」


「必要だろう」


 エステルは苦笑しつつ、金属挟みで布片を摘んだ。引くと、扉の内側で仕掛けが外れ、石板が横へゆっくり滑る。


 冷たい空気が流れ出した。


 同時に。


 アルヴィスの灰色の上着の左胸が、淡く光った。


「公爵様」


「見えている」


 誘導路へ入れた一晩の祝福糸が、青灰色の光を返している。


 まだ黒糸は見えない。


 それでも、何かが向こう側から彼を探している。


「下がります?」


「まだ痛みはない」


「痛んでからでは遅いです」


「なら、お前も入るな」


「私は光っておりません」


「言い方」


 ヴィオラが呟く。


 サビーネは笑わなかった。


「ここから先が返礼室なら、呪いへ反応して当然かもしれない。公爵は最後に入って」


「俺を置いて先へ行くのか」


「護衛と私たちが中を確認してから」


「合理的です」


 エステルが頷くと、アルヴィスは明らかに不満そうな顔をした。


「顔が言っておりますわ」


「何も言っていない」


「では、そこでお待ちください」


「……分かった」


 これも最近増えた。


 止められたとき、理由があれば止まってくれる。


 それが少し嬉しかったが、今は口にしない。


 先に護衛が入り、危険がないことを確認する。エステル、ヴィオラ、サビーネ、ユリウスが続き、最後にアルヴィスが入口から数歩だけ中へ入った。


 返礼室は、想像していたより広かった。


 円形に近い石室で、壁沿いには六つの木枠が並んでいる。古い織機に似ているが、布を織るためのものではない。各木枠から細い管が中央へ伸び、その先に大きな硝子の器が据えられていた。


