第33話 歩いて分かること
最終候補に残った翌日から、店の空気は少しだけ変わった。
大きな仕事が増えたからといって、路地裏の仕立て屋の日常が止まるわけではない。朝には近所の老人が破れた袖口を持ってきて、昼前には子どもの外套の留め具が外れたと母親が駆け込んできた。ニナは新しい灰青の仕事着で店の中を動き回り、リリは花籠を抱えたまま、クッシュの様子を見に顔を出す。
その合間に、エステルは王女リュシエンヌの実寸へ合わせた仮縫いを進めていた。
まず、本番より安価な白い試作用布で内側の衣装を組む。歩くための本体は前裾を少し抑え、足先へ布が流れ込みすぎないようにする。背中から腰へは、外側の長い裾の重さを分散させるための細い支持帯を通した。
問題は、その上へ重ねる外裾だった。
「これ、重くない?」
ニナが、人台から垂れた白布を持ち上げる。
「本番よりは軽いです」
「でも長い」
「婚礼衣装ですから」
「王女様、一人で引っ張れる?」
「そこを確かめます」
前腰の内側には、左右から伸びてきた紐の先を隠す小さな袋を作った。輪へ指を入れて引けば、背中側の外裾が数段に分かれて持ち上がる。
縮小模型ではうまく動いた。けれど、実寸になれば話は違う。
布の重さは増えるし、引き紐も長くなる。さらに王女本人が動けば腰の位置も変わる。人台のように、ずっと真っ直ぐ立っていてはくれない。
「一回やっていい?」
ニナが紐へ手を伸ばす。
「人台でなら」
「どっち?」
「左右同時に」
ニナは両手の指を輪へ掛け、前へ引いた。
背中側で布が持ち上がる。
一段目、二段目、三段目。
「おお」
「止めてください」
「これで?」
「はい」
外裾は床から離れ、歩ける程度の長さになった。
「できるじゃん」
「人台では」
「王女様でもできるでしょ」
「そうだとよいのですが」
「何が心配?」
「引く力です」
ニナはもう一度紐を引いてみる。
「そんなに重くない」
「ニナは両手が空いています」
「王女様も空いてるんじゃない?」
「婚礼では、何かを持つ可能性があります」
「花?」
「それも」
「片手で?」
「やってみてください」
ニナは左手を胸の前へ置き、右手だけで片側の紐を引いた。今度は、右側だけが先に持ち上がる。
「曲がった」
「はい」
「じゃあ両手必要」
「今のままなら」
エステルは紙へ書き込む。
『片手操作不可。左右差が出る。』
「でも王女様、自分でやりたいんでしょ」
「だから、直します」
「どうやって?」
「まだ考えています」
「顔、困ってる」
「見れば分かりますわ」
「今日は認めるんだ」
「困っておりますので」
そこへヴィオラが来た。
今日は黒い上着の内側を灰色へ返した、仕事用の姿だ。
「できた?」
「仮組みです」
「見ていい?」
「どうぞ」
ヴィオラは背面へ回り、支持帯と引き紐を確認する。
「片手で引けない」
「さきほど分かりました」
「私もそこだと思った」
「ヴィオラ様の案は?」
「侍女がするから問題ない」
「そうでしたね」
「勝った?」
「まだです」
「残念」
口ではそう言うが、目は完全に技術者のものだった。
「左右を一本にまとめたら?」
ヴィオラが言う。
「途中で交差させる?」
「そう。でも摩擦が増える」
「紐を太くすれば」
「腰に響く」
「滑車は?」
「金具は禁止していないけど、重い」
「木?」
「薄く削れば」
ニナが二人の顔を見比べる。
「それ、もう一緒に作ってない?」
「違います」
「競争相手」
ヴィオラが言う。
「でも案出してる」
「相手の欠点を見つけるのは大事」
「直し方まで言ってる」
「……少しだけ」
ニナが笑う。
「仲いいじゃん」
「それは否定しない」
ヴィオラは簡単に認めた。
「エステルは?」
「競争相手です」
「そこだけ?」
「腕のよい」
「じゃあ仲いい」
「ニナ」
「はいはい」
ヴィオラは自分の提出用試作についても少し話した。
