第2話 転ばないためのドレス
翌朝、エステルは開店前の店で、箒を握っていた。
店、と呼ぶには、まだ少し勇気がいる。
昨日見つけた路地裏の貸し店舗は、朝の光の下で見ると、夜よりもずっと古びていた。壁紙はところどころ剥がれ、床板は歩くたびにきしみ、奥の小部屋には正体の分からない壺が三つも残されている。
それでも、窓は大きかった。
布の色を見るには十分な光が入り、壁際には糸巻きを並べられそうな棚がある。何より、中央には、昔ここで何かを作っていた者が置いていったらしい、大きな木の台が残っていた。
傷だらけではあるが、裁断台として使える。
「悪くありませんわ」
埃まみれの店内で、エステルは自分に言い聞かせるように呟いた。
家主は、店を借りたいと申し出たエステルを、最初はかなり怪しんだ。
若い娘が一人。貴族らしい言葉遣いをしているくせに、連れている使用人はいない。保証人もおらず、持っている荷物は裁縫箱と着替えだけ。
それでも、三か月分の家賃を先に払うと告げると、家主は何度も銀貨を確かめたあとで、渋々ながら鍵を渡してくれた。
その銀貨で、エステルの手持ちはほとんどなくなった。
布を仕入れるお金も、立派な看板を作るお金もない。
だから今できることは、掃除だった。
床を掃き、窓を磨き、使えそうな棚を拭く。昼前には、店の中から灰色の埃が消え、代わりに古い木と石鹸の匂いが残った。
エステルは入口の扉を開け、昨夜書いた紙を貼った。
『仕立てと繕いもの、承ります』
下手ではないが、看板としては少々寂しい。
「店の名前も必要ですわね」
しかし、良い名前はすぐには浮かばなかった。
母の名前を使うことも考えた。けれど母は、生前、自分の仕事について多くを語りたがらなかった。
王都へ来る前のこと。
誰の服を縫っていたのか。
なぜ、二度と宮廷へ近づこうとしなかったのか。
尋ねても、母はいつも穏やかに笑うだけだった。
『いつか、あなたが自分の店を持つ日が来たら、そのとき自分で名前を決めなさい。店の名前は、縫い手がどんな服を作りたいかを示すものだから』
その言葉を思い出し、エステルは紙の看板を見上げた。
「どんな服を、作りたいか」
昨日の花売りの少女の笑顔が浮かぶ。
痛まずに歩ける靴。
明日を少しだけ生きやすくする服。
それを一言で表せる名前を、いつか見つけたい。
そう考えていると、扉の外で、馬車の車輪が止まる音がした。
この狭い路地に馬車が入ってくるのは珍しい。エステルが顔を上げると、窓の向こうを、上等な外套を着た年配の侍女が横切った。
続いて、薄紫色の帽子をかぶった少女が現れる。
少女は店の紙看板を見上げ、次に、曇りの残る窓の奥を覗いた。
「こちらが、仕立て屋さんですの?」
鈴を転がすような声だった。
年の頃は十五、六。細い肩を縮め、両手で帽子のつばを握っている。
身につけている服は質がよく、襟元には小さな真珠が並んでいた。だが、淡い青のスカートは彼女の足元に合っていない。歩くたびに裾を気にして、何度もつま先を止めている。
「ええ。本日、開店いたしました」
「本日?」
侍女が、露骨に不安そうな顔をした。
「お嬢様。やはり別の店を探したほうがよろしいのではございませんか」
「でも、もう時間がないわ。大通りのお店は、どこも三週間待ちなのでしょう?」
「それは、そうですが……」
少女は迷った末に、店へ一歩入った。
「あの。ドレスを一着、お願いできますか」
「もちろんですわ」
エステルは微笑み、店の中へ二人を案内した。
椅子はまだ一脚しかない。少女へ椅子を勧め、侍女には裁断台の隅へ置いた木箱へ座ってもらうことになった。
あまりにも格好がつかず、エステルは少しだけ頬が熱くなった。
「申し遅れました。私はエステルと申します」
「クララ・メイフェルです。こちらは侍女のマーサ」
メイフェル。
王都で香料の貿易を営む子爵家の名だった。貴族の中では新興だが、近年は王宮への出入りも増えていると聞く。
