第31話 一着に、全部はいらない
翌朝、エステルは開店前の店で、ニナの仕事着の脇下へ最後のまちを縫い付けていた。
正式審査で指摘されたのは、腕を高く上げたときに上着全体が引かれ、後ろの腰がわずかに持ち上がることだった。普段の掃除や縫い仕事では問題がなくても、棚の最上段へ手を伸ばす動きまで考えれば、確かに足りない。
昨夜のうちに一度ほどき、袖ぐりの下へ小さな菱形の布を入れた。表から見ればほとんど分からないが、腕を上へ伸ばしたときだけ布が開き、肩から腰へかかる力を逃がす仕組みだ。
「終わった?」
鏡の前で待っていたニナが尋ねた。
「もう少しです。糸始末だけ」
「昨日からそれ言ってる」
「昨日は仮止めでした」
「今日も朝からずっと」
「十五分ほどですわ」
「長い」
「公爵様の採寸よりは短いです」
「比べる相手がおかしい」
最後の糸を内側へ引き込み、切る。
「では、着てみてください」
ニナは上着を羽織ると、もう慣れた手つきで前の留め具を閉じた。袖を折らずに伸ばし、エステルが何か言う前に両腕を頭上へ上げる。
「どうです?」
「前より楽」
「腰は?」
「出てない?」
「はい」
「じゃあ終わり?」
「もう一度、棚へ」
「ほんとに細かい」
文句を言いながら、ニナは反物棚の最上段へ手を伸ばした。
指先が棚板へ触れる。以前なら上着の裾が引かれていたが、今は脇下のまちがきれいに開き、背中の折りと一緒に動きを受け止めている。腕を下ろせば、まちは自然に閉じた。
「これなら大丈夫です」
「やっと?」
「やっとです」
「じゃあ、今日から着ていい?」
「ギルドで確認を受けてから」
「まだ?」
「今日で正式登録になりますから」
ニナは鏡に映る自分を見た。昨日までは審査品だった服が、今日から本当に自分の仕事着になる。そのことが嬉しいのだろう。表情を隠そうとしているのに、何度も袖口やポケットへ触れている。
「ニナ」
「何」
「似合っておりますよ」
「……知ってる」
「そうですか」
「昨日、リリにも言われた」
「でしたら、私が言う必要はありませんでした?」
「別に、言ってもいい」
その返事に笑いながら、エステルは裁縫箱を閉じた。
ギルドへ持っていくのは、修正した仕事着と昨日の審査票、それから正式登録に必要な銀貨数枚。仮登録のときより手続きは少ないらしい。
「店は?」
ニナが尋ねる。
「午前だけ閉めます」
「ベッシーさんには?」
「伝えてあります」
「クッシュ」
「リリが見てくださるそうです」
「公爵じゃないんだ」
「なぜ皆様、公爵様へ店番をさせたがるのでしょう」
「できないから」
「できないことを確認したい?」
「ちょっと」
「趣味が悪いですわ」
そこへ、入口の向こうから二度、控えめな音がした。
扉を開けると、セドリックが立っていた。
「おはようございます、エステル様」
「おはようございます」
「閣下より」
差し出されたのは、小さな紙袋だった。
「何でしょう」
「朝食を食べてから行くように、とのことです」
袋の中には、まだ少し温かい小さなパンが二つ入っている。
「……公爵様が?」
「はい」
「ご自分は?」
「すでに召し上がっております」
「本当に?」
セドリックが、ほんのわずかに笑った。
「今朝は、私が見届けました」
「そこまで」
「閣下も最近、周囲から確認されることに慣れてこられましたので」
「それはよいことですわ」
「よくない」
ニナが横から言う。
「何がです?」
「公爵、また人に渡すの上手くなってる」
「よいことでは?」
「エステルが甘やかす」
「私が?」
「そう」
セドリックは何も言わなかったが、口元だけは完全に笑っていた。
「では、閣下には受け取ったとお伝えください。ありがとうございます、と」
「承知しました」
「それから、昨日いただいた定規は今日も使います、と」
「それもお伝えします」
セドリックが帰ると、ニナはすぐ紙袋を覗き込んだ。
「一個わたし?」
「二つございますので」
「公爵、分かってる」
「何を?」
「エステル、一人だと朝食抜くから」
「抜きません」
「昨日」
「昨日は審査でしたので」
「一昨日」
「……選定会の図案を」
「ほら」
反論できなかった。
結局、二人でパンを食べてから店を出た。
