第7話 一晩だけの祝福
アルヴィス公爵が選んだ青灰色の糸は、見た目よりもずっと扱いの難しい糸だった。
撚りが強く、引けば真っ直ぐ伸びる。
けれど、力を入れすぎると、布の表面へ硬い線が残る。
丈夫さだけを考えるなら、もっと扱いやすい糸はいくらでもある。王宮の晩餐会で着る外套へ使うには、少し地味で、少し無骨だった。
それでもエステルは、糸巻きを手のひらで転がすたび、妙に嬉しくなった。
アルヴィスが、自分で選んだ糸だ。
誰かに与えられたものでも、似合うだろうと勝手に決められたものでもない。
命令の形ではあったけれど、彼が初めて示した好みだった。
「そんなに見てたら、糸が恥ずかしがるよ」
朝の窓辺で、リリが言った。
「糸は恥ずかしがりませんわ」
「でも、ずっと眺めてる」
「状態を確かめているのです」
「にこにこしながら?」
エステルは慌てて口元を引き締めた。
「笑っておりません」
「公爵様と同じこと言ってる」
「誰がです?」
「公爵様。目が笑ってるって言われても、笑ってないって言いそう」
確かに言いそうだった。
思い浮かべると、また頬が緩みかける。
エステルは青灰色の糸巻きを裁断台へ置き、わざと厳しい顔を作った。
「リリ。今日はお仕事が多いので、そろそろ花を売りに行ってくださいませ」
「追い出された」
「追い出しておりません」
「じゃあ、お昼にまた来るね」
「働いてください」
「お姉さんもね」
最後に余計な一言を残し、リリは花籠を抱えて店を出ていった。
扉の向こうから、すぐに明るい売り声が聞こえる。
「春のお花はいかがですか! 公爵様より長持ちしますよ!」
「リリ!」
エステルが扉を開けたときには、少女はもう路地の角を曲がっていた。
「もう……」
誰に聞かれたか分からない。
頭を抱えたくなったが、本番の外套へ取りかかる日である。いつまでも立ち尽くしてはいられなかった。
エステルは入口へ『本日、仕立てのため午後まで閉店』と札を下げ、裁断台へ向かった。
青灰色の毛織物を広げる。
光を受けると、布の表面に淡い青が浮かんだ。
夜のような灰色。
その奥に、朝が来る前の青が隠れている。
派手ではない。
けれど、見る角度によって印象が変わる。
アルヴィスによく似た布だと思った。
「……似合うから選んだのではありませんわ」
誰に言い訳するでもなく、呟く。
彼が自分で選んだ。
それだけで十分だった。
型紙を置く。
一目裁ちで読み取った寸法。
二度の仮縫いで直した肩。
右脇腹へ縫い目が当たらないようずらした脇線。
椅子へ寄りかからず座る背中に、皺が寄らないための余裕。
すべてを紙の上で確かめてから、裁ち鋏を入れる。
しゃきん。
静かな店内に、布を断つ音が響いた。
一度切れば、元には戻らない。
だからこそ、裁断には迷いを持ち込まない。
母はいつもそう言っていた。
『縫い目はほどいて直せる。でも、裁った布は戻らない。だから鋏を入れる前に、その人がどこへ行く服なのかを思いなさい』
アルヴィスは、この外套を着て王宮の晩餐会へ行く。
多くの貴族が祝福をまとい、家柄と人脈と愛情を見せ合う場所へ。
彼だけが、一着の祝福すら保てないまま立ってきた場所へ。
その夜だけでも、誰かの視線に耐える服を。
そう考えかけて、エステルは鋏を止めた。
「いけません」
それでは、また自分が勝手に願っている。
彼に必要なものを決めるのは、彼自身でなければならない。
エステルは裁断台の紙を見た。
布の色。
糸。
留め具。
裏地。
襟の高さ。
すべて、アルヴィスが選んだ。
けれど、祝福だけはまだ選ばれていない。
「何を縫い込むか、伺っておりませんわ」
外套の形は作れる。
