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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

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第5話 善意を抜いた仮縫い

 善意を込めずに服を縫う。


 それが、これほど難しいことだとは思わなかった。


 アルヴィス公爵の仮縫いを三日後に控え、エステルは裁断台の前で、かれこれ半刻も針を持ったまま固まっていた。


 目の前には、生成りの安価な木綿布が広げてある。


 本番用の布ではない。


 寸法と形を確かめるためだけの、仮の上着だ。


 それでも針を刺そうとすると、自然に考えてしまう。


 右脇腹へ縫い目が当たらないように。


 腕を上げたとき、肩が引きつらないように。


 夜風の中を歩いても、冷えないように。


「……全部、善意ですわね」


 エステルは針を置いた。


 店の隅では、リリが花籠を抱えて座っている。


 本来なら採寸も仕事も見物禁止なのだが、今は客の来ない昼休みであり、リリは「声を出さない」と約束して店へ居座っていた。


「何も考えないで縫えば?」


「何も考えずに縫った服を、お客様へお渡しするわけにはいきません」


「じゃあ、嫌いな人の服だと思えばいいよ」


「公爵様を嫌う理由がございませんもの」


「怖そうなのに?」


「怖そうであることと、嫌うことは別です」


「ふうん」


 リリは分かったような顔で頷き、林檎をかじった。


「じゃあ、お金のことだけ考えれば?」


「お金」


「寝台を買うんでしょ?」


 エステルは裁断台の横に置いた帳簿を見た。


 最初のページには、目標として大きく書いてある。


『寝台 一台』


 その下には、現在の貯金額。


 繕い物の依頼が増えたおかげで、床から卒業できる日は少しずつ近づいていた。


「寝台のため、寝台のため……」


 呟きながら針を持つ。


 生成りの布を二枚合わせ、縫い進める。


 寝台。


 柔らかな敷布。


 夜中に背中が痛くならない暮らし。


 けれど三針目で、エステルは手を止めた。


「この縫い目では、公爵様の傷へ当たりますわ」


「考えてるじゃん」


「考えてしまいました」


「もう無理なんじゃない?」


「その結論は早すぎます」


 エステルは糸を抜き、最初からやり直した。


 今度は、公爵を人だと思わないことにした。


 裁断台。


 衣紋掛け。


 背の高い柱。


 いや、柱には脇腹の古傷などない。


「難しいお顔をなさっていますね」


 不意に声を掛けられ、エステルは飛び上がった。


 入口に、年配の婦人が立っていた。


 パン屋の女将、ベッシーである。


 先日直した袖口を気に入ってくれたらしく、今日は大きな紙袋を抱えていた。


「いらっしゃいませ。申し訳ありません、少し考え事を」


「お仕事の邪魔でしたかね」


「いいえ。どうぞ」


 ベッシーは紙袋を裁断台へ置いた。


 中から、焼きたての丸パンが顔を出す。


「袖のお礼です。うちの亭主が、あの服は腕が動かしやすくなったって喜びましてね」


「代金はいただいておりますのに」


「これは売れ残りですよ。明日には硬くなるから、今夜のうちに食べておくれ」


 どう見ても、焼きたてだった。


 まだ表面から香ばしい湯気が立っている。


「ありがとうございます」


「それで、何に困っていたんです?」


 エステルは少し迷った。


 公爵の名を出すことはできない。


「あるお客様へ、気遣いを込めずに服を縫わなくてはならなくなりまして」


「妙な注文ですねえ」


「気遣うほど、服が壊れてしまう方なのです」


 ベッシーは腕を組んだ。


「それなら、気遣わなければいいんじゃないですか」


「それができずに困っているのです」


「でも、あんたが服を縫うのは、その人に親切にしたいからだけじゃないでしょう?」


「え?」


「仕事だからでしょうよ」


 ベッシーは、いかにも当たり前だという顔をした。


「パン屋が客の腹を心配して焼く日もあれば、今日は小麦を無駄にしないよう焼こうって日もある。それでも、ちゃんと腹は膨れるんです」


「仕事として、縫う」