彼女の案は、外裾を侍女が畳むぶん、構造そのものは安定している。ただし、王女が「自分で歩く」ことを重視するなら、介添えを残した点が最終的にどう評価されるか分からない。
「私は、美しさと確実さを取る」
ヴィオラが言う。
「私は、殿下ご本人が扱えることを」
「分かってる」
「どちらが正しいのでしょう」
「王女が決める」
「そうですね」
「でも」
ヴィオラは、エステルの仮縫いを指で示す。
「自分でやらせるなら、失敗させたら駄目」
「はい」
「王女が一回引いて、裾が斜めになったら、それで終わる」
「厳しいですね」
「婚礼の日に使う仕組みだから」
そのとおりだった。
面白い、自分でできる。それだけでは足りない。婚礼という一度しかない日に使うなら、失敗しにくくなければならない。
「ありがとうございます」
「また言う」
「助かりましたので」
「次は私の欠点も言って」
「見つけます」
「強い」
ヴィオラが笑った。
二日後、王宮で最初の実寸仮縫いが行われた。
リュシエンヌは薄い採寸着の上へ、まず内側の本体を着る。
「軽い」
第一声だった。
「まだ外裾がございませんので」
「これだけでも婚礼衣装にできない?」
「できなくはありません」
「じゃあ」
「殿下」
「分かってる。婚礼らしさ」
「はい」
「嫌い、その言葉」
「でも必要です」
「もっと嫌い」
言いながらも、王女は笑っている。
エステルは肩、胸、腰の位置を確認し、仮止めした部分を少しずつ調整した。
「きついところは?」
「首の後ろ」
「どの程度」
「触れてる感じ」
「では半分出します」
「半分?」
「布を少し」
「すぐ直すのね」
「仮縫いですから」
王女が腕を上げる。
「ここは?」
「楽」
「肘」
「大丈夫」
「座っていただけますか」
「はいはい」
椅子へ座る。
ニナの仕事着とは違い、婚礼衣装なので布量は多い。それでも内側の本体だけなら、新郎が隣へ座る幅は十分に残る。
「アーサー、ここ入る?」
リュシエンヌが隣の椅子を叩く。
「入ります」
「よかった」
「そこが一番ですか」
「かなり大事」
王女は真面目な顔で言った。
「前の案、座ると私の裾がアーサーの椅子まで行ってたの」
「聞いております」
「本人は『上に座ればいい』って言うのよ」
「それは」
「駄目でしょう?」
「服としては、お勧めいたしません」
「やっぱり」
王女が満足そうに頷く。
そこで、扉が軽く叩かれた。
「殿下」
侍女が顔を出す。
「レイフォード卿がお見えです」
「アーサー?」
「予定より早く」
「入ってもらって」
エステルは一瞬、手を止めた。
「よろしいのですか」
「本人に座ってもらったほうが早いでしょう?」
「それは、そうですが」
「婚約者なんだから、仮縫いくらい見てもいいわ」
ほどなく入ってきたのは、濃い栗色の髪をした青年だった。年は二十代後半ほど。華美ではない紺の礼装を着ており、リュシエンヌを見るなり、まず足元へ視線を落とした。
「今日は短い」
「まだ中だけ」
「なるほど」
「ラヴィニア嬢」
王女が紹介する。
「こちら、アーサー・レイフォード」
「初めまして。エステル・ラヴィニアと申します」
「知っている」
「ご存じで?」
「リュシエンヌが、最近ずっと話している」
「ちょっと」
「歩く服の仕立て師」
「そういう言い方してない」
「変装した公爵の話も」
「アーサー!」
王女が顔を赤くする。
「それはヴィオラ様が」
「俺は何も聞いていない」
「今言ったでしょう」
「存在だけ」
「同じ!」
政治的な婚姻、王家、公爵家。そういう言葉ばかりを見ていたけれど、目の前の二人はごく普通に言い合っている。
「アーサー様。お願いがございます」
「何だろう」
「殿下のお隣へ座っていただけますか」
「それだけ?」
「はい」
「得意だ」
「何それ」
リュシエンヌが笑う。
二人が並んで座る。
