第36話 壁布の裏側
選考の記録と王女の着替えが終わったころには、さきほどまで人の多かった小広間もずいぶん静かになっていた。
エステルは提出用の意匠図と試作衣装をひとまとめにし、王室衣装室の記録係へ預ける。正式に婚礼衣装を任された以上、ここから先は選定会の作品ではなく、王家の正式衣装として扱われることになる。
「本制作の布は明日、店へ届けるわ」
セラフィーネが言う。
「ありがとうございます」
「表地、裏地、刺繍糸、支持帯用の素材。あなたが指定した範囲で用意する。ただし追加があれば、早めに」
「承知しました」
「骨輪は?」
「試作と同じ構造でいけると思います。ただ、本番用はもう少し薄く、表面を滑らかにしたいです」
「ヴィオラに頼む?」
「王室衣装室の職人へお願いできますか」
「できる」
選考が終わったからといって、すべてをヴィオラへ頼るわけにはいかない。競争相手ではなくなったとしても、彼女には彼女の晩餐衣装がある。
そこまで考えたところで、セラフィーネの声が少し低くなった。
「エステル。回廊へ行くわよ」
「はい」
ようやく、壁布だ。
さきほど見つけた一針が胸の奥へもう一度浮かぶ。けれど今度は急がない。記録を終え、衣装も預けた。順番どおりだ。
「ヴィオラは?」
「来る」
背後から声がした。
「聞こえていました」
「晩餐衣装の打ち合わせは?」
「後」
「よろしいのですか」
「一針違うなら見る」
「仕立て師ですから?」
「それ、そっちの言葉」
「そうでした」
小広間を出ると、西回廊の手前ではユリウスが騎士二人と一緒に待っていた。アルヴィスもいる。
「遅かった」
「選考を優先しました」
「分かっている」
「公爵様」
「何だ」
「選ばれました」
「聞いた」
「それだけ?」
アルヴィスは一瞬黙った。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「悪くない」
横でヴィオラが指を二本立てる。
「二つ」
「数えるな」
「私は数えてない」
「では誰が」
「ニナがいれば、です」
「言うな」
エステルはつい笑った。
そんな短いやり取りのあと、ユリウスが壁布の前へ案内した。さきほどより周囲は広く空けられ、床には小さな金具が一つ、白布の上へ置かれている。
「これが落ちた留め具です」
「壁布を固定していたもの?」
「はい」
エステルは近づくが、触れない。
細い真鍮製。かなり古く、表面は黒ずんでいる。
「自然に外れた可能性は?」
「あります。ただ、この一箇所だけ止め方が違います」
ユリウスが壁を見る。
壁布は縦に長く、王家の花と蔓が刺繍された古いものだった。その下端に補修跡がある。
さきほど見た、一針だけ方向の違う場所。
「セラフィーネ様。この壁布は、いつから?」
「少なくとも二十年以上前から。何度か補修されている」
「記録は?」
「壁装類の台帳を確認中」
ヴィオラが横へしゃがむ。
「この補修」
「はい」
「表は普通。でも、返し方が古い」
エステルも見る。
「王室衣装室の隠し縫い?」
「近い」
「ロデリック司祭の袖」
エステルが言うと、ヴィオラが頷いた。
「同系統」
十年前の王室衣装室で使われていた、裏側を表へ響かせない隠し留め。ロデリックの右袖を縫い閉じていたものにも、返礼室の北側の木枠に残っていた新しい補修にも、似た技法が使われていた。
「同じ人?」
アルヴィスが尋ねる。
「分かりません」
エステルはすぐに答えた。
「技法が同じだけです」
「そこは忘れてないな」
「はい」
十年前から王室衣装室で使われていた技法なのだから、同じ針目だけで人を決めることはできない。
「問題は」
ヴィオラが壁布の下端を見る。
「ここだけ、一針逆」
「はい」
「わざと?」
「そう見えます」
普通なら左から右へ進む針が、そこだけ右から左へ返されている。ほんの一針。
「裏を見たい」
「私もです」
セラフィーネとユリウスが顔を見合わせる。
「外せる?」
「記録を取れば」
「壁装台帳の管理責任者は?」
「私の管轄よ」
「なら」
「外す」
騎士と記録係を呼び、魔写紙で壁布全体と金具の位置を記録していく。
「この金具」
アルヴィスが落ちた真鍮片を見る。
「他と違う?」
エステルは左右に残っている留め具と比べる。
古いものは丸頭。落ちたものは平たく、角が少し削れている。
「違います」
「後から替えた?」
「おそらく」
セラフィーネの顔が硬くなる。
「補修時期を調べる」
