日常はつまらない
朝のホームルームが始まる前の教室。
直樹は窓側の席で頬杖をついていた。外は晴れている。桜はもう散っている。ゴールデンウィーク前のぬるい季節だ。木々の緑が濃くなり始めている。風が教室の窓からたまに入ってきて、カーテンを揺らした。
何も変わっていない。
それが不思議だった。
宇宙人に呼ばれて半魚人をぶちのめして帰ってきたのに、世界は普通に回っている。黒板には今日の時間割が書いてある。隣の席では誰かがスマホをいじっている。廊下から体育の先生の野太い声が聞こえてくる。
全部普通だ。
なのに俺の内側だけが変わった。
何かが戻ってきた感じがある。あの感覚をうまく言語化できないんだが、強いて言うなら、プラグが刺さった感じだ。今まで接続されていなかった何かが、ちゃんと繋がった感じ。
「直樹、昨日なんかあった?」
隣の席に座った彩が鞄を机に置きながら言う。朝のHR前なのに制服がきっちり着こなせている。こいつは昔からこういうところがある。几帳面なんだか、それとも単に朝が得意なだけなのかわからない。
「なんで」
「なんか顔色ちがう」
地味に察するのが早い。
「ちがくねえよ」
「ちがう」
「ちがくない」
「目が生きてる」
直樹は少し黙った。
「何それ」
「いつも死んでるじゃん、目が」
失礼なやつだな。でも否定できない。自分でもわかってた。去年の後半あたりから、鏡を見ると自分の目が空洞みたいに見えることがあった。何も映してないな、と思っていた。
「ゲームに新しいの入れた」
「嘘だ」
「なんで」
「あんたそんな顔でゲームの話しないもん」
彩はじっと直樹の目を見てくる。
やめろ。見透かされそうだ。こいつの観察眼は地味に侮れない。
「知らね。ほっとけ」
直樹は窓の外に目を向けた。
空が広い。あの宇宙空間よりずっと狭いのに、広く見える。なんでだろう。あの場所では広さが当たり前すぎて意識しなくなる。でもここの空は、ちゃんと大気がある。雲がある。鳥が飛んでいる。
なんかいい。
授業が始まった。数学だ。
黒板に数式が書かれる。因数分解の応用。さっきまで意味ないと思っていた公式が目に入る。
宇宙人と戦うのに数学は必要ない。でも、この公式を解こうとした人間がいた。それが積み重なって今の文明になっている。地球という下位宇宙の、ちっぽけな星の上で、それでもこれだけのことを積み上げてきた。
「……面白くはないけど」
直樹は小さく呟いた。
隣の彩がちらっとこちらを見た。
「何か言った?」
「なんも」
でもさっきより、ほんの少しだけ、鉛筆を持つ気になっていた。ノートを開いた。先生の話を聞いてみた。
完全にわからなかった。
でもわからないことがわかった。
それだけで、昨日より少しマシだった。
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放課後。
直樹は珍しく屋上に来ていた。
鍵がかかっているはずなのに、なぜか昔から直樹は開けられる。特別な方法があるわけじゃない。ただ鍵を触ると開くのだ。一回目に気づいたのは中一のときで、そのときは驚いたけど今は気にしていない。こういう地味に説明のつかないことが、昔からたまにあった。
風が強い。
制服のシャツが膨らむ。
眼下に校庭が見える。男バスが練習している。十数人が動き回っている。俺が抜けてから少し人数が減ったとは聞いていた。顧問が頭を抱えているとも聞いた。
でも俺には関係ない、と思ってきた。
今も関係ないのは変わらない。でも、なぜか見てしまう。
一人、動きが悪い奴がいる。背番号7。記憶にない顔だから一年生か。フォームがおかしい。右肘が下がっている。あれではシュートの軌道が安定しない。
指摘したら確実に上手くなる。
でも余計なお世話だ。
俺はもうあそこにいない人間だ。
「お前が出てやれよ」
「っわ」
いつの間にか彩がいた。扉の前に立って腕を組んでいる。靴音が全然しなかった。こいつの足音の殺し方は昔からおかしいと思っている。
「なんで来た」
「あとつけた」
「犯罪じゃん」
「なんで屋上来たの」
「ただ来ただけ」
彩はつかつかと歩いてきて、柵の横に並んで立った。
風でポニーテールが揺れる。
「バスケ、見てたんでしょ」
「……たまたまだ」
「嘘つき」
校庭を見下ろす。男バスの声が風に乗って聞こえてくる。
「直樹、去年急につまらなそうになったじゃん」
「そうか」
「そうだよ。バスケ辞めたのも突然だったし、ゲームも最近あんまり楽しそうじゃないし、学校来てるのに全然いない感じがしてた」
「いたよ。ちゃんと出席してた」
「体がいたって話じゃないよ」
沈黙。
「心配してた」
「お節介だろ」
「心配させたくなければつまらなそうにしないで」
返す言葉がない。正論だった。
直樹は空を見上げた。
夕方の色になりかけている。茜色が滲み始めている。
「また面白くなりそうな気がしてる」
彩が少し目を細めた。
「バスケ?」
「違う。もっと別の何か。うまく言えないけど」
「うまく言えなくていい」
彩はしばらく黙って、それから言った。
「あたしに話せることになったら話して」
「話さない」
「話せるようになったら話して」
「……考えとく」
「考えとくって言ったね」
「記録すんな」
でもなんか、それでよかった。
二人はそのまましばらく、校庭の男バスを眺めていた。
背番号7は、結局試合中もフォームが直っていなかった。
それを見ながら、直樹はほんの少しだけ、手がムズムズする感覚を覚えた。
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その夜。
ベッドに横になりながら直樹は考えた。
なんでつまらなくなったのか、ずっとわからなかった。
でも今ならわかる気がした。
記憶が戻ったときに気づいたことがある。このトーナメントの前、毎回俺は地球でつまらなさを感じている。七回の記憶全部にそれがある。バスケが面白くなくなった記憶、友達と遊ぶのが面白くなくなった記憶、何を食べても味がしない感覚。
それが毎回、招集の前に訪れている。
偶然か。
それとも。
来なさい。
「またか」
でも今回は違った。ユーライザじゃない。もっと遠くから来る声だ。距離感がまるで違う。ユーライザの声は近い。でもこれは、宇宙の向こう側から来ているような、気が遠くなるほど遠い声だ。
誰だ。
返事はない。
でも声だけが頭に残った。
直樹はしばらくそれを考えて、答えが出ないまま目を閉じた。
眠れた。よく眠れた。久しぶりに。