しかし、どんな願いを宿すのか決めずに針を入れることはできない。
エステルはしばらく考え、裁断した布を丁寧に包んだ。
そして店の札を裏返す。
『急用のため外出します』
アルヴィス公爵邸は、王都北側の高台にあった。
路地裏の店から歩けば、半刻以上かかる。
馬車を雇う金は惜しい。何より、布を抱えたまま揺られるより、自分で歩いたほうが安心だった。
王都の西側から中央へ向かうにつれ、道幅が広くなる。
石造りの店が増え、行き交う人々の服も上等になった。
さらに北へ進むと、門を構えた屋敷が並び始める。
その中でも、ヴァルクレイ公爵邸はひときわ静かだった。
黒い鉄門。
その向こうに、灰色の石で建てられた大きな屋敷がある。
庭は広いのに、花壇にはほとんど何も植えられていない。整えられた低木と芝だけが続き、春だというのに色が少なかった。
門番へ名を告げると、疑うような目で見られた。
「仕立て屋?」
「はい。公爵様より、晩餐会の外套をご依頼いただいております」
「聞いていない」
「突然伺いましたので」
「お約束がない者は通せない」
「では、こちらを公爵様へ」
エステルは紙へ短く書いた。
『祝福に何を望まれますか』
門番はさらに怪しんだが、ヴァルクレイ家の紋章が押された注文書を見せると、ようやく使用人を呼んだ。
待つこと、四半刻。
屋敷の奥から現れたのは、三十歳ほどの細身の男だった。
黒髪をきっちり撫でつけ、銀縁の眼鏡を掛けている。
「公爵家執事補佐のセドリックと申します」
「エステル・ラヴィニアです」
「存じております。閣下より、路地裏の仕立て師が来る可能性はあると伺っておりました」
「来る可能性?」
「何か思いつけば、約束を待たずに来るだろう、と」
見抜かれていたらしい。
「公爵様は、ご在宅でしょうか」
「執務中です」
「少しだけ、お話を」
「難しいでしょう」
「外套が完成しません」
セドリックの眉が、わずかに動いた。
「それは困ります」
「私も困ります」
「では、こちらへ」
門を通され、エステルは公爵邸へ入った。
屋敷の中も、外と同じく色が少なかった。
壁には絵がある。
机には花瓶も置かれている。
けれど、花瓶は空で、絵の額縁はところどころひび割れていた。
廊下の絨毯も、中央だけが不自然に色褪せている。
アルヴィスが歩く場所なのだろう。
屋敷そのものが、彼を避けることはできない。
だから、彼が触れるものから少しずつ傷んでいく。
「公爵様は、こちらでお一人で暮らしていらっしゃるのですか?」
「使用人はおります」
セドリックは淡々と答えた。
「ただし、閣下の私室へ出入りする者は限られております」
「触れると、体調を崩すから?」
「ご存じでしたか」
「ご本人から」
「そうですか」
セドリックは少しだけ目を伏せた。
「閣下は、必要以上に近づくなと命じております。使用人のためです」
「昔から?」
「私が仕え始めた八年前には、すでに」
公爵は、今よりさらに若かったはずだ。
八年前から、誰も近づけなかった。
エステルは抱えた布包みを強く持ち直した。
同情してはいけない。
可哀想だと決めてはいけない。
彼が選ぶ前に、こちらが彼の人生を解釈してはいけない。
けれど、胸の奥が痛むことまでは止められなかった。
「こちらです」
案内されたのは、広い書斎だった。
扉の前で、セドリックが三度叩く。
「閣下。仕立て師のラヴィニア嬢がお見えです」
「入れ」
短い返事。
扉が開く。
アルヴィスは大きな机の向こうにいた。
書類が山のように積まれ、横には二本の燭台がある。
彼は上着を着ていなかった。
黒いシャツの上へ、生成りの仮縫い服をそのまま重ねている。
赤いしつけ糸も残ったままだ。