「いい服を作ることと、相手を可哀想がることは別じゃありませんかね」


 その言葉に、エステルは針先を見つめた。


 アルヴィスを助けたい。


 寒くないようにしてあげたい。


 独りで歩かなくてもよいようにしてあげたい。


 そこまで考えれば、確かに善意になる。


 けれど、寸法どおりに布を裁ち、必要な余裕を取り、正しく縫うことは、仕立て師としての仕事だ。


 同情ではない。


 施しでもない。


 依頼を受け、代金をもらい、責任を持って一着を作る。


「ありがとうございます、ベッシーさん」


「何のお役に立ったか分かりませんけどね」


「とても大切なことを思い出しました」


 ベッシーが帰ると、エステルは裁断台へ向き直った。


 リリは二つ目の林檎へ手を伸ばしている。


「今度はできそう?」


「ええ」


 エステルは生成りの布を重ねた。


 公爵が可哀想だからではない。


 呪いを解いてあげたいからでもない。


 依頼された外套を完成させるために、まず仮の上着を作る。


 右脇腹へ縫い目を置かないのは、体の構造に合わないから。


 肩へ余裕を持たせるのは、腕の可動域を確保するため。


 裾をわずかに長くするのは、彼の歩幅に合わせるため。


 余計な願いを足さない。


 ただ、仕立て師として必要なことだけをする。


 針は、先ほどよりも滑らかに布を進んだ。


 夕方までに、仮縫い用の上着は形になった。


 生成りの木綿布で作られた、飾りも裏地もない一着。


 袖も裾も仮止めで、ところどころ赤いしつけ糸が見えている。


 美しい服とは言えない。


 けれど、肩と右脇腹には十分な余裕を取り、動きを確かめられる形になっていた。


「これ、公爵様が着るの?」


 リリが首を傾げる。


「仮縫いですから」


「袋みたい」


「仮縫いですから」


「王都で一番偉い人の一人なんでしょ?」


「だからこそ、何度も確かめるのです」


「偉い人でも、最初は袋を着るんだね」


「その言い方は、本人の前ではなさらないように」


 リリを帰らせたあと、エステルは仮縫いの上着を衣紋(えもん)掛けへ吊るした。


 今のところ、糸はほどけていない。


 祝福は入れていない。


 願いも込めていない。


 それでも、仕事としての丁寧さはある。


 呪いがどこまでを善意と見なすのか。


 今夜、分かる。


 日が沈み、路地の空が藍色に染まったころ、扉が三度叩かれた。


 こん、こん、こん。


「どうぞ」


 入ってきたアルヴィスは、前回よりさらに傷んだ外套をまとっていた。


 肩の裂け目は黒い糸で粗く縫い直されている。


 縫い目は大きく、間隔も不揃いだった。


「その補修は、ご自分で?」


「悪いか」


「悪くはありませんが、あまりお上手ではありませんわ」


「一晩保てばいい」


「糸の端が表へ出ています」


「見えなければ問題ない」


「見えております」


 アルヴィスは無言で外套の襟を閉じた。


 隠したつもりらしい。


「本日は、仮縫い用の上着をお召しいただきます」


 エステルが衣紋掛けを示すと、アルヴィスは生成りの一着を見た。


「これは、外套か」


「袋ではございません」


「袋とは言っていない」


「念のためです」


 アルヴィスは不審そうにエステルを見たが、何も尋ねず、衝立の向こうへ入った。


 しばらく衣擦れの音が続く。


「着た」


「では、出てきてくださいませ」


 衝立の脇から、アルヴィスが姿を現した。


 エステルは、一瞬、言葉を失った。


 生成りの簡素な上着である。


 装飾はなく、袖口も裾も仮のまま。


 それなのに、立ち姿は不思議なほど整って見えた。


 肩の線はほぼ合っている。


 胸回りにも過不足はない。


 右脇腹だけ、少し布が余っているが、これは計算どおりだった。


「一目裁ちで、ここまで合わせるか」


 アルヴィスが袖を見ながら言った。


「まだ完成ではありません。腕を上げてください」


 アルヴィスが両腕を前へ伸ばす。


 左は問題ない。


 右は途中で止まった。


 エステルは、布に生まれた皺を目で追った。


「右の袖ぐりを、もう少し深くします。肩ではなく、背中側へ余裕を逃がしたほうがよさそうですわね」


「触れずに直せるのか」


「印をつけます。こちらを向いて」


 エステルは細長い炭筆を持った。


