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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第2部 王女の婚礼衣装と、仕立て師たち

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45/48

第45話 最後に歩いて確かめる

 婚礼衣装の外裾へ入れた二段階の仕掛けは、翌朝までに本番の形へ直した。


 操作帯を最初の一寸だけ引けば、左右の外端だけがわずかに内側へ寄る。そこでもう少し力を加えると、指先に小さな抵抗が返り、その先で今までどおり外裾全体が持ち上がる。


 狭い角を曲がるときは一段目。階段や晩餐前に裾を短くするときは二段目。


 増えた操作は一つだけだが、王女が迷えば意味がない。


「もう一回」


 ニナが人台の前に立った。


「今ので十六回目です」


「二十まで」


「誰に似たのです」


「エステル」


「否定しづらいですわ」


 ニナが輪へ指を掛ける。


 一寸。


 左右の裾だけが内へ寄る。


「止まった」


「はい。その抵抗を覚えてください」


「もっと引く」


「どうぞ」


 さらに引くと、全体が持ち上がった。


「これ、王女様も分かる?」


「昨日の仮合わせで操作帯そのものには慣れていらっしゃいます。問題は、この新しい一段を指で区別できるかですね」


「できなかったら?」


「戻します」


「せっかく作ったのに?」


「着る方が使えない仕掛けは、よい仕掛けではありません」


「もったいない」


「布は使い直せます」


「縫ったところは」


「ほどけます」


「またそれ」


 ニナは笑った。


 正式に弟子になってから、彼女は以前より少しだけ堂々と「もったいない」と言うようになった。その代わり、ほどくべきところでは自分から糸切りを持つ。


 それも少し変わったところだ。


「エステル」


「はい」


「今日、王女様ができたら、これで完成?」


「ほぼ」


「ほぼ?」


「本縫いの仕上げ、花紋の残り、裏側の始末、最終の蒸気当て、検品」


「全然終わってない」


「形としては、です」


「婚礼いつ?」


「あと六日」


「間に合う?」


「間に合わせます」


「寝る?」


「寝ます」


「ほんと?」


「今日は六刻以上」


「昨日は?」


「……五刻半」


「公爵」


「言わないでください」


「弟子だから」


「その権限は登録書にございません」


「でも言う」


 エステルは返事の代わりに、ニナへ白糸の束を渡した。


「こちら、一尺ずつ十二本」


「話そらした」


「仕事です」


「はいはい」


 裁断台には、あと少しで終わる王家の花紋が広がっている。


 白地へ白糸。近くで見れば立体的な蔓と花弁が見え、離れると光の加減で輪郭だけが浮かぶ。


 リュシエンヌが嫌がった大きな紋章。でも、必要だから残したもの。


 今では王女自身が「前より少し好き」と言っている。


 好きになってもらうために縫ったわけではない。それでも、嫌いなものが少しだけ自分のものになっていくのなら、それは嬉しい。


「ニナ」


「何」


「昨日縫っていただいた外裾のしつけ、よくできていました」


 手が止まる。


「今?」


「今です」


「急に言う」


「忘れる前に」


「……本縫いもやる?」


 すぐそこへ行く。


「まだです」


「やっぱり」


「ただし、裏側の固定を一部お願いするつもりです」


「本番?」


「本番です」


「ほんと?」


「はい」


 ニナは白糸の束を持ったまま、少し黙った。


「怖い?」


「ちょっと」


「嫌なら」


「やる」


「即答ですね」


「弟子だから」


 今日はその言葉を、ずいぶん気に入っている。


 昼前、二人は婚礼衣装を王宮へ運んだ。


 今回は大きな衣装箱を王室の運搬人に任せ、エステルとニナはその後ろを歩く。


 王宮へ入ってからも、ニナは何度も箱を見る。


「入ってる」


「何が?」


「わたしが縫ったところ」


「はい」


「王宮の箱に」


「はい」


「変」


「なぜ」


「この前まで、盗んだもの隠す箱しか知らなかった」


 エステルは足を止めなかった。


「今は?」


「仕事の服」