エステルは思わず、目を見開いた。
「まだ、お召しになっていたのですか?」
「脱げと言われていない」
「三日間も?」
「夜は脱いだ」
「それは、そうでしょうけれど」
生成りの布は、少し皺になっている。
けれど、縫い目は保っていた。
三日。
一晩どころではない。
「ほどけておりませんわ」
「祝福が入っていないからだろう」
「それでも、以前なら三分だったと」
「一度保ったものは、壊れにくくなるらしい」
「そのようなこと、今までにも?」
「ない」
やはり、特別な変化だ。
エステルは嬉しくなったが、今は別の用件がある。
「公爵様。祝福に何をお望みですか」
アルヴィスの手が止まった。
「そのために来たのか」
「はい」
「外套を晩餐会の終わりまで保たせろ。それで十分だ」
「それは、祝福ではありません。外套そのものへのご希望です」
「違いが分からない」
「祝福は、着る人がどうあってほしいかを縫い込むものです」
エステルは机から十分に距離を取って立った。
「たとえば、寒い夜でも古傷が痛みませんように。誰かの前で言葉に詰まっても、最後まで話せますように。そうした具体的な願いでなければ、宿りません」
「勝手に決めろ」
「決めません」
「仕立て師の仕事だろう」
「公爵様が、何を必要としているかを伺うのも仕事です」
「必要なのは、壊れない服だ」
「それだけですか?」
「それだけだ」
即答。
だが、エステルは引かなかった。
「本当に?」
「何度聞いても同じだ」
「では、質問を変えます。晩餐会で、何が一番困りますか?」
「服が壊れることだ」
「服以外で」
「ない」
「お食事は?」
「必要な分だけ取る」
「会話は?」
「必要な者とだけ話す」
「踊りは?」
「しない」
「誰かに贈り物を渡される予定は?」
アルヴィスの目が、わずかに細くなった。
「王妃から、毎年小さな記念品を渡される」
「それを受け取ると?」
「壊れる」
「王妃様の目の前で?」
「昨年は、箱が開く前に留め金が外れた」
「その前は?」
「花飾りが枯れた」
「その前は?」
「刺繍のハンカチが糸に戻った」
毎年。
大勢の前で。
好意が壊れる瞬間を、見せつけられてきた。
「今年も、何かを渡されるのですね」
「おそらく」
「断ることは?」
「王妃は、断られても毎年渡す」
その言い方に、ほんの少しだけ困った響きがあった。
「お優しい方なのですね」
「余計なことをする方だ」
「嫌いですか?」
「そうは言っていない」
エステルは、わずかに笑った。
アルヴィスが眉を寄せる。
「何だ」
「いいえ」
「笑ったな」
「公爵様も、王妃様のお心を壊したいわけではないのですね」
「俺が壊しているのではない」
「ええ。分かっております」
けれど、彼はそう思っている。
自分が触れるから壊れる。
だから、贈られる前から距離を取る。
「今年、王妃様から何かを渡されたとき、どうなればよいと思いますか?」
アルヴィスは答えない。
エステルは待った。
書斎の時計が、低い音を立てる。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて、アルヴィスが窓のほうへ視線を向けた。
「晩餐会が終わるまで」
「はい」
「形が残ればいい」
「贈り物の?」
「何でもいい」
「何でもでは、祝福は宿りません」
「面倒だな」
「具体的に」
アルヴィスは、不機嫌そうに指先で机を叩いた。
「王妃は、今年も花を贈ると言っていた」
「何色ですか?」
「知らない」
「どのような花を?」
「白い薔薇だろう。毎年、同じだ」
「では、その白い薔薇が」
エステルはゆっくり言葉を選んだ。
「王妃様へお礼を申し上げるまで、枯れませんように」