 直接布へ触れないよう、長い柄の先へ固定してある。


「その棒は何だ」


「公爵様用の印つけ棒です」


「俺専用か」


「ほかのお客様には必要ございませんので」


 エステルは少し離れた位置から、肩、袖、脇腹へ印を入れていく。


 炭筆の先が布へ触れるたび、アルヴィスはわずかに身じろぎした。


「くすぐったいですか?」


「違う」


「では、動かないでください」


「棒で人を突いておいて、注文が多いな」


「突いておりません。印をつけています」


「同じようなものだ」


「全く違います」


 言い合いながら、背中の線を確かめる。


 前回、椅子へ寄りかからなかったことを思い出し、腰の余裕は控えめにした。


 アルヴィスが振り返る。


「何だ」


「いえ」


「今、妙な顔をした」


「予想より、きちんと合いましたので」


「失敗すると思っていたのか」


「少しは」


「正直だな」


「公爵様も、成功するとは思っていなかったでしょう?」


「全く」


 エステルは、思わず頬を膨らませた。


「それでは、驚いてくださいませ」


「驚いている」


「そのお顔では分かりません」


「顔に出す必要があるのか」


「仕立て師の励みになります」


「面倒な店だな」


「開店五日目ですので、改善の余地はございます」


「まだ五日なのか」


「昨日も同じことをおっしゃいました」


 アルヴィスは、生成りの袖を見下ろした。


 そして、ほんのわずかに腕を動かす。


 上げる。


 下ろす。


 前へ伸ばす。


 右肩に無理はあるが、古い外套よりは動きやすいはずだ。


「痛みますか?」


「少し」


「どこが?」


「脇腹ではない。肩の後ろだ」


 エステルは印つけ棒で位置を示してもらい、修正箇所を書き込んだ。


 仮縫いは、順調だった。


 少なくとも、最初の十分は。


 十一分目。


 右袖のしつけ糸が一本、床へ落ちた。


 エステルは息を止める。


「始まったな」


 アルヴィスは驚きもしなかった。


 十二分目。


 襟の端が緩む。


 十三分目。


 背中の縫い目から、白い糸がするりと抜けた。


「祝福は入れておりません」


「分かっている」


「願いも、込めていないつもりでした」


「つもりでは、足りなかったらしい」


 十四分目。


 袖口が開いた。


 布そのものは傷んでいない。


 ただ、縫い目だけが役目を失い、ほどけていく。


 エステルは時計代わりの砂時計を見た。


 十五分。


 上着の形は、まだ保たれている。


「脱いだほうがいいか」


「もう少しだけ、お待ちください」


「崩れるぞ」


「崩れ方を見たいのです」


「仕立て師は、皆そう言う」


「昨日も伺いました」


 十六分。


 左脇の縫い目が緩む。


 十七分。


 襟が完全に外れた。


 十八分目に、右袖が肩から落ちた。


 生成りの布が、だらりと垂れる。


 そこでエステルは砂時計を伏せた。


「十八分です」


「長い」


 アルヴィスが言った。


「え?」


「今までで最長だ」


 エステルは顔を上げた。


「祝福のない服でも?」


「俺のために仕立てたものは、着た瞬間に糸が切れる。長くても三分だった」


「では、十八分は」


「記録だな」


 アルヴィスの声は淡々としていた。


 けれど、完全にほどけかけた上着を見つめる目には、わずかな驚きがあった。


「なぜだ」


「分かりません」


「何を考えて縫った」


 エステルは、昼間のことを思い返した。


 可哀想だからではない。


 助けたいからでもない。


 依頼を受けた仕立て師として、必要な仕事をした。


「寝台のことを」


「……何?」


「正確には、仕事のことです」


 エステルは説明した。


「公爵様をお助けしようとは考えませんでした。ただ、依頼された服を寸法どおりに作り、代金をいただく。そのために必要なことだけを考えました」


「俺ではなく、仕事を見た」


「はい」


 アルヴィスは、ほどけた右袖を持ち上げた。


「それで、十八分か」


「善意を完全に抜けたわけではないのでしょう。それでも、同情や憐れみより、仕事としての責任のほうが強かった」


「責任も、善意ではないのか」


「違います」


 エステルは迷わず答えた。


