第28話 働くための一着
翌朝、エステルは店を開ける前から、ニナの動きを眺めていた。
掃除を終えたニナは、入口脇に置いた小さな箒を壁へ戻し、昨日預かった子どもの上着を裁断台の端へ移した。それから棚の二段目へ手を伸ばして糸箱を取り、椅子へ座ることなく、その場で箱の中身を確かめている。
動きに迷いがない。店に来たばかりの頃は、何かを取るにも「触っていい?」と一度こちらを見ていたのに、今ではよく使う道具の場所を覚え、必要なものと触れてはいけないものをきちんと分けている。
ただし、服はまだ街で暮らしていた頃のままだった。何度も洗われて色の薄くなった茶色の上着は袖が少し長く、腰のあたりには自分で直した跡があり、右膝には布を重ねた補修が二枚ある。動きやすさを優先しているのは分かるものの、裁断台の角へ袖口を引っかけることが時々あった。
「……何?」
視線に気づいたニナが振り返る。
「何でもありませんわ」
「昨日からずっと見てる」
「仕立て師ですので」
「それ便利すぎない?」
「最近、皆様に言われます」
ニナは疑わしそうにこちらを見たあと、糸箱を抱えて椅子へ座った。
「審査の服、やっぱりわたしの?」
エステルは、すぐには答えなかった。昨日、王女との面談から戻ったあとにも同じことを聞かれた。そのときはまだ決めていないと答えたけれど、眠る前にはほとんど決まっていた。
「候補ではあります」
「候補」
「ただし、作るなら先にニナへ聞かなければなりません」
「何を?」
「着てくださるかどうか」
ニナが目を瞬く。
「審査で使うだけでしょ?」
「審査のために作ります。でも、審査が終わればニナに着ていただきたいと思っています」
「わたしに?」
「はい」
「なんで?」
「仕事着だからです」
それだけ言うと、ニナは自分の服を見下ろした。
「新しい服なら、ルカのほうが」
「ルカ君には別に必要なとき作ります」
「でも」
「これは、ニナが店で働くための服です」
エステルは裁断台へ近づき、その端へ昨日ギルドから受け取った審査規定を置いた。
「想定する着用者の用途に合っているか。それが審査項目にございます。ですから、誰かを想像して作るより、実際に毎日ここで働いている方の服を仕立てたいのです」
「わたし、弟子じゃないけど」
「まだ、ですね」
「そこ強く言う?」
「大事ですから」
「じゃあ仕事着って何の仕事?」
「掃除、糸の整理、預かり物の確認、簡単な繕い、曲線縫いの練習。それから、クッシュの見張り」
「最後だけ仕事じゃない」
箱の中から、ふしゅっ、と小さな音がした。二人で見ると、クッシュは丸くなったまま、こちらへ背中を向けている。
「本人は仕事だと思っているかもしれません」
「寝る仕事?」
「重要ですわ」
ニナが少し笑った。
その表情が緩んだのを見てから、エステルはもう一度尋ねる。
「着てくださいますか?」
しばらく返事はなかった。ニナは自分の袖口をつまみ、折り返したところを何度か指で撫でる。
「……測る?」
「もちろん」
「全部?」
「必要なところは」
「太ったとか言わない?」
「言いません」
「背が低いとか」
「寸法は悪口ではございません」
「エステルはそうだけど」
「誰かに言われたのです?」
「昔、服屋で」
ニナは何でもないことのように言った。
「古着を直してもらうとき。『細すぎて合わせにくい』『子どものくせに肩だけ張ってる』って」
エステルは規定書から手を離す。
「それは、仕立てる側の都合です」
「そうなの?」
「はい。着る方の体が、服へ合わせる必要はありません」
「でも、既製の服なら」
「既製のものへ合わせる必要がある場面はあります。でも、今は仕立てます」
エステルは笑った。
「ニナの肩がどういう形でも、それに合わせて裁つのが私の仕事です」
「……じゃあ」
「はい」
「測っていい」
「ありがとうございます」
「審査のためだから」
「承知しております」
「あと、変な飾りは嫌」
「どの程度が変でしょう」
「ひらひら」
「付けません」
「花も」
「付けません」
「リボン」
「必要なら」
「必要ない」
「では、付けません」
「色は?」
「それは、相談しましょう」
そこまで言ったところで扉が開き、ベッシーが焼きたてのパンを入れた籠を抱えて入ってきた。
