第30話 仕立て師として、ここに立つ
正式審査の日は、朝から雨だった。
細かな雨粒が路地の石畳を濡らし、店先の軒から一定の間隔で水滴が落ちている。まだ開店前の店内では、ニナが鏡の前に立ち、灰青色の仕事着の袖を何度も上げたり下げたりしていた。
「どうです?」
エステルが尋ねると、ニナは鏡の中の自分を見たまま答えた。
「変じゃない」
「それは、褒め言葉でしょうか」
「かなり」
「でしたら、ありがとうございます」
十二日前に裁ち始めた仕事着は、昨夜ようやく完成した。
灰青色の平織りを使った上着は、腰より少し長い丈で、前を小さな木の留め具で閉じる。袖は手首まであるものの、作業するときには二段階で折り上げられ、肘を曲げても引きつらないよう、裏側にわずかな余裕を持たせてある。
背中には、腕を前へ伸ばしたときだけ開く細い折りを二本。左右の腰には、屈んでも中身がこぼれにくい斜め口のポケット。さらに右の内側には、ニナが母親から受け継いだ真鍮の指ぬきを袋ごとしまえる小さな収納を付けた。
下衣は膝の曲げ伸ばしを邪魔しない幅にし、裏側から薄い帆布で補強している。前裾はごくわずかに短く、後ろは床へ座ったときに腰が出ない程度に長い。その差は立っている状態では、ほとんど分からない。
飾りはない。祝福もない。ただ、ニナが毎日この店で働くために必要だと考えたものだけを、一つずつ縫い込んだ。
「袖、もう一回」
「さっきも確認しましたわ」
「でも審査で取れたら嫌」
「十二回ほど引っ張りました」
「十三回目で取れるかも」
「では、どうぞ」
ニナは袖を折り上げ、留め紐を指へ掛ける。何度も使ったせいで、もう動作に迷いがない。
「ほら」
「問題ありません」
「こっちも」
「はい」
「ポケット」
「昨日、中へ糸巻きを三つ入れて走りましたね」
「四つ」
「いつ増えたのです?」
「エステル見てないとき」
「それは審査とは別に話し合いが必要ですわ」
ニナが笑う。
緊張しているのは見れば分かった。けれど、以前のように「行かない」とは言わなかった。
「本当に来てくださるのですね」
「今さら?」
「人が多いのは嫌だと」
「嫌」
「でしたら」
「でも、わたしの服だから」
ニナは、自分の胸元を軽くつまんだ。
「エステルが一人で説明して、審査する人が『本当に動けるの?』って言ったら、わたしが動けばいいんでしょ」
「そのとおりです」
「じゃあ行く」
短い言葉だったが、エステルには十分だった。
奥の箱から、ふしゅ、と音がする。クッシュが起きたらしい。
「クッシュは?」
「ベッシーさんへお願いしています」
「公爵じゃないんだ」
「今日は重要な日ですので」
「公爵、まだ信用ない」
「店番については」
そこへ、外から扉が二度叩かれた。
開けると、話題にされた本人が立っている。
「聞こえている」
「おはようございます、公爵様」
「誰が信用ない」
「店番」
ニナが即答する。
「今日は店番ではない」
「じゃあ何しに来たの」
「送る」
「誰を?」
「二人とも」
「馬車で?」
「ああ」
「歩いて行けるよ」
「雨だ」
「服の審査なのに濡れたら困るでしょ」
ニナが言い終える前に、自分で納得した顔をした。
「あ、そっか」
「今気づいたか」
「公爵にしては役に立つ」
「ニナ」
エステルが名前を呼ぶと、ニナは口を閉じた。ただし、反省している顔ではない。
アルヴィスは灰青色の仕事着を一度見てから、エステルへ視線を戻す。
「完成した?」
「はい」
「祝福は」
「入れておりません」
「分かっている」
「では、なぜ」
「確認」
「疑われております?」
「逆だ」
アルヴィスは少しだけ間を置いた。
「お前が、入れないと決めたから」
エステルは、その意味をすぐには聞き返さなかった。
祝福が使えるのに使わない。それは、何かを欠いた一着ではない。必要ないと判断したから、使わない。十二日前なら、わざわざ自分へ言い聞かせなければならなかったかもしれない。けれど今は、裁断台の上に畳んだ余り布を見ても迷いはなかった。
