第7話 公爵家の人々②
次に二人が向かったのは、本邸だった。
玄関をくぐると、広々としたエントランスが出迎える。
大貴族の屋敷にしては華美さはないが、決して貧相ではなく、清潔に保たれた壁と鏡面のように磨かれた大理石の床が品の良さを醸し出している。
エントランスの天井は高く、左右には幅の広い通路が、正面には大階段が広がっており、室内であるにも関わらず開放感がある。
そして、ちょうど大階段の先を仰ぎ見るところに歴代の公爵たちと、その夫人と思わしき女性たちの肖像画が飾られている。
しかしどういうわけか、先代当主のものは見当たらない。
新参者の光玄に事情はわからないが、おそらくは不名誉な事件などで当主の座から退けられたのか、わざとらしい空白が目立つ。
事情を知らぬ以上、詮索しても仕方のないこと。
光玄は己の主君たるアルトゥール公の肖像画を目で追い――その隣に飾られた人物に視線が留まった。
品の良い色味の琥珀の髪と青空をそのまま閉じ込めたような瞳。慈愛に満ちた笑み。
その顔立ちに、光玄は見覚えがあった。隣に立つ、イングリットと瓜二つなのだ。
(なるほど、あのお方がいんぐりっと殿のご生母であらせられる、あまぁりえ殿か。鼻や口元など、いんぐりっと殿にそっくりでござる)
アマーリエ夫人は不貞など働いていないと断言していたテオドールの言葉を、光玄はアマーリエ夫人とその隣のアルトゥール公の肖像画を見比べて納得するしかなかった。
イングリットの切れ長の目元は父アルトゥール公から、線の細いながらも柔らかなかんばせは母アマーリエ夫人から受け継いだことが、これ以上なくはっきりしているのだ。
一人頷きながら、しばし光玄が肖像画を眺めていると、何者かが足早に近づいてきた。
膝まで届くほどに長く色素の濃い金髪。前髪は眉の辺りで綺麗に一文字で切り揃え、清潔感があった。
白磁のような線の細い顔には、長く豊かな睫毛で縁取られた切れ長の碧眼。
その少女は、髪の色と目の色が違うだけで、イングリットと顔立ちがよく似ているように見えた。
(むむ、このおなごは……何者か。いんぐりっと殿に瓜二つでござる)
その少女は、前掛けのついたドレスを身に纏い、頭の上には用途不明のひらひらしたものを乗せていたが、異人の衣服への知識に乏しい光玄の目にはどうにも奇怪に映っていた。
だが、例によってこの少女の装いが『メイド服』であると、勝手に植え付けられた穴だらけの知識がお節介とばかりに湧いてくる。
(女中のような者か。それにしても、まるで双子のようであるな)
異人の顔などあまり見分けがつかない光玄からみてもイングリットとこの少女は余りにもそっくりである。
気心の知れた仲なのか、イングリットはどこかホッとした表情でメイドのもとへ駆け寄った。
「サーリア、ここで何をしているの?」
サーリアと呼ばれた彼女は、イングリットに美しい一礼をすると、表情を変えずおもむろに口を開いた。
「もちろんご到着と聞いてお嬢様をお迎えに参りました。
大変な目に遭われたとテオドールさんから聞いています。
御髪もお召し物もボロボロではありませんか。
さぁ早くお部屋に戻りますよ」
彼女が口を開いた途端、嵐が吹きすさぶが如く、息継ぎもない早口で言葉が紡がれた。
「ちょ、ちょっと待って、実はお父様に彼の案内を頼まれているの」
サーリアはそこで初めて光玄の存在に気が付いたと言わんばかりに、眼だけを動かしてチラッと彼を見る。
「左様で。このお方は?」
「今回、お父様とわたしを助けてくださった、ミツハル様よ。今後はわたしの従者になってくださるの」
イングリットに光玄を紹介されたサーリアは、鼻白んだ様子で居住まいを正すと、わざとらしい優雅な一礼をして見せた。
「わたしはサーリアと申します。
イングリットお嬢様の専属メイドでございます。
それにしても黒ずくめなんてミツハル様は変わったご趣味をお持ちで。
ああでも似合っておりますよ素敵です」
イングリットの専属メイドだけあって他の者とは異なり、このメイドの黒への忌避感は皆無のようである。
光玄の格好をみても全く嫌悪感は示さず、涼しげな表情で流したうえで素敵などと、一応誉め言葉を口にはした。
しかし、その平坦な声色からすると、それが単なる社交辞令であることは間違いない。
それだけ言って、一瞬にして光玄への興味をなくしたサーリアは、くるっとイングリットの方を向き、変わらず早口でまくし立てる。
「お客様のご案内なら他のメイドに命じればよろしいでしょうって、他のメイドたちは? どうして誰も同伴していないのですか?」
サーリアの言葉に、イングリットは目を伏せた。
ここまで光玄を案内する間、庭師のアントンを除けば使用人らしき者は誰一人姿を見せなかったのだ。
「その――いつものことだから」
これが、忌み子イングリットの日常だった。
当主アルトゥール公の目が届く所では忠実な使用人として尽くすが、普段はこの有様である。
「それに、恐らく某のこの姿を嫌ってのことでござろう」
そう言って、光玄は自分の黒い衣服を指し示した。しかし、サーリアは納得しない。
「はぁ? なんですかそれは!