雨は上がっていた。昨日の名残が石畳に薄く残り、朝の光を反射している。ニナは新しい仕事着の裾を気にしながら歩いていたが、しばらくするとそれも忘れたのか、いつもの速さへ戻った。
王都仕立てギルドへ着くと、昨日の受付係がすぐに審査票を確認した。
「修正品はこちらへ」
案内された小部屋には、マスター・オルセンと縫製担当の審査官がいた。
「早いな」
オルセンが言う。
「昨日のうちにほどきました」
「寝たか?」
「寝ました」
「何刻」
「……五刻」
「少ない」
「公爵様と同じことを」
「まともなことを言う公爵だな」
「最近は」
「最近?」
「いえ」
ニナが笑いを堪えている。
「着せろ」
「はい」
昨日と同じ動作確認をする。腕を前へ伸ばし、次に頭上へ。そのまま棚へ届くつもりでさらに上げると、脇下のまちが開き、今度は腰の位置がほとんど動かなかった。
審査官が横から布の余裕を確かめる。
「腰は上がらない。まちの角は?」
「内側へ三角の当て布を入れております」
「糸は」
「主布より一段太いものを使いました」
「表からは見えないな」
「はい」
審査官が頷くと、オルセンが昨日の審査票へ短く何かを書いた。
「よし」
「それは」
「修正確認済みだ」
紙の下には、『正式登録可』と書かれていた。
昨日「合格」を見たときとは少し違う、静かなものが胸へ入ってくる。
「ラヴィニア」
「はい」
「登録料」
「こちらに」
「札を出す」
受付係が奥から、小さな木箱を持ってきた。
中には銀色の札が入っている。仮登録のものより少し厚く、表には『王都仕立てギルド』、裏には『エステル・ラヴィニア』と登録番号が刻まれていた。
「これで今日から正式登録仕立て師だ」
オルセンが言う。
「はい」
「返事だけか」
「……ありがとうございます」
「俺に礼を言うな」
エステルは手のひらの銀札を見る。
「では、嬉しいです」
「それでいい」
オルセンは鼻を鳴らした。
「母親の名前で取った札じゃない。祝福で取った札でもない。昨日の減点込みで、お前の服が取った札だ」
「はい」
「忘れるな」
「忘れません」
「あと、仕事を詰め込みすぎるな」
「それは」
「王女の選定会、明後日だろ」
「はい」
「返礼室の調査もある」
「はい」
「店もある」
「はい」
「弟子も」
「まだ!」
ニナが叫ぶ。
オルセンが眉を上げる。
「そこだけ元気だな」
「違うから」
「では何だ」
「店で働いてる」
「給金は」
「もらった」
「教わってる?」
「……ちょっと」
「針持ってる?」
「持ってる」
「弟子だな」
「違う!」
エステルは笑いを堪えた。
「マスター・オルセン。正式な弟子入りについては、本人ときちんと話してからにいたします」
「当然だ」
「ですので、今は」
「まだ、か」
「はい」
「好きにしろ」
オルセンは面倒そうに手を振った。
登録手続きが終わると、ニナはすぐに銀の札を見せてほしいと言った。
「店に飾る?」
「携帯するものです」
「ずっと持つ?」
「はい」
「なくしたら?」
「再発行できますが、怒られます」
「じゃあ内ポケット作る?」
言われて、エステルは自分の服を見る。
「……よいかもしれません」
「今までなかったの?」
「仮登録札は裁縫箱へ入れておりました」
「持ち歩くのに?」
「必要なときだけ」
「じゃあ、わたしの指ぬきと同じ」
「そうですね」
「エステルも作ればいいじゃん。大切なものを入れる場所」
エステルは少しだけ黙った。
ニナの仕事着には、母親から受け継いだ指ぬきの袋をしまうため、小さな内ポケットを作った。服の都合で、大切なものの持ち方まで決めたくなかったからだ。
けれど自分には、そういう場所がない。
「今日、作ります」
「ほんと?」
「はい」
「自分の服に?」
「普通のポケットですから。祝福は必要ございません」
「エステル、自分のためには祝福縫えないもんね」
「そうです」
「普通のなら作れる」
「はい」
そんな当たり前のことを、なぜか今まであまり考えなかった。
自分のための一着には祝福が宿らない。だからどこかで、自分の服は後回しにしていたのかもしれない。
「ニナ」
「何」
「帰ったら、私の上着も少し直します」
「審査より先?」
「選定会の作業を始める前に」
「珍しい」
「そうでしょうか」
「かなり」
