第29話 「好き」と「選ぶ」は違う
翌朝、エステルが最初にしたのは、王宮へ使いを出すことだった。
昨日リリから聞いた鈴蘭の大量発注について、第一王女リュシエンヌ本人へ確認したい。その旨だけを簡潔に書き、婚礼衣装選定会の候補者として正式な問い合わせにして、ギルド経由で届けてもらう。
アルヴィスへ頼めば、おそらくもっと早く返事は来る。けれど、それをすれば「公爵家の後ろ盾を使った」と言われても仕方がない。選定会に出る以上、必要な連絡は候補者として正面から行いたかった。
「面倒」
ニナが言った。
「何がです?」
「公爵に聞けば早いのに、わざわざギルドに紙出して、ギルドから王宮へ出してもらうところ」
「面倒でも、順番は大切です」
「返礼室のときも言ってた」
「順番を間違えないように、と母の手紙にもございましたから」
「何でもそこにつなげる」
「便利なのです」
「それも便利って言うんだ」
ニナは呆れたように言いながらも、裁断台の前へ立った。
今日は正式審査用に仕立てている仕事着の、最初の仮合わせをする。昨日裁った灰青の布は、肩と脇だけを粗く縫い合わせ、袖はまだ片方しか付けていない。完成した服には見えないが、動いたときにどこが引かれるかを見るには十分だった。
「着てみてください」
「これ?」
「仮縫いですから」
「片袖ないけど」
「それでよいのです」
ニナは不満そうな顔をしながら上着を羽織った。
前を仮止めし、まず立った姿を見る。肩は合っている。首の後ろにも余計なしわはなく、胸元も窮屈ではない。
「腕を前へ」
「昨日もやった」
「今日は布があります」
「どこまで?」
「両手を前へ伸ばして、それから裁断台の向こうへ届くつもりで」
ニナが腕を伸ばすと、背中の布がわずかに引かれた。
「やはり、もう少し必要ですね」
「何が?」
「肩甲骨のところへ余裕を入れます」
「太く見えない?」
「見せません」
「できるの?」
「そのために仮縫いをしています」
背中の中央を広げるのではなく、肩の動きに沿う位置へ小さな折りを隠す。普段は閉じていて、腕を前へ出したときだけ開く形なら、見た目を大きく変えずに動きやすくできる。
エステルがまち針の位置を直していると、ニナが鏡を見ながら訊いた。
「王女様の服も、こうやって動かすの?」
「最終候補になれば」
「まだ寸法ないんだよね」
「はい。今あるのは公的な衣装寸法だけです」
「じゃあ作れない?」
「完成品は作れませんが、考えることはできます」
「歩く服」
「そうです」
ニナは自分の片袖だけ付いた仕事着を見下ろした。
「王女様も、こういうの着ればいいのに」
「婚礼で?」
「動けるじゃん」
「確かに動けますが、さすがに婚礼らしさが足りませんわ」
「白にしたら?」
「色だけでは」
「長くしたら?」
「裾が邪魔になります」
「じゃあ、後ろだけ長く」
エステルの手が止まった。
「何?」
「いいえ」
「顔」
「禁止です」
「今、何か考えたでしょ」
ニナは妙に鋭い。
エステルは仮縫いの背中へ視線を戻しながら、頭の中で王女の一着を描いた。
前は歩ける長さ。後ろだけ婚礼らしい長い裾。ただし、そのままでは座れない。ならば、後ろの長い部分だけを式の途中で畳めるようにするか、持ち上げるための仕掛けを衣装そのものへ組み込む。
ヴィオラも似た構造を考えていると言っていた。
同じ問題を見れば、似た答えにたどり着くことはある。そこから何を違わせるかは、着る人をどこまで見るかだ。
「ニナ」
「何」
「王女殿下は、指輪を自分で受け取りたいとおっしゃいました」
「うん」
「手袋を式の途中で外したいとも」
「うん」
「もし、手袋そのものを袖へしまえたら?」
「なくさない」
「それだけではなく、誰かへ預けずに済みます」
「自分でできる」
「はい」
ニナは少し考えてから、鏡の中のエステルを見る。
「エステル、王女様の服もう作ってる顔」
「まだ作っていません」
「顔は作ってる」
「どういう意味ですの」
言い返したところで、入口の鈴が鳴った。
朝一番の客かと思ったが、入ってきたのはマダム・ベルナールだった。いつもの濃紺の外套に、ギルドの封蝋が付いた細長い書類筒を持っている。
「おはようございます」
「朝から邪魔するわ」