アルヴィスの指が止まった。
「それで、よろしいですか?」
「……礼を言う必要があるのか」
「嫌なら、別の願いに」
「嫌とは言っていない」
まただ。
彼はいつも、拒まないときに「嫌とは言っていない」と言う。
「では、決まりですわね」
「待て。俺は、よいとは」
「嫌ではないのでしょう?」
「お前は、人の言葉を都合よく解釈するな」
「公爵様が、分かりにくい言い方をなさるからです」
アルヴィスは深いため息をついた。
「それで保つと思うのか」
「試します」
「失敗すれば、王妃の目の前で枯れる」
「これまでと同じです」
「慰めになっていない」
「成功すれば、初めて変わります」
アルヴィスはしばらくエステルを見た。
やがて、机の引き出しから一枚の招待状を取り出す。
「晩餐会は、明後日だ」
「存じております」
「間に合うのか」
「そのために、今日は店を閉めてまいりました」
「無茶をするな」
「ご心配いただけるのですか?」
「外套が間に合わなければ困るだけだ」
「では、仕事として急ぎますわ」
エステルは一礼し、書斎を出た。
扉が閉じる直前、アルヴィスの声が追ってくる。
「ラヴィニア」
「はい?」
「花が枯れなかったら」
そこで言葉が止まる。
「何でしょう」
「いや。何でもない」
また、選ぶことを途中でやめた。
けれど、以前とは違う。
何かを言おうとはした。
「公爵様」
エステルは扉の隙間から言った。
「続きは、晩餐会のあとに伺います」
「勝手に決めるな」
「嫌ですか?」
返事はなかった。
それを、今は拒絶ではないと受け取ることにした。
店へ戻ると、すでに日が傾いていた。
エステルは灯りを増やし、裁断台へ青灰色の布を広げる。
裁断は終えてある。
あとは縫うだけ。
前身頃。
後ろ身頃。
肩。
袖。
襟。
一針ごとに、形が生まれていく。
右脇腹へ当たる部分だけは、柔らかな布を二重にした。
裏地は薄く、背中へ熱がこもらないようにする。
留め具は、彼が選んだ黒鉄。
装飾は最小限。
ただし、襟の裏側へだけ、青灰色の糸で一本の細い線を縫った。
外からは見えない。
着る本人だけが知る線だ。
夜が深くなっても、針を止めなかった。
空腹になれば、ベッシーにもらった丸パンをかじる。
眠くなれば、冷たい水で顔を洗う。
床の毛布へ目を向けるたび、寝台一台分の代金を思い出す。
仕事として縫う。
依頼と代金の交換として。
それでも、最後の仕上げだけは、仕事だけでは足りない。
祝福を宿す一針。
青白い針へ、アルヴィスが選んだ糸を通す。
エステルは目を閉じた。
王宮の広間。
祝福をまとった人々。
王妃が差し出す、白い薔薇。
それへ手を伸ばすアルヴィス。
触れた途端に枯れるのではなく。
礼を言う、その一言が終わるまで。
たったそれだけの時間でよい。
「王妃様へ、お礼を申し上げるまで」
一針。
「白い薔薇が、枯れませんように」
二針。
「受け取ったものを、すぐに失わずに済みますように」
三針目を刺した瞬間、青灰色の糸が光った。
これまでの祝福より、ずっと弱い光だった。
消えそうで、けれど確かに存在する。
糸の光は襟の裏側を走り、外套全体へ薄く広がった。
そして、すぐに消えた。
「宿った……」
エステルは息を吐いた。
けれど、安心はできない。
アルヴィスが着た瞬間に、ほどけるかもしれない。
翌日。
外套を届けるため、公爵邸を訪れる。
昨日と同じセドリックが出迎えた。
「完成したのですか」
「はい」
「早い」
「眠らなければ、縫えます」
「閣下と似たことをおっしゃる」
「公爵様も、眠らないのですか?」
「眠るよう進言しても、必要ないと」
「必要ですわ」
「あなたからもお伝えください」
