第25話 返礼室
翌朝、鐘の鳴らない塔の裏手へ着いたとき、古い水路にはまだ朝靄が残っていた。
かつて染料や花を運んだという水路は、今では半分ほど土に埋まり、白灰石の壁には蔦と苔が広がっている。昨日リリが持ち帰った紙片がなければ、ここに王宮へ続く搬送路があるなど、通りすがりの人間には思いもしないだろう。
エステルは紙片と壁を見比べ、崩れた石のあいだに同じ印を見つけた。丸の中へ三本の波。母の祝縫針にも刻まれた、古い王室衣装室の印だった。
「ありました」
「触るな」
すぐ後ろからアルヴィスの声が飛んでくる。
「まだ何もしておりませんわ」
「顔がしている」
「最近、それで何でも止めようとなさいますね」
「実際、止まる」
否定できないのが少し悔しい。
アルヴィスは今日も灰色の上着を着ていた。外側は粗い麻、内側は白い絹、その間には黒糸を体から遠ざけるための誘導路がある。左胸には受け取るための青灰色のポケット、右には返すための白いポケット。今日はさらに、役目を終えた一晩と三日間の祝福糸を、取り外せる布筒へ通してある。
どちらも以前より少し色が薄い。それでも、黒い縫い種を使った試験では、アルヴィス自身より先に奪い糸を引きつけてくれた。何が待つか分からない地下へ入る以上、使わずに済むことを願いながらも、準備だけはしておくことにした。
「右脇腹は?」
エステルが尋ねると、アルヴィスは壁を見たまま答えた。
「問題ない」
「本当に?」
「その聞き方をするな」
「では、少しは痛むのですね」
「朝から負けてる」
ヴィオラが横で言った。
「勝負ではございません」
「なら、なぜ嬉しそうなの」
「嬉しくありませんわ」
サビーネが小さく鼻で笑ったが、いつものように言葉を挟むことはなかった。彼女の視線は、三本波の印から動かない。
今日ここへ来たのは、エステル、アルヴィス、ヴィオラ、サビーネ、ユリウス。それに公爵家の護衛二人と、王宮の古建築を調べる技師が一人である。ベルナールとセラフィーネは旧衣装室側で待機し、もし本当に返礼室の裏側へ出られた場合に備えている。
ニナとリリは店に残した。
当然、二人とも不満そうだった。
けれど今朝、エステルが店を出る前に、ニナは母の針を保管した金属箱の封を自分から確認し、リリは「怪しい人を見ても追わない」ともう一度約束した。クッシュまで一緒に店の奥へ残され、ニナは最後に「帰ってきたら全部話して」と言っただけだった。
以前のように、自分も連れていけと強く言わなかったことが、少しだけ寂しく、同時に嬉しい。
役に立つことと、危険な場所へ行くことは同じではない。二人とも、それを少しずつ分かり始めている。
「開けられそうです」
王宮技師が石壁を調べ終え、手袋の土を払った。
「この部分だけ、石の組み方が違います。後から塞いだものですね。ただし、壊す必要はありません。印の中央が留め具になっています」
「ほら」
アルヴィスが言う。
「何でしょう」
「壁は壊さない」
「まだ気にしていらしたのですか」
「王宮の壁まで壊すと思われたままでは困る」
「店の床は直していただきましたので、信用しておりますわ」
「最初から信用しろ」
技師は二人の会話を聞かないふりで作業を続けた。三本波の中央へ細い鉄具を差し込み、右へ半回転させると、石の奥で重い音がする。
壁の一部が、ゆっくりと内側へ沈んだ。
現れた隙間は、人が一人通れる程度。奥には下りの石段が続いている。
冷たい空気とともに、古い布と湿った石の匂いが流れてきた。
「この匂い」
サビーネが目を細める。
「覚えが?」
「染料倉庫の地下と似ている。でも、もっと古い」
護衛が先に灯り石を持って入る。続いて技師が壁と天井を確認し、崩落の危険がない範囲を示した。アルヴィスは当然のようにエステルより先へ出ようとしたが、彼女は灰色の上着の裾を見て止める。
