↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第2部 王女の婚礼衣装と、仕立て師たち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
31/48

第31話 一着に、全部はいらない

 翌朝、エステルは開店前の店で、ニナの仕事着の脇下へ最後のまちを縫い付けていた。


 正式審査で指摘されたのは、腕を高く上げたときに上着全体が引かれ、後ろの腰がわずかに持ち上がることだった。普段の掃除や縫い仕事では問題がなくても、棚の最上段へ手を伸ばす動きまで考えれば、確かに足りない。


 昨夜のうちに一度ほどき、袖ぐりの下へ小さな菱形の布を入れた。表から見ればほとんど分からないが、腕を上へ伸ばしたときだけ布が開き、肩から腰へかかる力を逃がす仕組みだ。


「終わった?」


 鏡の前で待っていたニナが尋ねた。


「もう少しです。糸始末だけ」


「昨日からそれ言ってる」


「昨日は仮止めでした」


「今日も朝からずっと」


「十五分ほどですわ」


「長い」


「公爵様の採寸よりは短いです」


「比べる相手がおかしい」


 最後の糸を内側へ引き込み、切る。


「では、着てみてください」


 ニナは上着を羽織ると、もう慣れた手つきで前の留め具を閉じた。袖を折らずに伸ばし、エステルが何か言う前に両腕を頭上へ上げる。


「どうです?」


「前より楽」


「腰は?」


「出てない?」


「はい」


「じゃあ終わり?」


「もう一度、棚へ」


「ほんとに細かい」


 文句を言いながら、ニナは反物棚の最上段へ手を伸ばした。


 指先が棚板へ触れる。以前なら上着の裾が引かれていたが、今は脇下のまちがきれいに開き、背中の折りと一緒に動きを受け止めている。腕を下ろせば、まちは自然に閉じた。


「これなら大丈夫です」


「やっと?」


「やっとです」


「じゃあ、今日から着ていい?」


「ギルドで確認を受けてから」


「まだ?」


「今日で正式登録になりますから」


 ニナは鏡に映る自分を見た。昨日までは審査品だった服が、今日から本当に自分の仕事着になる。そのことが嬉しいのだろう。表情を隠そうとしているのに、何度も袖口やポケットへ触れている。


