第3話 祝福のほどける人
クララのドレスが王宮で評判になったらしい。
その噂をエステルが知ったのは、舞踏会から三日後のことだった。
「お姉さん、これも直せる?」
朝一番に店へやってきたのは、花売りの少女だった。
名前はリリ。初めて会った日に靴へ青いリボンを縫い込んでから、毎朝のように窓辺へ花を一輪置いていく。
今日は花籠のほかに、擦り切れた赤い布を抱えていた。
「まあ。きれいな色ですわね」
「お母さんの前掛けなの。でも、ここが破れちゃって」
リリが広げた前掛けには、大きな裂け目があった。
生地そのものも薄くなっており、裂けた部分だけを縫い合わせても、すぐ別のところが破れてしまうだろう。
「同じ布は、ありますか?」
「ない。新しいのを買うお金も、まだないの」
リリは唇を尖らせた。
「お母さん、捨てるって言うけど、これを着ると料理が上手になるって、いつも言ってたから」
「前掛けが、お料理を上手に?」
「うん。お父さんがくれたんだって」
なるほど。
料理が上手になるのではない。
大切な人にもらった前掛けを着ると、少しだけ元気になれたのだろう。
エステルは赤い布を光へ透かした。
「裂け目を隠すのではなく、別の布を重ねて補強しましょう。少し模様が変わりますけれど、よろしい?」
「かわいくなる?」
「ええ。きっと」
エステルは端切れ箱から、生成りの丈夫な麻布を取り出した。
裂け目よりひと回り大きな形に切り、角を丸くする。そのまま重ねるだけでは味気ないため、窓辺に置かれた黄色い花を見ながら、小さな花の形へ整えた。
「お花だ」
「赤い畑に、白い花が咲いたように見えるでしょう?」
「三つにして」
「三つ?」
「お父さんと、お母さんと、わたし」
エステルは笑って、花を三つ切り出した。
一つは裂け目の上へ。
残りの二つは、左右へ少し離して置く。
青白い針を取り出しかけて、エステルは手を止めた。
これは、祝福を縫い込む仕事ではない。
リリの母親がこの前掛けに求めているものは、すでに布の中にある。
夫から贈られ、何年も使い続けた記憶。
娘がそれを惜しんで持ってきた気持ち。
新たな祝福を加えなくても、この前掛けは十分に人を支えている。
エステルは普通の針へ赤い糸を通した。
「今日は、こちらの針を使います」
「光る針じゃないの?」
「ええ。祝福は、必要なときにだけ縫うものですから」
「何でも便利になるほうがいいのに」
「便利すぎると、大切なものを見落としてしまうこともありますわ」
リリは分かったような、分からないような顔をした。
けれど、三つの白い花が縫い上がると、そんな疑問はすぐに忘れたらしい。
「かわいい!」
「布も二重になりましたから、前より丈夫です。お母様へ、熱い鍋には気をつけるようお伝えください」
「うん!」
リリは前掛けを抱え、銀貨を一枚差し出した。
「これは多すぎますわ」
「お母さんが、絶対に払ってもらいなさいって」
「では、お釣りを」
「いらない。昨日のお嬢様が、ここはすごい仕立て屋だって言ってたから、きっとこれから忙しくなるんでしょ?」
「昨日のお嬢様?」
「黄色いドレスの」
クララのことらしい。
「花を買ってくれたの。王宮で転ばなかったって、みんなに話してたよ」
リリは得意そうに胸を張った。
「だから、わたしも言ったの。エステルお姉さんは、昨日からじゃなくて、最初からすごい仕立て屋だって」
「まあ」
褒められ慣れていないエステルは、何と答えればよいのか分からなくなった。
結局、お釣りの代わりに、リリの花籠へ小さな布の覆いを縫いつけることにした。
急な雨でも、花が濡れにくくなるように。
もちろん、祝福は込めなかった。
必要なのは、きちんと寸法を測り、丈夫に縫うことだけだった。
その日から、店を訪れる人が少しずつ増えた。
ほつれた袖を持ってくるパン屋の女将。
祭りまでに、息子の上着を大きくしてほしいという靴職人。
亡き夫の帽子を、孫が使える形へ直してほしいという老婦人。
誰も、立派な馬車ではやってこない。
依頼の多くは繕い物で、代金も銀貨数枚ほどだ。
それでも、仕事が終わった服を受け取るとき、客は皆、来店したときより少し明るい顔になった。
