第4話 触れない採寸
アルヴィス公爵が帰ったあとも、店の中には、しばらく雨の匂いが残っていた。
エステルは閉じた扉の前に立ち、遠ざかっていく足音へ耳を澄ませた。
規則正しい歩調だった。
急いでもいない。迷ってもいない。
けれど、右足を踏み出すたび、ほんのわずかに肩が下がる。
「右の脇腹を、かばっていらっしゃる?」
呟いてから、エステルは慌てて裁断台へ向かった。
忘れないうちに書き留めなくてはならない。
紙を広げ、炭筆を握る。
身長は、店の扉より頭一つ低い。肩幅は広いが、軍人ほど厚くはない。首は長く、姿勢はよい。左肩より右肩がわずかに低い。外套の袖口から見えた手首は細く、指が長い。
歩幅。
腕の振り方。
立っていたときの重心。
エステルは目を閉じ、店に入ってきた公爵の姿を頭の中でなぞった。
母が教えてくれた一目裁ちは、相手の体をただ眺めて寸法を当てる技ではない。
どのように立つのか。
どのように座るのか。
服のどこが引かれ、どこに皺が寄るのか。
その人が無意識に隠している痛みまで、布の動きから読み取る。
『寸法は数字だけではないのよ』
母はそう言っていた。
『同じ胸回り、同じ肩幅でも、同じ服にはならない。その人がどう生きてきたかで、布の落ち方は変わるの』
幼かったエステルには、よく分からなかった。
今なら、少しだけ分かる。
アルヴィスの外套は、左の前身頃より右のほうが早く傷んでいた。単に呪いのせいではない。右腕を動かすたび、脇腹のあたりへ生地が擦れている。
古傷があるのだろう。
肩口の虫食いのような穴は、雨に濡れた部分から広がっていた。贈られた外套ではなく、命令で作らせたものだと言っていた。それでも朽ちる。
善意とは、いったいどこから始まるのだろう。
命令に従っただけの仕立て師が、よい仕事をしようと思った瞬間。
寒くないようにと裏地を厚くした瞬間。
着る人の体に合わせて、袖を一針だけ丁寧に縫った瞬間。
そのすべてを、呪いは善意と見なすのだろうか。
「難しいご注文ですわね」
口にすると、かえって心が落ち着いた。
難しい。
けれど、不可能とはまだ決まっていない。
エステルは紙の中央へ、大きく一着の外套を描いた。
翌朝。
リリがいつものように花を持ってくると、店内を見回して首を傾げた。
「あれ。お花、捨てたの?」
「枯れてしまったのです」
「昨日まで元気だったのに」
「少し、変わったお客様がいらしたのよ」
「怖い人?」
エステルは、昨夜の青灰色の瞳を思い出した。
「怖そうに見える方でした」
「じゃあ、怖い人だ」
「見た目だけで決めてはいけませんわ」
「お姉さん、昨日、その人が帰ったあと、ずっと窓から見てたでしょ」
「見ていたのではなく、歩き方を確かめていたのです」
「それを見てたって言うんじゃないの?」
返す言葉がなかった。
リリはくすくす笑いながら、今日の花を窓辺へ置いた。
黄色い小花が三本。
「また枯れちゃう?」
「今日は大丈夫だと思います」
「その怖い人、また来るの?」
「ええ。夕方に」
「やっぱり見たい」
「駄目です」
「どうして?」
「お客様の採寸は、見世物ではありません」
「でも、お姉さん、その人に触れないんでしょ?」
エステルは目を瞬いた。
「なぜ、それを?」
「昨日、扉の外で聞いてた」
「リリ」
「ごめんなさい」
あまり悪びれていない。
エステルが眉を下げると、リリは窓辺の花を一本だけ引き抜いた。
「じゃあ、これはお詫び」
「最初から三本ともいただくつもりだったのでは?」
「一番元気なのをあげる」
そう言い残し、リリは逃げるように店を出ていった。
扉の向こうから、すぐに明るい売り声が聞こえてくる。
「春のお花はいかがですか!」
エステルは苦笑し、黄色い花を小瓶へ挿した。
その日の仕事は、昼過ぎまで繕い物が二件。
