第8話 泣かないための喪服
アルヴィス公爵の外套が一晩保った翌日、路地裏の店には、朝から人が並んだ。
最初に来たのは、真珠を三連に重ねた侯爵夫人だった。
「夫が私以外の女性を見なくなるドレスをお願いしたいの」
「お作りできません」
二人目は、香水の匂いをまとった若い子爵だった。
「賭け事で必ず勝てる手袋を」
「お作りできません」
三人目は、金の飾りボタンを十個も付けた商人だった。
「着ているだけで、誰もが私を信用する上着を頼む」
「お作りできません」
断るたび、相手は同じ顔をした。
祝福を縫える仕立て師だと聞いて来たのに、なぜ望みを叶えられないのか。
中には、代金ならいくらでも払うと金貨の袋を見せる者もいた。
それでも、エステルは首を縦には振らなかった。
「祝福は、人の心を縛るためのものではございません」
「では、何ができるの?」
侯爵夫人は不満そうに扇を鳴らした。
「夫人が、ご主人と話し合う席から逃げずに済むようなドレスなら」
「私が努力しなくてはいけないの?」
「はい」
「それでは魔法の意味がないじゃない」
夫人は呆れたように言い、店を出ていった。
若い子爵も、商人も同じだった。
人の気持ちを変えてほしい。
努力をせずに結果だけを得たい。
誰にも疑われず、誰にも負けず、誰からも愛されたい。
そうした願いに、母の針は応えない。
午前中だけで、エステルは七件の依頼を断った。
「もったいない」
窓辺で花を束ねていたリリが言った。
「何がです?」
「金貨。あの袋、寝台が三つ買えたよ」
「寝台は一つで十分ですわ」
「三つあったら、毎日違うのに寝られる」
「置く場所がございません」
「じゃあ、一つはわたしがもらう」
「なぜです?」
「店番のお給料」
「店番を頼んだ覚えはありません」
リリは聞こえないふりをして、黄色い花を一本、花瓶へ挿した。
朝から何人もの客が出入りしたせいで、店の床には泥が残り、入口の紙看板は人の肩に当たって少し破れていた。
看板へ書いた文言も、今となっては誤解を招くのかもしれない。
『あなたが、本当に必要としている一着を』
これを、どんな望みでも叶える店だと受け取る者がいる。
「書き直します?」
リリが看板を覗き込んだ。
「何と?」
「できないものは、できません」
「仕立て屋の看板としては、少々感じが悪いですわね」
「じゃあ、欲張りお断り」
「もっと悪くなりました」
エステルは破れた角を布で補強した。
紙へ布を重ね、細かく縫い留める。
看板一枚にも、丁寧な仕事は必要だ。
「公爵様の外套、本当に一晩保ったの?」
「ええ」
「だから、みんな来たんだね」
「どなたが噂を広めたのでしょう」
「王宮にいた人じゃない?」
王妃から贈られた白い薔薇が、アルヴィスの手の中で枯れなかった。
王宮の広間で起きたことなら、翌朝には王都中へ伝わっていても不思議ではない。
けれど、噂は事実より大きくなっているらしい。
呪われた公爵を治した。
一晩で奇跡を起こした。
どんな願いでも服に縫い込める。
中には、エステルが王室衣装室から追放された大仕立て師だという話まであった。
「私、まだ開店して八日ですのに」
「すごいね。八日で大仕立て師」
「笑い事ではありません」
エステルが溜息をついたとき、入口に人影が現れた。
朝から訪れた貴族たちとは違い、馬車も侍女も連れていない。
黒い帽子を深くかぶった、年配の婦人だった。
背は低く、手には大きな包みを抱えている。
「こちらは、祝福を縫う仕立て屋さんですか」
静かな声だった。
「祝福をお約束する店ではございませんが、仕立てと繕い物を承っております」
エステルが答えると、婦人はわずかに頷いた。
「その答えなら、入ってもよさそうですね」
