↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄された没落令嬢、路地裏で仕立て屋を始めました 〜私の縫う一着には、祝福が宿るようです〜  作者: みき
第2部 王女の婚礼衣装と、仕立て師たち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
41/49

第41話 返す先は、一つではない

 翌朝、エステルは王女の婚礼衣装へ、最初の王家の花紋を写していた。


 白い布へ、白い糸で縫う。


 遠目には目立たず、近づけば確かにそこにある。リュシエンヌが最後まで「大きい」と不満を言った紋章だ。


 それでも、位置も大きさも変えなかった。


「ほんとに見えない」


 ニナが、人台の背中へ顔を近づける。


「光が当たると見えます」


「ここ?」


「はい」


「白に白って、意味ある?」


「ございます」


「見えないのに?」


「見せつける必要がないだけです」


「でも王家って分かる」


「近づけば」


「ずるい」


「工夫です」


 前にも同じことを言った。


 ニナはもう聞き慣れたのか、それ以上は突っ込まず、机の上へ置かれた刺繍見本を持ち上げた。


「これ、全部エステルが縫う?」


「基本は」


「何日かかる?」


「数日」


「長い」


「紋章だけを縫うわけではありませんから」


「もっと長いじゃん」


「婚礼衣装ですので」


「出た」


 エステルは笑いながら、薄い転写紙を外した。


 花紋の輪郭が、ごく淡く布へ残る。


 今日はその最初の部分だけを縫う予定だった。


 王室衣装室から借りた正式紋章の図案は細かい。王冠を囲む蔓、左右へ広がる花弁、中央の古い王家印。


 全部を白糸で縫えば、派手さはないのに手間だけはかかる。


「好きじゃないのに、こんなに手間かけるんだ」


 ニナが言う。


「殿下が?」


「うん」


「嫌いだから雑にしてよいわけではありません」


「でも、大きいの嫌なんでしょ」


「はい」


「じゃあ」


「必要だから残しました」


「それ、前も聞いた」


「なら、なぜ聞くのです」


「今、ほんとに縫うから」


 ニナは布を見た。


「図だけのときと違う」


 それは、少し分かる。


 紙の上で決めたときと。


 本番の布へ針を入れるとき。


 同じ選択でも、重さが違う。


「私も、少し緊張しております」


「変える?」


「変えません」


「即答」


「決めましたので」


「王女様も?」


「はい」


「じゃあいい」


 ニナは自分の作業へ戻った。


 最近は、近所の繕い物を一人で任せることが増えている。


 もちろん、最後の確認はエステルがする。


 それでも以前のように、一針ごとに横から見ることはしない。


 ニナ自身も、分からないまま進めることが減った。


「エステル」


「はい」


「この膝」


 持ってきたのは、荷運び人の作業ズボンだった。


「破れてないけど薄い」


「どうします?」


「裏から当てる」


「布は?」


「同じくらいの厚さ」


「もっと厚いものでは?」


「膝曲げにくくなる」


「よいと思います」


「じゃあやる」


「はい」


 迷わず戻っていく。


 少しずつ。


 店の中で、エステルだけが判断する必要がなくなってきた。


 そのことが、思っていた以上にありがたい。


 婚礼衣装も、返納庫も、公爵の呪いも、自分一人で抱えれば針を持つ時間まで足りなくなる。


 人へ任せる。


 聞く。


 返事を待つ。


 それも仕事のうちなのだと、最近ようやく分かってきた。


 開店して半刻ほど。


 入口の鈴が鳴った。


「朝からいる?」


 低い女の声。


 エステルは顔を上げた。


「サビーネ様」


「その呼び方、まだ慣れない」


 黒い杖をつきながら、サビーネ・クロルが店へ入ってくる。


 赤茶に灰の混じった髪。


 左頬の火傷痕。


 歩くたび、片足をわずかに引く。


「王宮へ行かれたのでは?」


「行った」


「返送口を?」


「見た」


 その一言で。


 エステルの針が止まる。


「どうでした?」


「座らせて」


「もちろん」


 ニナが、すぐに椅子を出した。


「水?」


「もらう」


「はい」


 最近。


 この店へ来る人は。


 妙に自然に水を受け取るようになった。


 アルヴィスを見慣れたせいかもしれない。


「ありがとうございます」


 サビーネが受け取る。


「公爵は?」


「今日は公爵邸です」


「止められた?」


「はい」


「当然」


「公爵様は不満そうでした」