「責任は、いただく代金へのお返しです。公爵様だけが受け取るものではありません。私も、代金を受け取ります」


「対等な交換だから、呪いが弱まったと?」


「可能性はあります」


 贈り物は、受け取るだけのものだ。


 施しも、好意も、相手から一方的に差し出される。


 けれど仕事は違う。


 依頼と技術。


 代金と一着。


 互いに差し出すものがある。


「公爵様」


「何だ」


「代金を、先に半分いただけますか?」


「急に現実的な話になったな」


「対等な交換を、もっとはっきりさせたいのです」


「寝台が欲しいだけでは?」


「それもございます」


 アルヴィスは、呆れたように目を細めた。


 だが、拒まなかった。


 衝立の向こうで服を着替えたあと、傷んだ外套の内側から小さな革袋を取り出す。


 裁断台の上へ置かれた袋は、重い音を立てた。


「半金だ」


 エステルが中を確認すると、予定していた材料費と仕立て代の半分より、明らかに多い。


「多すぎます」


「材料を試すのだろう」


「それでも」


「余れば返せ」


「承知しました」


 受け取った瞬間、革袋の口を縛っていた紐が切れた。


 金貨と銀貨が、裁断台の上へ散らばる。


 二人は同時に黙った。


「……革袋には、善意が込められていたのでしょうか」


「会計係が、落とさないよう念入りに結んでいた」


「善意ですわね」


「余計なことを」


 アルヴィスが低く呟く。


 エステルは思わず笑い、散らばった硬貨を集めた。


「次は、袋ではなく箱でお持ちくださいませ」


「箱も壊れる」


「皿に載せて?」


「歩いている間に落ちる」


「では、硬貨を直接ポケットへ」


「服がほどける」


「難しいですわね」


「今さらか」


 アルヴィスの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 その表情はすぐ消えたが、エステルは見逃さなかった。


 代金を数え終えると、仮縫いの上着を床から拾い上げる。


 糸はほとんど抜けてしまった。


 けれど布は無事で、もう一度縫い直すことができる。


「次の仮縫いでは、一刻を目指します」


「一気に長くしたな」


「目標は大きいほうがよろしいでしょう?」


「達成できなければ?」


「また縫います」


 アルヴィスは、エステルの手の中の布を見た。


「壊れても?」


「糸へ戻っただけです」


「祝福も入っていないのに」


「縫い目も同じですわ。ほどけたなら、結び直せます」


 エステルは静かに言った。


「少なくとも、布が残っているうちは」


 アルヴィスは何も答えなかった。


 ただ、帰り際、扉の前で一度だけ振り返った。


「その縫い方は、誰に習った」


「母です」


「名は?」


 エステルは母の名を告げた。


「リディア・ラヴィニアです」


 アルヴィスの青灰色の瞳が、わずかに見開かれた。


 ほんの一瞬。


 けれど、確かな反応だった。


「母をご存じなのですか?」


「いや」


 返事が早すぎた。


「聞いたことも?」


「ない」


 また、嘘だ。


 エステルが問い返す前に、アルヴィスは扉を開けた。


「次は三日後だ」


「お待ちください、公爵様」


「一刻、保たせてみろ」


 それだけ告げ、彼は夜の路地へ出ていった。


 扉が閉まったあと、エステルはしばらく動けなかった。


 母の名を聞いたときの顔。


 一目裁ちを知っていたこと。


 そして、王室衣装室にいた仕立て師の名を、彼は忘れたと言った。


「やはり、お母様のことを知っている」


 裁縫箱の中で、青白い針がかすかに光った。


 エステルは、ほどけた生成りの布を裁断台へ広げる。


 十八分。


 最初の一着は、十八分だけ保った。


 一晩には、まだ遠い。


 けれど、ゼロではない。


 それに、今夜はもう一つ、確かめるべきことが増えた。


 公爵の呪いと、母の過去。


 その二つは、どこかで同じ糸に結ばれている。


 エステルは抜け落ちた糸を一本ずつ拾い、再び針へ通した。


「ほどけたなら、縫い直すだけですわ」


 服も。


 祝福も。


 母が残した秘密も。


 すべて、ここからもう一度。

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