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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第2部 王女の婚礼衣装と、仕立て師たち

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第46話 完成した服を、手放す日

 王家の花紋へ最後の一針を入れたのは、婚礼の四日前の朝だった。


 エステルは針を抜き、白い糸を裏側へ送り、表へ響かない位置で始末する。それからすぐには顔を上げず、糸端を指先でなぞり、隣の針目との高さまで確かめた。


 大きな紋章だった。


 リュシエンヌが最初に「大きい」と眉を寄せ、それでも必要なものだから残すと決めた王家の花紋。それを白地へ白糸で縫ったため、正面から見れば静かで、光が斜めに入ったときだけ輪郭が浮かぶ。


「……今度こそ、終わりましたか?」


 向かい側で糸を整理していたニナが、疑うような目で聞いた。


 エステルは一度だけ紋章全体を眺めてから答える。


「花紋は終わりました。ただ、衣装そのものはまだです。表地の傷、裏地の縫い目、操作帯、外裾の動き、それから蒸気当ても確認します。そこまで終えて、初めて完成と言えますわ」


「やっぱり。エステルって『終わった』って言うまでが長いよね。王女様の服だからっていうのもあるだろうけど、普通の服でも同じ?」


「程度は違いますが、基本は同じです。最後に確認しないまま渡して、着る方が困るのが一番よくありませんから」


 ニナは小さく肩をすくめた。


「じゃあ、今日もまだ長いんだ。わたし、もう完成した気でいた」


「その気持ちは分かります。私も、最後の花紋を縫い終えた瞬間だけは、少しそう思いましたから」


「エステルも?」


「ええ。ですが、少しだけです」


「ほんとに少しだね」


 ニナが笑う。


 正式な徒弟登録から、まだそれほど日が経っていない。それでも店の作業帳には、以前よりニナの名前が増えていた。


 靴職人の上着。薬屋の作業着。魚屋の前掛け。そして。


『王女婚礼衣装 外裾補助機構 右内側固定 ニナ』


 王室へ提出する正式記録にも転記される予定の一行だ。


 その文字を見るたび、ニナは少しだけ嬉しそうな顔をする。エステルもまた、自分一人の名前だけが並んでいないことに、以前とは違う安心を覚えるようになっていた。


「では、検品を始めましょう。まず表から見ますので、ニナは右側をお願いします」


「傷、汚れ、引きつれ、糸端。あと、左右で落ち方が変じゃないかも見るんだよね?」


「よく覚えておりますね」


「弟子だから。それくらいは覚えるよ」


「便利な言葉になってきましたわね」


「エステルの『仕立て師ですから』よりは便利じゃないと思う」


 言い返せず、エステルは少しだけ笑った。


 二人で人台を回す。


 白絹の本体は、選定会のころよりずっと静かに見えた。飾りを減らしたからではない。着る人が何をしたいか、そのために何が必要かを決めていった結果として、余分なものが削られたのだ。