「死ぬほど痛い場所へ手掛かりだからって近づくのは馬鹿」


「本人にも」


「言った?」


「遠回しに」


「優しい」


「かなり直接だったと思います」


 ニナが小さく笑う。


「で」


 サビーネは水を一口飲み、杖を椅子へ立てかけた。


「返送口」


 エステルは裁断台の端を片付ける。


「開けました?」


「まだ」


「では」


「蓋の周りだけ見た」


「なぜ?」


「開ける前に呼ばれたから」


「よかったです」


「最近、あんた待つようになったって聞いた」


「誰からです?」


「ヴィオラ」


「広がっている」


「成長したね」


「それは禁止です」


「何それ」


「皆様が言うので」


 サビーネは鼻で笑った。


「じゃあ、見たものだけ話す」


「お願いします」


「返送口の石蓋。表は王室のもの。でも、縁に染め師の印がある」


「染め師?」


「古い六溝印」


 エステルの手が止まる。


「六?」


「六本の溝」


 サビーネは紙を借り、簡単な印を描いた。


 円。


 そこから外へ。


 六本。


「返礼室」


 エステル。


「そう」


 六つの木枠。


 六方向から中央へ。


 返礼室には、六本の流れがあった。


「同じ印?」


「完全には違う。でも系統は同じ」


「どういう意味でしょう」


「返礼室は王室側の入口。返納庫は、その先へ渡す場所」


「その先」


「染め場」


 空気が変わった。


「旧染め庫?」


「たぶん」


 サビーネの声から、笑いが消える。


「昔の王室祝縫いは、祝福を縫って終わりじゃなかった」


「返す?」


「そう」


「役目を終えた祝福糸を?」


「糸のままなら再利用できるものもある。でも、全部じゃない」


 サビーネは自分の指へ視線を落とす。


「強い祝福は、ほどいたあとも色みたいな残り方をする」


「痕跡」


「そう」


「それを」


「洗う」


 エステルは眉を寄せた。


「洗う?」


「染め師の言葉」


「魔力を?」


「想いの残りを、糸から落とす」


「落としたものは」


「捨てない」


「返す?」


「本来はね」


 サビーネが紙へ、六本の線の中央から一本下へ伸ばす。


「役目を終えた祝福の残りは、返礼室で集める。返納庫で分類する。衣装、糸、返礼具、未処理」


「はい」


「それから、返送口を通して染め側へ」


「何のために」


「残りを薄める」


「薄めて」


「元の流れへ戻す」


「元の人へ?」


「必ず同じ人じゃない」


 エステルが止まる。


「では、どこへ」


「王都の祝福循環」


「循環?」


「昔の仕組みは、そんな大層な名前じゃなかった」


 サビーネは少し考える。


「井戸へ戻す水みたいなもの」


「誰か一人へ返すのではなく」


「祝福に使われた力を、町へ返す」


「そんな仕組みが」


「昔は」


「教会が管理する前?」


「ずっと前」


 エステルは、母の言葉を思い出す。


『受け取って。返したものは。奪いにくくなる。』


 返す。


 個人と個人。


 だけではない。


 受け取ったものを。


 閉じ込めず。


 次へ流す。


「だから」


 サビーネ。


「返送口」


「はい」


「物を落とす穴じゃない」


「では」


「細い糸や、洗った残りを送るための経路」


「どこへ」


「旧染め庫の沈め槽」


 沈め槽。


 以前。


 サビーネが話した。


 音鐘。


 染め庫。


 古い。


 地下。


「現在もあります?」


「場所は残ってると思う」


「使われていますか」


「知らない」


「十年前は?」


 サビーネが黙る。


「使った」


 声が。


 低い。


「誰が」


「私」


 ニナも手を止めた。


「奪い糸を?」


「そう」


 サビーネは杖の柄を握る。


「作らされたとき、古い染め経路の一部を使った」


「返納庫から?」


「直接じゃない。私は染め側しか触らせてもらえなかった」


「何が流れてきました?」


「黒くする前のもの」


「祝福の痕跡」


「たぶん」


「たぶん?」


「当時は説明されなかった」


 サビーネの口元が歪む。


「王室と教会が『廃棄祝力』って呼んでた」


「廃棄」


「私は信じてた。最初は」


「でも」


「人のものだった」


 声。


 静か。


「誰かが受け取った祝福。役目が終わったもの。返すはずだったもの」


「それを」


「集めて、濃くして、黒く染めた」


 奪い糸。


 祝福を奪う。


 でも。


 最初から。


 奪う糸として。


 生まれたのではない?


