第48話 残った糸の行き先
婚礼二日前の朝、ニナは子ども用の上着へ最後のボタンを付けていた。
昨日、背中の薄くなった部分へ広めの当て布を入れ、袖口も縫い直した。今日は木ボタンを一つ付け直し、全体をもう一度確認すれば終わる。
エステルは向かい側で作業帳を整理しながら、時々だけ手元を見る。
「糸、引きすぎていませんか?」
「大丈夫。昨日より少しゆるくしてる。子どもの服だから、前みたいに硬くしないんでしょ?」
「ええ。ボタンだけ丈夫に付いていても、その周りの布が引かれたら意味がありません。糸が切れないことより、服全体が長く使えるほうが大切です」
「分かってる。だから、ここも少し余裕を残した」
ニナがボタンの根元を見せる。
きっちりと布へ押し付けず、糸足をほんの少しだけ残してある。
「よいと思います」
「また急に褒める」
「もう慣れてください」
「エステルのほうが諦めた」
「弟子に合わせました」
「それ、師匠っぽい」
「師匠ですから」
「また自分で言った」
二人で笑う。
昨日まで裁断台を占めていた王女の婚礼衣装は、もう王室衣装室へ納められている。
その代わり、今日は薄茶色の子ども服と、近所から預かった二件の繕い物が並んでいる。
王女の白絹がなくても、店はちゃんと店だった。
「これ、終わったらお客さん来る?」
「午前中に取りにいらっしゃる予定です。仕上げの説明はニナがしてください」
「わたしが?」
「見立ても、背中の補強も、袖口も、ほとんどニナが担当しました。なら、何を直したかも自分で説明できるでしょう」
「でも、相手はお母さんだよね」
「はい」
「子ども本人じゃない」
「だからこそ、動きやすさのことまで説明してください」
「何て言う?」
「そこは自分で考えてください」
ニナは少しだけ不満そうに眉を寄せた。
「弟子って、答え教えてもらえるんじゃないの?」
「全部教えていたら、私がいないとき何もできなくなります」
「昨日みたいに?」
「昨日は店を任せましたね」
「ちょっと怖かったけど、誰も変な人来なかった」
「公爵様は?」
「来た」
エステルの手が止まる。
「いらしたのですか?」
「うん。エステルいないって言ったら、『知ってる』って」
「ユリウス様から聞いていたのでしょうか」
「たぶん。お茶出した」
「ありがとうございます」
「ちゃんと飲んだよ。何も持ってこなかったけど」
「それは毎回何か持ってくるわけではありませんから」
「でも、しばらく座ってた」
「何をなさっていたのです?」
「書類読んでた。あと、子どもの上着見てた」
「なぜ」
「『これは誰の仕事だ』って聞かれたから、わたしって言った」
「それで?」
「『そうか』って。それだけ」
「公爵様らしいですわね」
「でも帰るとき、『丁寧だな』って言った」
ニナが少し得意そうな顔をする。
「それはよかったですね」
「もっとびっくりして」
「なぜです?」
「公爵が褒めた」
「最近は褒めます」
「エステルだけじゃなく?」
「……それはどういう意味でしょう」
「顔」
「禁止です」
「まだ言ってない」
「言う前でした」
ニナは笑いながら最後の糸を切った。
「終わった」
「では検品を」
「もうした」
「私の確認も」
「やっぱり」
「弟子の仕事を信用していないのではありません。二人で見る意味があります」
「分かってる。王女様の服もそうだった」
「はい」
エステルは上着を受け取る。
袖口。背中。ボタン。裏側。表へ返す。
「問題ありません」
「ほんと?」
「はい。よい仕上がりです」
「前置きなし」
「もう必要ないと昨日言われましたので」
「言ったっけ」
「言いました」
「じゃあいい」
ニナは嬉しそうに上着を畳んだ。
王女の婚礼衣装へ一針入れたあとでも、こうして子どもの服を縫う。
それでいい。
むしろ、そのほうがエステルは好きだった。
王宮の服だから大切なのではない。
着る人がいるから大切なのだ。
午前の客が来たのは、それから半刻ほどあとだった。
