第42話 名前を書く欄
王家の花紋は、三日かけてもまだ半分だった。
白い布へ白い糸を重ねる刺繍は、色糸よりごまかしが利かない。遠目には目立たないのに、光が斜めから当たれば一針ごとの高さまで分かる。
王家の印だからといって特別な縫い方をするわけではない。ただ、雑にはできなかった。
「まだここ?」
ニナが人台の後ろから覗く。
「昨日より進んでおります」
「半分くらい」
「はい」
「王女様、婚礼までに間に合う?」
「間に合わせます」
「寝る?」
「寝ます」
「ほんと?」
「その確認はもう十分です」
「公爵に言う」
「最近、それを使えば何でも通ると思っていませんか」
「ちょっと」
「認めるのですね」
ニナは笑い、自分の作業台へ戻った。
今日は近所の魚屋から預かった前掛けの紐を付け替えている。濡れた手でも結びやすいよう、元より少し太い布紐へ替える仕事だ。
エステルは最初に紐の幅と付け位置だけ確認し、あとは任せている。
「エステル」
「はい」
「この根元、二重にしたい」
「理由は?」
「魚屋さん、ここ強く引っ張るでしょ。一枚だとまた取れそう」
「裏当ては?」
「古い紐の端。ここならまだ使える」
切り取った古い紐のうち、傷んでいない部分を短くして裏当てにするらしい。
「よいと思います」
「捨てなくていい?」
「使えるなら」
「返す?」
「何をです?」
「役目」
エステルは少し手を止めた。
「昨日の話を聞いていたのですか」
「店狭いから聞こえた」
「どこまで」
「返すのは元に戻すだけじゃない、とか」
「かなり聞いていますね」
ニナは古い紐を見た。
「これも前掛けの紐としては終わり。でも裏に入れたらまだ使える」
「少し意味は違いますが、似ています」
「じゃあ使う」
「はい」
迷わず作業へ戻る背中を見ながら、エステルは針を進めた。
最近は、店の中で自分だけが判断する必要がなくなってきた。婚礼衣装も返納庫もアルヴィスの呪いも、自分一人で抱えれば針を持つ時間まで足りなくなる。
任せること、聞くこと、返事を待つこと。それも仕事のうちなのだと、ようやく分かり始めていた。
開店して半刻ほどで、入口の鈴が鳴った。
入ってきたのはマダム・ベルナールだった。一人ではない。マスター・オルセンも一緒だ。
「おはようございます」
「朝から邪魔するよ」
オルセンが言う。
「今日は婚礼衣装?」
「はい」
「見ていいかい」
「どうぞ。触れない範囲で」
「分かってる」
ベルナールは人台の背中を見て、白糸の花紋へ目を細めた。
「大きいわね」
「殿下もそうおっしゃいます」
「でも白」
「はい」
「なるほど。悪くない」
店の奥で、ニナの指が一本立つ。
「何」
ベルナールが見る。
「一回」
「何が?」
「気にしないでください」
エステルが先に止めた。
「公爵の癖がうつった?」
「癖でもございません」
「じゃあ本題」
ベルナールが細長い革鞄を裁断台へ置いた。
「返納庫の記録よ」
エステルの表情が変わる。
「臨時返納票?」
「それも」
「見つかったのですか」
「書式だけ」
取り出されたのは、古い薄紙を保護板に挟んだものだった。返納庫そのものから出た紙ではなく、ギルド保管庫で見つかった未使用の様式だという。
上部には『臨時返納票』。
その下へ、順に欄が並ぶ。
『返納日時』
『返納者』
『返納品』
『元受領者』
『返礼処理』
『王室衣装室確認』
『仕立てギルド確認』
「欄が多い」
ニナが近づく。
「触らないで」
「見てるだけ」
「最後」
エステルは下二つへ視線を止めた。
「王室衣装室とギルド」
「共同管理だからね」
ベルナールが答える。
「閉鎖後に例外で返納庫を使う場合、この票を一枚だけ台帳へ仮綴じする」
「処理が終われば?」
「票を外して、処理先の正式記録へ移す」
エステルは息を止めた。
「では、返納庫の台帳から一枚がほどかれていたこと自体は」
「異常ではない」