「それでよいのでは」


「うん」


 ニナも前を向く。


「でも、ちょっと変」


「慣れます」


「エステルも?」


「何に」


「王宮」


「……まだ少し緊張します」


「じゃあ同じ」


「そうですね」


 仮縫い室では、リュシエンヌとセラフィーネ、それからアーサーが待っていた。


「今日はいる」


 王女がアーサーを見る。


「呼ばれた」


「前は会議」


「今日は避けた」


「偉い」


「婚礼の確認だからな」


「それなら最初から」


「仕事もある」


「私より?」


「答えにくい」


 王女が笑う。


「正解」


 エステルは少しだけ羨ましく思った。


 言いたいことを言い、困れば困った顔をして、それでも隣にいる。


 二人の関係は、婚礼衣装よりずっと前からできている。服がそれを作るわけではない。


 だからこそ、邪魔をしないものにしたい。


「殿下」


「はい」


「昨日の行進路確認で見つかった外裾の問題を修正しました」


「曲がるとこ?」


「はい」


「何が変わったの」


「操作帯に一段増えました」


「難しくなった?」


「少しだけ」


「嫌」


「まず試してください」


「駄目なら?」


「戻します」


「じゃあやる」


 王女はすぐに納得した。


 本番衣装へ着替える。


 白い本体。灰青の裏。背中の王家花紋。


 今日は昨日よりさらに縫い進んでいる。


「あ」


「何でしょう」


「紋章、増えた」


「進めましたので」


「やっぱり大きい」


「はい」


「でも白ならいい」


「ありがとうございます」


「あと」


 王女が鏡へ背を向け、角度を変える。


「こうすると見える」


「光が入ると」


「それ好き」


「よかったです」


 外裾を取り付ける。


 支持帯。肩、背中、腰。


 全部確認。


「重いところは?」


「ない」


「右肩」


「平気」


「左」


「平気」


「腰」


「大丈夫」


「では操作を」


 王女が前腰の内側へ指を入れる。


「ここ?」


「はい。ただし今日は、最初に一寸だけ」


「どのくらい」


 エステルが自分の指で示す。


「この程度」


「引く」


「ゆっくり」


 王女が引く。


 外裾の左右端がわずかに寄る。


 そこで指に抵抗。


「あ」


「分かります?」


「ここで止まる」


「はい」


「これが曲がる用?」


「そうです」


「もっと引くと」


「いつもの形になります」


 王女がさらに引いた。


 全体が上がる。


「分かった」


「もう一度」


「下ろす?」


「はい」


 一度戻す。


 今度は説明なし。


 王女が引く。


 一段目で止める。


「ここ」


「はい」


 さらに引く。


 二段目。


「できる」


「難しくありません?」


「エステル」


「はい」


「私、二十四歳」


「存じております」


「それくらいできる」


「申し訳ございません」


 アーサーが横から笑う。


「心配されてる」


「分かってる」


「俺より?」


「何が」


「信用」


「今は服の話」


「またそれ」


 今日も二人は自然だった。


「では、行進路へ」


 中央階段。


 昨日と同じ十二段。


 今日は、最初から本番と同じ速さを想定する。


 一段、二段、四段。


 踊り場手前。


「殿下」


「分かってる」


 王女が操作帯を一段目まで引く。


 左右の外端が寄る。


 裾幅が少し狭くなる。


 右へ曲がる。


 昨日、石の角へ寄った外裾が、今日は内側へ収まった。


「触れない」


 ニナが後ろから言う。


「はい」


「戻す?」


 王女。


「踊り場を抜けてから」


 右へ向き終わる。


 操作帯を少し戻す。


 外裾がまた広がる。


「これ面白い」


「遊ばないでください」


「一回だけ」


「殿下」


「分かってる」


 残りの階段を下りる。


 問題なし。


 東回廊も問題なし。


 冬庭前廊下では、植木鉢がすでに片付けられていた。


「ほんとにない」


 王女が言う。


「本番もこの状態です」


 セラフィーネ。


「葉っぱ連れていけない」


 アーサー。


「少し見たかった」


「まだ言う?」


「想像すると」


