第37話 本番の布に、最初の鋏
翌朝、王室衣装室から届いた箱は、エステルの店の入口を半分ふさいだ。
「大きい」
ニナが言った。
「婚礼衣装ですから」
「箱まで?」
「布を折りすぎないためです」
「開けていい?」
「待ってください」
「触るだけ」
「待ってください」
「見るだけ」
「それなら、どうぞ」
ニナはすぐ箱の周りを一周した。
表には王室衣装室の封、側面には輸送記録、角には雨よけの油紙。二人の運搬人が置いていったあとも、エステルはすぐに開けず、まず封の番号と納品書を確認した。
「合ってる?」
「はい」
「じゃあ」
「まだです」
「何で」
「傷がないか確認します」
「箱に?」
「箱にも」
「細かい」
「本番ですので」
昨日までの試作用布なら、少しの折れや傷は避けて裁つこともできた。けれど今日から扱うのは、第一王女リュシエンヌの婚礼当日に使う本番の布だ。
同じ白でも、もう意味が違う。だからこそ、その意味に気圧されないようにする。
王女の布、王室の布、婚礼の布。そう考え始めれば鋏を入れられなくなる。
これは服になる布だ。着る人が歩き、座り、手を動かすために裁つ。
「エステル」
「はい」
「顔、ちょっと怖い」
「緊張しております」
「切るの?」
「切ります」
「ほんと?」
「本当です」
「手、震えてない?」
言われて、自分の手を見る。
少しだけ。
「……ほんの少し」
「じゃあ、先にパン」
「なぜです?」
「ベッシーさんが言ってた」
「何を」
「腹減ってると手が震えるって」
「それは」
扉が開く。
「本当だよ」
ベッシーが籠を抱えて入ってきた。
「聞いていたのですか」
「路地まで聞こえる」
「そんなに大きな声では」
「ニナがでかい」
「わたし?」
「ほら、食べな」
籠の中には小さな丸パンが四つ。
「四つ?」
「二人で二個ずつ」
「多いです」
「婚礼衣装の布を腹空かせて切るな」
「布と食事は」
「関係ある」
ベッシーは言い切る。
「針を持つ手も、鋏を持つ手も、人間の手だ」
その言葉に、エステルは少し笑った。
「では、一ついただきます」
「二つ」
「一つ」
「一つ半」
「交渉になるのですね」
「店やってるからね」
結局、一つ半食べた。
ニナは二つ。
残り半分は、あとで食べることになった。
「クッシュは?」
ベッシーが奥を見る。
「寝ています」
「本当に?」
「さきほど箱を確認しました」
「公爵より信用されてる」
「なぜそこで公爵様が」
「店番」
「もうその話は」
ニナが笑う。
「一生言われる」
「お気の毒ですわ」
「エステルも言ってる」
「私は言っておりません」
「顔」
「禁止です」
少し笑ったあと、ようやく箱を開ける。
封を切り、油紙を外す。
最初に見えたのは、光を柔らかく返す白絹だった。
派手ではない。むしろ静か。
指を近づけて触れる。
表面はなめらかで、目が細かく、落ち感も十分。
「きれい」
ニナの声が小さい。
「はい」
「これ、全部王女様の?」
「必要分です」
「失敗したら?」
「予備もございます」
「じゃあ安心?」
「少しだけ」
「少し?」
「予備があるから失敗してよいわけではありません」
「また細かい」
「でも、予備がないよりは安心です」
「そこは認めるんだ」
次に外裾用の薄い白絹を出す。
軽い。
試作よりずっと滑る。
「これなら」
エステルは持ち上げ、自重を見る。
「操作帯の負荷も少し減ります」
「また四十七回やる?」
「本番布ではしません」
「何回?」
「必要なだけ」
「それ一番怖いやつ」
「ニナ」
「はいはい」
最後に灰青の裏地。
夕方の湖。
王女が好きだと言った色。
箱の中で、白の下に隠れていた。
「これ」
ニナが触れる。
「前より少し暗い?」
「本番用に、光を抑えてあります」
「何で」
「表へ透けないためです」
「見えないのにちゃんと選ぶんだ」
「見えないからこそ」
エステルは布を光へ透かし、白絹の下へ重ねる。
表から青は見えない。