お客様のご案内を主に任せきりですって?
そうやって好き嫌いでお仕事を選んで!
貴人にお仕えする以上使用人は手足も同然でしょう!
自覚が! 自覚が足りません!!」
サーリアのあまりの早口に、光玄は息継ぎもなしによく喋るものだと感心したほどであった。
イングリットは慣れた様子で、ぷんすか怒っているサーリアを宥める。
「まぁまぁ、いいから。
そんなことより、今はミツハル様のご案内をしなきゃ。
とても遠いところから来られたみたいで、こちらには不慣れなの」
未だ怒りの冷めない様子のサーリアだったが、チラリと光玄を見ると、さすがに客人の前でこれ以上家中の者の咎を喧伝するのはよろしくないと思ったのか、即座に切り替え落ち着きを取り戻した。
「――お客様のご案内でしたらこのわたしサーリアが承りましょう。
お嬢様はお休みになられては? お疲れでしょう」
「ううん、わたしは――何もできなかったから。もう少し、彼の案内をしたいの」
イングリットのその返事に、サーリアは困ったような笑みを浮かべた。
(こういう頑固で責任感の強いところがアルトゥール様とそっくりなんですよね)
頑なな様子のイングリットに、サーリアは肩をすくめると、再び口を開き流水のごとく言葉を紡ぐ。
「――まったく仕方がありませんねお嬢様は。わたしもご一緒します。
年頃のご令嬢をどこの馬の骨かも分からない殿方と二人っきりさせるのは大変よろしくありませんから」
「もう、サーリアったら。さっきからミツハル様に失礼よ。
お父様とわたしの命の御恩人なんだから」
馬の骨――当人である光玄の目の前で実に失礼な物言いだったが、光玄は歯に衣着せぬ言い方をするこの少女のことを、大変好ましく思っていた。
生まれてきてからずっと疎まれてきたはずのイングリットにも、ちゃんと軽口を叩きあえる、身近な友人がいるとわかったからだ。
「さぁさっさとご案内を進めちゃいましょう。
まず屋敷内に見るべきところと言えば図書室でしょうか。
今すぐ向かいますよ!」
その早口と同じくらい足早でずかずかと進むサーリアの先導で、イングリットと光玄は図書室へ向かった。
◆◇◆
グランスタイン家の図書室――
その本棚には所狭しと本が納められており、中々壮観であった。その蔵書を指し示し、変わらず早口で図書室の案内を始めるサーリア。
「こちらがグランスタイン家の図書室です。
各地の伝承などが多く納められていますから遠いところから来られたミツハル様にはお役に立つかもしれませんね。
お子様向けの本もあったはずですから遠慮なくどうぞ」
「おお、心遣い、まことに忝し」
「むむっ」
子供向け云々は嫌味のつもりだったが、光玄はそれすら善意として受け取り、この男が強敵であると察したサーリアは小さく唸った。
「――どなたか、いらっしゃいましたか?」
ふいに、凛と澄んだ女性の声が響いた。一瞬、時が止まったような感覚すら覚える、あまりにも清涼な声。
声を辿ってみると、図書室の片隅――机に高く積み上げられた書類の山の隙間から、車椅子に座った小柄な女性の姿が見える。
「――ッ、メヒティルト様」
その女性の姿を目にしたイングリットは途端にばつの悪そうな顔で、絞り出すようにその名を口にした。
メヒティルトと呼ばれたその女性は、車椅子を押し皆の前に進み出た。
ほぼ白に近いほど色素の薄い金の髪。柔らかい色合いの薄緑の瞳。痩せた顔立ちながら優しげな目元と小ぶりな鼻が愛らしい。