「どうぞ」
婦人は店へ入ると、周囲をゆっくり見回した。
窓辺の黄色い花。
古い裁断台。
棚へ並ぶ、まだ数の少ない反物。
最後に、補修したばかりの看板を見る。
「あなたが、エステル・ラヴィニアさん?」
「はい」
「私は、オデット・フェルナーと申します」
フェルナー。
どこかで聞いた名だった。
記憶を探るうち、オデットが先に口を開く。
「夫は、王立劇場で役者をしておりました」
それで思い出した。
グレゴール・フェルナー。
喜劇から悲劇まで演じ分け、王都の人々に長く愛された名優だ。
エステルも幼い頃、父に連れられ、舞台を一度だけ見たことがある。
高い塔の上で、亡き王へ別れを告げる老騎士。
その声が劇場の最後列まで届き、客席中が息をすることすら忘れていた。
「ご主人は、もしかしてグレゴール・フェルナー様ですか」
「ご存じなのね」
「舞台を拝見したことがございます」
「そう」
オデットの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
けれど、すぐに黒い帽子の影へ戻る。
「夫は、先月亡くなりました」
「……お悔やみ申し上げます」
「ありがとう」
その返事は、何度も同じ言葉を受け取ってきた人のものだった。
オデットは抱えていた包みを、裁断台へ置いた。
中から現れたのは、一着の黒いドレスだった。
上質な布で仕立てられている。
古い型だが、保存状態はよい。
袖口には細かな黒真珠が並び、胸元には光沢のない刺繍が施されていた。
「こちらを、直せばよろしいのでしょうか」
「明後日、王立劇場で夫の追悼公演があります」
オデットはドレスの襟へ触れた。
「舞台の最後に、私が挨拶をすることになりました」
「このドレスを着て?」
「三十年前、夫が初めて主演を務めた夜に着たものです」
思い出の一着。
けれど、オデットの言葉には懐かしさより、固い緊張があった。
「どのように直しましょう」
「泣かないようにしてほしいの」
オデットは、まっすぐにエステルを見た。
「舞台の上で、決して泣かない喪服に」
リリが窓辺で動きを止めた。
エステルはオデットの顔を見る。
目元に疲れはある。
だが、泣き腫らした様子はなかった。
「涙を、止めたいのですか?」
「ええ」
「悲しくないように?」
「悲しみは消さなくていい。ただ、涙だけを止めてほしい」
「なぜでしょう」
オデットの指が、黒いドレスを強く握った。
「夫は、誰からも愛された人でした」
静かな言葉。
「劇場の仲間。観客。若い役者たち。新聞記者まで、皆が夫との思い出を語ります」
「素晴らしい方だったのですね」
「ええ。素晴らしい役者でした」
役者でした。
夫でした、とは言わなかった。
エステルは、その小さな違いを聞き逃さなかった。
「追悼公演では、どのようなご挨拶を?」
「劇場が用意した原稿があります」
オデットは鞄から紙を取り出した。
立派な文章だった。
偉大な役者。
舞台へ捧げた人生。
観客への感謝。
若い世代へ受け継がれる情熱。
だが、妻の言葉は一つもない。
「こちらを、お読みになるのですか?」
「劇場側は、そう望んでいます」
「オデット様は?」
「私は……」
初めて、言葉が止まった。
「私は、別のことを言いたい」
オデットは小さく息を吐いた。
「夫は、家では台詞を覚えられない人でした。靴下を左右違う色で履き、砂糖と塩を何度も間違えた。夜中に新しい役の声を試して、隣人から壁を叩かれたこともあります」
語る声が、少しずつ温かくなる。
「舞台の上では偉大でも、家では手の掛かる人でした」
「大切な思い出ですわね」
「でも、劇場の支配人は、そういう話はしないでほしいと言うのです」
「なぜ?」