 器の中には何も入っていないように見えた。


 けれど、灯りを落とすと。


 無数の細い光が見えた。


 赤。


 青。


 白。


 金。


 淡い緑。


 ほとんど色を失った灰色。


 糸のような光が、硝子の内側へ重なっている。


 黒だけではない。


 むしろ、黒いものは外側に絡みつき、色のある光を押さえ込むように巻きついていた。


「これが……」


 エステルは息を呑む。


「受け皿」


 サビーネの声が掠れた。


「こんな形だったのね」


「見たことは?」


「ない。聞いただけ。昔は、役目を終えた祝福の痕跡をここへ一度集めて、それぞれへ返すための器があったと」


「では、この色は」


「奪われたもの」


 サビーネは硝子へ近づかず、遠くから目を凝らした。


「願い。感謝。守りたい気持ち。祝福そのものではなく、そこを通った痕跡」


 エステルは、アルヴィスを振り返った。


 彼は入口近くに立ったまま、右脇腹へ手を置いている。


「痛みます?」


「少し」


「戻ってください」


「まだ立てる」


「立てるかどうかではございません」


「見たい」


「何を?」


 アルヴィスは中央の硝子器を見た。


「俺が受け取れなかったものが、ここにあるのかもしれない」


 エステルは言葉を失う。


 家族の贈り物。


 領民からの感謝。


 友人の善意。


 知らない誰かが向けた小さな親切。


 彼自身が何度も拒んだのではない。受け取れなかったものが、どこかへ奪われていたのだとしたら。


「全部ではない」


 サビーネが言った。


「何です?」


「この器、受け皿としては少なすぎる」


「少ない?」


「十年よ。王室衣装だけでも、もっとあるはず。それに公爵一人のものがここへ全部溜まっているなら、この程度では済まない」


 ユリウスが硝子器の下へ回り込む。


「排出口があります」


 中央の器から、太い管が一本だけ床下へ伸びている。


 入る道は六つ。


 出る道は一つ。


「受け皿ではなく、中継点?」


 ヴィオラが言う。


「昔は、ここから返す相手ごとに分けたはず」


 サビーネが六つの木枠を見る。


「でも今は逆。六方向から集めて、一つへ送っている」


「縫い目が逆なのですね」


 エステルは木枠へ近づいた。


 各枠には布帯が張られ、糸を通すための小さな穴が並んでいる。普通なら、中央から外へ向かって糸が抜けるよう、穴の裏側へ返しが作られているはずだ。


 けれど今は。


 全部が外から中央へ向くよう、金具の向きが変えられている。


「本来は、中央から六方向へ返す構造です」


「分かるの?」


 ヴィオラが聞く。


「服の紐通しと同じです。出口側へ引っかからないように作るものを、逆へ付ければ、戻ろうとした糸が中央へ引かれます」


「誰かが、返す仕組みを裏返した」


 アルヴィスの声が入口から届く。


「はい」


 奪い糸そのものが、最初から邪悪な仕組みだったわけではない。


 人から何かを奪うために新しく作られた場所でもない。


 本来、人へ返すための仕組みを。


 誰かが。


 逆向きに縫い替えた。


「いつ?」


 ユリウスが尋ねる。


 木枠の金具。


 錆。


 糸。


 埃。


 エステルには金属の年代までは分からない。だが、一つだけ気になるものがあった。


「ここだけ、縫い方が違います」


 六つある木枠のうち、北側。


 教会へつながる方角。


 布帯を留める縫い目が、ほかの五つとは違う。


 五つは古い手縫い。


 北だけ、より新しい。


 しかも。


 見覚えがある。


「ロデリック司祭の袖」


 ヴィオラも同時に気づいた。


「同じ裏留め」


「似ています。ただし、これだけで同じ人とは言えません」


 エステルはすぐに付け加える。


「古い王室衣装室の技法ですから」


「分かってる」


 ヴィオラも頷いた。


 名前へ飛びつかない。


 印だけで決めない。


 母がされたことを繰り返さないために。


 サビーネは北側の枠を見つめ、やがて小さく首を振った。


「でも、ここは十年前より後にも触られている」


「なぜ分かるのです?」


「布帯が新しすぎる。私が染色工房にいたころのものではない」


「何年くらい?」


「正確には無理。でも、十年は経っていない」


「今も使われていた」


 ユリウスが記録する。


「ロデリックが三年前に測定糸の異常へ気づいたと言っていました。そのころにも、この仕組みが動いていた可能性が高い」


「なら、犯人は十年前の一人だけではないかもしれない」


 アルヴィスが言う。


 その言葉は重かった。


 一人が始め。


 別の誰かが引き継いだ。


 あるいは。


 最初から複数人。


 王室衣装室と教会。


 返す仕組みを管理していた者たち。


「エステル」


 サビーネが呼んだ。


「これを見て」


 中央の硝子器の台座。


 埃の下へ、小さな文字が刻まれている。


 古い王室文字。


 エステルには読めない部分もあるが、サビーネが指でなぞらず目だけで追った。


「『返礼は、受けた者と返す者の同意によって行う』」


「同意?」


「昔は、勝手に返さなかったのよ」


「誰へ戻すか、本人が選んだ?」


「そういうことだと思う」


 エステルは灰色の上着の二つのポケットを思い出す。


 受け取る。


 返す。


 アルヴィス自身が決める。


 偶然ではなかった。


 母が十年前に辿り着いたものと。


 エステルたちが何も知らずに作った形が。


 また、重なる。


「だから、母は『返す道を作る』と」


「一方的に押し戻すだけでは駄目」


 サビーネが言う。


「受けた側が、誰へ何を返すか選ぶ必要がある」


「公爵様」


 エステルは振り返る。


 アルヴィスは何も言わない。


 ただ。