「ニナ」


「何」


「似合っておりますよ」


「……知ってる」


「そうですか」


「昨日、リリにも言われた」


「でしたら、私が言う必要はありませんでした?」


「別に、言ってもいい」


 その返事に笑いながら、エステルは裁縫箱を閉じた。


 ギルドへ持っていくのは、修正した仕事着と昨日の審査票、それから正式登録に必要な銀貨数枚。仮登録のときより手続きは少ないらしい。


「店は?」


 ニナが尋ねる。


「午前だけ閉めます」


「ベッシーさんには?」


「伝えてあります」


「クッシュ」


「リリが見てくださるそうです」


「公爵じゃないんだ」


「なぜ皆様、公爵様へ店番をさせたがるのでしょう」


「できないから」


「できないことを確認したい?」


「ちょっと」


「趣味が悪いですわ」


 そこへ、入口の向こうから二度、控えめな音がした。


 扉を開けると、セドリックが立っていた。


「おはようございます、エステル様」


「おはようございます」


「閣下より」


 差し出されたのは、小さな紙袋だった。


「何でしょう」


「朝食を食べてから行くように、とのことです」


 袋の中には、まだ少し温かい小さなパンが二つ入っている。


「……公爵様が?」


「はい」


「ご自分は?」


「すでに召し上がっております」


「本当に?」


 セドリックが、ほんのわずかに笑った。


「今朝は、私が見届けました」


「そこまで」


「閣下も最近、周囲から確認されることに慣れてこられましたので」


「それはよいことですわ」


「よくない」


 ニナが横から言う。


「何がです?」


「公爵、また人に渡すの上手くなってる」


「よいことでは?」


「エステルが甘やかす」


「私が?」


「そう」


 セドリックは何も言わなかったが、口元だけは完全に笑っていた。


「では、閣下には受け取ったとお伝えください。ありがとうございます、と」


「承知しました」


「それから、昨日いただいた定規は今日も使います、と」


「それもお伝えします」


 セドリックが帰ると、ニナはすぐ紙袋を覗き込んだ。


「一個わたし?」


「二つございますので」


「公爵、分かってる」


「何を?」


「エステル、一人だと朝食抜くから」


「抜きません」


「昨日」


「昨日は審査でしたので」


「一昨日」


「……選定会の図案を」


「ほら」


 反論できなかった。


 結局、二人でパンを食べてから店を出た。


 雨は上がっていた。昨日の名残が石畳に薄く残り、朝の光を反射している。ニナは新しい仕事着の裾を気にしながら歩いていたが、しばらくするとそれも忘れたのか、いつもの速さへ戻った。