肩の距離、裾、膝。問題ない。
「近い」
王女が言う。
「嫌か」
「逆」
「ならいい」
エステルは視線を下へ落とした。
座ったとき、前布が少しだけ新郎側へ流れる。
「殿下。右足を少し動かしていただけますか」
「こう?」
「はい」
布がアーサーの靴へ触れる。
「ここ」
「何?」
「少し流れます」
「別にいいけど」
「よくありません」
エステルは即答した。
「駄目?」
「何度も踏めば、布が傷みます」
アーサーが足を引く。
「では、俺が気をつける」
「婚礼の日ずっと?」
「できる」
「あなた、絶対忘れる」
「失礼だな」
「昨日も階段で私の外套踏んだ」
「あれは後ろから来たから」
「ほら」
エステルはまた紙へ記録する。
『座位、右側への流れ。前中心の重み調整必要。』
「服って大変ね」
王女が言う。
「着る方が動くので」
「人台なら楽?」
「とても」
「じゃあ人台に着せれば」
「婚礼できません」
「分かってる」
笑いが起きる。
次は外裾。
エステルと侍女二人で本体へ取り付けると、白い薄絹が背中から床へ長く流れた。
「これ」
王女が鏡を見て、少し黙る。
「どうでしょう」
「きれい」
「よかった」
「ちゃんと婚礼衣装」
「そこは大切です」
「分かってる」
アーサーも後ろへ回る。
「長い」
「婚礼ですから」
「持たなくていい?」
「殿下ご本人が」
「見たい」
王女は前腰に隠した左右の輪へ指を入れた。
「これね」
「はい」
「引く?」
「両手で」
「花持ってないから」
「まずは」
引く。
外裾が一段、二段と上がる。
しかし三段目で、左だけ止まった。
「あれ」
右は上がる。
左は半分。
「止めてください」
エステルがすぐに近づく。
「失敗?」
王女が尋ねる。
「はい」
隠さない。
「どこ?」
「左の紐が、腰の内側で少し噛みました」
「噛む?」
「布と布の間に挟まっています」
「じゃあ本番でも?」
「今のままなら、可能性があります」
王女の顔から少し笑いが消え、アーサーも真剣に見る。
「直せる?」
「直します」
「どうやって」
「紐を布の中で直接滑らせるのではなく、通り道を別に作ります」
「筒?」
「はい。細い滑り布を内側へ」
「重くなる?」
「少し」
「嫌」
「では、もっと薄い布を使います」
「切れない?」
「そこも試します」
「大丈夫?」
王女の問いは、責めるものではなく、婚礼の日に服が動かなくなることへの不安だった。
ヴィオラの言葉が頭へ戻る。
『自分でやらせるなら、失敗させたら駄目』
「今日、分かってよかったです」
エステルは答える。
「本番で分かるより」
「それはそうだけど」
「仮縫いは、失敗を見つけるためでもございます」
「失敗するため?」
「少し違いますが」
「でも近い?」
「近いです」
王女が少し笑う。
「なら許す」
「ありがとうございます」
「最終で直ってなかったら?」
「落としてください」
空気が止まる。
「エステル」
「はい」
「簡単に言うのね」
「婚礼の日に動かない仕組みを、お渡しできません」
「でも」
「服ですから」
いつもの言葉。
王女はゆっくり頷いた。
「分かった」
エステルは外裾を一度下ろし、噛んだ箇所の縫い目と角度を見る。
左だけ、なぜ。
王女は引くとき、少し左へ体重をかけていた。その瞬間、腰布がわずかに折れ、そこへ紐が食い込んだ。
「殿下」
「何?」
「先ほど、引くときに左足へ体重をかけました?」
「たぶん」
「もう一度、同じように」
「動かないけど?」
「確認だけ」
同じ姿勢。
腰の左側が折れる。
「これです」
「何が?」
「人が動くと、通り道そのものが曲がります」
人台では起きない。
「じゃあ筒を作っても曲がる?」
「硬くすれば曲がりませんが、着心地が悪くなります」
「じゃあ」
アーサーが口を開く。
「紐を、腰に通さなければいいのでは」
エステルが見る。
「どこへ?」
