第32話 選ぶのは、王女様
婚礼衣装選定会の朝、エステルはいつもより早く店を開けた。
とはいっても、客を迎えるためではない。提出用の意匠図、布見本、構造説明書、上半身の試作、それから裾を引き上げる仕組みを確認するための縮小模型を、最後にもう一度並べて確かめるためだった。
裁断台の中央には、白い薄絹と、少し張りのある白の絹地。その隣には、夕暮れの湖を思わせる灰青色の裏地が小さく添えてある。
刺繍見本は一つだけ。
王家の花紋。
鈴蘭はない。
「ほんとに入れなかったんだ」
ニナが、刺繍見本を覗き込みながら言った。
「はい」
「王女様、好きなのに」
「好きだからこそ、です」
「まだその理屈、ちょっと分かんない」
「服へ縫い付ければ、婚礼が終わったあともずっとその形の鈴蘭です。でも、生花なら殿下ご自身で選べますし、持たないという選択もできます」
「服にしないほうが自由?」
「そう思いました」
ニナは少し考え、白い試作の袖口を指でつまむ。
「青は裏なんだよね」
「はい」
「これは残した」
「殿下が好きだと言った色だから、ではありません」
「じゃあ何で?」
「殿下ご本人だけが見つけられる場所へ置きたかったからです」
「結局、好きだからじゃん」
「……半分は」
「ほら」
エステルは反論しかけてやめた。
全部に理由を付けようとしても、人の好みまで理屈だけにはできない。それを無理に説明しすぎるほうが、かえって不自然なのかもしれない。
「半分は、好きだとうかがったからです」
「最初からそう言えばいいのに」
「でも、半分です」
「そこ大事?」
「かなり」
ニナが笑った。
上半身の試作は、王女本人の寸法ではなく、王宮から渡された公的寸法をもとにした仮のものだ。長い袖は残したが、手首の少し上へ切り替えを入れ、手袋を外す動きを邪魔しない。袖の内側には小さな収納口を作り、外した手袋を一時的にしまえるようにしてある。
胸元は必要以上に飾らず、王家の正式礼装として不足しない程度に形を整えた。
問題は背中だった。
「やっぱり大きい」
ニナが言う。
「紋章ですか」
「うん」
「私もそう思います」
「じゃあ小さくすれば?」
「しません」
「何で」
「これについては、殿下に諦めていただきたいからです」
王女は大きな紋章が苦手だと言った。
それでもエステルは、背中の王家の花紋だけは、通常の婚礼礼装と同程度の大きさにした。ただし、金糸や宝石で目立たせるのではなく、白い糸で白い布へ縫う。
遠目にはほとんど見えない。光が当たったときや、布が動いたときだけ浮かぶ。
「大きいけど、目立たない」
「はい」
「ずるい」
「工夫です」
「王女様、怒るかな」
「その可能性はございます」
「怖い?」
「かなり」
「でも変えない?」
「はい」
ニナが、少し嬉しそうに笑った。
「エステルっぽい」
「どういう意味でしょう」
「怒られそうでも、必要ならやる」
「昔はそうでもなかったと思います」
「昔知らない」
「そうでした」
店の奥では、クッシュが朝から箱の縁をかりかりと引っかいている。
今日はリリが見てくれる予定だ。ニナも選定会へ行きたがったが、候補者本人と補助者一名までという規定があり、エステルはヴィオラとも相談した末、補助者を付けず一人で参加することにした。
公爵家の人間を連れて行けば、先日の異議申立てを自分から蒸し返すようなものになる。
「本当に一人で大丈夫?」
「説明するのは私ですから」
「模型壊れたら?」
「壊れないように運びます」
「紙落としたら?」
「拾います」
「緊張して何言うか忘れたら?」
「そのときは、一着を見ます」
「服に答え書いてある?」
「だいたい」
「便利だね」
「仕立て師ですから」
「それ、今日何回使うかな」
入口の鈴が鳴る。
「おはよう!」
