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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第2部 王女の婚礼衣装と、仕立て師たち

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第26話 弟子ではない子の給金

 返礼室を見つけた翌朝、エステルはいつもより少し遅く店の札を表へ返した。昨夜まで裁断台いっぱいに広げていた地下通路の図は、すべて写しを取ってから鍵のかかる引き出しへ収めてある。外から中央へ集められる六本の流れと、そこからさらに下へ続く一本。その先が何なのかは、まだ空白のままだった。


 分からないところを想像だけで埋めてはいけない。仕立てでも、型紙に存在しない線を都合よく引けば、最後に歪むのは服全体だ。ならば十年前から絡まっているこの件も、一つずつ確かめていけばよいのだと自分に言い聞かせたところで、王宮でも教会でもない、ひどく元気な声が路地の向こうから飛んできた。


「お姉さーん! クッシュ逃げた!」


「朝一番に聞きたくないご報告ですわね!」


 エステルが扉を開けると、花籠を片腕へ引っかけたリリが走ってきた。その後ろからニナも飛び出し、二人の間を小さな茶色い塊が転がるように駆けている。正式に店で飼うと決めた覚えはないのだが、昨夜から端切れを敷いた木箱で眠り、朝になると当然のように店内を歩き回っているハリネズミのクッシュだった。


「扉、閉めて!」


 ニナに言われ、エステルが入口を塞ぐと、クッシュは行き場を失って反物棚の下へ潜り込んだ。そこから小さな鼻だけを出し、こちらの様子をうかがっている。


「糸巻きは上へ!」


「もう上げた!」


「針箱は?」


「閉めた!」


「母の針は?」


「金属箱! 黒い縫い種は公爵家!」


「完璧です」


「ハリネズミ一匹で確認する量じゃないよ」


 リリが笑いながら花籠を置いた。昨日、返礼室から持ち帰った黒い糸や金属片は、すべてユリウスが公爵家の保管庫へ移している。店に残してある危険になり得るものは母の針くらいだが、それも金属箱へ入れ、床へ固定した鎖と封で二重に守っていた。


 ニナが古い毛織りの端切れを床へ置くと、クッシュはしばらく警戒してから棚の下を出て、その布の上で丸くなった。ほかにも柔らかな毛織りはいくらでもあるのに、なぜかその端切れだけを好むらしい。


「どうして、その布だと来るのでしょう」


「エステルが一番触ってるからじゃない?」


「動物に、そのようなことが分かります?」


「公爵よりは分かりそう」


「なぜ、そこで公爵様と比べるのです」


 ニナが肩を揺らして笑い、リリまで一緒になって笑う。昨日は王宮の地下で、十年前に“返す”ため作られた部屋が“奪う”ための仕組みへ変えられているのを見つけたばかりで、考え始めれば不安はいくらでも浮かんでくる。それでも、こうして店の朝がいつもどおり始まることを、エステルは思っていた以上にありがたく感じていた。


「さて。クッシュが落ち着いたところで、仕事を始めましょう」


「わたし、昨日の続き?」


「はい。ベッシーさんの前掛けです。今日は腰紐の付け根を補強していただきます」


「もう真っ直ぐ縫えるよ」


「知っております。ですから、真っ直ぐな場所だけではなく、力の掛かるところをどう補強するかまで見ていただきます」


 裁断台へ前掛けを広げる。パン屋で毎日使われている厚手の布は、洗濯を重ねて柔らかくなり、腰紐の根元だけが白く擦れていた。紐そのものはまだ十分使えるので、ベッシーからも「長さは変えないでくれ」と言われている。


「新しい紐に替えないの?」


「替えれば見た目はきれいになります。でも、ベッシーさんは今の長さが一番結びやすいそうです」


「じゃあ、残す」


 ニナは迷わず答えたあと、前掛けを裏返してしばらく眺めた。やがて紐の付け根から指二本分ほど内側を示し、「ここも縫ったほうがいい」と言う。


「まだ破れておりませんよ」


「でも薄くなってる。今は平気でも、そのうちこっちから切れそう」


 触れて確かめてみると、確かに表からでは分かりにくい程度に織り目が緩んでいる。エステルが感心して顔を上げると、ニナは少し得意そうに顎を上げた。


「よく気づきましたね」


「裏を見ろって言ったの、エステルでしょ。だったら、破れたところだけじゃなくて、その横も見る」


「そのとおりです。では、そこまで補強してください」


 ニナは針へ糸を通した。まだ速くはないが、以前のように勢いで布へ針を通すことはなくなり、表と裏を交互に確かめながら一針ずつ進めていく。途中で一目だけわずかに曲がると、自分から手を止めた。