 王都仕立てギルドへ着くと、昨日の受付係がすぐに審査票を確認した。


「修正品はこちらへ」


 案内された小部屋には、マスター・オルセンと縫製担当の審査官がいた。


「早いな」


 オルセンが言う。


「昨日のうちにほどきました」


「寝たか?」


「寝ました」


「何刻」


「……五刻」


「少ない」


「公爵様と同じことを」


「まともなことを言う公爵だな」


「最近は」


「最近?」


「いえ」


 ニナが笑いを堪えている。


「着せろ」


「はい」


 昨日と同じ動作確認をする。腕を前へ伸ばし、次に頭上へ。そのまま棚へ届くつもりでさらに上げると、脇下のまちが開き、今度は腰の位置がほとんど動かなかった。


 審査官が横から布の余裕を確かめる。


「腰は上がらない。まちの角は?」


「内側へ三角の当て布を入れております」


「糸は」


「主布より一段太いものを使いました」


「表からは見えないな」


「はい」


 審査官が頷くと、オルセンが昨日の審査票へ短く何かを書いた。


「よし」


「それは」


「修正確認済みだ」


 紙の下には、『正式登録可』と書かれていた。


 昨日「合格」を見たときとは少し違う、静かなものが胸へ入ってくる。


「ラヴィニア」


「はい」


「登録料」


「こちらに」


「札を出す」


 受付係が奥から、小さな木箱を持ってきた。


 中には銀色の札が入っている。仮登録のものより少し厚く、表には『王都仕立てギルド』、裏には『エステル・ラヴィニア』と登録番号が刻まれていた。


「これで今日から正式登録仕立て師だ」


 オルセンが言う。


「はい」


「返事だけか」


「……ありがとうございます」


「俺に礼を言うな」


 エステルは手のひらの銀札を見る。


「では、嬉しいです」


「それでいい」


 オルセンは鼻を鳴らした。


「母親の名前で取った札じゃない。祝福で取った札でもない。昨日の減点込みで、お前の服が取った札だ」


「はい」


「忘れるな」


「忘れません」


「あと、仕事を詰め込みすぎるな」


「それは」


「王女の選定会、明後日だろ」


「はい」


「返礼室の調査もある」


「はい」


「店もある」


「はい」


「弟子も」


「まだ!」


 ニナが叫ぶ。


 オルセンが眉を上げる。


「そこだけ元気だな」


「違うから」


「では何だ」


「店で働いてる」


「給金は」


「もらった」


「教わってる?」


「……ちょっと」


「針持ってる?」


「持ってる」


「弟子だな」


「違う!」


 エステルは笑いを堪えた。


「マスター・オルセン。正式な弟子入りについては、本人ときちんと話してからにいたします」


「当然だ」


「ですので、今は」


「まだ、か」


「はい」


「好きにしろ」


 オルセンは面倒そうに手を振った。


 登録手続きが終わると、ニナはすぐに銀の札を見せてほしいと言った。


「店に飾る?」


「携帯するものです」


「ずっと持つ?」


「はい」


「なくしたら?」


「再発行できますが、怒られます」


「じゃあ内ポケット作る?」


 言われて、エステルは自分の服を見る。


「……よいかもしれません」


「今までなかったの?」


「仮登録札は裁縫箱へ入れておりました」


「持ち歩くのに?」


「必要なときだけ」


「じゃあ、わたしの指ぬきと同じ」


「そうですね」


「エステルも作ればいいじゃん。大切なものを入れる場所」


 エステルは少しだけ黙った。


 ニナの仕事着には、母親から受け継いだ指ぬきの袋をしまうため、小さな内ポケットを作った。服の都合で、大切なものの持ち方まで決めたくなかったからだ。


 けれど自分には、そういう場所がない。


「今日、作ります」


「ほんと?」


「はい」


「自分の服に?」


「普通のポケットですから。祝福は必要ございません」


「エステル、自分のためには祝福縫えないもんね」


「そうです」


「普通のなら作れる」


「はい」


 そんな当たり前のことを、なぜか今まであまり考えなかった。


 自分のための一着には祝福が宿らない。だからどこかで、自分の服は後回しにしていたのかもしれない。


「ニナ」


「何」


「帰ったら、私の上着も少し直します」


「審査より先?」


「選定会の作業を始める前に」


「珍しい」


「そうでしょうか」


「かなり」


 店へ戻る途中、リリが花籠を抱えて向こうから走ってきた。


「取れた?」


 まだ何も言っていない。


「何が?」


「札!」


「なぜご存じなのです」


「ギルドの前で聞いた」


「誰に?」


「知らないおばさん」