リリが入ってきた。
「おはようございます」
「クッシュ当番来た」
「お願いします」
「ニナも行かないの?」
「行けない」
「じゃあ一緒に見る?」
「何を」
「クッシュ」
「昨日も見た」
「仕事」
「わたしの仕事じゃない」
「給金」
「出ない」
そんなやり取りを聞きながら、エステルは提出物を一つずつ専用の箱へ収めた。
最後に、自分の胸元へ触れる。昨日縫った内ポケットには、正式登録の銀札が入っている。
「では、行ってまいります」
「エステル」
「はい」
「勝ってきて」
ニナの言葉に、エステルは少しだけ目を瞬いた。
「はい」
今度は曖昧にしなかった。
「行ってまいります」
王宮東翼の小広間には、すでに三人の候補者が揃っていた。
ヴィオラ・セルジュ。
ヘンリック・モーゼル。
クラリッサ・ウェイン。
四人それぞれの前に、白布を掛けた長机が用意されている。壁際には王室衣装室、仕立てギルド、婚礼準備局の記録係が並び、中央の席にはマダム・ベルナールとセラフィーネがいた。
そして少し離れたところに、第一王女リュシエンヌ。
今日は仮縫いの衣装ではなく、淡い青の普段用礼装を着ている。
「おはようございます」
候補者たちが一斉に礼をする。
「おはようございます」
リュシエンヌは笑った。
「今日は、私が逃げない服をお願いします」
ヘンリックの眉がわずかに動いた。
クラリッサは穏やかに笑う。
ヴィオラは何も言わず、すでに自分の試作を確認している。
エステルも席へ向かった。
説明順は抽選で決める。
一番はクラリッサ。
二番はヘンリック。
三番がヴィオラ。
エステルは四番目だった。
「最後」
ヴィオラが小声で言う。
「得でしょうか」
「前が良かった案全部出したら不利」
「ヴィオラ様が三番目ですから、十分ありそうですね」
「それはそっちも」
「困ります」
「私も」
二人で小さく笑う。
最初に立ったクラリッサの案は、美しかった。
乳白色の柔らかな絹。裾は従来より少し短いが、前後に緩やかな差をつけ、歩くと後ろへ自然な流れが生まれる。刺繍は細かな鈴蘭。ただし一面に広げず、袖口と裾の内側にだけ入れている。
王女が好きだと言った花を、控えめに使ったのだ。
「大量の鈴蘭ではございません」
クラリッサが説明する。
「お好きなものは、人へ見せるためではなく、ご自身の近くにあるほうがよいと考えました」
エステルは思わず、意匠図を見る。
考えた方向が少し似ている。
けれどクラリッサは、生花ではなく刺繍として残した。
「なぜ刺繍に?」
リュシエンヌが尋ねる。
「花は枯れますから」
「枯れないほうがいい?」
「婚礼の日を、あとから思い出せるものが一つあってもよいと思いました」
王女が少し微笑む。
「それは好きです」
エステルは手元の紙に何も書かなかった。
競争相手の案。
でも、いい。
そう思った。
次はヘンリック。
彼の婚礼衣装は、まさに王家の婚礼だった。
白銀の厚い絹。肩から胸へ王家の紋章。背中には王冠を囲む花枝。長い裾は床を大きく流れ、三人の介添人が持つことを前提にしている。
「殿下は、自分で歩きたいとおっしゃいました」
リュシエンヌが、説明の途中で言った。
「承知しております」
「では、この裾は?」
「王女殿下がお歩きになることと、介添人が裾を持つことは両立いたします」
「でも私は、持たれたくない」
「婚礼は個人の式であると同時に、王国の儀式でございます」
小広間が静かになる。
ヘンリックは怯まなかった。
「殿下のご希望は尊重いたします。しかし、王家の婚礼衣装が王家の権威を示す役割を失えば、それは殿下だけの問題ではございません」
厳しい言葉だったが、間違いではないとエステルは思った。
リュシエンヌも、すぐには反論しなかった。
