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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第2部 王女の婚礼衣装と、仕立て師たち

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第34話 空けておく片手

 翌朝、エステルは開店の札を表へ出す前に、昨日の仮縫いで使った引き紐をすべて外した。


 左側の紐が腰の内側で噛んだ原因は分かっている。リュシエンヌが体重を片側へ寄せたとき、布の通り道そのものが折れ、そこへ紐が食い込んだのだ。


 人台では起きない。立ったまま両手で真っ直ぐ引くなら、きれいに動く。けれど実際に着る人は、歩き、座り、振り返り、誰かと話す。婚礼の日ならなおさら、ずっと同じ姿勢でいるはずがない。


「全部取ったの?」


 ニナが、床へ落ちた細い紐を拾う。


「はい」


「昨日作ったのに」


「昨日駄目だと分かりましたので」


「もったいない」


「紐は使い直せます」


「縫ったところは?」


「ほどきました」


「やっぱりもったいない」


「ほどけるように縫ったのです」


 エステルは試作用の上半身を裏返し、腰の内側を見せる。


「本縫いではありませんから、失敗したら戻せるようにしています」


「最初から失敗するつもり?」


「失敗したいわけではありません。ただ、最初から完成するとも思っておりません」


 ニナは少し考え、それから自分の仕事着の脇下を触った。


「これも?」


「ええ。正式審査で直しました」


「今は動く」


「だから、直した意味がありました」


「じゃあ王女様のも、失敗してよかった?」


「そこまで言うと怒られそうですわ」


「でも、昨日見つかった」


「はい。それはよかったです」


 裁断台の端には、昨夜描き直した図が三枚並んでいる。一枚目は左右二本の紐を一本へまとめてから前へ引く案、二枚目は紐を腰ではなく脇の高い位置へ通す案、三枚目は左右二本を別々のまま残し、最後の輪だけ同じ場所へ重ねる案だった。