店へ戻る途中、リリが花籠を抱えて向こうから走ってきた。
「取れた?」
まだ何も言っていない。
「何が?」
「札!」
「なぜご存じなのです」
「ギルドの前で聞いた」
「誰に?」
「知らないおばさん」
「情報が早すぎますわ」
「見せて!」
仕方なく銀札を見せると、リリは目を丸くした。
「おお」
「何です、その反応」
「本物っぽい」
「本物です」
「これで、ちゃんと仕立て屋?」
「昨日までも仕立て屋でした」
「でも今日からもっと?」
「正式登録です」
「じゃあ、お祝い」
花籠から白い小さな花を一本差し出す。
「昨日もいただきました」
「昨日は合格。今日は正式」
「分けるのですね」
「違う日だから」
「ありがとうございます」
受け取ると、リリは今度はニナの服を見た。
「直した?」
「分かる?」
「昨日より腕上がる」
「見ただけで?」
「昨日、ギルドの前で上げてたから」
「見てたの?」
「ちょっと」
「言ってよ!」
「緊張してたから」
「最悪」
「でも似合ってる」
「……知ってる」
「誰に言われた?」
「いっぱい」
「じゃあ、あたしも言う」
路地の真ん中で二人が言い合うのを、エステルは少し離れて眺めた。
「何?」
ニナが気づく。
「いえ。今日は、よい日だと思いまして」
「それだけ?」
「はい」
「ほんと?」
「本当です」
今度はエステルのほうが疑われた。
店へ戻ると、ベッシーがすでに入口へ小さな紙を貼っていた。
『本日より正式登録仕立て師』
「ベッシーさん!」
「何だい」
「いつの間に」
「ギルド帰りの客が言ってた」
「まだ私たちも戻っておりませんでしたのに」
「いいことは早く出したほうがいい」
「恥ずかしいです」
「昨日まで散々、祝福だ公爵だ王宮だって噂されたんだ。こういう普通の話くらい、大きく出しな」
普通の話。
その言葉が少し嬉しかった。
「では」
「剥がす?」
「……今日だけ」
「よし」
ニナが笑う。
「エステル、甘い」
「今日だけです」
「明日も貼っとくか」
「ベッシーさん」
結局、その紙は昼まで入口に残った。
そして、思っていた以上に客が来た。
子どもの上着。男物の袖詰め。古いワンピースの裾直し。新しい注文でも、高価な仕事でもない。
それでも登録札を見て、「正式になったんだね」「おめでとう」と、いつもの路地の人たちが服を置いていく。
エステルは一つずつ受け取った。
昼過ぎ、ようやく客足が途切れたところで、裁断台の上へ第一王女の婚礼衣装選定会の書類を広げた。
期限は明後日。
提出するのは意匠図、布見本、構造説明、それから上半身の試作一部。
「やっと始める?」
ニナが尋ねる。
「はい」
「まだ何もない?」
「考えてはおります」
「見せて」
「まだです」
「何で」
「決まっていないから」
「昨日、いっぱい描いてたじゃん」
「全部、捨てます」
「え」
エステルは紙束を裁断台へ出した。
十枚以上ある。
夕方の湖を思わせる青、鈴蘭の刺繍、長い袖、手袋をしまう場所、長い後ろ裾、座るときに畳む仕組み、新郎の隣へ座れる幅、王家の紋章、婚礼らしい銀糸。
どれも、王女が話したことから拾ったものだった。
「これ、いいじゃん」
ニナが一枚を取る。
腰から後ろ裾が扇状に広がる案。
「このままでも」
「駄目です」
「なんで?」
「全部入っています」
「全部入れたら、王女様喜ぶんじゃないの?」
「殿下が、そうしないでくださいと」
「あ」
王女の手紙。
『私が言ったことを、そのまま全部使わないでください。』
「でも、好きって言ったんでしょ」
「はい」
「じゃあ入れても」
「好きだから使う、だけでは足りません」
鈴蘭を使う理由。
夕方の湖の青を使う理由。
長い袖を残す理由。
それぞれが一着の中で別の方向を向けば、ただ希望を並べただけになる。
「ニナ」
「何」
「殿下が一番したいことは、何だと思います?」
「歩く」
すぐに答えた。
「もう一つ」
「隣に座る」
「はい」
「指輪、自分で取る」
「それも」
「いっぱいある」
「そうなのです」
一つではない。
けれど一着には、芯が一つ必要だった。
「公爵様の服のとき」
エステルは、灰色の防護服を思い出す。
奪い糸を体へ届かせない。
目的が一つだったから、布も木片も縫い目も、すべて同じ方向を向いた。
「婚礼衣装も」
