第27話 王女様は、飾られたくない
午後の王都仕立てギルドは、午前中よりも人が多かった。
正面玄関を入った途端、反物を抱えた若い職人が階段を駆け上がり、奥の受付では二人の親方が納期について言い争っている。壁際には各店から届いた見本帳が積まれ、その間を記録係が紙束を抱えて行き来していた。
路地裏の小さな店へ戻れば、聞こえるのは針が布を通る音と、たまにクッシュが箱を引っかく音くらいだ。だからこそ、エステルはこの場所へ来るたび、同じ仕立て屋でもずいぶん違うものだと思う。
「緊張してる?」
隣を歩くヴィオラが尋ねた。
「少しだけ」
「正式審査?」
「そちらもですが、婚礼衣装のほうが」
「まだ出ると決めてないのに?」
「だからですわ」
出ると決めてしまえば、あとはやることを考えればよい。けれど今は、受けるべきかどうかを判断するための材料が足りない。
第一王女リュシエンヌ。
年内に婚礼を控えていることは知っているが、エステルが知っているのはその程度だった。王宮の式典で見かけたこともなければ、社交界で言葉を交わしたこともない。新聞には「聡明で慈愛深い王女」と書かれているけれど、それだけで一着の服を考えることなどできなかった。
「顔に出てる」
「何がでしょう」
「情報が足りない、って」
「皆様、最近そればかりですわね」
「分かりやすくなったんじゃない?」
「以前から、と公爵様には言われました」
「それはたぶん正しい」
「ヴィオラ様まで」
文句を言いながらも、少し笑う。
案内されたのは、十二話で聴聞を受けたのと同じ二階の会議室だった。ただし今日は傍聴席がなく、長い卓の中央にマダム・ベルナール、その隣にマスター・オルセン、さらに三人のギルド役員が座っている。
エステルのほかにも、正式審査を受ける仕立て師が四人いた。いずれも年齢はまちまちだが、少なくとも路地裏で店を開いたばかりの自分より経験が長いことだけは分かる。
「エステル・ラヴィニア」
ベルナールが名を呼ぶ。
「こちらへ」
「はい」
指定された席へ座る。
アルヴィスとユリウスは今日は同席していない。これはあくまでギルドの正式審査に関する説明であり、アルヴィス自身も「俺がいると、また脅しだと言われる」と珍しく自分から店へ残ることを選んだ。
もっとも、そのあとニナから「公爵、店番できるの?」と聞かれ、「できる」と答えたところ、今度はエステルが「本当に?」と尋ねてしまい、ひと悶着あったのだが。
「正式審査については、通知のとおり十二日後に行う」
ベルナールが説明を始めた。
「規定人台を使用し、想定した着用者の用途に合わせた一着を提出すること。審査対象は裁断、縫製、補強、着脱のしやすさ、用途との整合性、仕立て師自身による説明。祝福その他の魔術的効果は一切審査対象としない」
「材料の制限は?」
向かいに座る中年の男が尋ねる。
「高価な素材で点を取る審査ではない。王都内で通常流通する布を使用すること。宝石、希少魔獣素材、聖別布は禁止」
「絹は?」
「可。ただし、用途に必要だと説明できること」
質問がいくつか続く。
エステルは配られた規定書へ目を通しながら、少し安心していた。祝福を封じられることに不満はない。むしろ、普通の仕立てだけを見てもらえるなら、そのほうがよかった。
母の娘だからでも、祝福を縫えるからでも、呪われた公爵の衣装を作ったからでもない。自分が仕立て師として店を続けられるかを、自分の縫い目で決めてもらう。
「何を作るか決まった?」
隣からヴィオラが小声で尋ねた。
「まだです」
「ニナの服?」
「なぜ分かるのです?」
「午前中、あの子を見てたから」
「見ていただけですわ」
「仕立て師が人を見るときの顔だった」
「どのような顔でしょう」
「寸法を取ってる顔」
否定しきれない。
ニナは店で働くようになってから、以前より体を動かすことが増えた。床へ座って縫い、反物棚から布を運び、客の品を受け取る。袖口は引っかからないほうがよいし、膝を曲げても裾が邪魔にならない服が必要だ。
正式な弟子ではない。だからこそ、「弟子服」を作るのではなく、今のニナが店で働くための服ならどうだろう。