「婚礼でやったら怒る?」


「俺は笑う」


「私は怒ります」


 エステルが先に言う。


「仕立て師が一番怖い」


「服に関しては」


「自覚あるのね」


 二人が並ぶ。


 廊下は狭い。


 昨日と同じく、王女の左袖とアーサーの右袖が近い。


 王女が手を出す。


 アーサーが取る。


 エステルは今日は目を逸らさなかった。


 服の確認だから。


 たぶん。


「ニナ」


「何」


「左袖」


「当たってない」


「はい」


「手も」


「それは見えております」


「顔」


「禁止です」


 王女が振り返る。


「何の話?」


「何でもございません」


「怪しい」


「服を見てください」


「私が?」


「着ている方も」


 冬庭前を通り、西礼拝堂南口。


 一段。


 祭壇まで歩く。


 王女とアーサーが並ぶ。


「問題なし」


 エステルは記録帳へ書く。


「本当に?」


 王女。


「はい」


「もう直さない?」


「今日のところは」


「今日のところ」


「着替えてから裏側を確認します」


「やっぱり」


「本番ですので」


「それ好きね」


「大切です」


 アーサーが王女の手を離す。


「じゃあ、もう完成?」


「ほぼ」


「ほぼ?」


 王女と同じ反応だった。


「仕上げが残ります」


「いつ完成?」


「三日以内」


「婚礼六日前だよな」


「はい」


「余裕?」


「必要な予備日です」


「何かあったら?」


「直します」


 アーサーが頷く。


「頼もしい」


「ありがとうございます」


「アルヴィスが通うの分かる」


 エステルの筆が止まる。


 王女が笑う。


「それ、本人に言った?」


「言ってない」


「言えばいいのに」


「何の話でしょう」


「顔」


「殿下」


 また広がっている。


 着替えのため仮縫い室へ戻る。


 王女から衣装を外したあと、エステルはすぐ裏側を見る。


 操作帯。骨輪。外裾の寄せ布。支持帯。


「ニナ」


「見てる」


「どこ」


「右の折り、少し引かれてる」


「糸?」


「しつけ」


 本番の固定糸ではない。


 昨日ニナが入れたしつけの一本が、少しだけ伸びている。


「原因は」


「曲がったとき?」


「おそらく」


「駄目?」


「しつけなので予定内です」


「本縫いなら?」


「力が直接一針へ集まらないよう、三箇所へ分散します」


「わたし、やる?」


 エステルはニナを見る。


 昨日までは、しつけ。


 今日は本縫い。


「一箇所だけ」


「ほんと?」


「裏側の固定です。表へは出ません」


「でも本番」


「はい」


「王女様の」


「はい」


「怖い」


「やめます?」


「やる」


 やはり即答。


「では、店へ戻ってから」


「ここじゃない?」


「落ち着いてできる場所で」


「分かった」


 ニナが伸びたしつけ糸をじっと見る。


「エステル」


「何でしょう」


「失敗した?」


「誰が」


「わたし」


「いいえ」


「でも伸びた」


「何のためのしつけです?」


 ニナが黙る。


「本縫いの前に、布がどう動くか見るためです」


「あ」


「今日伸びてくれたので、本縫いを変えられます」


「じゃあ」


「仕事をしました」


 ニナの肩が少し下がる。


「そっか」


「はい」


「よかった」


 その声が、弟子になった日より少しだけ幼く聞こえた。


 エステルは何も足さなかった。


 失敗かどうかは、結果だけでは決まらない。何のために縫ったか。そこで見る。


 王女が着替えを終え、もう一度仮縫い室へ来る。


「終わった?」


「動作確認は」


「服は?」


「三日以内に」


「じゃあ」


 王女はニナを見る。


「ニナも縫うの?」


 ニナが固まる。


「え」


「さっき聞こえた」


「……少し」


「どこ?」


「裏」


「見えない?」


「うん」


「いいね」


「何が?」


「私も好き。見えないところ」


 灰青の裏地。白い紋章。ニナの針。


 王女は少し考えてから言った。


「じゃあ、お願い」


「わたしに?」


「うん」


「失敗したら」


「エステルが直すでしょう?」


 ニナがエステルを見る。