「私の言葉を聞かれるでしょうか」
「少なくとも、仮縫い服は三日着ておられました」
どうやら、使用人たちも驚いていたらしい。
エステルは少しだけ誇らしくなった。
アルヴィスは書斎ではなく、応接室にいた。
広い部屋の中央に立ち、窓の外を見ている。
「完成しました」
「見れば分かる」
エステルは衣紋掛けへ外套を掛けた。
青灰色の布が、午後の光を受ける。
肩から裾へ流れる線は端正で、右側だけがわずかに柔らかい。
黒鉄の留め具。
高すぎず低すぎない襟。
飾りはない。
けれど、彼が選んだものだけで作られた一着だ。
アルヴィスはしばらく外套を見ていた。
「派手ではないな」
「お嫌ですか?」
「嫌とは言っていない」
「では、お召しくださいませ」
衝立はない。
アルヴィスは自分で古い外套を脱ぎ、新しい一着へ腕を通した。
エステルは砂時計を返す。
一分。
糸は切れない。
三分。
留め具も保っている。
十分。
祝福の光は見えない。
けれど、ほどけてもいない。
アルヴィスは右腕を上げ、肩を回した。
「痛みは?」
「ない」
「脇腹は?」
「当たらない」
「重さは?」
「軽い」
一つずつ答えるたび、彼の声から警戒が少しずつ薄れていく。
「鏡を」
エステルが壁際の姿見を示す。
アルヴィスは、その前へ立った。
青灰色の外套は、彼の銀髪と青灰色の瞳によく馴染んでいた。
黒い服より柔らかく見える。
けれど、弱くは見えない。
夜明け前の空のように、静かで、冷たく、奥に光を隠している。
「よくお似合いです」
口にした瞬間、襟元の糸がかすかに光った。
エステルは息を呑む。
ほどける。
そう思った。
けれど、糸は切れなかった。
光は一度だけ揺れ、消える。
「今、何かしたか」
「いいえ。ただ、似合うと」
「それは善意ではないのか」
「感想ですわ」
「都合がいいな」
「事実でもあります」
アルヴィスは鏡へ視線を戻した。
自分の姿を確かめるように。
長い間、じっと。
「祝福は、何を入れた」
「王妃様の白い薔薇が、お礼を申し上げるまで枯れないように」
「それだけか」
「それだけです」
「晩餐会の間、外套を守る祝福ではない?」
「外套を守るのではありません。公爵様が受け取る時間を守ります」
アルヴィスは、襟の裏側へ指を当てた。
青灰色の糸が縫われた場所。
「保つと思うか」
「今のところ、三十分です」
「一晩には遠い」
「今夜、確かめてくださいませ」
アルヴィスは頷かなかった。
けれど、外套を脱ぎもしなかった。
晩餐会当日。
エステルは店で仕事をしながら、何度も時計を見た。
夕刻。
王宮では、招待客が集まり始めるころ。
夜の鐘。
晩餐が始まるころ。
さらに一刻。
贈り物が渡されるなら、この頃だろうか。
落ち着かない。
針を持っても、同じ場所を二度縫いそうになる。
「今日は失敗ばっかりだね」
窓辺で花を束ねていたリリが言った。
「失敗しておりません」
「さっき、糸を逆から通したよ」
「考え事です」
「公爵様の?」
「外套のことです」
「同じじゃない?」
「違います」
「目が心配してる」
エステルは返事をせず、糸を切った。
心配してよいと、彼は前に許した。
勝手にしろ、という言葉ではあったけれど。
だから今夜だけは、心配してもよいはずだ。
王宮では、何が起きているのか。
白い薔薇は、枯れずに保ったのか。
アルヴィスは礼を言えたのか。
外套は、まだ形を保っているのか。
夜半を過ぎたころ、扉が三度叩かれた。
こん、こん、こん。
エステルは椅子を倒しそうな勢いで立ち上がった。
扉を開ける。
アルヴィスが立っていた。
青灰色の外套を着て。
留め具も、袖も、襟も。
すべて、完成したときのままだった。