「顔」
ヴィオラが言う。
「何も申し上げておりません」
「もう決まりかけてる」
「まだです」
そう答えたところで、ベルナールが卓を軽く叩いた。
「ここからは第一王女殿下の婚礼衣装選定会について説明する」
空気が変わった。
正式審査の説明を受けていた四人のうち、二人が退出する。残ったのはエステルとヴィオラ、それから先ほど絹について尋ねた中年の男、もう一人は深緑の服を着た五十代ほどの女性だった。
「候補は四名?」
エステルが思わず尋ねる。
「現時点では」
ベルナールが答える。
「あなたは正式審査へ合格することが参加条件。落ちれば、提出資格も失う」
「承知しております」
「ヴィオラ・セルジュはギルド推薦。マスター・ヘンリック・モーゼルは王室衣装室推薦。マダム・クラリッサ・ウェインは王妃陛下の侍女団推薦。そして、エステル・ラヴィニアは王妃陛下本人の推薦」
名前を聞き、中年の男——ヘンリックがエステルを見る。
敵意というほどではない。ただ、明らかに値踏みされている。
「仮登録者を候補に加えるとは、ずいぶん思い切ったものですな」
「ですから、正式審査がございます」
エステルはそのまま答えた。
「合格できなければ、私は参加いたしません」
「なるほど」
ヘンリックはそれ以上言わなかった。
代わりに、深緑の服のクラリッサが少し笑う。
「若いのに、落ち着いていらっしゃるのね」
「緊張しております」
「あら。見えないわ」
「顔には出るそうです」
「誰に言われたの?」
「最近、皆様に」
クラリッサが小さく笑った。
ベルナールは四人の前へ、それぞれ一冊ずつ薄い冊子を置く。
「選定会まで十五日。ただし、提出するのは完成品ではない。第一段階では意匠図、使用布の見本、構造説明、それから上半身の試作一部。実際の採寸は最終候補二名へ絞ったあとに行う」
「殿下へ直接お会いする機会は?」
エステルはすぐに尋ねた。
ベルナールの眉が、ほんの少し動く。
「ある」
「選定会の前に?」
「明日」
「明日?」
予想より早い。
「殿下ご本人の希望よ」
クラリッサが言った。
「以前の進め方が気に入らなかったのでしょう」
「以前?」
エステルが尋ねると、ヘンリックが少し不満そうに腕を組んだ。
「半年かけて、王室衣装室が三案を用意した。どれも正式な婚礼礼装として申し分ないものだった」
「ですが、殿下が選ばなかった?」
「すべて却下なさった」
ヴィオラが冊子をめくりながら補足する。
「だから今回、外部の仕立て師まで含めた選定会になったの」
「理由は?」
「それを明日、自分で聞きなさい」
ベルナールは、それ以上答えなかった。
エステルは冊子へ目を落とす。第一王女リュシエンヌ・エルグラン、二十四歳。身長、公的な衣装寸法、婚礼予定日、式場。相手は北西に領地を持つレイフォード公爵家の嫡男、アーサー・レイフォード。
国外へ嫁ぐのではない。王都で婚礼を挙げたあと、夫の領地へ移る予定で、政治的な意味は大きいだろう。
けれど、そこに書かれているのは、王女の役割だけだ。
「好きな色は?」
エステルが尋ねた。
ベルナールが顔を上げる。
「冊子にはありません」
「存じています。ですので、伺いました」
「明日、聞きなさい」
「苦手な布は?」
「聞きなさい」
「長時間立つのは?」
「エステル」
「はい」
「明日」
「承知しました」
ヴィオラが、横で笑いを堪えている。
「何です?」
「質問が止まらない」
「服を考えるためには必要です」
「それを殿下へ直接やったら?」
「もちろん、伺います」
「容赦ない」
「仕立て師ですから」
「便利ね、その言葉」
説明会が終わるころには、外は夕方に近づいていた。
ギルドを出ると、ヴィオラは王室衣装室へ戻ると言って別れ、エステルは一人で店へ向かった。
途中、市場の前を通る。朝、ニナと約束した両替を思い出し、明日にしようと思ったところで、菓子屋の前に見覚えのある背中を見つけた。
「ニナ?」
少女が振り返る。隣にはリリ、その手には小さな紙袋。
「エステル」
「お二人で市場へ?」