「行きましょうか」
「ああ」
「ニナ」
「分かってる」
ニナは一度だけ鏡を見て、それから自分で扉を開けた。
王都仕立てギルドの審査室には、朝から七人の受験者が集まっていた。
審査そのものは一人ずつ行われるが、提出衣装は事前に並べられ、全員の作品へ受付番号が付けられている。女性用の外出着、商人向けの旅行服、冬用の子ども服、料理人の作業上着。どれも用途がはっきりしていて、仕立ても丁寧だった。
エステルは、少しだけ嬉しくなった。
「何で嬉しそうなの」
隣のニナが小声で訊く。
「皆様、きちんと服を作っていらっしゃるので」
「審査だから当たり前じゃない?」
「そうなのですが」
祝福、黒糸、王宮、教会。このところ、服へ別の意味が重なりすぎていた。だから、ただ着る人のために作られた衣装が七着並んでいる光景が、思っていた以上に心地よかった。
「ラヴィニアさん」
受付係に呼ばれる。
「はい」
「着用者の方はこちらへ。説明が終わるまで待機をお願いします」
ニナの顔が強張る。
「一人?」
「隣室です」
「すぐですわ」
エステルが言う。
「呼ばれたら、普段どおりに」
「分かってる」
「無理にきれいに歩かなくて結構です」
「それ、何回目?」
「念のため」
「エステルのほうが緊張してる」
「そうでしょうか」
「顔」
「……今日は認めます」
ニナが少し笑った。
その笑顔を見てから、エステルは審査室へ入る。
中にいたのは五人。中央にマスター・オルセン、右にマダム・ベルナール。残る三人は、縫製、裁断、衣服運用を担当するギルド審査官だった。
卓の上には、エステルが提出した仕事着が広げられている。
「エステル・ラヴィニア」
オルセンが言う。
「始めるぞ」
「よろしくお願いいたします」
「まず、用途」
「仕立て店で働く十四歳前後の少女の仕事着です。掃除、道具の整理、軽い荷運び、縫製作業、近隣への使いを想定しております」
「想定?」
左端の審査官が訊く。
「実在の着用者がおります」
「本人の生活を、そのまま用途とした?」
「はい」
「なぜ」
「実際に着る服だからです」
審査官は何も言わず、紙へ何かを書いた。
「材料」
「王都内で一般流通する灰青色の平織りを主布に、肘と膝の裏側へ薄手の帆布を使用しております。留め具は木製です」
「なぜ綾織りではない」
「着用者が軽さを望みました。綾織りのほうが摩耗には強いのですが、床へ座る、しゃがむ、腕を前へ伸ばす動作が多いため、軽い平織りを選び、摩耗する箇所だけ裏から補強しました」
「着用者が選んだ?」
「二種類を実際に触っていただきました」
「仕立て師の判断より?」
「最終判断は私です。ただ、着る方が何を嫌がるかは、私だけでは分かりません」
オルセンがわずかに口元を動かした。
「続けろ」
次は裁断。前身頃と後ろ身頃の地の目を確認され、縫い代の幅を測られる。審査官は表だけでなく、裏返して内側まで見た。
「背中のこの折りは?」
「腕を前へ出したときの可動域です」
「立位では余る」
「閉じる位置に入れております」
「見た目を細くするため?」
「いいえ。通常時に余計なしわを出さず、必要なときだけ布を使うためです」
「半寸で足りるか」
「着用者の肩幅と腕の長さでは」
「証明できる?」
「はい」
オルセンがベルを鳴らした。
隣室の扉が開き、ニナが入ってくる。途端に、五人の大人の視線が一斉に向いた。
ニナの足が、ほんの一瞬止まる。
エステルは何も言わなかった。助け舟を出せば、余計に意識させる。
ニナは息を一つ吸い、いつもの少し不機嫌そうな顔で中央まで歩いた。
「着用者?」
審査官が尋ねる。
「ニナです」
「姓は」
「ない」
「年齢」
「十三。もうすぐ十四」
「職業」
「……仕立て屋で働いてる」
ニナがエステルを見る。
「弟子?」
オルセンが訊く。
「まだ」
今回は、二人の声が重なった。
ベルナールが目を閉じる。
「そこは審査外にしましょう」
「賛成だ」
オルセンが言った。