「返すための流れを」


 エステル。


「逆にした?」


「そう」


 サビーネが見る。


「返礼室で気づいたでしょう」


「六本が中央へ」


「本来は逆」


「中央から六方向へ」


「返すための道」


「それを集めるために」


「逆流させた」


 エステルの背中が冷える。


 返礼室。


 中央の器。


 六本。


 そこから一つ。


 下。


 返納庫。


 返送口。


 染め庫。


 全部が、一つの古い仕組みだった。


 善意を町へ返すための仕組み。それを誰かが、奪うために使い直した。


「十年前」


 エステル。


「王太子妃殿下の婚礼衣装の祝福も」


「流された可能性はある」


「奪い糸へ?」


「ある」


「母は」


 言葉。


 止まる。


「リディアは気づいてた」


 サビーネ。


「どこまで?」


「全部じゃない」


「では」


「私に、『返す道が壊れてる』って言った」


 エステルが顔を上げる。


「いつ?」


「婚礼の前」


「前?」


「何日か」


「母はすでに」


「疑ってた」


 十年前。


 婚礼衣装。


 完成。


 前。


 リディア。


 仕組み。


 異常。


 気づく。


「なぜ今まで」


 エステル。


「言わなかったのです」


 声。


 少し。


 強い。


 サビーネは受け止める。


「確証がなかった」


「でも」


「私が話せば、あんたは全部リディアの答えとして追う」


 エステル。


 止まる。


「前のあんたなら」


 言い返せない。


「今は?」


「今なら、見つかったものと一緒に話せる」


「……そうですか」


「怒ってる?」


「少し」


「それでいい」


「謝らないのですか」


「悪かったと思ってる」


「では」


「ごめん」


 あまりに。


 真っ直ぐ。


 エステル。


 少し。


 困る。


「受け取ります」


「何を」


「謝罪を」


「公爵みたいなこと言うね」


「最近うつりました」


「よくない」


「そうでしょうか」


 ニナが奥から。


「かなり」


「ニナ」


「仕事してる」


「聞いていましたね」


「聞こえる」


 少しだけ。


 空気が戻る。


「返送口」


 エステル。


「開けるべきでしょうか」


「私一人なら、開けない」


「なぜ」


「沈め槽が生きてるか分からない」


「生きている」


「魔術が残ってるって意味」


「危険?」


「黒糸が残ってれば」


「可能性」


「ある」


「では」


「まず染め庫側を見る」


 順番。


「返納庫から開けるのではなく」


「出口側」


「はい」


「それが安全」


「ユリウス様へ」


「もう伝えた」


「早い」


「王宮帰りに寄ったから」


「では今日は」


「何もしない」


「分かりました」


 自分でも。


 驚くほど。


 すぐ。


 言える。


 サビーネが笑う。


「ほんとに待つようになった」


「禁止です」


「分かった」


「でも」


「何」


「一つだけ」


「はい」


「返送口の石蓋に、傷があった」


「傷?」


「細い刃で三本」


 紙。


 三本。


 斜め。


「三波?」


「違う」


「では」


「糸切り鋏の先」


 ヴィオラ。


 では。


 ない。


 古い。


 仕立て師。


「目印?」


「開けた人が付けた可能性」


「十年前?」


「傷は古い」


「母?」


「決めるな」


 先に。


 言われた。


「……はい」


「でも、リディアも同じ印を使ってた」


 エステル。


 見る。


「何のとき」


「やり直し」


「やり直し?」


「染めで失敗した布。三本、浅く入れる」


「なぜ」


「まだ使えるけど、同じ場所へ戻すなって印」


「返さない」


「そのまま返すな、かな」


 エステルの胸。


 少し。


 鳴る。


 失敗。


 でも。


 捨てない。


 同じ場所へ。


 戻さない。


 別の。


 使い方。


 王女。


 婚礼衣装。


 式後。


 外裾。


 外す。


 本体。


 礼装。


 役目。


 変える。


「同じ」


 ニナ。


 ぽつり。


「何が?」


「王女様の服」


 エステルも思った。


「そうですね」


「婚礼終わったら、そのまま王宮に返さない」


「はい」


「でも捨てない」


「はい」


「使い方変える」


「そうです」


 サビーネが、婚礼衣装の人台を見る。


「何それ」


「本番衣装です」


「王女の?」


「はい」


「白い」


「婚礼ですから」


「裏」


「灰青」


 サビーネが少し近づく。