「朝から何の相談だい?」
「ニナの仕事着を」
「ほう」
「審査の服」
ニナがすぐに付け足す。
「はいはい」
ベッシーは笑いながら籠を置き、ニナの服を上から下まで眺めた。
「それなら丈夫なのにしな。こいつ、見た目より動くから」
「知っています」
「あとポケット」
「ポケット?」
「こいつ、何でも袖に入れる」
「入れてない!」
「昨日、糸巻き出てきただろ」
「あれは一回だけ」
「一昨日は?」
「……針山」
「危ないですわ!」
エステルが思わず声を上げる。
「針は刺してなかった!」
「そういう問題ではありません」
「じゃあポケット」
ベッシーが勝ち誇ったように言う。
「必要だね」
エステルはすぐに紙へ書き留める。
「深すぎないものを左右へ。作業中、屈んでも中身が落ちないよう入口を斜めにするか……」
「もう始まった」
ニナがぼそりと言う。
「あと腰」
ベッシーが続けた。
「こいつ、床に座るとすぐ裾を踏む」
「踏んでない」
「この前踏んで転びかけた」
「見てたの?」
「店の前から」
「嫌だもう」
エステルは笑いを堪えながら、さらに書き足した。
「では、丈は膝下までにします。前だけ少し短くして、後ろは座ったときに腰が出ない程度に」
「袖は?」
「肘から下を細く。ただし、曲げたときに引かれないよう余裕を入れます」
「いいんじゃない?」
「ベッシーさん」
ニナが睨む。
「何だい。着るのはあんたなんだから、使いやすいほうがいいだろ」
「……そうだけど」
「それと」
ベッシーが、少しだけ声を落とす。
「新しい服、嬉しいなら嬉しいって言っときな」
「嬉しくない」
「顔」
「それ禁止!」
店の中へ笑いが広がった。
採寸は、店を開ける前に済ませることにした。
祝福のための一目裁ちではなく、普通の仕立てとして紐尺を使う。肩幅、背丈、胸囲、腰回り、腕の長さ、肘の位置、座ったときの腰から膝まで。働く服だからこそ、立っている寸法だけでは足りなかった。
「腕、上げてください」
「こう?」
「もう少し」
「疲れる」
「まだ十息も経っておりません」
「長い」
「公爵様と同じことを」
「嫌なんだけど」
腕を下ろしてよいと伝えると、ニナはすぐ肩を回した。
「次、床へ座っていただけますか」
「測るのに?」
「はい。いつものように」
ニナは少し戸惑ったあと、裁断台の横へ座り、片膝を立てる。縫い物をするときによく取る姿勢だった。
その状態で腰回りを見ると、立っているときとは布の引かれる方向が違う。背中側に余裕が必要で、前裾は余りすぎる。
「なるほど」
「何が?」
「前後で丈を変えます」
「変じゃない?」
「見た目ではほとんど分からない程度です」
「審査する人には?」
「分かっていただきます」
それが仕事だった。見た目に違和感がないのに、着た人にはきちんと違いが分かる。そういう工夫を、エステルは母から何度も教えられてきた。
母はよく、「誰にも気づかれない縫い目ほど、着る人には長く効く」と言っていた。祝福の話ではない。普通の仕立ての話だ。今なら、その言葉が以前よりよく分かる。
「エステル」
「はい」
「それ、何?」
ニナが紙を指す。腰の横へ、細長い印を描いていた。
「指ぬき用の小さな輪を付けようかと」
「いらない」
「なぜ?」
「持ってるから」
「どこに?」
ニナは一瞬黙り、ポケットのない自分の服の胸元を押さえた。
「……袋」
「いつも?」
「うん」
母親の遺した真鍮の指ぬき。ニナが初めて店へ持ってきた、大切な道具。
「では、服へ固定するのはやめましょう」
「いいの?」
「落としたくないものを、服の都合で場所まで決める必要はありません」
代わりに、内側へ小さな紐付きの収納を作る。袋ごと入れられ、簡単には落ちない位置。
「勝手に見ないんだ」
「見てほしかったのですか?」
「違うけど」
「では、よかったです」
ニナは少しだけ口元を曲げた。
「エステルって、たまに変」
「たまに?」
「そこ気にする?」
採寸が終わるころ、ヴィオラが店へ来た。
彼女は細長い紙包みを二つ抱え、入るなり裁断台へ置いた。
「候補」
「何の?」
「審査用の布」
包みを開く。一つは灰青色の綾織り。もう一つは少し明るい青鼠の平織りだった。
「どちらも市場で普通に流通してる。値段も規定内」