「グレゴール・フェルナーという伝説を、壊したくないのでしょう」
オデットは自嘲するように笑った。
「私も、壊すつもりはないわ。ただ、皆が知らない夫を、最後に少しだけ話したいだけ」
「では、それをお話しになれば」
「泣いてしまう」
即答だった。
「夫の名を、自分の言葉で呼べば、きっと泣く。声が詰まり、最後まで話せない。そうなれば、支配人はほら見たことかと思うでしょう。妻の感情など、舞台には不要だったと」
依頼の言葉と、本当の願いは違う。
泣きたくないのではない。
泣いても、自分の言葉を最後まで届けたいのだ。
「涙そのものを止める祝福は、お勧めできません」
エステルが言うと、オデットの顔が硬くなった。
「できないの?」
「できるかもしれません。ですが、涙を止めることが、オデット様の本当の望みではないと思います」
「私の望みを、あなたが決めるの?」
厳しい声だった。
リリが心配そうにこちらを見る。
エステルは、逃げずにオデットの目を見た。
「いいえ。ですから、伺います」
「何を?」
「もし、誰にも責められず、泣いても最後までお話しできるなら、それでも涙を止めたいですか?」
オデットは答えなかった。
黒いドレスの胸元へ視線を落とす。
長い沈黙だった。
やがて、肩から力が抜ける。
「いいえ」
声は小さかった。
「本当は、泣いてはいけないと思っているだけ」
「どなたに言われたのです?」
「誰にも」
「では、なぜ?」
「私は役者の妻だったから」
オデットは、少し寂しそうに笑った。
「幕が上がれば、何があっても最後まで演じる。それが、あの人の口癖でした」
「オデット様は、役者ではございません」
「そうね」
「妻です」
その一言で、オデットの目に涙が浮かんだ。
彼女はすぐに顔を背けた。
「ごめんなさい」
「謝らないでくださいませ」
「まだ、舞台でもないのに」
「ここは仕立て屋です。泣いても、幕は下りませんわ」
オデットは口元を押さえた。
一粒だけ、涙が頬を伝う。
エステルは、急いで布を差し出そうとして手を止めた。
今、この涙を隠してよいのだろうか。
オデットは自分で鞄からハンカチを取り出し、静かに拭った。
「では、私は何をお願いすればいいのかしら」
「ご主人のお名前を呼んだあとも、声が消えませんように」
エステルは言った。
「涙が出ても、最後の言葉まで届きますように」
「そんな祝福が?」
「具体的な願いです。きっと宿ります」
「泣かない喪服ではなく」
「泣いても話せる喪服です」
オデットは、黒いドレスを見た。
「でも、この服は三十年前のものよ。今の私には入らないわ」
「それは、直せます」
「布を足せば、形が変わる」
「三十年分、変わって当然ですわ」
エステルはドレスを広げた。
胴回りを出すための縫い代は、ほとんど残っていない。
脇へ別布を足す必要がある。
けれど、同じ黒では、古い布との違いが目立つ。
「ご主人が舞台で着ていた衣装は、残っていますか?」
「え?」
「端切れでも構いません」
「自宅に、古い衣装箱があります」
「その中に、黒い布は?」
オデットは少し考えた。
「最後に演じた老王の外套が、黒だったと思う」
「一部を使わせていただけませんか」
「夫の衣装を、私の喪服に?」
「お嫌ですか?」
オデットは、すぐには答えなかった。
やがて、黒いドレスの胸元を撫でる。
「いえ」
その声は、先ほどよりも確かだった。
「それがいいわ」
オデットが衣装を取りに戻るあいだ、エステルはドレスの状態を確かめた。
三十年前の布は丈夫だが、袖口と襟が少し擦れている。
黒真珠のうち二つは、糸が緩んでいた。
胸元の刺繍は、近くで見ると小さな仮面の模様だった。
「泣いても話せる服って、どうやって作るの?」