「見ていい?」


「どうぞ」


 触れず。


 見る。


「きれい」


「ありがとうございます」


「祝福は?」


「入れません」


「選定規定で?」


「それもあります。でも、殿下が必要とおっしゃっていないので」


「ならいい」


「サビーネ様は」


「何」


「婚礼衣装に祝福が必要だと思います?」


「要らない」


 即答。


「理由は」


「結婚は、服に守らせるものじゃない」


 エステル。


 少し。


 笑う。


「殿下が聞けば喜びそうです」


「王女に会わせないで」


「なぜ」


「面倒」


「アルヴィス様の従姉です」


「もっと嫌」


「公爵様も面倒?」


「かなり」


「本人へ言わないでください」


「言う」


「サビーネ様」


「冗談」


 ニナと同じ。


「皆様、冗談が上達しすぎです」


 サビーネは杖を取って立ち上がる。


「今日は帰る」


「もう?」


「王宮で疲れた」


「休んでください」


「そうする」


「次の調査は」


「染め庫側。あんたは」


「店におります」


「よし」


「その顔」


「何」


「褒めようとしました?」


「少し」


「禁止です」


「面倒になったね」


「誰かと同じことを」


「公爵?」


「はい」


「うつった」


「やはり」


 サビーネが帰る。


 入れ替わるように。


 昼前。


 アルヴィスが来た。


「サビーネがいた?」


「さきほどまで」


「報告」


「聞きました」


「返送口」


「まだ開けません」


「そうらしい」


「公爵様は」


「行かない」


「早い」


「ユリウスから先に釘を刺された」


「よいことです」


「お前、嬉しそうだな」


「少し」


「俺が止められて?」


「無事なので」


 アルヴィス。


 少し。


 黙る。


「そうか」


「はい」


「ならいい」


 最近。


 これ。


 増えた。


 受け取る。


 短い。


 でも。


 拒まない。


「王女の服」


 アルヴィス。


 見る。


「紋章?」


「今から」


「白い」


「白糸で」


「リュシエンヌ、まだ嫌がってる?」


「前より少し好きだと」


「何があった」


「婚礼後、北西領へ持っていくことに」


「王宮に残さない?」


「申請するそうです」


「珍しい」


「公爵様もそう思います?」


「昔なら置いていった」


「なぜ」


「王家のものだから、と」


「今は」


「自分で選んだ服だから持っていく?」


「はい」


 アルヴィスが少し笑う。


「あいつらしい」


「どちらが?」


「今のほう」


「公爵様も」


「何だ」


「変わりました?」


 また。


 聞く。


「少し」


「最近、そればかり」


「一気に変わるほうが怖い」


「それは」


 確かに。


「そうですね」


 アルヴィスが椅子へ座る。


「今日は何をすれば」


「店番は」


「言ってない」


「では」


「何かできる?」


 エステルが止まる。


「何か」


「邪魔?」


「いえ」


 公爵。


 店。


 できること。


 ニナ。


 こちら。


 見る。


 クッシュ。


 箱。


 ふしゅ。


「糸を」


 エステル。


「何」


「この白糸を、一尺ずつ切っていただけますか」


 アルヴィス。


 糸。


 見る。


「俺が?」


「はい」


「婚礼衣装の?」


「紋章のしつけ用です」


「本縫いじゃない?」


「本縫い前の位置固定」


「俺が切っていい?」


「はい」


 アルヴィス。


 少し。


 慎重。


「鋏」


「こちら」


 小さい。


 糸切り鋏。


 渡す。


 直接ではなく。


 机。


 上。


 置く。


 彼。


 取る。


「一尺」


「この定規を」


 昨日。


 もらった。


 木の。


 仕立て定規。


 アルヴィス。


 贈った。


 それ。


「それ使ってるんだな」


「毎日」


「そうか」


 言葉。


 少し。


 柔らかい。


 糸。


 測る。


 切る。


 一。


 二。


 三。


「曲がってません?」


「糸に真っ直ぐある?」


「長さです」


「合ってる」


「なら大丈夫」


 ニナが。


 笑う。


「公爵、仕事できた」


「俺は仕事している」


「仕立て屋で」


「今だけ」


「給金」


「要らない」


「ほんと?」


「公爵だぞ」


「でも仕事」


 アルヴィス。


 エステル。


 見る。


「払う?」


「いえ」


「なぜ」


「お礼で」


「何の」


「昨日の気づき」