「十年前?」
ユリウスが尋ねる。
「まだ分からない」
「糸の色は?」
ヴィオラが補修部を見る。
白。少し黄ばんでいる。
「新しくはない」
「でも二十年も前ではない」
「十年?」
「可能性はあります」
記録が終わる。
壁布を下端から一つずつ外していく。
一個、二個。
最後に問題の箇所を残し、その留め具もゆっくり外す。
壁布が少し浮いた。
裏が見える。
「灯り」
ユリウスの指示で、騎士が小さな魔灯を近づけた。
エステルは息を止める。
裏側の補修糸は普通の白だった。
けれど、その下にもう一本ある。
細い、灰青色。
「粉?」
セラフィーネが言う。
「糸です」
ヴィオラが答えた。
「古い」
エステルはさらに目を凝らす。
灰青の糸は壁布へ縫われているのではない。
壁側に固定されている。
「布に縫ってない」
「壁へ?」
アルヴィスが尋ねる。
「正確には、石の隙間を使っています」
石壁の目地に小さな穴があり、そこへ糸が通っていた。
ユリウスが魔灯を近づける。
灰青の糸は壁布の裏を下へ続き、床近くで途中から見えなくなる。
「切れている?」
「いいえ」
エステルは見る。
「中へ入っています」
石壁の一箇所だけ、目地が少し深い。糸はそこへ消えていた。
「また裏?」
ヴィオラが言う。
「壁の中です」
エステルの胸が動く。
返礼室。
裏地。
内ポケット。
見えない通り道。
今回も表にあるのは壁布、その裏に別のものが隠れている。
「開けるな」
アルヴィスが先に言った。
エステルが見る。
「まだ何も」
「顔」
「今は読んでよいです」
「ユリウス」
「ああ」
ユリウスが騎士を止める。
「壁そのものは、王宮施設管理の許可なしに崩せない」
「当然です。ただ、この糸だけは確認したいです」
「触る?」
「いいえ」
ヴィオラが言う。
「まず糸の入り口」
魔灯の角度を変える。
糸が壁目地へ入る直前、小さな結び目があった。
「これ」
エステルには見覚えがある。
「何だ」
「しつけの結びです」
「壁に?」
「服なら、仮止め」
ヴィオラが補足する。
「あとで外すための?」
ユリウスが尋ねる。
「そうです」
「では、この壁の中の糸は仮のもの?」
「少なくとも、最初から永久に残す縫い方ではありません」
エステルは考える。
十年前の婚礼。
王太子妃。
アルヴィスの傷。
返礼室。
奪い糸。
そして、この西回廊。
「仮止めしたまま、外さなかった?」
ヴィオラが言う。
「あるいは、外せなかった」
アルヴィスが壁を見る。
「事件が起きたから?」
「分かりません」
けれど、あり得る。
何かを婚礼の日だけ仕掛け、終われば外す予定だった。けれど誰かが傷つき、花嫁が倒れ、リディアが拘束され、そのまま残った。
「この糸」
ユリウスが言う。
「色が、以前の粉と同じでは?」
エステルはロデリックの袖から見つかった、青灰色の古い印粉を思い出す。
「似ています」
「王室衣装室の古い印色」
ヴィオラが言う。
セラフィーネの顔が変わった。
「青灰は、仮合わせ用の印」
「いつまで?」
「十年ほど前までは多かった。今は赤か白」
「十年前」
アルヴィスの声が低い。
「また」
「一致はします。でも、証拠ではありません」
エステルが言う。
「ああ」
ユリウスは記録を続ける。
「アルヴィス様」
ユリウスが顔を上げた。
「十年前に刺された位置を、今ここで示せますか」
「大体なら」
アルヴィスは回廊の中央へ出た。
今いる壁布から、窓二つ分ほど西へ進む。そこで足を止め、石床と壁の境目を見る。
「この辺りだ」
「壁側?」
「ああ。倒れたのは中央だが、最初に押されたのはこっちだった」
エステルも距離を取ったまま見る。
壁布の裏から石の目地へ入った灰青の糸は、ちょうどその方向へ続いていた。もちろん、壁の中で曲がっている可能性はある。目に見える数寸だけで、その先を決めることはできない。
「方向は一致」
ユリウスが記録係へ告げる。
「ただし、接続は未確認」
「はい」
記録係の筆が走る。
アルヴィスは、自分が示した場所をしばらく見ていた。
「昔は、ここに何があった?」
セラフィーネが尋ねる。
「覚えていない」
「壁布は?」
「たぶんあった。だが、刺された直前に見ていたのは廊下の反対側だ」
「何を?」
「人影」
全員が静かになる。
エステルも初めて聞く言葉だった。
「顔は見ていないと」
「ああ」
「人影なら見たのですか」
「白いものが動いた。衣装か、壁布の反射か、今でも分からない」