「ほどいていい?」


「もちろんです」


「一針だけ。後で見たら、たぶん気になる」


「自分で気づいたなら、直しましょう」


 糸を抜き、同じ場所へもう一度針を通す。今度は周囲の針目と自然につながった。


「前なら、そのまま進んでいましたね」


「裏を見たとき、気になるようになったから」


「よい変化です」


「弟子っぽい?」


 ニナが針を動かしたまま尋ねたので、エステルは少しだけ目を丸くした。


「ご自分から言うのですね」


「別に。聞いただけ」


「まだ、弟子ではありません」


「知ってる」


 返事は早かった。以前なら少し不満そうな顔をしたかもしれないが、今日はそれ以上何も言わずに縫い続ける。その横顔を見ながら、エステルは昨夜から考えていたことを口にした。


「でも、仕事はしていただいております」


「うん」


「ですので、決めなくてはいけません」


「何を?」


「給金を」


 針がぴたりと止まった。ニナがゆっくり顔を上げ、聞き間違いではないか確かめるようにエステルを見る。


「本当に?」


「以前から、何度も請求されておりますから」


「ハリネズミ係の分も?」


「それは、まだ正式な仕事にしておりません」


「じゃあ、前掛けの分?」


「それだけではありません。掃除や糸の整理、店番、お客様から預かった品の確認など、私が頼んで店のためにしていただいたことには、きちんと対価を払うべきです」


「でも、ご飯もらってる」


「それと給金は別です」


「寝るところもあるし、針ももらった」


「寝る場所は生活のことですし、針は仕事道具です。どちらも働いた分のお金を払わない理由にはなりません」


 ニナが黙り込む。盗んでいた頃は、手に入れたものに理由を付ける必要などなかったのだろう。取れるか、取れないか。それだけだったはずだが、今は何かを受け取るたび、代わりに何を返さなければならないのか考える癖が残っているように見える。


「働いた分のお金を受け取るのは、悪いことではありません」


「分かってる」


「本当に?」


「その聞き方、公爵のになってる」


「私のですわ」


「もう二人のだよ」


 花の茎を揃えていたリリが楽しそうに口を挟んだ。するとニナがふと何かを思いつき、今度はリリを指差す。


「リリにも払う?」


「何をです?」


「外を見る役」


「それは、公爵家から必要な情報をいただいた際の謝礼が出るとユリウス様がおっしゃっておりました」


「えっ、聞いてない!」


 今度はリリが固まった。


「花を売るより高い?」


「そこまでは存じません」


「高かったら、毎日怪しい人探す」


「それはいけません」


「何で?」


「怪しい人を探すこと自体が仕事になれば、自分から危険へ近づくようになります。偶然見つけたときに、無理せず教えてくだされば十分です」


「仕事って難しいね」


「ええ。お金をもらう理由まで含めて、きちんと決めておいたほうがよいのです」


 エステルは小さな帳面を取り出した。店の売上帳とは別に、昨日の夜、新しく用意したものだ。まだ何も書いていない表紙を見せると、ニナが首を傾げる。


「これ、何?」


「ニナのお仕事帳です。いつ、何をして、いくら支払ったかを書きます」


「そんなの必要?」


「必要です。お金は、曖昧にしてはいけません」


 かつて婚約者だった男が嫌ったのは、貴族の娘であるエステルが裁縫で金を受け取ることだった。それでも彼女にとって仕立ては仕事であり、この店で誰かに働いてもらうなら、“かわいそうだから置いている子”という扱いで善意に甘えることだけはしたくなかった。