「珍しいですね」
「ええ。できれば来たくなかった」
その言い方に、エステルは少し身構えた。
「何かございましたか」
「まず、あなたの問い合わせへの返答」
ベルナールは書類筒から一枚の紙を取り出す。
「第一王女殿下は、鈴蘭の大量発注を命じていない」
「やはり」
「ただし、王宮側の正式な発注ではある」
「どういうことでしょう」
「婚礼準備局」
聞き慣れない部署名だった。
「今回の婚礼のために作られた臨時組織よ。王室衣装室、厨房、花卉係、馬車係、儀礼局から人を出して、全体の準備を調整している」
「そこから発注が?」
「正確には、準備局の衣装調整担当から」
「王室衣装室の印があったと、リリは」
「担当者が王室衣装室所属だから」
「殿下が鈴蘭をお好きだという情報は、どこから?」
「候補者面談の記録」
エステルは黙った。
面談には記録係がいた。王女の要望を、候補者だけでなく婚礼準備全体へ共有するために記録すること自体は不自然ではない。
「記録には、何と?」
「『殿下、好みの花として鈴蘭を挙げられる』」
「それだけ?」
「それだけ」
「では、なぜ大量発注に」
「準備局の担当者が、『殿下の意向を反映すべき』と判断した」
悪意ではない。むしろ王女の希望を叶えようとした結果なのだろう。だからこそ、エステルは少しだけ厄介だと思った。
「殿下は何と?」
「今朝、発注を止めた。ただし、すべて取り消すのではなく、予定していた花の一部を鈴蘭へ変更するそうよ」
「それは」
「本人が決めた」
「では、問題ありません」
「そう言うと思った」
ベルナールは、ほんの少し口元を緩める。
「好きだと言った。それを誰かが『婚礼で使いたい』へ変えた。殿下はそこを嫌がったそうよ」
「同じ花でも、違いますから」
「何が?」
「好きなものと、選ぶものは」
ベルナールがエステルを見る。
「あなた、昨日もそれを考えていた?」
「いいえ。リリから聞いて、少し変だと思っただけです」
「なぜ?」
「殿下は、ご自分で決めたい方でしたから」
「一度会っただけでしょう」
「服を作るには、その一度が大切です」
ベルナールは何も言わず、視線を仮縫い中の灰青の仕事着へ移した。
「審査用?」
「はい」
「その子の?」
「はい」
「弟子服」
「違う!」
ニナが即座に言った。
「まだ、です」
エステルが付け足す。
「あなたたち、それをいつまで続けるの」
「正式に決まるまで」
「誰が決めるの?」
エステルとニナが同時に黙った。
ベルナールは額へ手を当てた。
「そこから決めなさい」
「審査のあとに」
「順番?」
「はい」
「リディアの娘ね」
「最近、よく言われます」
「褒めてない」
そう言いながらも、声は以前ほど冷たくなかった。
けれど、ベルナールはまだ帰らない。手元にはもう一つ、封を切っていない書類がある。
「もう一件」
エステルはそちらを見る。
「こちらが、本題でしょうか」
「察しがいいわね」
「顔に」
「出てない」
「そうですか」
「残念そうにしないで」
ベルナールは封を切り、紙を広げる。
「今朝、ギルドへ正式な異議申立てが出た」
「何について?」
「あなたの婚礼衣装選定会への参加資格」
店の空気が少しだけ変わり、ニナが仮縫いのままエステルを見る。
「理由は?」
「三つ」
ベルナールが指を折る。
「一つ。あなたが正式登録前の仮登録者であること。これは規定上、正式審査へ合格すれば問題ない」
「はい」
「二つ。ヴァルクレイ公爵家と継続的な取引関係があり、王族への接触に不公平が生じる可能性があること」
「昨日、公爵様を通さず問い合わせを出したのは、そのためでもあります」
「分かっている」
「三つ目は?」
ベルナールは少し間を置いた。
「祝福」
エステルの目が細くなる。
「選定会では、祝福を使う予定はございません」
「あなたはそう言っている」
「規定にも、魔術的効果を審査対象としないと」
「正式審査はね。婚礼衣装選定会については、祝福を禁止する明文がない」
「では」
「申立人は、あなたが祝縫師としての力を使えば、通常の仕立て師との公平な競争にならないと主張している」
