第35話 十年前と同じ回廊
最終選考の日、王宮西翼は朝から静かだった。
普段なら侍女や官吏が行き交う回廊も、この時間だけは婚礼衣装の動作確認のために人を減らしてある。王女私室前から西礼拝堂までの道には、必要な立会人と記録係、それから警備の騎士だけが残っていた。
エステルが到着したとき、すでにヴィオラは自分の試作衣装を運び込んでいた。
「早いですね」
「そっちも」
「眠れました?」
「六刻」
「負けました」
「何刻?」
「五刻半」
「勝ち負けじゃない」
「そうでした」
いつものやり取りをしながらも、二人とも声は少し硬い。今日で決まる。第一王女リュシエンヌの婚礼衣装を、どちらが仕立てるのか。
もっとも、ここまで来ると勝ちたいという気持ちだけではなかった。自分の一着が本当に王女の一日へ耐えられるのか、そのことを最後まで確かめたい。
エステルの試作は、前回から大きく二箇所を変えている。一つは、外裾を片手で持ち上げる操作帯。腰へ直接通していた二本の紐を、背中の支持帯から脇へ流し、前脇の小さな骨輪を経由して一本の操作帯へまとめた。操作するのは前腰の内側に隠した一つの輪だけでよい。
もう一つは、座ったときに右側へ布が流れる問題だ。前中心の裏へごく細い重り布を入れ、左右へ同じだけ布が落ちるよう調整した。金属は使わず、目の詰まった布を何層か重ねただけなので、外から見ても形はほとんど変わらない。
「二十三回のやつ?」
ヴィオラが操作帯を見る。
「そのあとも試しました」
「何回」
「四十七」
「やりすぎ」
「途中で数え直したので」
「もっと?」
「公爵様に怒られました」
「当然」
ヴィオラはそう言って、自分の試作を見せた。
彼女の衣装もまた、前回から変わっていた。三箇所の留め具を侍女が順番に外す方式をやめ、背中内側の一本の細い帯を引けば、三つの留め具がほぼ同時に外れる。外裾はそのまま内側へ折り込める構造で、操作の確実さはエステルのものより明らかに高い。
「きれいです」
「そっちより失敗しにくい」
「はい」
「悔しい?」
「かなり」
「よかった」
「でも、殿下ご本人は何もしません」
「そう」
「そこは私のほうが強いと思っています」
ヴィオラが笑う。
「今日は素直」
「選定会ですので」
「いつもそれくらいでいい」
そこへセラフィーネが来た。
「二人とも、準備は?」
「はい」
「できています」
「では、まず衣装単体の確認。そのあと王女殿下に順番に着ていただき、私室前から礼拝堂まで歩いていただく。着席、立ち上がり、階段、方向転換、外裾処理まで全部見るわ」
「順番は?」
「昨日抽選済み。先にヴィオラ、次にエステル」
「分かりました」
「それから」
セラフィーネの目が、二人の向こうへ向く。
「西回廊の一部に追加の警備が入っているけれど、選考とは無関係。気にしないで」
エステルも振り返る。
遠く、回廊の角にアルヴィスとユリウス、それから騎士が二人いる。こちらへは来ない。約束どおり、安全確認だけだ。
「何かございましたか」
「今のところ何も。ヴァルクレイ公爵が十年前の位置を確認したいと」
「分かりました」
「あなたは服を見なさい」
「はい」
「本当に」
「はい」
「返事が良すぎる」
「皆様から言われますので」
セラフィーネは小さく息を吐いた。
「リディアよりは聞き分けがいいことを祈るわ」
「母よりは、たぶん」
「そこは自信を持って」
第一王女が入ってきたのは、その少しあとだった。
今日は髪も本番に近い形でまとめている。装飾品は減らしてあるが、頭部の高さや重量が普段とは違うため、歩く姿勢にも影響する。
「おはよう」
「おはようございます、殿下」
「今日は決める日ね」
「はい」
「緊張してる?」
「かなり」
「ヴィオラは?」
「普通です」
「嘘」
「少し」
リュシエンヌが笑う。
「よかった。私だけじゃない」
「殿下も?」
「だって、選ぶの私でしょう? 二人ともよかったら困る」
「それは、嬉しい困り方では?」
「仕立て師はそう言えるでしょうね」
最初はヴィオラだった。
彼女の試作衣装は、着た瞬間から完成形に近く見えた。
白い絹の落ち方がきれいで、胸元から腰まで余計な線がほとんどない。長い後ろ裾は堂々としているのに、重さが腰へ集中しないよう背中側で支えられている。
「きれい」
王女が鏡を見る。
「ありがとうございます」
「前より軽い?」
「支持位置を上げました」
「歩ける?」
「どうぞ」
王女私室前から歩き出す。