「最初は一週間でまとめて支払います。技術を教えている時間と、店の仕事をお願いしている時間は分けて考えます」


「今週はいくら?」


「まだ三日しか、きちんと数えておりません」


「その前も働いた」


「……そうですね」


「忘れてた?」


「忘れてはおりません。ただ、計算から少し抜けておりました」


「エステル、だめ」


 リリにまで言われ、エステルは素直に謝った。


 朝の仕事が一段落したあと、過去数日分も含めてニナが店で行ったことを一つずつ帳面へ書き出した。正式な職人見習いの賃金をそのまま当てはめるわけにはいかないものの、掃除や店番、預かり品の確認など、明らかに店のため行ってもらった仕事には金額を付ける。


「これ、足すの?」


「はい。やってみます?」


「できる」


 紙の端に並んだ数字を、ニナが口の中で数える。銅貨三枚、二枚、一枚、三枚。少し時間をかけてから「九枚」と答えた。


「合っています」


「本当に?」


「本当に」


「じゃあ、九枚?」


「はい」


 エステルは小さな布袋へ銅貨九枚を入れ、ニナへ差し出した。ところが少女は、すぐには手を伸ばさなかった。


「受け取ってください」


「全部?」


「全部です」


「ルカの分、引かない?」


「なぜ、ルカの分を引くのです?」


「ベッシーおばさんのところで、ご飯食べてる。服も借りたし」


「それは私とベッシーさんで話しております。これは、ニナが働いた分ですから、誰かに返さなくてはいけないお金ではありません」


「返さなくていい?」


「はい。何に使うかも、ご自分で決めてください。ただし、危険なものは買わないこと」


「鍵開けの道具」


「いけません」


「冗談」


「顔が本気でした」


 ニナは少し笑い、ようやく布袋を受け取った。手のひらで重さを確かめるように一度だけ上下させ、それから小さな声で言う。


「盗んだお金より、重い」


「同じ銅貨です」


「分かってる。でも、使うの、ちょっともったいない」


「でしたら、取っておいてもよいのですよ」


「一枚だけ使う」


「何に?」


「ルカに」


「それでは、また返すことを」


「違う」


 ニナは、はっきり首を振った。


「わたしが買いたいから。返さなきゃって思ってるんじゃなくて、買ってやりたい」


 エステルはそれ以上何も言わず、「よいと思います」とだけ答えた。受け取ったから義務で返すのではなく、自分が返したいと思ったから返す。それは昨日までアルヴィスへ話していたことと、よく似ている。


「何を買うかは内緒」


「聞いておりませんわ」


「顔が聞いてる」


「最近、皆様そればかりです」


 昼前になると、ベッシーが前掛けを受け取りに来た。ニナは自分が補強した腰紐を見せ、「ここはわたしがやった」と自分から説明する。ベッシーは前掛けを裏返して針目を確かめ、腰へ巻いたあと体を左右へ捻った。


「前より上手くなったね。これなら粉袋を持っても、しばらく切れないよ」


「本当に?」


「嫌なら、ここでパン袋三つ持って試すかい?」


「やる」


「やらなくてよろしいです」


 エステルが止めると、ベッシーは豪快に笑った。


「代金は?」


「こちらです」


「ニナの分は?」


「給金として、店から払いました」


「九枚」


 ニナが誇らしそうに口を挟む。


「全部言わなくてもよろしいのでは」


「初給金だから」


「そりゃ、めでたいね。なら帰りに市場へ寄るといい。ただし、全部菓子にするんじゃないよ」


「一枚だけ使う」


「堅実だね」


 ベッシーが店を出たあと、リリも花を売るため東区へ向かった。店に残ったのはエステルとニナ、それから端切れの箱で眠るクッシュだけとなり、急に静かになったところで扉が三度叩かれる。


「公爵」


 ニナが即座に言った。


「まだ分かりません」


「三回だもん」


「合図を知っている方は増えております」


「じゃあ見る」


 小窓から確認すると、予想どおりアルヴィスだった。その後ろにはユリウスがおり、さらに見慣れた黒と白の服を着たヴィオラまで立っている。


「三人?」


「店が狭くなりますね」


「それ、公爵に言う?」


「言いません」


 鍵を開けると、アルヴィスは店へ入るなり足元の箱を見た。


「まだいるのか」


「まだ、とは何です?」


「飼うと決めていないと言っていた」


「決めておりません」


「三日目だ」


「数えないでくださいませ」


「お前も言うのか」


 ニナが笑う。アルヴィスは今日は灰色の上着ではなく、いつもの青灰色の外套を着ていた。返礼室で黒糸へ反応した一晩と三日の祝福糸は、公爵家で灰色の上着とともに点検しているらしい。