「では、私には何を諦めてほしい?」
「介添人を拒むことを」
ヘンリックは即答した。
「理由は?」
「王女殿下が一人で歩けることを示す必要より、王女殿下が多くの人に支えられて王家を背負う存在であることを示す必要のほうが、この婚礼では大きいと考えるからです」
王女はしばらく黙った。
「分かりました」
好きか嫌いかは分からない。それでも王女は、理由は分かったと言った。
ヘンリックが礼をする。
彼の案を嫌いだからといって、弱い案ではない。むしろ自分の考えを最後まで通している。
エステルは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。選定会というものを、楽しいと思ってしまった。
三番はヴィオラ。
彼女の試作は、見た瞬間に他の二人と違った。
正面は驚くほど簡潔だった。白い絹に細い銀糸。余計な飾りはない。
ところが背面へ回ると、長い外裾が二重になっている。
「式では長く、晩餐では短くします」
ヴィオラが言う。
「後ろ側の三箇所に隠した留め具を侍女が外し、外裾を内側へ畳み込む構造です」
セラフィーネが立ち上がった。
「実演を」
「はい」
人台に付けた縮小試作。
侍女役の助手が三箇所を外し、外裾を折って内側へ固定する。
婚礼衣装から、晩餐用礼装へ。
形が変わる。
「早い」
リュシエンヌが言う。
「慣れれば一分以内です」
「私は何をするの?」
「立っていてください」
「それだけ?」
「それだけです」
王女が少しだけ考える。
「私の希望とは、少し違うわね」
「はい」
ヴィオラは即答した。
「でも、歩きやすくはなります」
「なぜ、自分でできるようにしなかったの?」
「婚礼衣装を着た状態で、後ろ裾を自分で処理する動作まで増やす必要はないと考えたからです」
エステルはヴィオラを見る。
同じ問題に対して、違う答えを出している。
「殿下は、自分で歩きたいとおっしゃいました。でも、すべてを自分一人で行いたいとはおっしゃっていません」
「そうね」
「私は、歩くところだけを殿下ご自身へ返します。それ以外は、服と侍女へ任せます」
「私が自分でできるようにしなかった理由は?」
「美しさを崩すからです」
また即答。
「前へ操作紐を回せば、どうしても腰回りへ厚みが出ます。隠すことはできますが、私は不要だと判断しました」
エステルの胸が少しだけ痛い。
まさに自分の案だ。
ヴィオラはそこを切った。
「諦めてほしいのは?」
「裾を自分で処理することです。その代わり、歩くことは諦めさせません」
リュシエンヌが笑う。
「あなた、容赦ないのね」
「服に必要なことなら」
「好きよ、そういうの」
「ありがとうございます」
ヴィオラが礼をする。
戻ってきた彼女と目が合う。
「強いです」
エステルが小声で言う。
「そっちの紐、まだ切ってない?」
「切っておりません」
「そう」
「残念そうですね」
「少し」
「私も困っています」
「なら同じ」
「はい」
四番。
名前を呼ばれる。
「エステル・ラヴィニア」
「はい」
立つ。
胸元の内ポケットには銀の札がある。
エステルは意匠図を広げた。
「私が考えたのは、殿下がご自分でできる婚礼衣装です」
リュシエンヌが少し身を乗り出す。
「自分で?」
「はい」
「歩く?」
「歩くだけではございません」
意匠図の正面。
前裾は足へ絡まない。それでも普段着には見えない長さ。
「前は、殿下が裾を持たずに歩ける長さです。後ろは、婚礼衣装として長い外裾を残しました」
「それだと、結局誰かに持ってもらうでしょう?」
「いいえ」
「どうするの?」
「ご自分で上げます」
記録係の手が少し止まった。
エステルは縮小模型を人台へ掛ける。
「外裾の左右へ細い引き紐を通します。紐は脇を通り、前腰の内側へ。先端には小さな輪を付けています」