「情報が早すぎますわ」


「見せて!」


 仕方なく銀札を見せると、リリは目を丸くした。


「おお」


「何です、その反応」


「本物っぽい」


「本物です」


「これで、ちゃんと仕立て屋?」


「昨日までも仕立て屋でした」


「でも今日からもっと?」


「正式登録です」


「じゃあ、お祝い」


 花籠から白い小さな花を一本差し出す。


「昨日もいただきました」


「昨日は合格。今日は正式」


「分けるのですね」


「違う日だから」


「ありがとうございます」


 受け取ると、リリは今度はニナの服を見た。


「直した?」


「分かる?」


「昨日より腕上がる」


「見ただけで?」


「昨日、ギルドの前で上げてたから」


「見てたの?」


「ちょっと」


「言ってよ!」


「緊張してたから」


「最悪」


「でも似合ってる」


「……知ってる」


「誰に言われた?」


「いっぱい」


「じゃあ、あたしも言う」


 路地の真ん中で二人が言い合うのを、エステルは少し離れて眺めた。


「何?」


 ニナが気づく。


「いえ。今日は、よい日だと思いまして」


「それだけ?」


「はい」


「ほんと?」


「本当です」


 今度はエステルのほうが疑われた。


 店へ戻ると、ベッシーがすでに入口へ小さな紙を貼っていた。


『本日より正式登録仕立て師』


「ベッシーさん!」


「何だい」


「いつの間に」


「ギルド帰りの客が言ってた」


「まだ私たちも戻っておりませんでしたのに」


「いいことは早く出したほうがいい」


「恥ずかしいです」


「昨日まで散々、祝福だ公爵だ王宮だって噂されたんだ。こういう普通の話くらい、大きく出しな」


 普通の話。


 その言葉が少し嬉しかった。


「では」


「剥がす?」


「……今日だけ」


「よし」


 ニナが笑う。


「エステル、甘い」


「今日だけです」


「明日も貼っとくか」


「ベッシーさん」


 結局、その紙は昼まで入口に残った。


 そして、思っていた以上に客が来た。


 子どもの上着。男物の袖詰め。古いワンピースの裾直し。新しい注文でも、高価な仕事でもない。


 それでも登録札を見て、「正式になったんだね」「おめでとう」と、いつもの路地の人たちが服を置いていく。


 エステルは一つずつ受け取った。


 昼過ぎ、ようやく客足が途切れたところで、裁断台の上へ第一王女の婚礼衣装選定会の書類を広げた。


 期限は明後日。


 提出するのは意匠図、布見本、構造説明、それから上半身の試作一部。


「やっと始める?」


 ニナが尋ねる。


「はい」


「まだ何もない?」


「考えてはおります」


「見せて」


「まだです」


「何で」


「決まっていないから」


「昨日、いっぱい描いてたじゃん」


「全部、捨てます」


「え」


 エステルは紙束を裁断台へ出した。


 十枚以上ある。


 夕方の湖を思わせる青、鈴蘭の刺繍、長い袖、手袋をしまう場所、長い後ろ裾、座るときに畳む仕組み、新郎の隣へ座れる幅、王家の紋章、婚礼らしい銀糸。


 どれも、王女が話したことから拾ったものだった。


「これ、いいじゃん」


 ニナが一枚を取る。


 腰から後ろ裾が扇状に広がる案。


「このままでも」


「駄目です」


「なんで?」


「全部入っています」


「全部入れたら、王女様喜ぶんじゃないの?」


「殿下が、そうしないでくださいと」


「あ」


 王女の手紙。


『私が言ったことを、そのまま全部使わないでください。』


「でも、好きって言ったんでしょ」


「はい」


「じゃあ入れても」


「好きだから使う、だけでは足りません」


 鈴蘭を使う理由。


 夕方の湖の青を使う理由。


 長い袖を残す理由。


 それぞれが一着の中で別の方向を向けば、ただ希望を並べただけになる。


「ニナ」


「何」


「殿下が一番したいことは、何だと思います?」


「歩く」


 すぐに答えた。


「もう一つ」


「隣に座る」


「はい」


「指輪、自分で取る」


「それも」


「いっぱいある」


「そうなのです」


 一つではない。


 けれど一着には、芯が一つ必要だった。


「公爵様の服のとき」


 エステルは、灰色の防護服を思い出す。


 奪い糸を体へ届かせない。


 目的が一つだったから、布も木片も縫い目も、すべて同じ方向を向いた。


「婚礼衣装も」


「呪い防ぐの?」


「違います」


「じゃあ」


「殿下が、自分で歩く」


「それじゃん」


「でも、それだけでは普通の歩きやすい服です」


「王女様だから?」


「婚礼だからです」