「お体は?」


「問題ない」


「本当に?」


「朝、医師に確認された。結果も問題ない」


「それなら結構です」


「今日は早いな」


「医師を信用しておりますので」


「俺は?」


「公爵様も、もちろん」


「間があった」


「ございません」


「顔が言っている」


「公爵様まで、それを使わないでくださいませ」


 ヴィオラが二人の横を通り過ぎながら裁断台へ紙束を置き、「店へ入って三十息でそのやり取りが始まるのね」と呆れたように言った。


「最近は早い」


 ニナが答える。


「記録しなくてよろしいです」


「今日は記録を持ってきた」


 ユリウスが広げたのは、昨日の返礼室を王宮技師が測量した結果だった。六つの木枠、中央の硝子器、そこから床下へ伸びる管が、細かな数字とともに描かれている。


「最初に言っておくが、今すぐ地下へ戻る話ではない」


「分かっております」


「閣下が、先にそう言えと」


「公爵様」


「お前は図を見れば行きたくなる」


「否定はいたしません」


「だからだ」


 ユリウスは苦笑しながら説明を続けた。中央の硝子器から出た管は、ほぼ真下へ落ちたあと南へ曲がっており、王宮西翼の現行図では途中から存在しないことになっている。しかし、古い会計簿を調べたところ、三十六年前まで西翼地下の保守費が毎年計上されていた。