「では、動作確認。ラヴィニア、指示を」
「はい。ニナ、まず両腕を前へ伸ばしてください」
いつも店でしているように、ニナが腕を伸ばす。背中の折りが開き、審査官の一人がすぐに近づいて脇から確認した。
「肩線は動かない」
「首も引かれていないな」
「もう少し上へ」
ニナが腕を頭上まで上げる。
「そこまでは想定しておりませんが」
「届かない棚は?」
審査官の問いに、エステルは一瞬考えた。
「店の最上段へ手を伸ばす場合はございます」
「なら想定内だ」
「はい」
腕を上げ切ると、上着全体が少し持ち上がった。
「腰が出る」
審査官が言う。
「半寸ほど」
エステルも見ていた。気づかなかった。店で試したとき、最上段へ届くほど腕を高く上げさせていない。
「不足です」
素直に答えた。
ニナがこちらを見る。
「直せる?」
「後ろ丈ではなく、脇下の可動量を増やします」
「どうやって」
審査官が訊く。
「袖ぐり下へ小さな菱形のまちを入れます。今の袖幅を変えずに、上へ伸ばしたときだけ使える布を増やします」
「見た目は」
「脇ですので、通常はほぼ見えません」
「なぜ最初から入れなかった」
厳しい質問だった。けれど、答えは一つしかない。
「私の確認不足です」
審査室が静かになる。
「失敗を認める?」
オルセンが訊く。
「はい」
「審査品だぞ」
「はい」
「それでも」
「着る方が動けないなら、直すべきです」
オルセンは椅子へ深く座り直した。
「減点になる」
「承知しております」
「怖くないか」
「怖いです」
「なら、隠せばよかった」
「ニナが着れば分かります」
本人が毎日着る。審査の一日だけ見えなければよい服ではない。
「続けろ」
オルセンの声が、少しだけ柔らかくなった。
次はしゃがむ。ニナは迷わず膝を曲げ、床へ座る。
「いつもの姿勢で」
「これ」
片膝を立て、もう片方を折る。後ろ身頃は腰を覆ったまま、前裾は床へ溜まらない。
「前後の丈差は?」
「半寸です」
「立つと分からない」
「分からないようにしました」
「なぜ」
「仕事着として外へ出ることもあるためです。座るためだけの特殊な服に見せたくありませんでした」
「着用者の希望?」
「私の判断です」
「本人は?」
審査官がニナを見る。
「別に」
「別に?」
「変じゃないなら何でもいい。でも、これ座りやすい」
「前の服は?」
「踏むときあった」
ベッシーの証言どおりだった。
「本人が言っております」
エステルが言うと、ニナが睨む。
「笑わないで」
「笑っておりません」
「顔」
「今は審査中です」
ベルナールが咳払いをした。
「続けて」
ポケット。左右へ糸巻きと布切れを入れ、そのまま屈ませる。
落ちない。
次は走る。
ニナが審査室の端から端まで小さく走ると、右ポケットの糸巻きが中で跳ねたが、外へは出なかった。
「走る必要は?」
審査官が訊く。
「あります」
エステルとニナの声が重なる。
「なぜ」
「店の外へお客様を追いかけることがございます」
「忘れ物とか」
ニナが付け足す。
「あと、リリに呼ばれたとき」
「それは仕事でしょうか」
「半分」
「半分?」
「もう半分は?」
オルセンが訊く。
「遊び」
ニナは正直だった。
オルセンが笑いを堪えるように口元を押さえる。
「なるほど」
最後は、内側の小さな収納だった。
審査官が指を差す。
「これは?」
エステルはニナを見る。
「説明しても?」
「うん」
「着用者が大切にしている指ぬきを、袋ごと保管するためです」
「専用収納なら、寸法を合わせればもっと小さくできる」
「中身を服側へ固定したくありませんでした」
「なぜ」
「大切なものの持ち方まで、こちらが決める必要はないと思ったからです」
審査官が少し首を傾げる。
「用途に対して無駄では?」
「収納としては、他の小物にも使えます。ただし位置と補強は、指ぬきの袋を基準にしております」
「着用者」
オルセンがニナを見る。
「それが必要か」
「いる」
「理由」
「落としたくないから」
「普通のポケットでは?」
