↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/48

第6話 選ばせる一針

 アルヴィス公爵の仮縫いが十八分保った翌朝、エステルは店の床いっぱいに糸を並べていた。


 麻糸。


 木綿糸。


 絹糸。


 蝋を引いた丈夫な糸。


 装飾用の細い銀糸。


 クララのドレスに使った蜂蜜色の糸も、役目を終えて戻った一本だけ、小皿の上へ置いてある。


「お店じゃなくて、蜘蛛の巣みたい」


 入口から覗き込んだリリが言った。


「踏まないでくださいませ」


「どこを歩けばいいの?」


「白い布の上だけを」


「それ、無理じゃない?」


 確かに、足の踏み場はほとんどなかった。


 エステルは昨夜から、糸と縫い方の組み合わせを試し続けている。


 同じ木綿布を小さな袋状に縫い、アルヴィスが置いていった硬貨を一枚ずつ入れる。公爵本人が触れた硬貨なら、呪いの名残があるかもしれないと考えたのだ。


 だが、結果はまちまちだった。


 丈夫な麻糸は、三刻経っても切れなかった。


 しかし、布の端へ「長持ちしますように」と願いを込めて縫った瞬間、糸は一分もせずにほどけた。


 絹糸は見た目には美しいが、硬貨を入れた途端に撚りが緩んだ。


 逆に、何も考えず乱雑に縫った袋は、朝まで形を保っていた。


「やはり、丁寧さそのものではなく、込めた意味に反応している……」


「独り言が増えたね」


「考えがまとまりやすくなるのです」


「公爵様も独り言を言う?」


「おっしゃらないと思います」


「じゃあ、考えがまとまらないんだ」


「本人の前で言ってはいけませんわよ」


 リリは返事の代わりに、糸の間へしゃがみ込んだ。


 小皿の上の蜂蜜色の糸を見つける。


「これ、黄色いお嬢様の?」


「ええ。役目を終えた祝福の糸です」


「もう使えないの?」


「普通の糸としてなら使えます。でも、同じ祝福は二度と宿りません」


「どうして?」


「もう、願いが叶ったからです」


 リリはしばらく糸を見つめ、それから不思議そうに首を傾げた。


「願いが叶ったら、いらなくなるの?」


「いらなくなる、というより……」


 エステルは針を置いた。


「その人が、自分で歩けるようになったから、手を離すのです」


「じゃあ、祝福って、ずっと助けてくれるものじゃないんだ」


「ええ。ずっと支え続けるものではありません」


「公爵様のは、一晩も保たないんでしょ?」


「そう伺っています」


「じゃあ、手を離すのが早すぎるね」


 リリは簡単に言った。


 けれど、その一言が、エステルの胸に引っかかった。


 早すぎる。


 祝福が役目を終えたからほどけるのではない。


 アルヴィスの場合は、役目を始める前に、無理やり手を離されてしまう。


 受け取ったことにすらならないまま。


「どうすれば、手を離さずにいてくれるのかしら」


「公爵様が、離さないでって言えば?」


「それで済むなら、苦労はいたしませんわ」


「言ったことあるの?」


「……何を?」


「離さないで、って」


 エステルは黙った。


 アルヴィスは、祝福を保たせてみろとは言った。


 外套を仕立てろとも。


 けれど、自分がそれを受け取りたいとは、一度も言っていない。


 どうせ壊れる。


 どうせ保たない。


 最初から、受け取る前に諦めている。


「公爵様ご自身が、選んでいない」


 呟くと、リリは林檎をかじりながら頷いた。


「服の色も、任せるって言ったんでしょ?」


「よく覚えていますわね」


「扉の外で聞いてたから」


「リリ」


「もうしないってば」


 まったく信用できない返事だった。


 けれど、彼女のおかげで、一つの考えが形になった。


 アルヴィスのために、こちらが勝手に良いと思うものを用意する。


 暖かいほうがよい。


 動きやすいほうがよい。


 傷が痛まないほうがよい。


 どれも仕立て師として正しい。


 だが、アルヴィスはその選択に加わっていない。


 一方的に差し出されるものは、どれほど善意を薄めても、彼にとっては贈り物に近いのではないか。


「次は、公爵様に選んでいただきます」


「何を?」


「全部です」


 エステルは立ち上がった。


 まずは、糸を片づけるところから始めなくてはならない。