「項目名は『返納庫維持費』」


「返礼室ではなく、返納庫?」


 ヴィオラが紙へ目を落とす。


「何を返納する場所なのでしょう」


「そこまでは書かれていない。ただ、管轄は王室衣装室と王都仕立てギルドの共同管理だった」


 今度は店内が静かになった。


「ギルド?」


 ニナが最初に声を出す。


「どうして仕立て屋のギルドが、王宮の地下を管理するの」


「昔は、王室衣装室とギルドの境が今ほど明確ではなかったの」


 ヴィオラが答える。


「王室で働く仕立て師の多くがギルドの親方を兼ねていた時代がある。だから、返納庫が衣装に関係する施設なら、共同管理でも不自然ではない」


「オルセン様なら、ご存じでしょうか」


「制度は知っているはず。ベルナールも昨夜から古い台帳を探してる」


「では、今日はギルドへ?」


「そのつもり。あなたも来て」


「私もですか」


「呼び出しがある」


「返納庫の件で?」


「それもあるけれど、別件」


 ヴィオラは紙束の下から一通の封書を取り出した。赤い封蝋には、王都仕立てギルドの印が押されている。


「正式通知」


「嫌な響きですわね」


「私も好きではない」


「ギルドの方がおっしゃるのですか」


「だからこそ」


 エステルが封を切る。最初の数行を読んだところで目が止まり、ニナがすぐに裁断台の横から覗き込もうとした。


「また調査?」


「違います」


「店を閉めろって?」


「それも違います。王都仕立てギルド仮登録者としての技術審査を、正式審査へ移行する、とあります」


「ようやくね」


 ヴィオラが言う。


「条件付きの営業許可ではなく、本登録を決める審査。王室衣装室の調査へ立ち会う者が仮登録のままでは、ギルド内で問題になるから」


「急なのは、そのためですか」


「理由は二つある」


「もう一つは?」


 ヴィオラは封書の二枚目を示した。今度は王家の印があり、エステルが読み進めるほど、表情が少しずつ変わっていく。


「王宮から?」


 ニナが尋ねる。


「はい」


「また地下?」


「いいえ」


 王妃ミレーヌの名の下に記されていたのは、『第一王女リュシエンヌ殿下婚礼衣装選定会』という文字だった。


「婚礼?」


 ニナが拾い読みする。


「王女様、結婚するの?」


「年内の婚礼予定は、すでに公表されている」


 ヴィオラが答えた。


「衣装室では半年以上前から準備していたけれど、今回は王室衣装室だけで決めず、ギルドから複数の仕立て師を選び、案と試作品を出させることになった」


「競うのですか」


「簡単に言えば」


「なぜ、私が」


「王妃陛下の推薦だ」


 アルヴィスが言った。その声音から、すでに知っていたことが分かる。


「公爵様、ご存じだったのですか」


「今朝聞いた」


「なぜ先に」


「先に言えば、返礼室の報告を聞かなくなる」


「そのようなことは……少しは、気になったかもしれませんけれど」


「だからだ」


 エステルは文面へ視線を戻した。婚礼衣装という言葉を見るだけで、十年前の母の事件が胸の奥へ重なる。母が罪を着せられたものと同じ種類の仕事へ、今度はその娘である自分が呼ばれているのだ。


「嫌なら断れる」


 アルヴィスが、思っていたより静かな声で言った。


「王妃様の推薦でも?」


「あくまで推薦だ。命令ではない」


「でも、正式審査と一緒に来ています」


「そこが問題なの」


 ヴィオラが指先で通知を叩いた。


「ギルド内には、あなたを王室衣装へ関わらせたくない人もいる。リディアの件を持ち出す人もいれば、祝福を縫える仕立て師を特別扱いするなと言う人もいる。仮登録のまま王女殿下の選定会へ出すのは規則違反だという声も出たから、先に本登録を決めることになった」


「審査はいつです?」


「十二日後。選定会は十五日後」


「近いですね」


「近い」


「内容は?」


「規定寸法の人台へ親方仕事を一着。男女どちらでも、礼装でも仕事着でもいい。ただし、使用者を想定し、用途を書面で説明する。祝福は禁止」


 最後の一言を聞いた瞬間、エステルは自分でも分かるほど肩の力を抜いた。


「祝福は禁止なのですか」


「普通の仕立て師として審査するから」


「それなら、受けます」


「早いな」


 アルヴィスが言う。


「まだ婚礼衣装選定会へ出るとは言っていない」


「そちらは別です。ギルドへ正式登録されることと、王女殿下の婚礼衣装を縫うことは同じではございません」


 母の事件があるから怖いというだけではない。婚礼衣装は、誰かが人生の大切な日に身につけるものだ。過去の真相を確かめるための道具にしてよいはずがない。


「選定会へ出るかは、王女殿下について知ってから決めます」


「何を知るの?」


 ニナが尋ねる。


「どのような方で、どのような婚礼を望んでいらっしゃるのか、です」


「王女様なら、すごい服がいいんじゃない? 宝石いっぱいとか」


「それを決めるのは王女様です。祝福が欲しいかどうかも、どんな形が好きかも、ご本人が選ぶことです」


 エステルの答えを聞き、アルヴィスが少しだけ左胸へ手をやった。今日は灰色の上着ではないので青灰色のポケットもないが、そこに何かを確かめる癖だけが残っているらしい。


「選ばせる一針」


 彼が言った。


「覚えていらしたのですか」


「俺の服だ」


「そうでした」


「王女にも選ばせる?」


「もちろんです」


「なら、出てもいいのでは」


「公爵様が決めないでくださいませ」


「決めていない」


「顔が」


「それは、お前たちの言い方だ」


 ニナが吹き出し、張りつめていた空気が少しだけ戻る。


「まずは十二日後の審査です」


 エステルが言うと、ヴィオラがすぐに尋ねた。


「何を作る?」


「自由なのですよね」


「規定の範囲なら」


「なら、想定する人は自分で決めてよいのですね」


 誰のためでもない服は、エステルには縫いにくい。祝福を宿さない普通の服であっても、着る人の姿や困りごとが見えなければ、どこへ余裕を入れ、どこを強くすべきか決められないからだ。