「正常な手順?」
「その部分だけなら」
オルセンが苦い顔で続ける。
「問題は、その先の正式記録がないことだ」
「抜かれた一枚が、どこにも移されていない」
「少なくとも今のところは」
ベルナールが次の紙を出した。
「それから、十年前の婚礼の日。返納庫は一度だけ臨時開庫されている」
店の中が静かになる。
日付は、王太子妃の婚礼と同じ日。
『臨時開庫』
『目的 緊急衣装修繕用』
「緊急衣装修繕」
エステルはその文字を目でなぞった。
「婚礼衣装でしょうか」
「品名欄は別紙」
ベルナール。
「その別紙がない」
「抜かれた臨時返納票?」
「可能性が高い」
「開庫の承認は」
王室衣装室側には古い三波印が残っている。
その反対側。
仕立てギルドの欄だけが、細い長方形に切り取られていた。
「切った?」
ニナが言う。
「そう見える」
オルセン。
「名前だけ?」
「署名欄と印の一部」
エステルが近づく。
「破れではありませんね」
「紙切り用の小刀でしょう」
ベルナール。
「いつ切られたかは?」
「不明。十年前かもしれないし、その後かもしれない」
エステルは頷いた。
決めない。
「この記録は、どこにあったのです」
「返納庫閉鎖後記録じゃない」
「では?」
「廃棄資材修繕費の束」
オルセンが眉を寄せる。
「何で?」
ニナ。
「隠したかったから、でしょうか」
エステルが言う。
「そう見える。でも断定はしない」
ベルナール。
「三十六年前に閉鎖された設備の臨時開庫記録が、なぜか廃棄資材の修繕束へ混ぜられていた。普通に返納庫の記録だけ探しても出ない場所よ」
「十年間、誰も?」
「少なくとも今回まで表には出ていない」
ベルナールの声は平らだったが、少しだけ怒っているように聞こえた。
「私も見落とした」
「マダム」
「言い訳はしない。リディアの件を知っていて、ギルドの記録を全部見たつもりだった」
「場所が違えば」
「それでもよ」
オルセンが口を挟む。
「責めるなら俺もだ」
「反省会はあと」
「はいはい」
ベルナールがもう一枚を示す。
「臨時開庫の時刻」
エステルは見る。
婚礼式の直前。
「母が『縫い目が違う』と言ったころ」
「かなり近い」
「アルヴィス様が傷ついたのは」
「その少しあと」
十年前の婚礼衣装に異変が見つかり、返納庫が『緊急衣装修繕』の名目で開かれ、その後にアルヴィスが刺された。
順番が、初めて記録の上でも近づいた。
「返納品欄がない」
「だから、何が入ったかはまだ不明」
「処理先も」
「不明」
ニナが臨時返納票を見ながら首を傾げる。
「元受領者って何?」
エステルの目もその欄へ戻る。
「重要です」
「どういう意味」
ベルナールが答える。
「祝福衣装なら、最初にその祝福を受け取った人。つまり着用者ね」
「王太子妃殿下」
「もし返納品があの婚礼衣装なら」
「でも」
ニナが先に言う。
「婚礼前なら、まだ着てない?」
エステルの手が止まった。
そうだ。
臨時開庫の時刻は式の前。
もし返納されたのが婚礼衣装の一部なら、祝福を受け取ったあとの返納ではない。
「紙片の『返納処理 未……』」
エステルが言う。
「未処理だったのは、祝福の返礼ではなく、衣装そのものの処理だった可能性があります」
「差し替え前の部分」
オルセン。
「あるいは、リディアが異常に気づいて外したもの」
ベルナール。
静かになる。
母は婚礼衣装の縫い目が違うと気づいた。
何かを外した。
それを返納庫へ一時的に置いた。
緊急修繕用として。
そして、その処理は終わらなかった。
「筋は通ります」
エステルは言った。
「でも、まだ筋だけです」
「そのとおり」
ベルナール。
「だから次に、誰がギルド側で開庫を承認したかを確認する」
ニナが切り取られた欄を見る。
「名前が分かれば?」
「十年前、ギルド側から返納庫を開けることに同意した人が分かる」
「候補は」
「当時の権限者は四人」
「誰です?」