一件目は、パン屋の女将の袖口。
二件目は、荷運び人の手袋だった。
公爵の外套について考えながらも、目の前の仕事は疎かにしない。
糸の始末を確かめ、縫い目を指で撫でる。
夕方になると、エステルは入口へ札を掛けた。
『採寸のため、一時閉店』
店内の中央を空け、床板へ白墨で線を引く。
一歩目。
二歩目。
三歩目。
立つ位置と歩く距離を決め、横には椅子を置いた。
採寸のための巻き尺は使わない。
代わりに、長さの異なる木の棒を何本か用意した。相手に触れず、背景との比較で寸法を読むためだ。
蝋燭を三本灯したころ、扉が叩かれた。
昨夜と同じ、三度の音。
エステルが開けると、アルヴィスが立っていた。
今日は雨ではない。
それでも、彼は同じ灰色の外套を着ていた。肩口の穴は昨夜より広がり、裾の一部は糸が解けて垂れている。
「お待ちしておりました」
「店を閉めたのか」
「採寸を見物なさる方がいると、集中できませんので」
「俺を見物したがる物好きが、この路地にいるのか」
「十歳の花売り娘が」
アルヴィスは一瞬、黙った。
「……追い返したのか」
「丁重に」
「そうか」
なぜか、ほんの少し残念そうに聞こえた。
「では、公爵様。外套をお脱ぎくださいませ」
アルヴィスの目が細くなった。
「触れるなと言ったはずだ」
「触れません。そちらの衝立の向こうへ、ご自分でお掛けください」
エステルは壁際の衝立を示した。
その向こうには、金具ではなく、何本もの木の棒を組んだ簡素な衣紋掛けがある。
「掛けた瞬間に壊れても、責任は取りません」
「構いません。壊れ方も見たいので」
「仕立て師は、皆そう言うのか」
「存じません。私は、まだ開店四日目ですから」
アルヴィスが、エステルを見る。
「四日?」
「はい」
「俺は、開店四日目の店に外套を頼んだのか」
「お帰りになります?」
「いや」
即答だった。
エステルは少しだけ笑いそうになり、唇を結んだ。
アルヴィスは衝立の向こうへ入り、外套を脱いだ。
布が衣紋掛けへ触れた途端、ぱきり、と乾いた音がした。
肩の部分から糸が一本切れる。
続いて、背中の縫い目がゆっくりと裂けた。
「まあ」
「驚くほどのことでもない」
「驚いているのではありません。縫い方を見ています」
エステルは近づいたが、外套には触れなかった。
裂け目の周囲を目で追う。
糸そのものが古びて切れたのではない。
縫い目の中から、力だけが抜け落ちている。布と布を結びつけていたものが、突然、役目を忘れたようにほどけていた。
「この外套を仕立てた方は、腕のよい方です」
「なぜ分かる」
「壊れ方がきれいですもの」
「壊れ方?」
「無理に引かれた縫い目は、布まで裂きます。けれどこれは、糸だけがほどけている。布へ負担を残さないよう縫ってあります」
「それが、善意だと?」
「おそらく」
アルヴィスは裂けた外套を見た。
表情は変わらない。
だが、自分のせいで誰かの丁寧な仕事が壊れていくことを、何も感じていないわけではないのだろう。
ほんのわずかに、指が握られていた。
「では、こちらへ」
エステルが白墨の線を示す。
衝立から出てきたアルヴィスは、黒いシャツと濃紺の胴衣姿だった。
外套を着ていたときより、体の線がはっきり見える。
予想どおり、右の脇腹に硬い膨らみがあった。傷を守るための薄い革帯を巻いているらしい。
右肩も、左よりわずかに動きが狭い。
「両腕を、自然に下ろしてくださいませ」
「下ろしている」
「剣を抜くときの姿勢になっています」
「これが自然だ」
「では、剣を持っていないときの自然に」
アルヴィスは眉間へ皺を寄せた。
それでも、わずかに肩の力を抜く。
「顎を引いて」
「命令が多いな」
「寸法を間違えた外套をお召しになりたいのでしたら、減らします」
