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婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第2部 王女の婚礼衣装と、仕立て師たち

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第43話 弟子の最初の一針

 正式に弟子になった翌朝も、ニナはいつもと同じ時間に起き、いつもと同じように店先を掃いた。


 少なくとも本人は、そのつもりだった。


「そこ、三回目です」


「何が?」


「同じ場所を掃いております」


 エステルが言うと、ニナは箒の先を見た。


「汚れてた」


「一回目で十分きれいでした」


「じゃあ二回目は?」


「念入り」


「三回目」


「緊張?」


 問い返したつもりが、自分で答えてしまっている。


 エステルは少し笑った。


「正式な弟子になったからですか」


「別に」


「そうですか」


「……ちょっとだけ」


「昨日とすることは、それほど変わりませんよ」


「分かってる」


「呼び方も」


「変えない」


「食事も」


「減らさない」


「そこは私が言うところでは」


「大事」


「そうでしたね」


 店の奥では、第一王女リュシエンヌの婚礼衣装が人台へ掛けられている。


 白い本体は本縫いが進み、背中には白糸の王家の花紋が三分の二ほどまでできていた。外裾はまだ別にしてあるが、その重さを受けるための支持帯だけは、本番用の布で内側へ組み込む段階まで来ている。


 今日、ニナへ初めて任せるのは、その支持帯のしつけだった。


 見えないところ。


 けれど、王女が一日歩くためには、表の刺繍よりずっと大切な場所かもしれない。


「その前に」


 エステルは裁縫箱から、小さな布包みを出した。


「何?」


「正式な弟子になったお祝いです」


「昨日、公爵が針箱って」


「箱は公爵様から。中身は私からです」


「針?」


「はい」


 包みを開く。


 中には五本の針が並んでいた。


 太いもの。


 細いもの。


 短いもの。


 少し長いもの。


「一本じゃない」


「布によって変えますから」


「全部わたしの?」


「はい」


「店のじゃなく?」


「ニナのです」


 ニナは手を伸ばし、すぐには触れなかった。


「高い?」


「仕事道具として普通のものです」


「祝福とか」


「ありません」


「魔法」


「ありません」


「星青石」


「ありません」


「よかった」


「そこまで警戒しなくても」


「エステルの針、色々あるから」


「母の針が特殊なだけです」


 ニナはようやく一本を取った。


 細い針を指先で回し、目を覗く。


「これ、何用?」


「薄絹です」


「これは?」


「普通の平織り」


「太いの」


「厚手の補修」


「長いやつ」


「しつけ」


 ニナの指が止まる。


「今日使う?」


「使いますか?」


「使う」


 即答だった。


「では、最初の一本はそれですね」


 ニナは長めのしつけ針を、自分の真鍮の指ぬきの横へ置いた。


「箱、まだ?」


「公爵様へ聞いてください」


「今日来る?」


「どうでしょう」


「来ると思う」


「なぜ」


「最近いるから」


「皆様、本当にそういう認識なのですね」


「違う?」


 答えに困ったので、エステルは婚礼衣装へ向き直った。


「仕事を始めましょう」


「逃げた」


「弟子の最初の仕事です」


「急に重くする」


「昨日も言っていましたね」


 支持帯は、王女の肩甲骨の下から腰へ向かって、外裾の重さを分けるためのものだ。


 表からは見えない。


 灰青の裏地と白い本体の間へ入る。


 幅は指二本半ほど。硬すぎると身体へ当たり、柔らかすぎると外裾を持ち上げたときに捩れる。


「ここから、ここまで」


 エステルが指で示す。


「しつけは大きめ。あとで外します」


「本縫いじゃない」


「はい」


「でも王女様の服」


「はい」


「失敗してもほどく」


「はい」


「分かってるけど」


 ニナが衣装を見上げる。


「手、ちょっと変」


「震えます?」


「少し」


「昨日の私と同じですね」


「本番布切ったとき?」


「はい」


「じゃあパン?」


「朝食は食べました」


「じゃあどうする」


「一針目を入れます」


 ニナがこちらを見る。


「それだけ?」


「それだけです」


