表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/3

第3話 祝福のほどける人

 クララのドレスが王宮で評判になったらしい。


 その噂をエステルが知ったのは、舞踏会から三日後のことだった。


「お姉さん、これも直せる?」


 朝一番に店へやってきたのは、花売りの少女だった。


 名前はリリ。初めて会った日に靴へ青いリボンを縫い込んでから、毎朝のように窓辺へ花を一輪置いていく。


 今日は花籠のほかに、擦り切れた赤い布を抱えていた。


「まあ。きれいな色ですわね」


「お母さんの前掛けなの。でも、ここが破れちゃって」


 リリが広げた前掛けには、大きな裂け目があった。


 生地そのものも薄くなっており、裂けた部分だけを縫い合わせても、すぐ別のところが破れてしまうだろう。


「同じ布は、ありますか?」


「ない。新しいのを買うお金も、まだないの」


 リリは唇を尖らせた。


「お母さん、捨てるって言うけど、これを着ると料理が上手になるって、いつも言ってたから」


「前掛けが、お料理を上手に?」


「うん。お父さんがくれたんだって」


 なるほど。


 料理が上手になるのではない。


 大切な人にもらった前掛けを着ると、少しだけ元気になれたのだろう。


 エステルは赤い布を光へ透かした。


「裂け目を隠すのではなく、別の布を重ねて補強しましょう。少し模様が変わりますけれど、よろしい?」


「かわいくなる?」


「ええ。きっと」


 エステルは端切れ箱から、生成りの丈夫な麻布を取り出した。


 裂け目よりひと回り大きな形に切り、角を丸くする。そのまま重ねるだけでは味気ないため、窓辺に置かれた黄色い花を見ながら、小さな花の形へ整えた。


「お花だ」


「赤い畑に、白い花が咲いたように見えるでしょう?」


「三つにして」


「三つ?」


「お父さんと、お母さんと、わたし」


 エステルは笑って、花を三つ切り出した。


 一つは裂け目の上へ。


 残りの二つは、左右へ少し離して置く。


 青白い針を取り出しかけて、エステルは手を止めた。


 これは、祝福を縫い込む仕事ではない。


 リリの母親がこの前掛けに求めているものは、すでに布の中にある。


 夫から贈られ、何年も使い続けた記憶。


 娘がそれを惜しんで持ってきた気持ち。


 新たな祝福を加えなくても、この前掛けは十分に人を支えている。


 エステルは普通の針へ赤い糸を通した。


「今日は、こちらの針を使います」


「光る針じゃないの?」


「ええ。祝福は、必要なときにだけ縫うものですから」


「何でも便利になるほうがいいのに」


「便利すぎると、大切なものを見落としてしまうこともありますわ」


 リリは分かったような、分からないような顔をした。


 けれど、三つの白い花が縫い上がると、そんな疑問はすぐに忘れたらしい。


「かわいい!」


「布も二重になりましたから、前より丈夫です。お母様へ、熱い鍋には気をつけるようお伝えください」


「うん!」


 リリは前掛けを抱え、銀貨を一枚差し出した。


「これは多すぎますわ」


「お母さんが、絶対に払ってもらいなさいって」


「では、お釣りを」


「いらない。昨日のお嬢様が、ここはすごい仕立て屋だって言ってたから、きっとこれから忙しくなるんでしょ?」


「昨日のお嬢様?」


「黄色いドレスの」


 クララのことらしい。


「花を買ってくれたの。王宮で転ばなかったって、みんなに話してたよ」


 リリは得意そうに胸を張った。


「だから、わたしも言ったの。エステルお姉さんは、昨日からじゃなくて、最初からすごい仕立て屋だって」


「まあ」


 褒められ慣れていないエステルは、何と答えればよいのか分からなくなった。


 結局、お釣りの代わりに、リリの花籠へ小さな布の覆いを縫いつけることにした。


 急な雨でも、花が濡れにくくなるように。


 もちろん、祝福は込めなかった。


 必要なのは、きちんと寸法を測り、丈夫に縫うことだけだった。


 その日から、店を訪れる人が少しずつ増えた。


 ほつれた袖を持ってくるパン屋の女将。


 祭りまでに、息子の上着を大きくしてほしいという靴職人。


 亡き夫の帽子を、孫が使える形へ直してほしいという老婦人。


 誰も、立派な馬車ではやってこない。


 依頼の多くは繕い物で、代金も銀貨数枚ほどだ。


 それでも、仕事が終わった服を受け取るとき、客は皆、来店したときより少し明るい顔になった。