 灰色の上着の右側。


 白いポケットへ手を入れた。


 王妃へ白い花を返したとき、一度使った場所。


「面倒な仕組みだな」


「嫌ですか?」


「嫌とは言っていない」


 今度は誰も笑わなかった。


 その言葉が、以前とは少し違って聞こえたからだ。


「全部を一度に返す必要はありません」


 エステルは言う。


「母も、先に流れを止めると書いておりました。まず、これ以上奪われないようにする。そのあとで、少しずつ」


「返す相手を選ぶ?」


「はい」


「十年分あるぞ」


「十年かけて返せとは申しません」


「なら、どれからだ」


「それを、私が決めてはいけません」


 アルヴィスの目が、少し細くなる。


「また選べと?」


「公爵様のものですから」


「何が俺のものかも分からない」


「では、分かったものから」


 白い薔薇。


 二十七通の手紙。


 パン。


 小さな花。


 すでに彼は、受け取ったものへ自分から返し始めている。


「今までと同じです」


「同じ?」


「一つずつ」


 エステルは微笑んだ。


「一晩の次に三日だったように」


 アルヴィスが、ほんの少し眉を上げる。


「そこで祝福の話を出すのか」


「分かりやすいかと思いまして」


「次は一週間、と言う気ではないだろうな」


「今は申し上げません」


「今は?」


「公爵様」


「顔が言っている」


 さすがにヴィオラが笑った。


 緊張が少し緩んだ、その直後だった。


 アルヴィスの左胸が、急に強く光る。


「公爵様!」


 一晩の祝福糸。


 続いて、三日の糸。


 青灰色の光が布の内側へ走り、誘導路の出口である左裾へ向かった。


 中央の硝子器に絡んでいた黒い糸の一本が、ゆっくりと持ち上がる。


 アルヴィスへ向かう。


「外へ!」


 エステルが叫ぶより早く、アルヴィスが一歩下がった。


 黒糸は追う。


 灰色の上着へ触れ。


 左胸。


 一晩の糸へ引かれる。


「服は機能しています!」


「だから何だ」


「そのまま後ろへ!」


「命令が多い」


「急いでくださいませ!」


 アルヴィスが扉の外へ下がる。


 黒糸は服へ伸びたまま、しかし部屋の境界を越えたところでぴんと張った。


 それ以上、進まない。


「切らないで」


 サビーネが止める。


「流れを見る」


 黒糸。


 片方はアルヴィスの服。


 もう片方は中央の硝子器。


 けれど。


 硝子器の底から、床下へ伸びる一本の管。


 その中で。


 何かが動く。


 黒い流れは。


 アルヴィスから中央へ吸われるのではない。


 一度、中央へ触れたあと。


 さらに下へ引かれている。


「下です」


 エステルが言った。


「返礼室が、受け皿ではない」


「さっきの排出口」


 ユリウスが台座を見る。


「もっと下に、本当の受け皿がある?」


「あるいは、どこか別の場所へ運んでいる」


 サビーネの顔が険しくなる。


 黒糸はしばらく張ったままだったが、アルヴィスがさらに距離を取ると、一晩の祝福糸から離れた。


 部屋の中央へ戻る。


 そして。


 床下の管へ吸い込まれた。


「消えた」


 ヴィオラが呟く。


「出口の先を調べます」


 エステルが言うと、アルヴィスが扉の外から即座に返した。


「今日は、そこまでだ」


「ですが」


「母親の手紙に何と書いてあった」


「順番を間違えるな、と」


「今、分かったのは何だ」


 エステルは口を閉じる。


 この部屋は、受け皿そのものではない。


 本来は返すための中継点。


 六方向から中央へ集めるよう、仕組みが逆向きに変えられている。


 そして、集めたものはさらに別の場所へ流れている。


「まだ、受け皿を見つけていません」


「なら、種にも触れられない」


「はい」


「今日は出る」


「……はい」


「素直ね」


 ヴィオラが言う。


「私も学びます」


「昨日も言ってた」


「昨日より学びました」


 アルヴィスが少しだけ息を吐く。


「なら、戻るぞ」


 ただし。


 何も持ち帰らないわけではない。


 木枠の縫い目。


 金具の向き。


 中央の器。


 床下へ続く排出口。


 すべて記録し、魔写紙へ写す。


 さらにユリウスが台座の裏側を確認したところ、古い金属札が一枚見つかった。


 錆びてはいるが、文字は読める。


『王室返礼室 管理責任者』


 その下。


 削られた名前。


 完全には読めない。


 けれど、最後の姓だけは残っている。


『――・オルドー』


 セラフィーネの家名。


 ガストン・オルドー。


 十年前の臨時衣装管理官。


 母を拘束し、教会へ引き渡すよう命じた男。


「ガストン?」


 ヴィオラが低く言う。


「決めつけません」


 エステルはすぐに答えた。


「姓しか残っておりません。それに、オルドー家は何代も王室衣装室へ勤めています」


「そうね」


 サビーネも頷く。


「でも、調べる価値はある」


「はい」


 札は外さない。


 その場で写し、位置を記録する。


 母の事件で。


 証拠は何度も、別の意味へ使われた。


 だから。


 今度は、急いで答えにしない。


 帰り道。


 七本のしつけ紐は、元には戻さなかった。


 ただし、後から足された四本はそのまま残した。返礼室の石扉も完全には閉めず、公爵家と王宮の封印札を二重に付ける。


「開けたままでいいのですか」


 エステルが尋ねる。


「次に誰かが触れば分かるようにする」


 ユリウスが封蝋を確認する。


「完全に閉じれば、また別の入口から入られる可能性があります。こちらが開けたことを隠す必要もありません」


「犯人へ、見つけたと知らせることになります」


「もう知られているだろう」


 アルヴィスが言った。