「公爵様」
「何だ」
「今日は、私が先です」
「却下だ」
「黒糸があれば、服より縫い目を先に見つけられます」
「俺の上着は、そのために作ったのでは?」
「着る方を危険へ先に入れるためではございません」
「仕立て師も同じだ」
「では、並んで」
「階段が狭い」
「……それは、そうですが」
「護衛が先だ。俺たちはその後」
結局、どちらも一番にはならなかった。
石段を下りると、天井の低い搬送路へ出た。左右の壁には金具が一定間隔で埋め込まれ、昔は荷車の綱か、布を吊るす棒を掛けていたらしい。床には細い溝が二本走り、ところどころ青や赤の染料が石へ染み込んだまま残っている。
サビーネは足を止め、杖の先で溝を示した。
「ここへ小さな台車を通していたのね。染料や花、それから仕上がった衣装も」
「衣装まで?」
「王宮の表廊下を通したくないものは、裏から運んだと聞いている。式典の朝は特にね」
表から見えない場所。
建物の裏地。
昨日、母の図を型紙として読み直したときに使った言葉が、急に現実の形を持った。
衣装が表側だけでできていないように、王宮にも表から見えない流れがあったのだ。
「分岐があります」
先頭の護衛が声を落とした。
通路は三方向へ分かれている。右は崩落しており、石と土で完全に塞がれている。正面には教会の古い印。左の壁には、ほとんど消えかけた三本波の印があった。
「左です」
エステルが言う。
「母の図では、染色側から返礼室へ入る線が西から伸びていました」
「位置も王宮側だ」
ユリウスが方位磁針を確認する。
「ただし、ここから先は現行の王宮図にありません」
「裏地ですから」
「便利な言葉になってきたな」
アルヴィスが言う。
「仕立て師には、分かりやすいのです」
左の道へ入る。
先ほどまでより、さらに狭い。天井には古い木の梁が渡され、左右の壁へ白い紐が何本も張られていた。
護衛が剣へ手を掛けたが、エステルはすぐに手を上げる。
「待ってください」
「黒糸か?」
「いいえ」
灯りを近づける。
白い紐は麻でできた普通のものだった。ただし、壁の金具へ結ばれている間隔が一定で、短い結びと長い結びを繰り返している。
「昨日の点線」
ヴィオラが母の図の写しを広げる。
「しつけの位置と同じ」
エステルも見比べた。短く二つ、少し間を置いて一つ。その繰り返しは、母の型紙に記された点線と一致している。
「これは壁を支えているものではありません」
技師が紐の張りを確かめる。
「外しても構造には影響しない。むしろ、何かの目印でしょう」
「しつけです」
エステルは答えた。
「完成した服では抜く糸。母は、先にこれをほどけと残したのだと思います」
「全部?」
ヴィオラが尋ねる。
「順番があります」
母の図へ、針穴で残されていた返礼符。裏から開ける。そして、しつけの点線。
エステルは壁の紐を端から数えた。十一本。そのうち図に対応するものは七本で、残る四本は後から足されたらしく、結び方も違う。
「この四本は触りません」
「理由は?」
「母の線にない。それに、結び目の向きが逆です」
サビーネが近づく。
「黒くないけれど、後から誰かが?」
「おそらく」
「罠?」
「分かりません。だから、母が示したものだけ」
以前なら、全部をほどいて確かめたくなったかもしれない。
けれど今は、分からないものを分からないまま残すことができる。待つことも縫い方だと、昨日ヴィオラへ言ったばかりだ。
「七本。図の順番で外します」
「俺がやる」
アルヴィスが言った。
「なぜです?」
「紐を外すだけだ」
「黒糸へ変わる可能性も」
「なら、お前が触る理由もない」
「二人とも触らない」