「呪い防ぐの?」
「違います」
「じゃあ」
「殿下が、自分で歩く」
「それじゃん」
「でも、それだけでは普通の歩きやすい服です」
「王女様だから?」
「婚礼だからです」
殿下は、婚礼らしさも欲しいと言った。
「自分で歩ける婚礼衣装」
紙へ書く。
「それだけ?」
「まずは」
「鈴蘭は?」
「いったん消します」
「青は?」
「それも」
「手袋の袋」
「残すかもしれません」
「何で」
「自分で受け取る、につながるから」
ニナが少し考える。
「じゃあ、王女様が自分でできることだけ残す?」
エステルの手が止まった。
「もう一度」
「え?」
「今のです」
「自分でできること?」
「はい」
歩く。
座る。
手袋を外す。
指輪を受け取る。
新郎の隣へ戻る。
全部に共通している。
王女が、誰かにしてもらうのではなく、自分でしたいこと。
「これです」
「何が?」
「一着の芯」
エステルは新しい紙へ書いた。
『自分でできる婚礼衣装』
「名前、地味」
「題名ではありません」
「でも地味」
「中身が大切です」
「王女様に見せるんでしょ」
「説明用です」
「じゃあもっと」
「ニナ」
「何」
「今、考えますので」
「はいはい」
ニナはクッシュの箱へ向かった。
エステルは新しい紙へ線を引く。
まず前裾は、自分で歩ける長さにする。足先へ絡まず、階段でも持ち上げなくてよい形。ただし短くしすぎれば、婚礼衣装らしい重みが失われる。
後ろは長く残す。
けれど、介添人には持たせない。
王女自身が扱えるようにする。
後ろ裾を引き上げる仕組みを作るとしても、腰の後ろに留め具があれば自分では届きにくい。紐を前へ回せば操作できるが、長い裾の重さを腰だけで支えれば疲れる。
「違う」
思わず呟く。
「何が?」
ニナがすぐ戻ってきた。
「裾を上げるだけでは、重いままです」
「じゃあ軽い布」
「婚礼衣装らしい落ち感がなくなります」
「二枚にしたら?」
「二枚?」
「外だけ軽くて、中は普通」
また手が止まる。
外側は長く、婚礼らしい薄い布。
内側は歩くための本体。
「二重構造」
「駄目?」
「いいえ」
ヴィオラも似た構造を考えていた。
けれど目的が違えば、縫い方は変わる。
ヴィオラは式と晩餐で姿を変えるために畳む。エステルは、王女本人が自分で扱うために畳む。
「外側の重さを、肩と背中と腰へ分けます」
「三つ?」
「はい。腰だけで持たせません」
肩から背中へ、見えない内帯を通す。
長い外裾は薄手の布を使い、左右へ細い引き紐を入れる。その紐を脇から前へ通せば、王女が自分の手で引ける。
引けば、後ろ裾が柔らかな襞になって持ち上がる。
祭壇へ向かうときは長い。
階段や晩餐では、自分で短くできる。
「これ、面白い」
ニナが覗き込む。
「まだ構造だけです」
「鈴蘭ない」
「なくてもよいと思っています」
「青も」
「青は、裏地へ」
「見えないじゃん」
「見えなくてよいのです」
「何で?」
「殿下が知っていれば」
夕方の湖の青は、誰かに見せるための色ではない。
王女が好きだと言った色だ。
ならば、裾を持ち上げたとき、座ったとき、手袋をしまうとき。自分だけが少し見える場所にあるほうが、むしろ似合う気がした。
「鈴蘭は?」
「婚礼衣装には縫いません」
「全部?」
「はい」
「なんで」
「好きな花なら、服へ縫い付けて動けなくする必要はございません」
「じゃあ生花?」
「当日、殿下がお持ちになりたいなら」
「服じゃない」
「服に全部入れる必要はありませんから」
ニナが、なるほどという顔をする。
「一着に全部はいらない」
「はい」
「じゃあ王家の紋章も消す?」
「それは残します」
「殿下、大きいの嫌って」
「ええ」
「じゃあ小さく?」
「いいえ」
「何で」
「必要だからです」
エステルは紙の背中側へ、王家の花紋を描く。
「殿下が王女であることを隠すための服ではありません。王女として、ご自分の足で歩くための婚礼衣装です」
「だから紋章いる?」
「はい」
「嫌がるかも」
「説明します」
「何て」
「これは、諦めていただきたいところです、と」
王女の言葉を思い出す。
『何かを諦めさせるなら、理由を教えてください。』
「なるほど」
ニナが珍しく、すぐに納得した。
午後が進む。