「もっと上」
「胸?」
「脇の下」
アーサーが、王女の肩から脇へ指で空中に線を描く。
「背中の重さ、肩にも分けてるんだろう?」
「はい」
「なら操作も、そこを使えば?」
エステルは紙へ描く。
背、肩、脇、前。
「可能です」
「ほんと?」
王女が尋ねる。
「ただ、紐が長くなります」
「また噛む?」
「腰よりは、折れが少ない」
「手を上げると?」
「そこです」
今度は腕の動きへ影響する。
「難しい」
アーサーが言う。
「服、面白いな」
「今そこ?」
「だって、紐一本でもこんなにある」
「あなた、楽しんでるでしょ」
「少し」
エステルも少し笑った。
「では、今日はもう一つ確認します」
「何?」
「片手」
「できないって言ってた」
「はい。でも、どの程度できないか」
「やるの?」
「やります」
王女が右手だけで輪を引く。
右側だけ上がり、左は残る。
「やっぱり駄目」
「はい」
「花、持てない?」
「現状では」
「花、持たなくてもいいけど」
「鈴蘭」
「それ、言う?」
「申し訳ございません」
「でも」
王女は鏡を見る。
「片手でできたらいいな」
「なぜ?」
王女が少し照れたように視線を逸らす。
「式のあと、アーサーと手をつなぐかもしれないから」
アーサーがむせる。
「何であなたが」
「いいでしょう」
「人前で?」
「婚礼なんだから」
「それは」
「嫌?」
「嫌ではない」
「じゃあ」
王女がエステルを見る。
「片手」
「……分かりました」
また難題。
けれど。
「考えます」
「できる?」
「今は、できるとは申し上げません」
「慎重」
「でも、作りたいです」
王女が笑う。
「じゃあ、お願い」
仮縫いは続く。
小さな三段の階段を、王女が上がり、下りる。外裾を下ろした状態でも介添えなしで歩けるが、右側へほんの少し流れやすい。
「ここも」
「何?」
「裾の落ち方です」
エステルはまた書き込む。
アーサーが後ろから見る。
「俺、何すれば?」
「歩いてください」
「どこへ」
「殿下の隣を」
「それなら得意」
「また言ってる」
二人が並んで歩く。
王女は少し速く、アーサーが合わせる。
「殿下、普段からこの速さ?」
「遅い?」
「いえ」
「王女にしては速い」
アーサーが言う。
「あなたが遅い」
「俺は普通」
「公爵様と同じ」
エステルが思わず口にする。
「誰?」
「ヴァルクレイ公爵閣下です」
「アルヴィス?」
王女がすぐ反応した。
「歩く速さまで測ったの?」
「必要でしたので」
「変装のとき?」
「それも」
「聞きたい」
「今は仮縫いです」
「終わったら」
「ヴィオラ様へ」
「逃げる」
アーサーが首を傾げる。
「変装って何だ」
「あとで話す」
「俺だけ知らない?」
「そう」
「ひどい」
エステルは少し笑いながら、紙へ歩幅を書いた。
仮縫いが終わるころ、紙は修正箇所でいっぱいになっていた。
左紐の噛み。片手操作。肩の支持帯。座位の右流れ。外裾の右寄り。手首にも、もう少し余裕が必要だ。
「多い」
王女が紙を覗く。
「はい」
「最終まで七日」
「はい」
「大丈夫?」
「やります」
「寝る?」
「……寝ます」
「何その間」
「大丈夫です」
「アルヴィスに言うよ」
「なぜ皆様」
「だって、あなた公爵に言われると少し聞くでしょう?」
「そうでしょうか」
「顔」
「殿下まで」
王女が笑う。
アーサーも言った。
「分かりやすい人なんだな」
「最近そう言われます」
「いいことじゃない?」
「そうでしょうか」
「何考えてるか分からないより」
その何気ない一言に、エステルは少しだけ止まった。
昔、婚約者にはよく言われた。
もっと愛想よく。
もっと分かりやすく。
もっと令嬢らしく。
けれど今、周囲が言う「顔に出る」は、責める言葉ではない。
「そうかもしれません」
エステルは答えた。
王宮を出る前、廊下でヴィオラとすれ違った。