ヴィオラが割って入った。
「金属鉤で外せばいいでしょう」
「……そうですわね」
「珍しく正論に負けたな」
「公爵様もです」
「俺は最初から反対していない」
ヴィオラが小さく笑い、長い鉤を使って一つ目の結びを外した。
紐が床へ落ちる。
何も起きない。
二つ目。
三つ目。
四つ目を外したところで、壁の奥から小さな音がした。
かちり。
全員が止まる。
「続けますか」
ヴィオラが尋ねる。
エステルは壁を見る。亀裂はない。黒糸も出ていない。母の図では、ここからさらに三つ続く。
「はい。ただし、一つずつ」
五つ目。
六つ目。
最後の七つ目。
紐が外れた瞬間、正面の壁がわずかに沈んだ。
縦に細い線が現れる。
扉だ。
「姿見の裏」
エステルが呟く。
今いる位置を王宮へ重ねれば、この壁の向こうが旧衣装室の西壁、人台の後ろにあった姿見の裏側になる。
「本当に内ポケットだった」
ヴィオラが、少し呆れたように息を吐く。
「リディア、どこまで仕立て師なの」
「母ですから」
「説明になってない」
扉には取っ手がない。
代わりに、中央へ小さな布片が挟まっていた。十年近い湿気の中でも形を残している、青灰色の細布。その端に、母の針目で三針だけ縫われている。
「触れますか」
アルヴィスが聞く。
「普通の糸です」
「本当に?」
「その聞き方を」
「必要だろう」
エステルは苦笑しつつ、金属挟みで布片を摘んだ。引くと、扉の内側で仕掛けが外れ、石板が横へゆっくり滑る。
冷たい空気が流れ出した。
同時に。
アルヴィスの灰色の上着の左胸が、淡く光った。
「公爵様」
「見えている」
誘導路へ入れた一晩の祝福糸が、青灰色の光を返している。
まだ黒糸は見えない。
それでも、何かが向こう側から彼を探している。
「下がります?」
「まだ痛みはない」
「痛んでからでは遅いです」
「なら、お前も入るな」
「私は光っておりません」
「言い方」
ヴィオラが呟く。
サビーネは笑わなかった。
「ここから先が返礼室なら、呪いへ反応して当然かもしれない。公爵は最後に入って」
「俺を置いて先へ行くのか」
「護衛と私たちが中を確認してから」
「合理的です」
エステルが頷くと、アルヴィスは明らかに不満そうな顔をした。
「顔が言っておりますわ」
「何も言っていない」
「では、そこでお待ちください」
「……分かった」
これも最近増えた。
止められたとき、理由があれば止まってくれる。
それが少し嬉しかったが、今は口にしない。
先に護衛が入り、危険がないことを確認する。エステル、ヴィオラ、サビーネ、ユリウスが続き、最後にアルヴィスが入口から数歩だけ中へ入った。
返礼室は、想像していたより広かった。
円形に近い石室で、壁沿いには六つの木枠が並んでいる。古い織機に似ているが、布を織るためのものではない。各木枠から細い管が中央へ伸び、その先に大きな硝子の器が据えられていた。
器の中には何も入っていないように見えた。
けれど、灯りを落とすと。
無数の細い光が見えた。
赤。
青。
白。
金。
淡い緑。
ほとんど色を失った灰色。
糸のような光が、硝子の内側へ重なっている。
黒だけではない。
むしろ、黒いものは外側に絡みつき、色のある光を押さえ込むように巻きついていた。
「これが……」
エステルは息を呑む。
「受け皿」
サビーネの声が掠れた。
「こんな形だったのね」
「見たことは?」
「ない。聞いただけ。昔は、役目を終えた祝福の痕跡をここへ一度集めて、それぞれへ返すための器があったと」
「では、この色は」
「奪われたもの」
サビーネは硝子へ近づかず、遠くから目を凝らした。
「願い。感謝。守りたい気持ち。祝福そのものではなく、そこを通った痕跡」
エステルは、アルヴィスを振り返った。