「続けろ」
エステルは彼の正面へ立った。
近すぎない距離。
手を伸ばしても届かない位置。
肩幅を、背後の白墨の目盛りと重ねて読む。
首回りは、シャツの襟と喉元の余裕から推測する。
胸回りは、呼吸の変化を三度待った。
「深く息を吸ってください」
アルヴィスが息を吸う。
「もう一度」
「何度必要だ」
「公爵様が、普段どれだけ息を止めて生きていらっしゃるか分かるまで」
「失礼な仕立て師だな」
「息を止めた寸法で外套を作れば、晩餐会で倒れますわ」
三度目。
ようやく胸が大きく動いた。
エステルは数字を書き込む。
「次に、こちらまで歩いてください」
床の白線を示す。
アルヴィスは、何も聞かずに歩いた。
一歩。
二歩。
三歩。
やはり右の脇腹をかばっている。
腕を後ろへ引く動きも小さい。
「以前、右側を負傷なさいましたね」
アルヴィスの足が止まった。
「外套に必要な質問か」
「必要です。痛みがある場所に、硬い縫い目は置けません」
「五年前だ。戦場で槍を受けた」
「今も?」
「雨の日は、少し」
昨日は雨だった。
それでも彼は、徒歩でこの路地まで来た。
エステルは無意識に、右の脇腹へ視線を向けた。
「同情するな」
低い声が落ちた。
「しておりません」
「今の目は、そういう目だった」
「仕立てる場所を見ていただけです」
「人は、そう言って俺へ近づく」
店内の空気が、冷えた気がした。
「気の毒だから。助けたいから。独りでは可哀想だから」
アルヴィスは静かに言った。
「そして近づいた者から、壊れていく」
「私は、仕事で近づいております」
「仕事なら、削られないと?」
「分かりません」
エステルは正直に答えた。
「ですが、触れなければ、少なくとも今日は倒れません」
「随分と現実的だな」
「床で寝ておりますから。倒れても運んでくださる人がおりませんもの」
アルヴィスはしばらく黙り、やがて視線を逸らした。
「次は何をする」
「椅子へお掛けください」
座ったときの背丈と、背中の丸まり方を見る。
晩餐会では、立っている時間より、座っている時間のほうが長い。
外套を脱がずに着席するなら、背中と腰に十分な余裕が必要だ。
アルヴィスは椅子へ座ったが、背もたれを使わなかった。
「普段から、寄りかからないのですか?」
「必要ない」
「では、馬車でも?」
「使わない」
「昨夜も、歩いて?」
「ああ」
「公爵邸から、この路地まで?」
「ああ」
相当な距離だ。
「なぜ馬車を?」
「座席が保たない」
エステルは言葉を失った。
「俺が乗ると、詰め物が朽ちる。車輪の留め具まで緩むことがある」
「では、いつも歩いて移動を?」
「遠方へは馬に乗る。馬は、生き物だからな」
「馬は平気なのですか」
「嫌われているらしい」
「嫌われているほうが、安全なのですね」
「おそらく」
あまりに真面目な顔で答えるので、エステルは笑ってしまった。
「何がおかしい」
「申し訳ございません。公爵様を嫌っている馬を想像してしまって」
「三頭いる」
「三頭も?」
「どれも俺を見ると耳を伏せる」
今度は、我慢できなかった。
エステルが口元を押さえると、アルヴィスは不機嫌そうに目を細める。
「採寸中だろう」
「はい。ですが、少し肩の力が抜けました」
「俺の?」
「ええ。今の寸法が一番自然です」
エステルはすぐに炭筆を走らせた。
笑われたことで、アルヴィスの体から警戒が一瞬だけ消えた。
そのときの肩の高さ。
首の傾き。
呼吸の深さ。
それこそが、外套の中に必要な余白だった。
「立ってくださいませ。最後に、腕を前へ」
アルヴィスが腕を上げる。
右側の動きが途中で止まった。
「そこまでで結構です」
「もう終わりか」
「はい。仮縫いは三日後に」
「触れずに、何が分かった」