 肩から腰へ落ちる線。長い外裾。表からは目立たない支持帯。隠れた操作帯。夕方の湖を思わせる灰青色の裏地。そして白い王家の花紋。


 最初に思い描いた服とは、少し違う。


 でも、今のほうがずっとリュシエンヌの服だった。


「右側、傷はない。糸も出てない。……あ、ここだけ少し影が変」


 ニナが左脇の近くを指す。


「引きつれに見えますか?」


「最初は。でも触る前に見たら、布が落ちてるだけかも」


「そのとおりです。人台の形に沿って影が出ています。あとで外して裏からも確認しましょう」


「やっぱり外すんだ」


「もちろんです」


「エステル、完成した服を何回裏返すつもり?」


「必要なだけです」


「その答え、一番怖い」


 二人で衣装を人台から外して裏返す。


 灰青色が広がる。表ではほとんど見えない、夕方の湖の色。


「わたし、やっぱり裏のほうが好きかもしれない」


 ニナが言った。


「殿下も、この色は特にお気に入りです」


「でも、着たら自分しかほとんど見えないよね。袖口とか、裾を持ち上げたときくらい?」


「ええ。だから入れました。好きな色だからといって、全部を表へ出す必要はありませんから」


「それ、王女様も気に入ってたよね。見つけた感じがするって」


「よく覚えておりますね」


「わたしも好きだったから。見えないところに、自分だけ分かるものがあるのっていいと思う。わたしの仕事着も、裏の縫い目がきれいだとちょっと嬉しいし」


「それは、とても仕立て師らしい感覚ですわ」


「また急に褒める」


「本当のことです」


「そういうの、もう少し前置きしてから言って」


「褒めるのに前置きが必要ですか?」


「必要」


 どうしてなのかは分からない。でも、ニナが少しだけ耳を赤くしたので、今は追及しないことにした。


 支持帯、縫い目、手袋収納、小さな内ポケット、婚礼後も礼装として使うために残す操作紐。そして外裾補助機構。


「ここ、わたしが縫ったところ」


 ニナが右内側の固定部を指す。


「はい。まず見た目は問題ありません。次に動かします」


「引いていい?」


「軽く一段目まで。そのあと、少し待ってから二段目へ」


 ニナが操作帯をゆっくり引く。


 最初の一寸で、外裾の左右端だけが内側へ寄る。


「止まった。昨日と同じ」


「抵抗の出方は?」


「ちゃんと分かる。これなら王女様も間違えないと思う」


「では二段目を」


 さらに引く。今度は外裾全体が持ち上がった。


「左右も同じ。右だけ遅れたりしてない」


「戻してみてください」


「ゆっくり?」


「はい」


 外裾が下りる。


 もう一度。また一度。五回。


「今日は五回でいいの?」


「昨日まで十分に試しておりますから。ここで回数を増やしすぎて、かえって本番の糸を傷めるほうがよくありません」


「……エステルが回数を減らすって、ほんとに珍しいね」


「皆様に成長したと言われ続けたので、先に自分で言っておきます。少しは成長しました」


「自分で言った」


「言われる前にです」


 ニナが声を上げて笑った。


 手袋収納、袖口、外裾の着脱、婚礼後の礼装状態。全部問題なし。


「じゃあ今度こそ完成?」


「まだ蒸気当てが」


「やっぱり!」


「最後です。本当に最後です」


 蒸気当ては、ニナにはまだ任せなかった。


 本番の白絹は、温度や水分を少し間違えるだけでも光沢が変わる。今日は見てもらうだけにする。


「わたしもそのうちやる?」


「もちろん。ただし、まずは別布で練習します。白絹は失敗が目立ちますから」


「何回くらい?」


「回数ではなく、安定するまで」


「また数字ない」


「布は毎回同じではありません」