彼は入口近くに立ったまま、右脇腹へ手を置いている。
「痛みます?」
「少し」
「戻ってください」
「まだ立てる」
「立てるかどうかではございません」
「見たい」
「何を?」
アルヴィスは中央の硝子器を見た。
「俺が受け取れなかったものが、ここにあるのかもしれない」
エステルは言葉を失う。
家族の贈り物。
領民からの感謝。
友人の善意。
知らない誰かが向けた小さな親切。
彼自身が何度も拒んだのではない。受け取れなかったものが、どこかへ奪われていたのだとしたら。
「全部ではない」
サビーネが言った。
「何です?」
「この器、受け皿としては少なすぎる」
「少ない?」
「十年よ。王室衣装だけでも、もっとあるはず。それに公爵一人のものがここへ全部溜まっているなら、この程度では済まない」
ユリウスが硝子器の下へ回り込む。
「排出口があります」
中央の器から、太い管が一本だけ床下へ伸びている。
入る道は六つ。
出る道は一つ。
「受け皿ではなく、中継点?」
ヴィオラが言う。
「昔は、ここから返す相手ごとに分けたはず」
サビーネが六つの木枠を見る。
「でも今は逆。六方向から集めて、一つへ送っている」
「縫い目が逆なのですね」
エステルは木枠へ近づいた。
各枠には布帯が張られ、糸を通すための小さな穴が並んでいる。普通なら、中央から外へ向かって糸が抜けるよう、穴の裏側へ返しが作られているはずだ。
けれど今は。
全部が外から中央へ向くよう、金具の向きが変えられている。
「本来は、中央から六方向へ返す構造です」
「分かるの?」
ヴィオラが聞く。
「服の紐通しと同じです。出口側へ引っかからないように作るものを、逆へ付ければ、戻ろうとした糸が中央へ引かれます」
「誰かが、返す仕組みを裏返した」
アルヴィスの声が入口から届く。
「はい」
奪い糸そのものが、最初から邪悪な仕組みだったわけではない。
人から何かを奪うために新しく作られた場所でもない。
本来、人へ返すための仕組みを。
誰かが。
逆向きに縫い替えた。
「いつ?」
ユリウスが尋ねる。
木枠の金具。
錆。
糸。
埃。
エステルには金属の年代までは分からない。だが、一つだけ気になるものがあった。
「ここだけ、縫い方が違います」
六つある木枠のうち、北側。
教会へつながる方角。
布帯を留める縫い目が、ほかの五つとは違う。
五つは古い手縫い。
北だけ、より新しい。
しかも。
見覚えがある。
「ロデリック司祭の袖」
ヴィオラも同時に気づいた。
「同じ裏留め」
「似ています。ただし、これだけで同じ人とは言えません」
エステルはすぐに付け加える。
「古い王室衣装室の技法ですから」
「分かってる」
ヴィオラも頷いた。
名前へ飛びつかない。
印だけで決めない。
母がされたことを繰り返さないために。
サビーネは北側の枠を見つめ、やがて小さく首を振った。
「でも、ここは十年前より後にも触られている」
「なぜ分かるのです?」
「布帯が新しすぎる。私が染色工房にいたころのものではない」
「何年くらい?」
「正確には無理。でも、十年は経っていない」
「今も使われていた」
ユリウスが記録する。
「ロデリックが三年前に測定糸の異常へ気づいたと言っていました。そのころにも、この仕組みが動いていた可能性が高い」
「なら、犯人は十年前の一人だけではないかもしれない」
アルヴィスが言う。
その言葉は重かった。
一人が始め。
別の誰かが引き継いだ。
あるいは。
最初から複数人。
王室衣装室と教会。
返す仕組みを管理していた者たち。
「エステル」
サビーネが呼んだ。
「これを見て」
中央の硝子器の台座。
埃の下へ、小さな文字が刻まれている。
古い王室文字。