「そこに他のもの入れる」
「だから、分けたい?」
「うん」
オルセンは頷いた。
審査官たちが紙へ記録する。エステルは、その時間が妙に長く感じられた。
祝福はなく、奇跡も起きない。布が光ることもなければ、糸が勝手に動くこともない。ただ五人の仕立て師が、一着の縫い目を見ている。それだけなのに、エステルはずっと、こうして服そのものを見てほしかったのかもしれないと思った。
「ラヴィニア」
オルセンが呼ぶ。
「はい」
「最後に、この一着で最も重要な箇所を一つ挙げろ」
エステルは仕事着を見る。
袖、背中、膝、ポケット、内側の収納。どれも必要だった。
「一つですか」
「一つだ」
少し考える。
「縫い代です」
答えた。
審査官の一人が眉を上げる。
「見えないところか」
「はい」
「なぜ」
「ニナは、まだ十三歳です」
本人が、少し嫌そうな顔をする。
「これから背も伸びますし、体つきも変わります。ですから脇、袖、裾に通常より広めの縫い代を残しました」
「大きくなったら出す?」
「はい。今の体へきれいに合わせながら、次の体にも少しだけ残しておきます」
「どれくらい着せるつもりだ」
「直せる限り」
オルセンがゆっくり笑った。
「悪くない」
その言葉に、ニナがぴくりと反応した。エステルも同時に思った。アルヴィスなら、今ので一つ数えただろう。
「ただし」
オルセンの声が戻る。
「脇下の可動量不足。そこは減点だ」
「はい」
「審査後、直せ」
「もちろんです」
「審査が終わったからと放置したら?」
「ニナに怒られます」
「エステルにも怒る」
ニナが付け足す。
「なら大丈夫そうだ」
審査は、それで終わった。
結果は午後。七人全員の審査が終わったあと、掲示される。
待っている間、エステルとニナはギルド近くの小さな食堂へ入った。アルヴィスは「審査室の前にいると圧力になる」と自分で言い、少し離れた公爵家の事務所で待っている。
「減点」
スープを前に、ニナが言う。
「はい」
「落ちる?」
「分かりません」
「さっき落ちないって言ってたのに」
「落ちないつもりで作りました。でも、審査は私が決めるものではありません」
「脇、そんなに駄目だった?」
「駄目です」
「ちょっと腰見えただけ」
「仕事中に何度も棚へ手を伸ばせば、そのたびに服全体が引かれます。肩も疲れます」
「わたし、平気だけど」
「今は」
エステルはスープを一口飲む。
「服は、平気だから我慢するものではありません」
「でも」
「直せます」
「落ちても?」
「直します」
「審査のためじゃない?」
「ニナの服ですから」
ニナは黙る。
しばらくして。
「じゃあ、落ちても着る」
「もちろん」
「でも」
「はい」
「落ちたら嫌」
「私もです」
「すごく?」
「かなり」
ようやく、ニナが少し笑った。
「顔に出てない」
「今日は、頑張っております」
「何を?」
「平静を」
「出てるけど」
「……そうですか」
午後三刻、掲示板の前へ戻ると、すでに人だかりができていた。
七人の受験者、家族、店の仲間、ギルド職員。エステルは人の間から紙を見る。
番号。一、二、三。
自分は五番。
上から追う。
『一番 合格』
『二番 合格』
『三番 不合格』
『四番 合格』
五番。
『五番 合格』
その下には、『要修正箇所一件。正式登録は修正確認後に発効』とある。
張り詰めていた息が、少しだけ抜けた。
「エステル」
「はい」
「受かった?」
「はい」
「ほんと?」
「本当です」
「やった」
ニナが腕へ抱きつきかけて、途中で止まった。
昔の癖だった。人に触れることを、直前で考える。
エステルは、自分から両腕を少しだけ広げた。
「今日は、よろしいのでは?」
「……いいの?」
「はい」
次の瞬間、ニナがぎゅっと抱きついた。
ほんの短い時間だった。
「重くない?」
「全く」
「子どもじゃないから」
「存じています」
「十三だけど」
「存じています」
離れたニナは、少しだけ顔が赤い。
「誰にも言わないで」
「何を?」
