第6話 選ばせる一針
アルヴィス公爵の仮縫いが十八分保った翌朝、エステルは店の床いっぱいに糸を並べていた。
麻糸。
木綿糸。
絹糸。
蝋を引いた丈夫な糸。
装飾用の細い銀糸。
クララのドレスに使った蜂蜜色の糸も、役目を終えて戻った一本だけ、小皿の上へ置いてある。
「お店じゃなくて、蜘蛛の巣みたい」
入口から覗き込んだリリが言った。
「踏まないでくださいませ」
「どこを歩けばいいの?」
「白い布の上だけを」
「それ、無理じゃない?」
確かに、足の踏み場はほとんどなかった。
エステルは昨夜から、糸と縫い方の組み合わせを試し続けている。
同じ木綿布を小さな袋状に縫い、アルヴィスが置いていった硬貨を一枚ずつ入れる。公爵本人が触れた硬貨なら、呪いの名残があるかもしれないと考えたのだ。
だが、結果はまちまちだった。
丈夫な麻糸は、三刻経っても切れなかった。
しかし、布の端へ「長持ちしますように」と願いを込めて縫った瞬間、糸は一分もせずにほどけた。
絹糸は見た目には美しいが、硬貨を入れた途端に撚りが緩んだ。
逆に、何も考えず乱雑に縫った袋は、朝まで形を保っていた。
「やはり、丁寧さそのものではなく、込めた意味に反応している……」
「独り言が増えたね」
「考えがまとまりやすくなるのです」
「公爵様も独り言を言う?」
「おっしゃらないと思います」
「じゃあ、考えがまとまらないんだ」
「本人の前で言ってはいけませんわよ」
リリは返事の代わりに、糸の間へしゃがみ込んだ。
小皿の上の蜂蜜色の糸を見つける。
「これ、黄色いお嬢様の?」
「ええ。役目を終えた祝福の糸です」
「もう使えないの?」
「普通の糸としてなら使えます。でも、同じ祝福は二度と宿りません」
「どうして?」
「もう、願いが叶ったからです」
リリはしばらく糸を見つめ、それから不思議そうに首を傾げた。
「願いが叶ったら、いらなくなるの?」
「いらなくなる、というより……」
エステルは針を置いた。
「その人が、自分で歩けるようになったから、手を離すのです」
「じゃあ、祝福って、ずっと助けてくれるものじゃないんだ」
「ええ。ずっと支え続けるものではありません」
「公爵様のは、一晩も保たないんでしょ?」
「そう伺っています」
「じゃあ、手を離すのが早すぎるね」
リリは簡単に言った。
けれど、その一言が、エステルの胸に引っかかった。
早すぎる。
祝福が役目を終えたからほどけるのではない。
アルヴィスの場合は、役目を始める前に、無理やり手を離されてしまう。
受け取ったことにすらならないまま。
「どうすれば、手を離さずにいてくれるのかしら」
「公爵様が、離さないでって言えば?」
「それで済むなら、苦労はいたしませんわ」
「言ったことあるの?」
「……何を?」
「離さないで、って」
エステルは黙った。
アルヴィスは、祝福を保たせてみろとは言った。
外套を仕立てろとも。
けれど、自分がそれを受け取りたいとは、一度も言っていない。
どうせ壊れる。
どうせ保たない。
最初から、受け取る前に諦めている。
「公爵様ご自身が、選んでいない」
呟くと、リリは林檎をかじりながら頷いた。
「服の色も、任せるって言ったんでしょ?」
「よく覚えていますわね」
「扉の外で聞いてたから」
「リリ」
「もうしないってば」
まったく信用できない返事だった。
けれど、彼女のおかげで、一つの考えが形になった。
アルヴィスのために、こちらが勝手に良いと思うものを用意する。
暖かいほうがよい。
動きやすいほうがよい。
傷が痛まないほうがよい。
どれも仕立て師として正しい。
だが、アルヴィスはその選択に加わっていない。
一方的に差し出されるものは、どれほど善意を薄めても、彼にとっては贈り物に近いのではないか。
「次は、公爵様に選んでいただきます」
「何を?」
「全部です」
エステルは立ち上がった。
まずは、糸を片づけるところから始めなくてはならない。
その日の午後、エステルは布問屋へ向かった。