ゆったりとした白いドレスで身を包み、肩には彼女の瞳の色と同じ、目に優しい薄緑色のストールを羽織っている。
色白なイングリット以上に蒼白な肌、そして痩せ細った身体に、妊娠しているのだろうか、お腹は不釣り合いに大きく膨らんでいた。
(うぅむ、まるで枯れ際に大輪の花を咲かさんとする蕾の如し)
光玄の目に映るメヒティルトには、儚く、すぐにでも萎れてしまいそうな危うさと共に、清浄なる聖域のような、侵しがたき美しさがあった。
長いスカートの裾から覗く脚は傷跡だらけで、車いすに座っているのは脚が不自由だからだろう。
彼女の歳の頃はその眼付きの柔らかさ故に、ともすればイングリットよりも幼く見える。
(――やはり、某から見れば異人は子供と老人を除けば皆同年代にしか見えぬ。
なんにせよ、この佇まい、気品からして間違いなくこの御方はいんぐりっと殿のご家族だろう)
光玄はメヒティルトに深々と頭を下げ、礼を示す。
「お初にお目にかかりまする。某は光玄と申す者。
この度、いんぐりっと殿に仕えることとなった者にございまする」
「ご丁寧にありがとうございます。わたくしは、メヒティルトと申しますわ」
そして、メヒティルトはちらりとイングリットを見てやや気まずそうに続ける。
「――その、アルトゥール様の妻でございますわ」
「なんと、奥方殿でございまするか。これは失礼を。
玄関の姿絵にて御姿をお見かけできなかった故、気づくのが遅れ申した」
「ふふ、わたくしは後妻ですから。肖像画はご遠慮させていただいたのです。
――テオドールさんから報告を聞き及んでおります。今回は、夫とイングリットさん、そして護衛の皆様をお救い頂き、感謝の言葉もございません」
後妻メヒティルト夫人は柔らかい笑みを浮かべて自己紹介をし、感謝の言葉を述べた。
その一方で、イングリットはしきりに自分の髪をいじり、メヒティルト夫人と目を合わせようとしない。
明らかに落ち着きがなく、所在なさげであった。その様子に気づいた光玄が彼女に声をかける。
「いんぐりっと殿、如何なされた」
「えっ。い、いえ……」
「お顔色が優れませぬが、休まれれば如何か」
イングリットはちらりとメヒティルト夫人を見て、スカートの裾をぎゅっと握っては絞り出すように話した。
「――はい、お先に失礼します。サーリア、ミツハル様の案内をお願いできる?」
「……仕方がないですね。お任せを」
サーリアは目を伏せるイングリットをしばし見つめ、やがてどこか残念そうな声で拝命し一礼をしてみせた。
イングリットは、そのまま背を向けると重い足取りで図書室から出ていった。
「――あぁ」
その小さい背中に、ため息のような声を漏らし、手を伸ばすメヒティルト夫人だったが、あっという間にイングリットはその姿を消してしまった。
宙を彷徨う指先のその先を切なげに見つめていたメヒティルト夫人は、やがてその手を胸に抱き悲しそうな顔で俯いた。
(――やはり、いんぐりっと殿に似ておられるな)
確かに今になってよく見るとイングリットとメヒティルト夫人は顔立ちがまるで違う。
父親譲りの釣り目気味なイングリットに対して、メヒティルトは目じりが垂れ下がった優しげな目をしている。
にもかかわらず、血のつながりのないはずの二人はどこかよく似ているのだ。
ため息交じりに、メヒティルト夫人はつぶやく。
「また、イングリットさんと上手くお話できませんでした」
「――まったく、奥様が嫁いで来られてもう三年だというのにこれではいつまでたってもちゃんとお話できませんよ?