上着の持ち主の母親は、まだ若い女性だった。隣には七つか八つほどの男の子がいる。
「直りましたか?」
「はい。袖口だけでなく、背中も少し薄くなっていたので補強しました。今回はニナが担当しておりますので、説明も本人から」
突然振られ、ニナの肩が少し上がる。
でも逃げなかった。
「背中、破れてはいなかったけど、このまま着ると広く裂けそうだったので、裏から薄い布を当てました。厚くすると動きにくいから、同じくらいの柔らかさの布です。袖口も硬くならないように、前より少しゆるく縫ってあります」
母親が驚いたように上着を見る。
「そんなところまで見てくれたの?」
「はい。あと、ボタンも根元を少し浮かせてあります。子どもが自分で掛けやすいと思うので」
男の子がすぐに上着を着る。
腕を曲げ、伸ばす。
「動く」
「きつくない?」
「うん」
「背中は?」
「平気」
ニナは少しだけ安心したように息を吐く。
「よかった」
母親が笑う。
「ありがとう。前より着やすそう」
ニナは一瞬だけエステルを見る。
エステルは何も言わない。
自分で返す。
「ありがとうございます。また何かあったら持ってきてください」
少しだけぎこちない。
でも十分だった。
客が帰ったあと、ニナは扉を閉めるなり振り返った。
「今のでよかった?」
「とてもよかったです。何を直したかだけでなく、なぜそうしたかまで説明できていました」
「緊張した」
「見えませんでしたよ」
「うそ」
「少しだけ」
「やっぱり」
「でも、お客様には困っているようには見えなかったと思います」
ニナは自分の指を見た。
「これも仕事?」
「もちろんです。縫うだけが仕立て屋の仕事ではありません」
「じゃあ、説明も練習する」
「はい。ただし、長くなりすぎないように」
「エステルが言う?」
「何です?」
「最近、話長い」
エステルが止まる。
「……短すぎるよりはよいかと」
「誰かに言われた?」
「何でもございません」
「顔」
「禁止です」
昼前、王宮から二通の書状が届いた。
一通はセラフィーネから。ヴィオラが仕立てた晩餐衣装の納品が終わったため、明日、婚礼本番前の最終衣装確認を行うという連絡。
もう一通はユリウスからだった。
『旧染め庫採取試料について、第一段階の鑑定結果が出た。
黒色残留物は、サビーネ・クロル作成の奪い糸に使用された染料組成と高い一致。
ただし、採取地点の年代特定は未了。
淡青糸は旧王室衣装室の祝縫い用補助糸と一致。
リディア・ラヴィニア個人使用品との特定には至らず。
白絹繊維については、十年前の王太子妃婚礼衣装保管品との比較を申請中。』
エステルは最後まで読み、もう一度最初へ戻った。
「黒いやつ、本物?」
ニナが横から覗く。
「奪い糸に使われた染料と、かなり近いそうです」
「じゃあ、あの場所で黒い糸作った?」
「そこまでは言えません。染料だけが付いた可能性もありますし、年代もまだ分かっていません」
「でも近い」
「はい。かなり」
「青い糸は?」
「王室衣装室で使っていた祝縫い用の補助糸。ただ、母だけが使う糸ではないそうです」
「また決められない」
「それが調査です」
「白い布は?」
「十年前の婚礼衣装の保管品と比較するそうです」
「保管品って、まだある?」
「表側の証拠衣装は残っています」
「じゃあ、同じ布だったら」
「裏身頃の一部だった可能性が、かなり高くなります」
ニナは少し黙った。
「お母さん、本当に外したのかな」
「まだ分かりません」
「でもエステル、そう思ってる?」
以前なら、母がしたのだとすぐ思ったかもしれない。
でも今は違う。
「そうだった可能性は高いと思っています。ただ、母が外したのか、別の人が外したのかは分かりません。そこを同じにしてはいけません」
「分けるんだ」
「はい。何があったかと、誰がやったかを」
「難しい」
「でも大事です」
ニナは頷いた。
「それ、エドガーさんもそうだった」
「はい。名前が出たからといって、したことまで決めない」