分からない理屈ではなかった。エステル自身、王女の婚礼衣装へ祝福を縫うつもりはない。けれど外から見れば、祝福を縫える仕立て師が王妃から推薦され、公爵家と継続的な関係を持ち、その母はかつて王室の祝縫師だったのだ。疑われる材料は十分にある。
「誰が申立てを?」
「今は伏せられている」
「匿名ですか」
「ギルドには氏名がある。審査が終わるまでは候補者へ開示しない規定よ」
「候補者の誰か?」
「答えられない」
「分かりました」
ニナが不満そうに口を挟む。
「ずるくない?」
「ニナ」
「だって、名前隠してエステルだけ疑うの」
「異議申立ては、誰にでも認められております」
「でも」
「それに、疑問自体は間違っておりません」
エステルはベルナールを見る。
ベルナールが少し眉を上げる。
「そう思う?」
「はい。私が逆の立場なら、同じことを気にするかもしれません」
「じゃあ選定会やめるの?」
ニナが尋ねる。
「いいえ」
「じゃあどうするの」
「説明します」
「何を?」
「祝福を使わずに仕立てることを」
ベルナールは紙を畳んだ。
「それだけでは足りない」
「では、何が必要です?」
「ギルドとしては、選定会の条件へ追加規定を設ける案を考えている」
「追加規定?」
「候補者全員、婚礼衣装の試作および本制作において、祝福、聖別、呪具、魔術補助を使用しないこと。裁断から縫製まで、通常の仕立て技術のみ」
「私は構いません」
「即答ね」
「そのほうが分かりやすいです」
「本当に?」
「はい」
エステルは裁断台の灰青の布へ視線を落とした。
「私は、祝福を縫えるから仕立て師になったのではありません」
「分かってる」
「それなら」
「私が分かっていても、全員がそうではない」
「では、見ていただきます」
ベルナールはしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「マスター・オルセンも同じことを言っていた」
「何と?」
「『針を一本減らしたくらいで縫えなくなるなら、あれは仕立て師じゃない』」
「……母のことも、そのように?」
「もっと酷かったわ」
「でしょうね」
少しだけ笑う。
「追加規定は、今日中に候補者全員へ送る。ただし」
「まだ?」
「申立てには、もう一つ厄介な添付資料がある」
ベルナールが別の紙を出した。
「何でしょう」
「あなたが王宮の旧衣装室へ立ち入り、第一王女殿下の婚礼衣装選定会が始まる直前に、王室の古い婚礼衣装へ接触したという記録」
「母の未完成の衣装を?」
「ええ」
「それがなぜ」
「過去の王室衣装の意匠を利用できる立場にある、という主張」
エステルは今度こそ、少し呆れた。
「それでは、王室衣装室推薦の方はどうなりますの?」
「同じことを私も聞いた」
「何と?」
「申立書には、『王室衣装室所属者は職務として既存意匠を参照する権限があるが、外部候補者への非公開資料閲覧は特別な便宜に当たる』」
「なるほど」
「納得するの?」
「理屈だけなら」
「エステル」
ニナが言う。
「納得しすぎ」
「何でも受け入れているわけではありません」
「顔」
「今は何です?」
「怒ってる」
エステルは少し黙った。
「……少し」
「ほら」
確かに、腹は立っていた。
旧衣装室へ入ったのは、婚礼衣装選定会のためではない。母が十年前に残した証拠を調べるためであり、アルヴィスの呪い、黒糸、王室と教会にまたがる事件を追うためだった。
それを、新しい婚礼衣装のために有利な資料を見せてもらったように書かれるのは、嫌だった。
「その部分については、反論いたします」
「そうしなさい」
「王妃陛下の命により、十年前の事件の証拠確認として立ち会ったこと。選定会への推薦より前から調査が続いていたこと。閲覧したのは母の未完成衣装と事件資料であり、第一王女殿下の婚礼意匠とは関係がないこと」
「あと」
ベルナールが言う。
「その未完成衣装の意匠を、今回使わないこと」
「当然です」
「書面にできる?」
「できます」
「なら今日中に」
「分かりました」
ベルナールはようやく書類をしまった。
「怒らないの?」
ニナが尋ねる。
「怒っております」
「もっと」
「怒鳴る必要はございません」
「でも腹立つでしょ」
「立ちます」
「じゃあ」
「縫います」
「何で?」
「私が仕立て師だからです」
ニナが目を細める。