「これ?」
王女が模型へ近づく。
「はい」
「引いていい?」
「どうぞ」
リュシエンヌが左右の輪へ指を入れて引く。
後ろ裾がゆっくり持ち上がり、一段、二段と柔らかな襞へ変わる。
「あ」
王女の顔が変わった。
「私ができる」
「はい」
「手袋をしていても?」
「そのため、紐の先を輪にしました」
「誰の案?」
エステルは一瞬止まった。
「ニナです」
「ニナ?」
「店で働いている子です」
「弟子?」
「まだです」
なぜかベルナールが遠くで額へ手を当てた。
「でも、よい案でしたので使いました」
「候補者本人だけの案ではない?」
ヘンリックが尋ねる。
責める口調ではない。
「はい」
「それを認める?」
「はい」
「選定会だ」
「服は、一人で考えなければならないという規定はございません」
ベルナールが口を開く。
「そのとおりです。制作責任は候補者本人にありますが、補助者との相談は認められています」
「なら問題ない」
ヘンリックが頷く。
王女はまだ紐を触っている。
「戻すときは?」
「少し難しくなります」
「自分でできない?」
「できます。ただし、鏡があったほうがよいです」
「そこは諦めさせる?」
「いいえ」
「え?」
「練習していただきます」
小広間が一瞬静かになる。
ヴィオラが口元を押さえた。
「私が?」
「はい」
「王女なのに?」
「殿下がご自分でなさりたいのでしたら」
「何回くらい?」
「三度も練習すれば」
「できる?」
「できなければ構造を変えます」
リュシエンヌがとうとう笑った。
「そういうところ、好き」
「ありがとうございます」
「でも、紐が見える」
「着用時には、腰の内側へ収まります」
「厚くならない?」
来た。
ヴィオラが指摘したところ。
「なります」
エステルは隠さなかった。
「わずかですが」
「嫌」
「はい」
「はい、じゃないでしょう」
「ですから、この部分はまだ改良します」
「完成してないの?」
「第一段階の提出ですので」
王女が目を丸くする。
「強いわね」
「申し訳ございません」
「謝るところ?」
「少し」
笑いが起こる。
「次へ」
ベルナールが促す。
エステルは上半身の試作を人台へ掛ける。
「長い袖は残しました。ただし、手首の切り替えを少し広くし、手を動かしやすくしています」
「手袋」
「こちらへ」
袖の内側に小さな収納がある。
「外したあと、ご自分でしまえます」
「侍女に預けない?」
「預けたいときは、預けてください」
「どっち?」
「殿下がお選びください」
リュシエンヌは少し黙る。
「全部、自分でしろって服ではないのね」
「違います」
「自分でできる、だけ?」
「はい」
「するかどうかは私?」
「はい」
王女の顔から笑いが少し消え、真剣な目になる。
「なるほど」
その一言に、エステルは少しだけ息を戻した。
「次」
「布です」
白い外布と、少し張りのある内布を示す。
「長い裾の重さを、腰だけではなく肩と背中へ分散させます。そのため、内側へ細い支持帯を入れます」
「防具みたい」
ヴィオラが小声で言った。
エステルは聞こえなかったことにした。
「外から見えない?」
王女が尋ねる。
「はい」
「重くない?」
「最終的には、実際の寸法で調整いたします」
「青は?」
来た。
エステルは灰青の布を出す。
「裏地に」
「見えないじゃない」
「はい」
「私、好きって言ったのに」
「ですからです」
「説明して」
「殿下がお好きな色を、全員へ見せる必要はないと思いました」
王女がエステルを見る。
「婚礼衣装の表側は、王女殿下として見られる場所です。でも裏側には、ご本人だけが知っている色があってもよいのではないかと」
「好きだから入れた?」
「半分は」
「半分?」