エステルは、それが嬉しかった。
伯爵家の応接間にいた頃は、誰かに褒められるために背筋を伸ばしていた。
今は、針を持つために背筋を伸ばす。
それだけの違いなのに、呼吸はずっと楽だった。
ただし、店には大きな問題があった。
「布が、足りませんわ」
夕方、エステルは棚の前で腕を組んだ。
クララから受け取った代金で、生成りの麻布と黒糸、木綿糸を買った。だが、繕い物が続くと、端切れも糸も思った以上の速さで減っていく。
注文が増えれば、材料が必要になる。
材料を買うには、注文を受けなければならない。
「商いとは、難しいものですのね」
独り言に答える者はいない。
店の奥には、まだ寝台すらない。エステルは床へ古い毛布を敷いて眠っていた。
屋敷に残った父と弟には、まだ居場所を知らせていない。
婚約が解消されたことは、すでに伝わっているはずだ。
けれど、父からの手紙は届いていなかった。
怒っているのかもしれない。
あるいは、娘が自分の力で暮らすと言い出したことに、どう返事をすればよいのか迷っているのだろう。
エステル自身も、父へ何と書くべきか決められずにいた。
お元気ですか。
私は仕立て屋を始めました。
床で眠っていますが、思ったより元気です。
そんな手紙を読めば、父はすぐ王都へ飛んでくるに違いない。
「寝台を買ってから、お知らせしましょう」
目下の目標が決まり、エステルは帳簿へ大きく書き込んだ。
寝台、一台。
その下へ、必要な銀貨の枚数を書く。
今の収入では、少なくとも一月はかかりそうだった。
「一月なら、すぐですわ」
そう自分を励まして、閉店の支度を始める。
外はいつの間にか雨になっていた。
細い雨粒が石畳を濡らし、路地を通る人影も少ない。
エステルは窓辺の花を店内へ移し、入口の紙看板を裏返した。
『本日の営業は終了しました』
蝋燭を一本だけ残し、裁縫箱を閉じる。
そのとき、扉が三度、叩かれた。
こん、こん、こん。
強くはない。
けれど、雨音の中でも不思議とはっきり聞こえる音だった。
「申し訳ございません。本日はもう——」
扉を開けたエステルは、言葉を止めた。
外套をまとった男が、雨の路地に立っていた。
背が高い。
黒に近い灰色の外套は、上質な生地で仕立てられている。だが、裾の一部が不自然に色褪せ、肩口には虫に食われたような穴が空いていた。
雨に濡れたせいではない。
布そのものが、急速に古びている。
男はフードを深くかぶっていた。
その影から覗く顔は、端正というより鋭い。色の薄い銀髪が頬へ張りつき、青灰色の瞳が、店の奥を冷静に見渡した。
「仕立て屋は、ここか」
「本日の営業は終わりましたが、お急ぎでしたらお話だけでも」
男の視線が、扉の横の看板へ移った。
『あなたが、本当に必要としている一着を』
読んだあと、わずかに口元を歪める。
笑ったのか、嘲ったのか、エステルには判断できなかった。
「祝福を縫うと聞いた」
店の空気が変わった。
クララから話が広まったのだろうか。
エステルは扉を少しだけ狭めた。
「どちらで、そのお話を?」
「王宮で、蜂蜜色のドレスを見た」
「クララ様を、ご存じなのですね」
「名は知らない。だが、あれには祝福があった」
男は断言した。
祝福は、見慣れない者には、ただ着心地のよい服としか感じられないことも多い。
光を見られる者は、さらに少ない。
この男は、祝福を知っている。
しかも、宮廷に出入りできる身分だ。
エステルは男の外套を改めて見た。
襟の裏側に、銀糸で紋章が刺繍されている。
黒い鳥。
その翼を貫く、一本の剣。
エステルは息を呑んだ。
北部を治める、ヴァルクレイ公爵家の紋章だ。
「アルヴィス・ヴァルクレイ公爵様……?」
「俺を知っているのか」
「紋章だけは」
アルヴィス・ヴァルクレイ。
若くして公爵位を継ぎ、王国北部の国境を守る男。
宮廷では、冷酷、傲慢、呪われた公爵などと呼ばれている。
社交界へ姿を見せることは少なく、舞踏会でも誰とも踊らない。贈り物を受け取らず、使用人すらそばに置かないという噂だった。
だが、なぜそのような人物が、路地裏の小さな店へ来たのか。