「それで全部終わらせようとしてる」
「便利でしょう?」
「ずるい」
「それは認めます」
ベルナールが珍しく声を立てて笑った。
「あなた、本当に変わったわね」
「以前は?」
「もっと、自分が悪くないことまで謝りそうだった」
エステルは返事をしなかった。
婚約を破棄された日、稼いだことを恥だと言われ、家を出て、路地裏へ来た。あの頃なら、異議申立てがあっただけで、自分が候補にいること自体が迷惑なのではないかと考えたかもしれない。
けれど、今は違う。
「悪くないところは、謝りません」
「そう」
「ただ、疑われた理由は説明します」
「それでいい」
ベルナールは扉へ向かいかけ、途中で振り返った。
「正式審査、十二日後」
「はい」
「その前に資格停止にはしない。異議申立ての判断は、審査結果と追加規定への同意を見てから」
「承知しました」
「落ちたら全部終わるけど」
「落ちません」
言ってから、エステル自身が少し驚いた。
ベルナールも振り返る。
「言うようになったわね」
「努力いたします、のほうが」
「今のでいい」
ベルナールはそう言って、店を出ていった。
扉が閉まったあと、しばらく静かだった。
「エステル」
「はい」
「落ちない?」
「落ちたくありません」
「今、落ちないって」
「言いましたね」
「自信ある?」
「あります」
「どれくらい」
「この仕事着を、ニナが一日着て働けるくらい」
「分かんない」
「では、完成したら分かります」
ニナは仮縫いの上着を見る。
「これ、審査で見られるんだよね」
「はい」
「わたしも行く?」
「着用者として、動作確認へ来ていただく可能性はあります」
「人いっぱい?」
「それなりに」
「嫌」
「無理には」
「でも行く」
「よろしいのですか?」
「これ、わたしの服でしょ」
「はい」
「なら、わたしが着たほうが分かる」
エステルは少し笑った。
「そのとおりです」
「あと」
「何でしょう」
「変な歩き方しないよう練習する」
「普段どおりで結構です」
「審査なのに?」
「普段どおり働ける服を作っていますから」
「そっか」
ニナは納得すると、片袖しかないまま床へ座った。
「何を?」
「いつもどおり」
「仮縫いで?」
「見るんでしょ」
そう言って裁断台の下の籠へ手を伸ばす。
背中、肩、腰。布が動く方向を、エステルはすぐに追い始めた。
「そこ、引く?」
「少し」
「右?」
「左」
「では、こちらを半分」
「もう直す?」
「今直します」
「店、開いてるけど」
「お客様がいらしたら止めます」
「忙しい」
「仕事ですから」
ニナが笑う。
その午前、エステルは異議申立てへの反論書を作りながら、合間に仮縫いを直し、子どもの上着の繕いを仕上げた。
昼前にはアルヴィスが来た。
「聞いた」
第一声。
「早いですね」
「ギルドから公爵家へも確認が来た」
「旧衣装室の件?」
「ああ」
「どう答えました?」
「事件調査であり、選定会とは無関係。お前への推薦を王妃が決めた時期も、旧衣装室を開けたあとではない」
「あとでは?」
「推薦の打診は前」
エステルが手を止める。
「そうなのですか?」
「聞いていなかった?」
「はい」
「王妃は、お前が正式審査を受けると決まった時点で候補へ入れるよう話していたらしい」
「では」
「旧衣装室へ入ったから推薦されたわけではない」
「それも書面に?」
「王宮側が出す」
「助かります」
「俺は?」
「何がでしょう」
「公爵家との関係」
「取引先です」
「それだけ?」
エステルは一瞬、答えに詰まった。
ニナが奥から顔を出す。
「公爵、今の聞き方ずるい」
「何が」
「絶対それだけじゃないって言ってほしいやつ」
「違う」
「顔」
「お前まで」
アルヴィスの眉間にしわが寄る。
エステルは咳払いをした。
「公爵家は、大切なお客様です」
「公爵家は?」
「公爵様も」
「も?」
「何ですの」
「いや」
アルヴィスは少しだけ満足したように見えた。
「顔」
今度はエステルが言う。
「読むな」
「皆様がされますので」
「それで、異議申立ては」
「通常技術のみでの制作を明文化するそうです」
「困る?」
「全く」
「祝福を使わない?」
「はい」
「王女の婚礼衣装にも?」
「もちろんです」
