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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第1部 路地裏の仕立て屋と、ほどける祝福

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第4話 触れない採寸

 アルヴィス公爵が帰ったあとも、店の中には、しばらく雨の匂いが残っていた。


 エステルは閉じた扉の前に立ち、遠ざかっていく足音へ耳を澄ませた。


 規則正しい歩調だった。


 急いでもいない。迷ってもいない。


 けれど、右足を踏み出すたび、ほんのわずかに肩が下がる。


「右の脇腹を、かばっていらっしゃる?」


 呟いてから、エステルは慌てて裁断台へ向かった。


 忘れないうちに書き留めなくてはならない。


 紙を広げ、炭筆(たんぴつ)を握る。


 身長は、店の扉より頭一つ低い。肩幅は広いが、軍人ほど厚くはない。首は長く、姿勢はよい。左肩より右肩がわずかに低い。外套(がいとう)の袖口から見えた手首は細く、指が長い。


 歩幅。


 腕の振り方。


 立っていたときの重心。


 エステルは目を閉じ、店に入ってきた公爵の姿を頭の中でなぞった。


 母が教えてくれた一目裁ちは、相手の体をただ眺めて寸法を当てる技ではない。


 どのように立つのか。


 どのように座るのか。


 服のどこが引かれ、どこに皺が寄るのか。


 その人が無意識に隠している痛みまで、布の動きから読み取る。


『寸法は数字だけではないのよ』


 母はそう言っていた。


『同じ胸回り、同じ肩幅でも、同じ服にはならない。その人がどう生きてきたかで、布の落ち方は変わるの』


 幼かったエステルには、よく分からなかった。


 今なら、少しだけ分かる。


 アルヴィスの外套は、左の前身頃より右のほうが早く傷んでいた。単に呪いのせいではない。右腕を動かすたび、脇腹のあたりへ生地が擦れている。


 古傷があるのだろう。


 肩口の虫食いのような穴は、雨に濡れた部分から広がっていた。贈られた外套ではなく、命令で作らせたものだと言っていた。それでも朽ちる。


 善意とは、いったいどこから始まるのだろう。


 命令に従っただけの仕立て師が、よい仕事をしようと思った瞬間。


 寒くないようにと裏地を厚くした瞬間。


 着る人の体に合わせて、袖を一針だけ丁寧に縫った瞬間。


 そのすべてを、呪いは善意と見なすのだろうか。


「難しいご注文ですわね」


 口にすると、かえって心が落ち着いた。


 難しい。


 けれど、不可能とはまだ決まっていない。


 エステルは紙の中央へ、大きく一着の外套を描いた。


 翌朝。


 リリがいつものように花を持ってくると、店内を見回して首を傾げた。


「あれ。お花、捨てたの?」


「枯れてしまったのです」


「昨日まで元気だったのに」


「少し、変わったお客様がいらしたのよ」


「怖い人?」


 エステルは、昨夜の青灰色の瞳を思い出した。


「怖そうに見える方でした」


「じゃあ、怖い人だ」


「見た目だけで決めてはいけませんわ」


「お姉さん、昨日、その人が帰ったあと、ずっと窓から見てたでしょ」


「見ていたのではなく、歩き方を確かめていたのです」


「それを見てたって言うんじゃないの?」


 返す言葉がなかった。


 リリはくすくす笑いながら、今日の花を窓辺へ置いた。


 黄色い小花が三本。


「また枯れちゃう?」


「今日は大丈夫だと思います」


「その怖い人、また来るの?」


「ええ。夕方に」


「やっぱり見たい」


「駄目です」


「どうして?」


「お客様の採寸は、見世物ではありません」


「でも、お姉さん、その人に触れないんでしょ?」


 エステルは目を瞬いた。


「なぜ、それを?」


「昨日、扉の外で聞いてた」


「リリ」


「ごめんなさい」


 あまり悪びれていない。


 エステルが眉を下げると、リリは窓辺の花を一本だけ引き抜いた。


「じゃあ、これはお詫び」


「最初から三本ともいただくつもりだったのでは?」


「一番元気なのをあげる」


 そう言い残し、リリは逃げるように店を出ていった。


 扉の向こうから、すぐに明るい売り声が聞こえてくる。


「春のお花はいかがですか!」


 エステルは苦笑し、黄色い花を小瓶へ挿した。


 その日の仕事は、昼過ぎまで繕い物が二件。


 一件目は、パン屋の女将の袖口。


 二件目は、荷運び人の手袋だった。


 公爵の外套について考えながらも、目の前の仕事は疎かにしない。


 糸の始末を確かめ、縫い目を指で撫でる。


 夕方になると、エステルは入口へ札を掛けた。