「もう半分は、見えない場所へ残す意味が、この一着の考え方に合うと思ったからです」
「好きだから、だけじゃない」
「はい」
「でも好きだからでもある」
「はい」
「そこ、正直なのね」
「ニナに指摘されました」
「またニナ」
「はい」
王女が笑う。
「会ってみたい」
「本人は、かなり緊張すると思います」
「じゃあやめておく」
「たぶん、そのほうが」
「あなた、王女に会わせないの?」
「本人が嫌なら」
「ほんとに容赦ない」
「仕立て師ですから」
「出た」
ヴィオラが小さく言う。
今度はエステルも少し笑った。
「鈴蘭は?」
王女が尋ねる。
「使いません」
「一つも?」
「はい」
「どうして?」
「殿下がお好きな花だからです」
「また?」
「花は、服に縫い付けなくても持てます」
「生花?」
「それも、殿下がお選びになれば」
「婚礼当日に?」
「はい」
「準備する人は困るわ」
「少し」
「かなり」
婚礼準備局の記録係がものすごい速度で何かを書いている。
「でも」
エステルは続けた。
「お好きだと話したものが、すぐに『婚礼で使うべきもの』へ変わることを、殿下はお嫌でした」
王女の表情が静かになる。
「ですから、服へ固定しません」
「なるほど」
「もし当日、鈴蘭を持ちたいと思われたら、それがよいと思います。別の花がよければ、別の花を。何も持ちたくなければ、それでも」
「婚礼衣装の候補者なのに、花のことは放棄するのね」
「服の外まで、私が決める必要はございません」
クラリッサが小さく微笑んだ。
そして最後。
「王家の紋章」
王女が自分から指した。
「大きい」
「はい」
「嫌だって言った」
「存じています」
「なのに?」
「ここは、諦めていただきたいです」
空気が少し張る。
エステルは背面図を出した。
「ただし、白糸で白布へ縫います」
「目立たない?」
「光が当たったときだけ」
「小さくはしない?」
「しません」
「理由」
王女がまっすぐ聞く。
ここが一番大事だった。
「この衣装は、殿下が王女であることから逃げるための服ではないからです」
誰も動かない。
「殿下は、王女として祭壇へ立ちます。そのうえで、ご自分の足で歩きたいとおっしゃいました」
「……ええ」
「でしたら、王家の印は必要です」
「大きく?」
「はい」
「私は好きじゃない」
「はい」
「それでも?」
「はい」
王女が目を細める。
「頑固」
「申し訳ございません」
「でも」
王女は背面図へ近づく。
「白なのね」
「はい」
「大きいけど、目立たない」
「必要なものと、見せつけるものは違うと思いました」
「王女であることは必要。でも、威張る必要はない?」
「私から、その言い方は」
「私は言える」
「でしたら」
少しだけ間を置く。
「近いです」
王女が笑った。
「分かりました」
説明を終え、エステルは一礼した。
「以上です」
席へ戻ると、脚が少し震えている。
「どうだった?」
ヴィオラが小声で言う。
「今、聞かないでください」
「緊張してた?」
「かなり」
「見えなかった」
「必死でした」
「紋章のところ、よかった」
「ヴィオラ様なら消します?」
「私は小さくした」
「そうですか」
「だから嫌」
「何が」
「そっちのほうが、王女には刺さるかもしれない」
「まだ分かりません」
「分かってる」
四人すべての説明が終わると審査に入り、候補者たちは一度、別室へ移された。
待機室では、四人が同じ卓を囲む。
妙な空気だった。
最初にクラリッサが口を開く。
「皆さん、よかったわ」
「余裕ですな」
ヘンリックが言う。
「本心よ」
「選ばれたいでしょう」
「もちろん」
「なら」
「競争相手の服が悪くなる必要はないもの」
クラリッサはお茶を一口飲む。
「私は、いい服の中から選ばれたいわ」