 その日の午後、エステルは布問屋へ向かった。


 店を閉めるわけにはいかないため、入口へ『一刻ほど留守にします』と札を掛け、リリには絶対に店番をしないよう念を押した。


「どうして?」


「店番をしたいお顔をしているからです」


「お客さんが来たら?」


「少し待っていただくようお伝えください」


「それ、店番じゃない?」


「店の中には入れないで」


「はあい」


 不安だったが、布を見ずに外套は作れない。


 王都の西市場にある布問屋は、天井まで反物が積み上げられ、染料と埃の匂いが混じっていた。


 店主の男は、エステルの質素な服を見るなり、奥ではなく入口近くの安布を指した。


「繕い物なら、その辺りだ。端切れは籠の中」


「外套用の毛織物を拝見したいのです」


「毛織物?」


 店主の目が、エステルの頭から靴までを往復する。


「どのくらいの?」


「王宮の晩餐会で着られる品質のものを」


「代金は?」


「前金をいただいております」


 革袋から硬貨を取り出すと、店主の態度が目に見えて変わった。


「でしたら、こちらへ。北部産の黒毛織り、帝国から入った濃紺、それから王宮衣装室にも卸している灰銀色がございます」


 次々と反物(たんもの)が広げられる。


 黒は格式があるが、アルヴィスの印象をさらに近寄りがたくする。


 濃紺は美しい。ただ、夜の晩餐会では黒に沈むだろう。


 灰銀色は彼の髪によく似合いそうだが、表面に光沢がありすぎた。


 エステルが迷っていると、棚の下に置かれた一巻が目に入った。


「こちらは?」


「ああ、それは売り物には向かんよ」


 店主が顔をしかめる。


「北の山羊毛と羊毛を混ぜた試作品だ。丈夫だが、染まりが悪い。灰色とも青ともつかない半端な色になってしまってな」


 布を引き出してもらう。


 手触りは滑らかではない。


 だが、しなやかで、引いても形が崩れにくい。表面は深い青灰色。光の当たり方によって、夜明け前の空のようにも見える。


 アルヴィスの瞳と似た色だった。


「これを、候補に入れます」


「候補?」


「もう二種類、少量ずつください」


 エステルは黒と濃紺、それから青灰色を、肩へ掛けられる長さだけ購入した。


 本番の布を決めるのは、自分ではない。



 店へ戻ると、入口の前に三人の客が並んでいた。


 先頭には、得意げな顔のリリが立っている。


「順番に並んでもらったよ」


「店の中へは入れていませんね?」


「うん。店番してないから」


 どう見ても店番だった。


 だが、客たちは怒っておらず、むしろ楽しそうに待っていた。


 エステルは一人ずつ用件を聞き、夕方まで繕い物を続けた。


 最後の客を見送ったころには、空は赤く染まっている。


 今日はアルヴィスが来る日ではない。


 それでもエステルは、三種類の布を裁断台へ並べ、糸と留め具もそれぞれ三つずつ用意した。


 黒い麻糸。


 青い木綿糸。


 灰銀色の絹糸。


 留め具は、鉄、真鍮、角。


 どれが最も壊れにくいかではない。


 どれを彼が選ぶか。


 それを確かめるための準備だった。



 三日後。


 約束の時刻より少し早く、扉が三度叩かれた。


「どうぞ」


 アルヴィスは、以前と同じ外套を着ていた。


 補修箇所は増えている。


 今度は、肩口に黒布の当て布が縫いつけられていた。


「少し上達なさいましたね」


「何が」


「お裁縫です」


「褒められている気がしない」


「前より縫い目が揃っています」


「部下にやらせた」


「では、褒めた言葉を返してくださいませ」


「無理だ」


 アルヴィスは店へ入り、裁断台の上を見た。


「本番の布か」


「候補です」


「任せると言ったはずだ」


「今日は、任せないでいただきます」


 エステルが答えると、アルヴィスの眉が寄った。


「依頼人は俺だぞ」


「だからです」


 エステルは三枚の布を一枚ずつ広げた。


「黒。濃紺。青灰色。どれになさいます?」


「どれでもいい」


「それはお答えになっておりません」


「晩餐会に問題がないものを選べ」


「すべて問題ございません」


「では、一番丈夫なものを」


「丈夫さも、ほぼ同じです」


「一番安いものを」


「代金は十分にいただいております」


「面倒だな」


「お選びください」