線が増えるたび、最初の案より飾りは減っていった。
鈴蘭の刺繍は消えた。
胸元の銀糸も減らした。
夕方の湖の青は裏へ移した。
長い袖は残したが、手首へ小さな切り替えを入れ、自分で手袋を外しやすくした。その手袋は袖の内側へしまえる。
残したものには、理由がある。
消したものにも、理由がある。
それが、少しずつ一着へ見えてくる。
「やってるわね」
夕方近く。
聞き慣れた声がした。
ヴィオラだった。
「いらっしゃいませ」
「客じゃない」
「では、何でしょう」
「偵察」
「堂々と言うのですね」
「隠しても意味ないから」
彼女は裁断台へ近づき、エステルの胸元を見る。
「正式札」
「今日からです」
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「減点一個」
「ご存じなのですか」
「ギルドにいたから」
「見ていた?」
「結果だけ。修正した?」
「今朝」
「早い」
「同じことを言われました」
ヴィオラの視線が意匠図へ移る。
「見ていい?」
「候補者同士ですけれど」
「嫌なら見ない」
エステルは少し考えた。
「構造の途中までなら」
「私も見せる」
「では」
ヴィオラは一枚だけ手に取った。
「二重」
「はい」
「裾を畳む」
「はい」
「似た」
「そうですね」
「真似した?」
「しておりません」
「知ってる」
「でしたら聞かなくても」
「言いたかった」
ヴィオラは自分の紙も出す。
彼女の案も、後ろ裾を畳める二重構造だった。
ただし、操作は侍女がする。
腰の後ろへ隠した三つの留め具で、長い裾を短い礼装へ変える仕組み。
「私のは、式と晩餐で姿を変える」
「美しいです」
「あなたのは?」
「殿下ご本人が、自分で変えます」
ヴィオラの目が止まる。
「前から?」
「左右の紐を」
「重い」
「肩と背へ逃がします」
「外布を薄く?」
「はい」
「なるほど」
しばらく無言で図を見る。
「負けたくない」
ヴィオラが言った。
「私もです」
「でも、その案は好き」
「私もヴィオラ様の案は好きです」
「困る」
「何が?」
「嫌いな相手なら楽なのに」
「競争相手ですから」
「敵じゃない?」
「今のところ」
「今のところ、なんだ」
「選定会ですので」
ヴィオラが笑った。
「そのくらいでいい」
そして、紙を返す。
「一つだけ」
「はい」
「王女本人が紐を引くなら、手袋を外す前と後、どっち?」
エステルが止まる。
「……式の途中なら」
「指輪を受け取る前?」
「その可能性があります」
「手袋してたら、細い紐つかみにくい」
「確かに」
「太くすると見える」
「では」
「考えて」
「教えてはくださらない?」
「競争相手だから」
「今のところ敵ではないのに」
「それとこれは別」
ヴィオラは満足そうだった。
「ありがとうございます」
「感謝されると変な感じ」
「でも、助かりました」
「なら選定会で返して」
「何を?」
「私の案の駄目なところ」
「見つけたら」
「必ず」
「分かりました」
ヴィオラが帰ったあと、エステルは手袋と引き紐の問題を考え直した。
細い紐。
手袋。
掴みにくい。
「輪っか」
ニナが言う。
「何です?」
「紐の先、輪にすればいいじゃん」
「指を入れる?」
「うん」
「手袋でも」
「引ける」
エステルはすぐに描き直した。
「採用します」
「ほんと?」
「はい」
「選定会の服に?」
「まだ試作してからですが」
「じゃあ、わたし手伝った?」
「かなり」
「給金」
「そこですか」
「仕事なら」
「では、意匠補助として」
「いくら?」
「ニナ」
「冗談」
「最近、上達しましたね」
「エステルより?」
「それは認めたくありません」
日が暮れるころ。
意匠図の大枠ができた。
エステルは椅子から立ち、固まった肩を回す。
「終わり?」
「今日はここまで」
「珍しい」
「明日、試作します」
「夜やらない?」
「やりません」
「公爵に言われた?」
「いいえ」
「ほんと?」
「……少し」
「やっぱり」
ニナが笑う。
そのとき、エステルは朝の約束を思い出した。
「私の上着」
「忘れてた?」
「忘れては」
「顔」
「はい。少し」
自分が着ている淡い茶色の上着を脱ぐ。
内側。
左胸の下。
表から響かない位置。
「ここへ」