ヴィオラが頷く。
「同意」
ヘンリックは少し黙った。
「私は」
三人が見る。
「今でも、殿下には介添人が必要だと思っている」
「はい」
エステルが答える。
「何だ」
「よい案だと思いました」
「君は逆だろう」
「逆です。でも、理由は分かります」
「分かって、なお自分の案?」
「はい」
「強いな」
「ヘンリック様も」
彼は少しだけ笑った。
「そういう選定会なら、悪くない」
四人で静かに待つ。一刻も経っていないはずなのに、ひどく長く感じられた。
やがて扉が開く。
「候補者の皆様。お戻りください」
小広間へ戻ると、王女が中央に座り、その前には二枚の紙が置かれていた。
「決まりました?」
ヴィオラが聞く。
「第一段階は」
リュシエンヌが答える。
四人が並ぶ。
「まず」
王女はクラリッサを見る。
「鈴蘭の刺繍、好きでした」
「ありがとうございます」
「でも今回は、最終候補には残しません」
「承知いたしました」
「理由を聞く?」
「ぜひ」
「私は、婚礼の日の思い出を服へ残すことより、その日どう動くかを優先したいと分かりました」
クラリッサが穏やかに頷く。
「分かりました」
次はヘンリック。
「あなたの案も、必要だと思います」
「では」
「でも、私は今回だけは、自分で歩くことを諦めたくない」
「……承知しました」
「王女として間違っていると思う?」
ヘンリックは少し考えた。
「いいえ」
「ほんと?」
「私なら選ばない、というだけです」
王女が少し笑う。
「最後まで頑固」
「殿下ほどでは」
「言うわね」
ヘンリックもほんの少し笑った。
残ったのは、ヴィオラとエステルだった。
「最終候補は」
分かっていても胸が鳴る。
「ヴィオラ・セルジュ」
「はい」
「エステル・ラヴィニア」
「はい」
二人が残った。
「最終選考は七日後」
王女が言う。
「今度は、私の寸法を取ってください」
エステルとヴィオラが同時に顔を上げる。
「二人とも」
「はい」
「はい」
「実際に、私が着ます」
ヴィオラの目が少し光る。
エステルも同じだと思う。
「完成品?」
「仮縫いまで」
セラフィーネが補足する。
「本縫い前の実寸試作。実際の動作、着脱、重量配分まで確認します」
「布は?」
「本番に近い試作用布を王室から支給する」
「採寸は?」
「このあと」
エステルの手が無意識に裁縫箱へ動く。
一目裁ちなら、できる。
でも使わない。
今回は祝福も魔術補助も禁止されている。
「通常採寸で行います」
エステルが言う。
セラフィーネが頷く。
「当然です」
リュシエンヌが少し残念そうな顔をする。
「一目でできるって聞いたのに」
「今回は規定がございますので」
「一回くらい」
「駄目です」
「エステル」
「駄目です」
「王女命令」
「選定会規定が優先です」
小広間に笑いが起きた。
「強い」
王女が言う。
「ヴィオラは?」
「私も駄目です」
「二人とも?」
「公平ですから」
「つまらない」
「婚礼衣装は面白くいたします」
ヴィオラが言う。
「それは期待する」
採寸室へ移動し、王女が薄い採寸着へ着替える。
エステルとヴィオラは、同じ寸法を別々に取った。
「肩幅」
「三尺——」
「待って、同時に言わないで」
「申し訳ございません」
王女が笑う。
「何か、不思議ね」
「何がです?」
「二人に服作ってもらうの」
「最終的には一人です」
ヴィオラが言う。
「そうだけど。どっちも着たい」
「二着?」
「駄目?」
「婚礼衣装としては」
エステルは少し考える。
「最終案に選ばれなかったほうを、別の式典服に直すことはできるかもしれません」
「ほんと?」
「用途が合えば」
「エステル」
ヴィオラが低く呼ぶ。
「何でしょう」
「仕事を増やさない」
「まだ決めておりません」
「顔」
