第38話 壁の中を通る糸
翌朝、エステルは店を開けるより先に、王女の婚礼衣装の前身頃を人台へ掛けた。
本番の白絹は、試作用の布よりわずかに重く、けれど身体へ沿うときの落ち方は柔らかい。昨日裁ったばかりの身頃へしつけ糸を通し、胸から腰へ向かう線を整えると、ようやく一着の輪郭が見え始めた。
「昨日より服っぽい」
掃除を終えたニナが言った。
「昨日も服になる途中でした」
「今日はもっと」
「それは認めます」
「珍しい」
「何がです?」
「すぐ認めた」
「そこを褒められるのも変ですわ」
ニナは新しい灰青の仕事着の袖を折り上げ、裁断台の端へ置いてある作業帳を開いた。
昨日、自分でほとんど一人で仕上げた靴職人の上着。その欄には、小さな丸印が一つ残っている。
「今日、わたし何やる?」
「午前中は預かり品の整理を。それから、昨日の袖口と似た補修が一件ございます」
「一人で?」
「最初に見立てを聞きます」
「それから?」
「できそうなら、お任せします」
ニナは少し満足そうに頷いた。
「王女様のほうは?」
「私はこちらを」
「ずっと?」
「ずっとではありません。今日は公爵様たちから報告が来るはずです」
「壁の中」
「はい」
昨日見つかった古い図面では、西回廊の壁の内側に細い保守空間が残っている。その通路は南へ下がり、三十六年前まで会計記録に残っていた『返納庫』らしき区画へ近づいていた。
アルヴィスとユリウスは、王宮施設管理の立会いのもと、その入口を探すことになっている。
エステルは行かない。
自分で決めた。
けれど、朝から何度も入口へ目をやっている。
「気になる?」
ニナが訊く。
「かなり」
「行きたい?」
「かなり」
「でも行かない?」
「はい」
「えらい」
「その褒め方はやめてください」
「みんな言うから」
「皆様、私を以前どれほど無茶な人だと思っていたのでしょう」
ニナは答えなかった。
「ニナ?」
「仕事する」
「逃げましたね」
「逃げてない」
その様子に笑いながら、エステルは針を持った。
今日は前身頃と後ろ身頃を仮につなぎ、肩と脇の線を本番布で確かめる。王女本人の寸法は取ってあるが、布が変われば身体へ乗ったときの形も少し変わる。
とくに今回の衣装は、外裾の重さを肩、背中、腰へ分散させる。
本体の線が一箇所ずれるだけで、あとから付ける支持帯の働きまで変わってしまう。
「ここ」
ニナが横から覗く。
「何でしょう」
「肩、左右違う?」
「よく見えましたね」
「違うんだ」
「右をほんの少し下げています」
「王女様、右肩低い?」
「普段の姿勢では、わずかに」
「それって直さないの?」
「服で真っ直ぐに見せることはできます」
「じゃあ」
「でも今回は、無理に上げません」
「何で?」
「歩いたときに疲れるからです」
王女は式の日、一日中、誰かに見られる。
写真のように一瞬だけ美しく立てばよいわけではない。
「身体を服へ合わせるより、服を身体へ合わせます」
「前も言ってた」
「はい」
「王女様でも?」
「王女様ほど」
ニナが少し笑う。
「それ、本人に言ったら喜びそう」
「言い方を考えます」
「『肩が低いです』は怒る?」
「たぶん」
「じゃあ顔」
「禁止です」
朝のやり取りが落ち着いたところで、最初の客が来た。
近所の薬屋の老人が、袖口の裂けた作業上着を持ってきた。昨日ニナが直した上着より布は厚く、裂け目も長い。
「これ、わたし?」
老人が帰ったあと、ニナが訊く。
「見て、どう思います?」
「昨日より難しい」
「どこが」
「破れてるだけじゃなくて、周りも薄い」
「はい」
「ここだけ縫ったら、横がまた破れる」
「そうですね」
「じゃあ」
ニナは布を裏返した。
「後ろから広く当てる」
「どのくらい」
「このくらい」
指で範囲を示す。