 殿下は、婚礼らしさも欲しいと言った。


「自分で歩ける婚礼衣装」


 紙へ書く。


「それだけ?」


「まずは」


「鈴蘭は?」


「いったん消します」


「青は?」


「それも」


「手袋の袋」


「残すかもしれません」


「何で」


「自分で受け取る、につながるから」


 ニナが少し考える。


「じゃあ、王女様が自分でできることだけ残す?」


 エステルの手が止まった。


「もう一度」


「え?」


「今のです」


「自分でできること?」


「はい」


 歩く。


 座る。


 手袋を外す。


 指輪を受け取る。


 新郎の隣へ戻る。


 全部に共通している。


 王女が、誰かにしてもらうのではなく、自分でしたいこと。


「これです」


「何が?」


「一着の芯」


 エステルは新しい紙へ書いた。


『自分でできる婚礼衣装』


「名前、地味」


「題名ではありません」


「でも地味」


「中身が大切です」


「王女様に見せるんでしょ」


「説明用です」


「じゃあもっと」


「ニナ」


「何」


「今、考えますので」


「はいはい」


 ニナはクッシュの箱へ向かった。


 エステルは新しい紙へ線を引く。


 まず前裾は、自分で歩ける長さにする。足先へ絡まず、階段でも持ち上げなくてよい形。ただし短くしすぎれば、婚礼衣装らしい重みが失われる。


 後ろは長く残す。


 けれど、介添人には持たせない。


 王女自身が扱えるようにする。


 後ろ裾を引き上げる仕組みを作るとしても、腰の後ろに留め具があれば自分では届きにくい。紐を前へ回せば操作できるが、長い裾の重さを腰だけで支えれば疲れる。


「違う」


 思わず呟く。


「何が?」


 ニナがすぐ戻ってきた。


「裾を上げるだけでは、重いままです」


「じゃあ軽い布」


「婚礼衣装らしい落ち感がなくなります」


「二枚にしたら?」


「二枚?」


「外だけ軽くて、中は普通」


 また手が止まる。


 外側は長く、婚礼らしい薄い布。


 内側は歩くための本体。


「二重構造」


「駄目?」


「いいえ」


 ヴィオラも似た構造を考えていた。


 けれど目的が違えば、縫い方は変わる。


 ヴィオラは式と晩餐で姿を変えるために畳む。エステルは、王女本人が自分で扱うために畳む。


「外側の重さを、肩と背中と腰へ分けます」


「三つ?」


「はい。腰だけで持たせません」


 肩から背中へ、見えない内帯を通す。


 長い外裾は薄手の布を使い、左右へ細い引き紐を入れる。その紐を脇から前へ通せば、王女が自分の手で引ける。


 引けば、後ろ裾が柔らかな襞になって持ち上がる。


 祭壇へ向かうときは長い。


 階段や晩餐では、自分で短くできる。


「これ、面白い」


 ニナが覗き込む。


「まだ構造だけです」


「鈴蘭ない」


「なくてもよいと思っています」


「青も」


「青は、裏地へ」


「見えないじゃん」


「見えなくてよいのです」


「何で?」


「殿下が知っていれば」


 夕方の湖の青は、誰かに見せるための色ではない。


 王女が好きだと言った色だ。


 ならば、裾を持ち上げたとき、座ったとき、手袋をしまうとき。自分だけが少し見える場所にあるほうが、むしろ似合う気がした。


「鈴蘭は?」


「婚礼衣装には縫いません」


「全部?」


「はい」


「なんで」


「好きな花なら、服へ縫い付けて動けなくする必要はございません」


「じゃあ生花?」


「当日、殿下がお持ちになりたいなら」


「服じゃない」


「服に全部入れる必要はありませんから」


 ニナが、なるほどという顔をする。


「一着に全部はいらない」


「はい」


「じゃあ王家の紋章も消す?」


「それは残します」


「殿下、大きいの嫌って」


「ええ」


「じゃあ小さく?」


「いいえ」


「何で」


「必要だからです」


 エステルは紙の背中側へ、王家の花紋を描く。


「殿下が王女であることを隠すための服ではありません。王女として、ご自分の足で歩くための婚礼衣装です」


「だから紋章いる?」


「はい」


「嫌がるかも」


「説明します」


「何て」


「これは、諦めていただきたいところです、と」


 王女の言葉を思い出す。


『何かを諦めさせるなら、理由を教えてください。』


「なるほど」


 ニナが珍しく、すぐに納得した。


 午後が進む。


 線が増えるたび、最初の案より飾りは減っていった。


 鈴蘭の刺繍は消えた。


 胸元の銀糸も減らした。


 夕方の湖の青は裏へ移した。


 長い袖は残したが、手首へ小さな切り替えを入れ、自分で手袋を外しやすくした。その手袋は袖の内側へしまえる。