「ベッシーおばさんが、行っていいって」
ニナは少し慌てたように布袋を隠した。
「何を買われたのです?」
「内緒って言った」
「聞いておりませんわ」
「顔が」
「もう、それは禁止にしたいです」
リリが笑う。
「ルカのは、ちゃんと自分で選んでたよ」
「リリ!」
「何買ったかは言ってない」
「そういう問題じゃない」
紙袋から、少しだけ青い紐が見えている。けれど、エステルは見なかったことにした。
「店は?」
「公爵がいる」
「本当に店番を?」
「いるだけ」
「お客さん一人来たけど、公爵が『店主は不在だ』って言ったら帰った」
「それは店番ではございません!」
思わず歩く速度が上がる。ニナとリリが笑いながら後ろをついてくる。
店へ戻ると、扉はきちんと閉まり、表には『店主外出中 繕い物の預かりは隣のパン屋へ』という紙が貼られていた。
「公爵様!」
扉を開ける。
アルヴィスは裁断台の横で、ユリウスの書類を読んでいた。足元の箱ではクッシュが眠っている。
「戻ったか」
「店番をお願いした覚えはございませんが、お客様を追い返すこともお願いしておりません」
「追い返していない」
「帰られたと」
「店主がいないと伝えた」
「繕い物なら、お預かりできたでしょう」
「俺が?」
「ニナがいれば」
「市場へ行った」
「では、セドリック様を」
「公爵家の執事補佐に、靴下の穴を預からせるのか」
「お客様の大切な靴下かもしれません」
アルヴィスは黙る。
エステルは少し息を吐いた。
「何のお客様でした?」
「子どもの上着」
「なおさら、お預かりしたかったですわ」
「明日来ると言っていた」
「では、明日はきちんと」
「俺はいない」
「そうでした」
「公爵、店番向いてない」
ニナが言う。
「頼まれていない」
「でもクッシュは見てた」
「箱から出なかった」
「一回出たよ」
「いつ」
「公爵が窓見てるとき」
アルヴィスの顔が変わる。
「どこへ行った」
「裁断台の下。戻した」
「なぜ言わない」
「今言った」
「ニナ」
今度はエステルが笑いそうになる。
「公爵様も、分からないものを見張るのは難しいのですね」
「ハリネズミと客は別だ」
「そうでしょうか」
「違う」
少しだけ機嫌を悪くしたアルヴィスへ、エステルはギルドでもらった冊子を渡した。
「第一王女殿下についてです」
「出ると決めた?」
「まだです。明日、お会いします」
「直接?」
「候補四人で」
「何を聞く」
「いろいろ」
「それでは分からない」
「好きな色、嫌いな布、婚礼で何をしたいか、何をしたくないか。歩く時間、座る時間、食事の有無、移動経路、裾を誰かに持たせたいかどうか。それから」
「待て」
アルヴィスが止める。
「何です?」
「王女へ、全部聞く気か」
「必要です」
「尋問になる」
「仕立てのためです」
「殿下、逃げるかも」
リリが言う。
「逃げませんわ」
「公爵は逃げそう」
「俺は何度も受けている」
「採寸?」
「質問を」
ニナが笑う。
「王女様、大変」
「では、質問を減らすべきでしょうか」
「減らす必要はない」
アルヴィスが言った。
「ただ、一度に全部聞くな」
「公爵様が、会話の助言を?」
「何だ」
「いえ。成長なさったのですね」
「誰が」
「受け取って返すことを」
「今は王女の話だ」
「はい」
アルヴィスは冊子を一枚めくる。
「リュシエンヌは、昔から自分で決めたがる」
「ご存じなのですか」
「従姉だ」
「そうでしたわね」
王家と公爵家。血縁があることは当然なのに、普段のアルヴィスが王族について親しげに話すことがないため、つい忘れてしまう。
「どのような方です?」
「明日、自分で聞け」
「ベルナール様と同じことを」
「本人が話したいことを、先に俺から聞く必要はない」
エステルは少しだけ目を見開いた。
「よいことをおっしゃいますね」
「普段は?」
「悪いとは申し上げておりません」
「顔が」
「禁止です」
翌日、王宮東翼の小さな応接室に、四人の仕立て師が集められた。
豪華ではあるものの、謁見の間ほど堅苦しくない。窓辺には淡い黄色の花が飾られ、中央には丸い卓と五脚の椅子が置かれている。
