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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき


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第1話 あら、それでしたら遠慮なく

「針仕事で日銭を稼ぐような令嬢を、妻には迎えられない」


 春の午後、王都でも指折りの格式を誇るレストン伯爵邸の応接間で、エステル・ラヴィニアは婚約者からそう告げられた。


 窓辺には白い薔薇が飾られ、磨き抜かれた銀の茶器には、まだ湯気が立っている。婚約を結んだ二年前から何度も訪れた部屋だったが、今日に限っては、何もかもが妙によそよそしく見えた。


 向かいの長椅子に座る婚約者、フィリップ・レストンは、罪悪感を隠すように顎を上げている。その隣には、淡い桃色のドレスをまとった若い令嬢がいた。フィリップの従妹で、最近になって王都の社交界に姿を見せ始めたという女性だ。


 なるほど、とエステルは思った。


 婚約解消の理由など、最初から決まっている。


 没落した男爵家の娘よりも、裕福な家の令嬢を妻にしたい。それだけのことだ。


「君の家には、もう領地も財産もほとんど残っていない。父上はこれまで目をつぶってくださっていたが、先日、君が貴族夫人の衣装を繕って代金を受け取ったと知って、とうとうお怒りになった」


「まあ。あの奥様、きちんとお支払いくださったのですね」


「そこではない!」


 フィリップが机を叩くと、銀の匙が小さく跳ねた。


「貴族の娘が、金のために針を持つなど恥だと言っているんだ。しかも君は、使用人の繕い物まで引き受けているそうじゃないか」


「破れた服をそのままにはできませんもの」


「だから、そういうところだ!」


 叱られているはずなのだが、エステルにはどうにも腑に落ちなかった。


 服が破れれば縫う。寸法が合わなければ直す。寒い人には温かな布を、長く歩く人には足を邪魔しない裾を仕立てる。それは亡き母から教わった、当たり前の仕事だった。


 母は平民の生まれだったが、布に触れる指は誰よりも美しかった。


『服はね、エステル。人を飾るためだけにあるのではないの。その人が明日を生きやすくなるように、ほんの少し手を貸すものなのよ』


 そう言って笑う母の横顔を、エステルは今でもよく覚えている。


 男爵家が傾き、屋敷の家具が一つずつ売られていっても、母の形見の裁縫箱だけは手放さなかった。中に残っているのは、古びた銀の指ぬきと、糸切り鋏。そして、青白い光を宿す細い針が一本。


 その針で縫った服には、ときどき、ささやかな不思議が宿る。


 けれど、そのことをフィリップに話したことはなかった。話しても、きっと信じなかっただろう。


「エステル。君のためでもあるんだ」


 フィリップは声を落とし、いかにも思いやり深い顔を作った。


「今なら、婚約解消の責任はすべて君の家の困窮にあることにしてやれる。余計な噂が立つ前に、田舎へ戻るといい。慎ましく暮らせば、食べていくくらいはできるだろう」


 食べていくくらい。


 その言葉を聞いたとき、エステルの胸の奥で、何かがぷつりと切れた。


 悲しみではなかった。


 むしろ、長くきつく結ばれていた紐が、ようやくほどけたような感覚だった。


 婚約者の家にふさわしい娘であるために、針仕事を隠した。擦り切れた袖を直しても、誰にも見つからないようにした。屋敷の使用人が困っていても、表向きには手を貸せなかった。