お嬢様もお嬢様ですけれど大人である奥様がしっかりしなければずっとこのままですよ?」
落ち込むメヒティルト夫人にサーリアはくどくどと早口で説教を始める。
このメイド少女、使用人でありながら一部例外を除けば、誰にも遠慮はしない。場合によってはアルトゥール公に対してもこんな調子である。
「ですが、わたくしは後妻。きっとイングリットさんには嫌われています」
「ですから違いますと何度も申しております。
継母であるだけで嫌うなんてお嬢様はそんな捻くれたお方ではございません。
きちんとお話もしていないうちにそうお決めつけになってもう三年ですよ?」
「――もちろん、イングリットさんが優しい子だということはわかっています。ですが、どうしても壁を感じてしまうのです」
今にも、その目から涙を零しそうなメヒティルト夫人。さすがのサーリアも狼狽える。
「ほ、ほら。この間若様がまだまだ寒いからとストールを贈ってくださったじゃないですか。あれ実は――あっこれ内緒だっけ」
今、メヒティルト夫人が羽織っている薄緑色のストール。体を冷やしてはいけないと嫡男ディートハルトから贈られたものだ。
騎士道に忠実で、貴婦人を敬い、弱き者を放ってはおけないディートハルトは、ことあるごとに足の不自由な継母メヒティルト夫人を気にかけ、いつも世話を焼いている。
特に彼女が懐妊してからはいささか過剰なくらいにその身を案じ、公務で屋敷を空けがちなアルトゥール公に代わってメヒティルト夫人の面倒を見ている。
血は繋がっていなくても、二人は実の母子のような良好な関係を築いていた。
だからなおさら、引っ込み思案なイングリットは遠慮してしまうのか。
自分が間に入って微妙な空気になったら。自分のせいで二人の関係がギクシャクしたら、と。
――実は、件のストールはイングリットのお手製だった。どうしても自分から渡す勇気がなく、兄ディートハルトを通して渡したのである。
当然、念入りに口止めをして。
事情を知るサーリアはうっかりストールの出どころを喋りそうになり――
イングリットにきつく口止めをされていることを思い出し、慌てて口を噤んだのだ。
(ああもう、じれったいですね! 勝手に話してしまって後々こじれたら大変ですし)
急に押し黙ったサーリアに、訝し気な表情でメヒティルト夫人が尋ねる。
「ディー君がくれたこのストールがどうかしたの? 内緒って?」
「あっいえ何でも。と、とにかくお嬢様だって若様と同じぐらい奥様のことを想っていらっしゃるということです!」
二人のやり取りを眺めていた光玄は見かねて言葉を投げかける。
「あまり焦らずともよろしいかと存じまする。時はいくらでもあります故」
しかし、その言葉にメヒティルト夫人に加えサーリアまでもが暗い顔になった。
「――ありがとうございます、ミツハル様。しかし、わたくしにはあまり時間が残されておりません。
この子が生まれる四ヶ月後、恐らくわたくしは命を落とすことになりましょう」
「――?」
光玄は首を傾げた。
確かにメヒティルト夫人は健康体には見えないが、その姿に死の気配は窺えない。
納得がいってない様子の光玄に、メヒティルト夫人は続けた。
「わたくしはご覧の通り、下半身が使えないのです。お医者様には子供は望めないと言われていました」
「しかし、現に――」
――メヒティルト夫人は懐妊している。
彼女は自分のお腹を優しくさすりながら答える。
「はい、奇跡、と言っていいでしょう。ですが、わたくしのこの身体では、自力で子を産むことは難しく、お腹を切り開かねばならないそうです」
腹を切り開く。光玄の常識ではそれは死を意味する。
(――お命と引き換えに御子をお産みになられるというわけか)
途端にサーリアは怒りをあらわにし、口を開いた。
「白教の奇跡の御業があればお腹を切り開いても安全に出産ができます。
でもあの連中はお嬢様を忌み子だなんだといって、グランスタイン家からの協力要請に一切応じようとしないんです!」
(なるほど。それでいんぐりっと殿は、奥方殿に対し負い目を感じておられると)
思案する光玄をよそに、何か白教へのよくない思い出でもあるのか、口から感情の奔流を吐き出してもなお、サーリアの肩が怒りに震えている。
メヒティルト夫人は彼女をまぁまぁと優しく宥め、続けて話した。
「夫はわたくしの身体を案じ、子を持つことに大反対でしたが――