 そう考えているうちに、視線が自然とニナへ向いた。


「何?」


「ニナ」


「やだ」


「まだ何も申し上げておりません」


「顔が、服作るって言ってる」


「なぜ分かるのです」


「みんな読むから」


「私まで分かりやすくなっております?」


「前から」


 アルヴィスまで平然と答えたので、エステルは思わず彼を見る。


「公爵様まで!」


「で、何を作る」


「まだ決めません」


「今は決めない?」


「……それを言われると、少し腹が立ちますわね」


 アルヴィスの口元がわずかに上がり、ヴィオラはそんな二人を無視するように通知書を畳んだ。


「午後、ギルドへ来て。審査規定と材料制限を説明する。返納庫の古い台帳も一緒に見るから」


「両方ですか」


「同じ建物にあるもの。今さら一つずつに分けられる状況でもないでしょう」


「そうですわね」


 そこで足元から、かさりと小さな音がした。クッシュがニナの給金帳の上へ前足を乗せている。


「あっ、そこ、わたしの!」


「クッシュは読めませんよ」


「足跡つく」


「インクは乾いております」


「公爵、見て」


「なぜ俺が」


「初給金」


 ニナが少し誇らしそうに帳面を開く。アルヴィスは予想外だったのか、数秒黙って数字を見た。


「九枚」


「うん」


「少なくないか」


「公爵様」


 エステルがすぐに口を挟む。


「仕事内容と時間から計算しております」


「店番もしている」


「それも含めて」


「危険な目にも遭った」


「それは仕事に含めません。危険へ近づくほど給金が増えると思わせたくありませんので」


 アルヴィスが口を閉じると、ユリウスが代わりに説明した。


「公爵家の事情へ巻き込んだ分は、労働賃金ではなく補償として別に積み立てる。ルカの分も含めてな」


「えっ。何それ」


「今日説明する予定だった。成人までは一部を除いて保管するが、生活や教育に必要な分は使える」


「じゃあ、今の九枚は?」


「エステルからの九枚は、お前が働いて得たものだ」


 アルヴィスが答えた。


 ニナは布袋を一度握り、少し考えてから頷く。


「じゃあ、これでいい」


「本当に?」


 アルヴィスが尋ねると、ニナがすぐ眉を上げた。


「その聞き方するなって、いつも言ってるじゃん」


「……そうだったな」


「これ、わたしが縫った分だから。もっと上手くなったら、増える?」


 今度はエステルを見る。


「お客様から任せられる仕事が増えれば、もちろん増やします」


「じゃあ、曲線もっと練習する」


「その前に、前掛けの残りは?」


「終わった」


「本当に?」


「その聞き方!」


 店の中に笑いが起こった。


 返礼室の下にある本当の受け皿、古い会計簿に残った返納庫、十二日後の正式審査、そして第一王女の婚礼衣装選定会。朝にはなかった大きな話が、半日のうちにいくつも増えてしまった。


 それでもエステルは、裁断台の端に置かれた小さな給金帳へ目を向けた。今日この店で一番大切だったことは、もしかすると王宮から届いた婚礼衣装の通知ではないのかもしれない。一人の少女が、自分の針で縫った分の銅貨を、盗まず、施されず、自分のものとして受け取った。そのことのほうが、今はずっと大切に思えた。


「エステル」


「何でしょう」


「これ」


 ニナが布袋から銅貨を一枚だけ取り出した。


「もっと小さいお金に替えて」


「なぜです?」


「半分くらいで、ルカに何か買いたい」


「銅貨を半分にはできませんが、もっと小さな貨幣へなら替えられます。何を買うのです?」


「内緒」


「私が両替するのに?」


「一緒に市場へ行く。今日が無理なら明日」


「午後はギルドですから、明日にしましょう」


「やった」


「ただし、何を買うかはご自分で決めてください」


「うん。決めるのは、わたし」


「はい」


 選ぶことは、自分で決めることだ。受け取るものも、返したいものも、着る服も、これから縫う一着も、それはきっと同じなのだろう。


 エステルは王宮から届いた通知をもう一度見た。母が十年前、婚礼衣装をめぐって罪を着せられた。その娘が今度は王女の婚礼衣装を選ぶ場へ呼ばれていることを、ただの偶然だとは思えない。


 けれど、過去をやり直すために縫うのではない。もし参加するなら、今を生きる王女のために、その人自身が選べる一着を作る。


 そう決めて通知を畳み、まず十二日後の正式審査の日付を新しい紙へ書き写した。その下には返納庫の調査予定、さらにニナの次の給金日を書き加える。


 王宮の地下に隠された部屋も、王女の婚礼衣装も、弟子ではない少女の給金も、エステルにとってはすべて同じように、この小さな仕立て屋から始まる仕事だった。

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