「分かってるけど、目標がほしい」


「では、三種類の布で、それぞれ問題なくできるまで」


「それなら分かりやすい」


 ニナは納得して、少し離れたところから手元を見る。


 蒸気を強く当てすぎず、布を一枚挟み、折り癖だけを整える。


 外裾。肩。袖。花紋。


 最後にもう一度、全体。


 そして人台へ戻す。


 エステルは少し離れた。


 白。灰青。大きな花紋。でも白。


 長い外裾。隠れた仕掛け。


 片手で自分でできる。でも、一人ですべてをしなくてもいい。


 王女が自分で選んだことを、自分でできるようにした服。そして、できないところは誰かに頼ってもよい服。


「ニナ」


「何?」


「今度こそ、完成です」


 ニナはすぐに返事をしなかった。人台を見上げ、それからエステルを見る。


「ほんとに?」


「本当に」


「もう、何も直さない?」


「必要が出れば直します。ただ、今の時点で、私たちができる確認は全部終わりました」


「じゃあ……できたんだ」


「はい」


「王女様、これ着るんだよね。婚礼の日に、自分で歩いて、片手で裾も動かして」


「そうです」


「転ばない?」


「転ばないように作りました。でも、絶対とは言いません」


「何で?」


「服だけで人の一日全部を決めることはできませんから。ただ、服のせいで困る可能性は、できるだけ減らしました」


 ニナは少し考えてから頷いた。


「それならいい。絶対って言うより、そっちのほうがエステルらしい」


 完成した服を眺める。


 もっと大きな達成感が押し寄せると思っていた。


 けれど実際に胸にあるのは、嬉しさと安心と、それから少しの寂しさだった。


「エステル、嬉しい?」


「はい」


「寂しい?」


「少し」


「まだ店にあるのに?」


「午後には王宮へ納めますから」


「作ったのに、すぐ手放すんだね」


「着ていただくために作ったものですから」


「でも、ずっと作ってたじゃん」


「だからこそです」


「分かんない」


「私も、全部は分かっておりません」


 正直に言うと、ニナは少し笑った。


「じゃあ、あとで分かる?」


「婚礼の日に、殿下が着て歩くところを見れば、もう少し分かるかもしれません」


「じゃあ完成は今日で、仕事が終わるのは婚礼の日?」


「そういう言い方なら、近いですわね」


 そのとき、入口の鈴が鳴った。


 ニナがすぐ振り返る。


「公爵?」


「まだ分かりません」


「でもたぶん公爵」


 扉が開く。


「ほら」


「聞こえている」


 アルヴィスだった。


 店へ入るなり、いつものようにエステルではなく、まず人台を見る。そして数歩進んだところで足が止まった。


「完成したのか」


「はい。今朝、最終検品まで終えました。午後には王室衣装室へ納めますので、その前にお見せできてよかったです」


「間に合ったな」


「婚礼は四日後です。むしろ、このくらいで納めないと予備日が取れません」


「もっとぎりぎりまで直すと思ってた」


「必要がなければ直しません」


「本当に?」


「公爵様までその聞き方をなさるのですか」


 アルヴィスが少し笑う。


「ニナにうつった」


「逆です」


 ニナがすぐ口を挟んだ。


「もともとエステルが細かいから、みんな心配するんだよ」


「弟子になってから、私への遠慮がさらに減っておりません?」


「前からあんまりなかった」


「それは認めます」


 アルヴィスが人台へ近づく。


 もちろん触れない。


 少し距離を置いたまま、正面から背中、裾へ視線を動かす。


「これが、リュシエンヌの婚礼衣装か」


「はい」


「前に見た試作より、ずいぶん静かだ」


