第47話 沈め槽に残った白
婚礼三日前の朝、ニナは昨日預かった子ども用の上着を、裁断台いっぱいに広げていた。
「袖口だけ直せばいいと思ってたけど、背中も少し薄い。ここ、光に透かすと分かる」
窓際へ持ち上げながら言う。
エステルは自分の手を止めず、隣から見る。
「よく気づきましたね。では、袖口と背中では、どちらを先に直します?」
「背中。袖口は今ほつれてるけど、背中はこのまま使ったら破れる。あとから直すほうが大きくなると思う」
「その判断でよいと思います」
「じゃあ、裏から広く当てる。でも厚い布だと子どもが動きにくいから、これくらい?」
ニナが選んだのは、古い綿布の端切れだった。
「色は違いますが、裏ですから問題ありません。端を丸くしておくと、着たときに当たりにくくなります」
「昨日の薬屋さんのと同じ?」
「考え方は同じです。ただ、子どもの服は大人より動きますので、縫い目を少し柔らかくしてください」
「分かった。引きすぎない。もし途中で変だと思ったら、そのまま進めずに一度止める」
「はい。それが一番大切です」
正式な弟子になってから、ニナは「何をすればいい」と聞くより先に、自分の考えを言うようになった。
そしてエステルも、すぐ答えを渡さずに、その考えを聞くようになった。
王女の婚礼衣装を納めた翌朝。
裁断台の上にあるのは、王家の白絹ではなく、街の子どもの薄茶色の上着だ。
でも、不思議なほど落ち着く。
「エステルは今日は何する?」
「午前中は通常の仕事です。午後については、ユリウス様から連絡があれば変わります。旧染め庫の安全確認が終われば、私にも見てほしいと昨日おっしゃっていましたから」
「行きたいんでしょ?」
「かなり」
「昨日は行かなかった」
「安全確認が先でしたから。行きたいことと、今行ってよいことは別です」
「でも、ほんとはかなり行きたかった」
「かなり」
「そこは毎回同じなんだ」
ニナが笑う。
「ではニナは、私が出ることになったら店をお願いできますか。ベッシーさんにも声をかけますが、急ぎの難しい仕事は受けず、預かりだけにしてください」
「一人で店にいるの、初めてだよね」
「完全に一人は初めてです。ですから、不安なら今日は閉めても構いません」
ニナの手が止まる。
「……ちょっと怖い。でもやる。変な客が来たら断るし、分からない仕事は預かるだけにする」
「それで大丈夫です」
「王宮の人が来たら?」
「書状だけ預かってください」
「公爵が来たら?」
エステルは少し考える。
「普通に入れてください」
「そこは普通なんだ」
「公爵様はお客様ですから」
「最近かなり勝手に座るけど」
「それは否定できません」
「じゃあ勝手に座ってもらう。お茶は?」
「出してあげてください」
「仕事増えた」
「給金に含みます」
「じゃあ出す」
判断が早い。
そこへベッシーが朝の籠を抱えて入ってくる。
「今日は食べた?」
「食べました。最近、皆様の確認が厳しいので、先に済ませました」
「じゃあこれは昼。王宮に呼ばれたら、行く前に食べな」
「最初から食事を置いていくつもりだったのですね」
「そうだよ。ニナ、今日は店番?」
「たぶん。エステルが旧染め庫に呼ばれたら、わたしがここ見る」
「一人で?」
「分からないのは預かるだけ。お金も前払いは受けない」
「ちゃんと決めてるじゃないか」
「弟子だから」
「便利な言葉だねえ」
「みんな言う」
ベッシーは裁断台の子ども服を見る。
「それもニナが?」
「はい。背中の傷みも自分で見つけました」
「へえ。じゃあ、もうエステルがいなくても何でもできる?」
「何でもは無理。でも、何が無理かは前より分かる」
エステルは思わずニナを見る。
「それ、とても大切です」
「また急に褒めた」
「今のは褒めるところでしょう」
「そうだけど、前置きがない」
「まだ必要なのですか」
「たまに」
ベッシーが笑う。
「いい弟子だね」
「今それ言うと恥ずかしい」
「じゃあ仕事しな」
朝の店は、そんなふうに始まった。