 最後の案はニナのものだ。


「これから?」


 ニナが三枚目を指す。


「まずは」


「給金」


「まだ採用しておりません」


「試すのも仕事」


「覚えるのが早すぎます」


「エステルが払うって言った」


「言いましたけれど」


 エステルは苦笑しながら、細い白紐を二本取り出した。長さを揃え、一本ずつ別の通り道を作る。


 問題は、その通り道だった。柔らかすぎれば昨日のように布と一緒に折れ、硬くすれば紐は滑るものの、今度は着た人の腰へ当たる。


「滑る布って何?」


「絹が一番ですが、薄すぎると擦れて切れます」


「じゃあ二枚」


「重ねると厚くなります」


「面倒」


「服は面倒ですわ」


「エステル、楽しそう」


「そう見えます?」


「すごく」


 否定できなかった。


 机へ向かい、布を触り、引き、ほどき、また縫う。失敗すれば悔しいが、どこが駄目だったのか分かれば、次を考えられる。


 十年前の母の事件のように、誰が何をしたのか分からないまま縫い目だけを追うのとは違う。今は、自分が縫ったから失敗の理由も自分で探せる。それが、少し嬉しかった。


「これは?」


 ニナが裁縫箱の奥から、細い帯状の布を出した。


「それは補強用の綿帯です」


「滑らない?」


「むしろ止まります」


「駄目か」


「でも」


 エステルは受け取り、指の間へ通した。


「外側に使えるかもしれません」


「外?」


「紐の通り道そのものを、体へ直接縫い付けないのです」


 人台へ試作用の衣装を着せ、腰の内側へ幅のある帯を一本渡す。その帯の上へ、紐の通り道を縫い付ける。


「服が折れても、帯が少し浮けば」


「道はまっすぐ?」


「完全ではありませんが、昨日よりは」


「やる?」


「やります」


 そこから一刻。


 一度目は失敗。帯が柔らかすぎて、結局一緒に曲がった。


 二度目も失敗。帯を厚くしたら、今度は腰へ板のような感触が出た。


 三度目は引き紐こそ滑ったものの、外裾を下ろすときに戻りが悪い。


「三回」


 ニナが言った。


「数えなくて結構です」


「審査じゃないから?」


「私の心に悪いからです」


「エステルもそういうこと言うんだ」


「言いますわ」


 四度目に入ろうとしたところで、入口の鈴が鳴った。


「開いてる?」


 リリだった。


「一応」


 ニナが答える。


「一応って何」


「エステルが服と喧嘩してる」


「喧嘩はしておりません」


 リリは裁断台の白布と、床に落ちた紐を見た。


「負けてる?」


「今のところ、少し」


「珍しい」


「皆様、私を何だと思っているのでしょう」


「何でも縫える人」


「そのようなことはありません」


 リリは花籠を椅子へ置くと、白紐を一本つまんだ。


「これ、何するの?」


「引くと後ろの裾が上がります」


「一人で?」


「その予定です」


「こう?」


 リリが適当に引く。


「待ってください。それはまだ」


 紐が片方だけ動き、当然、後ろ裾も片側だけ上がった。


「曲がった」


「今、直しているところです」


「二本だから?」


「そうです」


「花籠と同じだね」


 エステルの手が止まる。


「花籠?」


「これ」


 リリは自分の籠を持ち上げた。肩から掛ける一本の帯は、籠の手前で二本に分かれ、前後を支えている。


「これ、片方だけ引っ張られないのですか」


「重いときは少し。でも、ここがあるから」


 リリが示したのは、帯が二股へ分かれる手前に付けられた、小さな革の平たい輪だった。二本の細い帯が輪を通り、その先で一本の肩帯へまとまっている。


「花市場の籠はみんなこれ?」


「重いのは。片方に花多くても、肩が痛くなりにくいから」


「誰が作ったのです?」


「籠屋のおじさん」


「服屋ではなく?」


「籠屋」


 ニナが笑う。


「エステル、仕立て屋なのに籠に負けた」


「負けておりません」


「さっき少し負けてるって」


「それとこれは別です」


 口では言いながら、エステルの目は小さな輪から離れない。


 二本を一本へする。けれど、結び目で完全に固定しない。輪の中で二本が少し動けるから、片側へ重さが寄ったときにも、反対側へ逃げる余裕がある。


「リリ。少しお借りしても?」


「籠?」


「この部分だけ見たいです」


「花落とさないでね」


 エステルが構造を確かめていると、扉の近くから声がした。


「骨」


 三人が振り返る。


 ヴィオラだった。


「いつから?」


「籠屋に負けたところから」


「負けておりません」


「私も負けた」


「ヴィオラ様も?」


「同じこと考えてなかった」


 彼女はリリの籠を一度見ただけで、構造を理解したらしい。


「磨いた薄い骨輪なら、軽いし滑る」


「王室衣装室にございます?」


「留め具用なら」


「厚さは?」


「二分くらいまで削れる」


「割れません?」


「荷重次第。裾全部の重さを輪に掛けるのは駄目」


「操作だけなら」


「いけるかも」


 ニナが二人を見る。


「また一緒に作ってる」


「違う」


「競争相手です」


「昨日も聞いた」


 リリが笑う。


「仲良し」


「それでいい」


 ヴィオラが言った。


 エステルは少し困る。


「否定しないのですね」


「面倒だから」


「そういう理由」


「あと事実」


 ヴィオラは裁断台へ近づき、自分の鞄から小さな白布を出した。


「私も失敗した」


「留め具?」


「見える問題は直した。でも今度、侍女が三つ外す順番を間違えると外裾が落ちる」


「危険ですね」


「だから順番をなくす」


「一度で?」


「一本引けば三箇所外れる」


「それこそ紐」


「そう」


 二人で顔を見合わせる。


 今度はニナとリリが同時に笑った。


「同じ」


「同じだね」


「静かにしてください」


 エステルとヴィオラの声まで重なった。


 昼前、ヴィオラが王室衣装室から磨いた骨輪を二つ届けてくれた。


 小さく、薄い。角は丸く、衣装の表へ出しても装飾になるほどきれいだが、今回はすべて内側へ隠す。


「一個でいいのでは?」


 ニナが尋ねる。


「予備です」


「割れるかも?」


「割れないように作りますが、試験では壊すつもりで引きます」


「壊すの?」


「壊れないことを確かめるためです」


「服、大変」


「今さらですわ」


 新しい構造は、思っていたより単純だった。


 外裾から伸びる左右二本の引き紐を、それぞれ別の滑り布の中へ通す。腰へ直接沿わせず、背中の支持帯から脇へ向かう細い経路へ移し、二本は前脇で骨輪を通って、そこで初めて中央の一本の操作帯へつながる。