『採寸のため、一時閉店』


 店内の中央を空け、床板へ白墨で線を引く。


 一歩目。


 二歩目。


 三歩目。


 立つ位置と歩く距離を決め、横には椅子を置いた。


 採寸のための巻き尺は使わない。


 代わりに、長さの異なる木の棒を何本か用意した。相手に触れず、背景との比較で寸法を読むためだ。


 蝋燭を三本灯したころ、扉が叩かれた。


 昨夜と同じ、三度の音。


 エステルが開けると、アルヴィスが立っていた。


 今日は雨ではない。


 それでも、彼は同じ灰色の外套を着ていた。肩口の穴は昨夜より広がり、裾の一部は糸が解けて垂れている。


「お待ちしておりました」


「店を閉めたのか」


「採寸を見物なさる方がいると、集中できませんので」


「俺を見物したがる物好きが、この路地にいるのか」


「十歳の花売り娘が」


 アルヴィスは一瞬、黙った。


「……追い返したのか」


「丁重に」


「そうか」


 なぜか、ほんの少し残念そうに聞こえた。


「では、公爵様。外套をお脱ぎくださいませ」


 アルヴィスの目が細くなった。


「触れるなと言ったはずだ」


「触れません。そちらの衝立(ついたて)の向こうへ、ご自分でお掛けください」


 エステルは壁際の衝立を示した。


 その向こうには、金具ではなく、何本もの木の棒を組んだ簡素な衣紋(えもん)掛けがある。


「掛けた瞬間に壊れても、責任は取りません」


「構いません。壊れ方も見たいので」


「仕立て師は、皆そう言うのか」


「存じません。私は、まだ開店四日目ですから」


 アルヴィスが、エステルを見る。


「四日?」


「はい」


「俺は、開店四日目の店に外套を頼んだのか」


「お帰りになります?」


「いや」


 即答だった。


 エステルは少しだけ笑いそうになり、唇を結んだ。


 アルヴィスは衝立の向こうへ入り、外套を脱いだ。


 布が衣紋掛けへ触れた途端、ぱきり、と乾いた音がした。


 肩の部分から糸が一本切れる。


 続いて、背中の縫い目がゆっくりと裂けた。


「まあ」


「驚くほどのことでもない」


「驚いているのではありません。縫い方を見ています」


 エステルは近づいたが、外套には触れなかった。


 裂け目の周囲を目で追う。


 糸そのものが古びて切れたのではない。


 縫い目の中から、力だけが抜け落ちている。布と布を結びつけていたものが、突然、役目を忘れたようにほどけていた。


「この外套を仕立てた方は、腕のよい方です」


「なぜ分かる」


「壊れ方がきれいですもの」


「壊れ方?」


「無理に引かれた縫い目は、布まで裂きます。けれどこれは、糸だけがほどけている。布へ負担を残さないよう縫ってあります」


「それが、善意だと?」


「おそらく」


 アルヴィスは裂けた外套を見た。


 表情は変わらない。


 だが、自分のせいで誰かの丁寧な仕事が壊れていくことを、何も感じていないわけではないのだろう。


 ほんのわずかに、指が握られていた。


「では、こちらへ」


 エステルが白墨の線を示す。


 衝立から出てきたアルヴィスは、黒いシャツと濃紺の胴衣姿だった。


 外套を着ていたときより、体の線がはっきり見える。


 予想どおり、右の脇腹に硬い膨らみがあった。傷を守るための薄い革帯を巻いているらしい。


 右肩も、左よりわずかに動きが狭い。


「両腕を、自然に下ろしてくださいませ」


「下ろしている」


「剣を抜くときの姿勢になっています」


「これが自然だ」


「では、剣を持っていないときの自然に」


 アルヴィスは眉間へ皺を寄せた。


 それでも、わずかに肩の力を抜く。


「顎を引いて」


「命令が多いな」


「寸法を間違えた外套をお召しになりたいのでしたら、減らします」


「続けろ」


 エステルは彼の正面へ立った。


 近すぎない距離。


 手を伸ばしても届かない位置。


 肩幅を、背後の白墨の目盛りと重ねて読む。


 首回りは、シャツの襟と喉元の余裕から推測する。


 胸回りは、呼吸の変化を三度待った。


「深く息を吸ってください」


 アルヴィスが息を吸う。


「もう一度」


「何度必要だ」


「公爵様が、普段どれだけ息を止めて生きていらっしゃるか分かるまで」


「失礼な仕立て師だな」


「息を止めた寸法で外套を作れば、晩餐会で倒れますわ」


 三度目。


 ようやく胸が大きく動いた。


 エステルは数字を書き込む。


「次に、こちらまで歩いてください」


 床の白線を示す。


 アルヴィスは、何も聞かずに歩いた。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 やはり右の脇腹をかばっている。