一歩目、二歩目。外裾は後ろへきれいに流れ、左右差もない。
「速くても?」
「少しなら」
王女がいつもの速度まで上げる。ヴィオラが後ろから確認するが、問題は起きなかった。
西回廊へ入る。
長い窓、古い石床、その上を白い布が滑るように進む。
エステルは立会人側からそれを見る。ヴィオラの服は強い。悔しいほどに、きれいだった。
礼拝堂前の三段を上り、下りる。王女は裾を持たない。それでも問題なし。
祭壇前へ立ち、そのあと着席位置へ移る。
今日はアーサーも呼ばれていた。
「俺も?」
「座る試験だから」
「分かった」
二人が並んで座る。
ヴィオラの衣装は少し裾が広いものの、新郎側の椅子までは届かない。
「近い」
王女が言う。
「前の仮縫いより?」
「そう」
「ならよかった」
次は外裾を短くする。
「殿下、立って」
「私は何を?」
「何もしないでください」
「やっぱり」
侍女が一人、背中の内側へ手を入れ、一本の帯を引いた。
三つの留め具がほぼ同時に外れる。外裾を持ち上げ、内側へ畳み、固定。
短い。
「何秒?」
「半分も経っていません」
「早い」
「練習すればもっと」
「私、何もしてない」
「はい」
「楽」
「それを優先しました」
王女が鏡を見る。
長かった後ろ姿が、晩餐向けの短い形へ変わっている。それでも線は崩れていない。
「これ、すごくきれい」
正直な声だった。
エステルの胸が少し痛む。
いい。本当に。
「ヴィオラ」
「はい」
「私の希望と違うところは、やっぱり同じね」
「はい」
「自分でやらない」
「そこは変えませんでした」
「理由も?」
「美しさと確実さを優先したからです」
「今も?」
「今も」
王女は少し考えてから頷いた。
「分かった」
ヴィオラの確認が終わる。
戻ってきた彼女とすれ違う。
「強いです」
エステルが小声で言う。
「そっちもやって」
「はい」
「負けないで」
「競争相手へ言います?」
「弱い相手に勝っても嬉しくない」
「そうですね」
「行って」
今度はエステル。
王女へ試作衣装を着せる。
まず内側の白。その裏には灰青。
王女が裾を少し持ち上げる。
「あ」
「何でしょう」
「青」
「はい」
「前より好き」
「なぜ?」
「見つけた感じがする」
エステルは少し笑う。
「それなら、よかったです」
外裾を取り付け、支持帯を肩、背、腰へ合わせる。操作帯は前腰の内側へ隠した。
「紐」
王女が言う。
「一本になりました」
「片手?」
「はい」
「やるの楽しみ」
「まず歩いてからです」
「分かってる」
私室前で立つ。
「どこか当たります?」
「ない」
「首」
「平気」
「肩」
「少し重い」
「どちら」
「左」
エステルが近づき、支持帯の位置を半分だけずらす。
「今は?」
「右」
「では、ここ」
微調整。
王女が歩く。
一歩、二歩。前裾は足へ絡まず、外裾は後ろへ流れる。
「速くしても?」
「お願いします」
少し速く。
問題なし。
「これなら逃げられる」
「逃げないでください」
「婚礼からじゃない」
「何から?」
「宴会」
「それも困ります」
笑いながら西回廊へ入る。
エステルの足が、ほんの少しだけ硬くなった。
知っている。
ここは十年前、アルヴィスが刺された場所に近い。母が異変へ気づき、婚礼衣装の裏を見ようとした日と同じ回廊。
でも今日は、王女の服を見る。
「エステル」
王女が呼ぶ。
「はい」
「顔」
「申し訳ございません」
「何かある?」
一瞬、隠そうとした。
でもやめる。
「十年前、公爵様が傷ついた場所が近くです」
王女の表情が少し変わる。
「ここ?」
「はい」
「今日、いるの?」
「安全確認を」
遠くにアルヴィスが見える。
王女が小さく手を上げる。
アルヴィスは一瞬止まり、それからごく小さく返した。
「なら大丈夫」
「殿下」
「何?」
「怖くありませんか」
「少し」
「でしたら」
「でも、ここを通るのは私が決めたことじゃない。でも、歩くのは私」
エステルは王女を見る。
「だから、行く」
「はい」
歩く。
白い裾が、十年前と同じ回廊を進む。
でも違う。
今度の服は、本人が選ぶ。
その途中、エステルの目が壁際へ止まった。
石壁の前に垂れた細長い壁布。その下端に補修跡がある。
針目は細かい。
表から見れば普通。
でも一針だけ、方向が違う。
どこかで見た。
「エステル」
セラフィーネの声。
「服」
「はい」
戻す。
今は選考中だ。止まらない。
王女が階段を上る。一段、二段、三段。
外裾に問題はない。