 エステルは、それが嬉しかった。


 伯爵家の応接間にいた頃は、誰かに褒められるために背筋を伸ばしていた。


 今は、針を持つために背筋を伸ばす。


 それだけの違いなのに、呼吸はずっと楽だった。


 ただし、店には大きな問題があった。


「布が、足りませんわ」


 夕方、エステルは棚の前で腕を組んだ。


 クララから受け取った代金で、生成りの麻布と黒糸、木綿糸を買った。だが、繕い物が続くと、端切れも糸も思った以上の速さで減っていく。


 注文が増えれば、材料が必要になる。


 材料を買うには、注文を受けなければならない。


「商いとは、難しいものですのね」


 独り言に答える者はいない。


 店の奥には、まだ寝台すらない。エステルは床へ古い毛布を敷いて眠っていた。


 屋敷に残った父と弟には、まだ居場所を知らせていない。


 婚約が解消されたことは、すでに伝わっているはずだ。


 けれど、父からの手紙は届いていなかった。


 怒っているのかもしれない。


 あるいは、娘が自分の力で暮らすと言い出したことに、どう返事をすればよいのか迷っているのだろう。


 エステル自身も、父へ何と書くべきか決められずにいた。


 お元気ですか。


 私は仕立て屋を始めました。


 床で眠っていますが、思ったより元気です。


 そんな手紙を読めば、父はすぐ王都へ飛んでくるに違いない。


「寝台を買ってから、お知らせしましょう」


 目下の目標が決まり、エステルは帳簿へ大きく書き込んだ。


 寝台、一台。


 その下へ、必要な銀貨の枚数を書く。


 今の収入では、少なくとも一月はかかりそうだった。


「一月なら、すぐですわ」


 そう自分を励まして、閉店の支度を始める。


 外はいつの間にか雨になっていた。


 細い雨粒が石畳を濡らし、路地を通る人影も少ない。


 エステルは窓辺の花を店内へ移し、入口の紙看板を裏返した。


『本日の営業は終了しました』


 蝋燭を一本だけ残し、裁縫箱を閉じる。


 そのとき、扉が三度、叩かれた。


 こん、こん、こん。


 強くはない。


 けれど、雨音の中でも不思議とはっきり聞こえる音だった。


「申し訳ございません。本日はもう——」


 扉を開けたエステルは、言葉を止めた。


 外套をまとった男が、雨の路地に立っていた。


 背が高い。


 黒に近い灰色の外套は、上質な生地で仕立てられている。だが、裾の一部が不自然に色褪せ、肩口には虫に食われたような穴が空いていた。


 雨に濡れたせいではない。


 布そのものが、急速に古びている。


 男はフードを深くかぶっていた。


 その影から覗く顔は、端正というより鋭い。色の薄い銀髪が頬へ張りつき、青灰色の瞳が、店の奥を冷静に見渡した。


「仕立て屋は、ここか」


「本日の営業は終わりましたが、お急ぎでしたらお話だけでも」


 男の視線が、扉の横の看板へ移った。


『あなたが、本当に必要としている一着を』


 読んだあと、わずかに口元を歪める。


 笑ったのか、嘲ったのか、エステルには判断できなかった。


「祝福を縫うと聞いた」


 店の空気が変わった。


 クララから話が広まったのだろうか。


 エステルは扉を少しだけ狭めた。


「どちらで、そのお話を?」


「王宮で、蜂蜜色のドレスを見た」


「クララ様を、ご存じなのですね」


「名は知らない。だが、あれには祝福があった」


 男は断言した。


 祝福は、見慣れない者には、ただ着心地のよい服としか感じられないことも多い。


 光を見られる者は、さらに少ない。


 この男は、祝福を知っている。


 しかも、宮廷に出入りできる身分だ。


 エステルは男の外套を改めて見た。


 襟の裏側に、銀糸で紋章が刺繍されている。


 黒い鳥。


 その翼を貫く、一本の剣。


 エステルは息を呑んだ。


 北部を治める、ヴァルクレイ公爵家の紋章だ。


「アルヴィス・ヴァルクレイ公爵様……?」


「俺を知っているのか」


「紋章だけは」


 アルヴィス・ヴァルクレイ。


 若くして公爵位を継ぎ、王国北部の国境を守る男。


 宮廷では、冷酷、傲慢、呪われた公爵などと呼ばれている。


 社交界へ姿を見せることは少なく、舞踏会でも誰とも踊らない。贈り物を受け取らず、使用人すらそばに置かないという噂だった。


 だが、なぜそのような人物が、路地裏の小さな店へ来たのか。


「中へ入っても?」