店を閉めるわけにはいかないため、入口へ『一刻ほど留守にします』と札を掛け、リリには絶対に店番をしないよう念を押した。
「どうして?」
「店番をしたいお顔をしているからです」
「お客さんが来たら?」
「少し待っていただくようお伝えください」
「それ、店番じゃない?」
「店の中には入れないで」
「はあい」
不安だったが、布を見ずに外套は作れない。
王都の西市場にある布問屋は、天井まで反物が積み上げられ、染料と埃の匂いが混じっていた。
店主の男は、エステルの質素な服を見るなり、奥ではなく入口近くの安布を指した。
「繕い物なら、その辺りだ。端切れは籠の中」
「外套用の毛織物を拝見したいのです」
「毛織物?」
店主の目が、エステルの頭から靴までを往復する。
「どのくらいの?」
「王宮の晩餐会で着られる品質のものを」
「代金は?」
「前金をいただいております」
革袋から硬貨を取り出すと、店主の態度が目に見えて変わった。
「でしたら、こちらへ。北部産の黒毛織り、帝国から入った濃紺、それから王宮衣装室にも卸している灰銀色がございます」
次々と反物が広げられる。
黒は格式があるが、アルヴィスの印象をさらに近寄りがたくする。
濃紺は美しい。ただ、夜の晩餐会では黒に沈むだろう。
灰銀色は彼の髪によく似合いそうだが、表面に光沢がありすぎた。
エステルが迷っていると、棚の下に置かれた一巻が目に入った。
「こちらは?」
「ああ、それは売り物には向かんよ」
店主が顔をしかめる。
「北の山羊毛と羊毛を混ぜた試作品だ。丈夫だが、染まりが悪い。灰色とも青ともつかない半端な色になってしまってな」
布を引き出してもらう。
手触りは滑らかではない。
だが、しなやかで、引いても形が崩れにくい。表面は深い青灰色。光の当たり方によって、夜明け前の空のようにも見える。
アルヴィスの瞳と似た色だった。
「これを、候補に入れます」
「候補?」
「もう二種類、少量ずつください」
エステルは黒と濃紺、それから青灰色を、肩へ掛けられる長さだけ購入した。
本番の布を決めるのは、自分ではない。
店へ戻ると、入口の前に三人の客が並んでいた。
先頭には、得意げな顔のリリが立っている。
「順番に並んでもらったよ」
「店の中へは入れていませんね?」
「うん。店番してないから」
どう見ても店番だった。
だが、客たちは怒っておらず、むしろ楽しそうに待っていた。
エステルは一人ずつ用件を聞き、夕方まで繕い物を続けた。
最後の客を見送ったころには、空は赤く染まっている。
今日はアルヴィスが来る日ではない。
それでもエステルは、三種類の布を裁断台へ並べ、糸と留め具もそれぞれ三つずつ用意した。
黒い麻糸。
青い木綿糸。
灰銀色の絹糸。
留め具は、鉄、真鍮、角。
どれが最も壊れにくいかではない。
どれを彼が選ぶか。
それを確かめるための準備だった。
三日後。
約束の時刻より少し早く、扉が三度叩かれた。
「どうぞ」
アルヴィスは、以前と同じ外套を着ていた。
補修箇所は増えている。
今度は、肩口に黒布の当て布が縫いつけられていた。
「少し上達なさいましたね」
「何が」
「お裁縫です」
「褒められている気がしない」
「前より縫い目が揃っています」
「部下にやらせた」
「では、褒めた言葉を返してくださいませ」
「無理だ」
アルヴィスは店へ入り、裁断台の上を見た。
「本番の布か」
「候補です」
「任せると言ったはずだ」
「今日は、任せないでいただきます」
エステルが答えると、アルヴィスの眉が寄った。
「依頼人は俺だぞ」
「だからです」
エステルは三枚の布を一枚ずつ広げた。
「黒。濃紺。青灰色。どれになさいます?」
「どれでもいい」
「それはお答えになっておりません」
「晩餐会に問題がないものを選べ」
「すべて問題ございません」
「では、一番丈夫なものを」
「丈夫さも、ほぼ同じです」
「一番安いものを」
「代金は十分にいただいております」
「面倒だな」