わたくしはどうしても、『生きた証』が欲しかったのです」
『生きた証』。
その言葉を聞いた光玄の胸の片隅がじくじくと痛む。
己が求めてやまなかった、最期まで成し得なかったそれを、形は違えど目の前のこの弱々しく歩けもせぬ女は命を懸けて成し遂げようとしているのだ。
光玄はメヒティルト夫人が『枯れ際に大輪の花を咲かせようとする蕾』のように見えた理由に合点がいった。
「――天晴れにございまする。奥方殿。この光玄、心から敬服いたし申した」
「ふふ、そんな風に言ってくださったのはミツハル様だけです。皆、正気の沙汰ではないと言っておりましたのに」
「断じて、そのようなことはありませぬ。そのお覚悟、武士にも勝るとも劣りませぬ」
「モノノフ――よくは分かりませんが、なんだか格好いい響きの言葉ですね。
――ありがとうございます」
メヒティルト夫人はようやく晴れやかな表情を見せる。サーリアは意外なものを見たと言わんばかりに目を見開き、光玄を見つめた。
(ただの頓珍漢かと思えば、意外といいこと言いますね)
サーリアは心の中で光玄の評価を少し直すと、すぐさまメヒティルト夫人への説教を続けた。
「ですから奥様はお早いところお嬢様ときちんとお話しくださいね。
お生まれになる御子にはご家族が必要なのですから」
「そう、ですね。分かってはいるのですが、顔を合わせたらいつも言葉を選んでいるうちに――」
「ならば、文にて伝えられればよろしかろう」
ぽつりと、光玄がそう言った。すかさずサーリアがつっこむ。
「あのですね。そんなありきたりで陳腐な――」
そして途中で固まり、ジト目で光玄を見つめた。
――そう、ぎくしゃくしているとはいえ、皆同じ家で暮らす仲なのだ。ほぼ毎日、頻繁に顔を合わせている。
故に、手紙を送るなどという発想は出てこなかったのである。
「――いえ陳腐過ぎてそんな発想はありませんでした。
でもお嬢様の性格からしてお手紙を書いたところでちゃんとお読みになるかわかりませんが」
「いえ、どのみち、まともに口も利けていないのです。
読んでもらえなくても、まずはきちんとお手紙に書いて伝えてみようと思います。お手紙なら、いくらでも言葉を選べますもの」
そう言ってメヒティルト夫人はほほ笑み、光玄に頭を下げて礼を示すと、車椅子を押して書類が山積みになっている机へ向かおうとした。
すぐにでもイングリットへの手紙を書こうとしているのだろう。
しかし、サーリアは車椅子をがっしり掴んでそれを阻止し、机の上の書類の山をビシッと指さした。
「ダメですよ奥様お手紙は後です。
それにこの書類の山――今までずっと領のお仕事をされていたのでしょう?
あまりアルトゥール様を甘やかさないでくださいね」
「でも、わたくしは――」
「でもじゃありません。奥様だけのお身体じゃないんですからご自愛なさってください」
そういって、サーリアは強引にメヒティルト夫人の車椅子を押して図書室の外へ向かう。
「ああっ」
名残惜しそうに、書類の山へ手を伸ばすメヒティルト夫人だったが、やがて観念し困ったような笑みを浮かべるのだった。
「あ、そうそう、ミツハル様のご案内はって――」
イングリットに光玄への案内を任されたことを思い出したサーリアは、彼の方を振り向いて絶句した。
『つよくてやさしいけんこくおうものがたり』
『ゆけ!ウサギきしラッセルきょう』
『しろきしものがたり』
見事に子供向けの絵本ばかりを脇に抱えた光玄の姿を目にしたからである。
(ひ、皮肉のつもりだったのに、本当に子供向けの本ばかり選びますかぁ――?)
サーリアのその視線に気が付いたのか、光玄は恐る恐る尋ねる。
「むむ、もしや、持ち出してはなりませぬか?」
「――いえ。あとでちゃんと戻して頂けるなら何冊でもどんな本でも構いませんが」
「おお、忝い!」
サーリアとしてはこれほどやりにくい相手は稀である。
彼女は忌み子イングリットの専属メイドであることで、他の使用人からはのけ者にされており、日ごろ彼ら彼女らとの諍いが絶えない。
彼女が早口になった理由もそこにあった。口数の少ない引っ込み思案な主に代わり言葉を以って、他の使用人たちを制してきたのだ。
しかし、この男光玄はまるで違う。まるで綿の塊でも叩くような手ごたえだ。
(調子狂うんですよね)
サーリアの生来の気難しい顔の、その眉間に深くしわが刻まれる。しかし、その口元はわずかに吊り上がっていた。