 王女が引くのは、その操作帯だけ。左右二本の長さが揃っていれば、片手で引いても同時に動く。


「やるよ」


 ニナが人台の前へ立つ。


「ゆっくり」


「分かってる」


「最初は半分」


「はいはい」


 一本の輪へ指を入れる。


 引く。


 背中の左右が同時に動き、一段、二段、三段と上がった。


「……上がった」


「止めてください」


 エステルはすぐに後ろへ回る。左右差はほぼなく、骨輪にも歪みはない。通り道も噛んでいない。


「もう一度」


「下ろす?」


「はい」


 戻す。


 今度は少しだけ引っかかった。


「あ」


「どこ?」


「右が遅い」


 原因を確かめると、操作帯の結び目が骨輪の手前へ当たっている。


「ここを縫い目に変えます」


「結ばない?」


「厚みを減らします」


「またほどく?」


「はい」


 ニナが楽しそうに言う。


「四回目」


「数えないでください」


 午後。


 五回目は成功。


 六回目も成功。


 七回目は人台を少し左へ傾けて引き、成功。


 八回目は右へ傾けても成功。


 九回目は前へ屈ませると、少し重かった。


「まだ」


 エステルが言う。


「動いたよ」


「重かったでしょう」


「ちょっと」


「婚礼の日は、疲れています」


「じゃあ駄目?」


「もう少し軽くします」


「どうやって」


「外裾の上段だけ布量を減らします」


「見た目変わる?」


「ほとんど」


 大きくは変えない。外裾上部の重なりをほんの少し減らし、下へ流れる量は残す。婚礼らしい姿は保ったまま、持ち上げる重さだけを減らす。


 十回目。


 成功。


 十一回目。


 成功。


「まだやる?」


「あと九回」


「二十回?」


「最低でも」


「わたしの仕事着、そんなにやった?」


「ポケットはしました」


「知らなかった」


「言っておりませんので」


「いつ」


「夜」


「寝てない」


「寝ました」


「何刻」


「ニナ」


「公爵に言う」


「最近それが脅しになっておりますわ」


 ちょうどそのとき。


「何を言う?」


 アルヴィスが入ってきた。


「早い」


 ニナが言う。


「呼ばれてない」


「仕事が終わった」


「まだ昼」


「俺の仕事は朝から始まる」


「公爵っぽい」


「公爵だ」


 エステルは笑いそうになりながら、骨輪を確認する。


「何をしている」


「王女殿下の裾を、片手で上げる仕組みです」


「直った?」


「今のところ」


「何回」


「十一」


「あと」


「九回」


「ならやれ」


「公爵様まで」


「試すんだろ」


「はい」


「俺もやる」


「公爵様が?」


「ああ」


「王女殿下とは体格が違います」


「紐だけなら関係ない」


 確かに。


「では、こちらへ」


 アルヴィスは人台の前へ立つ。


「右手で」


「なぜ」


「殿下が片手で扱う想定なので」


「左手は?」


「何か持ってください」


 ニナがすぐに、近くの帳簿を渡した。


「これ」


「なぜ帳簿」


「花より重い」


「そういう問題か」


「試すなら重いほうがいい」


 アルヴィスは諦めたように帳簿を左手へ持ち、右手の指を操作帯の輪へ入れた。


「引く」


「ゆっくり」


 外裾が左右同時に上がる。


「軽い」


「本当に?」


「ああ」


「もう一度」


 下ろして引く。


 成功。


「今度は、少し左へ体重を」


「俺が?」


「はい」


「王女役か」


「試験役です」


「同じでは」


「違います」


 ニナが笑う。


 左へ重心を寄せて引く。


 成功。


 右も成功。


 少し前へ屈んでも成功した。


「十五」