「どのようなドレスをご希望でしょう」
「転ばないドレスを」
クララは、間を置かずに答えた。
「絶対に、転ばないドレスが欲しいのです」
「お嬢様」
マーサが困ったように眉を下げる。
「仕立て屋に、そのような無理を申しても」
「でも、明後日なのよ」
クララの指が、帽子のつばを強く握った。
「明後日、王宮の春の舞踏会で、私のデビュタントがあります。国王陛下と王妃陛下の前まで歩いて、ご挨拶をしなくてはいけません」
「それで、転ばないドレスを?」
「はい」
クララは深く頷いた。
「裾が足に絡まなくて、階段でもつまずかなくて、誰かにぶつかってもよろけないものを。できれば、足が勝手に正しい場所へ動くようなものがいいです」
注文というより、祈りに近かった。
エステルはクララの足元を見た。
履いている靴は、新品ではない。手入れはされているが、靴底に歩き癖がついている。足が極端に内側へ入るわけでもなく、姿勢も悪くない。
店に入るとき、裾を気にしてはいた。
けれど、それは歩くのが不得手だからというより、何かを警戒しているような動きだった。
「これまで、舞踏会で転んだことがおありですか?」
「いいえ」
「階段で、よくつまずかれる?」
「……いいえ」
「では、なぜ転ぶことが怖いのでしょう」
クララは答えなかった。
マーサが、代わりに口を開く。
「お嬢様は、少し緊張しやすいところがおありなのです」
「少しではないわ」
クララは俯いた。
「人が大勢いるところへ行くと、胸が苦しくなります。息ができなくなって、足が動かなくなってしまうのです」
転ぶのではない。
立ち止まってしまうのだ。
エステルは納得した。
「王宮の舞踏会は、初めてですか?」
「はい」
「何が、一番怖いのでしょう」
「全部です」
クララは小さな声で言った。
「知らない人に見られることも。挨拶を間違えることも。父の商売のことを笑われることも」
メイフェル子爵家は、もとは商人の一族だ。
古い家柄の貴族の中には、それを快く思わない者もいるだろう。
「父は、私のために、王都で一番の仕立て屋へドレスを頼んでくれました。でも、仮縫いの日に、その店にいた令嬢たちが話しているのを聞いてしまって」
「どのようなことを?」
「商人の娘は、王宮の床を歩くより、帳簿の上でも歩いていればいい、と」
マーサが唇を噛んだ。
「先方のお店には、わたくしから抗議いたしました。しかし、お嬢様は、その日から仮縫いに行けなくなってしまわれて」
「父には言えません。きっと、自分のせいだと思うから」
クララは、震える息を吐いた。
「私は、立派に歩かなくてはいけないのです。転んだら、皆が、やっぱり商人の娘だからだと言います。途中で足が止まっても、同じです。だから、絶対に転ばないドレスが欲しいのです」
依頼の言葉と、本当の願いは違う。
転ばないための服が欲しいのではない。
怖くても、歩ききれる服が欲しいのだ。
エステルは立ち上がり、棚から巻き尺を取った。
「承りました」
「本当に?」
「ただし、足が勝手に動くドレスは作れませんわ」
クララの顔が曇る。
「服が、あなたの代わりに王宮を歩くことはできません。ご挨拶をするのも、顔を上げるのも、最後の一歩を踏み出すのも、クララ様ご自身です」
「それでは……」
「けれど、怖くても足を止めずに済むよう、お手伝いをすることはできます」
エステルは裁縫箱を開けた。
青白い針が、窓から差し込む光を受けて、静かに輝いた。
「採寸をさせてくださいませ」
クララは不安そうにマーサを見た。
マーサはしばらくエステルを観察してから、ゆっくり頷いた。
「お願いなさいませ、お嬢様」
「……はい」
採寸を始めると、クララの体が想像以上に強張っていることが分かった。
肩は上がり、胸を測ろうとすると息を止める。腰回りへ巻き尺を回したときには、倒れないよう、床へ足の指を強く押しつけていた。
「楽に呼吸してくださいませ」
「でも、力を抜いたら、お腹が出てしまいます」