 最初の一針を入れれば、二針目は少し楽になる。


 エステルは場所だけ指し、手を出さなかった。


 ニナが新しい針へ白いしつけ糸を通す。


 結び目を作る。


 裏地をめくる。


 支持帯を合わせる。


 針先が一度止まった。


 それから布へ入る。


「入った」


「はい」


「王女様の」


「はい」


「わたしが」


「はい」


「何回はいって言うの」


「ニナが何回も確認するからです」


「そっか」


 二針目。


 三針目。


 少しずつ速くなる。


 エステルは王家の花紋へ戻りながら、ときどき横目で見る。


 糸を引く強さ。


 針の間隔。


 裏地を一緒にすくっていないか。


 最初の半尺は問題ない。


 けれど、支持帯が腰へ向かって曲がるところで、ニナのしつけが少し細かくなった。


「ニナ」


「何」


「そこだけ間隔が変わっています」


「うん」


「理由は?」


「曲がるから」


「細かくした?」


「ずれないように」


「悪くはありません」


「じゃあ」


「ただ、引いてみてください」


 ニナが支持帯の端を軽く引く。


 布が少しつれた。


「あ」


「細かく縫うと、曲がる場所に余裕がなくなります」


「じゃあ大きく?」


「どう思います?」


 ニナはしばらく見た。


 指で曲線をなぞる。


「ここだけ、もっとゆるく」


「はい」


「ほどく」


「どうぞ」


「エステルやらない?」


「ニナの仕事ですから」


「でも失敗」


「だから、直すところまで」


 ニナは少し口を結んでから、糸切りを取った。


 三針。


 四針。


 五針。


 ほどく。


 もう一度。


 今度は間隔を大きくし、糸も引きすぎない。


「引くよ」


「はい」


 支持帯を軽く動かす。


 今度は布がつれない。


「できた」


「はい」


「これも仕事?」


「むしろ、こちらまで仕事です」


「失敗したのに?」


「失敗したまま渡さなければ」


 ニナは少し考えた。


「じゃあ、作業帳に書く?」


「書きます」


「『失敗した』も?」


「必要なら」


「嫌だ」


「では『曲線部調整』で」


「それ、かっこいい」


「言い方で隠してはいけませんよ」


「エステルが言った」


「事実です。調整しましたから」


 ニナは納得したらしい。


 そのまま支持帯のしつけを続けた。


 半分ほど進んだところで、自分から止まる。


「エステル」


「はい」


「ここ、青い布と重なる」


 灰青の裏地の縫い代。


「はい」


「このまま支持帯乗せると、厚い」


「どうします?」


「縫い代、反対へ倒す?」


「そうすると表へ響きます」


「じゃあ」


 ニナは裏側をじっと見る。


「少しだけ切る?」


「どこを」


「青の角。全部じゃなくて、ここだけ丸く」


 エステルは自分でも確認した。


 よい。


 灰青の裏地は、その場所で余分な角が一枚重なっている。ほんの半指落とせば、支持帯との段差が減る。


「切ってよいと思います」


「わたしが?」


「はい」


「本番布」


「裏地ですけれど、本番です」


「エステル」


「何でしょう」


「昨日より重い」


「弟子二日目ですから」


「早い」


「では私が切ります?」


 ニナはすぐに首を振る。


「やる」


 小さな鋏。


 角を丸く。


 ほんの少しだけ。


 切る。


 支持帯を重ね直す。


「薄くなった」


「はい」


「これ、見えないね」


「完全に裏側です」


「でも王女様、楽?」


「おそらく」


「ならいい」


 その言葉を聞いて、エステルは少しだけ嬉しくなった。


 見えないところをきれいにするのではなく、着る人が楽になるように見る。


 ニナの目は、やはりそこへ向く。


 昼前、セドリックが店へ来た。


「失礼いたします」


「公爵様は?」


「本日は執務が詰まっておりますので、私が」


 手には小さな包み。


 ニナがすぐ反応する。


「箱?」


「はい」


「早い」


「閣下は昨日のうちに職人へ頼まれました」


「昨日?」


「弟子登録を聞いた直後です」


 アルヴィス本人が来るより、らしい気もした。


 包みを開く。


 淡い木色の、小さな針箱。


 飾りはない。


 蓋の中央に、二文字だけ。


『ニナ』


 彫られている。


「ほんとに名前だけ」


「ご希望どおりと伺っております」


「公爵、覚えてた」


「閣下は意外と細かいことを覚えておられます」