最初の客は、膝の抜けかけたズボンを持ってきた荷運び人。
二人目は、祭り用の頭巾の紐を短くしたい老婦人。
三人目は、ボタンを一つだけ付け直してほしい少年。
王女の婚礼衣装がなくなっても、店はいつもどおりだった。
ニナは子ども服の背中へ当て布を置き、位置を一度決めたあと、自分でほどいてやり直した。
「変えたのですか?」
「最初、上すぎた。ここだと肩を動かしたとき、当て布の端が引っ張られると思う」
「どうして気づいたのです?」
「着る子いないから、自分で腕を動かしてみた。同じ大きさじゃないけど、布がどっちへ引かれるかくらいは分かった」
「よい方法です。こういうとき、人台だけで考えないことは大切です」
「王女様の服でも、道を歩いて分かったもんね」
「はい。服は人が着て初めて動きますから」
「じゃあ、これも同じ」
「同じです」
ニナは満足そうに縫い直しへ戻った。
昼前。
王宮から使者が来た。
「エステル・ラヴィニア様へ、グラン法務官からです」
封を受け取る。
ニナがすぐ近くへ来た。
「安全?」
「今から読みます」
『旧染め庫・沈め槽外周の安全確認完了。
黒糸の活動反応なし。
残留祝力は微弱。
施設側の崩落危険なし。
衣装札の周囲に古い白絹繊維を確認。
現物は未回収。
サビーネ・クロル立会いのもと、午後より記録作業を行う。
仕立て師としての確認を希望する場合、入場可。』
エステルは最後まで読み、それから紙を畳んだ。
「行く?」
「はい。ただし、すぐではありません」
「何で?」
「昼食を食べます。それから店の預かり物を整理して、ニナに必要なことを伝えてから行きます」
ニナが驚いた顔をする。
「ほんとに?」
「昨日、早く閉めて寝ましたし、今日は食べます。そこまで驚かれると少し傷つきますわ」
「だって前なら書状読んだ瞬間に出てたと思う」
「それは禁止です」
「まだ成長って言ってない」
「分かります」
二人で笑う。
ベッシーが置いていったパンとスープを食べる。
慌てない。
食べながら、ニナはさきほどの子ども服を何度も見る。
「気になる?」
エステルが訊く。
「背中の当て布。途中まで縫ったから、早く続きやりたい」
「では、午後はそれを進めてください。ただし、袖口まで一気に終わらせようとしないこと。店番をしながらですから」
「分かってる。客が来たら針を置く」
「火も使わないでください」
「使わない。蒸気もやらない」
「よろしいです」
「公爵が何か持ってきたら?」
「受け取ってください」
「普通に?」
「普通に」
「前なら?」
「ニナ」
「分かってる。言わない」
少し笑う。
「では、行ってまいります」
「いってらっしゃい。危ないと思ったら、見つけたものが気になっても戻って」
「はい」
「ほんとに」
「約束します」
今度はニナも、それ以上言わなかった。
王宮西側の旧施設区画へ入るのは、返納庫以来だった。
ただし今回は、返納庫よりさらに南へ進む。
長く使われていない石階段を一つ下り、狭い廊下を抜けた先に旧染め庫がある。
入口ではユリウスが待っていた。
「来ましたね。先に申し上げますが、触れてよいのは私が許可したものだけです。布らしきものが見えても、まず記録を取ります」
「分かっております。今日は見るために来ました。勝手に拾ったり、引っ張ったりいたしません」
「本当に?」
「皆様、その確認をなさるのですね」
「前例があるので」
「もう結構です」
ユリウスの横で、サビーネが杖をつきながら笑った。
「昔なら先に入ってた?」
「サビーネ様まで」
「今は待てるんでしょう」
「はい。ですから、今日も安全確認が終わるまで店にいました」
「じゃあ十分。入ろう」
旧染め庫は、思っていたより広かった。
壁際に石の槽が三つ。
中央に低い作業台。
天井からは、もう使われていない滑車と細い鎖が下がっている。
壁には染め桶を置いた跡があり、床には何本もの細い溝が走っていた。
「ここで、奪い糸を作ったのですか」
エステルが訊く。