エステルには読めない部分もあるが、サビーネが指でなぞらず目だけで追った。
「『返礼は、受けた者と返す者の同意によって行う』」
「同意?」
「昔は、勝手に返さなかったのよ」
「誰へ戻すか、本人が選んだ?」
「そういうことだと思う」
エステルは灰色の上着の二つのポケットを思い出す。
受け取る。
返す。
アルヴィス自身が決める。
偶然ではなかった。
母が十年前に辿り着いたものと。
エステルたちが何も知らずに作った形が。
また、重なる。
「だから、母は『返す道を作る』と」
「一方的に押し戻すだけでは駄目」
サビーネが言う。
「受けた側が、誰へ何を返すか選ぶ必要がある」
「公爵様」
エステルは振り返る。
アルヴィスは何も言わない。
ただ。
灰色の上着の右側。
白いポケットへ手を入れた。
王妃へ白い花を返したとき、一度使った場所。
「面倒な仕組みだな」
「嫌ですか?」
「嫌とは言っていない」
今度は誰も笑わなかった。
その言葉が、以前とは少し違って聞こえたからだ。
「全部を一度に返す必要はありません」
エステルは言う。
「母も、先に流れを止めると書いておりました。まず、これ以上奪われないようにする。そのあとで、少しずつ」
「返す相手を選ぶ?」
「はい」
「十年分あるぞ」
「十年かけて返せとは申しません」
「なら、どれからだ」
「それを、私が決めてはいけません」
アルヴィスの目が、少し細くなる。
「また選べと?」
「公爵様のものですから」
「何が俺のものかも分からない」
「では、分かったものから」
白い薔薇。
二十七通の手紙。
パン。
小さな花。
すでに彼は、受け取ったものへ自分から返し始めている。
「今までと同じです」
「同じ?」
「一つずつ」
エステルは微笑んだ。
「一晩の次に三日だったように」
アルヴィスが、ほんの少し眉を上げる。
「そこで祝福の話を出すのか」
「分かりやすいかと思いまして」
「次は一週間、と言う気ではないだろうな」
「今は申し上げません」
「今は?」
「公爵様」
「顔が言っている」
さすがにヴィオラが笑った。
緊張が少し緩んだ、その直後だった。
アルヴィスの左胸が、急に強く光る。
「公爵様!」
一晩の祝福糸。
続いて、三日の糸。
青灰色の光が布の内側へ走り、誘導路の出口である左裾へ向かった。
中央の硝子器に絡んでいた黒い糸の一本が、ゆっくりと持ち上がる。
アルヴィスへ向かう。
「外へ!」
エステルが叫ぶより早く、アルヴィスが一歩下がった。
黒糸は追う。
灰色の上着へ触れ。
左胸。
一晩の糸へ引かれる。
「服は機能しています!」
「だから何だ」
「そのまま後ろへ!」
「命令が多い」
「急いでくださいませ!」
アルヴィスが扉の外へ下がる。
黒糸は服へ伸びたまま、しかし部屋の境界を越えたところでぴんと張った。
それ以上、進まない。
「切らないで」
サビーネが止める。
「流れを見る」
黒糸。
片方はアルヴィスの服。
もう片方は中央の硝子器。
けれど。
硝子器の底から、床下へ伸びる一本の管。
その中で。
何かが動く。
黒い流れは。
アルヴィスから中央へ吸われるのではない。
一度、中央へ触れたあと。
さらに下へ引かれている。
「下です」
エステルが言った。
「返礼室が、受け皿ではない」
「さっきの排出口」
ユリウスが台座を見る。
「もっと下に、本当の受け皿がある?」
「あるいは、どこか別の場所へ運んでいる」
サビーネの顔が険しくなる。
黒糸はしばらく張ったままだったが、アルヴィスがさらに距離を取ると、一晩の祝福糸から離れた。
部屋の中央へ戻る。
そして。
床下の管へ吸い込まれた。
「消えた」
ヴィオラが呟く。
「出口の先を調べます」
エステルが言うと、アルヴィスが扉の外から即座に返した。
「今日は、そこまでだ」