「お選びください」
アルヴィスは、明らかに不機嫌そうな顔で三枚の布を見た。
黒へ手を伸ばしかけ、止める。
濃紺を見て、次に青灰色へ視線を移す。
「なぜ、俺が決める必要がある」
「公爵様の服だからです」
「今までの仕立て師は、俺に似合うものを勝手に選んだ」
「お嫌でした?」
「どうでもよかった」
「本当に?」
アルヴィスは答えない。
エステルは急かさず、待った。
外から、夕方の鐘が聞こえる。
やがて彼は、青灰色の布を指した。
「これだ」
「理由を伺っても?」
「汚れが目立たない」
「ほかには?」
「ない」
嘘だと分かった。
けれど、今はそれでよい。
「では、青灰色にいたします」
次は糸。
黒、青、灰銀。
アルヴィスは黒を選んだ。
留め具は鉄。
裏地は、薄いものと厚いものを見せると、薄いほうを選んだ。
「北部は寒いのでは?」
「王都の晩餐会で着る。厚いものは暑い」
「承知しました」
すべてを紙へ書き込む。
最後に、仮縫い用の上着を見せた。
前回ほどけた生成りの布を縫い直したものだ。
ただし、今回は三か所だけ、縫い方を変えてある。
「こちらも、お選びくださいませ」
「まだあるのか」
「襟の高さです」
一つは首元をしっかり覆う高い襟。
一つは標準。
一つは低く開いた形。
アルヴィスは標準の型を選んだ。
「首を隠したいわけでも、見せたいわけでもない」
「分かりやすいご説明ですわ」
「皮肉か」
「いいえ。とても助かります」
アルヴィスは衝立の向こうで仮の上着へ着替えた。
出てきた姿は、前回よりも自然だった。
右袖ぐりを深くし、背中側へ余裕を逃がしたことで、腕の動きもよくなっている。
「腕を上げてください」
アルヴィスが右腕を前へ伸ばす。
前回より高く上がった。
「痛みは?」
「ほとんどない」
「では、そのまま横へ」
「これも必要か」
「晩餐会で、急に剣を抜くことがあるかもしれません」
「国王主催だぞ」
「ないとは言い切れませんわ」
「何を想定している」
「服は、何があっても着るものです」
肩の皺を確認し、遠くから印をつける。
今回も触れない。
前回と同じ印つけ棒を使うと、アルヴィスが目を細めた。
「まだそれを使うのか」
「公爵様専用ですから」
「捨てろ」
「便利ですのに」
「突かれる側には不便だ」
エステルは笑いそうになるのをこらえ、最後の印を入れた。
そして、裁断台の上の砂時計を返す。
「始めます」
「何を」
「何分保つかの確認です」
「今回も、崩れるまで立っていろと?」
「お疲れでしたら、椅子へどうぞ」
「椅子は壊れないのか」
「公爵様用に、釘を増やしました」
「俺のために?」
アルヴィスの声が、わずかに硬くなる。
エステルはすぐに首を振った。
「店の備品としてです。今後、体格のよいお客様がいらしても困らないように」
「そうか」
彼は椅子には座らず、店内をゆっくり歩き始めた。
五分。
糸は切れない。
十分。
襟も保っている。
十八分。
前回なら、右袖が落ちていた時間だ。
だが、今回は変化がない。
「十八分を超えました」
「見れば分かる」
二十分。
三十分。
アルヴィスの表情が、少しずつ険しくなる。
「痛みますか?」
「いや」
「では、何か違和感が?」
「何もないことが、違和感だ」
四十分。
エステルも落ち着かなくなってきた。
縫い目を確認したい。
近づいて、指で布を撫でたい。
けれど、それはできない。
五十分。
窓の外はすっかり暗くなり、店内の蝋燭が短くなった。
アルヴィスは、ほとんど言葉を発しなかった。
ただ、ときどき袖口や襟へ視線を落とす。
初めて自分で選んだ布ではない。
まだ、ただの生成りの仮布だ。
それでも、襟の高さも、形も、彼が選んだ。
一刻。
砂時計の砂が、すべて落ちた。
「一刻です」
エステルが告げる。
アルヴィスは答えなかった。
右袖を持ち上げる。
糸は切れていない。
背中も、襟も、すべて保っている。
「目標達成ですわ」
「なぜだ」
「公爵様が、お選びになったからだと思います」