「一部はね。全部じゃない。私が黒くする最後の工程をやらされたのは、もっと奥の小槽」
「そこも見られます?」
「今日は行かない」
「なぜでしょう」
「安全確認してないから」
「分かりました」
サビーネが足を止める。
「ほんとにすぐ言うようになったね」
「それは禁止です」
「何それ」
「皆様が同じことを言うので、最近は禁止事項になりました」
「面倒な店になった」
「自覚はございます」
沈め槽は一番奥にあった。
石で組まれた大きな槽は、今は空になっている。底には黒っぽい染みが残っているが、サビーネによれば古い染料の跡で、活動中の黒糸ではないという。
「危険なのは槽そのものより、周り」
ユリウスが魔灯を近づける。
槽の右側。
石壁との間に、人の手が入りにくいほど狭い隙間がある。
そこに古い金属札が挟まっていた。
「これが昨日の衣装札です」
エステルはしゃがむ。
触れない。
見る。
『王太子妃 婚礼』
その下。
『裏身……』
「裏身頃」
「そう読めます」
ユリウスが答える。
「昨日より照明の角度を変えて確認した結果、『裏身』まではほぼ確実です。下端が欠けているので、右身頃か左身頃か、別の続きがあるかは分かりません」
「では、王太子妃殿下の婚礼衣装に使われた裏身頃の一部を示す札だった可能性が高い」
「はい。ただし、札だけでは布そのものがここにあった時期までは確定できません」
「分かっています」
サビーネが少し笑う。
「今日は先に言うね」
「慣れましたので」
「それはいいこと」
「褒めなくて結構です」
衣装札の近く。
石のざらつきへ、白いものが引っかかっている。
糸ではない。
繊維。
「そこ、白絹ですね」
「見えました?」
「はい。太さと光り方が、王室衣装用の白絹に近いです」
「昨日、採取しなかった理由があります」
「何でしょう」
「白だけじゃない」
ユリウスが魔灯の角度を変える。
白絹の下。
ごく細い淡青色。
さらに、その奥に黒い点。
エステルの胸が少し速くなる。
「淡青の糸」
「王室祝縫いで使われた古い青白糸と色調は近い」
サビーネが言う。
「リディアも使ってた。婚礼衣装の裏側、支持縫いに」
「母の糸と断定はできませんね」
「できない。でも候補にはなる」
「黒いほうは?」
「糸じゃない。残った染みか、崩れた繊維」
「奪い糸と同じもの?」
「見た目だけなら近い。でも、染め成分を見ないと分からない」
ユリウスが記録板を指す。
「さらに確認してほしいものがあります。布そのものはほとんど残っていませんが、槽脇の古い木枠に二本の糸が引っかかっている」
エステルは立ち位置を変える。
淡青。
黒。
どちらも指の一節ほどの長さ。
「触れずに、結びだけ見てもよいですか」
「そのために呼びました」
エステルは目を近づける。
淡青の糸。
止め結び。
最後は右へ返し、巻きの内側へ押し込む形。
「母がよく使っていた止め方です」
サビーネが息を吐く。
「やっぱり?」
「ただし、珍しい結びではありません。王室衣装室でも使う人はいました」
「黒は?」
「違います」
「どこが」
「左へ一度引いてから、二重に戻しています。力を掛けても緩みにくい方法です」
ロデリックの袖。
返礼室北側の補修。
古い隠し縫い。
同じ系統。
「前にも見た?」
ユリウスが訊く。
「似ています。ただ、これだけで同じ縫い手とは言えません。技法が同じだけです」
「それでも、淡青と黒は同じ手ではない可能性がある」
「高いと思います。少なくとも結び方の癖は違います」
王太子妃。
婚礼。
裏身頃。
白絹。
淡青糸。
黒い痕跡。
二種類の結び。
今までより、かなり近い。
「もし、これが母の縫った裏身頃の一部だったなら」
エステルはゆっくり言う。
「その上か近くへ、別の縫い手が黒い糸を加えた可能性があります」
「ある」
サビーネ。
「でも布そのものが残ってない。だから、どこに何本縫われてたかは分からない」
「はい。まだ断定はしません」
それでも胸の奥は騒ぐ。
母は言った。
縫い目を見て、と。