 婚礼後。


 服を。


 どうする。


 聞く。


 きっかけ。


「なら」


 アルヴィス。


 糸。


 もう一本。


 測る。


「受け取る」


 エステル。


 笑う。


「はい」


 白い糸。


 公爵が。


 切る。


 エステルが。


 針へ。


 通す。


 祝福は。


 ない。


 ただの。


 しつけ。


 でも。


 何となく。


 不思議。


「公爵様」


「何だ」


「返す先は、一つではないのですね」


「急だな」


「今日、そう思いました」


「何を返す」


「服も。祝福も。言葉も」


「礼も?」


「はい」


「なら」


 アルヴィス。


 一尺。


 糸。


 切る。


「これは?」


「何でしょう」


「お前が昨日くれた礼の返し」


「糸ですか」


「仕事」


「……では」


 エステル。


 受け取る。


「ありがとうございます」


「終わり?」


「はい」


「簡単だな」


「全部、難しくする必要はございません」


「それはお前が言う?」


「最近学びました」


 ニナが。


 奥から。


「成長」


「禁止です!」


 三人。


 少し。


 笑う。


 午後。


 店。


 静か。


 エステルは王家の花紋へ最初の白糸を入れる。


 輪郭。


 一針。


 二針。


 光。


 当たる。


 見える。


 離れる。


 消える。


「これくらい」


 ニナ。


 後ろ。


「うん」


「どうです?」


「大きいけど、うるさくない」


「よかったです」


 アルヴィス。


 少し。


 離れて。


 見る。


「王家の印」


「見えます?」


「近いと」


「遠くは」


「白い服」


「それでよいのです」


 必要なものを、必要以上に見せない。


 返すものも、元の場所へ戻すだけではない。


 役目を終えた祝福は、町へ返す。


 婚礼を終えた衣装は、王女の暮らしへ持っていく。


 謝罪は受け取って、関係を前へ進める。


 礼は仕事で返すこともできる。


 同じものを、そのまま同じ場所へ戻すことだけが、返すことではない。


 夕方。


 ユリウスから短い書状が届いた。


『サビーネ・クロルの証言を確認。


 返送口は未開封のまま封鎖継続。

 明日、旧染め庫側から沈め槽および接続路を確認する。


 返納庫台帳の抜け頁について、筆跡比較は継続中。

 新たに、旧ギルド保管記録から「臨時返納票」の書式を発見。

 抜け頁と同寸法の可能性あり。


 詳細は明日。』


「臨時返納票」


 エステル。


 読む。


「何それ」


 ニナ。


「正式閉鎖後に、例外的に何かを返納したときの票かもしれません」


「十年前?」


「まだ」


「分かってる」


 ニナ。


 先に。


 言う。


 アルヴィス。


「抜けた一枚が、それ?」


「可能性」


「何を書くだろう」


「返したもの」


「返す相手」


「処理方法」


 エステル。


 少し。


 止まる。


 もし。


 臨時返納票。


 なら。


 そこに。


 誰が。


 何を。


 返したか。


 書かれていた?


「見つければ」


 アルヴィス。


「大きいな」


「はい」


「どこにある」


「持ち出した人の先」


「まだ広い」


「でも」


 エステル。


 婚礼衣装。


 見る。


「一枚です」


「また言う?」


「一枚なら、探せます」


「根拠は」


「針よりは大きいので」


 アルヴィス。


 無言。


 ニナ。


 笑う。


「エステル、それ弱い」


「そうでしょうか」


「かなり」


 アルヴィスまで。


 笑う。


「悪くない」


 ニナの指。


 立つ。


「一回」


「数えるな」


「今日一回目」


「忘れろ」


「無理」


 いつもの。


 やり取り。


 でも。


 エステルは。


 手元の。


 白い紋章。


 見る。


 まだ、ほんの一部。


 婚礼衣装も返納庫の謎も途中だ。それでも昨日より、「返す」という言葉の意味が一つ増えた。


 元へ戻すだけではない。次に生かすこともまた、返すことなのだ。


 なら。


 十年前。


 返されなかった。


 何か。


 それも。


 まだ。


 どこかで。


 次へ。


 渡されず。


 止まっている。


 のかもしれない。


 エステルは白糸を引いた。


 花紋の輪郭が、光の中でほんの少しだけ浮かぶ。


 消えたわけではない。


 見えにくいだけ。


 その違いを、今はもう知っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。