「それだけで?」
「前回の服は、私が一方的に仕立てました。今回は、襟の形を公爵様がお決めになった」
「襟だけだ」
「受け取るかどうかを、少しだけご自身で決めた」
アルヴィスの顔から、表情が消えた。
「俺が受け取らなかったから、今まで壊れていたと?」
「呪いのすべてが心の持ちようだとは申しません」
エステルは慎重に言葉を選んだ。
「ですが、公爵様の呪いは、善意を壊すだけではないのかもしれません。選ぶことを諦めるほど、強くなるのではないでしょうか」
「根拠は」
「今、着ていらっしゃる服です」
「偶然かもしれない」
「なら、もう一度試しましょう」
「簡単に言うな」
「ほどけたら縫い直します」
前にも告げた言葉だった。
アルヴィスは視線を逸らす。
「いつまで保つ」
「分かりません」
「一晩か」
「それを確かめるために、今夜はそのままお持ち帰りくださいませ」
「この姿で?」
生成りの仮布に、赤いしつけ糸。
確かに、公爵が王都を歩く格好ではない。
「外套の下なら見えません」
「外套が途中で崩れたら、見える」
「そのときは、流行の最先端ということに」
「無理がある」
「では、夜道をお急ぎください」
アルヴィスは深いため息をついた。
けれど、脱ごうとはしなかった。
衝立の向こうで古い外套を重ねて出てくる。
肩口の裂け目から、生成りの布が少し見えた。
どう見ても奇妙だった。
エステルが口元を押さえると、彼が睨む。
「笑ったな」
「笑っておりません」
「目が笑っている」
「無事にお帰りになれるか、心配しているだけですわ」
「それを善意と呼ぶのでは?」
言われて、エステルは息を止めた。
アルヴィスも、自分で言ってから気づいたらしい。
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
「では、公爵様」
エステルは少し考えてから言った。
「心配してもよろしいですか?」
「許可を取るものなのか」
「公爵様に選んでいただこうかと」
アルヴィスは答えない。
扉へ手を掛ける。
そのまま出ていくかと思ったが、開ける直前に足を止めた。
「勝手にしろ」
「それは、許可でしょうか」
「好きに解釈しろ」
扉が開き、夜の風が入ってくる。
アルヴィスは振り返らなかった。
けれど、エステルには十分だった。
勝手にしろ。
拒絶ではない。
少なくとも今夜は、心配することを追い返されなかった。
「明日の朝、使いをよこす」
「服の状態を、お知らせくださいませ」
「一晩保てば?」
「次は、本番の布を裁ちます」
「ほどけたら?」
「また、選んでいただきます」
アルヴィスは、呆れたように息を吐いた。
そのまま路地の闇へ歩いていく。
右足を踏み出すたび、肩が少し下がる。
けれど、生成りの袖は落ちなかった。
エステルは扉の前で、その姿が見えなくなるまで見送った。
翌朝。
開店の札を出すより先に、黒い馬が路地へ入ってきた。
耳をぴたりと後ろへ伏せ、不機嫌そうに鼻を鳴らしている。
背に乗っていた若い従者が飛び降り、封筒を差し出した。
「ヴァルクレイ公爵閣下より」
封蝋には、黒い鳥と剣の紋章。
エステルが開くと、中には短い一文だけが書かれていた。
『まだ、ほどけていない』
文字を読んだ瞬間、胸の奥が熱くなった。
一晩。
彼の上で、初めて一着が一晩を越えた。
従者が、もう一つ小さな包みを差し出す。
「それから、こちらを」
「何でしょう」
「閣下が、ご自分でお選びになりました」
包みの中には、一本の糸巻きが入っていた。
深い青灰色の糸。
先日アルヴィスが選んだ布に、よく似た色だった。
添えられた紙には、さらに小さな文字がある。
『本番は、この糸を使え』
命令の形をした、初めての希望だった。
エステルは糸巻きを両手で包み、静かに笑った。
「承りました」
本人はいない。
それでも、返事をせずにはいられなかった。
「公爵様がお選びになった一着を、お仕立ていたします」