 ニナが数える。


「十六です」


 エステルが訂正する。


「数えてるじゃん」


「必要です」


「さっき嫌がってたのに」


「今は成功数ですから」


「都合いい」


 アルヴィスが操作帯を見た。


「これなら、片手は空く」


「はい」


「何を持たせる?」


「殿下がお決めになります」


「花か」


「それも」


「手か」


 エステルの針先が止まった。


「……それも」


 アルヴィスも黙る。


 直接、人の手を取ることは、彼にはまだ簡単ではない。善意を受け取れない呪いがあり、触れれば相手から何かを奪うかもしれない。


「公爵様」


「何だ」


「今は帳簿で十分です」


「何の話だ」


「いえ」


「顔」


「今日は読まないでください」


「なぜ」


「何となくです」


 アルヴィスは少しだけ目を細めたが、それ以上聞かなかった。


 十七回。


 成功。


 十八回。


 成功。


 十九回で、途中の骨輪が小さく鳴った。


 エステルが止める。


「割れた?」


「いいえ」


 外して見ると、表面にごく細い擦れ跡がある。


「これ、二十回でこうなる?」


「本番は二十回も使わない」


 アルヴィスが言う。


「一日で数回でしょう」


「だからといって」


「気になる?」


「はい」


「なら替える?」


「材質ではなく、紐側を」


 普通の綿紐は表面が少し粗い。このままでは骨を削る。


「絹紐」


 エステルが言う。


「滑りすぎない?」


 ニナが尋ねる。


「撚りを強くします」


「高い?」


「王室衣装です」


「それならいいの?」


「必要なら」


 アルヴィスが言う。


「珍しく金額を気にしない」


「必要なものを削るほうが高くつくことがあります」


「経費みたい」


「何です?」


「別の話」


「公爵様?」


「何でもない」


 少し妙な返事だったが、今は紐のほうが大切だ。


 絹紐へ替える。


 二十回目。


 成功。


 二十一、二十二、二十三。


 擦れはほとんど出ない。


「これで」


 ニナが言う。


「完成?」


「まだです」


「また?」


「王女殿下が着て、初めて」


「じゃあ店では終わり?」


「今日のところは」


 ニナが両腕を上げた。


「やった」


「なぜニナが一番喜ぶのです」


「引いたから」


「意匠補助だから」


 アルヴィスが言う。


「公爵、分かってる」


「給金を請求される側じゃないからな」


「エステル、払って」


「払います」


「ほんと?」


「正式に採用されたら」


「最終で選ばれたら?」


「いいえ。今回の構造へ使いますので、選ばれなくても」


 ニナが少し驚いた顔をする。


「負けても?」


「仕事は仕事ですから」


「そっか」


「はい」


 アルヴィスが、小さく言った。


「悪くない」


 ニナの指が一本立つ。


「一回」


「数えるな」


「今日初」


「だから何だ」


「久しぶり」


「忘れろ」


「無理」


 エステルは笑いながら、絹紐の端を整えた。


 夕方、ヴィオラがもう一度店へ来た。自分の試作を抱えている。


「どう?」


「片手で動きました」


「見せて」


「ヴィオラ様のは?」


「一本で三つ外れるようにした」


「見せてください」


 二人は互いの試作を交換した。


 まずヴィオラが操作帯を引く。


「軽い」


「絹紐にしました」


「骨輪?」


「はい」


「籠屋」


「リリのおかげです」


「負けた」


「何に?」


「路地裏」


「私は嬉しいです」


「何で」


「仕立て屋だけで考えなくてもよいと分かったので」


 ヴィオラは操作帯を戻す。


「これ、強い」