「意外と?」


「今のところは聞かなかったことにしてください」


 エステルは笑う。


「中、開けていい?」


「もちろんです」


 ニナが蓋を開く。


 中は空。


 それがよかった。


 エステルから受け取った五本の針を、自分で一本ずつ入れる。


「入った」


「はい」


「これ、全部わたしの」


「はい」


「名前も」


「はい」


 セドリックが小さく笑う。


「閣下からは、『仕事道具だから遠慮するな』とのことです」


「ありがとって言っといて」


「ご自身でお伝えになるほうが」


「来たら言う」


「ではそのように」


 セドリックが帰ったあと、ニナは針箱を作業台の端へ置いた。


 何度も見る。


「仕事してください」


「してる」


「箱を見ています」


「弟子の仕事」


「違います」


「道具確認」


「言葉を覚えましたね」


「エステルから」


「私のせいですか」


 午後になって、支持帯のしつけが終わった。


 エステルは最初から最後まで確認する。


 曲線部。


 灰青の裏地との重なり。


 肩側。


 腰側。


 最後の返し。


「どう?」


 ニナが訊く。


「ここ」


「何」


「一針だけ、少し強いです」


「どこ」


「ここ」


 指で示す。


 ニナも触る。


「ほんとだ」


「どうします?」


「一針だけほどく」


「はい」


「また?」


「本番ですから」


「弟子の最初の仕事なのに」


「だからこそ」


 ニナは糸切りを取る。


「失敗した記念に残す、とかない?」


「ございません」


「厳しい」


「王女殿下が着ますので」


「分かってる」


 一針だけほどき、縫い直す。


 今度はよい。


「これで」


「はい」


「終わり?」


「しつけとしては」


「作業帳」


「書きましょう」


 エステルは帳簿を開いた。


 けれど、ペンはニナへ渡す。


「私?」


「自分で」


 ニナは少し緊張した顔で書く。


『王女婚礼衣装 支持帯しつけ・裏側確認 ニナ』


 字は少し曲がった。


 でも読める。


「長い」


「仕事も長かったですから」


「これ、残る?」


「はい」


「王女様に見せる?」


「作業記録ですので、必要なら王室衣装室へ提出します」


「じゃあ王宮にも?」


「写しが残る可能性はあります」


「また増えた」


「名前の場所が?」


「うん」


 ニナは針箱を見る。


 弟子登録簿。


 店の作業帳。


 木の針箱。


 そして王女の婚礼衣装の作業記録。


 昨日より一つ多い。


「四つ」


「数えるのですね」


「公爵の悪くないより大事」


「比較するものではありません」


 その少しあと、ユリウスが店へ来た。


 今日はアルヴィスはいない。


「報告です」


「エドガー・ヴァンデルについて?」


「はい」


 ニナも作業台から顔を上げる。


 ユリウスは裁断台へ薄い書類束を置いた。


「まず、昨日の印照合。特別技術監督印との曲率一致は確認されましたが、残片が小さすぎる。本人の印だとは断定できません」


「分かりました」


「ただし、別の記録が出ました」


「何でしょう」


「婚礼の三日前。ヴァンデル本人名義で、返納庫の臨時返納票を一部取り寄せています」


 エステルの手が止まる。


「三日前?」


「はい」


「目的は」


「『王室衣装修繕に備えるため』」


「婚礼前から」


「返納庫を使う可能性を考えていた」


「そうなります」


 ニナが眉を寄せる。


「何で? まだ壊れてないのに」


「そこが問題です」


 ユリウス。


「緊急衣装修繕が必要になると、三日前から想定していたことになる」


「あるいは」


 エステルが言う。


「通常の備えとして?」


「その可能性もあります」


「婚礼衣装は大仕事ですから」


「はい。ただ、返納庫は三十六年前に閉鎖済みです。普通の修繕備品なら別の保管庫を使う」


「それなのに、返納庫用の票」


「そうです」


 エステルは書類を見る。


「ヴァンデル様は、どのような方だったのです」


「十四年前に特別技術監督へ就任。祝縫い関連の規則、王室衣装室とギルド、それから教会との技術調整を担当」


「母と」


「仕事上は接点が多い」


「関係は」


「記録上、良好とも不仲とも言えません」


「何か残っています?」


「一件、意見書が」


 ユリウスが別の紙を出す。


『祝福残糸の処理について、リディア・ラヴィニアは着用者または依頼者の同意なき回収に反対。