十年前の婚礼衣装で、表と裏の針目が違った。
今ここにも、違う手が残っている。
「なぜ、この白絹が旧染め庫へ直接来たのでしょう」
エステルは訊いた。
「祝糸付着疑いだから、というのが記録上の理由」
ユリウス。
「でも本来なら、返納庫を経由するはずですよね」
「そうです。役目を終えた祝福関連品は、返納庫で分類し、その後に返送口から染め側へ送る」
「では、荷受け場から旧染め庫へ直接回したのは、通常経路ではない」
「はい」
サビーネが杖の先で床を示す。
「返す道を使わず、近道した」
「誰が?」
「そこは分からない」
エステルは十年前の記録を思い浮かべる。
婚礼三日前。
エドガーが臨時返納票を一枚受け取り、王室衣装室の補佐官マティアスへ空票のまま渡した。
婚礼当日。
返納庫が『緊急衣装修繕用』として一度だけ臨時開庫される。
その別紙は抜かれ、ギルド側の署名欄は切り取られた。
一方で、荷受け場から『白絹端切れ 祝糸付着疑い』が旧染め庫へ直接送られている。
「二つの流れがあります」
「何が?」
ユリウス。
「一つは、返納庫を正式に使おうとした流れ。もう一つは、荷受けから旧染め庫へ直接持ち込んだ流れです。これが同じ白絹についてなのか、それとも別のものなのかで意味が変わります」
「同じなら?」
「返納庫で処理するはずのものが、途中で別経路へ移された可能性があります」
「別なら?」
「十年前の婚礼の日、少なくとも二件、返納に関係する異常があったことになります」
ユリウスは少し考え、記録へ書き足した。
「重要ですね。今まで臨時開庫記録と白絹搬送記録を別々に見ていました」
「どちらも『返す』ものです」
「同じ日に」
「はい」
サビーネが沈め槽を見る。
「でも、ここで返されなかった可能性もある」
「どういうことです?」
「この槽は本来、祝福の残りを洗って薄め、町の流れへ戻すための場所だった。でも、私が奪い糸を作らされたころは逆に使われていた。集めて、濃くして、黒くするために」
「十年前も、すでに逆流していた?」
「たぶん。でも、いつからかは分からない」
「もし母が、異常に気づいた裏身頃を外して、返すためにここへ回したのだとしたら」
「その布が、逆に奪う側の材料へ使われた可能性もある」
その言葉は重かった。
エステルはすぐに答えなかった。
母が止めようとしたもの。
返そうとしたもの。
それが、逆に誰かの善意を奪う仕組みへ使われた。
もしそうなら。
「サビーネ様は、その白絹を見た覚えは?」
「ない。私は材料の中身を全部見せてもらってない。『廃棄祝力』って説明されて、染める工程だけやらされたものも多い」
「誰が材料を運んだかも?」
「知らない」
「ガストン様の部署は」
ユリウスが口を開く。
エステルは先に首を振った。
「まだ名前だけでつなげないほうがよいと思います。ガストン・オルドーの部署が臨時返納票に関わった記録はあります。でも、本人がここへ布を運んだ証拠はありません」
「そのとおりです」
「旧染め庫へ出入りできた人を、王室、ギルド、教会で分けて確認してください」
「教会も?」
「サビーネ様のお話では、共同研究名目の出入りがあったのでしょう」
「ありました」
「なら、司教オルフェンの系統も含めて」
「確認します」
そこでサビーネが別の場所を示した。
「もう一つ、見てほしい」
「何でしょう」
槽の反対側。
低い石棚の上に、細い金属具が一つ置かれている。
針ではない。
布を張るための仮止め金具。
「昔の王室衣装室で、濡らした布を固定するときに使うものです」
エステルは先端へ目を凝らす。
小さな星のような刻み。
「この印は、王室の三波ではありませんね」
「道具工房の印だと思う」
サビーネ。
「母の針にあった星青石とは関係あります?」
「形は似てるけど、これは石じゃない。単なる工房印の可能性が高い」
「では、工房を調べれば購入記録が残っているかもしれません」
ユリウスが頷く。
「記録します。年代も確認しましょう」