「十年前にも話した?」
ユリウスが尋ねる。
「話した。子どもの見間違いで処理された」
「記録を探します」
「残っていればな」
エステルは、そこでも急いで意味を結びつけなかった。
白いもの。婚礼衣装。壁布。誰かの袖。
候補はいくらでも作れる。
「今は、人影より糸です」
そう言うと、アルヴィスがこちらを見る。
「珍しいな」
「何がでしょう」
「お前なら、白いものから十個くらい考えそうだ」
「考えてはおります」
「やっぱり」
「でも、口に出すのは証拠があるものからです」
ヴィオラが小さく笑った。
「成長」
「ヴィオラ様まで」
セラフィーネは壁布の裏側へ目を戻した。
「この回廊は、十年前の事件の翌日から三日間閉鎖されている」
「三日?」
エステルが聞き返す。
「記憶では。花嫁が目を覚ますまでと、ほぼ同じ」
「理由は?」
「清掃と警備上の確認。私は衣装室側にいたから、壁装を誰が触ったかまでは知らない」
「記録は残っている?」
「施設管理にあるはず。ただ、十年前の紙だから探すのに時間はかかる」
ユリウスがすぐに書き留めた。
「閉鎖期間中の作業記録、出入りした職人、留め具の交換記録。この三つを優先します」
「お願いします」
もしこの灰青の糸が事件後の補修で入れられたなら、アルヴィスの傷との関係は別の意味になる。逆に事件前からあったなら、婚礼当日の仕掛けだった可能性が高くなる。
いつ縫われたか。
それだけで、見える景色はかなり変わる。
「だから年代が先」
エステルが言う。
「誰が縫ったかより?」
ヴィオラが尋ねる。
「はい。いつ縫われたかが分からないと、誰を探すべきかも変わります」
「順番」
アルヴィスが言う。
「はい」
「便利な言葉になったな」
「大切な言葉です」
ユリウスは記録を続ける。
「糸の年代鑑定は?」
「王室衣装室で繊維を見られる」
「切る?」
ヴィオラが尋ねる。
「今は切りません」
エステルは答えた。
「なぜ」
「行き先が分からないからです」
灰青の糸は壁の中へ続いている。もしこれが何かの経路なら、切ることで証拠を失うかもしれない。あるいは、何かを動かしてしまう可能性もある。
「黒糸ではない」
アルヴィスが言う。
「はい」
「危険は?」
「分かりません」
「なら触らない」
「はい」
セラフィーネが少し驚いたように見る。
「本当に待てるようになったわね」
「皆様、そこを褒めるのはやめてください」
「前が前だから」
「母ではなく、私を見てください」
「それは失礼した」
セラフィーネが少し笑った。
そのとき、アルヴィスが右脇を押さえた。
ごく小さな動き。
エステルはすぐに気づく。
「公爵様」
「何でもない」
「今」
「少し」
「痛み?」
「ああ」
空気が変わる。
エステルは近づくが、触れない。
「いつから」
「壁布を外してから」
「強さは」
「弱い」
「返礼室のときより?」
「弱い」
「場所は」
「同じ傷」
右脇。
十年前の傷。
縫い種がある可能性を示された場所。
「下がってください」
「俺が?」
「はい。公爵様の痛みが、この糸と関係あるか確認します」
「距離」
「はい」
アルヴィスが一歩後ろへ下がる。
「どうです」
「同じ」
二歩。
「少し減る」
さらに下がる。
「減った」
全員が灰青の糸を見る。
「反応している?」
ユリウスが言う。
「黒糸ではないのに」
ヴィオラが眉を寄せる。
「糸そのものではなく、その先かもしれません」
エステルは壁を見る。
壁の中へ続く灰青の糸。その先に何かがある。
「王女は?」
エステルはすぐにセラフィーネを見る。
「もう東翼へ戻った」
「婚礼当日は、この西回廊を通ります」
「ルート変更」
アルヴィスが即座に言う。
「すぐには。儀礼局が」
「変えろ」
「公爵様」
エステルが止める。
「まだ危険と決まったわけでは」
「俺が痛む」
「はい」
「十年前と同じ場所だ」
「はい」
「王女を通す理由がない」
強い言葉だった。
でも分かる。
「まず王宮へ危険報告」
ユリウスが落ち着いて言う。
「婚礼ルートは一時保留でいい」
セラフィーネが頷いた。
「王妃へ上げる」
「調査は」
「施設管理、王室衣装室、ユリウス殿で」
「教会は?」
ヴィオラが尋ねる。
「まだ呼ばない」
ユリウスが答えた。
「情報を広げる段階ではない」
エステルは灰青の糸を見る。
黒ではない。
祝福でもない。
ただの仮止め糸かもしれない。
それなのに、アルヴィスの傷が反応した。