「塔で罠を仕掛けられた時点でな」


「では、今度は相手が動く?」


「そのほうが痕跡を残す」


「公爵様、少し怖いことを楽しんでおりません?」


「楽しんでいない」


「本当に?」


「その聞き方をするな」


 地上へ戻ると、朝靄はすっかり消えていた。


 王都の音が戻ってくる。


 荷車。


 市場の声。


 遠くで鳴る教会の鐘。


 地下で見た無数の光が嘘だったように、地上はいつもの朝の続きをしている。


 旧衣装室側へ連絡を送ると、ほどなくしてベルナールとセラフィーネが合流した。


 金属札の写しを見たセラフィーネは、長いあいだ黙っていた。


「オルドー家が返礼室を管理していたことは?」


 ベルナールが尋ねる。


「知らなかった」


「本当に?」


「本当に」


 セラフィーネは、削られた名前を指でなぞらず見つめた。


「父からも叔父からも、返礼室という言葉を聞いたことがない。家の記録にもない」


「消された?」


「可能性はある。でも」


 彼女はエステルを見る。


「私の家名があるからと、疑わないの?」


「疑っていないとは申しません」


 エステルは正直に答えた。


「でも、決めません」


「なぜ」


「母が、そうされたからです」


 セラフィーネは目を伏せ、しばらくして小さく頷いた。


「ありがとう、と言うべきなのかしら」


「まだ、何も証明しておりません」


「それでもよ」


 エステルは返事を迷ったが、結局、軽く頭を下げるだけにした。


 店へ戻ったのは、昼を少し過ぎたころだった。


 扉へ近づくと、小窓の布が上がる。


「合言葉」


「まだ決めておりません」


「じゃあ、本物」


「昨日より確認が早いですわね」


「公爵が灰色だから」


「服で判断するなと言っただろう」


 鍵が外れ、ニナが扉を開ける。


 その足元からクッシュが出てきて、今日はアルヴィスではなくエステルの靴へ鼻先を寄せた。


「おかえり」


「ただいま戻りました」


「見つかった?」


「はい」


 ニナの目が大きくなる。


「返礼室?」


「見つかりました」


「公爵の呪い、取れた?」


「それは、まだです」


「何で?」


「返礼室は、本当の受け皿ではありませんでした」


 ニナは一瞬、難しい顔をした。


「内ポケットの中に、またポケットがあった?」


 エステルは思わず笑った。


「近いかもしれません」


「じゃあ、まだ裏があるんだ」


「ええ」


 服の裏地を開けたら。


 そこが終わりではなかった。


 内ポケットの奥に。


 さらに別の道が隠れていた。


「リリは?」


「花売り。帰ってきたら、見つかったって言っていい?」


「返礼室までは。詳しい場所は、まだ内緒に」


「分かった」


 ニナは素直に頷き、それからアルヴィスを見る。


「公爵、怪我してない?」


「していない」


「本当に?」


「お前まで、その聞き方をするな」


「エステルがいつも聞くから」


「確認します」


 エステルが言うと、アルヴィスは顔をしかめた。


「何を」


「灰色の上着です」


「問題ない」


「左胸が光りました」


「糸が反応しただけだ」


「だから、裏を見ます」


「またか」


「何もないことを確認するのです」


 昨日と同じ言葉。


 アルヴィスも気づいたのか、しばらく黙ったあと灰色の上着を脱いだ。


「素直」


 ニナが言う。


「言うな」


「でも、素直」


「給金を減らすぞ」


「エステルの店だから無理」


「そのやり取り、昨日もなさいましたね」


 上着を受け取る。


 左胸。


 誘導路。


 一晩の祝福糸。


 三日の祝福糸。


 どちらも切れてはいない。


 ただ。


 一晩の糸は、さらに少し色が薄くなっていた。


「また、守ってくれました」


 エステルが呟く。


「役目を終えたあとに?」


 ニナが覗く。


「ええ」


「何回役目あるの」


「決められているわけではございません」


「じゃあ、終わった糸も、まだ終わってない?」


 エステルは答えようとして、少し考えた。


 祝福としての役目は終わった。


 願いはほどけた。


 普通の糸へ戻った。


 それでも。


 そこで起きたことの痕跡は残り。


 別の形で、もう一度人を守った。


「終わったことと、なくなったことは、違うのでしょうね」


 以前なら。


 もっと短く言ったかもしれない。


 けれど今は、糸を指で整えながら、その意味をゆっくり口にできた。


 母の事件も。


 十年前に終わったことにはされている。


 でも。


 なくなってはいない。


 縫い目も。


 人の記憶も。


 返されなかったものも。


 全部、どこかに残っている。


「公爵様」


「何だ」


「次に、受け皿を探します」


「ああ」


「でも、今日は行きません」


「言われる前に言ったな」


「学びましたので」


「本当に?」


「その聞き方をなさいます?」


 アルヴィスは、少しだけ笑った。


 今度は。


 暗い路地でも。


 見間違いではなかった。


 その日の夕方、リリが花籠を抱えて戻るころには、灰色の上着の点検も終わり、裁断台には返礼室の新しい図が広げられていた。


 外から中央へ向く六本の流れ。


 その中央から、さらに下へ伸びる一本。


 エステルは、その先だけを空白のままにした。


 分からない場所を、想像で縫い足さないために。


 母の続きではなく。


 自分の縫い方をするために。


 ただ、その空白の横へ。


 小さく一つだけ書き込む。


『返礼室は、終点ではない。』


 そして、その下に。


『返す道は、まだ続いている。』

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