エステルは指先で表面を確かめる。綾織りは丈夫で、擦れにも強い。ただ、やや重い。平織りは軽く動きやすいが、膝や肘に補強が必要になる。
「どっち?」
ヴィオラが尋ねる。
「まだ」
「また?」
「着る方へ聞きます」
二人の視線がニナへ向く。
「わたし?」
「はい」
「分かんない」
「触ってみてください」
ニナは最初、遠慮するように指先だけで触れた。けれどエステルが何も言わないので、今度はしっかり布をつまみ、曲げたり引いたりする。
「こっち」
選んだのは平織り。
「理由は?」
ヴィオラが尋ねる。
「軽い」
「それだけ?」
「あと、しゃがんだときにこっちのほうが戻る」
エステルとヴィオラが同時に布を見る。ニナは実際に自分の膝へ当て、曲げた状態から手を離していた。
「いい見方」
ヴィオラが言う。
「ほんと?」
「仕立て師なら、触っただけじゃなく動かす」
「まだ弟子じゃないけど」
「知ってる」
「みんな言う」
ヴィオラは気にせず、平織りの布を広げた。
「なら補強は別布。肘と膝、それからポケット口」
「同じ布で二重にするより?」
「重くなる」
「薄手の帆布を裏側へ」
「それなら表から見えない」
話が速い。
ニナは二人を見比べる。
「もう決めてる」
「まだです」
「決まってる顔」
「禁止です」
ヴィオラが笑いながら、エステルの採寸紙を見る。
「背中の余裕、多くない?」
「床へ座るので」
「なるほど。前丈は短く?」
「半寸だけ」
「いいと思う」
そこでヴィオラの指が、腰の内側へ描いた小さな袋に止まった。
「これは?」
「大切なものを入れる場所です」
「何?」
「大切なものです」
ニナがエステルを見る。少し驚いたような顔だった。
ヴィオラはそれ以上聞かなかった。
「なら、返し縫いを増やして。内側だからこそ、外れたら困る」
「そうします」
「審査でそこまで見る?」
ニナが尋ねる。
「見る人は見る」
ヴィオラが答える。
「見ない人には?」
「着る人が分かればいい」
その言葉に、エステルは少しだけ笑った。
「同じことを母も言っていました」
「なら、珍しく意見が合う」
「母と会ったことは?」
「ない」
「では、珍しいかどうか分かりませんわ」
「細かい」
午前の客が来始める前に、布と型紙の方向はほぼ決まった。
上着は腰より少し長く、前開き。袖は手首まであるが、肘下を細くし、必要なら二段階で折って留められる。腰には左右一つずつの作業用ポケットを付け、右側の内側には指ぬきの袋をしまえる小さな収納を作る。
下衣は膝の曲げ伸ばしを邪魔しない幅を確保し、表からは分からないよう膝裏へわずかな余裕を入れる。裾は床に座っても邪魔にならず、街へ出ても子どもっぽく見えすぎない長さにする。
「色、これでいい?」
エステルが灰青の布をニナの肩へ当てる。
「うん」
「本当に?」
「その聞き方、エステルもするんだ」
「大事なところですので」
ニナは鏡を見る。灰色に青を一滴落としたような、落ち着いた色。明るすぎず、汚れも目立ちにくい。けれど古着の茶色とは違って、少女の黒に近い髪を少しだけ柔らかく見せた。
「これがいい」
今度は、はっきりした声だった。
「では、これにしましょう」
ヴィオラが布を畳みながら言う。
「王女の好きな色にも近い」
「少し」
「意識した?」
「いいえ」
「本当に?」
「本当にです」
夕方の湖の青。昨日聞いた王女の言葉が、頭のどこかへ残っているのは否定できない。ただ、婚礼衣装とニナの仕事着は別のものだ。
それでも、着る人の好きな色を聞き、自分で動ける形を考える。その根にあるものは、どちらも同じだった。
「王女のほう、もう案ある?」
ヴィオラが尋ねる。
「少しだけ」
「裾?」
「はい」
「短くする?」
「ただ短くするだけでは、殿下の望む婚礼らしさがなくなります」
「じゃあ取り外し?」
「それも考えています」
「介添人なしで?」
「できれば」
ヴィオラの目が少し鋭くなる。
「重さをどこへ逃がす?」
「腰だけではなく、肩と背へ分散させます」
「座ると?」
「そこで困っています」
「やっぱり」
「嬉しそうですね」
「同じところで困ってるから」
「ヴィオラ様も?」
「私は後ろの裾を二重構造にして、式場では長く、晩餐では内側へ畳む案」