候補者は、エステル、ヴィオラ、ヘンリック、クラリッサ。ただ、王女の姿がない。
「遅れていらっしゃるのでしょうか」
エステルが尋ねると、侍女が困ったように微笑んだ。
「殿下は、もうおいでです」
「どちらに?」
侍女が答える前に、隣の小部屋から布が落ちる音がした。
「また引っかかった!」
女性の声。
続いて。
「だから、この裾は嫌だと言ったでしょう!」
候補四人が顔を見合わせる。侍女が額へ手を当てた。
「申し訳ございません」
扉が開く。
最初に見えたのは、真っ白な布だった。次に、その布を両手で抱え上げながら歩いてくる一人の女性。
金色の髪。澄んだ青い目。二十四歳。第一王女リュシエンヌ。
ただし、王女らしく優雅に現れたとは、とても言い難い。
彼女は仮縫いの婚礼衣装を着ており、長すぎる裾を両腕いっぱいに抱えていた。
「ごきげんよう」
息を少し切らしながら、王女は言った。
「第一王女リュシエンヌです。見てのとおり、すでにこの服が嫌いです」
ヘンリックの顔が固まる。
クラリッサは、なぜか納得したように微笑んだ。
ヴィオラは、すでに裾を見ている。
エステルも見た。
美しい衣装だった。白い絹、銀糸、胸元には王家の花紋、袖には細かな刺繍。後ろへ伸びる裾は、少なくとも三人が持たなければ床を引きずる。
王女が自分で抱えているせいで、せっかくの刺繍はほとんど見えない。
「殿下」
ヘンリックが一歩前へ出る。
「その一着は、以前王室衣装室より提出した第二案でございます。正式な介添人が付けば、裾をお持ちいたしますので」
「知っています」
リュシエンヌは答えた。
「三人で」
「婚礼礼装としては、決して多くございません」
「私は三人に裾を持たれて歩きたくないのです」
「しかし、王女殿下の婚礼であれば」
「それです」
王女の声が少しだけ強くなる。
「半年間、ずっとそれを言われました。王女だから。王家だから。婚礼だから。格式だから」
抱えていた裾を床へ下ろす。白い布が広がる。
「それが必要なのは分かっています。全部なくせと言っているわけではありません。でも、誰も私がどう歩きたいかは聞かなかった」
その一言に、エステルの胸が小さく動いた。
「お座りになれますか」
最初に口から出たのは、それだった。
王女が顔を上げる。
「え?」
「その一着で、こちらの椅子へ」
ヘンリックが眉を寄せる。
「ラヴィニア嬢」
「殿下がどの程度動きにくいのか、拝見したくて」
リュシエンヌは数秒エステルを見たあと、「やってみます」と答えた。
裾を持ち、椅子へ向かう。一歩、二歩、三歩。途中で、銀糸の刺繍が椅子の脚へ引っかかった。
「あ」
王女が止まり、侍女がすぐ外そうとする。
「待って」
エステルが言いかけ、慌てて頭を下げる。
「失礼いたしました。殿下、動かずにいていただけますか」
「ええ」
エステルは触れない距離から、引っかかった位置を見る。刺繍が悪いのではない。裾の重さ、広がり、歩いたときに布が戻る方向。
「座ることを考えていない線です」
「婚礼衣装は、立ち姿を最優先するものだ」
ヘンリックが言う。
「式の間、ずっと立っているのですか?」
エステルが尋ねる。
「礼拝では座る」
リュシエンヌが答えた。
「そのあと晩餐も」
「馬車へも?」
「乗ります」
「階段は?」
「西礼拝堂まで二十七段。それから大広間へ十六段」
「歩く距離は?」
「かなり」
リュシエンヌの表情が、少しずつ変わる。
「あなた、そこを聞くのね」
「必要ですので」
「ほかの人は、私が祭壇の前に立ったところしか描かなかった」
「婚礼は、祭壇の前だけではございません」
エステルは裾から王女の顔へ視線を戻す。
「朝、着替えて、歩いて、座って、食事をして、挨拶をして、馬車へ乗って、最後にはその服を脱ぐところまでが一日です」
王女が少しだけ笑った。
「脱ぐところまで?」
「服ですから」
「王女の婚礼衣装でも?」
「もちろんです」
「エステル」
ヴィオラが小さく呼ぶ。でも、止める声ではなかった。
リュシエンヌはようやく椅子へ腰を下ろした。裾が横へ大きく広がり、隣の椅子まで占領する。