 けれど、もうその必要はないのだ。


 エステルは静かに紅茶のカップを置き、にっこりと微笑んだ。


「あら、それでしたら遠慮なく」


「……何?」


「婚約を解消いたしましょう」


 フィリップは、予想していた反応と違ったのだろう。しばらく口を開けたまま、何も言えずにいた。


「いや、待て。君は意味を分かっているのか。レストン家との婚約がなくなれば、君を援助する家は——」


「必要ありませんわ」


「だが、どうやって暮らすつもりだ」


 エステルは膝の上に置いていた小さな鞄へ手を添えた。中には、母の裁縫箱が入っている。


「お店を持ちます」


「店?」


「仕立て屋です。小さくても構いません。私の針で、着る人が少しだけ笑える服を縫いますわ」


 桃色のドレスの令嬢が、思わずといった様子で目を丸くした。フィリップは、とうとう言葉を失った。


 エステルは立ち上がり、二年間預かっていた婚約指輪を机の上へ置いた。小さな音を立てて転がった指輪は、白い薔薇の影の中で止まった。


「これまでお世話になりました、フィリップ様」


「エステル!」


「どうぞ、お幸せに」


 背中に声が追いかけてきたが、エステルは振り返らなかった。


 伯爵邸の重い扉を抜けると、午後の風が頬を撫でた。空は青く、通りには焼きたてのパンと花の匂いが混じっている。


 自由とは、こんなにも軽いものだったのか。


 そう思って歩き出したものの、三つ目の角を曲がったところで、エステルは足を止めた。


「……さて」


 店を持つ、と勢いよく宣言した。


 しかし、手元にあるのは母の針と、古い裁縫道具。そして、屋敷を売った残りから父が分けてくれた、わずかな銀貨だけである。


 立派な店どころか、表通りの貸し部屋さえ借りられそうにない。


「少し、言い切りすぎたかしら」


 けれど、不思議と後悔はなかった。


 エステルが王都の通りを歩いていると、広場の端から、幼い泣き声が聞こえてきた。


 石段のそばに、十歳くらいの少女が座り込んでいる。足元には色とりどりの花を入れた籠があり、履き古した靴の踵には赤い血がにじんでいた。


「どうなさいましたの?」


 エステルがしゃがんで尋ねると、少女は驚いたように顔を上げた。頬には涙の跡がついている。


「お花を売り切らないと、帰れないの。でも、靴が痛くて……」


 よく見ると、靴は少女の足よりひと回り大きく、革も固い。歩くたびに踵が擦れてしまうのだろう。


「少し見せてくださいな」


 エステルは鞄から清潔な布を取り出し、傷口へそっと当てた。それから少女の靴を脱がせ、内側を確かめる。


 直すには、新しい革も中敷きも足りない。


 けれど、今日一日、少女が歩けるようにするだけなら。


 エステルは帽子に結んでいた青いリボンをほどいた。母が好きだった、夜明け前の空のような色だ。


「これ、切ってもいい?」


「でも、お姉さんのきれいなリボン……」


「今は、あなたの足のほうが大切ですわ」


 裁縫箱を開き、青白い針へ糸を通す。リボンを二つに切り、靴の内側へ柔らかな当て布になるよう折り込んでいく。


 針を刺すたび、エステルは少女の足を思った。


 たくさん売れますように、ではない。


 花が高く売れますように、でもない。


 この子が痛みをこらえず、家まで自分の足で帰れますように。


 今日の残り道を、怖がらずに歩けますように。


 最後の一針を縫い終えた瞬間、青い糸がかすかに光った。


 ほんの一瞬。日差しの反射と見間違えるほどの、小さなきらめきだった。


「さあ、履いてみて」


 少女が恐る恐る足を入れ、立ち上がる。


 一歩。


 二歩。


 広場の石畳を歩いた少女は、やがて目を大きく見開いた。


「痛くない」


「本当?」


「うん。全然、痛くない!」


 少女はその場で跳ね、それから慌てて花籠を抱えた。先ほどまで泣いていた顔に、春の陽射しのような笑みが広がる。


「ありがとう、お姉さん!」


「どういたしまして。けれど、傷が治ったわけではありませんから、無理は禁物ですわ。売れ残ったら、今日はそれで帰ること。いいですね?」


「うん!」


 少女は元気よく頷いたが、数歩進んだところで戻ってきた。籠から一輪の黄色い花を選び、エステルへ差し出す。


「これ、お代」


「まあ。いただいても?」


「うん。いちばん元気な花だから」


 エステルは花を受け取った。


 小さく、名も知らない野の花だった。けれど、婚約指輪よりもずっと温かく、手のひらに馴染んだ。


「ねえ、お姉さん。仕立て屋さんなの?」


 少女に尋ねられ、エステルは少しだけ迷った。


 まだ店はない。看板も、布も、客もない。


 けれど、針はある。


 縫いたいものも、もう決まっている。


「ええ」


 エステルは胸を張った。


「今日から、仕立て屋ですわ」


 少女は嬉しそうに笑い、今度こそ広場の人波へ駆けていった。青いリボンを縫い込んだ靴は、少女の足を一度ももつれさせなかった。


 やがて人混みの向こうから、明るい声が響く。


「お花はいかがですか! 春のお花ですよ!」


 エステルは黄色い花を鞄へ挿し、歩き出した。


 表通りでなくてもいい。古い建物でも、狭い部屋でも構わない。


 誰かの言葉にならない願いを聞き取り、それを一着の服へ縫い込む。


 そんな店を作ろう。


 その日の夕暮れ、エステルは王都の西側にある路地裏で、長く空き家になっていた小さな店舗を見つけた。


 傾いた看板。曇った窓。扉には「貸し店舗」の札。


 決して立派ではない。


 けれど、窓辺には午後の光が入り、奥には大きな裁断台を置けそうな空間があった。


 エステルは扉の前に立ち、母の針が入った鞄を抱きしめる。


「ここから始めましょう、お母様」


 返事の代わりに、路地を抜けた風が、鞄の黄色い花を小さく揺らした。


 こうして、没落令嬢エステル・ラヴィニアの仕立て屋は始まった。


 まだ、店の名前すら決まっていなかったけれど。

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