「呼吸ができないドレスでは、舞踏会を楽しめませんわ」
「楽しむ……」
クララは、そんなことを考えたこともないような顔をした。
「踊るご予定は?」
「一曲だけ。父と」
「それは、楽しみではありませんか?」
「父は、踊りがあまり上手ではないのです。練習では、いつも私の足を踏みます」
クララの口元が、わずかに緩んだ。
「でも、昨日は三回だけでした」
「上達なさっていますわね」
「最初は十二回でしたから」
二人で笑うと、クララの肩から少し力が抜けた。
エステルはその変化を見逃さず、胸元の寸法を測り直す。
体を締めつける細身の形ではなく、呼吸を妨げない構造にしよう。
スカートは広げすぎず、前裾をわずかに短くする。後ろには軽い布を重ね、歩くたびに流れるように見せる。
「お色は、何色がお好きですか?」
「好きなのは、黄色です。でも、母は、デビュタントには白か水色が上品だと言っていました」
「黄色にも、上品な色はありますわ」
「でも、商人の娘が目立つ色を着たら」
また、他人の目だ。
エステルはクララの瞳を見た。
「クララ様。舞踏会で、一番最初に目を合わせたい方は、どなたですか?」
「父です」
今度は、迷わなかった。
「では、お父様が遠くからでも見つけられる色にいたしましょう」
店にある布は、エステルが自分の服をほどいて持ってきたものと、家主が置いていった端切れだけだった。
幸い、その中に淡い蜂蜜色の絹があった。
大きなドレス一着には足りない。けれど、生成りのモスリンと組み合わせれば、春の陽射しのような色になる。
エステルは布をクララの胸元へ当てた。
「まあ」
マーサが声を上げた。
クララの顔色が、明るく見えた。
華やかではあるが、派手すぎない。蜂蜜色の絹を胸元と裾へ使い、生成りの布を重ねれば、王宮の灯りの下でも柔らかく映えるだろう。
「これが、いいです」
クララは布へそっと触れた。
「これを着たいです」
「では、明日の夕方に仮縫いを。明後日の朝までに仕上げます」
「そんなに早く?」
「初めてのお客様ですもの」
それに、今のところ他に注文はない。
そのことは、言わずにおいた。
クララたちが帰ったあと、エステルはすぐに布を裁ち始めた。
時間はほとんどない。
生成りのモスリンは、以前、自分の夏服に使おうと取っておいたものだった。蜂蜜色の絹は端切れが多く、広い面には使えない。何度も型紙を置き直し、布を無駄にしない形を探す。
日が暮れても、針を止めなかった。
胸元には柔らかな芯を入れ、深く息を吸っても苦しくないよう余裕を持たせる。裾の内側には細い紐を縫い、歩くたびに布が足元から自然に離れるよう工夫した。
ただ転ばないだけなら、裾を短くすればよい。
けれどクララが欲しいのは、短い裾ではない。
大勢に見られても、父のところまで歩いていける勇気だ。
エステルは青白い針へ、蜂蜜色の糸を通した。
祝福は、曖昧な願いでは宿らない。
幸せになりますように。
成功しますように。
皆に認められますように。
そんな広すぎる願いを、針は受け取らない。
誰のために、どんなときに、どうあってほしいのか。
縫い手がそれを思い描けたときだけ、糸は力を持つ。
「怖くても、足が止まりませんように」
エステルは一針ずつ、裾へ願いを縫い込んだ。
「お父様が待つ場所まで、ご自分の足で歩いていけますように」
最後の一針を留めた瞬間、蜂蜜色の糸が淡く光った。
光は裾を一周し、すぐに消える。
祝福が、宿った。
翌日の夕方、仮縫いに来たクララは、鏡の前で何度も息を吸った。
「苦しく、ありません」
「歩いてみてくださいませ」
クララは店の端から端まで歩いた。
一歩ごとに、生成りの裾がふわりと足元から離れる。蜂蜜色の布は陽射しのように揺れ、彼女の歩みを明るく見せた。
「足が、軽いです」
「足そのものが軽くなったわけではありませんわ」
「でも、昨日より、怖くありません」
クララは鏡の中の自分を見つめた。
やがて、そっと胸へ手を当てる。