「前ギルド長。副長。王室担当審査官。それから祝縫い関連の特別技術監督」
「四人」
「うち二人は故人。一人は地方へ移住」
「残り」
オルセンが言った。
「俺だ」
エステルは彼を見る。
「マスター?」
「当時、王室担当審査官だった」
ニナも作業の手を止める。
「じゃあ」
「俺の署名じゃない」
「覚えているのですか」
「返納庫を開けた覚えはない。婚礼の日に王宮へはいたが、衣装室の外だった」
「母とは」
「会ってない。リディアが拘束されたあとに知った」
オルセンは少し視線を落とす。
「ただ、俺の名前を使われた可能性まで否定はできない」
「印は?」
エステル。
「俺の印は四角だ」
切り取られた欄の端には、ごく小さな黒い弧が残っている。
「これは曲線」
「だから俺の印ではない」
ベルナールが言う。
「候補は二人に絞れる可能性が高い」
「名前は」
エステルが聞くより先に、オルセンが手を上げた。
「今は出すな」
「なぜ?」
「残った弧と当時の印を照合してからだ。名前を聞けば、こっちがそれに引っ張られる」
エステルは少しだけ目を見開いた。
「慎重ですね」
「お前らに言われたくない」
ニナが笑う。
「成長」
「ニナ」
「禁止でした」
「何のルールだい」
「店のです」
「勝手に増えてるね」
少しだけ空気が緩む。
「照合は今日?」
「午後」
ベルナール。
「ユリウスにも写しを渡す。現物はギルドで封印する」
「お願いします」
ベルナールが頷いたあと、今度は別の紙を取り出した。
「もう一つ用事」
「何でしょう」
「ニナ」
「わたし?」
呼ばれて、ニナが立つ。
「最近、有償で店の仕事をしてる?」
「うん」
「一人で仕上げた仕事も」
「ある」
「エステル、記録は?」
「こちらに」
作業帳を出す。
『靴職人上着 右袖補強 ニナ担当』
『薬屋作業上着 膝・袖補強 ニナ担当』
『魚屋前掛け 紐交換 作業中』
ベルナールは目を通す。
「十分」
「何が?」
ニナ。
「そろそろ正式に決めなさい」
エステルの手が止まる。
「弟子入り」
ニナの顔が固まった。
「今?」
「今でなくてもいい。ただ、このまま『弟子ではないけれど仕事はする』を続けると、責任の所在が曖昧になる」
「責任」
「失敗したとき誰の仕事として扱うか。給金。事故。ギルドの保護。全部」
「エステルの店」
「今はね」
「弟子になったら」
「エステルの弟子」
ニナがエステルを見る。
今まで何度も言ってきた。
『弟子ではありません、まだ』
その「まだ」をずっと残していたのは、ニナ本人の意思を飛び越えたくなかったからだ。
「今日決めなくてもよいです」
エステルが言う。
「逃げないで」
ベルナール。
「え」
「あなたもよ」
「私?」
「ニナに決めさせるのと、あなたが自分の希望を言わないのは別」
エステルは止まった。
「ニナを弟子にしたいのか、したくないのか。先に言いなさい」
ニナもまっすぐこちらを見る。
逃げる必要はない。
「私は、ニナに正式に私の弟子になっていただきたいです」
ニナの目が少し大きくなった。
「ほんと?」
「はい」
「前は、わたしが望むならって」
「今もそうです。でも、私自身はなっていただきたいと思っています」
「何で」
「一緒に働いてくださると助かります。ニナは裏側を見るのが上手ですし、着る方が困るところにもよく気づきます」
「でも失敗する」
「私もします」
「王女様の紐」
「噛みました」
「審査の服」
「直しました」
「針も刺す」
「刺します」
ニナが少し笑う。
「じゃあ同じ?」
「そこは同じでなくてよいです」
ベルナールが咳払いした。
「話、続ける?」
「すみません」
ニナは自分の仕事着の前を軽く握る。
「弟子になったら、給金なくなる?」
「なくしません」
「食事」
「今までどおり」
「寝るところ」
「今までどおり」
「勝手に仕事増える?」
「相談します」
「王女様の服、縫う?」