 アルヴィスは、明らかに不機嫌そうな顔で三枚の布を見た。


 黒へ手を伸ばしかけ、止める。


 濃紺を見て、次に青灰色へ視線を移す。


「なぜ、俺が決める必要がある」


「公爵様の服だからです」


「今までの仕立て師は、俺に似合うものを勝手に選んだ」


「お嫌でした?」


「どうでもよかった」


「本当に?」


 アルヴィスは答えない。


 エステルは急かさず、待った。


 外から、夕方の鐘が聞こえる。


 やがて彼は、青灰色の布を指した。


「これだ」


「理由を伺っても?」


「汚れが目立たない」


「ほかには?」


「ない」


 嘘だと分かった。


 けれど、今はそれでよい。


「では、青灰色にいたします」


 次は糸。


 黒、青、灰銀。


 アルヴィスは黒を選んだ。


 留め具は鉄。


 裏地は、薄いものと厚いものを見せると、薄いほうを選んだ。


「北部は寒いのでは?」


「王都の晩餐会で着る。厚いものは暑い」


「承知しました」


 すべてを紙へ書き込む。


 最後に、仮縫い用の上着を見せた。


 前回ほどけた生成りの布を縫い直したものだ。


 ただし、今回は三か所だけ、縫い方を変えてある。


「こちらも、お選びくださいませ」


「まだあるのか」


「襟の高さです」


 一つは首元をしっかり覆う高い襟。


 一つは標準。


 一つは低く開いた形。


 アルヴィスは標準の型を選んだ。


「首を隠したいわけでも、見せたいわけでもない」


「分かりやすいご説明ですわ」


「皮肉か」


「いいえ。とても助かります」


 アルヴィスは衝立の向こうで仮の上着へ着替えた。


 出てきた姿は、前回よりも自然だった。


 右袖ぐりを深くし、背中側へ余裕を逃がしたことで、腕の動きもよくなっている。


「腕を上げてください」


 アルヴィスが右腕を前へ伸ばす。


 前回より高く上がった。


「痛みは?」


「ほとんどない」


「では、そのまま横へ」


「これも必要か」


「晩餐会で、急に剣を抜くことがあるかもしれません」


「国王主催だぞ」


「ないとは言い切れませんわ」


「何を想定している」


「服は、何があっても着るものです」


 肩の皺を確認し、遠くから印をつける。


 今回も触れない。


 前回と同じ印つけ棒を使うと、アルヴィスが目を細めた。


「まだそれを使うのか」


「公爵様専用ですから」


「捨てろ」


「便利ですのに」


「突かれる側には不便だ」


 エステルは笑いそうになるのをこらえ、最後の印を入れた。


 そして、裁断台の上の砂時計を返す。


「始めます」


「何を」


「何分保つかの確認です」


「今回も、崩れるまで立っていろと?」


「お疲れでしたら、椅子へどうぞ」


「椅子は壊れないのか」


「公爵様用に、釘を増やしました」


「俺のために?」


 アルヴィスの声が、わずかに硬くなる。


 エステルはすぐに首を振った。


「店の備品としてです。今後、体格のよいお客様がいらしても困らないように」


「そうか」


 彼は椅子には座らず、店内をゆっくり歩き始めた。


 五分。


 糸は切れない。


 十分。


 襟も保っている。


 十八分。


 前回なら、右袖が落ちていた時間だ。


 だが、今回は変化がない。


「十八分を超えました」


「見れば分かる」


 二十分。


 三十分。


 アルヴィスの表情が、少しずつ険しくなる。


「痛みますか?」


「いや」


「では、何か違和感が?」


「何もないことが、違和感だ」


 四十分。


 エステルも落ち着かなくなってきた。


 縫い目を確認したい。


 近づいて、指で布を撫でたい。


 けれど、それはできない。


 五十分。


 窓の外はすっかり暗くなり、店内の蝋燭が短くなった。


 アルヴィスは、ほとんど言葉を発しなかった。


 ただ、ときどき袖口や襟へ視線を落とす。


 初めて自分で選んだ布ではない。


 まだ、ただの生成りの仮布だ。


 それでも、襟の高さも、形も、彼が選んだ。


 一刻。


 砂時計の砂が、すべて落ちた。


「一刻です」


 エステルが告げる。


 アルヴィスは答えなかった。


 右袖を持ち上げる。


 糸は切れていない。


 背中も、襟も、すべて保っている。


「目標達成ですわ」


「なぜだ」