「どうだった?」
「失敗しました」
「どこ」
「左の紐が噛みました」
「やっぱり」
「嬉しそう」
「少し」
「ヴィオラ様は?」
「私も」
「何が」
「侍女が裾を畳むとき、背中の留め具が一個見えた」
「それは」
「美しくない」
「直せます」
「直す」
二人で同時に笑う。
「エステル」
「はい」
「最終、楽しみ」
「私もです」
「負けない」
「私も」
「それでいい」
ヴィオラはそう言って去った。
店へ戻ると、ニナが待っていた。
「どうだった」
「直すところが増えました」
「落ちた?」
「まだです」
「王女様、怒った?」
「少し困らせました」
「どこ」
「紐です」
説明すると、ニナは人台を見た。
「片手ね」
「はい」
「じゃあ一本にすれば」
「左右を一本へまとめる?」
「前で」
「途中で引っかかる可能性があります」
「じゃあ」
ニナは自分の仕事着のポケットへ触れる。
「ここ」
「何が?」
「輪っか二個、同じ指に入れたら?」
エステルの手が止まった。
「二本のまま?」
「うん」
「でも左右差が」
「長さ同じにして、輪を重ねる」
「同時に引く」
「片手で」
エステルはすぐに紙へ描く。
左右二本の紐は別々のまま前へ通し、最後の二つの輪だけを同じ位置へ重ねる。二本の指へ通して同時に引けば、片手でも左右へ同じ力を掛けられる。
「できます」
「ほんと?」
「ただし、左右の抵抗が同じなら」
「じゃあ通り道直す」
「はい」
「採用?」
「試します」
「給金」
「そこは忘れませんね」
「意匠補助」
「覚えていたのですか」
「仕事だから」
ニナが笑う。
そのとき、扉が開いた。
アルヴィスだった。
「戻った?」
「はい」
「どうだった」
「失敗しました」
アルヴィスが少し止まる。
「落ちた?」
「まだです」
「なら失敗じゃない」
「でも」
「直すための仮縫いだろ」
王女と同じことを言われた。
「皆様、今日は同じことをおっしゃいます」
「誰」
「王女殿下」
「リュシエンヌが?」
「はい」
「珍しい」
「何が」
「人の失敗に寛容」
「公爵様」
「事実だ」
エステルは笑う。
「片手で裾を上げたいそうです」
「なぜ」
「アーサー様と手をつなぐかもしれないから」
アルヴィスは無言になった。
「何です?」
「……婚礼なら、そういうこともある」
「はい」
「それで」
「考えます。ニナの案を」
「また?」
「またです」
ニナが胸を張る。
「わたし意匠補助」
「正式?」
「たぶん」
「給金出る?」
「出ます」
「なら正式だな」
「公爵も分かってる」
「何が」
「仕事」
ニナは満足そうだった。
エステルは、アルヴィスの灰色の上着を見る。
「公爵様」
「何だ」
「もし片手で何かを受け取らなければならないとき、もう片方の手は空けておきたいと思いますか」
「急だな」
「人の手を握るかもしれませんので」
言ってから、自分で少し恥ずかしくなる。
アルヴィスはこちらを見た。
「王女の話?」
「もちろんです」
「そうか」
「何です?」
「いや」
少し間を置いてから。
「片手でできたほうがいい」
「ですよね」
「ああ」
「では、やります」
「七日で?」
「はい」
「寝ろ」
「分かっております」
「本当に?」
「その聞き方」
ニナが笑う。
クッシュが箱の中で、ふしゅっと鳴いた。
仮縫いは、うまくいかなかった。それでも、歩かせたから分かったことがあり、座らせたから分かったこともある。
人台では分からない。体重のかけ方も、歩く癖も、歩幅も、隣にいる人も、つなぎたい手も。
服は人が着る。当たり前のことだからこそ、布だけを見ていては足りない。
王女が歩き、座り、笑い、怒り、誰かと手をつなぐ。その全部の中で邪魔をせず、必要なときだけ少し助ける服。
エステルは新しい紙を一枚取り出し、右上へ小さく書いた。
『片手でも、できる』
最終選考まで、あと七日。