「本縫いの主要部は私が担当します。ただ、しつけや糸準備、裏側の確認は任せられます」
「名前、出る?」
「何に?」
「仕事」
エステルは作業帳を見る。
「出します」
「弟子って、名前なくなるものじゃない?」
「逆よ」
ベルナールが答える。
「正式なら残る」
「どこに」
「弟子登録簿」
鞄から一枚の書類が出された。
『徒弟登録申請』
その下に欄が並ぶ。
『親方仕立て師』
『徒弟本人』
『開始日』
『給金条件』
『住居・食事』
『担当範囲』
「名前を書く欄」
ニナが小さく言う。
「自分で書くの?」
「字が書けるなら、自分で」
ニナはしばらく紙を見た。
さきほど見た十年前の記録では、名前の欄が切られていた。
今、目の前の紙には、自分の名前を書く場所がある。
「切られない?」
ニナが言った。
誰もすぐには答えなかった。
「何がです?」
エステル。
「名前。十年前の人、切られて分かんなくなった」
「はい」
「わたしのは」
エステルは申請書を見る。
「切らせません」
「ほんと?」
「はい」
「なくならない?」
「ギルドと店、両方に記録を残します」
「二つ?」
「必要なら三つでも」
「やりすぎ」
ベルナールが言う。
「でも、ニナが望むなら」
ニナはもう一度考えた。
長いようで、短い時間。
「なる」
「弟子に?」
「うん」
「今決めてよいのですか」
「エステル、なってほしいって言った」
「はい」
「わたしも」
一度だけ言葉を飲む。
「エステルの弟子、なりたい」
胸の奥が温かくなる。
泣くほどではない。
たぶん、ニナも同じだった。
「では書きなさい」
ベルナールが紙を置く。
「今?」
「嫌ならあとでも」
「今」
即答だった。
「ペン」
「こちらです」
エステルが差し出す。
ニナは『徒弟本人』の欄へ、ゆっくり二文字を書く。
ニナ。
姓はない。
それでいい。
「これだけ?」
「はい」
「短い」
「名前は長さではありません」
「エステルは長い」
「それは」
オルセンが笑う。
「貴族の名前は仕方ない」
「今は没落した元男爵家です」
「そこ訂正する?」
「事実ですので」
次は親方仕立て師の欄。
エステル・ラヴィニア。
二つの名前が、同じ紙へ並ぶ。
「給金」
ニナがすぐ言った。
「そこから?」
「大事」
「大事よ」
ベルナールまで同意する。
「今までの基準をもとに、正式な月給へ切り替えます」
「増える?」
「担当が増えれば」
「じゃあ増やす」
「先に仕事です」
「分かってる」
住居と食事は現状どおり。
担当範囲は『基礎縫製、補修、しつけ、材料整理。親方確認のもと一部仕上げ』。
「王女様の服って書かない?」
「個別の仕事名は不要です」
「そっか」
「店の作業帳には残します」
「うん」
開始日。
「今日?」
ニナが見る。
「今日でよいですか」
「うん」
日付を書く。
最後に、ベルナールがギルド印を押した。
ぽん、と小さな音。
「これで正式」
ニナが紙を見る。
「終わり?」
「始まりだよ」
オルセン。
「うまいこと言う」
「普通だ」
ニナはエステルを見る。
「何か変わる?」
「呼び方は変えません」
「先生とか」
「嫌です」
「わたしも」
「では今までどおり」
「仕事」
「少しずつ増えます」
「給金」
「正式に」
「あと」
「何です?」
「勝手にいなくならない」
エステルは止まった。
「誰が」
「エステル」
「私?」
「お母さんみたいに、一人で全部やって消えない」
店が静かになる。
ベルナールもオルセンも何も言わない。
「約束?」
ニナはまっすぐ見ている。
「はい。約束します」
「危ないとこ」
「一人で行きません」
「仕事」
「抱え込みません」
「寝る」
「……寝ます」
「間」
「そこは」
ニナが笑う。
「弟子だから言う」
「弟子は生活監督では」
「でも言う」
「分かりました」
ベルナールが小さく息を吐く。
「いい弟子ね」
「今、恥ずかしいから言わないで」