でも裏返せば、そこにある。
「いいですね」
「王女様、喜ぶ?」
「そうだとよいのですが」
「絶対?」
「絶対は言いません」
「慎重」
「仕立て師ですから」
「出た」
その日は午前の店を閉めた。
本番用の裁断を始める日。近所には前もって伝えてあり、急ぎの繕い物はベッシーの店で預かってもらう。
王室からも「本制作開始日の午前は閉店してよい」と言われていた。
「王女様の服って大変」
ニナが窓の札を裏返す。
「普通の服も大変です」
「でも、店閉めるのは王女様だからでしょ」
「それは、はい」
「やっぱり」
裁断台へ布を広げる。
この店を開いた日から、何枚の布を広げただろう。
子どもの外套、パン屋の前掛け、公爵の上着、変装服、防護服、ニナの仕事着。そして王女の婚礼衣装。
でも、やることは同じだ。
地の目を確認し、傷を確かめ、型紙を置き、線を見る。
「ニナ」
「何」
「ここを押さえていただけますか」
「布?」
「端だけ」
「手、洗った」
「知っています」
「もう一回洗う?」
「大丈夫です」
「ほんと?」
「本当です」
ニナは慎重に白絹の端を押さえる。
「強くしないで」
「分かってる」
「引かないで」
「分かってる」
「ニナ」
「何!」
「ありがとうございます」
「急に言うのやめて」
「嫌でした?」
「そうじゃない」
型紙を置く。
内側の本体。
まず前身頃。
婚礼衣装なのに、前だけ見れば驚くほど普通だ。
歩くための線。
胸、腰、足。
そこに人が入る。
「ここ、前より細い?」
ニナが覗く。
「半分だけ」
「何で」
「仮縫いで、右側へ布が流れたでしょう」
「アーサー様の靴」
「はい」
「踏まれるやつ」
「もう踏ませません」
「本人、気をつけるって言ってた」
「服で防げるところは服で」
「公爵みたい」
「何が」
「できることは服でやる」
エステルは少し止まった。
アルヴィスの灰色の防護服。
呪いを全部解くことはできなかった。
でも、服でできることはあった。
「そうですね」
「似てる?」
「少し」
「王女様の服と公爵の服」
「用途は全く違います」
「でも、着る人を助ける」
「服は、だいたいそうです」
「エステルのは特に」
「……ありがとうございます」
ニナがまた少し困った顔をする。
「急に言うの、ほんとずるい」
鋏を持つ。
白絹へ最初の一刃。
呼吸を一つ。
「エステル」
「はい」
「いける?」
「はい」
「ほんと?」
「本当です」
しゃき。
音が入る。
怖い。
でも動く。
鋏が線に沿い、最初の一枚を切り離す。
ニナは息を止めていた。
「切れた」
「はい」
「普通に」
「普通に切ります」
「もっと何か起きるかと思った」
「何が」
「光るとか」
「祝福は禁止です」
「じゃなくて、王女様の布だから」
「布ですから」
「それも便利」
「本当です」
エステルは笑った。
緊張が少しほどける。
布は布だ。大切ではあるけれど、神聖すぎるものではない。
着る人のために切る。それでいい。
前身頃、後ろ、袖、支持帯、内側。
外裾まで一度に裁つことはしない。
本体を優先し、もう一度王女へ合わせ、その落ち方を見てから本番の外裾へ進む。
「全部切らないの?」
「はい」
「何で」
「実寸の仮縫いは済んでおりますが、本番布は落ち方が少し違います」
「また直す?」
「必要なら」
「終わらない」
「婚礼までには終わります」
「ほんと?」
「その聞き方」
ニナが笑う。
昼から店を開けた。
最初の客はベッシーだった。
「見に来ただけ」
「パン屋は?」
「昼前だから暇」
「本当に?」
「うるさいよ」
裁断台の白絹を見て、目を丸くする。
「おお」
「何です、その反応」
「王女様の服っぽい」
「まだ布です」
「でも、あんたが切ったんだろ」
「はい」
「じゃあもう服だ」
エステルは少し考える。
「まだ半分です」
「細かい」
「皆様そればかり」
午後は客が少なかった。
ニナが普通の繕いを進め、エステルは本体のしつけを始める。
祝福のない、白い普通の糸。