「面白いです」
「真似しないで」
「いたしません」
「私はエステルのも真似しない」
「まだ何も」
「顔」
「本当に禁止にしますわ」
競争相手ではあるけれど、敵ではない。その距離が、エステルには心地よかった。
ヴィオラが帰ったあと、昼過ぎにアルヴィスが来た。
今日は公爵としてではなく、いつもの灰色の上着を着ている。左の青灰色の内ポケットには何もなく、右の白いポケットも空だった。
「今日は何も受け取っていないのですか」
エステルが尋ねると、アルヴィスは一瞬だけ止まった。
「最初にそこを見るのか」
「服ですから」
「普通は顔を見る」
「見ておりますわ」
「なら、なぜポケットから」
「気になったので」
「何もない」
「そうですか」
アルヴィスは少し考えたあと、入口脇の小さな机へ紙包みを置いた。
「なら、今入る」
「何でしょう」
「菓子」
「公爵様が?」
「セドリックから」
「それは公爵様が受け取ったものでは」
「だから俺のだ」
「召し上がるのですか」
「一つは」
「一つ?」
「残りは店へ」
エステルは紙包みを見る。
「それは、受け取って返す?」
「そういうことにしておけ」
「成長なさいましたね」
「言うと思った」
ニナが奥から顔を出す。
「何の菓子?」
「知らない」
「受け取ったのに?」
「包みを開けていない」
「公爵、そういうとこ」
「何だ」
「受け取ったって感じしない」
アルヴィスが黙る。エステルも黙った。
ニナは二人を見て首を傾げる。
「何?」
「いえ」
「何でもない」
二人の声が重なる。
「変」
ニナはそう言って奥へ戻った。
エステルは笑いながら、アルヴィスの上着を見る。
「開けてみては?」
「今?」
「はい」
「なぜ」
「ニナに言われたからではございません。ただ、受け取るというのは、持っているだけではないのかもしれないと思いまして」
アルヴィスはしばらく紙包みを見つめ、それから紐を解いた。
中には、小さな焼き菓子が六つ。木の実を練り込んだものらしく、甘い香りが広がる。
「セドリック様のお好みですか?」
「俺が昔食べていた店のものらしい」
「昔?」
「子どもの頃」
「覚えていらっしゃる?」
「味は」
一つ取る。すぐには食べない。
「毒見は?」
「公爵家で済んでいる」
「でしたら」
「急かすな」
「急かしておりません」
アルヴィスが一口食べる。表情は、ほとんど変わらない。
「どうです?」
「甘い」
「それだけ?」
「木の実」
「それは見れば」
「……昔と同じだ」
少しだけ、声が違った。
「そうですか」
エステルは、それ以上聞かなかった。
アルヴィスは二口目を食べ、残りの包みを閉じる。
「三つ置いていく」
「半分?」
「多いか」
「いいえ」
「なら」
「右のポケットは?」
「菓子を入れる場所ではない」
「返すものを決める場所です」
「理屈が増えたな」
「公爵様が慣れてきたので」
アルヴィスはため息をついたが、否定はしなかった。
そのあと、裁断台に広げた灰青の布へ気づく。
「王女の?」
「違います。正式審査の一着です」
「誰の」
奥から。
「わたし」
ニナが答える。
アルヴィスは布とニナを交互に見る。
「仕事着?」
「そう」
「弟子服では?」
「違う」
即答。
「まだ」
エステルが付け足す。
「何が違う」
「違うの!」
「本人が申しておりますので」
アルヴィスは少し考え、布へ触れない距離から眺める。
「袖は短く?」
「手首まで。ただし、折って留められます」
「ポケットは?」
「左右」
「深さは」
「このくらい」
型紙を示す。
アルヴィスが眉を寄せる。
「浅くないか」
「物を入れすぎるので」
「なら正しい」
「公爵!」
ニナが奥から抗議する。
「事実らしい」
「ベッシーさんに聞いた?」
「エステルの顔」
「禁止!」
今日は、何度その言葉が出ただろう。
夕方、客足が途切れたあと、エステルは最初の裁断へ入った。
布を広げ、地の目を見て、光へ透かし、歪みがないことを確認する。型紙を置く前に、ニナが近づいてきた。
「切る?」
「はい」
「失敗しない?」
「しますわ」
「え」
「仕立て師でも、間違えることはございます」
「でも今から?」
「今は間違えないよう確認しております」
「怖くない?」