「褒めたのに」
ニナの耳が赤い。
エステルも少しだけ熱い。
「登録書は一部ギルド。写しを店へ」
ベルナール。
「原本は?」
「ギルド」
ニナ。
「切らない?」
「切らない」
「なくさない?」
「なくさない」
「ほんと?」
「あなた、私を誰だと思ってるの」
「怖い人」
オルセンが吹き出した。
「ニナ」
「ほんとだし」
ベルナールは目を細めたが、怒らない。
「なら、怖い人が守ると思いなさい」
「分かった」
十年前の記録では、名前を書く欄が切られていた。
今日、ニナは自分でそこへ名前を書いた。
なくされた名前と、残すために書いた名前。
同じ紙ではないのに、エステルの中ではしばらく並んでいた。
「マダム」
「何」
「印の照合が分かりましたら」
「すぐ知らせる」
「お願いします」
「婚礼衣装は」
「進めます」
「弟子もできたし」
「はい」
ニナが口を挟む。
「正式」
「正式です」
「言ってみて」
「何を?」
「弟子」
エステルは少し笑う。
「私の弟子のニナです」
ニナの顔が一気に赤くなる。
「やっぱりやめて」
「なぜです」
「恥ずかしい」
「自分で言わせたでしょう」
「もういい」
オルセンが笑う。
「若いねえ」
「マスターも照合を」
「分かってるよ」
二人が帰る。
扉が閉まると、店は少し静かになった。
「ニナ」
「何」
「仕事に戻りますか」
「うん」
「魚屋の前掛け」
「やる」
「弟子になった最初の仕事ですね」
「急に重い」
「いつもどおりでよいです」
「ほんと?」
「はい」
ニナは古い紐を裏当てへ置く。
「これ、使う」
「はい」
「縫っていい?」
「どうぞ」
エステルも王家の花紋へ戻った。
白い糸を一針ずつ重ねる。
昼前、また入口の鈴が鳴った。
「いる?」
アルヴィスだった。
「おります」
「何があった」
「なぜ分かるのです」
「ニナの顔」
「何」
ニナが隠そうとする。
遅い。
「正式に弟子になりました」
エステルが言う。
アルヴィスが止まる。
「そうか」
「はい」
「おめでとう」
ニナが目を少し大きくした。
「わたし?」
「他に誰が」
「エステルじゃなく?」
「両方。店にも」
エステルは少し笑う。
「ありがとうございます」
「ニナ」
「何」
「給金」
「出る」
「確認済みか」
「一番に」
「だと思った」
「公爵も、祝い何かくれる?」
「要求するのか」
「だめ?」
「何がいい」
聞かれると、ニナは困った。
しばらく自分の手元を見る。
「針」
「自分の?」
「うん」
ニナには母の形見の真鍮の指ぬきがある。でも針は、今まで店のものを使っていた。
「それなら」
エステルが言う。
「私から贈りたいです」
「公爵が聞いた」
「でも、師匠として」
「師匠?」
ニナがまた赤くなる。
「役割としてです」
アルヴィスが少し考えた。
「なら俺は針箱」
「針箱?」
「針を入れるものがいるだろ」
「公爵様」
「何だ」
「高価すぎるものは」
「木でいい」
「装飾は」
「要らない」
ニナがすぐ言う。
「名前だけ」
「彫る?」
「うん」
名前。
また。
エステルは少しだけ笑った。
「よいと思います」
「じゃあそうする」
「公爵」
「何だ」
「ありがと」
ニナは少し照れながら言った。
アルヴィスは一瞬だけ黙り、それから頷く。
「受け取った」
「返す?」
「何を」
「何でもない」
ニナが笑う。
「ところで」
アルヴィスが裁断台の紙を見る。
「ギルドから何が」
「十年前の臨時開庫記録が見つかりました」
表情が変わる。
「日付」
「婚礼の日です」
「目的」
「緊急衣装修繕用」
「承認」
「王室衣装室側は残っています。ギルド側だけ署名欄が切り取られていました」
「誰」
「印の照合中です」
「候補は」
「今は名前を聞いておりません」
アルヴィスが少し驚く。
「聞かなかった?」
「先入観を避けるためです」
「本当に待てるようになったな」
「それは禁止です」