「ヴィオラ様まで」
王女が笑う。
「仲いいのね」
「競争相手です」
二人の声が重なり、また笑いが起きた。
採寸は肩、胸、腰、背丈、腕、手首だけでは終わらない。座ったときの姿勢、普段の歩幅、階段で足を上げる高さまで確認する。
「そこまで?」
王女が尋ねる。
「歩く服ですので」
「私も」
ヴィオラが言う。
「私の案も、歩けることは同じ」
「そうでした」
エステルは少し悔しい。
ヴィオラも少し笑う。
やがて採寸が終わった。
最後に、エステルは王女へ尋ねる。
「殿下」
「何?」
「今日、私の案を選ばれた理由を、もう一つだけ伺ってもよろしいですか」
「最終候補に?」
「はい」
「あなたの服で、自分で何かをするのが面白そうだったから」
「面白そう」
「駄目?」
「いいえ」
「あと」
王女が背面図を見る。
「紋章」
「嫌では?」
「嫌」
「やはり」
「でも、嫌なのに必要だって言われて、ちゃんと理由が分かったのは初めてだった」
エステルは何も言わない。
「みんな、王女だから必要、で終わるの」
「はい」
「あなたは、私が王女として歩くから必要だって言った」
「はい」
「同じようで、違った」
王女は少し笑う。
「だから、まだ嫌だけど、着てみてもいいと思った」
「ありがとうございます」
「でも最終で嫌だったら?」
「変えません」
「そこは変えないの?」
「必要だと思っておりますので」
「頑固!」
「申し訳ございません」
王女は声を立てて笑った。
王宮を出たころ、空は夕方へ傾いていた。
店へ戻ると、扉の前にニナ、リリ、ベッシー、そしてなぜかアルヴィスまでいる。
「どうだった!」
リリ。
「早く」
ニナ。
「まず入れ」
ベッシー。
アルヴィスは何も言わない。
でも、一番よく見ている。
エステルは扉を開け、箱を置いた。
「最終候補に残りました」
一瞬、静かになる。
「やった!」
リリが跳ねる。
「ほんと?」
「本当です」
「ヴィオラは?」
「一緒です」
「やっぱり」
「嬉しそうですね」
「だって強いほうがいい」
「私もそう思います」
ベッシーがパンの袋を出す。
「また?」
「祝いだ」
「昨日も」
「今日は最終候補」
「リリと同じ理屈」
「いいことは分けて祝えばいい」
リリが胸を張る。
「そう」
アルヴィスがようやく口を開く。
「王女は?」
「紋章を嫌がりました」
「だろうな」
「でも残しました」
「怒った?」
「少し」
「それで残った?」
「はい」
アルヴィスが小さく笑う。
「悪くない」
ニナの指がすぐ一本立つ。
「今、一回」
「数えるな」
「久しぶりだから」
「忘れろ」
「無理」
エステルも笑う。
「次は七日後です」
「何をする」
「実寸の仮縫い」
「王女が着る?」
「はい」
「お前の紐も?」
「はい」
「自分で?」
「そのための服です」
「失敗したら」
「直します」
「時間は」
「七日」
「寝る?」
「公爵様」
「確認」
「寝ます」
「本当に?」
「その聞き方」
全員が少し笑った。
エステルは裁断台へ、今日持ち帰った灰青の裏地見本を置いた。
一着に、全部はいらない。今日、その意味が少しだけ分かった。
クラリッサの鈴蘭は美しかった。ヘンリックの王家の威厳も必要だった。ヴィオラの、人へ任せる構造も正しい。
どれも、それぞれに正しい。けれど一着へ全部は入らないからこそ、何を残し、何を捨て、何を着る人へ返すのかを選ばなければならない。
そして最後に選ぶのは、仕立て師ではない。着る人である、王女自身だ。
エステルは今日取った実寸の採寸表を、新しい紙の横へ置いた。
ここからが本当の始まりだ。今度は想像の中の王女ではなく、実際に歩き、座り、笑い、嫌だと言う一人の女性のために一着を縫う。
そのことが、エステルにはとても楽しみだった。