 腕を後ろへ引く動きも小さい。


「以前、右側を負傷なさいましたね」


 アルヴィスの足が止まった。


「外套に必要な質問か」


「必要です。痛みがある場所に、硬い縫い目は置けません」


「五年前だ。戦場で槍を受けた」


「今も?」


「雨の日は、少し」


 昨日は雨だった。


 それでも彼は、徒歩でこの路地まで来た。


 エステルは無意識に、右の脇腹へ視線を向けた。


「同情するな」


 低い声が落ちた。


「しておりません」


「今の目は、そういう目だった」


「仕立てる場所を見ていただけです」


「人は、そう言って俺へ近づく」


 店内の空気が、冷えた気がした。


「気の毒だから。助けたいから。独りでは可哀想だから」


 アルヴィスは静かに言った。


「そして近づいた者から、壊れていく」


「私は、仕事で近づいております」


「仕事なら、削られないと?」


「分かりません」


 エステルは正直に答えた。


「ですが、触れなければ、少なくとも今日は倒れません」


「随分と現実的だな」


「床で寝ておりますから。倒れても運んでくださる人がおりませんもの」


 アルヴィスはしばらく黙り、やがて視線を逸らした。


「次は何をする」


「椅子へお掛けください」


 座ったときの背丈と、背中の丸まり方を見る。


 晩餐会では、立っている時間より、座っている時間のほうが長い。


 外套を脱がずに着席するなら、背中と腰に十分な余裕が必要だ。


 アルヴィスは椅子へ座ったが、背もたれを使わなかった。


「普段から、寄りかからないのですか?」


「必要ない」


「では、馬車でも?」


「使わない」


「昨夜も、歩いて?」


「ああ」


「公爵邸から、この路地まで?」


「ああ」


 相当な距離だ。


「なぜ馬車を?」


「座席が保たない」


 エステルは言葉を失った。


「俺が乗ると、詰め物が朽ちる。車輪の留め具まで緩むことがある」


「では、いつも歩いて移動を?」


「遠方へは馬に乗る。馬は、生き物だからな」


「馬は平気なのですか」


「嫌われているらしい」


「嫌われているほうが、安全なのですね」


「おそらく」


 あまりに真面目な顔で答えるので、エステルは笑ってしまった。


「何がおかしい」


「申し訳ございません。公爵様を嫌っている馬を想像してしまって」


「三頭いる」


「三頭も?」


「どれも俺を見ると耳を伏せる」


 今度は、我慢できなかった。


 エステルが口元を押さえると、アルヴィスは不機嫌そうに目を細める。


「採寸中だろう」


「はい。ですが、少し肩の力が抜けました」


「俺の?」


「ええ。今の寸法が一番自然です」


 エステルはすぐに炭筆を走らせた。


 笑われたことで、アルヴィスの体から警戒が一瞬だけ消えた。


 そのときの肩の高さ。


 首の傾き。


 呼吸の深さ。


 それこそが、外套の中に必要な余白だった。


「立ってくださいませ。最後に、腕を前へ」


 アルヴィスが腕を上げる。


 右側の動きが途中で止まった。


「そこまでで結構です」


「もう終わりか」


「はい。仮縫いは三日後に」


「触れずに、何が分かった」


「肩幅、胸回り、袖丈、背丈。右脇腹を圧迫しないための余裕。それから、公爵様が椅子へ寄りかからないこと」


「最後のものが、外套に関係するのか」


「大いに」


 エステルは紙を持ち上げた。


 そこには、数字だけではなく、歩く姿、座る姿、腕を上げる姿が小さく描き込まれている。


「服は、立っているときだけ着るものではありませんから」


 アルヴィスは紙へ目を落とした。


「一目裁ち、か」


 エステルの指が止まった。