そこへアルヴィスが来た。
「切った?」
第一声。
「皆様、今日はそれですね」
「本番の布だろ」
「はい」
「どうだった」
「切れました」
「それは分かる」
「少し緊張しました」
「手」
「最初だけ」
「今は?」
「大丈夫です」
「見せて」
「何を?」
「手」
エステルは止まる。
アルヴィスも少し止まる。
触れるのではない。
ただ見る。
「こちらです」
両手を差し出す。
距離は保ったまま。
アルヴィスが見る。
「傷は?」
「ありません」
「針刺した?」
「一度」
「あるのか」
「仕立て師ですので」
「それで済ませるな」
「小さいです」
「どこ」
左人差し指。
ほんの一点。
「これです」
アルヴィスが少し近づく。
でも、触れない。
「消毒」
「しました」
「本当に?」
「セドリック様のようですね」
「誰のせいだ」
「皆様、最近私の生活管理を」
「必要だからだ」
「……そうでしょうか」
「顔」
「今日は読まなくて結構です」
「なぜ」
「何となく」
アルヴィスが少し笑う。
「王女の服は」
裁断台を見る。
「これ?」
「本体です」
「白い」
「婚礼ですから」
「もっと飾る?」
「まだ」
「紋章」
「最後です」
「大きいやつ」
「覚えていらしたのですね」
「リュシエンヌが文句を言っていた」
「もう?」
「昨日、王妃経由で」
「早い」
「でも選んだ」
「はい」
「嫌なのに」
「はい」
「それでいい」
エステルはアルヴィスを見る。
「公爵様も?」
「何が」
「嫌でも、必要だと分かれば受け取れます?」
少し間があった。
「最近は」
「少し?」
「少し」
嬉しい。
でも、言わない。
言えば彼は嫌がる。
「悪くありませんね」
アルヴィスが目を細くする。
「それ、俺のだろ」
「お借りしました」
「返せ」
「返しました」
「何を」
「言葉を」
「面倒になったな」
「受け取って返す練習です」
「俺に使うな」
奥からニナ。
「今、一回」
「何を」
「悪くない」
「違う」
「エステルが言った」
「なら数えるな」
「でも公爵の言葉」
「所有権があるの?」
エステルが笑う。
「ニナ、繕いは?」
「終わった」
「裏は?」
「見て」
話が普通の店へ戻る。
昼過ぎ、近所の靴職人の妻が、夫の仕事用上着を受け取りに来た。
右袖の内側が擦れて薄くなっていたもので、朝のうちにニナへ任せていた品だ。
「できた?」
女性が尋ねる。
「たぶん」
ニナが答える。
「たぶん?」
「ニナ」
「……できました」
言い直し、少し緊張した顔で上着を差し出す。
エステルはまだ仕上がりを見ていない。
本来なら客へ渡す前に確認するところだが、今日はニナへ「終わったら呼んでください」と伝えてあった。ところが客が予想より早く来てしまったらしい。
「エステル」
ニナが小声で呼ぶ。
「はい」
「見る?」
「ニナは、どう思います?」
「え」
「渡してよい仕上がりですか」
ニナはすぐには答えなかった。
上着を自分の手へ戻し、袖を裏返す。
補修したところを見る。
指で触る。
表へ返す。
今度は腕を入れるつもりで袖口を広げる。
「……一個、やり直す」
「どこです?」
「ここ」
補強布の端。
ほんの二針。
「何が気になります?」
「裏から触ると、ちょっと硬い」
エステルも触れる。
確かに。
縫い目としては問題ない。
でも、仕事中に何度も腕を動かせば、手首の少し上へ当たるかもしれない。
「よく気づきましたね」
「じゃあ待って」
ニナは客へ頭を下げる。
「ちょっとだけ直します」
「今から?」
「すぐ」
「別に、そんなところ気にしないと思うけど」
「わたしが気になる」
女性は一瞬驚き、それから笑った。
「じゃあ待つよ」
ニナは椅子へ座る。
二針だけほどく。
補強布の角をほんの少し丸く切り直し、今度は力を抜いて縫い直す。
エステルは口を出さなかった。
見ている。
針を入れる位置。
糸を引く強さ。
最後の始末。
「できた」
もう一度。
裏から触る。