「公爵様」
「まだ、ほどけていない」
前と同じ言葉。
けれど今度は、祝福が入っている。
「薔薇は?」
エステルが尋ねると、アルヴィスは外套の内側から一本の白い薔薇を取り出した。
花弁は、少しも枯れていない。
真っ白なまま。
瑞々しく、夜露のような光を帯びている。
「王妃様へ、お礼を?」
「言った」
「何と?」
「必要か」
「祝福が役目を終えたか、確かめるためです」
「受け取る、と」
アルヴィスは、少しだけ顔を逸らした。
「それから、礼を言った」
「王妃様は?」
「泣いた」
「まあ」
「大げさな方だ」
そう言う声は、以前より少し柔らかかった。
エステルは白い薔薇を見る。
祝福は、役目を終えたはずだ。
ならば、いつほどけてもおかしくない。
「外套を、もう少し見せてくださいませ」
「触れるな」
「分かっております」
アルヴィスは店の中央へ進んだ。
窓辺の花が、わずかに揺れる。
けれど、すぐには枯れなかった。
以前より、呪いが弱い。
そう思った瞬間だった。
襟の裏側から、青灰色の糸が一本、ほどけた。
光をまといながら、ゆっくりと床へ落ちる。
続いて、外套全体を淡い光が走った。
「始まりました」
エステルが息を呑む。
祝福が、役目を終えて糸へ戻る。
けれど、外套そのものは壊れない。
縫い目は保っている。
ほどけたのは、祝福を宿していた一本だけ。
アルヴィスが床へ落ちた糸を見る。
「一晩か」
「正確には、まだ夜が明けておりません」
外では、空がわずかに青み始めていた。
東の屋根の向こうから、朝の気配が差している。
「晩餐会の始まりから、今まで」
エステルは砂時計では足りない時間を、鐘の数で数えた。
「一晩、保ちました」
一晩。
たった一晩。
けれど、これまで何も受け取れなかった彼にとっては、初めての長さだ。
アルヴィスは白い薔薇を見た。
祝福がほどけても、花はまだ形を保っている。
すぐには枯れない。
彼が自分で受け取り、自分で持っているからだろうか。
「この花は、どうなる」
「普通の花と同じです。いずれ枯れます」
「祝福が切れても?」
「ええ」
「今すぐではない?」
「公爵様が、お水へ挿してくだされば」
アルヴィスは困ったように薔薇を見た。
「花瓶が保たない」
「硝子ではなく、金属の水差しをお使いください」
「水差しに花を?」
「枯らすよりはよろしいでしょう」
「使用人が驚く」
「王妃様が泣くよりは、よろしいかと」
アルヴィスは何も言わなかった。
だが、薔薇を捨てはしなかった。
エステルは床の糸を拾う。
役目を終えた青灰色の一本。
もう、同じ祝福は宿らない。
「公爵様」
「何だ」
「次は、三日を目指しましょう」
「勝手に決めるな」
「嫌ですか?」
アルヴィスは、白い薔薇を持ったまま扉へ向かった。
朝の光が、青灰色の外套へ差す。
「一晩で十分だ」
そう言った声は、いつものように冷たかった。
けれど、扉を開ける前に、ほんの少しだけ続ける。
「今は」
エステルは笑った。
「承知しました」
今は、一晩。
次は、三日。
その次は、もっと長く。
まだ、彼は何も約束していない。
それでも、受け取る時間は、確かに伸び始めている。
アルヴィスが店を出たあと、東の空から朝日が差し込んだ。
窓辺の黄色い花。
裁断台の上の青灰色の糸。
そして、扉の向こうを歩いていく、同じ色の外套。
エステルは、役目を終えた糸を小さな硝子瓶へ入れた。
瓶の底へ、最初の一本が落ちる。
「一晩」
忘れないように、紙へ書いた。
『アルヴィス・ヴァルクレイ公爵。
最初の祝福——一晩』
それが恋の長さを測る目盛りになることを、このときのエステルはまだ知らなかった。