「なぜ、その名を?」


「昔、王室衣装室にいた仕立て師が使ったと聞いたことがある」


「どなたから?」


「父からだ」


「その仕立て師の名は?」


 問うと、アルヴィスの表情がわずかに硬くなった。


「忘れた」


 嘘だ。


 エステルには分かった。


 忘れた人間の顔ではない。


 けれど、それ以上は聞けなかった。


 彼は椅子から立ち、衝立の向こうで裂けた外套を身につけた。


 肩へ掛けた途端、また糸が一本ほどける。


「仮縫いには、別のものを着てきてくださいませ」


「これ以外は、さらに短くしか保たない」


「では、仮縫い用の服を先に作ります」


「外套のために、服を作るのか」


「肩の線が見えなければ困りますので」


「それも寝台一台分に含まれるのか」


「材料費は別です」


「抜け目がないな」


(あきな)いを覚えているところですわ」


 アルヴィスは扉へ向かった。


 だが、外へ出る前に、窓辺へ視線を向ける。


 リリが置いていった黄色い花が、小瓶の中で揺れていた。


「それは、枯れないのか」


「今のところは」


「俺が近づけば、枯れる」


「では、近づかないでくださいませ」


 エステルが即座に言うと、アルヴィスは目を瞬いた。


「花のために、公爵へ命令するのか」


「お客様からいただいた大切な花ですから」


「俺の外套よりも?」


「種類の違う大切さです」


 アルヴィスは、しばらく花を見ていた。


 それから、距離を保ったまま扉へ手を掛けた。


「三日後に来る」


「お待ちしております」


 扉が閉まる。


 エステルは彼の足音が遠ざかるまで待ち、すぐに紙へ最後の一行を書き加えた。


 花へ近づかなかった。


 自分が壊すと知っているものから、距離を取る。


 それは冷たさではない。


 壊したくないという、ひどく不器用な優しさだ。


 その夜、エステルは古い毛布の上へ寝転がり、公爵の外套の図を見つめた。


 祝福を保たせる方法は、まだ分からない。


 けれど、彼の体に合う形は見えてきた。


 右脇腹へ負担を掛けず、肩へ余計な重さを載せない。


 背もたれを使わなくても、背中に皺が寄らない。


 誰にも触れられずに生きてきた体を、せめて布だけは締めつけないように。


 そこまで考え、エステルは首を振った。


「これは、善意になってしまうのかしら」


 よい服を作りたい。


 着る人が少しでも楽であってほしい。


 仕立て師として当たり前の願いが、彼の呪いには毒になる。


 ならば、何も思わずに縫えばよいのか。


 ただ命令どおり、寸法どおり、形だけを作る。


 けれど、それでは、エステルが仕立てる意味がない。


 裁縫箱を開く。


 母の針は、今夜も青白く光っていた。


「お母様なら、どうなさいます?」


 返事はない。


 エステルは針を持ち上げ、窓辺の黄色い花と並べた。


 一本の針。


 一輪の花。


 どちらも、アルヴィスが触れれば壊れるかもしれない。


 それでも彼は、花へ近づかなかった。


「壊れるから、最初から受け取らないのですね」


 呪いが善意を壊すから。


 壊した相手の顔を見るのが怖いから。


 だから、何も受け取らず、何も求めないふりをしている。


 だとすれば、必要なのは、壊れない祝福ではないのかもしれない。


 壊れても、もう一度受け取れるような一着。


 エステルは炭筆を取り、外套の図の横へ小さく書いた。


『ほどけても、終わりではない』


 それが何を意味するのか、まだ自分でも分からない。


 けれど、その言葉だけは、消さずに残した。

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