エステルは少し考えた。
「高い布を切るときは、今でも少し」
「これ高い?」
「普通です」
「じゃあ怖くない?」
「ニナの服ですので、別の意味で」
ニナが黙る。
「嫌だった?」
「いいえ」
「じゃあ」
「嬉しいです」
今度は、ニナのほうが言葉に詰まった。
「そういうの、急に言うのずるい」
「何がでしょう」
「知らない」
少女は裁断台から少し離れた。けれど、店の奥へは戻らなかった。そこに立って、見ている。
エステルは鋏を持ち、灰青の布へ最初の刃を入れた。
しゃきり、と静かな音がする。
母の婚礼衣装、王女の婚礼衣装、呪われた公爵の上着、祝福を返す服。このところ、エステルはいろいろな一着のことを考えていた。
けれど今裁っているのは、毎日店で床を掃き、糸を並べ、曲線を何度も縫い直し、弟のために初めての給金を使った少女の服だった。
王宮へ行く服でもなく、祝福も宿さない。誰かの歴史を変えるものでもないけれど、それでも確かに必要な一着だった。
「エステル」
「はい」
「そこ、何の線?」
ニナが指す。前身頃の内側、表からは見えない小さな位置。
「内ポケットです」
「指ぬきの?」
「袋ごと入れられます」
「……そっか」
「嫌なら変えます」
「変えなくていい」
「では、このまま」
また鋏を進める。
その日の最後、前身頃と後ろ身頃を切り終えたところで、店の扉が叩かれた。
「もう閉店?」
聞き慣れた声。
「リリ?」
ニナが扉を開ける。花籠を抱えたリリが立っていた。
「今日、遅かったのですね」
「花市場で変な話聞いてた」
エステルの手が止まる。
「変な話?」
「王女様の婚礼の花、鈴蘭が増えるって」
「それは」
昨日、王女が好きだと言った花。
公には、まだ話していないはず。
「誰から聞きました?」
「市場の人。王宮から注文が来たって」
「いつ?」
「今日の昼」
エステルとアルヴィスが顔を見合わせる。
王女との面談は昨日。その場にいたのは候補四人、侍女、ギルド関係者だけだった。
「量は?」
「すごく多いって。婚礼全部に使うくらい」
「殿下が決めた可能性は?」
アルヴィスが尋ねる。
「ございます」
エステルは答えた。
「でも」
王女は昨日、好きな花を聞かれて鈴蘭と答えただけだ。婚礼に使いたいとは、一度も言っていない。
「どこの注文?」
ニナがリリへ聞く。
「王宮衣装室の印があったって」
「衣装室?」
花なのに。
「確かなのですか?」
「市場のおじさん、印見たって。あたしも紙は見てない」
「分かりました。ありがとうございます」
「何か変?」
「まだ分かりません」
そう答えながらも、エステルは昨日の王女を思い出していた。
『何かを諦めさせるなら、理由を教えてください。』
王女の希望、好きな色、好きな花。それを聞いて、誰かがすぐに婚礼の形へ変えようとしている。
善意かもしれない。準備を急いだだけかもしれない。
けれど十年前、母も花嫁のために作った服へ、誰かが別の意味を縫い足した。
「公爵様」
「分かっている」
「まだ疑う段階では」
「だから、確認する」
「はい」
エステルは頷いた。
急いで誰かを犯人に決めず、印ではなく縫い目を見る。今度も、それは同じだった。
「明日、王女殿下へ確認します」
「俺から?」
「いいえ」
「なぜ」
「婚礼衣装の候補者として聞きます」
「分かった」
アルヴィスはそれ以上言わなかった。
リリが裁断台の布を見る。
「これ、ニナの?」
「何で分かるの?」
「色」
「色で?」
「似合いそう」
ニナが少しだけ嬉しそうにする。
「仕事着」
「弟子服?」
「違う!」
その声に、クッシュが箱の中で、ふしゅっ、と鳴いた。
今度こそ、店の全員が笑った。
ただ、裁断台の隅には王女の婚礼衣装選定会の冊子が置かれている。その余白には、エステルが昨日書いた一行があった。
『好きな花 鈴蘭』
まだ一着のどこへ使うかも決めていない希望なのに、王宮の外では、もう大量の鈴蘭が集められようとしている。
それがただの行き違いなのか、それとも誰かがまた、着る人より先に服の意味を決めようとしているのか。
エステルは切り終えた灰青の布へ白い布を掛けた。
明日も、まず本人へ聞く。それから縫えばいい。
服は、着る人より先に答えを決めるものではないのだから。