「ですが」
「母親の手紙に何と書いてあった」
「順番を間違えるな、と」
「今、分かったのは何だ」
エステルは口を閉じる。
この部屋は、受け皿そのものではない。
本来は返すための中継点。
六方向から中央へ集めるよう、仕組みが逆向きに変えられている。
そして、集めたものはさらに別の場所へ流れている。
「まだ、受け皿を見つけていません」
「なら、種にも触れられない」
「はい」
「今日は出る」
「……はい」
「素直ね」
ヴィオラが言う。
「私も学びます」
「昨日も言ってた」
「昨日より学びました」
アルヴィスが少しだけ息を吐く。
「なら、戻るぞ」
ただし。
何も持ち帰らないわけではない。
木枠の縫い目。
金具の向き。
中央の器。
床下へ続く排出口。
すべて記録し、魔写紙へ写す。
さらにユリウスが台座の裏側を確認したところ、古い金属札が一枚見つかった。
錆びてはいるが、文字は読める。
『王室返礼室 管理責任者』
その下。
削られた名前。
完全には読めない。
けれど、最後の姓だけは残っている。
『――・オルドー』
セラフィーネの家名。
ガストン・オルドー。
十年前の臨時衣装管理官。
母を拘束し、教会へ引き渡すよう命じた男。
「ガストン?」
ヴィオラが低く言う。
「決めつけません」
エステルはすぐに答えた。
「姓しか残っておりません。それに、オルドー家は何代も王室衣装室へ勤めています」
「そうね」
サビーネも頷く。
「でも、調べる価値はある」
「はい」
札は外さない。
その場で写し、位置を記録する。
母の事件で。
証拠は何度も、別の意味へ使われた。
だから。
今度は、急いで答えにしない。
帰り道。
七本のしつけ紐は、元には戻さなかった。
ただし、後から足された四本はそのまま残した。返礼室の石扉も完全には閉めず、公爵家と王宮の封印札を二重に付ける。
「開けたままでいいのですか」
エステルが尋ねる。
「次に誰かが触れば分かるようにする」
ユリウスが封蝋を確認する。
「完全に閉じれば、また別の入口から入られる可能性があります。こちらが開けたことを隠す必要もありません」
「犯人へ、見つけたと知らせることになります」
「もう知られているだろう」
アルヴィスが言った。
「塔で罠を仕掛けられた時点でな」
「では、今度は相手が動く?」
「そのほうが痕跡を残す」
「公爵様、少し怖いことを楽しんでおりません?」
「楽しんでいない」
「本当に?」
「その聞き方をするな」
地上へ戻ると、朝靄はすっかり消えていた。
王都の音が戻ってくる。
荷車。
市場の声。
遠くで鳴る教会の鐘。
地下で見た無数の光が嘘だったように、地上はいつもの朝の続きをしている。
旧衣装室側へ連絡を送ると、ほどなくしてベルナールとセラフィーネが合流した。
金属札の写しを見たセラフィーネは、長いあいだ黙っていた。
「オルドー家が返礼室を管理していたことは?」
ベルナールが尋ねる。
「知らなかった」
「本当に?」
「本当に」
セラフィーネは、削られた名前を指でなぞらず見つめた。
「父からも叔父からも、返礼室という言葉を聞いたことがない。家の記録にもない」
「消された?」
「可能性はある。でも」
彼女はエステルを見る。
「私の家名があるからと、疑わないの?」
「疑っていないとは申しません」
エステルは正直に答えた。
「でも、決めません」
「なぜ」
「母が、そうされたからです」
セラフィーネは目を伏せ、しばらくして小さく頷いた。
「ありがとう、と言うべきなのかしら」
「まだ、何も証明しておりません」
「それでもよ」
エステルは返事を迷ったが、結局、軽く頭を下げるだけにした。
店へ戻ったのは、昼を少し過ぎたころだった。
扉へ近づくと、小窓の布が上がる。