「まだ王女殿下で試しておりません」


「それでも」


「ヴィオラ様のも」


 彼女の試作は、背面の一本の細い帯を引くと三つの留め具が順に外れ、外裾を内側へきれいに畳める。


「きれいです」


「侍女がやる」


「はい」


「本人は何もしない」


「はい」


「そっちと逆」


「だから、どちらを選ぶか楽しみです」


 ヴィオラが少し黙る。


「ほんとにそう思ってる?」


「はい」


「負けても?」


「悔しいです」


「なら安心」


「何が?」


「楽しみだけって言われたら腹立つ」


「勝ちたいです」


「私も」


「でも、ヴィオラ様の一着も見たいです」


「……それは私も」


 二人で少し笑う。


 競争というものが、エステルには少し不思議だった。


 昔の社交界では、誰かが褒められれば自分が下がり、誰かが選ばれれば自分が落ちる。ずっと、そういうものだと思っていた。


 でも今、ヴィオラのきれいな縫い目を見ると悔しいのに、同時に面白い。自分ももっとよくしたいと、素直に思える。


 その夜、王宮から最終選考について追加の通知が届いた。


 封は王室衣装室。差出人はセラフィーネ。


「何です?」


 ニナが尋ねる。


「最終選考の動作確認場所について」


「この前と違う?」


「はい」


 エステルは読む。


『最終仮縫い確認は、実際の婚礼行進路を用いて行う。


 王女私室前より西回廊を通り、西礼拝堂へ。

 礼拝堂前階段、祭壇前、着席位置、退出路までを確認する。』


 エステルの視線が一行へ止まった。


 西回廊。


「そこ」


 まだ店に残っていたアルヴィスが言う。


「はい」


「俺が刺された場所だ」


 部屋の空気が少しだけ変わった。


 十年前の婚礼の日、アルヴィスが呪いを縫い込まれた西翼の回廊。母リディアが婚礼衣装の縫い目が違うと気づいた、その同じ日の同じ場所。


「偶然でしょうか」


 ニナが尋ねる。


「婚礼の行進路なら、昔から同じ可能性があります」


 エステルは答える。


「リュシエンヌも西礼拝堂を使う」


 アルヴィスが言った。


「十年前の王太子妃も?」


「ああ」


「では」


「偶然というより、同じ儀礼だから同じ場所を通る」


「そうですね」


 だから、すぐに怖がる必要はない。けれど、無視もできなかった。


「公爵様」


「俺も行く」


「まだ何も申し上げておりません」


「言う顔だ」


「今回は読んでよいです」


「王宮へ話す」


「選定会へ公爵様が入るのは」


「入らない。回廊の安全確認だけだ」


「ユリウス様と?」


「ああ」


「でしたら」


 エステルは頷く。


 一人で行かない。危険を勝手に追わない。


 約束は守る。


「私も、服の確認に集中します」


「そうしろ」


「ただし」


「何だ」


「縫い目は見ます」


 アルヴィスが少し笑う。


「それは止めても無駄だな」


「仕立て師ですから」


「出た」


 ニナが言う。


 笑いが一度だけ戻った。


 エステルは通知を裁断台へ置いた。その横には、今日二十三回試した片手操作の仕組みがある。


 服は前へ進んでいる。けれど、その行き先には十年前の古い場所が待っている。


 王女の婚礼衣装、母の婚礼衣装、アルヴィスの傷。三つの糸が、同じ回廊へ近づいていた。


 それでも今やることは一つだ。王女が片手を空けたまま、自分の裾を上げられること。


 誰かの手を取りたいと思ったとき、その手を服のために諦めなくてよいこと。


 エステルは操作帯の輪へ指を入れ、もう一度引いた。


 左右同時に、外裾が滑らかに持ち上がる。


 今度は、止まらなかった。

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