「心臓の音も、少し静かな気がします」
「祝福は、恐怖を消してはくれません」
エステルは、背中の留め具を直しながら言った。
「けれど、怖さより先に、歩くことを思い出させてくれます」
「祝福……?」
しまった、とエステルは思った。
貴族の中には、衣服に宿る祝福を知る者もいる。だが、それは教会や王室の認可を受けた、高位の仕立て師だけが扱えるものだとされている。
母は、人前でむやみに使わないよう言っていた。
けれど、もう遅い。
クララは裾を持ち上げ、内側の蜂蜜色の糸を見た。糸は今は普通の光沢を返しているだけだ。
「このドレスには、祝福があるのですか?」
エステルは少し迷い、正直に頷いた。
「ほんの小さなものです」
「転ばない祝福?」
「いいえ」
エステルはクララの目を見た。
「怖くても、足を止めないための祝福です」
クララはしばらく黙っていた。
そして、鏡に映る自分へ向かって、一歩を踏み出した。
もう一歩。
店の狭い床を、王宮の広間であるかのように、真っ直ぐ歩く。
最後に裁断台の前で止まると、クララは背筋を伸ばし、深く礼をした。
「クララ・メイフェルと申します」
声は少し震えていた。
けれど、足は止まらなかった。
「明日も、できるでしょうか」
「できますわ」
「祝福があるから?」
「いいえ」
エステルは微笑んだ。
「今、ご自分でできましたから」
舞踏会の翌日の昼過ぎ、店の扉が勢いよく開いた。
「エステル様!」
駆け込んできたクララは、蜂蜜色のドレスを着たままだった。
裾に少し皺が寄り、髪飾りも傾いている。けれど、その顔は輝いていた。
「歩けました。王妃陛下の前まで、ちゃんと!」
「まあ」
「途中で胸が苦しくなりました。でも、裾が揺れるのを見たら、父が待っているのを思い出したのです。それで、最後まで歩けました」
後ろから入ってきたマーサが、息を切らしながら笑っている。
「旦那様との踊りも、無事に一曲を終えられました」
「父は、五回も私の足を踏みましたけれど」
「増えてしまいましたわね」
「緊張していたみたいです」
クララは楽しそうに笑った。
「でも、私、少しも嫌ではありませんでした」
そのとき、蜂蜜色の裾から、一本の糸がほどけた。
するり、と布の間を抜け、床へ落ちる。
続いて、淡い光が裾を一周した。
祝福が役目を終えたのだ。
「あっ」
クララが慌てて裾を持ち上げる。
「壊れてしまったのですか?」
「いいえ」
エステルは床へ落ちた糸を拾い、指先へ巻いた。
「役目を終えた祝福は、糸に戻るのです」
「もう、転ばないようにはしてくれない?」
「次に歩くときは、ご自分の力で歩けますから」
クララは名残惜しそうに裾を撫でた。
けれど、やがて納得したように頷く。
「では、このドレスは、普通のドレスになったのですね」
「ええ」
「それでも、ずっと大切にします」
クララは持ってきた小さな包みを、裁断台の上へ置いた。
中には、代金の銀貨と、黄色い花を刺繍したハンカチが入っていた。
「お店の最初のお客様になれた記念です」
「こちらの刺繍は、クララ様が?」
「はい。あまり上手ではありませんけれど」
黄色い花は、少し形が歪んでいた。
けれど、昨日の蜂蜜色のドレスによく似た、温かな色をしている。
「ありがとうございます」
エステルは心から言った。
クララが帰ったあと、エステルは紙の看板の横へ、黄色い花のハンカチを飾った。
最初の仕事を終えた店は、昨日よりも少しだけ、仕立て屋らしく見えた。
裁断台の上には、役目を終えた蜂蜜色の糸が一本。
窓辺には、花売りの少女からもらった黄色い花。
そして、エステルの手の中には、初めて仕事で得た銀貨があった。
「これで、新しい布を買えますわ」
嬉しくなって、声に出す。
その日の夕方、エステルは入口の紙看板へ、一行を書き加えた。
『あなたが、本当に必要としている一着を』
店の名前は、まだ決まっていない。
それでも、どんな服を作りたいかは、少しずつ見えてきた。