「直します」


「ならいい」


 王女は簡単に言う。


 でも、ニナには大きい。


「……分かった」


「よろしく」


「はい」


 今度は、ちゃんと丁寧に返事をした。


 王宮を出る前、セラフィーネがエステルを呼び止めた。


「婚礼衣装はこれで最終工程へ」


「はい」


「行進路も東回廊で確定する」


「西回廊の調査は」


「婚礼とは切り離す」


「分かりました」


「それでいい?」


「はい」


「本当に?」


「本当に」


「前なら」


「それは禁止です」


「ヴィオラから聞いた?」


「皆様が言うので」


 セラフィーネが少し笑う。


「では、仕立て師として仕上げなさい」


「はい」


 店へ戻ったのは午後だった。


 昼食を簡単に済ませ、エステルとニナはすぐ外裾の裏側を広げた。


「ここ」


 エステルが三箇所を示す。


「力を一針へ集めないよう、三角に固定します」


「三本?」


「一本の糸で」


「順番」


「ここから」


 最初の針位置を示す。


「本番の固定なので、しつけより糸を引きすぎないでください」


「弱くても駄目?」


「はい」


「難しい」


「だから一箇所だけです」


「エステル見てる?」


「見ています」


「ずっと?」


「必要なところまで」


 ニナが針を持つ。


 白絹の裏。表へ出さない。


 針先を浅く入れ、支持布だけを拾う。


 一針。


 糸を引く。


「強い?」


「ほんの少し」


「戻す?」


「一度」


 ニナは素直に糸を緩める。


「これくらい」


「はい」


 二針。


 三針。


 三角。


 最後の返し。


「終わり?」


「糸始末を」


「ここ?」


「もう半分内側へ」


「見えない」


「見えなくてよいです」


 針を通し、糸端を隠す。


「できた」


「触ってみてください」


 ニナが外と裏を指で確認する。


「硬くない」


「引いて」


 操作帯。


 一段目。


 外端が寄る。


 糸は耐える。


「大丈夫」


「はい」


「ほんとに?」


「よい仕事です」


 ニナは少しだけ顔を伏せた。


「作業帳」


「書きます」


「名前」


「書きます」


「ほんと?」


「正式な弟子ですから」


 エステルは作業帳へ記す。


『王女婚礼衣装 外裾補助機構 右内側固定 ニナ』


 ニナが横から見る。


「右だけ?」


「担当したところを正確に」


「左はエステル?」


「はい」


「並ぶ?」


「並びます」


 その下へ。


『左内側固定 エステル・ラヴィニア』


「変」


「何が」


「同じ服に名前」


「作業帳ですから」


「でも」


「嫌ですか」


「逆」


 ニナはそれ以上言わなかった。


 夕方、花紋の続きを縫い始めたころ、ユリウスが来た。


 今日はアルヴィスはいない。


 そのことに気づいた自分へ、エステルは少しだけ困る。


「報告です」


「エドガー様?」


「はい」


 ユリウスは封書を一通、裁断台へ置いた。


「生存を確認しました。東部の小都市で、現在も暮らしています」


「返事が?」


「本人の直筆と、現地官吏の本人確認付き」


「読んでも?」


「写しです」


 エステルは手紙を開く。


 文字は年齢を感じさせるが、崩れてはいない。


『臨時返納票を受け取ったことは覚えている。


 王太子婚礼の三日前、王室衣装室から緊急対応に備えるよう依頼があり、空票一枚を保管庫より受領した。


 依頼はガストン・オルドー殿の部署名で届いた。


 私は票を記入していない。


 婚礼前日、王室衣装室の補佐官マティアス・レーンへ空票のまま渡した。


 ギルド承認印は押していない。


 婚礼当日は王宮にいたが、返納庫の開庫には立ち会っていない。』


 エステルは一度読み終え、もう一度読む。


「空票」


 ニナ。


「はい」


「エドガーさんは書いてない?」


「本人の証言では」


「印」


 エステルはユリウスを見る。


「彼の予備印についても書いてあります」


 手紙の続き。


『当時、私の王室担当印には予備が一本あり、担当室の施錠箱に保管していた。


 婚礼翌日、予備印が箱へ戻っていることは確認したが、前日および当日に誰が使用したかまでは記録がない。