「ガストンも?」
「もちろん」
「怪しいけど」
「怪しいことと、犯人であることは違います」
「分かった」
そこへ入口の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
ニナが先に声を出す。
扉を開けたのはアルヴィスだった。
「今日はいる」
「昨日はいませんでしたから」
「知ってる」
ニナが笑う。
「昨日と同じ」
「何が」
「『知ってる』って」
「他に言いようがある?」
アルヴィスはいつもの椅子へ座る。
「今日は仕事?」
「少し休憩」
「公爵も休むんだ」
「人間だからな」
「たまに忘れる」
「何だと思ってる」
「公爵」
「答えになってない」
エステルが茶を用意する。
「昨日、店番中のニナを褒めてくださったそうですね」
アルヴィスが少しだけニナを見る。
「言った?」
「言った」
「別に隠すことじゃない」
「ありがとうございます。本人も嬉しそうでした」
「エステル!」
「事実でしょう」
「それ今言う?」
アルヴィスが少し笑う。
「ちゃんと見てた。あの上着、裏の当て布が広かった」
「そこまで?」
「表だけ直して終わりにしてない」
「うん」
「いいと思う」
ニナは今度こそ少し顔を赤くした。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
エステルは茶を置いた。
「公爵様も、昨日は普通に店で待っていらしたそうですね」
「待ってない。休んでただけだ」
「一刻近く?」
ニナ。
「書類を読んでた」
「店で?」
「静かだったから」
「公爵邸より?」
「日による」
エステルは少しだけ困る。
「当店を執務室代わりになさらないでくださいね」
「駄目?」
「駄目とは申しませんが」
「じゃあいい」
「そこまで簡単に決められると困ります」
「顔」
「読まないでください」
ニナが笑う。
少しして、アルヴィスは机の上の書状に気づいた。
「結果?」
「旧染め庫の」
「聞いていい?」
「もちろん」
エステルは書状の内容だけ説明する。
「黒い痕跡は、奪い糸に使われた染料と高い一致。淡青糸は旧王室衣装室の祝縫い用補助糸。ただし、母個人のものとは特定できません。白絹は、十年前の婚礼衣装保管品と比較中です」
アルヴィスの顔から笑いが消える。
「黒は本物に近い。裏身頃札のそばで、俺の傷ができた日と同じ婚礼のもの」
「はい」
少し沈黙する。
「また旧染め庫へ行く?」
「今は行きません。次に私が見る意味があるものが出るまで、試料鑑定を待ちます」
「そうか」
「驚きません?」
「昨日ユリウスから聞いた。待てるようになったって」
「また広がっている」
「いいことだろ」
「皆様に言われ続けると、少し複雑です」
「前はできなかった?」
「……かなり」
「なら、変わった。でも無理して待ってる顔じゃない」
エステルが見る。
「分かります?」
「少し」
「顔で?」
「それも」
「困りますわ」
「じゃあ見るなって?」
「そこまでは」
「ならいい」
最近、このあたりが少し近い。
でも、まだ触れない。
「公爵様。婚礼まで二日です」
「知ってる」
「殿下の衣装は王室管理へ移りました。もう私の手元にはありません」
「寂しい?」
昨日、ニナにも聞かれた。
「少しだけ。でも、今はそれでよいと思っています」
「渡すために作ったから?」
「はい」
「俺の外套も?」
「公爵様の外套も同じです。役目が終わっても、直してまた着られるなら直します」
「祝福はほどけても、服は残る」
「はい」
「それ、今度の婚礼衣装と同じだな。外裾を外しても、本体は残る」
エステルは少し驚いた。
「そうですね。役目が終わっても、全部なくす必要はありません」
「最近、そういうのは分かる」
「公爵様も、受け取る話をなさるようになりましたね」
「そう?」
「以前は、服そのものより先に『必要ない』とおっしゃることが多かったです」