リリが尋ねる。
「胸を締めつけないよう直します」
「それだけ?」
「声を出すには、息が必要です。まず、きちんと息ができる服でなくては」
「祝福があれば、苦しくても話せるんじゃない?」
「祝福に頼る前に、服としてできることをします」
「お姉さん、魔法使いなのに、あんまり魔法を使わないね」
「私は仕立て屋です」
母も、同じことを言った。
祝福は、縫製の代わりではない。
体に合わない服へ願いだけを込めても、それは着る人を助けない。
まず、呼吸ができること。
腕を動かせること。
歩けること。
そのうえで、最後の一歩だけを祝福が支える。
昼過ぎ、オデットが古い衣装箱を持って戻った。
中には、黒い外套が畳まれていた。
王冠を失った老王が、最後の場面で羽織る衣装だったという。
裾は擦れ、裏地には役者の名が刺繍されている。
『グレゴール・フェルナー』
エステルが名を読むと、オデットの瞳が揺れた。
「切ってしまっても?」
「ええ」
「一度切れば、舞台衣装には戻りません」
「構わないわ」
オデットは外套へ手を置いた。
「箱の中で眠るより、あの人も喜ぶでしょう」
エステルは、老王の外套から脇へ使う布を取った。
オデットのドレスへ重ねると、同じ黒でも色合いが違う。
妻のドレスは、少し青みのある黒。
夫の衣装は、深い墨色。
無理に隠すことはできない。
「違いが見えますね」
オデットが言う。
「ええ」
「同じ色にはならないの?」
「染め直せば近づけられます。でも、完全には同じになりません」
「では、そのままで」
オデットは迷わなかった。
「夫と私は、同じ人間ではないもの」
エステルは微笑んだ。
「承知しました」
採寸をする。
三十年前のドレスと、今のオデットの体。
変わったのは胴回りだけではない。
肩が少し前へ入り、右腕が上がりにくくなっている。
首元を締めつける高い襟も、今の彼女には苦しい。
「襟は、少し低くしましょう」
「形が変わってしまわない?」
「話すための服です。喉を締めてはいけません」
「でも、これは喪服よ」
「悲しみは、襟の高さでは決まりませんわ」
オデットは小さく笑った。
「あなた、思ったよりはっきり言うのね」
「よく言われます」
「公爵様にも?」
「……時々」
アルヴィスの顔が浮かび、エステルは慌てて採寸表へ視線を落とした。
「なぜ、そこで顔が赤くなるの?」
オデットに指摘され、さらに熱くなる。
「灯りが、少々暑いだけです」
「まだ昼間よ」
「採寸を続けます」
話を切り上げ、背丈を測る。
今度は実際に触れられる。
巻き尺を肩へ回し、胸元へ当てる。
当たり前の採寸。
それなのに、アルヴィスへ触れずに寸法を読んだあとでは、不思議なほど簡単に思えた。
「明日の夕方に仮縫いを。追悼公演の朝には、お渡しできます」
「間に合う?」
「間に合わせます」
「また、眠らないつもり?」
窓辺からリリが口を挟む。
「リリ」
「公爵様の外套のときも寝なかったよ」
「余計なことを言わないでください」
オデットは、エステルをしばらく見つめた。
「あなたも、幕が上がれば最後までやる人なのね」
「舞台には立てませんが」
「仕立て屋の舞台は、裁断台なのでしょう」
オデットはそう言い、黒い帽子をかぶり直した。
「お願いするわ。泣いても、最後まで話せる喪服を」
「お任せくださいませ」
オデットを見送ったあと、エステルはすぐに作業へ入った。
夫の外套から取った布を、妻のドレスの脇へ足す。
色の違いを隠さず、縦に細く見せる。
まるで、二人の人生が並んで一着を形作っているように。
襟を低くし、胸元へ呼吸の余裕を作る。
袖口の黒真珠は、すべて外して縫い直した。
一つずつ並べると、三十年前の夜から落ちずに残ってきた時間のようだった。