 この点を当時報告しなかったことは、私の落ち度である。』


「使われた可能性」


「あります」


「でも誰が」


「不明」


「マティアス」


 ニナ。


「もう亡くなってる」


「はい」


「ガストン」


「部署の責任者です。ただし、空票の受け渡しを本人が命じたかは未確認です」


「エドガー様は」


「ガストン本人と直接話していない、と」


「では」


 エステルは紙を置く。


「エドガー様が返納庫を開けたとは言えません」


「はい」


「空票を王室側へ渡したところまでは認めている」


「それ以降、誰かが記入し、誰かがギルド印を使った」


「署名欄だけ切った」


「可能性が高い」


 ニナが眉を寄せる。


「何で名前だけ切るの」


「見られたくなかった」


「誰の?」


「そこが分かれば大きいですね」


 ユリウスが別の紙を出した。


「もう一つ。エドガーから、当時の記憶について補足があります」


「何でしょう」


「婚礼当日の夕方、彼はリディアを見た」


 エステルの指が止まる。


「母を?」


「王室衣装室の裏手です。拘束される前か、直後かは本人も曖昧ですが」


「何を」


「抱えていた」


「何を?」


「白い布包み」


 店の空気が静かになる。


「大きさは」


「両腕に抱えられる程度。衣装一着より小さい」


「外裾?」


「可能性はあります」


「差し替えた部分」


 ニナ。


「それも」


 ユリウス。


「ただし、十年前の記憶です」


「はい」


「エドガーは、リディアが誰かへその包みを渡したように見えた、とも書いている」


「誰へ」


「顔は見ていない」


 エステルの胸が強く鳴る。


「場所」


「旧王室衣装室裏手の荷受け廊下」


「返納庫の正式入口?」


「近いが別です」


「保守口は」


「もっと西」


 母は何か白い布を持ち、誰かへ渡した。


 返納票。処理未了。台帳から抜かれた一枚。


「母が、票を持ち出した?」


 ニナ。


「分かりません」


 エステル。


「でも、考えるのはよいです」


 ユリウス。


「決めない」


「はい」


 エステルは手紙を見る。


 エドガー本人は十年前、空票を王室側へ渡した。そのあと予備印を誰かが使った可能性がある。


 母は白い布包みを誰かへ渡した。


 それぞれの線が少し近づく。


 でも、まだ一つではない。


「ガストン様の所在は」


「国外療養の記録以降、不明」


「九年前から」


「はい」


「生死も」


「確認中です」


「分かりました」


 ユリウスが婚礼衣装を見る。


「こちらは?」


「最終動作確認を通りました」


「新しい行進路で?」


「はい」


「よかった」


「ニナも本番へ一箇所」


「縫った」


 ニナが少し胸を張る。


「正式な仕事?」


「作業帳に記録しました」


「おめでとう」


「ありがとう」


「給金」


「つきます」


「確認済み」


「そこはぶれませんね」


 ユリウスが笑う。


「では今日はここまでです。エドガー本人への追加質問は書面で」


「王都へ呼ばない?」


 ニナ。


「年齢と体調を確認してから」


「逃げない?」


「現地官吏に保護と確認を頼んでいます」


「保護?」


「重要証言者になったからです」


 エステルは少しだけ顔を曇らせる。


「危険が?」


「念のためです。心配しすぎない」


「顔に出てました?」


「かなり」


 ニナが笑う。


「みんな分かる」


「困りますわ」


「でも今回は、こちらへ任せてください」


 エステルは一度だけ迷い、頷いた。


「お願いします」


 すぐ言える。


 前より、たぶん少し自然に。


 ユリウスが帰ったあと、店は夕方の色へ変わっていく。


 エステルは王家の花紋へ戻る。


 ニナは余った白糸を束ねる。


「エステル」


「はい」


「お母さん、何渡したんだろう」


「分かりません」


「気になる?」


「かなり」


「でも縫う?」


「はい」


「わたしも」


「何を」


「糸束ねる」


「それは縫ってはいません」


「仕事」


「はい。仕事です」


 しばらく静かになる。


「ねえ」


「何でしょう」


「道変わったの、悪かった?」


「婚礼の?」


「うん」


 エステルは針を止めずに考える。