「公爵様が、お選びになったからだと思います」


「それだけで?」


「前回の服は、私が一方的に仕立てました。今回は、襟の形を公爵様がお決めになった」


「襟だけだ」


「受け取るかどうかを、少しだけご自身で決めた」


 アルヴィスの顔から、表情が消えた。


「俺が受け取らなかったから、今まで壊れていたと?」


「呪いのすべてが心の持ちようだとは申しません」


 エステルは慎重に言葉を選んだ。


「ですが、公爵様の呪いは、善意を壊すだけではないのかもしれません。選ぶことを諦めるほど、強くなるのではないでしょうか」


「根拠は」


「今、着ていらっしゃる服です」


「偶然かもしれない」


「なら、もう一度試しましょう」


「簡単に言うな」


「ほどけたら縫い直します」


 前にも告げた言葉だった。


 アルヴィスは視線を逸らす。


「いつまで保つ」


「分かりません」


「一晩か」


「それを確かめるために、今夜はそのままお持ち帰りくださいませ」


「この姿で?」


 生成りの仮布に、赤いしつけ糸。


 確かに、公爵が王都を歩く格好ではない。


「外套の下なら見えません」


「外套が途中で崩れたら、見える」


「そのときは、流行の最先端ということに」


「無理がある」


「では、夜道をお急ぎください」


 アルヴィスは深いため息をついた。


 けれど、脱ごうとはしなかった。


 衝立の向こうで古い外套を重ねて出てくる。


 肩口の裂け目から、生成りの布が少し見えた。


 どう見ても奇妙だった。


 エステルが口元を押さえると、彼が睨む。


「笑ったな」


「笑っておりません」


「目が笑っている」


「無事にお帰りになれるか、心配しているだけですわ」


「それを善意と呼ぶのでは?」


 言われて、エステルは息を止めた。


 アルヴィスも、自分で言ってから気づいたらしい。


 二人の間に、短い沈黙が落ちる。


「では、公爵様」


 エステルは少し考えてから言った。


「心配してもよろしいですか?」


「許可を取るものなのか」


「公爵様に選んでいただこうかと」


 アルヴィスは答えない。


 扉へ手を掛ける。


 そのまま出ていくかと思ったが、開ける直前に足を止めた。


「勝手にしろ」


「それは、許可でしょうか」


「好きに解釈しろ」


 扉が開き、夜の風が入ってくる。


 アルヴィスは振り返らなかった。


 けれど、エステルには十分だった。


 勝手にしろ。


 拒絶ではない。


 少なくとも今夜は、心配することを追い返されなかった。


「明日の朝、使いをよこす」


「服の状態を、お知らせくださいませ」


「一晩保てば?」


「次は、本番の布を裁ちます」


「ほどけたら?」


「また、選んでいただきます」


 アルヴィスは、呆れたように息を吐いた。


 そのまま路地の闇へ歩いていく。


 右足を踏み出すたび、肩が少し下がる。


 けれど、生成りの袖は落ちなかった。


 エステルは扉の前で、その姿が見えなくなるまで見送った。


 翌朝。


 開店の札を出すより先に、黒い馬が路地へ入ってきた。


 耳をぴたりと後ろへ伏せ、不機嫌そうに鼻を鳴らしている。


 背に乗っていた若い従者が飛び降り、封筒を差し出した。


「ヴァルクレイ公爵閣下より」


 封蝋には、黒い鳥と剣の紋章。


 エステルが開くと、中には短い一文だけが書かれていた。


『まだ、ほどけていない』


 文字を読んだ瞬間、胸の奥が熱くなった。


 一晩。


 彼の上で、初めて一着が一晩を越えた。


 従者が、もう一つ小さな包みを差し出す。


「それから、こちらを」


「何でしょう」


「閣下が、ご自分でお選びになりました」


 包みの中には、一本の糸巻きが入っていた。


 深い青灰色の糸。


 先日アルヴィスが選んだ布に、よく似た色だった。


 添えられた紙には、さらに小さな文字がある。


『本番は、この糸を使え』


 命令の形をした、初めての希望だった。


 エステルは糸巻きを両手で包み、静かに笑った。


「承りました」


 本人はいない。


 それでも、返事をせずにはいられなかった。


「公爵様がお選びになった一着を、お仕立ていたします」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。