 技術監督エドガー・ヴァンデルは、現行規定との齟齬を指摘し、再協議を要請。』


「母が反対」


「はい」


「ヴァンデル様は」


「規則との齟齬を指摘しただけ。反対したとも、支持したとも書かれていない」


「曖昧」


 ニナ。


「役人の文章ですから」


 ユリウス。


「公爵もこういうの書く?」


「もっと短い」


「知ってるの?」


「毎日見ています」


「大変」


「仕事です」


 エステルは意見書へ戻る。


 母は、同意のない回収に反対していた。


 返礼室に刻まれていた言葉。


『返礼は、受けた者と返す者の同意によって行う』


 同じ考え。


「この意見書はいつ?」


「婚礼の四か月前」


「返納庫の臨時票より前」


「はい」


「ヴァンデル様は母の考えを知っていた」


「確実に」


「だから返納庫を?」


「そこはつながりません」


「はい」


 エステルはすぐ頷いた。


「所在は」


「九年前、王都を離れた記録があります」


「どこへ?」


「東部の地方都市、ベルグレン」


「現在も?」


「五年前まではギルド支部への年次報告がある」


「そのあと」


「途絶えています」


「死亡記録」


「なし」


「移転」


「なし」


「では、行方不明?」


「そこまで断定はできません。地方で登録を更新していないだけかもしれない」


 また。


 断定しない。


「ユリウス様」


「はい」


「現地へ人を?」


「すでに照会を出しています」


「公爵様は」


「別口で商会と領主記録を確認中です」


「動いている」


「危険な場所へは行っていません」


「そこを先に教えてくださるのですね」


「必要でしょう」


「はい」


 ニナが横から口を挟む。


「公爵、ちゃんと約束守ってる」


「今のところ」


 ユリウス。


「今のところ?」


「法務官としては常に条件付きです」


「厳しい」


「必要です」


 エステルは少し笑った。


「それから、もう一つ」


 ユリウス。


「ヴァンデルの退任理由」


「何です?」


「健康上の都合、とだけ」


「九年前」


「事件から約一年後」


「本人の申請?」


「はい」


「筆跡は」


「照合済み。本人とみてよい」


「内容は」


「『祝縫い関連業務を継続する適性を失った』」


 エステルは目を上げる。


「適性?」


「具体的な説明はありません」


「精神的な?」


「健康上の申請なので、身体的な可能性も」


「事件を知って」


 ニナ。


「怖くなった?」


「可能性はあります」


 エステル。


「あるいは、関わったから」


 ユリウス。


「それも可能性」


 誰かを疑う材料にもなる。


 誰かが壊れた材料にもなる。


 同じ記録が、どちらにも読める。


「今は」


 エステル。


「探すだけですね」


「はい」


「会えれば、聞く」


「生存していれば」


「そうですね」


 ユリウスは書類をまとめる前に、人台の婚礼衣装へ目を向けた。


「進みましたね」


「はい」


「白い紋章」


「殿下はまだ大きいと」


「それでも選んだ」


「はい」


「支持帯は」


 ニナがすぐ手を上げる。


「わたし」


「ニナがしつけました」


 エステルが言う。


「正式に弟子になったので」


「聞きました」


「早い」


「ギルド登録は法務上も共有されます」


「何で」


「事故時の保護など」


「ちゃんとしてる」


「制度ですから」


 ニナは少し考え、針箱を持ってくる。


「これも」


「何です?」


「公爵」


 ユリウスが箱の名前を見る。


「早いですね」


「みんな言う」


「閣下は、こういうときだけ行動が早い」


「こういうときだけ?」


「聞かなかったことに」


「セドリックと同じ」


 エステルは笑った。


 ユリウスが帰ったあと、店はまた針音だけになった。


「エステル」


「はい」


「エドガーって悪い人?」


「分かりません」


「怪しい?」


「かなり」


「言うんだ」


「怪しいことと、犯人であることは違います」


「三日前から票もらってた」


「はい」


「名前切られた印も似てる」


「はい」


「お母さんと揉めてたかも」


「意見が違った可能性はあります」


「じゃあ怪しい」


「でも、退任理由が事件への後悔や恐怖だった可能性もあります」


「難しい」


「人ですから」


「服より?」


「かなり」


「エステルが言うなら相当」