「中へ入っても?」
問われ、エステルは我に返った。
「どうぞ」
アルヴィスが店内へ足を踏み入れる。
その瞬間、入口の脇に飾っていたクララのハンカチが、かすかに揺れた。
黄色い花の刺繍から、一本の糸が抜け落ちる。
窓辺の花も、急に首を垂れた。
エステルは目を見開いた。
アルヴィスは、それを見ても驚かなかった。
「俺に近いものは、長く保たない」
彼は濡れた手袋を外さず、店の中央で立ち止まった。
「布も、花も、人の好意も」
「人の好意まで?」
「善意を込めて贈られたものほど、早く朽ちる」
淡々とした声だった。
まるで、何度も説明してきた事実を読み上げているように。
「だから、仕立て師は皆、俺の依頼を断る。縫い上げても、袖を通した瞬間に駄目になるからな」
エステルは彼の外套へ目を向けた。
古びてはいるが、完全には崩れていない。
「その外套は?」
「命令で作らせた。善意も祝福も込めさせず、ただ丈夫に縫えとな」
「それでも、傷んでいます」
「命令に従うことを善意と呼ぶ者もいるらしい」
アルヴィスの声には、かすかな疲れが混じっていた。
誰も触れない。
誰からも受け取れない。
祝福が身分や信頼の証として扱われる宮廷で、ただ一人、何もまとえない男。
エステルは母から、似た呪いの話を聞いたことがなかった。
「何を、お仕立てすればよろしいのでしょう」
「外套を一着」
「どのような場で、お召しになりますか?」
「一月後、国王主催の晩餐会がある」
「お色や形のご希望は?」
「任せる」
「では、採寸を」
エステルが巻き尺へ手を伸ばすと、アルヴィスは一歩退いた。
「触れるな」
短い言葉だった。
だが、その声には拒絶よりも警告があった。
「俺に触れた者は、しばらく体調を崩す。強い好意を持つ者ほど、深く削られる」
「採寸なしでは、体に合う外套は仕立てられません」
「だから、他の仕立て屋は断った」
アルヴィスはエステルを見下ろした。
「お前も断るか」
普通なら、断るべきなのだろう。
採寸ができない。
祝福はほどける。
しかも、完成まで一月しかない。
それでもエステルの頭に浮かんだのは、母が教えてくれた古い仕立ての技だった。
歩き方。
肩の傾き。
腕を下ろしたときの指先の位置。
布の落ち方と、靴の幅。
相手を一度見るだけで、おおよその寸法を読み取る。
一目裁ち。
母は、滅多に使って見せなかった。
『採寸できないお客様も、世の中にはいるのよ』
その言葉の意味を、エステルは今になって知った。
「お断りしません」
エステルが答えると、アルヴィスの眉がわずかに動いた。
「俺の話を聞いていたのか」
「すべて伺いました」
「祝福は保たない」
「保つように縫います」
「触れることもできない」
「触れずに仕立てます」
「失敗すれば、代金は払わない」
「成功しましたら、材料費に加えて、寝台一台分をいただきますわ」
アルヴィスは初めて、明確に表情を変えた。
「寝台?」
「現在、店の床で眠っておりますので」
「公爵に請求する最初の品が、宝石でも金貨でもなく、寝台か」
「体に合わない寝床は、良い仕事の妨げになります」
数秒の沈黙のあと、アルヴィスはごく小さく息を吐いた。
今度こそ、笑ったように見えた。
「いいだろう」
彼は傷んだ外套の襟を正し、静かに告げた。
「だが、先に言っておく」
店内の蝋燭が、風もないのに揺れた。
「どんな祝福も、俺の上では一晩と保たずほどける」
青灰色の瞳が、真っ直ぐにエステルを射抜く。
「それでも、仕立てられるか」
エステルは青白い針の入った裁縫箱へ手を置いた。
怖くないと言えば、嘘になる。
けれど、目の前の男が本当に求めているものは、外套だけではない。
どうせ無理だと決めつけず、一度だけでも引き受ける人間。
もしかすると、彼が探しているのは、そんな相手なのかもしれなかった。
「承りました」
エステルは答えた。
「公爵様に必要な一着を、お仕立ていたします」
その夜、店の窓辺に飾られていた黄色い花は、すべて枯れていた。
けれど、裁縫箱の中の青白い針だけは、眠らない星のように光り続けていた。