「どう?」
「私ではなく」
ニナは女性へ渡した。
「腕、入れてみて」
「ここで?」
「うん」
女性が上着へ腕を通す。
肘を曲げる。
袖を捻る。
「前よりいいね」
「当たらない?」
「全然」
「じゃあ」
ニナの顔が、ようやく緩んだ。
「大丈夫」
「ありがと。いくら?」
ニナが固まる。
エステルを見る。
「料金は店でいただきます」
「わたしじゃない?」
「まだ会計は任せておりません」
「そっか」
少し残念そう。
女性が笑う。
「そのうち任せてもらいな」
「うん」
「弟子なんだろ?」
「まだ!」
今日一番大きな声だった。
「違うの?」
「まだ!」
「まだ、ねえ」
女性は面白そうに笑い、代金を置いて帰っていった。
扉が閉まる。
「エステル」
「はい」
「今の、仕事?」
「仕事です」
「わたし一人で?」
「最後まで、ほとんど」
「ほとんど?」
「最初の補強位置は昨日、一緒に決めましたので」
「細かい」
「大切です」
「でも給金」
「付きます」
「いくら?」
「月末に帳簿へまとめます」
「今教えて」
「ニナ」
「だって」
エステルは笑いながら、作業帳へ一行を書いた。
『靴職人上着 右袖補強 ニナ担当』
そして、その横へ小さく丸を付ける。
「これ何?」
「一人で仕上げた仕事の印です」
「初?」
「初です」
ニナは帳簿を見る。
しばらく。
「……王女様の服より、ちっちゃい」
「仕事の大きさですか?」
「うん」
「でも、着る方には必要でした」
「同じ?」
「同じではありません」
「違う?」
「値段も、責任も、使う布も違います。でも、着る方が困らないように縫うところは同じです」
ニナは自分の丸印を指でなぞらないよう、少しだけ浮かせて眺めた。
「じゃあ、次もやる」
「はい」
「もっと難しいの」
「順番です」
「またそれ」
「大事ですから」
「王女様の服も順番?」
「もちろん」
「じゃあ今どこ」
エステルは裁断台の白い身頃を見る。
「最初の一針を縫い始めたところです」
「まだ最初?」
「本番は、ここからです」
ニナは王女の白い布と、自分が直した茶色い袖を見比べた。
「変なの」
「何がです?」
「全然違うのに、同じ店にある」
「仕立て屋ですから」
「またそれ」
けれど今度のニナは、嫌そうではなかった。
そのあとユリウスが来た。
表情は仕事のものだった。
「報告があります」
アルヴィスの顔がすぐ変わる。
「西回廊?」
「はい」
エステルは針を置いた。
「聞いても?」
「もちろん」
ユリウスが紙と古い地図を広げる。
「昨日の灰青糸。王室衣装室で表面繊維のみ確認しました。魔術反応なし。材質は古い仮縫い用の絹綿混紡です」
「年代は」
「正確には出ませんが、少なくとも最近数年のものではない」
「十年前は?」
「範囲に入る」
ヴィオラが言っていた古い仮合わせ用の印色とも一致する。
「壁の中は?」
「施設管理の古図を見つけました」
地図は王宮西翼。
現行図ではない。
「ここが西回廊です」
ユリウスが指す。
「壁の内部に、細い保守空間がある」
「人が通れる?」
「現在の形なら、腰を屈めれば一人程度」
「現在?」
「三十八年前の改修で閉鎖されたことになっています」
エステルが目を上げる。
「三十六年前まで」
「返納庫維持費」
ユリウスが頷く。
「そうです」
王室会計に残っていた『返納庫維持費』は三十六年前まで。
「二年ずれますね」
「会計の廃止と物理閉鎖が同時とは限りません」
「はい」
「さらに」
ユリウスが古図の下側を指した。
「保守空間は南へ下がっています」
エステルは息を止める。
南。
返礼室の排出口も、下へ落ちてから南へ曲がっていた。
「同じ方向」
アルヴィスが言う。
「はい」
「つながる?」
「まだ未確認です。ただ、高さを合わせると、西回廊の保守空間と返礼室の排出経路は、旧王宮区画のこの辺りで近づきます」
点。
「ここは?」
ニナが近づく。
「現在は何もない?」
「現行図では」
「古い図」