「それから、布を固定した位置は分かりますか」
「木枠の穴」
サビーネが左右を示す。
四箇所。
エステルは幅を見る。
「衣装一着を広げる幅ではありません」
「うん」
「裏身頃一枚、あるいは裏地の一部くらい」
「白い包みの大きさとも近い」
少しずつ、形になる。
でも、まだ答えではない。
「全部記録してください」
エステル。
「淡青糸、黒い繊維、白絹は別々に採取を。混ざった状態も魔写紙で残してください」
「もちろんです」
「採取後、私は触らなくてよいです。今日は縫製痕を見るだけで十分です」
ユリウスが少しだけ笑う。
「自分から言いましたね」
「褒めなくて結構です」
「分かりました」
試料は一つずつ封じられた。
白絹。
淡青糸。
黒い繊維。
同じ場所から出たものでも、別々に扱う。
混ぜない。
決めつけない。
それが、今のエステルには大切だった。
「黒い残り、奪い糸と同じか分かるのはいつです?」
「染め成分を見る必要があるから、早くても明日以降」
サビーネ。
「婚礼前に分かりますか?」
「微妙」
「では急がせません」
「珍しい」
「禁止です」
サビーネが笑う。
それでも胸は重い。
もしこれが母の外した裏身頃なら。
母は何かを止めようとした。
それが返す道へ乗らず、奪う側へ使われた可能性がある。
「エステル」
ユリウスが声をかける。
「今日はここまでにします。試料の封印も終わりましたし、これ以上は新しい情報が出ません」
「もう少し周囲を」
言いかける。
自分で止まる。
「……はい。今日は戻ります」
「今のは早かった」
「皆様に鍛えられました」
「よいことです」
「褒めなくて結構です」
「分かりました」
旧染め庫を出る。
石階段を上がると、地上の光が思ったより明るい。
「店へ戻りますか?」
ユリウスが訊く。
「はい。ニナに店番をお願いしておりますので」
「アルヴィスには、今日の件を私から報告します」
「お願いします」
「自分で話したくは?」
「そういう意味ではありません。ただ、公爵様が旧染め庫へ近づく必要はありませんから、報告だけならユリウス様からで十分です」
「なるほど」
「何です?」
「以前より、役割を分けるようになったと思って」
「それは禁止です」
「成長とは言っていません」
「同じ顔です」
ユリウスが少し笑う。
「最近、顔を読む側になっていますね」
「皆様に鍛えられました」
「それもよいことです」
「もう結構です」
店へ戻る。
扉を開けると、ニナが裁断台の前に座っていた。
「おかえり」
「ただいま戻りました。何かありました?」
「客二人。どっちも預かり。公爵は来てない。ベッシーさんは一回来た。あと、この子ども服、背中終わった」
「一度見ても?」
「うん。でも先に、危なくなかった?」
「大丈夫でした。触れてはいけないものには触れておりません」
「ほんとに?」
「本当に」
「何見つけた?」
エステルは外套を脱ぎ、荷物を置いてから答える。
「王太子妃殿下の婚礼衣装、その裏身頃と思われる衣装札がありました。近くには白絹の繊維と、淡い青糸、それから黒い痕跡も残っていました」
ニナの顔が変わる。
「一緒に?」
「同じ場所に。ただし、全部が同時にそこへ置かれたかは分かりません」
「縫い方は?」
「淡青糸と黒い糸では、結び方が違いました。母がよく使った止め方に似るのは淡青のほうです」
「じゃあ、お母さんが縫ったところに、別の人が黒いの足した?」
「その可能性はあります。でも、まだ可能性です」
「でも今までより近い?」
「はい。かなり」
ニナはしばらく黙る。
「お母さん、危ないところ外したのかな」
「かもしれません」
「それを返そうとした?」
「その可能性もあります」
「でも返らなかった」
エステルは少しだけ息を止める。
「はい」
「じゃあ、まだ止まってる」
「何がです?」
「リディアさんが返そうとしたもの。途中で誰かが違うところへ持っていったなら、まだちゃんと返ってない」
エステルはニナを見る。
「そうかもしれませんね」