「今も必要ないものは要らない。でも、必要なら受け取る……たぶん」
即答ではない。
でも拒まない。
「それでいいと思います」
「服の話?」
「全部です」
「広いな」
「最近、少し広く考えるようになりました」
「成長?」
奥からニナ。
「禁止!」
エステルが先に言う。
三人で笑った。
アルヴィスが帰る少し前、入口でまた鈴が鳴った。
今度はサビーネだった。
「まだいたの、公爵」
「悪いか」
「別に。ちょうどいい。黒い痕跡の話、聞いた?」
「今」
サビーネは杖を壁へ立てかけ、エステルが出した椅子へ腰を下ろす。
「先に言っておくけど、『染料が同じだから、あそこで奪い糸を作った』って決めるのは早いよ」
「ユリウス様の書状にも、年代未了とありました」
「そこ。染め場ってのは、色が残る。昔の作業が石へ染みついて、何年もあとに移ることだってある」
「では、黒い痕跡が十年前のものとも限らない?」
「限らない。でも無意味でもない。王太子妃の裏身頃札と、同じ場所に奪い糸系統の染料が残ってる。調べる価値は十分ある」
アルヴィスが腕を組む。
「淡青糸は?」
「王室で祝縫いに使ってたもの。リディアも使ってたけど、あの糸だけでリディアとは言えない」
「エステルも同じこと言ってた」
「なら、今度はちゃんと待ててるね」
「サビーネ様」
「禁止だった?」
「はい」
「面倒な店になった」
ニナが笑う。
「でも」
サビーネの顔から少し笑いが消える。
「白絹の比較が一致したら、話は一段変わる」
「なぜです?」
「染料や糸は移る。でも布の織り方まで偶然同じになる可能性は低い。まして王太子妃の婚礼衣装は、使った反物の記録が残ってる」
「同じ反物から取られたと分かれば」
「旧染め庫に婚礼衣装の一部が来た可能性が高くなる」
「それが、なぜ来たか」
「そこが次」
サビーネはエステルを見る。
「もしリディアが外したなら、何かを守るためだった可能性はある。でも、誰かが証拠を隠すために外した可能性もある」
「はい」
「母親に都合のいいほうだけ選ばない?」
昔なら。
少し。
痛かった。
今も。
痛い。
でも。
「選びません。母がしたことなら、母がしたこととして見ます。別の人なら、その人を見ます」
サビーネはしばらくエステルの顔を見て、それから小さく頷いた。
「ならいい」
「褒めないのですか」
「褒めてほしい?」
「今日は少しだけ」
「公爵みたいになったね」
「なぜ皆様そこへ戻るのです」
アルヴィスが横から言う。
「俺を巻き込むな」
「でも公爵、前より褒める」
ニナ。
「お前まで」
サビーネが笑う。
「じゃあ一つだけ。昨日、あの槽を見てすぐ触らなかったのは正解だった。黒い色は魔術反応がなくても、何と混ざってるか分からない」
「それはユリウス様に止められて」
「止められて止まれるのも大事」
エステルは少しだけ苦笑した。
「ありがとうございます」
「素直になった」
「それも禁止にします?」
「そこまで増やすな」
アルヴィスが呆れたように言う。
三人の会話を聞いていたニナが、急に真面目な顔になる。
「サビーネさん。黒い糸って、全部同じなの?」
「何が?」
「奪い糸。一本作ったら、ずっと同じ?」
「違う。濃さも、混ぜた残りも、用途も違う。あんたが縫う糸だって、太さ変えるでしょう」
「うん」
「だから、旧染め庫の黒い痕跡が奪い糸系統でも、ロデリックの袖に使われたものや、返礼室に残ってたものと同じ一本とは限らない」
「じゃあ、比べる?」
「もちろん。染料の配合、煤の量、媒染の癖。残ってれば見える」
「サビーネ様なら」
「昔の自分の仕事なら、嫌でも分かる」
最後だけ、声が少し低かった。
エステルは無理に言葉を足さなかった。
サビーネが作らされた奪い糸。
それを調べることは、彼女自身の過去を一つずつ開くことでもある。
「結果が出ましたら」
エステルが言う。
「一緒に見ていただけますか」
「見るよ。今度は逃げない」
「ありがとうございます」
「それも受け取っとく」
