第1話「均衡の世界」
「……静かだね」
セリアがぽつりと呟いた。
獣人族の領域に入ってから、半日。
森は広く、生命の気配は濃い。
だが——
どこか、不自然だった。
「何が」
リオが前を歩きながら聞く。
「争いがない」
セリアは周囲を見渡す。
「ここって、人間と獣人がぶつかる場所なんでしょ?」
「一応ね」
「でも全然そんな感じしない」
風が木々を揺らす。
遠くで獣の鳴き声。
それだけ。
戦いの気配は、ない。
「……抑えられてるんだろ」
リオが言う。
「抑えられてる?」
「均衡」
短い言葉。
セリアは首を傾げる。
「それって自然に?」
「どう思う?」
問い返される。
セリアは少し考えて——
「……自然じゃない気がする」
正直な感想だった。
強い種族があれば、ぶつかる。
領土を奪う。
争いになる。
それが普通。
なのに——
(何も起きてない)
「正解」
リオが軽く言う。
「え?」
「自然じゃない」
あっさりと肯定する。
セリアの足が止まる。
「じゃあ……なんで?」
リオは答えない。
代わりに、視線を遠くへ向ける。
(……似てるな)
この空気。
この静けさ。
嵐の前ではない。
もっと違う。
(……“調整された静けさ”)
過去の記憶と重なる。
何度も経験した、“均された世界”。
「ねぇ、リオ」
「なに」
「これって……いいことなの?」
難しい問いだった。
争いがない。
平和。
それだけ見れば、正しい。
でも——
「どうだろうね」
リオは曖昧に答える。
「バランスが取れてるってことは、どこかが抑えられてるってことだし」
「……あ」
セリアが小さく声を漏らす。
「誰かが損してる?」
「大体はね」
その言葉に、少しだけ空気が重くなる。
そのとき。
「——止まれ」
低い声が響いた。
前方。
木の上。
一人の影。
しなやかな体。
鋭い目。
獣人。
「ここから先は、許可がいる」
リオとセリアを見下ろす。
警戒はある。
だが、敵意は薄い。
「通してほしい」
リオが言う。
「理由は」
「通るだけ」
「それは理由にならない」
正論だった。
少しの沈黙。
その間に——
獣人の目が、わずかに細まる。
「……お前」
リオを見ている。
じっと。
測るように。
「ただの人間じゃないな」
「よく言われる」
軽く返す。
だが、その瞬間。
空気が、ほんの少しだけ揺れた。
説明できない違和感。
「……妙だな」
獣人が呟く。
「敵意が湧かない」
「それは助かる」
「普通なら、警戒する」
「してるでしょ」
「している」
即答。
だが、それでも。
完全な拒絶ではない。
「……通れ」
突然だった。
セリアが目を見開く。
「いいの?」
思わず聞く。
「問題ない」
獣人は言う。
「今は、均衡が保たれている」
その言葉。
さっきリオが言ったものと同じ。
「争いを増やす理由はない」
合理的な判断。
だが——
どこか“決められている”ような響き。
リオはそれを聞いて、小さく目を細めた。
(……やっぱりな)
自然じゃない。
でも、偶然でもない。
「ありがとう」
セリアが頭を下げる。
獣人は何も言わず、木の上に戻った。
二人は再び歩き出す。
しばらくして。
「ねぇ」
セリアが小さく言う。
「さっきの人」
「うん」
「なんか変じゃなかった?」
「どの辺が」
「うまく言えないけど……」
少し考える。
「“決められたこと言ってる”みたいな感じ」
リオは答えない。
ただ、前を見たまま——
(……始まってるな)
そう思った。
まだ見えない。
まだ触れられない。
でも確実に——
この世界は、“誰かの手の中”にある。