「服は縫い目を見れば、かなり分かりますので」


「人は?」


「縫い目がありません」


「傷は?」


 エステルは少し止まった。


 アルヴィスの右脇。


 サビーネの頬。


 母の残した手紙。


「ある方もいます」


「見れば分かる?」


「それだけでは」


「じゃあ聞く?」


「はい」


「エドガーに?」


「会えれば」


 ニナは頷く。


「なら、それまで縫う」


「何をです?」


「王女様の服」


「そうですね」


 そのとき、入口の鈴が鳴った。


 王宮の使者だった。


「ラヴィニア様へ、婚礼準備局より行進路変更の通知です」


「変更?」


 エステルは封を受け取る。


 西回廊の調査が続いているため、婚礼当日の行進路を東庭回廊へ変更する。王女私室から西礼拝堂へ直接向かうのではなく、東庭を回って南側から礼拝堂へ入る経路になるらしい。


「遠くなる?」


 ニナが訊く。


「少し。歩く距離が二割ほど増えます」


「王女様、大丈夫?」


「服も確認し直します」


 通知には、段差と曲がり角の位置まで記されていた。西回廊より階段は一段多く、礼拝堂手前に狭い左折が一箇所ある。


「外裾」


 ニナがすぐ言う。


「はい。長いまま曲がると、内側へ寄る可能性があります」


「片手で上げてから曲がる?」


「式の行進中は、できれば下ろしたままにしたいです」


「じゃあ服が曲がる」


「服ではなく、殿下が」


「同じ」


「違います」


 言いながら、エステルは外裾の型紙を広げた。


 西回廊を前提にしたときは、ほぼ真っ直ぐ歩いてから階段へ入る。新しい道では、長い裾を引いたまま少し鋭く曲がらなければならない。


「ここ、折り山を一つ減らしたら?」


 ニナが外裾の根元を指す。


「なぜ?」


「後ろの布、ここが重いから、曲がったとき外へ遅れそう」


 エステルは紙の上で布の流れを追った。


 確かに。


 外裾の上段へ入れていた重なりをほんの少し減らせば、正面から見た量感はほぼ変わらず、方向転換にはついてきやすくなる。


「試します」


「採用?」


「まだです」


「また給金」


「正式な弟子になっても、そこは変わらないのですね」


「仕事だから」


「はい。そのとおりです」


 エステルは作業帳へ追記した。


『行進路変更対応 外裾上段の布量再確認 ニナ指摘』


「名前」


 ニナが覗く。


「残しました」


「まだ採用前なのに?」


「気づいたこと自体が仕事です」


 ニナはしばらくその一行を見てから、小さく笑った。


「じゃあ、ちゃんと見る」


「お願いします」


 調査で道が変わる。


 道が変われば、服も見直す。


 事件と仕事を無理に一つへ混ぜなくても、こうして結果だけはつながっていく。


 今、できること。


 そこへ戻る。


 エステルは人台の背中へ向かい、ニナがしつけた支持帯の上から本縫い位置を確認する。


 しつけは、あとで外す。


 でも、なくなるわけではない。


 その一針があったから、本縫いの場所が決まる。


「ニナ」


「何」


「ここ、明日まで残します」


「しつけ?」


「はい。王女殿下が次に着たとき、位置をもう一度確認してから外します」


「じゃあ、わたしの針、王女様が着る?」


「正確には、ニナのしつけが残った服を」


「同じ」


「少し違います」


「でも残る」


「一日だけ」


「それでも」


 ニナが笑う。


「いい」


 名前は作業帳に残る。


 針箱にも残る。


 しつけそのものは、いずれほどかれる。


 それでも、ほどかれるまでの役目がある。


 十年前の記録から切り取られた名前も、別の帳簿から少しずつ戻ってきている。


 エドガー・ヴァンデル。


 まだ、答えではない。


 ただ、消えたと思われていた欄の向こうに、一人の人間の輪郭が見え始めた。


 エステルは白い婚礼衣装の裏側を整えた。


 その隣で、ニナが自分の名前の入った針箱を開き、次に使う針を選んでいる。


「どれ?」


 エステルが訊く。


「薄い布だから、細いの」


「よいと思います」


「弟子っぽい?」


「かなり」


「ほんと?」


「はい」


「じゃあやる」


 ニナは新しい針へ糸を通した。


 正式な弟子としての二日目。


 でも、王女の婚礼衣装へ入れる針は、今日が最初だった。


 見えない裏側へ、小さな一針。


 それで十分な始まりだった。


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