昨日より広い。
「よいと思います」
「わたしやる?」
「やってみてください」
「ほんと?」
「はい」
「王女様の服あるのに?」
「だからです」
「何で」
「私がこちらに集中しているあいだ、店の仕事をしてくださる方がいると助かります」
ニナの顔が少し変わった。
「助かる?」
「はい」
「練習じゃなくて?」
「仕事です」
「……そっか」
今度は声が小さかった。
「ただし」
「何」
「分からなくなったら聞くこと」
「分かってる」
「無理に一人で終わらせないこと」
「分かってる」
「針を」
「刺さない」
「それは私も言われましたね」
「公爵に」
「はい」
二人で笑う。
午前が半分ほど過ぎたころ、王宮から最初の書状が届いた。
差出人はユリウス。
封を確かめ、エステルは裁断台の端で開く。
『西回廊旧保守空間、入口を確認。
現行壁装の北端より三間、壁板裏に旧点検扉あり。
封鎖は石積みではなく、木枠と漆喰による後施工。
王宮施設管理の記録では三十八年前に閉鎖。
現物は、それより新しい補修痕あり。
灰青糸は点検扉の内側へ続く。
現在、開扉前の記録中。』
「開ける前?」
ニナが聞く。
「はい」
「まだ入ってないんだ」
「記録してからです」
「遅い」
「大切です」
「エステルも前なら待てなかったくせに」
「最近、そこを何度も言われます」
書状には簡単な見取り図も添えられていた。
西回廊の壁布の裏。そこから北へ少し離れた位置に、目立たない点検扉。
灰青糸は壁の中を横へ通り、その扉の内側へ入っている。
「糸が案内してる?」
ニナが訊く。
「そう見えます」
「誰のため?」
「分かりません」
「十年前?」
「それも、まだ」
ただ。
灰青の仮縫い糸。
永久に残すための縫い方ではなかった。
もし、誰かが後で外すつもりで残したのなら。
糸は何かを縛るためではなく、場所を示すためだった可能性もある。
「母?」
ニナがぽつりと言う。
「まだ決めません」
「でも考えた?」
「少し」
「顔」
「はい」
否定できなかった。
リディアは、縫い目で何かを残した。
旧衣装室。
封。
『裏から開ける』。
返礼室。
しつけ。
仮止め。
見つける人が、服を見るように建物を見れば分かる方法。
今回の灰青糸も、同じ考え方に見える。
けれど。
だからこそ、母だと決めるのは危険だった。
誰かが母のやり方を知っていた可能性もある。
「続き来るまで、縫います」
「気になるのに?」
「気になるからです」
「どういうこと?」
「手を動かしていたほうが待てます」
「なるほど」
ニナも自分の上着へ戻った。
店の中に、二種類の針音が続く。
王女の白絹。
薬屋の茶色い作業着。
一方は王宮へ行く服。
一方は毎日薬草の箱を運ぶための服。
値段も用途も違う。
それでも、糸を引きすぎれば布がつれ、弱すぎれば縫い目が開くところは同じだった。
昼前。
二通目。
『点検扉を開放。
内部幅、約二尺半。
高さ、約五尺。
成人一名が屈んで通行可能。
灰青糸は内壁左側、旧釘穴を利用して南方向へ約十一間続く。
途中三箇所で糸継ぎあり。
結びはいずれも仮止め式。
黒糸、魔術反応、祝福反応なし。
ヴァルクレイ公爵の右脇痛、入口付近は軽微。
南へ進むほど増加。』
最後の一行。
エステルの指が止まった。
「痛くなってる?」
ニナ。
「はい」
「戻る?」
「まだ書いてあります」
続き。
『痛みが前回返礼室で確認した程度へ達したため、現在進行停止。
公爵本人は継続を希望したが、私の判断で停止。
追加の施設図確認後に再開する。』
エステルは一度目を閉じた。
「ユリウスさん、止めた」
「はい」
「公爵、行きたがった」
「でしょうね」
「エステルみたい」
「否定しづらいですわ」
「似てる」
「それも、今は否定しません」