「今、返せる?」
「分かりません。まず何が起きたかを確かめないと、同じ間違いをするかもしれませんから」
「順番」
「はい」
「婚礼終わってから?」
エステルは少し考える。
「婚礼まではあと三日です。調査は止めませんが、危険な場所へ入ることや、大きな処置をすることは婚礼後でも遅くありません。今は王女殿下の婚礼を無事に終えることも、私の仕事です」
「服、もう納めたのに?」
「当日は衣装室で待機します。着付けも最終確認もございますから」
「じゃあ、まだ終わってない」
「服は完成しました。でも仕事は、殿下が着て歩くところまで見たいです」
「前も言ってた」
「はい」
「じゃあ旧染め庫は逃げない?」
「逃げません」
「黒糸は?」
「今のところ活動反応はありません」
「なら、待てる」
「はい」
ニナはそこでようやく、裁断台の子ども服をエステルへ差し出した。
「じゃあ、こっち見て。背中、終わった」
エステルは裏側から見る。
当て布。
端。
丸い。
縫い目。
強すぎない。
「よくできています。特に肩側の糸を少し弱くしたのがよいですね。これなら腕を動かしても突っ張りにくいと思います」
「前置き」
「今のはありました」
「あった?」
「『よくできています』のあとに理由を申し上げました」
「逆」
「難しいですわね」
ニナが笑う。
「袖口もやっていい?」
「今日はここまでにしましょう。店番をしながら背中まで終えたのですから、十分です」
「まだできる」
「できます。でも、やる必要があることと、今やれることは別です」
「それ、今日のエステルと同じ?」
「そうです」
「じゃあやめる」
素直に針を置く。
そのことが少し嬉しい。
夕方、入口の鈴が鳴った。
今度こそアルヴィスだった。
「戻っていたか」
「はい。ユリウス様から報告を?」
「聞いた。旧染め庫で、裏身頃らしき札と白絹が出たそうだな」
「はい。ただ、まだ母のものとは決められません。淡青糸の結びは母の癖に似ていましたが、王室衣装室でも使われる方法です」
「黒いほうは違う手?」
「結び方は違います。ですから、別の縫い手だった可能性は高いと思います」
アルヴィスは少し黙る。
「十年前、俺が見た衣装も、表と裏で針目が違った」
「覚えております」
「近づいたな」
「はい。ですが、まだ人の名前までは」
「分かってる。ガストンでも、エドガーでも、ほかの誰かでも、名前だけで決めない」
エステルは少し驚いた。
「公爵様が先におっしゃるのですね」
「何度も聞いたからな。縫い目を見ろ、記録を見ろ、名前だけで決めるな」
「よく覚えていらっしゃいます」
「お前が何度も言う」
「そうでした」
ニナが奥から声を出す。
「公爵、お茶いる?」
「もらう」
「今日は勝手に座っていいって言われてた」
「誰に」
「エステル」
「そんな言い方はしておりません」
「でも座っていいって」
「普通にお客様としてです」
アルヴィスが窓辺の椅子へ座る。
「じゃあ普通に座る」
「もう座っています」
ニナが茶を持ってくる。
「はい。今日はわたしが店番だったから、これも仕事」
「ありがとう。店番はどうだった?」
「客二人預かった。難しいのは受けてない。子ども服の背中も直した」
「一人で?」
「見立てから」
「すごいな」
ニナが固まる。
「何」
「いや。公爵、普通に褒めた」
「駄目か?」
「駄目じゃないけど、びっくりした」
「エステルと同じだな」
「急に褒めるから」
「じゃあ前置きが必要?」
「公爵までそれ言う?」
店に笑いが広がる。
アルヴィスは茶を一口飲んでから、エステルを見る。
「旧染め庫、怖くなかった?」
「少しは。ただ、危険がないことを確認してから入りましたし、触れてはいけないものには触れておりません」
「本当に?」
「公爵様まで?」
「確認」
「本当です」
「ならいい」
「公爵様は?」
「何が」
「行きたくなりませんでした?」
「かなり」
「同じですね」
「でも行かなかった」
「なぜ」