正式登録札を入れるための、小さな内ポケット。
「自分で縫う?」
「はい」
「わたしやる?」
「これは、私が」
「何で?」
エステルは銀札を見る。
「今日いただいたものですから」
「自分のため?」
「普通の縫い目です」
「祝福なし」
「はい」
「じゃあできる」
「できます」
自分の服へ針を入れる。
祝福は宿らない。
糸はただの糸。
けれど。
それで十分だった。
小さな布を当て、四辺を縫う。
力のかかる上角は返し縫い。
銀札が落ちない深さ。
出すときに指が入りやすい幅。
「ニナのと似てる」
「少し」
「おそろい?」
「違います」
「すぐ否定する」
「用途が違いますから」
「でも大切なもの」
「そうですね」
縫い終えたポケットへ、銀札を入れる。
少しだけ重さが増えた。
外からは見えない。
でも。
そこにある。
「どう?」
「悪くありません」
「公爵みたい」
「……別の言い方にします」
「遅い」
扉が開く。
「何が遅い?」
その本人だった。
「公爵様」
「閉店した?」
「今です」
「何をしていた」
「登録札のポケットを」
アルヴィスが見る。
「自分の服?」
「はい」
「珍しいな」
「皆様、同じことをおっしゃいます」
「今まで作らなかった?」
「自分のものは後回しになりがちで」
「なぜ」
「祝福が宿りませんので」
「普通の服は作れる」
朝。
ニナにも。
同じことを。
言われた。
「はい」
「なら作ればいい」
「簡単におっしゃいますね」
「簡単なことだろ」
「そうかもしれません」
アルヴィスは裁断台の意匠図へ視線を移す。
「王女の?」
「はい」
「見ていい?」
「公爵様は候補者ではございませんので」
「なら」
「ただし、殿下へ先に話すのは禁止です」
「話さない」
紙を見る。
しばらく。
無言。
「どうでしょう」
「歩けそうだ」
「そこを最初に?」
「あいつが一番言っていたから」
さすが従兄妹。
「鈴蘭は」
「使いません」
「青は」
「裏へ」
「王家の紋章は大きい」
「残します」
「本人は嫌がる」
「説明します」
「何と」
「王女殿下が、王女として自分の足で歩く衣装ですから、と」
アルヴィスが。
少しだけ。
考える。
「たぶん怒る」
「やはり?」
「最初は」
「そのあと?」
「納得するかもしれない」
「どちらですの」
「本人に聞け」
「それが選定会です」
「ならいい」
「公爵様」
「何だ」
「今日は何か受け取りました?」
「またそこか」
「確認です」
「朝、セドリックから書類」
「それは仕事です」
「昼、王妃から茶葉」
「受け取りました?」
「ああ」
「開けた?」
「開けた」
「飲みました?」
「一杯」
「返しました?」
「礼状を」
エステルが。
少し。
目を見開く。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「ずいぶん、お上手になりましたね」
「何が」
「受け取って、返すことが」
「面倒だ」
「でも、なさっている」
「お前たちがうるさいから」
ニナが。
奥から。
「わたしも?」
「お前も」
「じゃあ給金」
「なぜ俺が払う」
「公爵の練習手伝ってる」
「勝手に数えてるだけだろ」
「それも仕事」
「違う」
いつもの言い合い。
エステルは笑いながら、自分の胸元へ手を当てた。
内側には今日もらった銀札があり、裁断台には明後日提出する王女の一着がある。
一着に、全部はいらない。好きなものを何もかも縫い付ける必要もないし、大切なものほど、外から見えない場所へ置いてもいい。
夕方の湖の青、真鍮の指ぬき、正式登録の銀札、受け取った花、返した言葉。それぞれに必要な場所が違うように、服も何もかもを表へ出すためのものではないのだ。
「エステル」
ニナが呼ぶ。
「何でしょう」
「明日、何時から?」
「試作ですか」
「うん」
「開店前から」
「早い」
「でも朝食は食べます」
「公爵に言っとく」
「なぜ」
「またパン来るかも」
「毎日は困ります」
アルヴィスが言う。
「なら自分で食べろ」
「食べます」
「本当に?」
「その聞き方」
三人の声に、また小さな笑いが重なる。
明後日は選定会だ。正式な仕立て師として初めて、王女へ一着を差し出す。そのことをエステルは今度は、怖いより楽しみだと思っていた。