「これも嫌」
「隣に誰も座れませんね」
「そうなの」
「新郎殿は?」
「式では隣へ」
「離れます」
「そうなの!」
今度は王女が、はっきり笑った。
「アーサーは『別に離れてても見える』と言うけど、私は嫌なのよ。婚礼なのに、服のせいで遠くなるなんて」
クラリッサが穏やかに尋ねる。
「殿下は、レイフォード卿のお隣へ座りたいのですね」
「ええ」
「では、裾を短く?」
王女は少し考える。
「短いだけなら、普段の礼装と同じでしょう? 婚礼らしさは欲しいの」
「難しい注文ですわね」
クラリッサが言う。
「分かってる」
リュシエンヌはそこで少しだけ肩を落とした。
「だから、三案も断ったあとで、わがままだと言われていることも知っています」
ヘンリックが何か言おうとする。けれど、エステルが先に口を開いた。
「わがままではないと思います」
全員がこちらを見る。
「ラヴィニア嬢」
ヘンリックの声。
「殿下は、王女として婚礼をなさる。その責務と格式を無視することは」
「無視するとは申し上げておりません」
エステルは落ち着いて返す。
「格式を守ることと、着る方が困ることは、同じではございません」
「王家の婚礼衣装は象徴でもある」
「はい。だからこそ、殿下ご本人がどのようにそこへ立ちたいかも、象徴の一部ではないでしょうか」
リュシエンヌの目が少し見開かれる。
「私は、王家のことを詳しく存じません。ですから、王国を象徴する服を一人で考えることはできません。でも、着る人が歩けない服を、美しいからという理由だけでお勧めすることもできません」
母の婚礼衣装。十年前。祝福。黒糸。あの一着も王家の象徴だった。だから誰かが、着る人より、そこへ込める力を優先した。
同じことはしたくない。
「ラヴィニア嬢」
リュシエンヌが呼ぶ。
「はい」
「あなたは、何を作るつもり?」
「まだ決めておりません」
「今、こんなに言ったのに?」
「殿下のお好きなものを、まだ伺っておりませんので」
王女が目を丸くする。
「好きなもの?」
「色は?」
「……青」
「どの青でしょう」
「湖の青」
「朝と夕方で違います」
「そこまで?」
「違いますわ」
そこまで聞かれるとは思わなかったのか、王女がまた笑う。
「夕方。少し灰色が入る頃」
「刺繍は?」
「小さいものが好き。遠くから見て分かる大きな紋章は苦手」
「花は?」
「鈴蘭」
「香りの強いものは?」
「苦手」
「首元が詰まる服は?」
「嫌い。これも苦しい」
「袖は?」
「長いほうが好き。でも手首は動かしたい」
「手袋は?」
「式の途中で外したい」
「なぜ?」
一瞬、リュシエンヌが少しだけ照れたように視線を逸らした。
「指輪を、自分で受け取りたいから」
その言葉を、エステルは忘れないよう胸の奥へ置いた。
「承知しました」
「まだ聞く?」
「歩く速さ」
「普通」
「公爵様も、そうおっしゃいます」
「誰?」
「あ……何でもございません」
ヴィオラが吹き出した。
「何?」
王女が尋ねる。
「ヴァルクレイ公爵閣下です」
ヴィオラが答える。
「エステルは、あの人にも歩き方を注文してる」
「アルヴィスに?」
リュシエンヌが、初めて王女というより親戚の顔をした。
「聞きたい」
「ヴィオラ様!」
「公爵を、公爵に見せない服を作ったとき」
「何それ」
「変装です」
「アルヴィスが変装?」
「必要でしたので」
「似合った?」
「地味でした」
リュシエンヌが声を立てて笑った。
「見たかった!」
「今度、本人へ」
「絶対嫌がる」
「おそらく」
王女の笑いが落ち着くまでには少し時間がかかったが、そのぶん応接室を満たしていた緊張も、いつの間にかずいぶん薄くなっていた。
やがてリュシエンヌは、仮縫いの婚礼衣装の裾を見下ろす。
「私ね」
先ほどより静かな声。
「婚礼の日、自分で歩きたいの」
「はい」
「誰かに裾を持たれているからではなくて、自分の足で。祭壇まで行って、そのあとアーサーと並んで戻りたい」
「はい」
「王女らしくない?」
「王女らしさを、私が決めることではございません」