 残したものには、理由がある。


 消したものにも、理由がある。


 それが、少しずつ一着へ見えてくる。


「やってるわね」


 夕方近く。


 聞き慣れた声がした。


 ヴィオラだった。


「いらっしゃいませ」


「客じゃない」


「では、何でしょう」


「偵察」


「堂々と言うのですね」


「隠しても意味ないから」


 彼女は裁断台へ近づき、エステルの胸元を見る。


「正式札」


「今日からです」


「おめでとう」


「ありがとうございます」


「減点一個」


「ご存じなのですか」


「ギルドにいたから」


「見ていた?」


「結果だけ。修正した?」


「今朝」


「早い」


「同じことを言われました」


 ヴィオラの視線が意匠図へ移る。


「見ていい?」


「候補者同士ですけれど」


「嫌なら見ない」


 エステルは少し考えた。


「構造の途中までなら」


「私も見せる」


「では」


 ヴィオラは一枚だけ手に取った。


「二重」


「はい」


「裾を畳む」


「はい」


「似た」


「そうですね」


「真似した?」


「しておりません」


「知ってる」


「でしたら聞かなくても」


「言いたかった」


 ヴィオラは自分の紙も出す。


 彼女の案も、後ろ裾を畳める二重構造だった。


 ただし、操作は侍女がする。


 腰の後ろへ隠した三つの留め具で、長い裾を短い礼装へ変える仕組み。


「私のは、式と晩餐で姿を変える」


「美しいです」


「あなたのは?」


「殿下ご本人が、自分で変えます」


 ヴィオラの目が止まる。


「前から?」


「左右の紐を」


「重い」


「肩と背へ逃がします」


「外布を薄く?」


「はい」


「なるほど」


 しばらく無言で図を見る。


「負けたくない」


 ヴィオラが言った。


「私もです」


「でも、その案は好き」


「私もヴィオラ様の案は好きです」


「困る」


「何が?」


「嫌いな相手なら楽なのに」


「競争相手ですから」


「敵じゃない?」


「今のところ」


「今のところ、なんだ」


「選定会ですので」


 ヴィオラが笑った。


「そのくらいでいい」


 そして、紙を返す。


「一つだけ」


「はい」


「王女本人が紐を引くなら、手袋を外す前と後、どっち?」


 エステルが止まる。


「……式の途中なら」


「指輪を受け取る前?」


「その可能性があります」


「手袋してたら、細い紐つかみにくい」


「確かに」


「太くすると見える」


「では」


「考えて」


「教えてはくださらない?」


「競争相手だから」


「今のところ敵ではないのに」


「それとこれは別」


 ヴィオラは満足そうだった。


「ありがとうございます」


「感謝されると変な感じ」


「でも、助かりました」


「なら選定会で返して」


「何を?」


「私の案の駄目なところ」


「見つけたら」


「必ず」


「分かりました」


 ヴィオラが帰ったあと、エステルは手袋と引き紐の問題を考え直した。


 細い紐。


 手袋。


 掴みにくい。


「輪っか」


 ニナが言う。


「何です?」


「紐の先、輪にすればいいじゃん」


「指を入れる?」


「うん」


「手袋でも」


「引ける」


 エステルはすぐに描き直した。


「採用します」


「ほんと?」


「はい」


「選定会の服に?」


「まだ試作してからですが」


「じゃあ、わたし手伝った?」


「かなり」


「給金」


「そこですか」


「仕事なら」


「では、意匠補助として」


「いくら?」


「ニナ」


「冗談」


「最近、上達しましたね」


「エステルより?」


「それは認めたくありません」


 日が暮れるころ。


 意匠図の大枠ができた。


 エステルは椅子から立ち、固まった肩を回す。


「終わり?」


「今日はここまで」


「珍しい」


「明日、試作します」


「夜やらない?」


「やりません」


「公爵に言われた?」


「いいえ」


「ほんと?」


「……少し」


「やっぱり」


 ニナが笑う。


 そのとき、エステルは朝の約束を思い出した。


「私の上着」


「忘れてた?」


「忘れては」


「顔」


「はい。少し」


 自分が着ている淡い茶色の上着を脱ぐ。


 内側。


 左胸の下。


 表から響かない位置。


「ここへ」


 正式登録札を入れるための、小さな内ポケット。


「自分で縫う?」


「はい」


「わたしやる?」


「これは、私が」


「何で?」


 エステルは銀札を見る。