アルヴィスは少し考えた。
「王女が祝福を望んでも?」
エステルは、そこではすぐに答えなかった。
「選定会の一着には使いません」
「そのあと」
「正式に仕立てることになり、殿下ご本人が望まれたら、その時に改めて考えます」
「断らない?」
「祝福を縫えることを隠すつもりはありません。でも、婚礼だから祝福が必要とは思っておりません」
「十年前があるから?」
「それもあります」
「ほかは」
「服だけで十分なことも、たくさんありますから」
アルヴィスの上着も、祝福ではなく布の重なりと木片、そして普通の縫い目によって彼を守った。
「ニナの仕事着も?」
「祝福は入れません」
「入れられないから?」
「それもあります」
自分のためには祝福できない。けれど、ニナにはできる。
「でも?」
「必要ないと思っています」
ニナがこちらを見る。
「なんで?」
「仕事着は、毎日使います。汚して、洗って、破れたら直して、体が大きくなれば縫い代を出す。祝福の役目が終わる瞬間を決めるより、普通の服として長く付き合ってほしいので」
「祝福ないほうが、いいの?」
「今回は」
「そっか」
ニナは、なぜか少し嬉しそうだった。
「何です?」
「別に」
「顔」
「禁止!」
アルヴィスが小さく笑った。
その日の午後、王宮からもう一通返事が届いた。
今度は、第一王女リュシエンヌ本人からの短い手紙だった。
『ラヴィニア嬢へ。
鈴蘭の件、確認してくださってありがとう。
私は鈴蘭が好きです。
でも、婚礼を鈴蘭で埋めたいとは言っていません。
好きなものを一つ話すたび、それが「王女殿下のご希望」へ変わっていくのは、少し困ります。
ですので、選定会に一つ条件を足しました。
私が言ったことを、そのまま全部使わないでください。
使うなら、なぜ使うのか。
使わないなら、なぜ使わないのか。
あなたたちが考えた理由を、聞かせてください。
追伸。
アルヴィスの変装の話を、もう少し詳しく聞きたいです。』
最後の一文を、エステルは二度読んだ。
「公爵様」
「嫌な予感がする」
「まだ何も」
「顔」
「……殿下が、変装の続きを」
「断れ」
「私が?」
「ヴィオラが話した」
「ではヴィオラ様へ」
「そうしろ」
「でも」
「何だ」
「殿下は、公爵様へ直接聞くかもしれません」
「王宮へ行かない」
「従姉君ですよね?」
「だからだ」
ニナが笑いを堪えながら、王女の手紙を見る。
「選定会の条件、増えた?」
「はい」
「大変?」
「少し」
「嫌?」
エステルは手紙をもう一度読む。
『私が言ったことを、そのまま全部使わないでください。』
夕方の湖の青、鈴蘭、長い袖、外したい手袋、自分で受け取りたい指輪、自分で歩きたいこと、隣に座りたいこと。それらを全部、一着へ入れればよいわけではない。
着る人の言葉を拾うだけでは、仕立てにはならない。
「いいえ」
「じゃあ?」
「面白くなってきました」
「その顔」
「何でしょう」
「ヴィオラみたい」
「それは、少し困りますわ」
けれど、否定はできなかった。
裁断台には片袖だけ付いたニナの灰青の仕事着があり、机には選定会の冊子、その横には異議申立てへの反論書、さらに王女からの手紙が置かれている。やることはまた増えた。それでも今は、不思議と重くなかった。
誰かが「好き」を勝手に「選んだ」ことにする。誰かが「祝福を縫える」を勝手に「使うに違いない」へ変える。誰かが「旧衣装室へ入った」を勝手に「有利な意匠を得た」へ変える。
言葉は少しずつ形を変える。それは、縫い目と同じだった。
表から見れば同じ線に見えても、裏へ返せば、誰がどちらへ針を進めたのか分かることがある。なら、今回も表だけを見ない。
好きなものと選ぶものは違うし、望んだことと決められたことも違う。
エステルは王女の手紙を選定会の冊子へ挟み、それからニナの仮縫いへ戻る。
「もう一度、腕を前へ」
「また?」
「あと少しです」
「ほんと?」
「本当です」
「その聞き方」
「今のは私ですわね」
ニナが笑う。
アルヴィスも、窓辺で少しだけ笑っていた。
店の外では、午後の路地を花籠を持った子どもが走っていく。白い花、黄色い花、青い花。そのどれを選ぶかは、まだ誰にも決められていなかった。