「肩幅、胸回り、袖丈、背丈。右脇腹を圧迫しないための余裕。それから、公爵様が椅子へ寄りかからないこと」
「最後のものが、外套に関係するのか」
「大いに」
エステルは紙を持ち上げた。
そこには、数字だけではなく、歩く姿、座る姿、腕を上げる姿が小さく描き込まれている。
「服は、立っているときだけ着るものではありませんから」
アルヴィスは紙へ目を落とした。
「一目裁ち、か」
エステルの指が止まった。
「なぜ、その名を?」
「昔、王室衣装室にいた仕立て師が使ったと聞いたことがある」
「どなたから?」
「父からだ」
「その仕立て師の名は?」
問うと、アルヴィスの表情がわずかに硬くなった。
「忘れた」
嘘だ。
エステルには分かった。
忘れた人間の顔ではない。
けれど、それ以上は聞けなかった。
彼は椅子から立ち、衝立の向こうで裂けた外套を身につけた。
肩へ掛けた途端、また糸が一本ほどける。
「仮縫いには、別のものを着てきてくださいませ」
「これ以外は、さらに短くしか保たない」
「では、仮縫い用の服を先に作ります」
「外套のために、服を作るのか」
「肩の線が見えなければ困りますので」
「それも寝台一台分に含まれるのか」
「材料費は別です」
「抜け目がないな」
「商いを覚えているところですわ」
アルヴィスは扉へ向かった。
だが、外へ出る前に、窓辺へ視線を向ける。
リリが置いていった黄色い花が、小瓶の中で揺れていた。
「それは、枯れないのか」
「今のところは」
「俺が近づけば、枯れる」
「では、近づかないでくださいませ」
エステルが即座に言うと、アルヴィスは目を瞬いた。
「花のために、公爵へ命令するのか」
「お客様からいただいた大切な花ですから」
「俺の外套よりも?」
「種類の違う大切さです」
アルヴィスは、しばらく花を見ていた。
それから、距離を保ったまま扉へ手を掛けた。
「三日後に来る」
「お待ちしております」
扉が閉まる。
エステルは彼の足音が遠ざかるまで待ち、すぐに紙へ最後の一行を書き加えた。
花へ近づかなかった。
自分が壊すと知っているものから、距離を取る。
それは冷たさではない。
壊したくないという、ひどく不器用な優しさだ。
その夜、エステルは古い毛布の上へ寝転がり、公爵の外套の図を見つめた。
祝福を保たせる方法は、まだ分からない。
けれど、彼の体に合う形は見えてきた。
右脇腹へ負担を掛けず、肩へ余計な重さを載せない。
背もたれを使わなくても、背中に皺が寄らない。
誰にも触れられずに生きてきた体を、せめて布だけは締めつけないように。
そこまで考え、エステルは首を振った。
「これは、善意になってしまうのかしら」
よい服を作りたい。
着る人が少しでも楽であってほしい。
仕立て師として当たり前の願いが、彼の呪いには毒になる。
ならば、何も思わずに縫えばよいのか。
ただ命令どおり、寸法どおり、形だけを作る。
けれど、それでは、エステルが仕立てる意味がない。
裁縫箱を開く。
母の針は、今夜も青白く光っていた。
「お母様なら、どうなさいます?」
返事はない。
エステルは針を持ち上げ、窓辺の黄色い花と並べた。
一本の針。
一輪の花。
どちらも、アルヴィスが触れれば壊れるかもしれない。
それでも彼は、花へ近づかなかった。
「壊れるから、最初から受け取らないのですね」
呪いが善意を壊すから。
壊した相手の顔を見るのが怖いから。
だから、何も受け取らず、何も求めないふりをしている。
だとすれば、必要なのは、壊れない祝福ではないのかもしれない。
壊れても、もう一度受け取れるような一着。
エステルは炭筆を取り、外套の図の横へ小さく書いた。
『ほどけても、終わりではない』
それが何を意味するのか、まだ自分でも分からない。
けれど、その言葉だけは、消さずに残した。