「西回廊を使えないこと自体は、よいことではありません」


「でも東でも歩けた」


「はい」


「服、直した」


「はい」


「じゃあ」


「予定と違っても、終わりではありません」


「十年前も?」


 今度は針が止まる。


「お母さんも?」


 母が何か予定と違うことを見つけた。


 婚礼衣装の縫い目が違う。


 返す道が壊れている。


 それで何かを変えようとした。


「そうかもしれません」


「間に合わなかった?」


「たぶん」


「じゃあ今、続きを?」


 エステルは少し考えてから首を振った。


「母の続きを、そのままするわけではありません」


「前も言ってた」


「はい」


「自分の縫い方」


「そうです」


「でも、お母さんが残したの見る」


「見ます」


「使えるの使う」


「はい」


「違ったら変える」


「はい」


「それ、服と同じ」


 ニナが簡単に言う。


 エステルは少し笑った。


「そうですね」


 花紋の最後の蔓へ、針を入れる。


 白糸を一針、二針。


 そこへ入口の鈴が鳴った。


 アルヴィスだった。


「遅くなった」


「今日は来ないのかと思いました」


 言ってから、エステルは止まる。


 アルヴィスも少し止まった。


「待ってた?」


「……報告があるかと」


「ユリウスが来ただろ」


「はい」


「なら俺の報告はない」


「そうですね」


「帰る?」


「なぜです?」


「用がない」


「お茶くらい」


 また自然に言う。


 アルヴィスが少し目を細めた。


「もらう」


「はい」


 ニナが奥へ行く。


「今日、最終確認?」


「通りました」


「そうか」


「新しい行進路でも」


「よかった」


「ニナも本番へ一箇所」


「聞いた」


「誰から」


「王宮」


「早い」


「リュシエンヌ」


「殿下」


「嬉しそうだった」


「ニナが?」


「リュシエンヌが」


「なぜ」


「自分の服に弟子の仕事が入ったって」


 エステルは少し驚く。


「そうでしたか」


「ニナには言うな」


「なぜ」


「恥ずかしがる」


「公爵様も分かるようになりましたね」


「何が」


「ニナを」


「店に来てれば分かる」


「よく来られますものね」


「……そうだな」


 否定しない。


 最近、それが増えた。


「エドガーの手紙」


「聞きました?」


「ユリウスから」


「どう思われます」


「ガストンの部署は怪しい」


「はい」


「でもガストン本人とはまだ言えない」


「はい」


「エドガーも、今のところ嘘をついている証拠はない」


「はい」


「リディアの白い包み」


 少し間があった。


「気になる?」


「かなり」


「見つけたい?」


「かなり」


「でも」


「今日は縫います」


「そうか」


「公爵様は?」


「今日は茶を飲む」


「それだけ?」


「それでいい」


 ニナが戻る。


 茶が三つ。


 アルヴィスが受け取る。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 普通。


 でも、いい。


 エステルも茶を一口飲み、それからまた針を持つ。


 白い花紋は、もう終わりが近い。


「エステル」


 アルヴィス。


「何でしょう」


「完成したら」


「はい」


「見せて」


「もちろん」


「婚礼前に」


「王宮へ納める前なら」


「店で?」


「はい」


「なら来る」


 予約がまた一つ増える。


「分かりました」


「何」


「皆様、先の予定を取るのがお好きですね」


「嫌?」


「いいえ」


 エステルは笑う。


「お待ちしております」


 その言葉を、アルヴィスは今度もきちんと受け取った。


 婚礼衣装は、あと少しで完成する。


 十年前の白い布包みが何だったのかは、まだ分からない。


 それでも、道が変わったときに服を直したように、見つかった事実に合わせて考え直せばいい。


 最初に決めた形へ、無理に戻す必要はない。


 着る人が歩けるなら。


 真実へ近づけるなら。


 道は、一つでなくてもよかった。

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