「今日いただいたものですから」


「自分のため?」


「普通の縫い目です」


「祝福なし」


「はい」


「じゃあできる」


「できます」


 自分の服へ針を入れる。


 祝福は宿らない。


 糸はただの糸。


 けれど。


 それで十分だった。


 小さな布を当て、四辺を縫う。


 力のかかる上角は返し縫い。


 銀札が落ちない深さ。


 出すときに指が入りやすい幅。


「ニナのと似てる」


「少し」


「おそろい?」


「違います」


「すぐ否定する」


「用途が違いますから」


「でも大切なもの」


「そうですね」


 縫い終えたポケットへ、銀札を入れる。


 少しだけ重さが増えた。


 外からは見えない。


 でも。


 そこにある。


「どう?」


「悪くありません」


「公爵みたい」


「……別の言い方にします」


「遅い」


 扉が開く。


「何が遅い?」


 その本人だった。


「公爵様」


「閉店した?」


「今です」


「何をしていた」


「登録札のポケットを」


 アルヴィスが見る。


「自分の服?」


「はい」


「珍しいな」


「皆様、同じことをおっしゃいます」


「今まで作らなかった?」


「自分のものは後回しになりがちで」


「なぜ」


「祝福が宿りませんので」


「普通の服は作れる」


 朝。


 ニナにも。


 同じことを。


 言われた。


「はい」


「なら作ればいい」


「簡単におっしゃいますね」


「簡単なことだろ」


「そうかもしれません」


 アルヴィスは裁断台の意匠図へ視線を移す。


「王女の?」


「はい」


「見ていい?」


「公爵様は候補者ではございませんので」


「なら」


「ただし、殿下へ先に話すのは禁止です」


「話さない」


 紙を見る。


 しばらく。


 無言。


「どうでしょう」


「歩けそうだ」


「そこを最初に?」


「あいつが一番言っていたから」


 さすが従兄妹。


「鈴蘭は」


「使いません」


「青は」


「裏へ」


「王家の紋章は大きい」


「残します」


「本人は嫌がる」


「説明します」


「何と」


「王女殿下が、王女として自分の足で歩く衣装ですから、と」


 アルヴィスが。


 少しだけ。


 考える。


「たぶん怒る」


「やはり?」


「最初は」


「そのあと?」


「納得するかもしれない」


「どちらですの」


「本人に聞け」


「それが選定会です」


「ならいい」


「公爵様」


「何だ」


「今日は何か受け取りました?」


「またそこか」


「確認です」


「朝、セドリックから書類」


「それは仕事です」


「昼、王妃から茶葉」


「受け取りました?」


「ああ」


「開けた?」


「開けた」


「飲みました?」


「一杯」


「返しました?」


「礼状を」


 エステルが。


 少し。


 目を見開く。


「何だ」


「いえ」


「言え」


「ずいぶん、お上手になりましたね」


「何が」


「受け取って、返すことが」


「面倒だ」


「でも、なさっている」


「お前たちがうるさいから」


 ニナが。


 奥から。


「わたしも?」


「お前も」


「じゃあ給金」


「なぜ俺が払う」


「公爵の練習手伝ってる」


「勝手に数えてるだけだろ」


「それも仕事」


「違う」


 いつもの言い合い。


 エステルは笑いながら、自分の胸元へ手を当てた。


 内側には今日もらった銀札があり、裁断台には明後日提出する王女の一着がある。


 一着に、全部はいらない。好きなものを何もかも縫い付ける必要もないし、大切なものほど、外から見えない場所へ置いてもいい。


 夕方の湖の青、真鍮の指ぬき、正式登録の銀札、受け取った花、返した言葉。それぞれに必要な場所が違うように、服も何もかもを表へ出すためのものではないのだ。


「エステル」


 ニナが呼ぶ。


「何でしょう」


「明日、何時から?」


「試作ですか」


「うん」


「開店前から」


「早い」


「でも朝食は食べます」


「公爵に言っとく」


「なぜ」


「またパン来るかも」


「毎日は困ります」


 アルヴィスが言う。


「なら自分で食べろ」


「食べます」


「本当に?」


「その聞き方」


 三人の声に、また小さな笑いが重なる。


 明後日は選定会だ。正式な仕立て師として初めて、王女へ一着を差し出す。そのことをエステルは今度は、怖いより楽しみだと思っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。