アルヴィスが少しだけ笑う。
「みんな受け取るようになったな」
「公爵のせい」
サビーネ。
「俺?」
「店にうつした」
「悪いことみたいに言うな」
「悪くない」
ニナの指が上がる。
「一回」
「俺じゃないだろ!」
今度はサビーネまで笑った。
午後、アルヴィスとサビーネがそれぞれ帰ったあと、店は少し静かになった。
ニナは次の預かり物を見ている。
「これ、わたし見立てする?」
「お願いします」
「エステルは?」
「王室へ一度行きます。ヴィオラ様の晩餐衣装の納品記録を、明日の最終確認前に見せていただけるそうです。婚礼衣装との動作差を確認したいので」
「競争終わってるのに?」
「だからこそです。晩餐では別の動きが必要ですから」
「王女様、食べるとき腕上げるってやつ?」
「はい。ヴィオラ様がずっと袖で悩んでいました」
「見たい」
「店は?」
「……行きたい」
「どちらです?」
「行く。今日はベッシーさんにお願いする」
「自分で交渉してください」
「弟子だから?」
「店を任せる練習です」
「また仕事増えた」
「給金に含みます」
「じゃあやる」
結局、午後は二人で王宮へ向かった。
ヴィオラの晩餐衣装は、婚礼衣装とはまったく違う。
濃い青灰に、銀の細い飾り。
外裾は短く、座ることと食事、それから踊ることを優先している。
「きれい」
ニナが素直に言う。
「でしょう」
ヴィオラが胸を張る。
「でも袖、普通に見える」
「普通に見せたから」
「何かある?」
「中」
袖裏を見せる。
肘の内側へ細いまち。肩にはわずかな遊び。
「腕を上げると、ここで逃がす」
「食べるとき?」
「そう」
「王女様、そんなに上げる?」
「上げる」
横からセラフィーネ。
「よく食べるから」
「セラフィーネ!」
入ってきたリュシエンヌが声を上げる。
「聞こえています」
「事実です」
「婚礼前にそれ言う?」
「食べない王女よりよいでしょう」
「それはそうだけど」
王女は晩餐衣装を見る。
「できた?」
「できた。今日は着る?」
「着る。婚礼衣装は明日でしょう?」
「そう」
「なら今日はこっち」
ヴィオラが着せる。
腕を上げる。
肘。
肩。
問題なし。
「これなら食べられる」
「最初にそこ?」
「大事」
「踊るほうは?」
「それも大事。でもお腹空いたら踊れない」
「順番が」
「私の順番」
ヴィオラが笑う。
「そこが好き」
「何が?」
「勝手なところ」
「褒めてる?」
「かなり」
エステルも少し笑う。
「エステル」
「はい」
「婚礼衣装、もう私のところにある」
「はい。昨日、納品しましたから」
「箱の中見た」
「着てはいませんよね?」
「セラフィーネが駄目って言うから着てない。でも灰青の裏地はちょっと見た」
「殿下」
「触ってない」
「それなら」
「店で見てた服が王宮の箱に入ってるの、変な感じだった」
ニナが小さく頷く。
「わたしも。店からなくなったら、忘れ物したみたいだった」
「ニナも?」
「うん。ちょっと寂しかった」
王女が少し嬉しそうに笑う。
「私も、まだ着てないのに自分の服って感じがしてきた」
エステルの胸が少し温かくなる。
「それなら、納めた甲斐がございます」
「婚礼が終わったら持っていくからね」
「申請は?」
「通った」
「早いですね」
「王女だから」
セラフィーネがすぐ訂正する。
「手続きをしたからです」
「そうとも言う」
晩餐衣装の動作確認は問題なし。
ヴィオラは満足そうだった。
「エステル、どう?」
「とてもよいと思います。特に、袖を広げずに内側で動きを逃がしているところが。見た目を変えず、必要な動きだけ増やしています」
「でしょう」
「悔しい?」
「少し」
「私も」
ヴィオラが笑う。
「ならいい。競争相手」
「もう別の服ですのに」
「それでも」
違う仕立て師。
違う答え。
でも互いに見る。
それでよかった。
王宮を出る前、ユリウスとまた会った。
「ちょうどよかった」
「今日はよく会いますね」
「結果が一つ追加で出ました」