「合言葉」
「まだ決めておりません」
「じゃあ、本物」
「昨日より確認が早いですわね」
「公爵が灰色だから」
「服で判断するなと言っただろう」
鍵が外れ、ニナが扉を開ける。
その足元からクッシュが出てきて、今日はアルヴィスではなくエステルの靴へ鼻先を寄せた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「見つかった?」
「はい」
ニナの目が大きくなる。
「返礼室?」
「見つかりました」
「公爵の呪い、取れた?」
「それは、まだです」
「何で?」
「返礼室は、本当の受け皿ではありませんでした」
ニナは一瞬、難しい顔をした。
「内ポケットの中に、またポケットがあった?」
エステルは思わず笑った。
「近いかもしれません」
「じゃあ、まだ裏があるんだ」
「ええ」
服の裏地を開けたら。
そこが終わりではなかった。
内ポケットの奥に。
さらに別の道が隠れていた。
「リリは?」
「花売り。帰ってきたら、見つかったって言っていい?」
「返礼室までは。詳しい場所は、まだ内緒に」
「分かった」
ニナは素直に頷き、それからアルヴィスを見る。
「公爵、怪我してない?」
「していない」
「本当に?」
「お前まで、その聞き方をするな」
「エステルがいつも聞くから」
「確認します」
エステルが言うと、アルヴィスは顔をしかめた。
「何を」
「灰色の上着です」
「問題ない」
「左胸が光りました」
「糸が反応しただけだ」
「だから、裏を見ます」
「またか」
「何もないことを確認するのです」
昨日と同じ言葉。
アルヴィスも気づいたのか、しばらく黙ったあと灰色の上着を脱いだ。
「素直」
ニナが言う。
「言うな」
「でも、素直」
「給金を減らすぞ」
「エステルの店だから無理」
「そのやり取り、昨日もなさいましたね」
上着を受け取る。
左胸。
誘導路。
一晩の祝福糸。
三日の祝福糸。
どちらも切れてはいない。
ただ。
一晩の糸は、さらに少し色が薄くなっていた。
「また、守ってくれました」
エステルが呟く。
「役目を終えたあとに?」
ニナが覗く。
「ええ」
「何回役目あるの」
「決められているわけではございません」
「じゃあ、終わった糸も、まだ終わってない?」
エステルは答えようとして、少し考えた。
祝福としての役目は終わった。
願いはほどけた。
普通の糸へ戻った。
それでも。
そこで起きたことの痕跡は残り。
別の形で、もう一度人を守った。
「終わったことと、なくなったことは、違うのでしょうね」
以前なら。
もっと短く言ったかもしれない。
けれど今は、糸を指で整えながら、その意味をゆっくり口にできた。
母の事件も。
十年前に終わったことにはされている。
でも。
なくなってはいない。
縫い目も。
人の記憶も。
返されなかったものも。
全部、どこかに残っている。
「公爵様」
「何だ」
「次に、受け皿を探します」
「ああ」
「でも、今日は行きません」
「言われる前に言ったな」
「学びましたので」
「本当に?」
「その聞き方をなさいます?」
アルヴィスは、少しだけ笑った。
今度は。
暗い路地でも。
見間違いではなかった。
その日の夕方、リリが花籠を抱えて戻るころには、灰色の上着の点検も終わり、裁断台には返礼室の新しい図が広げられていた。
外から中央へ向く六本の流れ。
その中央から、さらに下へ伸びる一本。
エステルは、その先だけを空白のままにした。
分からない場所を、想像で縫い足さないために。
母の続きではなく。
自分の縫い方をするために。
ただ、その空白の横へ。
小さく一つだけ書き込む。
『返礼室は、終点ではない。』
そして、その下に。
『返す道は、まだ続いている。』