「では、仕立て師として」
エステルは少し考える。
「服は、着る人の動きを奪うためにあるものではないと思います。必要な格式を残しながら、自分で歩ける形は探せます」
リュシエンヌがこちらを見る。
「本当に?」
「探します」
「できる、ではなく?」
「まだ布も決めておりませんので」
「慎重なのね」
「仕立て師ですから」
「それ、便利な言葉ね」
ヴィオラと同じことを言われた。
「よく言われます」
面談は一人あたり半刻の予定だったらしいが、気づけばずいぶん長くなっていた。
最後に、王女は四人へ一つだけ条件を出した。
「私の希望を全部かなえなくてもいいです」
候補者たちが顔を上げる。
「でも、何かを諦めさせるなら、理由を教えてください。王女だから、婚礼だから、昔からそうだから、以外で」
ヘンリックの表情が少し硬くなる。
クラリッサはゆっくり頷き、ヴィオラも真剣な顔で聞いている。
エステルは、その言葉を冊子の余白へ書いた。
『諦めるなら、理由を。』
店へ戻ったのは、夕方だった。
扉を開けると、ニナが裁断台で曲線縫いをしている。リリはもういない。クッシュは反物棚の下。アルヴィスは窓辺に立っていた。
「どうだった」
第一声。
「公爵様」
「何だ」
「リュシエンヌ殿下が、公爵様の変装を見たかったと」
「なぜ、その話になった」
「ヴィオラ様が」
「二度と連れて行くな」
「嫌ですか?」
「嫌だ」
「はっきり」
ニナが笑う。
「王女様は?」
「素敵な方でした」
「どんな服ほしいって?」
エステルは今日聞いた言葉を思い出す。
「自分で歩ける婚礼衣装」
「それだけ?」
「それだけではありません」
夕方の湖の青。小さな鈴蘭。長い袖。動く手首。自分で外せる手袋。新郎の隣へ座れる裾。自分の手で受け取る指輪。
「たくさんあります」
「作るの?」
「まだ、正式審査があります」
「選定会も?」
「はい」
「じゃあ、出る?」
ニナの問いに、エステルは少しだけ考えた。
昨日までは、母の事件と十年前の婚礼衣装、同じ場所へ戻ることが怖かった。
でも、今日会ったのは母の過去にいる王女ではない。今、これから、自分で歩きたいと願っている人だ。
「出たいと思います」
「思います?」
アルヴィスが尋ねる。
「はい」
「決めた、ではなく?」
「正式審査へ合格してから、胸を張って申し込みます」
「そうか」
「公爵様」
「何だ」
「何か、嬉しそうですね」
「そう見える?」
「はい」
「顔が?」
「はい」
「読むな」
「皆様が、私にしていることですわ」
アルヴィスは少しだけ言葉に詰まり、ニナが笑いながら曲線の続きを縫う。
「エステル」
「何でしょう」
「審査の服、わたしの?」
「なぜ」
「顔」
「……禁止です」
「でも、そうでしょ」
「まだ決めておりません」
「今は決めない?」
今度はアルヴィスまで、ほんの少し笑った。
「皆様、本当に」
文句を言いながら、エステルも裁断台へ近づく。
ニナの曲線縫いは以前よりずっと滑らかになっていたが、一箇所だけ糸を引く力が強すぎるところがあった。
「ここ」
「分かってる。ほどく」
「はい」
糸は切らずに必要なところまで戻し、もう一度縫い直す。
十二日後の正式審査。十五日後の婚礼衣装選定会。その先に王女の婚礼があり、王宮の地下にはまだ返納庫が残っている。
大きな仕事は一つずつ増えていく。それでもエステルは、今朝までより少しだけ迷いが減っていた。
婚礼衣装を縫うのは、十年前をやり直すためでも、母の無実を証明するためでもない。自分で歩きたいと願った、一人の花嫁のためだ。
誰かに持ち上げられなくても、その人が自分の足で好きな人の隣まで歩けるように。そのための一着を自分の針で考えられるのなら、挑んでみたい。
エステルは、ニナが縫い直した曲線を指先でそっと撫でた。
「今度は、きれいです」
「本当に?」
「本当に」
「その聞き方」
「今のは、ニナですわ」
店の中に小さな笑いが広がる。窓の外では夕暮れが、王女の好きだと言った、少し灰色を混ぜた湖の青によく似た色へ、ゆっくり変わっていった。