「俺が近づくと傷が痛む。今は役に立つより邪魔になる」
以前なら。
たぶん、行った。
エステルはそう思う。
「何だ」
「いえ」
「顔」
「読まないでください」
「成長したと思った?」
「先に言わないでください」
「当たりか」
「はい」
ニナが笑う。
「二人とも同じ」
「何が」
「危ないところ行きたいけど、行かないって言えるようになった」
エステルとアルヴィスは、少しだけ顔を見合わせた。
「……否定できませんね」
「俺も」
「じゃあ成長」
「禁止です」
「俺は聞いてない」
「今日から公爵様にも適用します」
「勝手に増やすな」
また笑う。
夕方の店。
王女の婚礼衣装はもうない。
裁断台には、薄茶色の子ども服。
でも、そのそばで十年前の白絹の話をしている。
大きな事件と、普通の仕事。
どちらも同じ日にある。
「エステル」
アルヴィスが茶を置く。
「何だと思う?」
「白絹のことですか?」
「ああ。リディアが外したと思う?」
エステルはすぐ答えなかった。
「可能性は高くなったと思います。裏身頃の衣装札、白絹、淡青の結び。それに、母は婚礼前から『返す道が壊れている』と気づいていました」
「なら、危ない部分を外した」
「そう考えることはできます。でも、そのあと誰が黒い糸を加えたのか、母がどこまで知っていたのかはまだ分かりません」
「白い包みを誰かに渡したという証言もある」
「はい。その相手が旧染め庫の人間だったのか、返納庫側だったのか、それとも別の誰かなのか」
「まだ広いな」
「でも、以前より狭いです」
「そうか」
「はい」
エステルはそこで、少しだけ笑った。
「何だ」
「公爵様が、焦らず聞いてくださっているので」
「前は?」
「すぐ結論へ行こうとなさることが多かったです」
「お前に言われたくない」
「それもそうですね」
アルヴィスも笑う。
「婚礼までは?」
「あと三日です」
「調査、止める?」
「止めません。ただし、大きな処置は婚礼後でも遅くありません。今は殿下の婚礼を無事に終えることも大切です」
「服はもう納めた」
「当日は衣装室におります。着付けと最終確認がございますから」
「俺もいる」
「はい」
「何かあれば呼べ」
「公爵様を?」
「何か運ぶくらいはできる」
「王宮には侍従が大勢おります」
「じゃあ何ならできる」
エステルは少し考える。
「殿下が歩くところを見ていてください」
「それ、前も言われた」
「大事ですから」
「分かった」
「それで十分です」
アルヴィスは少しだけ黙り、それから頷いた。
「なら、そうする」
それでいい。
誰かを助けるために、全部をする必要はない。
必要なところだけを受け持つ。
王女の服も。
店の仕事も。
調査も。
そうやって分けたほうが、きっと長く続けられる。
アルヴィスが帰ったあと、エステルとニナは店を閉めた。
子ども服の袖口は、明日へ回す。
旧染め庫の試料も、結果を待つ。
婚礼衣装は王宮で、当日を待っている。
どれも途中。
でも、途中だからといって、全部を今日終わらせる必要はない。
「エステル」
針を数えながらニナが言った。
「何でしょう」
「白い布、返せるといいね」
「誰へ?」
「分かんない。でも、ちゃんと返すところへ」
エステルは少し考えた。
十年前、リディアが返そうとしたもの。
返納庫を通ったのか。
旧染め庫へ直接送られたのか。
そこで黒くされたのか。
まだ分からない。
「はい」
今度の返事は短かった。
でも、それで十分だった。
「そのためにも、まず何が起きたのかを見つけましょう」
「うん。名前じゃなくて、縫い目と記録」
「よく覚えておりますね」
「弟子だから」
「本当に便利な言葉になりましたわね」
二人で笑う。
店の灯りを落とす前、エステルは裁断台の薄茶色の上着へ布をかけた。
その下には、明日直す袖口がある。
王宮の地下には、十年前の白絹の繊維が残っている。
どちらも、まだ終わっていない。
だからこそ、次に針を入れる場所を間違えないようにする。
エステルはそう思った。




