第4章 第1話「獣人の領域」
森の空気が、変わった。
深い緑。
濃い魔力。
だが——
「……重いね」
セリアが呟く。
「うん」
リオが短く返す。
「昨日より?」
「ずっと」
「均衡が——崩れてるから?」
「それもある」
「それも?」
「他にも——理由がある」
「何?」
リオは答えない。
ただ——
前を見る。
(……気配がある)
一つじゃない。
複数。
しかも——
「囲まれてる」
「え?」
セリアが立ち止まる。
「いつから?」
「しばらく前から」
「なんで言わなかったの!」
「言う必要がなかった」
「あるでしょ!」
「敵意が——薄いから」
「薄いだけで——あるんでしょ!」
セリアが周囲を見渡す。
木々の影。
葉の揺れ。
だが——
何も見えない。
「どこに——」
「上と——横」
「全方位?」
「ほぼ」
「最悪じゃん……」
セリアが小さく呻く。
その瞬間。
「——止まれ」
低い声が響いた。
木々の上から。
地面から。
四方から——同時に。
囲まれていた。
十数体の——獣人族。
その中心に——
一人。
大きな体。
黒褐色の毛並み。
傷だらけの腕。
だが——
目は澄んでいた。
濁りのない——
真っ直ぐな目。
「……ガオル」
リオが小さく呟く。
「知ってるの?」
「名前だけ」
「どこで」
「雰囲気で」
「雰囲気って——」
セリアが呆れる暇もなく。
「お前たちか」
ガオルが低く言う。
視線は——リオに固定されている。
「何が」
リオが返す。
「均衡を——崩したのは」
断定だった。
問いではない。
「根拠は?」
「お前たちが来てから——おかしくなった」
「それだけ?」
「十分だ」
ガオルの目が鋭くなる。
「我らの仲間が——傷ついた」
「境界で——争いが増えた」
「すべて——お前たちが来てからだ」
空気が張り詰める。
後ろの獣人族が——構える。
「——待って!」
セリアが前に出る。
「私たちは——そんなつもりじゃ——」
「つもり、か」
ガオルが遮る。
「結果が——すべてだ」
「でも——」
「セリア」
リオが止める。
「え?」
「いい」
「よくない!」
「俺が——話す」
セリアが引く。
リオはガオルを見る。
真っ直ぐに。
「否定しない」
その一言で——
空気が変わった。
ガオルの眉が——わずかに動く。
「認めるのか」
「関係がないとは——言えない」
「言い訳しないのか」
「言い訳しても——意味がないから」
ガオルは少しだけ黙る。
「……潔いな」
「そう?」
「普通は——言い訳する」
「無駄だから」
「無駄?」
「起きたことは——変わらない」
リオは続ける。
「でも——」
一歩、前に出る。
囲まれた中で。
「俺たちだけが——原因じゃない」
ガオルの目が細くなる。
「どういう意味だ」
「この均衡は——最初から不自然だった」
「不自然?」
「整いすぎていた」
「それが——崩れ始めてる」
「俺たちが来なくても——同じことになってた」
沈黙。
ガオルは答えない。
だが——
完全に否定もしない。
「……証拠はあるか」
「ない」
即答だった。
「ないのか」
「今は」
「信じろというのか」
「信じなくていい」
リオはあっさり言う。
「ただ——」
視線を上げる。
「見ててくれればいい」
「これからのことを」
その言葉に——
ガオルの目が——
わずかに揺れる。
一瞬だけ。
ほんの——一瞬だけ。
だが——
「……」
すぐに戻る。
「言葉だけなら——何とでも言える」
「そうだね」
「信用できない」
「それも正しい」
否定しない。
ただ——受け止める。
そのやり取りに——
ガオルは少しだけ——違和感を覚える。
(……こいつ)
言い返さない。
反論しない。
ただ——受け止める。
今まで相手にしてきた人間とは——
違う。
「一つ——聞く」
ガオルが言う。
「なに」
「お前は——怖くないのか」
「この状況が」
リオは少し考えてから——
「怖いよ」
と答えた。
ガオルが目を細める。
「そう見えない」
「表に出さないだけ」
「なぜ出さない」
「出す理由がない」
「怖いなら——出て当然だ」
「そう思う?」
「そう思う」
リオは少しだけ——
ガオルを見る。
「ガオルは——怖いとき——出す?」
「出さない」
即答だった。
「なぜ?」
「……」
少しだけ——間。
「出したことが——ない」
「なんで?」
「怖いと——思ったことが——あまりない」
「そう」
リオは頷く。
「俺は——ある」
「でも——出さない」
「同じだ」
「……」
ガオルは黙る。
その言葉が——
どこかに——刺さる。
「……面白いな」
低く呟く。
「お前」
「そう?」
「普通じゃない」
「よく言われる」
「人間じゃないだろ」
核心に近い言葉。
だが——
リオは表情を変えない。
「さあ」
「はぐらかすな」
「はぐらかしてない」
「そう聞こえる」
「聞こえ方の問題」
ガオルが——低く唸る。
苛立ち。
だが——
不思議と——
敵意だけではない。
その横で——
セリアがずっと——
黙って見ていた。
(リオって——こういうとき)
言い訳しない。
逃げない。
ただ——受け止める。
(でも——折れない)
その在り方が——
不思議と——
落ち着かせる。
「——今日は——ここまでにする」
ガオルが突然言った。
セリアが驚く。
「え?」
「戦わないの?」
「……気が——変わった」
「なんで?」
ガオルは答えない。
ただ——
リオを見る。
「お前の言う——"見ててくれ"」
「聞いたから——見てやる」
「ただし」
一歩、近づく。
「次に——嘘だと分かったら」
「その時は——斬る」
「分かった」
リオが頷く。
あっさりと。
ガオルが——踵を返す。
十数体の——獣人族が——引いていく。
木々の奥へ。
消えていく。
最後に——
ガオルが振り返る。
一瞬だけ。
「——名前は」
「リオ」
「そっちは」
セリアを見る。
「セリア」
「……覚えた」
それだけ言って——
消えた。
静寂が戻る。
セリアが——
大きく息を吐く。
「……終わった」
「うん」
「怖かった」
「そうだね」
「リオは?」
「怖かった」
「全然——そう見えなかった」
「表に出さなかっただけ」
「……ほんとに?」
「本当のことだから」
セリアは少しだけ——リオを見る。
「……ねぇ」
「なに」
「ガオルって——」
「うん」
「最後——振り返ったよね」
「うん」
「あれって——」
リオは少しだけ——
口元を緩めた。
「悪くない——始まりだよ」
セリアは——
その言葉の意味を——
考えながら。
「……そうだといいね」
と呟いた。
風が吹く。
森が揺れる。
その先に——
何があるのか。
まだ——誰も知らない。
でも確実に——
「始まり」は——
そこにあった。