「今の」
「見られております」
周囲では、何人かが微笑んでいる。
「最悪」
「よいことですわ」
そこへベルナールが来た。
「喜ぶのは、まだ早いわよ」
「脇下ですね」
「ええ。明日の夕方までに修正して持ってきなさい」
「本日直します」
「でしょうね」
「それから」
ベルナールは、もう一枚の紙を差し出す。
「異議申立てについて、ギルドの判断が出た」
エステルが受け取る。
『エステル・ラヴィニアの第一王女婚礼衣装選定会への参加資格について、正式審査合格および追加規定への同意を条件として、参加を認める』
続いて、『候補者全員、選定会に提出する意匠および試作について、祝福、聖別、呪具、魔術補助を使用しないこと』とある。
さらに、『旧王室衣装室における事件調査資料は、選定会制作へ流用しないこと。ただし、事件関係者として閲覧した事実そのものは参加資格を損なうものではない』。
「つまり」
「修正確認が終われば、正式参加」
「はい」
「三日後よ」
「承知しております」
「間に合う?」
「間に合わせます」
「王女殿下の条件も増えた」
「手紙をいただきました」
「なら知ってるわね」
ベルナールは、少しだけ笑った。
「正式な仕立て師になる前から、ずいぶん大きな仕事を抱えたものね」
「まだ正式では」
「明日にはなるでしょう」
「直せば」
「直すんでしょう?」
「はい」
「なら、そういうことよ」
ベルナールは離れていった。
ニナが紙を横から覗く。
「これで王女様の服、作れる?」
「選定会へは出られます」
「勝てる?」
「それは、まだ」
「落ちないって言ったみたいに言わないの?」
エステルは少し考える。
「勝ちたいです」
「弱い」
「では」
もう一度考える。
「私の一着を、きちんと見ていただきます」
「それ、エステルっぽい」
「褒めております?」
「かなり」
店へ戻る前に、公爵家の事務所へ寄った。
アルヴィスは、執務机の向こうで書類を読んでいた。
「どうだった」
顔を上げるより先に聞く。
「合格しました」
紙を置く。
アルヴィスの視線が結果通知へ落ちる。
「ただし一箇所、修正があります」
「どこ」
「脇下」
「なぜ」
「腕を高く上げたとき、腰が少し引かれました」
「直せる?」
「はい」
「ならいい」
「それだけですか?」
「何を言えばいい」
「いえ」
「おめでとう」
思っていたより、すぐに出た。
エステルが少し驚く。
「何だ」
「いえ」
「言えという顔だった」
「顔は」
「今日は読ませろ」
エステルは笑った。
「ありがとうございます」
「それと」
アルヴィスが机の横から細長い包みを出す。
「何でしょう」
「受け取れ」
「私が?」
「ああ」
「何を?」
「開ければ分かる」
「公爵様」
「何だ」
「最近、受け取る練習をしているからといって、人へ渡すほうまで急に上達しなくてよいのですよ」
「いらない?」
「そうは言っておりません」
「なら」
机へ置かれた包みを、エステルは少し迷ってから受け取る。
軽い包みの紐をほどくと、中に入っていたのは細長い木製の服飾用定規だった。角は少し丸く、一寸ごとに細かな刻みが入っている。
「これは」
「公爵家の備品ではない」
「分かっております」
「祝い」
「正式登録は明日です」
「今日、合格した」
「でも」
「返すか?」
その聞き方は、ずるい。ニナがいたら絶対に言っただろう。
「……いただきます」
「そうか」
「ありがとうございます」
エステルは定規をもう一度見る。
「とても使いやすそうです」
「セドリックが選んだ」
「公爵様では?」
「俺が頼んだ」
「それなら、公爵様からです」
「そうなる?」
「そうなります」
アルヴィスが少しだけ視線を逸らす。
「悪くない」
エステルは思わず笑った。
「何だ」
「ニナがいれば、数えていました」
「何を」
「悪くない、です」
「忘れろ」
「難しいですわ」
右の白いポケットは返すための場所で、左の青灰色のポケットは受け取るための場所だ。今日、アルヴィスは自分から渡し、エステルも受け取った。