少し笑ったあと。
安心が来る。
ちゃんと。
戻る。
約束。
「返事を書く?」
「はい」
『停止判断に賛成します。
公爵様は無理をなさらないように。
灰青糸の結び、可能なら魔写紙で表裏を記録してください。
切断はしないでください。』
最後に。
少し迷う。
『戻りましたら、痛みが完全に引くか確認を。』
「それだけ?」
ニナ。
「何が」
「公爵に」
「十分です」
「『ちゃんと戻って』とか」
「もう戻ると決まっています」
「『心配してる』とか」
「ニナ」
「顔」
「……書きません」
「何で」
「書かなくても」
分かる。
とは。
言えない。
でも。
アルヴィスなら。
たぶん。
読む。
行間。
「何?」
「何でもありません」
「顔」
「禁止です」
返事を持たせる。
そのあと、ようやく客の出入りが増えた。
店は普通に忙しい。
だから、王宮の壁の中ばかりを考えてはいられない。
ニナの補修も途中で一度止まった。
「エステル」
「はい」
「これ」
薬屋の上着。
裏側。
「当て布、ここまでだと厚い?」
「触ってみてどうです?」
「端が二重になる」
「では」
「一段ずらす?」
「よいと思います」
「切っていい?」
「はい」
「ほんと?」
「本当です」
「王女様の布じゃないから?」
「誰の布でも、必要なら切ります」
「そっか」
ニナは小さく笑い、当て布の角を一段薄くした。
午後。
三通目は来なかった。
代わりに。
本人が来た。
扉が開き、アルヴィスが入る。
上着には薄く白い埃。
髪にも、ほんの少し。
「公爵様」
「戻った」
「見れば分かります」
「何だ」
「……お帰りなさいませ」
アルヴィスが少し止まる。
「ただいま、と言うところ?」
「店ですけれど」
「なら違う」
「でも」
「何だ」
「無事に戻られたので」
アルヴィスは少しだけ視線を逸らした。
「そうか」
「痛みは?」
「今はほぼない」
「完全には?」
「少し残る」
「座ってください」
「医者みたいだな」
「仕立て師です」
「それで全部通す気か」
「便利ですので」
アルヴィスは窓辺の椅子へ座る。
ニナがすぐ水を出した。
「飲んで」
「ありがとう」
自然に。
受け取る。
飲む。
エステルは。
その動作。
見てしまう。
「何だ」
「いえ」
「顔」
「最近、よく受け取られますね」
「水くらい飲む」
「以前なら?」
「……分からない」
「今は?」
「喉が渇いていた」
「それでよいと思います」
「評価されることか?」
「私には」
アルヴィスが黙る。
ニナが。
小さく。
「悪くない」
「お前まで使うな」
「公爵のじゃないの?」
「さっき所有権の話をしただろ」
「じゃあみんなの」
「違う」
店の空気が少し軽くなる。
「ユリウス様は?」
エステル。
「王宮に残った。古図を照合してる」
「中は?」
「狭い。埃。壁」
「それだけ?」
「糸」
「灰青」
「ああ」
「十一間」
「書状にあっただろ」
「実際は?」
「ほぼ真っ直ぐ南へ」
「分岐」
「一箇所」
「一箇所?」
「書状のあと見つけた」
エステル。
すぐ。
紙。
引く。
「どちらへ?」
「東」
「長さは」
「二間ほどで切れてる」
「糸も?」
「いや」
アルヴィス。
少し。
考える。
「糸は南だけ」
「東には何が」
「塞がれた小扉」
「印は?」
「三波」
エステルの手が止まる。
王室衣装室。
古い。
三波。
リディアの針にも。
ある。
「開けた?」
「開けてない」
「なぜ」
「ユリウスが止めた」
「よかったです」
「即答か」
「もちろん」
「俺は開けたかった」
「存じています」
「顔?」
「性格です」
「ひどいな」
少しだけ笑う。
「南側は」
「まだ先がある」
「痛みで停止」
「ああ」
「どのくらい近づいたとき」
「古図で『返』の字がある区画まで、あと六間ほどらしい」