「装飾を減らしたわけではありません。殿下が自分で選べる部分を残した結果、こうなりました」


「紋章は大きい」


「皆様、本当にそこを最初に言いますね」


「本人が嫌がっていたからな」


「今は前より少し好きになったそうです。婚礼後も王宮へ置かず、自分で持っていくと決めたことで、意味が変わったのだと思います」


「聞いた。かなり嬉しそうに話していた」


「殿下から直接?」


「ああ。『私の服なのに王宮へ置いていくのは変でしょう』って」


「殿下らしいですわね」


「昔なら、王家のものだから仕方ないと言ったかもしれない」


「今は違う?」


「自分で選んだものは、自分で持つ。最近はそっちのほうがあいつらしい」


 エステルは少しだけ笑った。


「公爵様も、殿下の変化をよく見ていらっしゃるのですね」


「従妹だからな」


「それだけ?」


「何だ」


「いえ。何でもございません」


 アルヴィスが少し目を細める。


「顔」


「今日は読まないでください」


「何で」


「完成日ですので」


「理由になってない」


「今日はそれで通します」


「仕立て師だから?」


「それは今、使わないと決めております」


「珍しいな」


 ニナが吹き出した。


 アルヴィスは背中の花紋を見る。


「白いから、遠くからはほとんど分からない」


「それが狙いです。必要だから残す。でも、必要以上に見せつけない」


「王家の印を消したわけではない」


「はい。殿下も、王女であることから逃げたいわけではありませんから」


「そこまで分かった?」


「服を作る間に、少しずつ」


「そうか。前に比べて、あいつの服に見える。王宮が作らせた婚礼衣装じゃなくて、リュシエンヌが着る服に」


 エステルは思わず彼を見る。


「それ、とても嬉しいです」


「そういうつもりで言った」


「公爵様が?」


「何だ」


「いえ。いつもの『悪くない』ではなかったので」


「言ってほしいのか」


「今日は、もう少し欲しいと思っておりました」


「要求するんだな」


「完成日ですから」


 アルヴィスが少し困ったように衣装を見直す。


「きれいだと思う。あと、ちゃんとあいつの服に見える」


 今度は、エステルのほうが黙る。


「……ありがとうございます」


「今度はそれだけ?」


「はい。今のは、それだけで十分です」


 ニナが奥から小声で言う。


「今日は『悪くない』なし?」


「数えるな」


「言ってないからゼロ」


「なぜ記録している」


「習慣」


「悪い習慣だ」


 店に笑いが広がる。


 完成した服を前に、こんなふうに笑えるとは思っていなかった。


 母ならどうしただろう。


 王家の婚礼衣装。店を閉じ、一人で縫い上げ、最後まで誰にも触れさせなかったかもしれない。


 でも自分は違う。


 ニナが縫った場所がある。ヴィオラの意見を借りた場所もある。アーサーが動作の中から見つけたことも、王女自身が言葉にした希望もある。セラフィーネの判断。アルヴィスの気づき。


 いくつもの人の手と考えが関わっている。


 それでも、一着だ。


「エステル」


「何でしょう」


「今、リディアのことを考えた?」


 エステルは少し目を細める。


「また顔ですか?」


「ああ。今のは分かりやすかった」


「困りますわ」


「当たり?」


「はい。母なら、一人で縫っただろうと思っていました」


「お前は違う」


「はい」


「それでいいんじゃないか。少なくとも、俺は今のほうがいいと思う。一人で全部抱えると、何かあったとき誰も止められない。今回だって、ニナやヴィオラが見つけたことが服に入ってるんだろ」