下りるとき、右へほんの少し寄る。エステルは確認するが、許容範囲だ。
祭壇前へ立つ。
アーサーが隣へ来る。
「どう?」
王女が尋ねる。
「似合う」
「服の話」
「それも」
「ちゃんと」
「歩いてるとき、後ろきれいだった」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあいい」
「軽い?」
「前のより」
「それなら」
二人が座る。
今度は右側へ布が流れない。アーサーの靴にも触れなかった。
「直った」
王女が言う。
「はい」
「踏まれない」
「踏みません」
アーサーが言う。
「前回は」
「忘れてください」
「記録に残っています」
「エステル」
「事実ですので」
笑いが起きる。
最後は操作帯。
「やっていい?」
「はい」
「片手?」
「片手で」
王女が左を見る。
アーサーが手を出した。
「本当に?」
「試験だろ」
「そうだけど」
「嫌なら」
「嫌じゃない」
王女が左手でアーサーの右手を取る。
エステルは少しだけ息を止めた。
王女の右手が前腰へ入り、操作帯の輪へ指を掛ける。
「引きます」
「ゆっくり」
引く。
骨輪の中を紐が滑る。
左右同時に、一段、二段、三段。
外裾が持ち上がる。
止まる。
左右差はない。
王女はアーサーの手を離していない。
「できた」
小さい声。
でも、嬉しさが隠れていない。
「はい」
「私が?」
「はい」
「片手で」
「はい」
王女がアーサーを見る。
「できた」
「見てた」
「どう?」
「すごい」
「服が?」
「お前が」
「今は服」
「服も」
王女が笑う。
エステルも笑った。
四十七回試した意味があった。
「戻すのも?」
「できます」
「片手で?」
「少し練習が必要です」
「やる」
「今?」
「今」
王女は本気だった。
操作帯を少し緩め、外裾を戻す。
一度目は途中で止まった。
「失敗」
「少し」
「もう一回」
二度目。
成功。
「できた」
「はい」
「三回いらなかった」
「殿下は器用です」
「もっと言って」
「調子に乗らないでください」
「エステル!」
記録係まで少し笑う。
けれど、確認はまだ続く。
礼拝堂から退出し、方向転換。階段。外裾を下ろす。もう一度片手で上げる。
成功。
最後に私室前へ戻るころには、王女の息が少し上がっていた。
「疲れました?」
「少し」
「肩は?」
「右だけ」
エステルは支持帯へ触れる。
「最初に変えたところ」
「はい」
「やっぱり?」
「歩くうちに少しずれたようです」
「駄目?」
「直せます」
「また?」
「本番までには」
王女が笑う。
「最後まで直すのね」
「服ですから」
「分かった」
試着を終え、王女は着替えへ入った。
エステルが衣装を外していると、ヴィオラが近づいてくる。
「片手」
「できました」
「見てた」
「どうでした」
「強い」
「ヴィオラ様のほうが確実です」
「でも王女、嬉しそうだった」
「はい」
「悔しい」
「私も、ヴィオラ様のとき」
「なら同じ」
セラフィーネが二人を呼んだ。
「審査に入る。別室へ」
「はい」
エステルは一度だけ西回廊を見る。
さきほどの壁布。
下端。
違う一針。
「セラフィーネ様」
「何?」
「選考が終わったあと、あの壁布を確認してもよろしいですか」
「どれ」
示す。
「なぜ」
「補修の一針だけ、方向が違います」
「今?」
「今は行きません」
「そうして」
「ただ、気になります」
「分かった。選考後、ユリウスと確認する」
「ありがとうございます」
約束を守る。
選考を優先する。
別室には、ヴィオラとエステルの二人だけ。
「壁?」
ヴィオラが尋ねる。
「見ていたのですか」
「顔」
「今日は皆様そればかり」
「何があった」
「補修の一針が違いました」
「古い?」
「分かりません」
「黒糸?」
「見えているのは白です」
「なら後」
「はい」
ヴィオラが少し笑う。
「前よりちゃんと待てる」
「何です?」
「昔なら走って見に行きそう」
「私を誰だと」
「リディアの娘」
「それは否定できません」
しばらく二人で静かに待つ。一刻も経っていないはずなのに、ひどく長く感じられた。
「どっちだと思う?」
ヴィオラが聞く。
「分かりません」
「私は五分五分」
「珍しく曖昧」
「本当に分からないから」
「私もです」
「負けたら」
「悔しいです」
「泣く?」
「たぶん、店で少し」
「私は帰ってから」
「泣くのですか」
「悔しかったら」
「そうですか」
「何」
「少し安心しました」
「失礼」