「白絹?」
「はい。暫定比較ですが、旧染め庫の白絹繊維は、保管されている十年前の王太子妃婚礼衣装と、織り密度、絹糸の撚り、漂白処理が一致しました」
ニナが息を呑む。
「じゃあ、同じ服?」
「同じ反物から取られた可能性が非常に高い」
「婚礼衣装の一部だった可能性は、かなり高くなりましたね」
エステル。
「はい」
「裏身頃札も同じ場所。でも、誰が外したかはまだ分からない」
「そのとおりです」
ユリウスはさらに紙を出した。
「そして、保管されている証拠衣装の裏身頃について、十年前の鑑定記録を読み直しました」
「何かありました?」
「右側だけ、別布です」
エステルが止まる。
「別布?」
「事故後の応急修繕と記録されています。ただし、誰が修繕したかの記載がない」
「母の縫い目かどうか」
「明日、現物を見て確認してほしい」
「今からでは?」
「証拠庫は閉鎖時刻が近い。今日は動かしません」
行きたい。
かなり。
でも。
「分かりました。明日、婚礼衣装の最終確認が終わってから見ます」
ニナが見る。
「今行かない?」
「行きません」
「ほんとに」
「明日です」
「成長」
「禁止です」
ユリウスが少し笑う。
「では明日。証拠衣装は動かさず、証拠庫内で見てもらいます」
「お願いします」
「それから、アルヴィスには今日は知らせません」
「なぜ?」
「婚礼前の王宮警備会議に入っています。今夜は休ませたい」
エステルは少し驚く。
「ユリウス様が?」
「公爵を休ませるのも仕事です」
「それは、とてもありがたいです」
「任されました」
王宮を出る。
ニナが隣を歩く。
「明日、新しい婚礼衣装見て、そのあと十年前の婚礼衣装も見るんだね」
「そうなります」
「同じ王宮で」
「はい」
「比べる?」
エステルは少し考える。
「比べるというより、残り方を見ることになると思います」
「残り方?」
「今度の服では、着る方の希望も、誰がどこを縫ったかも、全部記録に残しました」
「うん」
「十年前の服は、それが抜けている」
「名前も」
「はい」
「じゃあ、今度の服は同じことにならないね」
エステルの胸が少し締まる。
「そうしたいです」
「王女様、持っていくし。エステルとわたしの名前も残る。ヴィオラも晩餐衣装。いっぱい残る」
「そうですね」
「じゃあ大丈夫」
簡単な言葉。
でも今は、少し救われる。
店へ戻り、営業札を裏返す。
「明日も忙しいね」
ニナが言う。
「はい。ただ、今日はもう終わりにします」
「ほんとに?」
「昨日も同じことを言いました」
「昨日はほんとだった」
「今日もです」
「公爵来たら?」
「今日は警備会議です」
「じゃあ閉める」
「公爵様基準ですか」
「ちょっと」
二人で笑う。
作業帳を開く。
『子ども上着 背中補強・袖口・ボタン ニナ』
エステルはその横へ、小さな丸を付けた。
「丸?」
「見立てから説明まで一人でできましたので」
「一人仕事の丸?」
「はい」
「何個目?」
「三つ目です」
「増えた」
「増えましたね」
「王女様のは?」
「共同仕事ですから、別です」
「そっか」
「でも、ここにあります」
別欄。
『第一王女婚礼衣装 納品完了』
『エステル・ラヴィニア/ニナ』
ニナがしばらく見る。
「名前、並んでる」
「はい」
「消さない?」
「消しません」
「王宮のも?」
「残ります」
「じゃあいい」
十年前の裏身頃。
白絹。
黒い染料。
別布。
抜けた記録。
そして今度は、残す記録。
同じやり方をしない。
それでいい。
明日、新しい婚礼衣装を確認する。
そのあと、十年前の婚礼衣装を見る。
同じ白でも、縫い目も、残り方も違う。
エステルは作業帳を閉じた。
残った糸には、必ず行き先がある。
返されるもの。
奪われるもの。
次の服へ使われるもの。
だから、どこへ行ったかを見ればいい。
十年前の白い糸も。
黒くなった糸も。
そして今、自分たちが残した白い糸も。
明日は、その違いを確かめる日になる。