夜になったころ、入口の扉が叩かれた。
こん、こん、こん。
三度。
エステルの手が止まる。
扉を開けると、アルヴィスが立っていた。
青灰色の外套を着て。
「公爵様」
「近くまで来た」
「公爵邸から、この路地は近くありませんわ」
「用件がある」
彼は店内へ視線を向けた。
裁断台には、黒い喪服。
その横には、切り取られた舞台衣装。
「新しい依頼か」
「ええ」
「今度は誰を救う」
その言い方に、エステルは少し眉を寄せた。
「救いません」
「祝福を縫うのだろう」
「最後まで話せるよう、少し手を貸すだけです」
「同じでは?」
「違います」
エステルは針を置いた。
「私は、お客様の人生を代わりに背負えません。服ができることも、ほんの少しです」
「それでも、皆がお前を頼る」
「頼られることと、何でも引き受けることは別ですわ」
アルヴィスは入口の紙看板を見た。
補修した布が、角に縫いつけられている。
「朝から、客が並んでいたと聞いた」
「どなたから?」
「王宮で噂になっている」
「やはり、公爵様の外套のせいでしたのね」
「俺のせいか」
「少なくとも、きっかけです」
「迷惑だったか」
エステルは答えようとして、言葉を止めた。
アルヴィスは、こちらを見ていない。
窓辺の花へも、近づかない。
ただ、扉のそばで立っている。
迷惑だったか。
それは、外套が壊れたかどうかを尋ねるときより、ずっと静かな声だった。
「忙しくはなりました」
「そうか」
「でも、迷惑ではございません」
アルヴィスが、わずかに顔を上げる。
「公爵様の一晩があったから、今日のお客様もここへ来られたのかもしれません」
「俺は、何もしていない」
「白い薔薇を受け取りました」
「それだけだ」
「公爵様には、それが難しかったのでしょう?」
アルヴィスは答えなかった。
エステルは、裁断台の上の黒い布へ視線を戻す。
「誰かが一歩進むと、それを見た別の誰かも、自分の願いを口にできることがあります」
「それを、善意と呼ぶのか」
「いいえ」
少し考え、エステルは笑った。
「連鎖、と呼びましょう」
「教会の説教のようだ」
「では、仕立て屋の口コミで」
「急に安っぽくなったな」
「商いには大切ですわ」
アルヴィスの口元が、ごくわずかに動いた。
笑ったのかもしれない。
「用件とは、何でしょう」
エステルが尋ねると、彼は外套の内側から小さな箱を出した。
黒い木の箱。
留め具はない。
蓋を上へ載せただけの簡単な作りだった。
「代金の残りだ」
「箱をご用意くださったのですね」
「袋では紐が切れるからな」
エステルは裁断台の端を空けてもらい、そこへ箱を置くよう頼んだ。
直接受け取れば、指が触れるかもしれない。
アルヴィスも分かっているらしく、一定の距離を保つ。
箱の中には、残りの仕立て代と材料費。
それから、小さな金貨が一枚多く入っていた。
「多いです」
「外套は、晩餐会のあとも保っている」
「祝福はほどけました」
「服は保った」
「それは、仕立て代の範囲です」
「では、寝台代の不足分だ」
エステルは目を瞬いた。
「なぜ、私の貯金額を?」
「店の帳簿が開いていた」
「ご覧になったのですか?」
「見える場所に置くほうが悪い」
「勝手に見てはいけませんわ」
「次から閉じておけ」
悪びれもしない。
エステルは金貨をつまみ上げかけ、手を止めた。
「こちらは、受け取れません」
「なぜ」
「ご依頼以上のお金です」
「外套が予定以上に保った報酬だ」
「それなら、次のご依頼の前金にしてくださいませ」
「次?」
「三日保つ祝福を、いずれお試しになるのでしょう?」
アルヴィスの目が細くなる。
「勝手に決めるな」
「嫌ですか?」