六間。
近い。
でも。
まだ。
見えない。
「糸は続く?」
「ああ」
「切れていない?」
「見える範囲では」
「壁へ固定?」
「途中から床際」
「縫い目は」
「ユリウスが撮ってる」
「裏」
「見えるところは」
「ありがとうございます」
「俺に?」
「報告してくださったので」
「ユリウスが記録した」
「公爵様が見たことも」
アルヴィス。
少し。
黙る。
「なら」
「はい」
「受け取った」
エステルが。
目。
瞬く。
「何を」
「礼」
「……はい」
「返す」
「何を?」
「報告」
「もういただきました」
「なら終わり」
それだけ。
でも。
おかしい。
少し。
嬉しい。
「公爵様」
「何だ」
「本当に成長なさいましたね」
「言うと思った」
「でも」
「嫌だ」
「まだ何も」
「顔」
「今日は読まないでください」
「なぜ」
「何となくです」
アルヴィスが笑う。
そのとき。
エステルは。
彼の肩。
白い埃。
気づく。
「動かないでください」
「何だ」
「肩に」
手を。
伸ばしかける。
止まる。
あと。
少し。
距離。
灰色の。
布。
直接。
触れない。
呪い。
ある。
エステルの手。
空中。
止まる。
アルヴィスも。
見る。
「埃?」
「はい」
「取る?」
「……布を」
近く。
小さな。
端布。
取る。
それで。
肩。
払う。
触れるのは。
布越し。
「取れました」
「そうか」
アルヴィス。
それだけ。
でも。
少し。
顔。
硬い。
「嫌でした?」
「違う」
「では」
「手で取ろうとした?」
エステル。
止まる。
「はい」
「怖くなかった?」
「……少し」
「それでも?」
「埃でしたので」
「理由になってない」
「そうですね」
何となく。
自然に。
手が。
出た。
触れてはいけない。
考える前に。
「申し訳ございません」
「謝るな」
「でも」
「触れてない」
「はい」
「なら」
少し。
間。
「次も、止まればいい」
エステルは彼を見る。
「止まれば?」
「ああ」
「手を出すこと自体は?」
アルヴィスもこちらを見る。
「……嫌ではない」
胸の奥。
小さく。
鳴る。
三日。
まだ。
三日。
記録。
変わらない。
でも。
祝福の。
目盛り。
だけが。
全部では。
ない。
「そうですか」
「それだけ?」
「何を言えば」
「いや」
アルヴィス。
今度は。
少し。
笑う。
「それでいい」
ニナが。
奥。
作業台。
こちら。
見ている。
「ニナ」
「見てない」
「見ています」
「仕事してる」
「針が止まっております」
「……今から」
アルヴィスが低く笑う。
「顔」
「公爵!」
店の空気が戻る。
夕方近く。
ユリウスも来た。
魔写紙。
古図。
追加。
記録。
「結論から」
ユリウス。
「返納庫へ通じる可能性は高い」
エステル。
地図。
見る。
「まだ入ってはいない」
「はい」
「根拠は」
「三つ」
ユリウス。
紙。
並べる。
「一つ。西回廊保守空間が南へ下がること」
「はい」
「二つ。返礼室の排出経路が同じ旧区画へ向かうこと」
「はい」
「三つ」
古い。
金属板。
魔写。
「今日、保守空間の壁で見つけた」
文字。
薄い。
『返納庫 北側点検路』
店。
静か。
「読めます」
エステル。
「これなら」
ヴィオラ。
いない。
でも。
見れば。
同じ。
言う。
「点検路」
ニナ。
「じゃあ、その先」
「返納庫」
ユリウス。
「ほぼ確定です」
「入口は?」
「まだ」
「東の三波小扉は」
「別系統と思われる」
「南側は」
「明日、王宮側の許可が整えば、六間先まで進む」
アルヴィス。
口。
開く。
「俺は」
「行きません」
ユリウス。
即答。
「何だと」
「痛みが強すぎる」
「俺がいないと反応が」
「反応を見るために本人を危険へ近づける必要はない」