祝福は何もなく、定規もただの木だ。けれど、それでよかった。
「店へ戻ります」
「脇を直す?」
「はい」
「今夜中?」
「できれば」
「寝ろ」
「公爵様も」
「俺は寝る」
「本当に?」
「その聞き方」
「必要です」
いつもの言い合いが、今日は少しだけ嬉しかった。
店へ戻ると、ベッシーとリリが待っていた。どうやって知ったのか、リリは白い小さな花を一本、ベッシーは大きな塩パンを三つ持っている。
「合格!」
扉を開けるなり、リリが言った。
「まだ修正が」
「受かったんでしょ?」
「はい」
「じゃあ合格!」
白い花を差し出され、エステルは受け取る。
「ありがとうございます」
「公爵にあげないでよ」
「今日は私のですわ」
「ならいい」
ベッシーが塩パンを机へ置く。
「祝いだ。食べな」
「三つ?」
「一つはあんた。一つはニナ。一つは」
「クッシュ?」
「ハリネズミに塩パン食わせるんじゃないよ」
「では」
全員が同じ方向を見る。
少し遅れて、アルヴィスが店へ入ってきた。
「なぜ俺を見る」
「一つ余っております」
「俺の?」
「たぶん」
ベッシーが言う。
「嫌ならあたしが食べるよ」
「食べる」
「最近素直だねえ」
「パンでまで言われるのか」
「いいことだろ」
ニナが笑う。
エステルは裁断台へ灰青色の仕事着を置いた。
「ニナ」
「何」
「脇、直します」
「今?」
「はい」
「パン先」
「あとで」
「冷めるよ」
「では半分」
「全部食べてから」
「ニナ」
「審査の人が、休む時間も服に必要って言ってなかった?」
「言っておりません」
「でも着る人には必要」
言い返せない。
エステルは少しだけ考えた。
「……食べます」
「よし」
「なぜニナが」
「着る人だから」
店の中へ笑いが広がる。
エステルは塩パンを一つ受け取った。焼きたてではないものの、まだ十分に温かかった。
明日、脇下のまちを直し、ギルドで確認を受ければ、仮登録の札が正式登録へ変わる。三日後には第一王女の婚礼衣装選定会、その先にはもっと大きな仕事と難しい服が待っている。王宮の地下にも、まだ解かなければならない古い縫い目が残っている。
けれど今だけは、それらを全部、机の外へ置いておくことにした。
今日は、一着をきちんと見てもらえた日だ。
祝福ではなく、母の名前でもなく、公爵家の後ろ盾でもない。自分の裁断、自分の縫い目、自分の説明。そして、ニナが実際に動いて証明してくれた一着。
「エステル」
「はい」
「明日直したら」
「はい」
「これ、もう着ていい?」
ニナが灰青色の仕事着を見る。
「もちろんです」
「店で?」
「そのために作りました」
「汚れても?」
「仕事着ですから」
「破れたら?」
「直します」
「背が伸びたら?」
「縫い代を出します」
「もっと伸びたら?」
「そのときは、新しく作りましょう」
「ただで?」
「給金から」
「えっ」
ニナが本気で嫌そうな顔をした。
「冗談ですわ」
「分かりにくい!」
「少し上達したでしょう?」
「何が?」
「冗談」
「まだ」
アルヴィスが言った。
「公爵様まで」
「事実だ」
「では、公爵様にも次の服は有料で」
「今までも払っている」
「床代込みで?」
「床は別だ」
「まだ直っておりません」
「直す」
「いつ?」
「そのうち」
「それは信用できない」
ニナが言う。
「お前に言われたくない」
「わたしは今日ちゃんと審査行った」
「俺も仕事をしていた」
「床は?」
「……」
ベッシーが腹を抱えて笑い、リリもつられて笑う。エステルも、とうとう堪えられなくなった。
笑いながら、路地裏へ来た日のことを思う。
あの日、この店には何もなかった。古い裁断台、軋む床、少しの布、母の針。それだけだった。
今は人がいて、服があり、仕事があり、笑い声まである。
そして明日から、エステル・ラヴィニアは仮ではなく、正式な一人の仕立て師としてこの店に立つ。そのことが、思っていたよりもずっと嬉しかった。