「その聞き方をすれば、俺が断れないと思っているのか」
「断りたいのですか?」
短い沈黙。
「今は、必要ない」
前と同じ言葉だった。
一晩で十分だ。
今は。
「では、前金としてお預かりします」
「話を聞いていたのか」
「必要になったときのために」
「返せ」
「触れずにお返しする方法を考えなくては」
「箱ごと寄越せ」
「箱は、代金を運ぶために必要でしょう?」
「お前は——」
アルヴィスが何かを言いかけたとき、店の外で靴音が止まった。
扉の隙間から、白い封筒が差し入れられる。
「エステル・ラヴィニア殿」
硬い男の声。
「王都仕立てギルドより、通知をお持ちしました」
アルヴィスの表情が変わった。
エステルが封筒を拾う。
赤い封蝋には、鋏と糸巻きの紋章。
王都仕立てギルドの印だった。
「通知?」
「明朝、ギルド本部へ出頭されたし。無許可営業、および認可なき祝福衣装の製作について、事情を伺います」
声の主は、返事を待たずに去っていった。
路地へ靴音が遠ざかる。
店内に、静寂が落ちた。
エステルは封筒を開く。
中の文面は、今告げられたとおりだった。
無許可営業。
認可なき祝福衣装。
違反が認められた場合、営業停止および道具の没収。
最後の一文を読んだとき、エステルの指が母の裁縫箱へ伸びた。
道具の没収。
それは、母の針を奪われるということだ。
「行くな」
アルヴィスが言った。
「ですが」
「ギルドから正式な召喚状が来るまで、従う義務はない」
「これは正式では?」
「形式が違う。脅しだ」
アルヴィスは通知を一瞥した。
「朝までに、俺が調べる」
「公爵様が?」
「俺の外套が原因なら、無関係ではない」
「先ほど、連鎖だと申し上げました」
「都合のよいときだけ言葉を変えるな」
彼は扉へ向かい、そこで足を止めた。
「針を、誰にも渡すな」
エステルは裁縫箱へ手を置いた。
「はい」
「店も閉めるな」
「はい」
「明日の朝まで、余計なことをするな」
裁断台には、明日までに仕上げなくてはならない喪服がある。
「それは、できません」
アルヴィスが振り返る。
「お客様の追悼公演が、明後日なのです」
「ギルドに目をつけられているのに、縫うのか」
「ご依頼を受けましたから」
「針を没収されれば、続きはできない」
「でしたら、今夜のうちに仕上げます」
アルヴィスは、呆れたようにエステルを見た。
「無茶をするなと言ったはずだ」
「公爵様も、眠らずにお仕事をなさるのでしょう?」
「俺の真似をするな」
「よいところだけ、真似いたします」
「今のどこが、よいところだ」
エステルは笑い、黒いドレスへ針を入れた。
「幕が上がる前に、仕上げるところですわ」
アルヴィスは、しばらく何も言わなかった。
やがて、店の隅に置かれた椅子へ視線を向ける。
「その椅子は、まだ保つか」
「公爵様用に、釘を増やしました」
「今夜だけ借りる」
「お帰りにならないのですか?」
「お前が余計なことをしないか見張る」
「縫うことは、余計なことに入りません」
「それ以外だ」
アルヴィスは椅子へ座った。
背もたれは使わない。
青灰色の外套を着たまま、扉のそばに立つ番人のように。
エステルは驚いたが、何も言わなかった。
触れられない。
手伝ってもらうこともできない。
それでも、店に誰かがいる。
夜の路地で、一人きりではない。
そのことが、思っていたよりも心強かった。
エステルは青白い針へ、黒い糸を通す。
オデットが、ご主人の名を呼んだあとも。
涙で声が震えても。
最後の言葉まで、客席へ届きますように。
まだ、祝福を縫うときではない。
まずは、服を仕上げる。
夜は長い。
けれど、針の進む音の向こうに、もう一人分の静かな呼吸があった。