「エステル」
アルヴィスが呼ぶ。
「はい」
「顔」
「今は、何を考えているかですか」
「ああ」
エステルは少し黙る。
「服と同じだと」
「何が」
「表から見える壁布は、ただの飾りでした」
「裏に糸」
「はい」
「その糸も、ただの仮止めかもしれない」
「でも先がある」
「はい」
返礼室も、中央の器が終点ではなかった。
今回見つけた糸も、それ自体が答えではない。
「この糸も、終点ではないと思います」
ユリウスが頷く。
「では、追う」
「壊さずに」
「もちろん」
「順番を守って」
「それも」
アルヴィスが少し笑う。
「お前が言うようになったな」
「成長しました」
「自分で言う?」
ヴィオラが横から言う。
「今日はよいのです」
壁布は一度戻した。
ただし完全には固定せず、証拠保全用の封を左右に付ける。王室と公爵家、また二重の封だ。
「この状態で、誰も触れない」
ユリウスが確認する。
「婚礼まで?」
「調査次第」
セラフィーネが答える。
「ルート変更も含めて」
「衣装側は?」
「そのまま進めて」
「ですが」
「歩く場所が変わっても、歩ける服でしょう?」
セラフィーネの言葉に、エステルは止まった。
「はい」
「なら、あなたは服を仕上げる」
「分かりました」
「調査は調査」
「服は服」
「そう」
分けることは大事だ。全部を自分で抱え込まない。今度は、それをちゃんとできる。
王宮を出るころには、空が少し曇っていた。
アルヴィスとユリウスは追加の記録確認のため王宮へ残り、ヴィオラも晩餐衣装の打ち合わせへ戻った。
エステルは一人で店へ帰る。
路地にはいつもの音がある。パンの匂い、花を売る声、走る子どもたち。
店の扉を開ける。
「どうだった!」
ニナがすぐに顔を上げる。
「選ばれたのは知ってる」
リリもいる。
「ベッシーさんから聞いた!」
「情報が早いですわ」
「壁のほう」
ニナの顔が真剣になる。
エステルは荷物を置いた。
「糸がありました」
「黒?」
「いいえ。灰青です」
「危ない?」
「まだ分かりません」
「公爵は?」
「傷が少し痛みました」
ニナの顔が変わる。
「じゃあ危ないじゃん」
「可能性はあります」
「婚礼、そこ通るの?」
「一時保留です」
「王女様は」
「今は別の場所へ戻っております」
「そっか」
リリが少し安心したように息を吐く。
「じゃあ、エステルは?」
「婚礼衣装を作ります」
「今から?」
「明日、布が届きます」
「ほんとのやつ?」
「はい」
ニナの目が少し輝く。
「本番?」
「本番です」
「触っていい?」
「届いてから」
「切る?」
「もちろん」
「怖い?」
エステルは考える。
「少し」
「でも?」
「楽しみです」
「祝い、まだ?」
リリが尋ねる。
「何の?」
「王女様の服」
「もう花は」
「今日はまだ」
「昨日は?」
「最終候補」
「毎回分けるのですね」
「違う日」
同じ理屈に、エステルは笑う。
リリが花籠から小さな白い花を一本取り出した。
「はい」
受け取る。
「ありがとうございます」
「今日は公爵にあげないで」
「今日は私のです」
「ほんと?」
「本当です」
ニナが机を見る。
「どこ置く?」
裁断台では邪魔になる。窓辺なら見える。
「ここに」
小さな瓶へ水を入れ、白い花を挿す。
祝福はない。
ただの花。
でも、今日選ばれた祝いとしては、それで十分だった。
「エステル」
「はい」
「嬉しい?」
ニナが尋ねる。
「はい」
「事件見つかったのに?」
「はい」
「両方?」
「両方です」
「変じゃない?」
「変ではありません」
嬉しい気持ちと不安は、同時にあっていい。一着へ全部を入れなくてもよいように、人の中にはいくつもの気持ちがあっていい。
「今日は、選ばれたことを喜びます」
「壁は?」
「公爵様たちが調べています」
「任せる?」
「はい」
「ほんとに?」
「本当に」
ニナが少し笑った。
「成長した」
「皆様、それを言いますね」
「だって前なら、走って戻りそう」
「……否定できません」
リリが笑う。
クッシュが箱の中で、ふしゅっと鳴いた。
いつもの店。
エステルは窓辺の白い花を見る。
明日、本番の布が届く。
第一王女の婚礼衣装という、正式な仕事が始まる。
その一方で、西回廊の壁布の裏では、灰青の糸が壁の中へ続いている。十年前の仮止めなのかもしれない。
それでも今は、切らず、追わず、任せる。そして自分は縫う。
それもたぶん、今の自分の縫い方なのだと思った。