「記載が薄い」
消えかけた文字。
エステルも目を凝らす。
『返……』
「返納庫?」
ニナが言う。
「そう見えます」
ユリウスが答える。
「完全には読めません。ただ、場所は近い」
胸が少し冷える。
昨日、壁の中へ続いていた灰青糸。
終点ではない。
その先に旧保守空間。
南。
返納庫。
可能性がつながり始める。
「公爵様の痛みは」
「今日も確認しました」
アルヴィスが答える。
「西回廊の壁へ近づくと痛む」
「灰青糸を外した?」
「外してない」
「なら、糸か、その先かはまだ分からない」
「ああ」
エステルは地図を見る。
「調査は」
「明日、保守空間の入口を探します」
「私も」
言いかける。
アルヴィスが見る。
ユリウスも見る。
ニナも見る。
三人同時だった。
「何です?」
「店」
ニナ。
「婚礼衣装」
ユリウス。
「本番布」
アルヴィス。
「……分かっております」
「なら」
「行きません」
自分で言った。
「今回は」
アルヴィスの目が少し細くなる。
「今回は?」
「今後ずっととは申し上げておりません」
「十分」
「ただし、報告は」
「する」
ユリウス。
「記録も」
「持ってくる」
「縫い目があれば」
「魔写紙を」
「裏側も」
「可能なら」
「エステル」
ニナが言う。
「細かい」
「重要です」
「行かないのに全部見たいんだ」
「当然です」
アルヴィスが笑う。
「それならいい」
「公爵様」
「何だ」
「危険なら、戻ってください」
「分かっている」
「本当に?」
「その聞き方」
「今日は必要です」
少し間があった。
「分かった」
エステルは頷く。
それでいい。
自分が行かず、代わりに誰かへ任せる。それでも、無関心になるわけではない。
夕方。
ユリウスは帰り、アルヴィスも途中まで一緒に出る。
扉を出る前、彼が振り返った。
「明日」
「はい」
「布、切りすぎるな」
「何です、その忠告」
「疲れて判断が鈍る」
「分かっております」
「寝ろ」
「はい」
「食べろ」
「はい」
「針」
「刺さないようにします」
「そこは無理だろ」
「公爵様も分かってきましたね」
「何が」
「仕立て師を」
「……少し」
扉が閉まる。
ニナが言う。
「公爵、やっぱり成長した」
「ニナ」
「エステルも」
「何が」
「行かないって言えた」
エステルは少し黙る。
「そうですね」
「嫌じゃない?」
「少し」
「見たい?」
「かなり」
「でも縫う?」
「はい」
ニナが裁断台を見る。
本番の白絹。
身頃。
しつけは途中。
「じゃあ、わたしも」
「何を?」
「店」
「働く?」
「うん」
「給金」
「出る?」
「もちろん」
「じゃあやる」
分かりやすい。
でも、それでいい。
「ニナ」
「何」
「この袖口の繕い、お願いできますか」
「一人で?」
「最初は」
「見ない?」
「終わったら見ます」
「失敗したら?」
「ほどいてください」
「王女様のと同じ」
「そうです」
ニナが少し笑う。
「やる」
二人は別々の針を持ち、同じ店で縫う。
エステルは王女の白い布を、ニナは近所の客の茶色い袖を。どちらも服で、どちらも仕事だ。
外では日が落ち始める。
エステルはもう一度、最初に裁った前身頃を広げた。
明日は王宮の壁の中に残る古い道が調べられる。返納庫へつながるかもしれない。
でも、自分の今日の道はここだ。裁断台の上の白い布。
最初の一刃は怖かった。
それでも切った。
だから続きを縫える。
エステルは白糸を針へ通す。
「ニナ」
「何」
「そちら、分からなくなったら聞いてください」
「エステルも?」
「何が」
「分からなくなったら」
エステルは少し笑う。
「はい」
「誰に聞く?」
「必要な方に」
「ヴィオラ?」
「それも」
「公爵?」
「場合によっては」
「わたし?」
「もちろん」
ニナは満足そうに頷いた。
「じゃあいい」
針が布を通る。
今日は祝福の宿らない、本番の婚礼衣装を縫う。
それでも始まりは、いつもと同じ普通の一針だった。