「でも」
「駄目です」
エステル。
先。
言う。
アルヴィス。
見る。
「お前まで」
「はい」
「俺の傷が手掛かりだ」
「だからこそ、これ以上近づけません」
「返納庫の場所が」
「ほぼ分かったのでしょう」
ユリウス。
頷く。
「今は本人の反応より、構造確認が優先」
「公爵様」
エステル。
「順番です」
「その言葉を俺に使う?」
「使います」
「母の手紙みたいだな」
「便利ですので」
アルヴィス。
不満。
でも。
しばらく。
黙る。
「分かった」
エステル。
少し。
驚く。
「何だ」
「早かったので」
「何が」
「受け入れるのが」
「……お前たちが三人で言うからだ」
「三人?」
ニナ。
「わたしも?」
「顔が言ってる」
「公爵に言われた」
「今日は俺が使う」
また。
少し。
笑い。
ユリウス。
続ける。
「明日は私、王宮施設管理二名、騎士二名。必要ならヴィオラに古い縫い止めだけ確認を依頼する」
「私は」
エステル。
言う前。
全員。
見る。
「店におります」
自分。
言う。
「婚礼衣装を縫います」
アルヴィス。
「そうしろ」
ニナ。
「えらい」
「それはやめてください」
「成長」
「それも」
でも。
笑う。
ユリウス。
帰る。
アルヴィスも。
今日は。
早め。
店。
出る。
「明日」
扉。
前。
「はい」
「俺も王宮には行かない」
「本当に?」
「ユリウスに止められた」
「公爵邸で?」
「ああ」
「では、休んでください」
「仕事する」
「休むのも」
「仕事?」
「必要です」
「仕立て師が言う?」
「最近は」
アルヴィス。
少し。
笑う。
「分かった」
「公爵様」
「何だ」
「今日は」
少し。
迷う。
「戻ってきてくださって、ありがとうございました」
アルヴィス。
目。
わずか。
開く。
「報告のため?」
「それも」
「ほかは」
聞く。
ずるい。
「無事だったので」
それだけ。
言う。
アルヴィス。
少し。
黙る。
「そうか」
「はい」
「なら」
扉。
開ける。
「また来る」
出る。
閉まる。
ニナ。
奥から。
「今の」
「何です」
「かなり」
「何が」
「顔」
「禁止です」
耳が少し熱い。
エステルは。
裁断台。
戻る。
婚礼衣装。
本番。
前身頃。
今日。
肩。
つなぐ。
「ニナ」
「何」
「そちらは?」
「終わった」
「見ても?」
「うん」
薬屋の。
上着。
裏。
広い。
当て布。
端。
薄く。
段差。
ずらす。
縫い目。
まだ。
少し。
力。
強い。
でも。
昨日より。
いい。
「ここ」
エステル。
指す。
「強い?」
「少し」
「ほどく?」
「ニナは?」
触る。
考える。
「ほどく」
「では」
「でも二針だけ」
「はい」
「それでいい?」
「着る方が困らなければ」
ニナ。
糸切り。
持つ。
「今日も戻す」
「はい」
「王女様の服も?」
「必要なら」
「返納庫も?」
エステル。
少し。
止まる。
「何が」
「間違ってたら戻す?」
「戻せるところまで」
「戻せないところは?」
「その前に止まります」
「公爵みたいに?」
「今日は止まりましたね」
「うん」
「なら」
エステル。
白絹。
見る。
「大丈夫です」
何が大丈夫なのか、全部分かっているわけではない。
返納庫はまだ開いていない。アルヴィスの傷の原因も残っているし、婚礼衣装も完成していない。
それでも一つずつ止まり、見て、直して、進む。それなら縫える。
エステルは王女の肩線へ針を入れた。白い糸を表へ出して引く。
強すぎず、弱すぎず、ちょうど布が落ち着くところまで。
王宮の壁の中では、灰青の糸が返納庫へ向かっている。
路地裏の店では、白い糸が婚礼衣装の肩をつないでいる。
どちらも、まだ途中だ。
だから今は、それでよかった。