「はい」


「なら、それが今のお前の縫い方なんだろう」


 エステルは一瞬だけ言葉を失った。


 母の最後の手紙。


『私の続きではなく。あなたの縫い方をして。』


 その言葉を、今度は他人の口から別の形で言われた気がした。


「ありがとうございます」


「また礼」


「今日は多くてもよい日です」


「そういう日なのか」


「私が決めました」


「なら受け取る」


 自然に返ってくる。


 そのこと自体が、少し嬉しい。


 アルヴィスは衣装の裏側も見たいと言った。


 エステルが外裾を少し持ち上げる。


「これが、殿下の好きな灰青です」


「見えないところなんだな」


「本人には見えます。袖口や裾を動かしたときに、自分で見つけられる色です」


「リュシエンヌらしい」


「好きなものを全部表へ出したい方だと思っていました」


「昔はそうだった。今は少し違う」


「公爵様も変わったと?」


「人のことばかり言うな」


「では、ご自身は?」


「少し」


「最近、そればかりですね」


「一気に変わるよりいいだろ」


「それは、はい」


 アルヴィスは操作帯にも気づいた。


「前に見たときより、紐が一本増えた?」


「増えてはおりません。引き方を二段階に変えました。新しい行進路に狭い踊り場がありましたので、最初の一寸だけで外裾の幅を狭め、その先で全体を持ち上げます」


「本人ができた?」


「問題なく。殿下は思っているより器用です」


「思っているより、は余計だな」


「殿下にも似たことを言われました」


「怒った?」


「二十四歳です、と」


「言いそうだ」


 二人で笑う。


「公爵様」


「何だ」


「以前、ニナが『服は着る人を助ける』と言ったことがありました。今回、その意味が少し分かった気がします」


「どういう意味?」


「助けることは、代わりに全部して差し上げることではないのですね。殿下が自分でできるようにする。でも、できないときは人へ頼れる。その余地も残す」


 アルヴィスはしばらく衣装を見た。


「それ、お前にも当てはまる?」


「……最近、皆様にそう言われます」


「じゃあ、この服を作って得したな」


「教材ではございません」


「でも、お前も覚えた」


「少しは」


「なら悪くない」


 奥からニナ。


「一回!」


「結局数えるのか!」


「今日初めて言った!」


 今度こそ三人で笑った。


 アルヴィスは長居せず、仕事へ戻ると言った。


 扉の前で、もう一度人台を見る。


「婚礼当日は王宮?」


「衣装室で待機予定です。納品後は王室管理ですが、当日に何かあったときすぐ対応できるように」


「俺も参列する」


「では、殿下が歩くところを見てください」


「見る」


「衣装だけでなく」


「分かってる」


「何かあれば」


「言う。でも何もないほうがいい」


「はい。それが一番です」


 アルヴィスが扉を開ける。


「公爵様」


「何」


「来てくださって、ありがとうございました」


「約束したから来た」


「それでもです」


 少しだけ間があく。


「じゃあ、また」


「はい。また」


 扉が閉まる。


 エステルは一瞬だけ、その扉を見る。


「顔」


「まだ何も言っておりませんよ、ニナ」


「分かる」


「公爵様のようなことを」


「似てきた」


「それは認めません」


「今の間で分かる」


「納品準備をします」


「逃げた」


「仕事です」


 完成した婚礼衣装を箱へ納める。


 ここから先は、店に置いておける服ではない。王室衣装室の正式管理へ入る。


「エステル」


「何でしょう」


「ほんとに寂しい?」


「少しだけ。長く店にあったものがなくなるので」


「作ったのに、自分のものじゃないんだね」


「最初から、私のものではありません。作ることと、持つことは違います」


「じゃあ、何が残る?」


 エステルは少し考え、作業帳を見る。


「作った事実です。それから、着てくださる方の記憶に残るなら、それも」


「名前も?」


「はい。ニナの名前も」


 ニナも作業帳を見る。


「王宮の記録にも書く?」


「正式な担当として記録されるはずです」


「ほんと?」


「はい」


「それ、ちょっと怖い」


「なぜ?」


「残るから」


 十年前の臨時開庫記録。切り取られた名前。消された記録。


 エステルは少しだけ、そのことを思い出す。


「残ることも、消されることも、使い方次第で怖いですね」


「じゃあ、どうする?」


「何をしたかまで一緒に残します」


「作業帳」


「はい。名前だけではなく」


 ニナは少し安心したように頷いた。


 二人で王宮へ向かう。


 今回は衣装箱を王室の運搬人へ任せ、二人はその後ろを歩いた。


「王宮に納めたら、ほんとに店からなくなるんだ」


「はい」


「忘れ物した感じになりそう」


「私も、たぶん」


「取りに戻らない?」


「戻りません」


「分かってる」


 王室衣装室の検品室では、セラフィーネと記録官、それから検品係が待っていた。ヴィオラも少し離れたところにいる。


「完成したの?」