でも本当に、少し安心した。
ヴィオラは強く、冷たく、正確に見える。けれど悔しければ泣く。普通なのだ。
「エステル」
「はい」
「勝ったら?」
「店へ帰って、たぶんニナとリリが騒ぎます」
「公爵は?」
「『悪くない』と」
「それだけ?」
「たぶん」
「少ない」
「最近は、それで十分です」
「そう」
ヴィオラは少し意味ありげに笑ったが、何も言わなかった。
扉が開く。
「お二人とも、お戻りください」
小広間へ戻る。
王女、セラフィーネ、ベルナール、王室衣装室、婚礼準備局。
王女の前には一枚の紙。
エステルの心臓が速い。
ヴィオラは横で静かに立っている。
「二人とも」
「はい」
「はい」
「本当に、困りました」
王女が笑う。
「どっちもよかった」
誰も言葉を挟まない。
「ヴィオラの服は、きれいで、確実で、私が何も考えなくても一日の形を変えてくれる」
ヴィオラが礼をする。
「エステルの服は、少し面倒」
エステルは思わず顔を上げた。
「少し?」
「かなり?」
「殿下」
「でも」
王女が笑う。
「その面倒を、自分でやるのが楽しかった」
胸が鳴る。
「だから」
王女の手が紙を持つ。
「私の婚礼衣装を——」
そのとき、西回廊の遠くで、小さな金属音がした。
カン。
誰かが何かを落としたような音。
王女が止まる。
エステルは振り返らなかった。
セラフィーネも騎士へ目だけを向ける。
外で足音が動く。
けれど部屋の中は安全だ。
「続けてください」
エステルが言う。
王女がこちらを見る。
「いいの?」
「はい」
「気になるでしょう」
「かなり」
「でも?」
「今は、殿下の婚礼衣装です」
王女は少し目を細め、それから紙を開いた。
「分かりました」
一度、息を整える。
「私の婚礼衣装を、エステル・ラヴィニアにお願いします」
一瞬、音が消えたように感じた。
聞こえた。
でも意味が胸へ入るまで、少しだけ時間がかかった。
「……はい」
「聞こえた?」
「はい」
「返事」
「はい。お引き受けいたします」
声が少し震える。
王女が笑う。
「よかった」
ヴィオラが隣から一歩前へ出た。
「おめでとう」
エステルは彼女を見る。
「ありがとうございます」
「悔しい」
「はい」
「でも、いい服だった」
「ヴィオラ様のも」
「それは今言わなくていい」
「すみません」
「あとで泣く」
「本当に?」
「たぶん」
ヴィオラが少し笑う。
「だから、本番失敗したら許さない」
「はい」
「私よりいいの作って」
「はい」
「それならいい」
握手はしなかった。それでも目が合えば、今は十分だった。
王女が続ける。
「ヴィオラ」
「はい」
「あなたにもお願いがあります」
「何でしょう」
「晩餐用の別衣装」
ヴィオラが止まる。
「別?」
「婚礼衣装はエステル。でも、晩餐で着替える一着をあなたに」
「それは」
「駄目?」
「……競争は?」
「終わった」
「そうでした」
「嫌?」
ヴィオラは少し考える。
「受けます」
「よかった」
「ただし」
「何?」
「婚礼衣装よりきれいにするかもしれません」
「ヴィオラ様」
「競争相手だから」
「終わったのでは」
「次」
王女が笑う。
「仲いい」
「競争相手です」
二人の声がまた重なり、小広間に笑いが広がった。
選ばれた。
自分の一着が、王女の婚礼衣装になる。
片手を空けたまま、自分の足で歩くための服。本番はこれからなのに、胸へ広がる喜びは大きかった。
けれど、西回廊の音も、壁布の一針も忘れてはいない。
セラフィーネが近づく。
「エステル」
「はい」
「選考、おめでとう」
「ありがとうございます」
「それから、回廊」
「何か?」
「ユリウスが止めている」
「何を」
「壁布の近くで、留め具が一つ落ちた」
「留め具?」
「古い壁布を固定していた金具らしい」
「自然に?」
「分からない」
「では」
「着替えと記録を終えてから」
「はい」
「今度は待てるわね」
「はい」
セラフィーネが少し頷く。
エステルも自分へ言い聞かせる。
待つ。順番を守る。
選ばれたのだから、まずはその事実を受け取り、喜ぶ。そのあとで回廊を見る。全部を同時に抱えなくてもいい。
一着に全部がいらないように、一日の中へ何もかもを同時に詰め込む必要もないのだ。
エステルは胸元の内ポケットへ触れた。
そこには正式登録の銀札がある。
そして、小さく息を吐いた。
第一王女の婚礼衣装。その仕立て師に、自分が選ばれた。
今度こそエステルは、その事実をきちんと受け取った。