「何が」
「店のルールです」
「知らない」
「今日できました」
「勝手だな」
ニナが笑う。
「弟子になったから増やした」
「お前か」
「違う」
「では誰が」
「自然に」
「一番信用できないやつだ」
午後、エステルは王家の花紋をさらに少し進めた。
ニナは魚屋の前掛けを仕上げ、今度は自分から作業帳へ名前を書いた。
『魚屋前掛け 紐交換 ニナ担当』
前はエステルが書いていた。
今日は本人が書く。
「これでいい?」
「はい」
「字、曲がってる」
「読めます」
「直す?」
「次から少しゆっくり書けば」
「ほどけない」
「紙ですから」
「じゃあ残る」
「はい」
ニナはその一行を少し長く見た。
夕方近く、ギルドから使者が来た。
ベルナールからの短い書状。
『臨時開庫記録のギルド印残片を照合。
オルセン印ではない。
前ギルド長印とも不一致。
残る候補二名のうち、特別技術監督印と曲率一致。
ただし残片が小さく、断定不可。
当時の特別技術監督名――エドガー・ヴァンデル。
九年前、王都を離れた記録あり。
現所在確認中。』
「エドガー・ヴァンデル」
エステルは声に出す。
知らない名前だった。
アルヴィスも眉を寄せる。
「聞いたことは?」
「ない」
「祝縫い関連の特別技術監督」
「リディアと関わっていた可能性は高い」
「九年前に王都を離れた」
「事件の一年後」
また、時期が近い。
でも。
「まだです」
エステルが言う。
「何が」
「この方が承認者だと断定はできません」
「分かってる」
アルヴィスが先に答えた。
「印の残りが小さい」
「はい」
「本人の所在も不明」
「はい」
「なら探す」
「ユリウス様が?」
「俺も調べる」
「危険な場所へ行かずに?」
「人を探すだけだ」
「でしたら」
「許可?」
「お願いです」
「分かった」
最近、その返事が早い。
エステルは少しだけ嬉しくなる。
ニナが書状を覗く。
「名前、残ってた」
「何が?」
「この人」
「はい」
「切られた欄じゃなく、別の記録に」
エステルは書状を見る。
エドガー・ヴァンデル。
名前は一箇所を切れば、全部消えるわけではない。
別の帳簿。
別の人の記憶。
別の印。
どこかに残る。
「そうですね」
「わたしのも?」
「何がです?」
「名前」
ニナは今日の作業帳を指す。
「弟子の紙と、これ」
「はい」
「針箱にも」
「公爵様が本当に彫れば」
「彫る」
アルヴィスが言う。
「じゃあ三つ」
「三つですね」
ニナは満足そうに笑った。
エステルは人台へ向き直る。
白い王家の花紋は、まだ完成していない。
遠くから見れば、ほとんど白い布のままだ。
それでも近づけば、今日縫った分だけ確かに輪郭が増えている。
名前も同じなのかもしれない。
一箇所から消されても、誰かが覚え、別の場所へ書き、仕事の跡へ残していれば、完全にはなくならない。
エステルは白糸を引いた。
「ニナ」
「何」
「明日から、婚礼衣装のしつけを一部お願いしてもよろしいですか」
ニナが止まる。
「ほんと?」
「はい。裏側の支持帯です」
「見えないところ」
「大切なところです」
「失敗したら」
「ほどきます」
「エステルが?」
「一緒に」
ニナは少しだけ考え、それから頷いた。
「やる」
「では明日」
「今日じゃない?」
「今日は魚屋の前掛けを片付けてください」
「順番」
「はい」
「分かった」
正式な弟子になった日でも、急に何もかもが変わるわけではない。
昨日までと同じ店で、同じ針を持ち、同じように一つずつ仕事を終える。
それでよかった。
十年前の切り取られた署名欄も、今日書かれたニナの名前も、どちらも一枚の紙に残る印だった。
違うのは、その名前を消したい人がいたのか、残したい人がいるのか。
エステルは、店の作業帳へ新しい一行を書き足した。
『ニナ 徒弟登録開始』
そしてその下へ、小さく日付を記す。
今度は、なくさないために。