 セラフィーネが訊く。


「はい。店での最終検品まで終えております」


「本当に?」


「皆様、今日はその確認をなさるのですね」


「仕立て師は『完成』と言ってから一箇所直すものだから」


「必要があれば直します」


「ほら」


 エステルは言い返せなかった。


 箱を開ける。


 白い衣装が広げられる。


 王室側の検品は、店での検品とは別の緊張がある。


 自分で見たところを、他人がもう一度見る。それでよい。


「左脇」


 検品係が言った。


 エステルの胸が少しだけ動く。


「何かございましたか?」


「いいえ。落ち方を見ただけです。問題ありません」


「……はい」


 横でヴィオラが笑う。


「顔」


「今日は本当に読まないでください」


「分かりやすいから無理」


 操作帯。一段目。二段目。五回。問題なし。


 手袋収納。外裾着脱。支持帯。灰青の裏地。王家花紋。


 全部。


「ニナ」


 セラフィーネが右内側を指す。


「ここ、あなたの担当で合ってる?」


 ニナの背筋が伸びた。


「はい。外裾補助機構の右内側固定です。最初のしつけから見て、最後の固定はエステルに確認してもらいながら縫いました」


「よくできてる。問題なし」


 ニナが小さく息を吐く。


「ありがとうございます」


 声が少しだけ丁寧すぎる。緊張しているのだと分かる。


 最後に、セラフィーネが納品確認書を出した。


「エステル・ラヴィニア。第一王女リュシエンヌ殿下婚礼衣装、本日付で王室衣装室が受領します。ここへ署名を」


「はい」


 ペンを取り、自分の名前を書く。


 その下。


『徒弟補助者』


「ニナ、あなたも」


「わたしも書くの?」


「正式登録されていて、担当記録もあるでしょう。王室側の作業記録へ残します」


 ニナがエステルを見る。


「書いてよいですよ」


「ほんとに?」


「はい。ニナが縫ったところですから」


 ペンを受け取る。


『ニナ』


 短い名前。でも、正式な王室記録へ残る。


 ニナは自分の文字をしばらく見ていた。


「これで受領完了です」


 セラフィーネ。


 ニナが小さく息を吐く。


「終わったんだ」


「納品は」


 エステルはそこまで言って、自分で止めた。


 ニナが見る。


「また細かく言う?」


「今日はやめます」


「じゃあ?」


「はい。納品は終わりました」


「珍しい」


「今日はよいのです」


 ヴィオラが完成衣装の背中を見る。


「花紋、大きい」


「あなたまで」


「でも、いい」


「ありがとうございます」


「悔しい」


「なぜ?」


「私ならもっと削ったから。でも、これは残したほうが合ってる」


「殿下に?」


「服に」


 ヴィオラらしい答えだった。


「私の晩餐衣装も明日納品」


「楽しみにしております」


「負けない」


「もう別の服でしょう」


「分かってる。でも競争したほうが楽しい」


「殿下が困らない範囲で」


「当然」


 違う仕立て師。違う答え。どちらも服。


 それでいい。


 納品室を出る前、ユリウスが来た。


「ちょうどよかった。納品は終わりましたか?」


「今、終わったところです」


 ニナが先に答える。


「それは、おめでとうございます。ニナも正式記録に?」


「書いた」


「よかったですね」


「うん。ちょっと怖かったけど」


「残るから?」


「分かるの?」


「最近、記録の話ばかりしていますから」


 ユリウスはそう言ってから、エステルへ向き直る。


「今日お伝えしたいことがあります。婚礼衣装の話とは切り離して聞ける状況でしょうか」


 その確認に、エステルは少し驚いた。


「はい。納品は終わりました。今は調査のお話を聞けます」


「では」


 ユリウスが封書を一枚出す。


「エドガーの追加証言と、旧王室衣装室裏手の荷受け記録を照合しました」


「母が白い布包みを持っていたと見られた場所ですね」


「はい」


 紙を開く。


「婚礼当日、通常の荷受け記録は途中から一頁分読めなくなっています」


「また切り取られた?」


 ニナが訊く。


「今回は違います。水濡れで文字が流れている」


「偶然?」


「それはまだ分かりません。ただ、同日の清掃記録に一件だけ、気になる記載がありました」


 ユリウスが別紙を置く。


『白絹端切れ 焼却せず 旧染め庫へ』


 エステルの視線が止まる。


「白絹。旧染め庫」


「はい。持込者欄は空白です」


「処理担当は?」


「染め庫側の共通印だけで、個人は特定できません」


「大きさは分かりますか?」


「重量記録があります。一抱え弱」


 ニナが小さく息を呑んだ。


「エドガーさんが見た、リディアさんの白い包みと近い」


「近いです。ただし、同じものとは断定できません」


 エステルが先に言う。


「そのとおりです」


「なぜ焼却せず、染め庫へ?」


「裏面に理由が残っています」


 紙を返す。


『祝糸付着疑い』


 胸の奥が冷える。


「祝福の糸が付いていると判断された白絹」


「正確には『疑い』です」


「婚礼衣装の一部だった可能性は」