 問われ、エステルは我に返った。


「どうぞ」


 アルヴィスが店内へ足を踏み入れる。


 その瞬間、入口の脇に飾っていたクララのハンカチが、かすかに揺れた。


 黄色い花の刺繍から、一本の糸が抜け落ちる。


 窓辺の花も、急に首を垂れた。


 エステルは目を見開いた。


 アルヴィスは、それを見ても驚かなかった。


「俺に近いものは、長く保たない」


 彼は濡れた手袋を外さず、店の中央で立ち止まった。


「布も、花も、人の好意も」


「人の好意まで?」


「善意を込めて贈られたものほど、早く朽ちる」


 淡々とした声だった。


 まるで、何度も説明してきた事実を読み上げているように。


「だから、仕立て師は皆、俺の依頼を断る。縫い上げても、袖を通した瞬間に駄目になるからな」


 エステルは彼の外套へ目を向けた。


 古びてはいるが、完全には崩れていない。


「その外套は?」


「命令で作らせた。善意も祝福も込めさせず、ただ丈夫に縫えとな」


「それでも、傷んでいます」


「命令に従うことを善意と呼ぶ者もいるらしい」


 アルヴィスの声には、かすかな疲れが混じっていた。


 誰も触れない。


 誰からも受け取れない。


 祝福が身分や信頼の証として扱われる宮廷で、ただ一人、何もまとえない男。


 エステルは母から、似た呪いの話を聞いたことがなかった。


「何を、お仕立てすればよろしいのでしょう」


「外套を一着」


「どのような場で、お召しになりますか?」


「一月後、国王主催の晩餐会がある」


「お色や形のご希望は?」


「任せる」


「では、採寸を」


 エステルが巻き尺へ手を伸ばすと、アルヴィスは一歩退いた。


「触れるな」


 短い言葉だった。


 だが、その声には拒絶よりも警告があった。


「俺に触れた者は、しばらく体調を崩す。強い好意を持つ者ほど、深く削られる」


「採寸なしでは、体に合う外套は仕立てられません」


「だから、他の仕立て屋は断った」


 アルヴィスはエステルを見下ろした。


「お前も断るか」


 普通なら、断るべきなのだろう。


 採寸ができない。


 祝福はほどける。


 しかも、完成まで一月しかない。


 それでもエステルの頭に浮かんだのは、母が教えてくれた古い仕立ての技だった。


 歩き方。


 肩の傾き。


 腕を下ろしたときの指先の位置。


 布の落ち方と、靴の幅。


 相手を一度見るだけで、おおよその寸法を読み取る。


 一目裁ち。


 母は、滅多に使って見せなかった。


『採寸できないお客様も、世の中にはいるのよ』


 その言葉の意味を、エステルは今になって知った。


「お断りしません」


 エステルが答えると、アルヴィスの眉がわずかに動いた。


「俺の話を聞いていたのか」


「すべて伺いました」


「祝福は保たない」


「保つように縫います」


「触れることもできない」


「触れずに仕立てます」


「失敗すれば、代金は払わない」


「成功しましたら、材料費に加えて、寝台一台分をいただきますわ」


 アルヴィスは初めて、明確に表情を変えた。


「寝台?」


「現在、店の床で眠っておりますので」


「公爵に請求する最初の品が、宝石でも金貨でもなく、寝台か」


「体に合わない寝床は、良い仕事の妨げになります」


 数秒の沈黙のあと、アルヴィスはごく小さく息を吐いた。


 今度こそ、笑ったように見えた。


「いいだろう」


 彼は傷んだ外套の襟を正し、静かに告げた。


「だが、先に言っておく」


 店内の蝋燭が、風もないのに揺れた。


「どんな祝福も、俺の上では一晩と保たずほどける」


 青灰色の瞳が、真っ直ぐにエステルを射抜く。


「それでも、仕立てられるか」


 エステルは青白い針の入った裁縫箱へ手を置いた。


 怖くないと言えば、嘘になる。


 けれど、目の前の男が本当に求めているものは、外套だけではない。


 どうせ無理だと決めつけず、一度だけでも引き受ける人間。


 もしかすると、彼が探しているのは、そんな相手なのかもしれなかった。


「承りました」


 エステルは答えた。


「公爵様に必要な一着を、お仕立ていたします」


 その夜、店の窓辺に飾られていた黄色い花は、すべて枯れていた。


 けれど、裁縫箱の中の青白い針だけは、眠らない星のように光り続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