「あります」


「母が外したものかは」


「まだ分かりません」


 エステルは一度だけ頷いた。


「返送口も旧染め庫側へつながるのですよね」


「はい。今日、サビーネと施設管理が沈め槽の外周だけ確認しました。ただし、まだ開けてはいません」


「それならよかったです」


「そして、もう一つ」


 ユリウスが魔写紙を出す。


 小さな金属札。


 腐食している。


『王太子妃 婚礼』

 その下。

『裏……』


「裏地?」


 ニナ。


「あるいは裏身頃」


 エステル。


「まだ読めません。衣装札自体も取り出していません」


「明日は?」


「サビーネ、王宮施設管理、私で周辺の安全確認を続けます。黒糸や残留魔力がないかを先に見る」


「私は」


 言いかける。


 今日、婚礼衣装を納めた。


 店の時間も少し戻る。


 母の白布。旧染め庫。衣装札。


 行きたい。


 かなり。


「行きたい?」


 ニナが横から訊く。


「かなり」


「行く?」


 エステルは少し考える。


 そして、今度は自分で答えを決める。


「行きません。安全確認が終わってから見ます。今の段階で私が行って、調査の役に立つことより、危険を増やす可能性のほうが高いですから」


 ニナが目を丸くする。


「ほんとに、すぐ決めたね」


「最近、私も学んでおります」


「成長」


「それは禁止です」


 ユリウスまで少し笑う。


「その判断でお願いします。必要な魔写紙は持っていきますし、縫い目があれば表裏とも記録します」


「衣装札の裏側も、可能なら」


「分かっています」


「ありがとうございます」


「今度は礼をそのまま受け取っておきます」


「皆様、アルヴィス様の影響を受けておりません?」


「それは否定しません」


 王宮を出る。


 行きよりずっと手が軽い。


 衣装箱がないからだ。


「変」


 ニナが言う。


「何がです?」


「帰り、ほんとに軽い。何か忘れたみたい」


「私も少し、そう感じます」


「取りに戻らない?」


「戻りません」


「分かってる」


 王女が着るために作った。


 だから手放す。


 それが、完成の一部なのかもしれない。


「エステル、寂しい?」


「少し。でも、嫌ではありません」


「何で?」


「殿下のもとへ行くからです。誰かに奪われるわけでも、なくなるわけでもありません」


「じゃあ、いい手放し方?」


 エステルはその言葉を少し考える。


「ええ。たぶん、そうです」


 店へ戻ると、入口の脇に小さな包みが置かれていた。


 上にはベッシーの字で、『預かり。急ぎではない』。


「もう仕事」


 ニナが包みを持ち上げる。


「店ですから」


「王女様の服終わった日くらい休まない?」


「今日は早く閉めます」


「ほんとに?」


「本当に」


「何時」


 エステルは窓の外を見る。もう夕方だった。


「……今から」


「遅い」


「でも、今日はここまでにします」


 包みの中身だけ確認する。


 子ども用の薄茶色の上着。片方の袖口がほつれ、前の木ボタンも一つ緩んでいる。


 朝まで裁断台を占めていた王女の婚礼衣装に比べれば、驚くほど小さい。


「これ、明日わたしがやる?」


「まず見立てからお願いします。袖口だけでなく、全体に傷みがないか見てから」


「分かってる。今日は触らない?」


「触りません」


「エステルが?」


「何です、その驚き方は」


「だって、前なら今から見てた」


「禁止です」


「まだ言ってない」


「分かります」


 二人で笑う。


 王家の衣装を納めた翌日に、子どもの袖口を直す。


 それでいい。


 むしろ、それがこの店なのだ。


「今日は閉めましょう」


 エステルは営業札を裏返す。


「ほんとに早い」


「約束しましたので」


「誰と?」


「私と」


 ニナが目を丸くした。


「自分との約束も守るようになった?」


「そこまで驚かないでください」


「成長」


「禁止です」


 でも今度は、少し笑って言えた。


 二人で針を数え、火元を確かめ、作業帳を閉じる。


 婚礼衣装は、もう店にはない。


 でも、作業帳には二人の名前が残った。


 王室の納品記録にも残った。


 そして十年前、リディアが抱えていたかもしれない白い布は、祝糸が付着しているとして旧染め庫へ送られた可能性が出てきた。


 手から離れたものは、消えるわけではない。


 誰かが受け取り、別の場所へ運び、別の役目を持つことがある。


 それがよい流れなら、服は着る人のもとへ届く。


 悪い流れなら、祝福さえ奪うものへ変えられる。


 大切なのは、手放さないことではない。


 どこへ渡すのか。


 誰が受け取るのか。


 その先を見失わないことなのだ。


 エステルは、空いた両手を一度だけ見た。


 今日は、完成した服を手放した日。


 だから次は、十年前に手放された白い布がどこへ行ったのかを見つければいい。


 順番は、もう分かっていた。

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